メタバース さよならアトムの時代

メタバース7つの条件

今回のメタバースのブームに合わせて、ブログなどのメディアで識者たちが「メタバースであることの条件」を論じながら、各々がこの概念の再定義を試みている。 どれが正解というわけでもないし、そのすべてを紹介することに意味はないので、代表的なものを1つ引用しつつ考察してみたい。

ここで引用するのは、メイカーズ・ファンド (Makers Fund) のベンチャーパートナーでもあるマシュー・ボールが論じた定義だ。メイカーズ・ファンドはVRSNSVRチャット (VRChat)」の運営会社にも出資するなど、メタバース領域への投資を行うベンチャーキャピタルである。マシュー・ボールは、今回のブームが来る2年弱前の時点で、「メタバースとは何か」を7つのポイントを挙げて説明している。

彼が2020年1月に書いた 「The Metaverse: What It Is, Where to Find it, and Who Will Build It (メタバース:メタバースとは何か、どこで見つけられるのか、 そして誰が構築するのか)」という記事を参考に、メタバースであることの条件を紹介していきたい。

①永続的に存在する

現実世界と同等の振る舞いが期待されるメタバースにおいて、永続的に存在することは外せない条件と言える。様々な人が同時プレイする世界で、体験の最中にリセットやポーズ、エンドするという概念が存在してしまうと困ったことになるだろう。現実世界でそういった権限を持つプレイヤーがいたとしたら神と等しい力を持つことになる。

一般的なゲームはポーズボタンを押せば一時停止し画面をフリーズさせることができるし、基本的にはゲームクリアが存在する。リセットして最初からやり直したりもできる。そう、これらの特徴によって神のごとき万能感が得られるからゲームは楽しい。

しかしメタバースにはそういった概念が存在してはいけない。現実世界と同様に体験
が一続きになっている必要がある。

②リアルタイム性

同期体験、すなわちリアルタイムに他者と同一体験を共有できるという重要な条件だ。インターネットの歴史を振り返ると、コミュニケーションという本質は変わらないものの、初めは技術的制約もあり同期体験を重視していなかった。掲示板やメールがリアルタイム性の高いコミュニケーション体験ではないことはご存じの通りである。

一度目のメタバース・ブームの火付け役であるセカンドライフも完全同期型のサービスであるが、当時の通信やコンピューティング環境では充分な体験を得ることができなかった。代わりに「ニコニコ動画」のような、完全な同期体験ではなく、ストックされるコメントによって擬似的に同期するような体験を得られるサービスが人気を博すようになった。

しかし、スマートフォンが普及し5Gの運用も開始された現代の通信環境では、インターネットの同時性、リアルタイムな体験が常識となっており、ライブ配信やオンライン対戦ゲームを誰もが楽しんでいる。

③同時参加人数に制限がない

メタバースは現実を超えなくては意味がない。現実では物理的な制限があり、どんなに広い会場でも入れる人数には限りがあるが、メタバースならその制限を外すことができる。

ただし技術的な制約で、この条件を満たすスマートな解決策を提供しているサービスは今のところない。サーバーの構造的な問題もあれば、描画コストの問題もある。しかし近い将来、技術的な解決策がいくつか生まれてくるだろう。そうなれば現実を越える臨場感のあるライブを、世界中の人が同時に楽しむことが可能になる。

ちなみに僕の会社が運営するプラットフォーム「クラスター」では、同一空間に100人以上入る場合は、101人目からはアバターを描画しないで透明人間になってもらうことにより数十万人の同時接続を可能にしている。

④経済性がある

文明がこれだけ発達できた背景には、「価値の交換」が存在する。人間は一人ひとり生まれの条件も違えば趣味嗜好も違う。それでも社会というシステムがうまく動作し、自立的に発展できたのは、通貨等を媒介にして価値を交換してきたからだ。たくさんの人が集まったシステムを考える上で、経済性の存在は不可欠と言っていい。

経済性はメタバースが持続的に発展していくためにも重要な条件となる。デジタル空間で何かを作ったり、保有したり、売買したりできることが求められる。 究極的にはその中で仕事をして、生活を営めるようになるべきだろう。もちろん、その世界での投資活動も可能にしなくてはならない。

メタバースにおける経済の発展については第5章で詳しく語ろう。

⑤体験に垣根がない

メタバースはデジタル世界とフィジカルな現実世界をシームレスにつなぐし、プライベートとパブリックなネットワークおよび体験をまたぐ存在であるべき、という条件である。

デジタルですべてを完結するのではなく、フィジカルな世界とも連動するべきだという条件を入れることについては賛否両論がある。人類にとっての理想形は、認識のすべてがパーフェクトにデジタルで完結する状態だという主張もあるのだ。僕も本心を言えば、デジタルで完結してほしい派である。

しかし今は過渡期。当然すべてがデジタルで完結する世界は、数十年という時間軸では到底到来し得ない。デジタルとフィジカルのどちらもが存在し、それぞれを使い分けながら生活するのが現実的だ。デジタルに対してアレルギーを持っている方がいるのも事実なので、あまり幅を狭めないほうがいいという判断もあるだろう。

⑥相互運用性

異なるベンダーによる製品間でも問題なく接続し運用できるという状態を「相互運用性(interoperability)」があると表現する。メタバースの文脈においては、アバターやアイテムをプラットフォーム間で自由に持ち運びできる状態を指す。

ただこの条件の実現は難しい。運営会社が対応するには相当なハードルがあるにもかかわらず、ユーザーにとってのメリットがそのコストを上回るケースが非常に少ないからだ。たとえば、従来のSNSでもこの相互運用性は議論されていたが、結局のところ実現はされなかった。

しかし、この条件はこれからメタバースをどのように発展させていくかという議論の核心部分でもある。

1つのメタバースにサービスを集約させていくクローズド・メタバースという概念に対し、複数のメタバースがゆるやかにつながるオープン・メタバースという概念が提唱されている。

メタバースは、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に通じる閉ざされたディストピア世界だ、というイメージを持っている方もいるかもしれない。だが仮にそういったディストピアが形成されるとしたら、それは中央集権的なクローズド・メタバースに独占されたケースである。人類の理想はオープン・メタバースだと僕は考えている。

オープン・メタバースやより大きな枠組みとしてのWeb3.0というムーブメントについて
は、のちほど詳しく説明する。

⑦幅広い企業・個人による貢献

企業や個人を問わず誰でも参加でき、何かを売ったりサービスを提供したりして、コンテンツがあふれている状態でないといけないという条件だ。

単一企業がコンテンツを供給する状態はメタバースでないし、企業や個人の属性で参加条件を決めるべきでもない。たくさんの企業と人が関わることで、初めてメタバースができるということだ。

8つ目の条件は「身体性」

さて、この7つの条件はおおむね良いというのが僕の実感なのだが、メタバースに限らずインターネット全般にあてはまることのようにも感じる。

そこで、メタバースならでは、という条件をここに付け加えてみたいと思う。

⑧身体性

メタバースが従来のインターネットと最も異なる点、それは身体性(身体感覚)の有無である。

メタバースはディスプレイの向こう側にデジタル世界が広がっている状態ではない。自分自身がデジタル世界の中に入り込み、その中に住んでしまっているという感覚が重要なのである。

「はじめに」にも書いたが、既存のインターネットに乗っていない感覚が、この身体性だ。だからこそ、インターネットにつながっていたとしても、家から一切出ることができなければ、徐々にストレスが溜まっていくのである。それは新型コロナウイルスによって家から出なくなったわれわれが最も理解しているだろう。

マシュー・ボールはデジタルとフィジカル(身体)を行き来することがメタバースだとしているが、僕はむしろデジタルでフィジカル(身体)を実感できることがメタバースだと考えている。

 

オンラインゲームはこの世に星の数ほど存在するが、なぜメタバースを語るにあたってフォートナイトの名前が特段に挙がりやすいかというと、エピックゲームズの創設者兼CEOのティム・スウィーニーがブーム前からメタバースを意識した発言を繰り返ししていたというのが大きい。彼は「われわれはメタバースを構築する」と明言している。

メタバースの実現に向けて、エピックゲームズが取り組んでいるのはフォートナイトだけではない。彼らは「アンリアルエンジン (Unreal Engine)」というゲームエンジンを開発・販売しており、むしろこっちのほうが主力事業という位置づけだ。

ゲームエンジンとは、ゲーム開発を効率化するための統合開発環境である。

ゲームをゼロから作るには大変なコストと手間がかかる。しかも、ゲーム制作にはよく似た技術要素が多い。 コントローラによる操作によって3DCGのアバターが動き、光があたると影ができて立体に見える、という表現は大抵のゲームにおいて共通のものだ。これら共通の要素がたくさんあるのに、毎回ゼロから作るのは馬鹿馬鹿しい。ゲームを作る手間を省き、いわゆる「車輪の再発明」を防ぐために作られたソフトウェア群がゲームエンジンだ。

大手のゲーム会社は自社製のゲームエンジンを持っていることが多いが、ゲームエンジンを作る余力のない中小のゲームメーカーは既製のゲームエンジンを利用していることがほとんどだ。

2大ゲームエンジンと言われているのが米ユニティ・テクノロジーズの「ユニティ(Unity)」 と、 エピックゲームズの「アンリアルエンジン」である。メタバースを推進しているエピックゲームズが2大ゲームエンジンの1つを開発していることには大きな意味がある。

メタバースにおいて、クリエイターの存在はとても重要だ。先程挙げたメタバースの条件にもあったように、多くの個人や組織を巻き込んでメタバースが構築されていること自体が、メタバースを持続可能なものにする。そしてメタバースを構築する基礎技術はすなわちゲーム技術であり、ゲームエンジンの役割は非常に重要なのである。

ティム・スウィーニーはフェイスブックメタバースにシフトしたことも意識しており、「フォートナイトがめざす世界は広告ビジネスではない」という牽制発言もしている。フェイスブックとは違うぞ、というアピールだ。フェイスブックがクルマの広告をあちこちに貼るとしたら、フォートナイトがめざす未来はその世界でクルマに乗っても
らうことだと息巻いている。

エピックゲームズはIT関連の企業の買収を積極的に進めていて、フォートナ中心とした独自のメタバースエコシステムを構築しようと目論む中心的存在だ。

一番メタバースに近い会社・ロブロックス

メタバースのもう1つの主要企業、それがロブロックスだ。

ブロックスは2004年創業の会社で、2年後の2006年に社名と同じ「ロブロックス」をローンチした。オンラインのゲーム・プラットフォームであり、ゲーム作成システム「ロブロックス・スタジオ」も同時に提供している。クリエイターが参加してゲームを作り、そのゲームを他のユーザーたちと一緒に楽しむことができる。

日本ではまだ知名度は低いが、2021年第4四半期のDAUが5千万人、月間のアクティブユーザーが2億人という巨大なプラットフォームだ。史上最も売れたゲームと言われている「マインクラフト (Minecraft)」 にアクティブユーザー数で勝っていると言えば、その数のすごさがわかると思う。

アクティブユーザーのうち半分以上が15歳以下というのがこれまた恐ろしい。 大人からすると、まったく想像のできない巨大なバーチャル世界がすでに形成されているのである。

ブロックスは自分たちでゲームを作っていない。ゲームを作る環境を与えて、クリエイターがゲームを作ったり、楽しんだりすることを支援している。 ゲーム版YouTubeと称されることも多く、クリエイターによって投稿されたゲームの数は2400万件にも上る。

ちなみに、ロブロックスのローンチ以前は、前身となる物理エンジン、つまり、3DCGの物理演算をシミュレートするソフトウェアを開発していた。そのソフトウェアを一般ユーザーが使えるようにしたというのが今のプラットフォームにつながっている。

アバターデザインはかなりレゴに似ている。アクティブユーザーの大半が小学生以下なので、小さい頃からゲームを作ることに親しめるわけだ。

ブロックスがなぜメタバース関連企業として話題にのぼるかと言えば、エピックゲームズ同様、共同創業者兼CEOのデービット・バズッキがメタバースについて積極的に発言しているのが大きい。

CEOが様々なインタビューやカンファレンスで、ロブロックスメタバースとしてプッシュしているのに加えて、株主向け資料の中でもメタバースというワードを多用しており、ロブロックスメタバース関連株として注目されている。2021年の3月に上場したばかりだが、一時は時価総額が5兆円近くになった。

ブロックスもフォートナイトと同様に、アニメーションやキャラクターなどのIP(知的財産)やファッションとのコラボを行っており、2021年にはグッチ (Gucci)とコラボしてバーチャルなバッグを販売したりバーチャル展示会を開催したりした。

クリエイターの収益化手段も用意されている。 「ロバックス (Robux)」 という現金化可能なアプリ内通貨を用いてゲームアイテムやアバターを売買することが可能だが、なんと年間の流通額が1000億円以上もある。現存するサービスの中で、ロブロックスは最もメタバースに近い場所にいると言える企業だ。

MMORPGとの違いは「自己組織化」

さて、ここまで読んだ読者の中には疑問に思う方がいるだろう。「フォートナイト」や「ロブロックス」はオンラインゲームとしての側面が大きい。それではなぜ既存のMORPGメタバースとして語られることが少ないのか。

しかし、「MMORPGによってメタバースはすでに実現されています」で議論を終わらせてしまうのは歯がゆいし、思考停止と言えるだろう。

MMORPGと比べた時に、あらためてメタバースとは何か? という問いが浮かんでくる。 MMORPGが満たしていない重要な要素を、メタバースの条件としてさらに加えてもよいかもしれない。

9自己組織化

それは「自己組織化 (self-organization)」だ。

自己組織化とは、もとは1977年にノーベル化学賞を受賞したイリヤ・プリゴジンが定義したもので、個々の物質は自律的に振舞っているのに、結果として秩序だった大きな構造が生まれることを指している。雪の美しい結晶が自然とできあがるのも、自己組織化の1つと言える。

人間の組織についても同様で、各々のプレイヤーは組織全体を俯瞰できないし、それぞれ思い思いの行動をしている。にもかかわらず、結果として秩序だった大きな構造(=組織)ができてしまう。それも自己組織化だ。

僕は一人の個人なので、日本の産業全体を俯瞰して見ることはできない。僕だけではなく、政府ですら産業全体を俯瞰してそれをコントロールすることは難しい。だが、大勢の人が自由に働いた結果、秩序を持った形で産業が発展していく。そこには自己組織化が働いている。

MMORPGにはゲーム世界全体を俯瞰して観察し、コントロールする存在がいる。もちろん、それはサービスを提供している企業(ゲーム制作者)だ。

ユーザーにとって快適なようにゲームが設計され、世界観のあるストーリーや統一感のあるテーマが提示され、隅々までデザインが行き届いている。そこに自己組織化する自由は存在しない。どこまで行ってもそれはゲームでしかないのである。

ゲームの性として、ゲーム制作者の想像の範疇を越えることはできないのだ。

「FFXW」 と 「ドラクエX」の中で行われていることは、ゲーム制作者にとっては想定内の出来事でしかない。もちろん自由度の高さゆえに突拍子もないことをしでかすユーザーたちもいるが、ゲーム制作者の描くシナリオに収まらないものは大抵「バグ」のレッテルが貼られて、システム的に鎮圧されていく。

「ゲームの中でユーザー同士が結婚したらいいよね」という想定があるからこそ、ウエ
ディングドレスのアバターが実装されるのである。

ゲームには旬や賞味期限が存在する。どんな大ヒットゲームでも放っておけば人気が下がっていくものだ。そこで運営側が、熱量を保つために全力で追加コンテンツやイベントなどを投入する必要がある。

MMORPGは自己組織化することはなく、あくまで他者が組織化した世界だ。つまあくまでもコンテンツ。 運営がコントロールし続けることで存続するゲーム世界なのである。

一方、メタバースは自己組織化された構造体である。

そのため、プラットフォームを提供する企業が想像もつかないようなコンテンツが創
造される可能性に開かれている。

参加したユーザーの中に才能あるクリエイターたちが存在し、クリエイターの想像か
ら新たなコンテンツが生まれるのである。

自己組織化されることでメタバースは発展し続ける。 ユーザーが熱量を保つために追加コンテンツを投下するといった運用は必要ない。やがて大きくなって世界を飲み込むようなエコシステムになっていく。

この点でメタバースMMORPGには、運営スタンスや概念という観点から、大きい違いがあるわけだ。

 

2. マッピングと解釈

現実空間を1つのバース(宇宙)として含んでメタバースを実践していくあり方においては、現実世界をいかにマッピング、すなわちデータとして扱える形に取り込んでいくかが重要だ。

地理データの活用を試みるにあたり、気象情報など様々なデータは各種組織により計測されているが、課題としてはそれらの情報がバラバラに点在していることにある。いかに統合し、意味のある形で扱ってやるかというプロジェクトはすでにいくつかある。

有名なのは「セシウム(CESIUM)」だ。 地理情報に特化したウェブブラウザ向け3Dビュアーエンジンで、航空宇宙系のソフトウェア会社であるアナリティカルグラフィクス (Analytical Graphics) が2011年に開発し、オープンソース・プロジェクトとしてリリースされた。

日本ではシンメトリー・ディメンションズ (Symmetry Dimensions) が、 ネット上の各種APIを統合し3D地図にマッピングして表示し、ユーザーによる独自分析や可視化が可能なサービスを展開している。

近年デジタルツインやスマートシティという言葉が流行したことを受けて、世界中の国や自治体でオープンデータ化の取り組みが加速している。

アメリカ政府機関や州・都市などが保有する公共データを一元的に管理提供する「Data.gov」や、日本では国土交通省によって公開された3D都市モデル「プロジェク・
プラトー (Project PLATEAU)」 などが代表例だ。

そしてこの文脈で必ず名前が挙がるのが「ポケモンGO」で有名になったナイアンテイックだ。彼らは自社サービスで培ったAR技術を 「Lightship」と名付けプラットフォーム化し、技術者たちが自由に使えるように開発キット 「Niantic Lightship ARDK」 第一弾を2021年1月に公開した。ユニティベースの開発キットで、マッピング、環境解釈、体験のシェアリングの3つの機能をアプリ開発に役立てることができる。

 

現実世界はすべてシミュレートできるのか

そこで自然に湧いてくるのが「現実世界すべてをシミュレートすることはできるのか?」という疑問だ。

結論から書くと、不可能だ。

コーネル大学のリチャード・パルマーという研究者が1989年に発表した「ポリゴンの動きと安定性の計算複雑性」という興味深い論文がある。

3DCGにおける物体の動きを計算することについての論文なのだが、バーチャル空間上のモノを動かしたり、衝突させたりしたときに発生する計算量について論じている。

とても高度な内容なので結論だけ書くが、現実世界を3Dオブジェクトの集合体へと簡素化しても、物体同士の干渉をシミュレートする計算はNP困難、すなわち現代の計算機アーキテクチャでは効率的に解くことは不可能なのだという。現実世界を全部シミュレートしようとすると、計算量が増えすぎてコンピュータが追いつかないのだ。

これは僕の運営する空間プラットフォーム「クラスター」でも直面している問題なので、実感できる。バーチャル空間にアバターが入れば入るほど、アイテムのようなオブジェクトを表示すれば表示するほど、加速度的に計算量が増えていくし、一瞬で計算リソースが足らなくなってしまうのである。

物理学においても、扱う対象が増えることによって爆発的に計算量が増える問題は顕たとえばニュートン力学は、扱う対象が1つだけという場合の計算はとても得意だ。対象が2つの場合もわりと強い。しかし、対象が3つになった瞬間、とたんに計算が難しくなる。三体問題と呼ばれており、運動方程式の一般解が通常は定まらない問題として有名だ。4つ以上になってしまったら、一気にお手上げになってしまう。

しかし面白いことに、逆に扱う物体の数が非常に大きい状況下を考えると、まったく別のアプローチを用いることで意味のある計算が可能となるのである。熱力学や統計力学といった学問では、個別の粒子の振る舞いを捉えるのではなく、統計的手法を用いることで、温度や圧力といった「人間にとって意味のある」情報を扱えるようになるのだ。