ギャンブルで勝ち続ける科学者たち: 完全無欠の賭け

  • ケンブリッジ大学の数あるカレッジのうち、ゴンヴィル・アンド・キーズは、四番目に古く、三番目に裕福で、二番目に多くのノーベル賞受賞者を輩出している。また、 毎晩三コースのフォーマルディナーが出されるわずかなカレッジの一つでもあり、それはつまり、学生のほとんどにとって、このカレッジのネオゴシック様式の大食堂と、その独特のステンドグラスの窓がすっかりお馴染みであることを意味する。
  • 窓の一つにはぐるぐるとねじれたDNAの二重らせんが描かれ、かつてこのカレッジのフェロー〔特別研究員」だったフランシス・クリックを称えている。別の窓には三つの円が重なり合うベン図が描かれている。これは論理学者ジョン・ベンへの敬意の印だ。さらに別の窓にはチェッカーボードも収まり、マス目が見たところランダムに色分けされている。現代統計学創始者の一人であるロナルド・フィッシャーを記念するものだ。

 

  • 五二枚のカードから成るデッキについて、それとわかるようなパターンをいっさ残さないためには、ディーラーは少なくとも六回はカードをシャッフルするべきことが、数学者によって証明されている。ところがベンターは、それほど入念なカジノはほとんどないことに気づいた。デッキを二、三度シャッフルするディーラーもいれば、一度で十分だと考えているらしいディーラーもいた。
  • 一九八〇年代初期には、プレイヤーたちは隠し持ったコンピューターを使って、すでに出てきたカードを記録し始めた。スイッチを押して情報を入力すれば、コンピューターは状況が有利になると、振動で知らせてくれた。切り混ぜられたカードの記録をつけられるのならば、カジノが複数のデッキを使うかどうかは問題ではなかった。
  • これはまた、プレイヤーがカジノのセキュリティ要員にはっきり見咎められずに済むためにも役立った。次の勝負で良いカードが出る可能性が高いとコンピューターが教えてくれるなら、プレイヤーは賭け金を大きく積み増さなくても、利益をあげられるからだ。ギャンブラーにはあいにくなことに、この利点はもはや存在しない。コンピューターの力を借りた賭けは、一九八六年以降、アメリカのカジノでは違法とされているためだ。

 

  • カール・ピアソンはモンテカルロのルーレットホイール〔回転盤)に関する研究を
    行なった二年後、フランシス・ゴールトンという名の紳士と出会った。チャールズ・ダーウィンのいとこであるゴールトンは、科学や冒険、そしてもみあげに対する一族の情熱をダーウィンと共有していた。だがピアソンはほどなく、二人にはいくつか違いがあることに気づいた。
  • ダーウィンは進化論を練り上げるにあたって、この新分野を整然とまとめることに時間を費やし、骨組みや方向性を幅広く示したので、彼の足跡は今なおはっきりと見て取れる。このようにダーウィンが建築家だとすれば、ゴールトンは探検家だった。ポアンカレとよく似て、ゴールトンも新奇なアイデアを世に公表するだけで満足し、すぐに次のアイデアの探求に向かうのだった。「彼はけっして、誰が後に続いてくるのかを見届けようとはしなかった」とピアソンは語った。「彼は生物学者や人類学者、心理学者、気象学者、経済学者らに新天地を指し示したが、彼らが後に続こうが続くまいが、お構いなしだった」

 

  • シンジケートが、賭けの予測を検証するために、モデルを調整する際に使用したデータと照らし合わせたならば、これと同じ問題が生じる。実際、一見したところ完璧と思われるモデルを構築するのは容易だろう。それぞれのレース結果に対して、シンジケートは一着になる馬を示唆する要因をモデルに投入できる。次に、そうして加えた複数の要因を微調整すれば、各レースで実際に勝った馬に完璧に一致させることが可能だろう。こうして得たモデルは、非の打ち所がないように思われるが、じつのところ、実際の結果を予測に見せかけたにすぎないのだ。
  • ある戦略が今後どれだけ役立つのかを知りたければ、その戦略が新たな事象をどれだけ的確に予測できるのかを見極める必要がある。そのため、過去のレースに関する情報を収集する際、シンジケートは相当量のレース結果をモデル作成には使わずに取り置く。次に、残りのデータを使って、モデルに組み込む要因を評価する。それが終了したら、取り置いてあったレース結果の情報群と比較して、その予測を検証するのだ。こうした手順を踏めば、シンジケートは自分たちのモデルが実戦でどれほどの成果をあげられるのか確認できる。
  • 新たなデータと比較して戦略を検証すれば、そのモデルが「オッカムの剃刀」として知られる科学的原理を満たしていることを確認する上でも役立つ。「オッカムの刺刀」とは、観察されたある事象に対する説明が複数あり、そのなかの一つを選ばなければならないときは、最も単純なものを選ぶのが最も良いとする法則だ。言い換えれば、現実に存在するあるプロセスのモデルを構築しようとするなら、正当性を認められない要素は削ぎ落とすべきであるということだ。
  • 新たなデータと予測を比較することには、ベッティングシンジケートが一つのモデルに多くの要因を詰め込み過ぎるのに歯止めをかける効果はあるが、それでもやはり、 そのモデルが実際にどれだけ役立つのかを評価する必要は残る。

 

  • ウラムは多くの数学者が好んでしていたように、何時間もかけてこつこつと問題を解くのは好きではなかった。ある同僚は、ウラムが黒板で二次方程式を解いていたときのことを思い出して言った。「彼は眉間に皺を寄せながら、小さな文字で一心不乱に式を走り書きしていました。そしてとうとう解が求まると、振り向いてほっとしたように言ったのです。『これで一日分の仕事をやり終えたような気分だ』と」
  • ウラムは新しいアイデアを生み出すことに専念するほうが好きだった。技術的な詳細を詰めるのは、他の人々に任せておけばいいというわけだ。彼が独創的な発想で取り組んだのは、数学の謎ばかりではなかった。一九四三年の冬、ウィスコンシン大学で牧練を執っていたとき、ふと気づくと、同僚数人が職場に姿を見せなくなっていた。
  • その後はどなく、ウラムはニューメキシコ州でのプロジェクトへの参加を誘う手紙を受け取った。その手紙では、プロジェクトの内容については触れられていなかった。

 

  • 二〇世紀初期にカードシャッフルに興味を抱いた学者は、ポアンカレとボレル以外にもいた。ロシアの数学者アンドレイ・マルコフもその一人で、彼は途方もない才能と途方もない短気で知られていた。若いときには「荒れ狂うアンドレイ」というあだ名までつけられる始末だった。
  • 一九〇七年、マルコフは記憶も取り込まれたランダムな事象についての論文を公表した。そうした事象の一例がカードシャッフルだった。数十年後にソープも気づくのだが、一度シャッフルした後のカードの順序は、直前の順序に依存している。さらに、その記憶は長続きしない。次のシャッフルの結果を予測するために必要なのは、現在の順序だけだ。数回前のシャッフル時のカードの配列に関する情報を加えたところで、まったく意味がない。マルコフの研究にちなんで、この一段階限りの記憶は「マルコフ性」として知られることになった。このランダムな事象が数回繰り返される場合、それは「マルコフ連鎖」と呼ばれる。マルコフ連鎖は、カードシャッフルや、すごろくなどの偶然性が支配するゲームで広く見られる。また、隠された情報を探るときにも役立つ。

 

  • ディクソンとコールズは、サッカーの試合をポアソン過程としてモデル化することを選択した(したがって、一試合を通して、ゴールは一定のペースで決まるという前提に立った)が、どのようなペースでゴールが決まるのかを突き止める必要が残されていた。一試合の得点数はおそらく、プレイしている選手次第で異なるだろう。では、各チームの得点をどう見積もればいいのだろうか?
  • ディクソンとコールズは一九九七年の論文の最初のほうで、サッカーリーグのモデルを構築しようと思えば誰もが従うべき手順を踏んでいる。まずは各チームの能力をどうにかして査定する必要がある。そのためには、何らかのランキング制度を利用するのも一つの手だ。各試合結果に応じて一定のポイントをチームに与え、所定の期間に獲得したポイント数を総計するのもいいだろう。たとえば、どこのサッカーリーグでもたいてい、チームは勝つと三点、引き分けると一点を与えられ、負けると一点ももらえない。一種類の数字で各チームの能力を示せば、どのチームが好成績を収めているかはわかるかもしれないが、その順位をもとに正確な予測ができるとはかぎらない。クリストフ・ライトナーとウィーン大学経済・経営学部の同僚による二〇〇九年の研究は、この問題を浮き彫りにした。彼らは二〇〇八年のサッカー欧州選手権について、世界のサッカーを統括する団体である国際サッカー連盟 [FIFA]の公表するランキングをもとに予想したが、ブックメーカーの予測のほうがはるかに正確であることが判明したのだ。サッカーの賭けで儲けるには、各チームの能力を測る値が一つでは足りないらしい。
  • ディクソンとコールズは、チームの能力を二つの要因、すなわち攻撃力とディフェンス力に分けることを提案した。チームの攻撃力は得点をあげる能力を反映し、ディフェンスの弱さは相手の得点を防ぐ能力が低いことを示す。特定の攻撃力を備えたホームチームと特定のディフェンスの弱さを持つアウェーチームが対戦した場合にホームチームがあげる予想得点数は、三つの要因を掛け合わせて求められるとディクソンとコールズは考えた。
  • ホームチームの攻撃力 ×アウェーチームのディフェンスの弱さ× ホームアドヴァンテージとなる要因
  • この「ホームアドヴァンテージとなる要因」とは、本拠地で戦うチームが多くの場合に得られる後押しを指す。同じように、アウェーチームの予想得点数は、チームの攻撃力にホームチームのディフェンスの弱さを掛けたものに等しいとされた(アウェーチームは特別なアドヴァンテージは何も得られない)。

 

  • もっとも、どんなモデルもそうであるように、この研究にもいくつか弱点がある。「あれは完璧に磨き上げられた作品というわけではありません」とコールズも認めてい る。問題の一つは、チームの攻撃力やディフェンス力を示す値が一試合を通して変わらない点にある。実際には、試合中に選手が疲れたり、より攻撃的になったりする時間帯がある。さらに、現実の試合結果は、ポアソン過程で予測されるよりも引き分けが多いという問題もある。これは、リードしているチームが試合展開に満足しているのに対し、負けているチームの選手のほうが、なんとか同点に追いつこうと懸命にプレイするからだと説明できるかもしれない。だが、アンドレーアス・ホイヤーとオリヴァー・ルブナーというミュンスター大学の二人の研究者によると、その背後には別の事情もあるという。引き分けの試合が多いのは、同点のまま試合が終盤に入ると、どちらのチームもリスクを冒したがらなくなる(したがって、得点の可能性が低下する)傾向があるせいだと二人は考えた。そして、ドイツの一部リーグであるブンデスリーガの一九六八年から二〇一一年までの試合を調べた結果、同点のときには得点の入る比率が下がることがわかった。これは、「安楽な引き分け」をよしとしがちな選手心理から、スコアが○対○のときにはとりわけ顕著だった。
  • 試合中のいくつかの時点で、とくに引き分けになりやすい状況が生じることも判明した。ホイヤーとルブナーの分析によると、試合開始から八〇分間は、ブンデスリーガの得点数はポアソン過程に沿う傾向にあり、各チームともほぼ一定のペースでゴールネットを揺らしていた。ポアソン過程を逸脱するのは試合が終盤に入ってからで、その傾向がとくに強いのは、残り時間わずかでアウェーチームが一、二点リードしているときだった。

  • ケントの科学的な手法のおかげで、コンピューターグループの予測はラスヴェガスブックメーカーの予想よりも常に優れていた。この成功は一方で、招かざる関心も引いた。一九八〇年代を通して、FBIはグループが違法な活動をしているのではないかとの疑いを抱き続け、度重なる捜査が行なわれた。この背景には、グループが巨額の利益をあげていることに対する当惑もあった。ところが、何年にもわたって綿密な調査がなされ にもかかわらず、何一つ成果があがらなかった。FBIは強制捜査を行なったり、グループのメンバー数名を起訴したりしたが、最終的には全員が無罪放免となった。
  • コンピューターグループは一九八〇年から八五年までに、一億三五○○万ドル以上
    を賭け、一四〇〇万ドル近くを稼いだと見られる。損失を出した年は一年もなかった。グループは結局、八七年に解散したが、ケントはその後も二〇年にわたってスポーツベッティングを続けた。ケントによると、分業体制にはほとんど変わりがなかったという。彼が予想を立て、ウォルターズが賭けを実行した。ケントは自分の予測が奏功した大きな理由として、コンピューターモデルに細心の注意を払っていた点を挙げる。「モデルの構築こそが重要なんです」と彼は言った。「まずはモデルを構築する方法を理解する必要があります。そして、そのモデルを常に更新し続けなくてはならないのです」

 

「やめたくてもやめられない」ナッシュ均衡とは何か

  • 一九六九年、アメリカの連邦議会がタバコのテレビ広告を禁止する法案を提出したとき、人々は国内のタバコ会社が激怒するだろうと予想した。なにしろこれは、前年に自らの製品の販売促進のために三億ドル以上を注ぎ込んだ業界だ。これほどの金額が絡んでいるのだから、そのような断固たる法案を成立させようとすれば、タバコ業界が強烈な圧力をかけてくることは確実に思えた。企業は弁護士を雇い、議員たちに異議を申し立て、禁煙運動の活動家と戦うだろう。投票は一九七〇年一二月に予定されていたので、タバコ業界には手を打つ時間が一年半あった。では、彼らはどうすることにしただろう? なんと、おおむね手をこまぬいていたのだ。
  • じつはテレビ広告の禁止措置は、タバコ会社の利益を損ねるどころか、彼らに有利に働いた。各社は長年、馬鹿げた駆け引きから抜け出せずにいた。テレビ広告は、人々が喫煙するかどうかにはほとんど影響がなかったから、理論上はお金の無駄遣いだった。全社が申し合わせて一斉に広告をやめれば、利益が増すことはほぼ間違いなかった。ところが、人々がどのブランドを吸うかには、広告は確かに影響を及ぼす。だから、各社が広告をやめた後、一社が再開すれば、その企業は他のすべての企業の顧客を奪い取れる。
  • 競争相手が何をしようと、企業にとっては、広告をするのが最善だった。そうすることで、製品を広告しない企業から市場占有率を奪ったり、広告する企業に顧客を持っていかれるのを避けたりできた。全企業が協力すれば資金を節約できるにもかかわらず、個々の企業は常に広告から恩恵が得られた。つまり、全企業がどうしても同じ立場に立たされ、広告を出して互いに足を引っ張り合う羽目になったわけだ。経済学者はそのような状況(誰もが、他のプレイヤーが戦略を変えないと仮定し、可能なかぎりで 最善の決定を下している状況)を「ナッシュ均衡」と呼ぶ。出費がかさむこのゲームが中断するまで、あるいは誰かが無理やりそれを止めるまで、費用はどんどん増え続ける。
  • 一九七一年、連邦議会はついにテレビでのタバコ広告を禁止した。一年後には、タバコの広告に費やされる金額の合計は二五パーセント以上減っていた。それにもかかわらず、タバコ会社の収益は安定していた。政府のおかげで、ナッシュ均衡を打破することができたのだ。

 

  • ノイマンミニマックス問題に挑むのに使った手法は、およそ単純とは言いがたかった。それは長く手が込んでおり、数学的離れ業と評されてきた。だが、誰もが感心したわけではない。フランスの数学者モーリス・フレシェは、ノイマンミニマックス研究の背後にある数学的手法は、すでにでき上がっていたと主張した(ただし、イマンはどうやらそれを知らなかったようだが)。ノイマンはこの手法をゲーム理論に応用することで、「開かれていたドアから中に入っただけ」だとフレシェは言った。
  • フレシェが言っていた手法は、彼の同僚であるエミール・ボレルの創案で、ボレルはそれをノイマンより数年前に考え出したのだった。一九五〇年代初期にボレルの論文がようやく英語で刊行されたとき、フレシェは序言を書き、ゲーム理論の発明をボレルの功績とした。ノイマンは激怒し、二人は経済誌『エコノメトリカ』で辛辣な言葉を交わした。
  • この論争から、数学を実社会の課題に応用することにまつわる二つの重要な問題点が浮かび上がった。第一に、ある理論の創始者を特定するのは困難になりうること。功績は、レンガ (数学的構成要素)を巧みに造り出した研究者のものとするべきか、それとも、そうしたレンガを積み上げて役に立つ建物を構築した人に帰するべきなのか? 明らかにフレシェは、レンガ製造者のボレルが栄誉を受けて当然と考えていたが、歴史を振り返ると、数学を使ってゲームに関する理論を構築したノイマンの手柄ということになっている。
  • 第二に、この論争は、重要な結果は元々のフォーマットでは真価が理解されるとはかぎらないことも明らかにしてくれた。フレシェはボレルの業績を擁護したとはいえ、ミニマックス研究はそれほど特別のものだとは思っていなかった。数学者たちは、違う形でではあったものの、その考え方についてすでに知っていたからだ。だがその価値がようやく明らかになったのは、ノイマンミニマックスの概念をゲームに応用したときだった。ファーガソンゲーム理論をポーカーに応用したときに発見したように、学者には平凡に思える考え方も、別の文脈で使うときわめて有用になりうるのだ。
  • ノイマンとフレシェが議論の火花を散らしていたころ、ジョン・ナッシュプリンストン大学で博士号取得を目指してせっせと研究していた。彼はナッシュ均衡という概念を確立することによってノイマンの研究を拡張してのけ、より多くの状況に応用できるようにした。ノイマンが二人のプレイヤーによるゼロサムゲームに着目したのに対して、ナッシュは複数のプレイヤーがいて報酬が一様でなくても最適戦略が存在することを示した。だが、完璧な攻略法が存在するのを知ることは、ポーカープレイヤーにとってほんの手始めにすぎない。次の問題は、そのような戦略を見つける方法を解明することだ。

 

  • スタニスワフ・ウラム、ニコラス・メトロポリスジョン・フォン・ノイマンらは、第二次世界大戦中にロスアラモスで働いていたころ、深夜までポーカーに興じることがよくあった。むきになって争っていたわけではなく、わずかなお金を賭けて、気軽なおしゃべりをしながらの勝負だった。ウラムはそれを、「ロスアラモスの存在理由であるきわめて真剣かつ重大な任務の合間の気分転換に、たわいもない遊びに浸る場」と評した。あるゲームの最中、メトロポリスノイマンから一○ドルを勝ち取った。ゲーム理論に関する本をまる一冊書いた相手を負かしたことにメトロポリスは大喜びだった。勝ったお金の半分でノイマンの著書『ゲーム理論と経済行動』を買い、残りの五ドルを勝利の記念としてその表紙の裏側に貼りつけた。

 

  • ゲーム理論によると、もしじゃんけんの最適戦略に従って、三つの選択肢のなかから一つをランダムに選んでいれば、引き分けに終わるはずだ。ところが、ことじゃんけんに関しては、人間は最適の行動を採るのはあまり得意ではないらしい。二〇一四年、中国の浙江大学ジージャン・ワンルは、人はじゃんけんをするとき、ある行動パターンに従う傾向にあることを発表した。ワンらは三六〇人の学生を集めてグループに分け、それぞれのグループ内で一対一で一人三〇〇回のじゃんけんをさせた。勝負の間、ワンらは多くの学生が採用する戦略があることに気づき、それを「ウィン =ステイ・ルーズ = シフト〔勝った人は変えない、負けた人は変える]」戦略と名づけた。一回勝った人はしばしば、次の勝負でも同じものを出したが、負けた人は、自分が負けた相手が出していた手に替えて出す傾向があった。たとえば、グーで負けた後でパーを出したり、チョキで負けた後でグーを出したりといった具合だ。回数を多く重ねると、学生たちはたいてい、グー、チョキ、パーの三つの選択肢をそれぞれ同じぐらい出していたが、ランダムに出しているのではないことは明らかだった。

 

  • 統計学の世界では「相関関係は因果関係にあらず」と呪文のようにたびたび言われる。ケンブリッジ大学のワインの経費を見てみよう。二〇一二年から二〇一三年にかけての学年度に同大学の各カレッジがワインに使った金額は、同じ期間の学生の試験結果と正の相関関係があった。ワインにかける費用が多いカレッジほど、概して学生の成績が良かった(カール・ピアソンやアラン・チューリングがかつて在籍していたキングズ・カレッジは、ワイン経費が三三万八五五九ポンドで、学生一人につき約八五○ポンドとなり、リストのトップを飾った)。
  • 同様に興味深いことが他の場所でも起こっている。チョコレートを多く消費する
    国々のほうがより多くのノーベル賞を受賞している。ニューヨーク市でアイスクリームの売上が伸びると、殺人事件の発生率が増す。もちろん、アイスクリームを買うと人を殺したくなるわけではないし、チョコレートを食べるとノーベル賞級の研究者になれたり、ワインを飲むと試験で良い点が取れたりするわけでもない。
  • これらのケースのそれぞれに、パターンを説明できる根源的な要因が別にあるのだろう。ケンブリッジ大学の要因は富かもしれない。豊かさはワインの消費と試験結果の両方に影響するだろうから。あるいは、より複雑な理由がいくつも、この観察結果の陰に潜んでいることもありうる。だからビル・ベンターは自分の競馬モデルで非常に重要に思える要因がある理由を説明しようとはしない。馬が走ったレースの数は、馬の成績に直接影響を及ぼす別の(隠れた)要因と関係しているのかもしれない。あるいは、出走数と他の要因(馬体重や騎手の経験など)の間には込み入ったバランス関係が存在することも考えられ、それを「AがBの原因となる」というすっきりした結論にまとめ上げることはベンターには望むべくもなかっただろう。だがベンターは的確な予測をするためなら、簡潔さや説明など喜んで犠牲にする。自分が着目する要因が直感に反していたり、正当化できなかったりしてもかまわない。モデルの目的は特定の馬の勝算を見積もることであり、なぜその馬が勝つのかを説明することではないのだ。

 

  • 研究者はスポーツの理論モデルを開発するとき、現実を抽象へと変換する。彼らは細部を取り除き、重要な特色にもっぱら注意を向ける。まさにそれと同じことをしたので有名なのがパブロ・ピカソだ。ピカソは一九四五年の冬に「牡牛」のリトグラフを制作したとき、牡牛の写実的な描写から始めた。当時それを見ていた助手は、次のように語っている。「堂々とした、肉付きの良い牡牛でした。これででき上がりだと心のなかで思いました」。だが、ピカソにとってそれは完成ではなかった。最初の版画ができると、彼は二番目へ、さらに三番目へと進んだ。ピカソが新しい版画を作るたび牡牛が変わるのを助手は目の当たりにした。「だんだん小さくなり、痩せ細っていきました。ピカソは描き加えていくのではなく取り去っていったのです」と彼は言った。ピカソは新たな版画を作るたびに牡牛の肉を削ぎ落とし、重要な輪郭だけを残し、結局は一一番目まで行った。最後には細部がほとんど消え去り、ほんの少しの線以外は何もなくなった。だがその形を見れば、依然として牡牛だとわかった。ピカソはそれらの数本の線で牡牛の本質を捉えていた。抽象的ではあるが、けっして曖昧でははない画像ができ上がっていた。アルバート・アインシュタインがかつて科学的モデルについて言ったように、「すべてのものは可能なかぎり単純にすべきだが、単純にし過ぎてはならない」のだ。

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“Pasadena, Norton Simon Museum, Picasso P. The Bull, 1946” by Vahe Martirosyan is licensed under CC BY – SA 2.0