金融工学者フィッシャー・ブラック

  • ゴールドマン・サックスの方が自由な研究が出来るし、論文に関してレフェリーとあれこれやりあうのがイヤになったためだ、というものだった。
  • そのときは天下のブラック博士の論文でも、レフェリーに拒絶されることがあるのか、と驚いたものだが、本書によれば、八〇年代以降の論文のほとんどすべてが拒絶査定を受けたという。当時は金融工学をまともに評価する学術誌はなかったから、ブラックは(トレイナーが編集長を務める)実務家向けのフィナンシャル・アナリスツ・ジャーナルに寄稿する道を選んだ。一〇〇人の経済学者を相手にするより、一〇倍以上の読者があるジャーナルの方がいいと判断したのである。

 

  • サミュエルソンアメリカ経済学会(AEA)で行った有名な会長演説に、次のくだりがある。「結局のところ経済学者というものは、この世でただひとつ価値ある貨幣のために身を粉にする。その貨幣とは、経済学者からの称賛である」。この定義からすれば、ほかの価値ある貨幣を求めたトレイナーはレースから脱落ということになる。サミュエルソンも、ジョン・リントナーがトレイナーからCAPMの着想を得たという噂は聞き知っていたに違いない。たしかにトレイナーはハーバード大学院でリントナーの弟子だったが、しかしそれはあくまで噂であって証拠はない。重要なのは、正真正銘の学者であるシャープとリントナーの二人が、それぞれ別個に確かな結果を出したということだ。シャープだけがノーベル賞をもらったのは運命のいたずらである。 ノーベル賞委員会がファイナンス理論の価値を認める前にリントナーは亡くなってしまったのだ。

 

  • 「研究をしていていちばん楽しいのは、最初は馬鹿げた考えだと思えたことが、最後にはすっきりと説明できることだ」とブラックはかつて言ったことがある。ブラックは誰も自説を支持してくれなくても気にしなかったし、むしろそれを楽しんでいる節もあった。
  • とにかく頭を使って問題を解くプロセスがブラックには楽しくてたまらない。ゴールドマン・サックス時代には、ゲームボーイを家に置いてこなければならないほどだった。さもないと仕事時間中にお気に入りのゲーム、スーパーマリオブラザーズに手が出てしまう。ブラックのみるところ、ファイナンスの問題はゲームによく似ている。ある方法でアタックし、うまくいかなければ別の方法を試み、さらに別の方法を試す。こうやって、正しく理解できるまで問題をあちこちから攻める。 そして、誰も思いついたことのないような攻略法やこれまでにない解決策を編み出すのだった。キノコ王国のピーチ姫を大魔王クッパの手から救い出す方法をみつけるだけでは、ブラックは満足しない。これまでの最高得点を上回るスコアを叩き出すにはどうしたらいいか、それが知りたかった。他のプレーヤーとスコアを競うのではなくて、ゲーム自体を打ち負かしたかったのである。たとえ仕事ではなく遊びであっても。
  • 何か新しい解決方法を考えつくのはうれしいものだが、その喜びのほとんどは、解決それ自体ではなく、試行錯誤の途中で学んださまざまなことから生まれる。ブラックは人から言われてやるような受け身の勉強は絶対にしなかった。目の前の問題を解くのに役立ちそうなことを片端から学ぶのがブラック流である。「研究は目的をもってやらなければならない」と彼は考えていた。幸いにも興味をそそられる問題はいくらでもあったから、一生の間、次から次へと解き続けることができた。おもちやがいっぱいの部屋にいる子供、それがブラックである。一つのおもちゃで思う存分遊んだら、すぐ次のおもちゃにとりかかる......。
  • よい問題は、よいおもちゃと同じで、なかなか飽きない。さまざまな角度から立ち向かうことができ、そのたびに新鮮な驚きがあり、何か新しい発見の可能性がある。どんなに突飛にみえるアイデアも、思いがけずうまくいくかも知れないから、試してみる価値がある。問題が難しければ難しいほど、いろいろな方法を自由に試す余地は大きい。ブラックはこの自由な感覚が大好きで、好んで難問に取り組んだ。と言っても手当たり次第に突き進んだわけではない。彼の意見によれば、既知の方法で問題が解けないからと言って、もっと高度な方法が必要だということにはならない。実際にはその反対のことが多いという。問題が難しいのはこちらの技術が未熟なのではなくて、理解不足であることが多いと彼は考えていた。
  • ブラックは問題の核心に切り込む方法をみつけるとき、基本に忠実な直接的アプローチをとるよう心がけた。これは、本能的なものだったかも知れない。ゴールドマン・サックスでブラックの同僚だったエマニュエル・ダーマンはこう回想する。「ブラックのやり方は、とにかく失敗を恐れずに考えて考えて考え抜くこと、直観を大切にすること、高等数学に頼らないことが特徴だったように思う。彼は真っ向から問題にアタックし、手の内にある技術を次々に試した。たいていはそれがうまくいった」。
  • 大問題には、本質的な大発見につながる可能性が秘められている。だから、やり甲斐がある。だが、大発見に結びつくのは基本に忠実な手法でアプローチしたときに限られる、というのがブラックの持論だった。

 

  •  CAPMを学んだブラックは、ばらばらに株を買うのをやめてミューチュアル・ファンドに切り替え、株には一切手を出さなくなった。若い頃にはリスク許容度は高いと考え、わざわざ借金をしてまでリスク・エクスポージャーを拡大したこともあったが、痛い目に遭ってからというものは、自分の本当の性格を身に染みて知ったようだ。ゴールドマン・サックスのパートナーになってから、「私のリスク許容度はほとんどゼロだ」と語ったという。
  • そして会社への出資以外は、MMF (市場金利連動型投信)や短期証券に投資した。 株式市場で金儲けのリスクを冒すよりも、知的生活のなかで学問研究のリスクを冒す方が好ましくなったのだ。なにしろこちらは下落のリスクがはるかに小さく、上昇の可能性ははるかに大きい。
  • 現実の生活を考えてみよう。たいていの人にとって、富のなかで比重が大きいのは将来の給与所得である。したがって、給与所得のリスクを減らしてくれる条件を整えておけば、長期にわたるリスク全体も減らせることになる。ただあいにくなことに、高所得を得るには専門的なスキルが必要であることが多い。そして、専門に特化することはリスクを増大させる。何らかの特殊な専門性の価値は、ごく短期間にがらりと変わってしまうことがあるからだ。これに対する一つの解決策として、複数分野を専門にする「分散化」が考えられる。 フィッシャー・ブラックはまさにこの戦略を採用し、象牙の塔と民間企業の間を行ったり来たりした。もう一つの解決策は、状況に柔軟に対応することである。つまり、将来を覆い隠していた霧が晴れるにしたがって、臨機応変に方向性を変えていく。 ブラックは論理的な思考や明晰な文章を書く能力など、何にでも応用できる能力をベースに職業を選んだ。 これは、高等数学や統計学など特殊な専門能力に依存するのと比べ、リスクの低いやり方と言えるだろう。
  • 不安定な世界で安定した人生を送るもう一つの方法として、長期契約を結ぶことが挙げられる。女の役割が決まっている伝統的な結婚は、おそらくそうした契約の代表例だろう。ほかにも大学教授の終身的な地位や、ゴールドマン・サックスなどが採用しているパートナーシップ制などは安定した長期契約である。長期契約の方が安全だとブラックはよく言っていたものだ。

 

  • フランコ・モジリアニがブラックのことを「人間コンピュータ」と茶化すのも理由のないことではない。MITの同僚でノーベル賞経済学者であるロバート・ソローは、ブラックの一風変わった外見も含めて、彼をET (地球外生物)と呼んだ。なにしろ頭が大きくて首が細いのである。だがいちばん正しい評価は、やはり同僚であるジョン・コックスによるものだろう―「これまでファイナンス畑で出会ったなかで、正真正銘の天才と呼べるのはフィッシャー・ブラックだけだ。ロバート・マートンやスティーブン・ロスも頭脳明晰だが、考え方の筋道は自分と似かよったところがある。だがフィッシャーは、そもそもの発想がまったく違う」
  • 本人の方は、外見に反して、自分の頭脳がマシンのようだと思ったことはない。ブラックは大学院時代に人工知能をかじったが、そのとき、コンピュータはいつの日かある面おそらく記憶容量と演算速度では人間を越えるにしても、創造はできないという結論を下していた。創造性は、人間だけに与えられた能力である。そこでブラックは、記憶力の鍛錬や計算能力の強化に努めるのはエネルギーの浪費だと考えるようになった。いずれコンピュータが全部やってくれるのだから、努力しても意味がない。記憶と計算は急成長中のコンピュータに任せ、自分は創造性を鍛える方がずっといい。考えることができるのは人間だけである。だから人間はそれをすべきだ。それに、考えることはじつに楽しい......。

 

  • 論文を書いている最中から、彼は両親にこんなことを書き送っている。「博士号をとったら何をしようか考えています。可能性はたくさんあります。科学者、技術者、研究者は、どれもあまり気が進みません。コンピュータの世界にとどまりたいのかどうかもよくわからない。この世界の人間はそんなに好きになれないからです。誰もたいして人と変わらないのに、自分のアイデアはすごいものだと見せかけようとしています。電力会社の社員が、原子力発電所で働いていることを自慢するみたいに」

 

  • コンチネンタル銀行のためにブラックが行った分析は、じつは一〇年前にトレイナーがやった研究の延長線上にある。トレイナーは自分の知的好奇心を満足させるためだけにリースの研究をしていた。つまりブラックはトレイナーの足跡をたどったことになる。 数年後になって、ブラックは研究成果を称える手紙をトレイナーに書いている。
  • 「あなたのおかげでファイナンスに目が覚めました。ブルとベアのバランスをとり、投機と投資を均衡させる市場メカニズムは本当にみごとです。私が次々に話す思いつきを辛抱強く聞いてくれてありがとう。おかげですこしは考えがまとまってきました。この借りはとても返せそうにありません」
  • これは単なる儀礼的な感謝ではない。フィッシャー・ブラックの金融や経済に対する見方はすべてジャック・トレイナーから始まっている。トレイナーは彼にとって最初にして最大の師だった。

 

  • ハーバード・ビジネススクールは、チャールズ川を挟んで大学キャンパスと反対側にある。ラース・アンダーソン橋を渡れば、ハーバード・スクエアから歩いて五分とかからない。それでも大学とビジネススクールは別世界だった。どちらもジョージ王朝風の赤レンガの建物であるところは同じだが、それ以外はまったくちがう。ビジネススクールでは徹底してケース・メソッドによる教育・研究が実践され、大学の抽象的でアカデミックな経済学は非現実的であるとして排除された。授業も研究も、まず具体的な事例から始まる。細部にいたるまで複雑きわまりない現実のケースが教材になり、経済学理論の一般原則の類は扱われなかった。つまりそこには、博士号を持つ経済学者の居場所はなかったのである。にもかかわらず、ジョン・リントナーはそこにいた。ジョージ・ガンド経営学・経済学教授として、駐車場とサッカー場を見下ろすベイカー図書館裏のオフィスにどっしりと構えていた。

 

  • 証券価格研究センター(CRSP)のデータが出揃うのを待ちきれない大学院生たちは、手持ちのデータをかき集め、大人気の実証研究プログラムに押し寄せた。たとえばベンジャミン・キングは、自分で抽出したCRSPのデータの一部を利用した。ユージン・ファーマは六〇年にビジネススクールに入学したときに日次株価データ数年分を持ち込んでおり(このとき彼は若干二一歳だった)、それを活用している。 タフツ大学の大学院に在籍中、指導教官だったマーティン・アーンストのために集めたデータである。すでにこのときファーマはデータを綿密に調べ上げて儲けの多い投資戦略を探り、アーンストがそれを自分のマーケット・ニュースレターで発表していた。しかしファーマが仰天したことに、過去のデータに基づく市場戦略で成功したものは皆無だった。ハリー・ロバーツが指摘した通り、どのパターンも幻想にすぎなかったのだ。ファーマはそこでさっさとランダム・ウォーク理論に乗り換える。六三年の論文では、彼はもはや独立性の検定に手間暇をかけるのをやめ、リターンの確率分布の形状というもう一つの問題に集中した。
  • この研究に対して、数学者のブノワ・マンデルブローがさっそく反応を示す。ある種の資産価格は、ガウス分布(正規分布)に従うとは言えないほど変動幅が大きいと指摘したのだ。この事実をみる限り、「価格変動の問題にはまったく新しいアプローチが必要だ」とマンデルブローは主張した。正規分布の裾野が厚い、いわゆるファットテールの存在は前々から指摘されていたことだった。マンデルブローは、これらの分布を安定パレート分布と呼ばれる確率分布の一種として扱ってはどうかと提案する。幸いにもマンデルブローが三ヶ月ほどシカゴ大学に来たので、ファーマは直接教えを請うことができた。その後論文を書き、アメリカの三〇銘柄の株価分布がマンデルブローの仮説に一致することを証明している。
  • 一見するとマンデルブローの仮説はさほど大胆ではなく、おなじみのガウスのランダム・ウォークを一般化しただけのようにみえる。だがMITのポール・コートナー教授は、六二年一二月二九日に開かれた経済学会で警鐘を鳴らす。「マンデルブローは、かのチャーチル首相のように、ユートピアではなく血と汗と労苦と涙を約束している。もし彼が正しいとしたら、われわれの統計理論の大半最小二乗解析、スペクトル解析、最尤法、すべての標本理論、閉じた形の分布関数は無用の長物になりはてるだろう。それにこれまでになされた計量経済学の研究は、ほぼ例外なく意味がなくなる。数世紀に及ぶ研究を焼却処分にする前に、せめてわれわれの研究が何の役にも立たないという確証を得ておきたいものだ」。この発言からは、功成り名遂げた教授が自らの業績を守ろうとする本能がうかがえる。だが、学生だった若いファーマの本能は正反対の方向に働いた。彼がそれまでに研究したのは効率的市場仮説だけだったが、その時点では彼は、マンデルブローの仮説を採用しても効率的市場仮説を捨てる必要はないと判断する。むしろ、系列独立性という意味での効率的市場とファットテールに関するマンデルブローの仮説を組み合わせれば、データをうまく実証的に説明できるとファーマは考えた。
  • しかしマンデルブローの考えは違った。証券価格は、新しい情報が将来に及ぼす影響を直ちに現在に割り引いて動く。 したがって裁定取引は系列依存性を排除するとしても、価格の大幅変動も招きかねない。そしてこれがファットテールを生む、というのが彼の意見だった。しかし価格変動に限度があるとすれば、裁定取引で排除できる系列依存性にも限度があることになる。したがって系列依存性は、ファットテールとともにデータにつねにつきまとう属性と言える。マンデルブローによれば、ちょうど効率的市場と正規分布のように、非効率な市場とパレート分布は理論上切り離せないペアなのである。
  • 六四年、ファーマはシカゴ大学ビジネススクールの教授陣に加わる。まだ理論研究が十分進んでいない時期だったこともあってファーマの実証研究は高い評価を獲得し、効率的市場とファットテールシカゴ大学ファイナンス課程の金看板になった。 そして、 ファーマはシカゴ大学での最初の仕事として、効率的市場に関する初めての講義を準備して教える役割を引き受ける。その講義録は、マートン・ミラーが七二年に執筆・出版したシカゴ大学の標準的な教科書『ファイナンス理論』に収められている。
  • ファーマが講義を開始してほどなく、ポール・サミュエルソンブノワ・マンデルブローが効率的市場を統計的に論じた論文を相次いで発表した。二人とも効率的市場は理想であって現実にはあり得ないことを認め、効率的市場仮説は魅力的な帰無仮説でも役に立つ仮説でもないと述べている。対照的に、七〇年にファーマが発表した"Efficient Capital Markets: A Review of Theory and Empirical Work (効率的資本市場―理論と実証研究の概観)は明らかに自説に確信を持つ研究者の力作であり、専門家なら誰もが読むべき古典的文献と評されている。 ファーマはこの論文で、情報が株価に反映されるレベルに応じて効率性をウィーク、セミストロング、ストロングの三段階に分類し、定性的な議論(効率的か、そうでないか)から定量的な議論(どの程度効率的なのか)へと議論を方向転換させている。
  • だが、ファーマの効率的市場とパレート分布の組み合わせは、まだ理論と呼べるほどのものではなかった。株価変動の特徴を論じてはいるが株価水準を扱っていないし、リターンの変動は論じてもその平均は扱っていない。こうした状況で、シャープのCAPMが登場して真空地帯を埋めたのである。いや正確には、シャープのCAPMはリターンのパレート分布にまで及んだ。だがファーマは、期待リターンに関する理論ではなく効率的市場にあくまでこだわった。そして、とうとう効率的市場仮説を救うためにCAPMを放棄する。

 

  • 数ヵ月後、さっそく二人のコンビを生かす機会が訪れる。ウェルズ・ファーゴ銀行のケースである。この仕事では、ショールズは効率的市場に関するシカゴ学派の代弁者という役回りだった。マックーンはショールズを正社員に採用しようとしきりに誘ったのだが、学界に戻りたいというショールズの固い意志に阻まれた経緯がある。 上層部からは新しい理論を試してよいとのお墨付きをもらっていることもあり、困ったマックーンはどうにかしてくれとショールズに談判し、そこでショールズがブラックを推薦したというわけである。 マックーンはすでに証券価格研究センター(CRSP)でブラックに会ったことがあり、即座にOKする。
  • またとないタイミングだった。 妻に尻を叩かれたブラックは勇気を振り絞ってADLに給料の大幅アップをかけあったのだが、失敗に終わっている。そこで六九年三月三一日付けで退職し、ミミのツテでベルモントのレオナルド通り六八番地にオフィスを借りて、自分でコンサルティングを始めたところだった。このつつましい会社の名前はアソシエーツ・イン・ファイナンス。秘書はパートタイムで、マイロン・ショールズが最初のアソシエーツである。ほかに期待できそうな協力者としては、マイケル・ジェンセンなどがいた。独立するときブラックはADL時代のクライアントを二、三社押さえていたが、最大の顧客は何と言ってもウェルズ・ファーゴ銀行であり、この仕事にブラックは時間の半分をとられるようになる。忙しい時期にはショールズは三時きっかりにMITを出てブラックのオフィスに立ち寄り、数時間働くという日課をこなした。
  • プロジェクトそのものは、このうえなく刺激的だった。ウェルズ・ファーゴの連中はとにかく何か新しくて人と違ったことを試したくてたまらず、 そのためなら喜んで巨額の資金を投じる意気込みである。 同行が契約したコンサルタントの数は片手ではきかない。ブラックとショールズは大勢のなかの二人にすぎず、ファイナンスの大御所がずらりと名を連ねていた。シャープ、リントナーはもちろん、 マートン・ミラー、ジェームズ・ローリー、ユージン・ファーマといったシカゴ大学のお歴々。さらにはマイケル・ジェンセン、リチャード・ロールなど当時まだシカゴ大学の学生だった連中までいた。誰もがこのおいしい蜜に群がっていたのである。ブラックにとってこのビジネスは、資本資産評価モデル (CAPM) を現実の世界で試すチャンスだった。ウェルズ・ファーゴCAPMを使って利益を上げられれば、他の企業も追随し、世界は変わるだろうと思えた。
  • それにまたこの仕事では、しょっちゅうカリフォルニアに行ける。ブラックは六一年夏に訪れたとき以来すっかりカリフォルニアが気に入っていた。 ウェルズ・ファーゴはサンフランシスコにある―正確にはダウンタウンのど真ん中、マーケット通りとモンゴメリー通りの角にあるので、カリフォルニア北部に行きやすい。プロジェクトが進行中の三年間にわたり、ブラックは月に一度は打ち合わせのためにカリフォルニアに飛んだ。ときにはミミと生まれたばかりの赤ん坊、アリシアも連れて。それは、しあわせな日々だった。
  • ウェルズ・ファーゴでの役回りも彼の好みにぴったりだった。汚れ仕事、つまりデータと格闘したりコンピュータでシミュレーションをしたり、といったことはすべてウェルズ・ファーゴのスタッフがやってくれる。それを定期的にチェックして次の指示を出せばよい。つまり理論を使って実証研究を導くのが仕事である。ふだんは、三〇〇〇マイル離れたボストンにいて銀行業務とは全然違うこと
    をしている。だが、月に一度はサンフランシスコで会議のテーブルにつく。こんなふうに離れたり近づいたりするやり方は、ブラックが大好きなスタイルだった。
  • ウェルズ・ファーゴの社員からみたブラックの姿はどんなものだったのだろうか。ものすごい集中力で没頭し、次から次へと何時間でもぶっ続けで、しかも緻密に仕事をこなし、疲れた素振りさえみせない。唯一のエネルギー源は、何杯もお代わりする甘いアイスティーだけ―それがブラックだった。よくトイレに行かずに我慢できるものだと社員はジョークを言い合ったが、しかし感嘆すべきは、言うまでもなく彼の有能ぶりである。なにしろ一ヵ月分の仕事をたった一日でチェックして、次の指示を出してしまうのだ。ウェルズ・ファーゴは大勢のコンサルタントと契約し、そのなかには学者も多かったが、最も優秀だったのはまちがいなくブラックとショールズだった。利益に結びつく金融商品の開発に本気で手を貸そうとしたのは、この二人だけだったのである。
  • 二人にとって報酬よりも大事だったのは、知的好奇心を刺激する難題に取り組むことである。ウェルズ・ファーゴの仕事で受けた刺激は、膨大な量のノートに結実した。そのどれもが、CAPMの考え方を実際の投資運用に応用することを試みている。 "Expanding the Market for Short Term Securities" (短期証券市場の拡大)、 "Variable Options" (変額オプション)、 "Investment with Leverage and without Taxes" (税金を想定しないレバレッジド投資)、 "The Term Structure of Interest Rates" (金利の期間構造)、 "Capital Market Equilibrium with No Riskless Borrowing or Lending" (無リスク貸借を伴わない資本市場の均衡)、"The Effects of Dividends on Common Stock Prices: A New Methodology" (配当が普通株の株価に及ぼす影響―新しい方法論、ショールズとの共著)、"A Fully Computerized Stock Exchange" (全面的にコンピュータ化された証券取引市場)等々......。 だが残念ながら、どんな仕事にも終わりは来る。思うようにいかないことに不満をつのらせてマックーンが辞めたとき、ブラックにとってもプロジェクトは終わった。あとから思い返しても、これは本当に楽しい仕事だった。
  • 後年、大学からゴールドマン・サックスに移るチャンスが訪れたとき、刺激に満ちたこの仕事のことが生き生きとブラックの脳裏に甦り、決め手となったという。それだけでなく、ゴールドマンに行けばマックーンのような役割を果たせるかも知れないという思いもあった。 マックーンは伝統的な銀行業界に新しい発想を導入するための組織として、ウェルズ・ファーゴに投資運用科学部を立ち上げている。これがブラックの頭にあったのはまちがいない。ゴールドマンにおける彼の仕事は、言わばウェルズ・ファーゴにおけるマックーンに相当するものであった。

 

  • CAPMの世界を築くのは非常に難しいという教訓とは別に、ブラックはウェルズ・ファーゴでもう一つの教訓を学ぶ。それは、実証主義には限界があるということだった。学生時代の論理学の講義で、すでにヴァン・クワインからそのことを漠然と教わってはいたが、ジェンセンやショールズとの共同作業を通じて再びはっきりと思い知ることになった。
  • ブラックが好きな実証研究のスタイルは、三種類の仮想のポートフォリオ戦略から上がるリターンを計量化したときの手法をみるとよくわかる。たとえばレバレッジを使った低ベータ戦略を採用した場合、CAPMでは不可能とされている利益を上げられることを二人は証明した。このように証明できたこと自体が、理論に何か誤りがあることの十分な論拠になる。だから、それ以上の説明はいらないとブラックは考えた。確かにポートフォリオ・テスト(自分のやり方をブラックはそう呼んでいた)は、理論のどこを修正すべきかを教えてくれる点で、高度な統計的テストより優れている。ブラックがいつも言う通り、ある理論が否定されたからと言ってすぐに投げ捨てるわけではないのだ。その理論をあちこち手直しし、強化して、次は却下されないように練り上げればよい。実証研究の眼目は、理論をテストすることよりもむしろ、次にどこを強化すれば理論がもっと強固になるかを探すことにある。

 

  • このように、クワインの言う「反抗的実験」を通じて自分の理論を精緻にしていくのがブラック流である。そのために彼は熱心に反抗的実験の材料を探した。 反抗的実験の結果は、よくみればほぼ例外なく均衡理論に従うとブラックは言う。「私は均衡というレンズを通して世界をみる。 これで道を踏み外したことはそうないと思う」。ブラックにとって、反抗的実験の余地をみつけて均衡理論を強化していくプロセスは、世界の仕組みを学ぶプロセスにほかならなかった。
  • ブラックは自分流のこのやり方を、共同研究者がいても変えようとはしなかった。マイロン・ショールズとは非常にうまくいった。 ショールズも、ブラックとの研究は「理想的なお手本」だったと回想している。 実証研究で突き止めたアノマリーが理論研究を刺激し、理論研究が実証研究を刺激して新たなアノマリーの発見を促す。 このやり方があまりにうまくいったため、後年ブラックが実証研究から離れ、マクロ経済学を変えようと非現実的な試みに没頭したことをショールズは残念がり、あれは多大な損失だったとしきりにぼやいたという。
  • もっとも他の研究者はブラックをなかなか理解できず、ブラックの方もうまくコミュニケーションがとれなかった。学者たちを満足させるためにウェルズ・ファーゴに出す報告書を書き直したことは、ブラックにとっては長年の痛恨事であり、計量経済学の標準的手法に対する反感はいつまでも消えなかった。あんなことは二度とやるまいと固く決心したほどである。ブラックに言わせれば、計量経済学はほとんど統計学であって、経済学はおまけ程度でしかない。「計量経済モデルは主にデータで組み立てられ、理論は二の次三の次だ。しかも、たいていのモデルで線形回帰分析が使われている。データ分析に計量経済学の手法を取り入れた論文はたくさん読んだし発表も聞いたが、ほとんどが失敗に終わっていた。
  • この手の研究では、線形回帰モデルを規定し、データと適合させ、いざ係数を求める段になったとき、大問題が起きる。必ずと言っていいほど、モデルが正しく規定されていないのだ。たとえ正しく規定されたモデルで独立変数が誤差なく計測されていても、今度は検定の問題を抱えることになる。そもそも独立変数は計測に誤差を伴うものだし、ほとんどつねに共線性を示す。そして独立変数の計測誤差は、変数間でみても経時的にみても独立ではない。その結果、推定された係数にはほとんど意味がなくなってしまう」
  • 計量経済学の手法に対するブラックの批判は当時からよく言われていたことで、現在もこの状況は変わっていない。それでも計量経済学の研究者は、ありとあらゆるテクニックを駆使して突き進んでいる。だがそれはブラックの行き方ではなかった。自説を刺激するような「反抗的」な材料を、彼はいつも探している。ただし、すぐに誤りと判明するような経験的データにかかずらわって時間を無駄にはしない。 計量経済学には批判的なブラックだったが、自ら開発したポートフォリオ・テストの有効性は信じていた。もっともポートフォリオ・テストでも、配当性向テストでそうだったように、明快な答えが出ないことの方が多い。しかしそれは問題ではなかった。答えが出ないのは、ブラックにとってはむしろ好ましいことだったのである。不確かな実証データに基づく理論を組み立てて時間を無駄にするよりは、理論の不備や欠点を思い知らされる方がずっとよかった。もう一つブラックの特徴として、高度な統計処理ツールを介さずに直接データを扱うのを好んだことを挙げておこう。理論をテストするときでも係数を推定するときでも、データの山のなかでせっせと新しい知識を掘り起こすのがブラック流だった。
  • こんな具合に方法論の問題は自分のなかで解決済みだったから、ブラックはいつでもどこでも自分のやり方を貫き通す。 二五年後にゴールドマン・サックスでも、最善の運用方法について次のように語っている。「複雑な現象は、ただ観察するだけでは十分ではない。歪んだイールドカーブや説明のつかない株価の動きにはいろいろなヒントが隠されているが、私が知りたいのはもっと大局的なことだ。なぜそうしたパターンが存在していたのか、取引を始める前に知っておきたい。たとえ正しい説明ができないとしても、何も考えずに売買はしたくない。どのような需給不均衡から取引機会が生まれたのか、まず知っておきたいのだ」。ここには、ブラックが学生の頃にクワインから受けた深い影響をみてとることができる。

 

  • ワラント価格の研究が機縁となって、 マートン南カリフォルニア銀行とコンサルティング契約を結ぶことができたが、それ以上の発展はなかった。のちにノーベル委員会に提出した経歴書のなかで、マートンはこのコンサルティング業務を次のように回想している。「皮肉なことだが、南カリフォルニア銀行のために私が開発した『同一シグマリスクに対する同一収益モデル』を連続取引に拡張していれば、ブラック=ショールズ公式にたどりついていたはずだった」。だがそうはならなかった。サミュエルソンと共同でワラントの論文を書き上げると、 マートンの関心は、彼にとってもっと大きくもっと重要な問題に移ってしまったのだ。それは、不確実性の下での異時点間の選択である。マートンはこれを博士論文のテーマにした。
  • マートンは、この問題に連続時間確率過程という数学的アプローチを持ち込んだ最初の経済学者である。このアプローチは、無限小の一瞬一瞬にサイコロを投げてリターンを決めるのと基本的に同じである。 有限期間のリターンは、それがどれほど短い期間であっても、必ずサイコロを投げた結果の合計になる。

 

  • 学術界では、自分の理論を相手に納得させるのは知力を振り絞る競争にほかならない。こうした競争は日常茶飯事だが、オプション価格問題の場合には、議論が迷走しかねなかった。なぜならマートンとショールズが象牙の塔の住人なのに対し、ブラックはよそ者だからである。マートンとショールズには学者としての信認もあったし、大学教授というれっきとした職業にも就いていたし、学者仲間に支持者もいた。だがブラックはそうではない。科学の歴史をみれば、傍流が権威ある主流に負ける例は掃いて捨てるほどある。ブラックにしても、ジャック・トレイナーがCAPM理論を構築しながら、みすみす他人に功を攫われたことは忘れられなかっただろう。だがブラックは、トレイナーの憂き目には遭わずにすんだ。理由の一つは、大きな括りでみれば、ブラックだけでなくショールズもマートンも異分子だったからである。三人はともに、経済学界とファイナンス学界の常識を敵に回したのだった。
  • そもそもファイナンスと名のつくものは、当時の正統派経済学からみれば「外様」だった。ポール・サミュエルソンは自分自身のことをこう語っている。「ファイナンスは私にとって日曜日に絵を描く趣味のようなものだった。日曜画家はプロには相手にされない。レフェリー付きの専門誌に論文を掲載してもらえないから、大勢の人に読んでもらうことすらできない」。ちなみにサミュエルソンがここで言及しているのは、明らかにインダストリアル・マネジメント・レビュー誌に掲載された自分の初期の論文であろう。スティーブン・ロスも、ペンシルバニア大学ウォートン院生だった七〇年に経済学からファイナンスに専攻を切り替えようとしたとき、「ファイナンスなんて、経済学からみれば、医者からみた骨接ぎみたいなもの」だと警告されたという。勇を奮ってファイナンス分野に乗り込んできた研究者たちはこの状況を打開しようとするが、きっかけをつかむのはむずかしかった。この頃、専門誌から掲載を拒否された良質の論文の発表の場となったのは、マイケル・ジェンセンの "Studies in the Theory of Capital Markets" (資本市場理論に関する研究) (一九七二年)である。やがてジャーナル・オブ・フィナンシャル・エコノミクス誌が論文発表の受け皿となるが、ようやく創刊にこぎつけたのは七四年だった。
  • ブラックとショールズを取り巻いていたのは、こうした状況だった。そして研究成果を経済専門誌に発表しようと考えた二人は、経済学界におけるファイナンスの地位の低さを思い知らされることになる。七〇年秋、論文はジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー誌とレビュー・オブ・エコノミクス・アンド・スタティスティックス誌からあっさり拒絶される。どちらの雑誌も、レフェリーに審査を求めようともしなかった。一通り目を通した編集者が、経済学の論文とはいえないから評価に値しないと即断したのである。狭い技術的な問題を扱ったにすぎないと切り捨てられた。
  • 二人はファイナンス専門誌に論文を送ってもよかったはずだが、じつは当時のファイナンス学の分野でも、彼らの研究は異色だった。経済学者がファイナンス学を軽視したのは、科学的な分析の水準が低かったからである。当時のファイナンス学は主に言葉で説明するといった体のもので、現実の世界のデータを収集しても、それを解析してモデル化するのではなく、経験則で分類する手法が大半だった。そんなわけだから、ブラックとショールズがファイナンス誌への投稿を考えなかったのも当然だろう。経済学から生まれたファイナンスの世界で起きつつある革命の一端を、自分たちが担うのだ―二人はそういう意気込みだったから、まず経済学者を屈服させなければならなかった。ここで助け船を出したのが、マートン・ミラーとユージン・ファーマである。ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー誌と交渉し、考え直すよう説得してくれた。
  • なぜミラーとファーマはそんなことをしたのだろう。確かにショールズは門下生である。だが見ず知らずのブラックのために一肌脱いだのはどうしてか。一つには、ブラックはそれほど無名の存在ではなかったからである。 六七年一一月にブラックとトレイナーがシカゴに来てCRSPのセミナーで論文発表をしたとき、二人はブラックに会っていた。さらに六九年八月と七〇年三月にも会う機会があった。六九年には、ニューヨークのロチェスター大学でウェルズ・ファーゴの研究会が開かれ、七○年には、シカゴでバリューライン・インベストメント・サーベイ誌の編集長アーノルド・ベルンハルドが主宰する討論会があったからだ。討論会は「ポートフォリオのアクティブ運用対パッシブ運用」というテーマで、シカゴに呼ばれたブラックはパッシブ側の意見を述べた。このときの主張をまとめたのが "Implications of the Random Walk Hypothesis for Portfolio Management" (ランダム・ウォーク仮説がポートフォリオ管理に及ぼす影響) で、トレイナーが編集長を務めるフィナンシャル・アナリスツ・ジャーナル誌に掲載されたブラックの論文第一号となった。象牙の塔の後ろ盾がなくともブラックは次第に知られた存在となり、シカゴ大学にも何かと関わるようになっていたのである。
  • 事実ジェームズ・ローリーによれば、教授任用委員会でもブラックの名前は急上昇中だったという。そしてついに委員会は決断を下す。ローリーは71-72年度にファイナンスを担当するフォード財団客員教授としてブラックを招くことを提案。ブラックは七一年五月一三日にシカゴに来て面接を受け、その足で長いこと延び延びになっていたハネムーンのためにミミと一緒にインディアナへ飛んだ。五月一九日、学部長がブラックに内定を伝える。そして八月には、ブラック=ショールズの論文が若干の修正を条件に受け付けられた。翌九月、ブラックは家族と一緒にシカゴに引っ越す。自分はよそ者だと思い込んでいたブラックだが、シカゴ大学には強力な支持者がたくさんいたのだった。
  • もっとも、シカゴのブラック支持派はべつに親切でそうしたわけではない。この一派が中心になってシカゴ商品取引所(CBOT)にオプション取引市場を創設する動きがあり、ブラックの研究に目を付ける立派な理由があったのである。CBOTは六九年七月にオプション市場の影響調査をする諮問委員会を発足させているが、その委員長は誰あろう、ジェームズ・ローリーだった。それだけではない。諮問委員会はコンサルティング会社のロバート・ネイサン・アソシエイツに調査を依頼しており、同社は調査報告の作成にローリーとミラーを雇っていたのである。報告書は上下二巻にも及び、"Public Policy Aspects of a Futures-Type Market in Options on Securities" (株式オプションのフューチャー型マーケットに関する公共政策の検討)というタイトルで六九年一一月に提出されている。七一年三月三〇日に証券取引委員会(SEC)に提出された最終報告書の核となったのは、この二巻の報告書だった。
  • 六八年にブラックが研究に着手したときは学術界の異端だったオプション価格問題は、いつの間にか時流に乗っていた。そして、シカゴ大学の経済学者たちはこの機を逃すまいとする。当時はまだ世間にほとんど知られていない代物だったが、彼らだけは、オプションが大化けするとわかっていた。他の大学や研究機関がブラックにようやく関心を抱き始めた頃、シカゴ大学がいちはやくブラック獲得に乗り出したのには、こうした背景があったのである。ブラックがシカゴ大学の教授に就任してほどなく、慎重に検討を終えたSECが新しいオプション取引所の創設を認める。 七一年一〇月一四日のことだった。取引所開設までに準備すべきことはたくさんあったが、障害はもはや何もない。七三年四月二六日、シカゴ・オプション取引所(CBOE)はついにオープン。直後にブラック=ショールズ公式が発表される。ほとんど一夜にして、脇役は主役になっていた。

 

  • ブラックがシカゴ大学に行くことを決めたのは、大学を取り巻く知的雰囲気に惹かれたからである。そして、この期待は裏切られなかった。マートン・ミラーとジェームズ・ローリーによる庇護の下、大学院で教授の地位を確保したブラックは、学内のあちこちで繰り広げられる経済学の議論に首を突っ込む。 ブラックの研究室はローゼンウォルドの三階にあり、両隣はマイロン・ショールズユージン・ファーマだった。ここにいれば、誰にも邪魔されずにもう一つの自分だけの知的世界に浸ることもできる。シカゴ大学では、社会規範に従わないからと制裁を受けることもなく自由な異端者でいられた。ブラックにはそれが至極心地よかった。
  • しかし、うまい話ばかりではない。教える義務は苦痛だった。学生と一対一で研究することにかけては、ブラックほどよい先生はいない。だがそれも、ブラック自身が研究したいと思うようなテーマに限っての話である。学生の側は、ただ単位を取ろうとしてもだめで、問題解決に興味を持たないと厄介なことになる。自分の解決案は先生の代案 (しかも、ブラック以外には誰も思いつかないような奇抜な代案である)よりどこが優れているのか、きちんと弁護できるよう準備していかなければならない。ブラックにとって、学問の世界に生きるとは、新しい発想をすることだった。この思いを共にする人にしか用はない。ブラック先生と議論を戦わせるのは非常に面白いが、論文審査に加わってもらうのはやめた方がいい。あの先生は簡単にはサインしてくれないぞ―そういう噂が飛び交っていたらしい。
  • そんなブラックだから、すでに解決済みの問題を教室で講義するのはひたすら退屈だった。当然ながら、ひどく不出来である。「学生が私の講義につけた評価は最低だった」と本人も認めている。「講義は時間の無駄だと考えていた私にとっても、学生にとっても。すでに本に書かれている内容なら、なおさらだ。そんなわけで、いつも休講にする理由を探していた。あるとき、これまでの試験の見直しをやらせたことがある。これはうまくいった。そこで、学生にやらせることを増やすようにした。最後には、こんなシステムにした。
  • 学期のはじめに、質問のリストと読むべき本や論文のリストを渡す。授業ではそのなかから三つか四つの質問を取り上げて議論し、学生も私も一人ひとり意見を述べる。このやり方は好評だった。私の評価は最低から最高に跳ね上がった。私の下手くそな講義より、学ぶところが多かったのは確かだと思う」。学生はブラックの「五〇の質問」講座をよく覚えている。毎年出される質問は同じだが、答えはいつも違う。こうしてブラックは大嫌いな教育を、大好きな研究と知的な対話にみごとに変身させた。
  • この生活に影を落とすたった一つの暗雲といえば、妻のミミがシカゴを嫌っていたことである。高級住宅街ケニルワースに手のかかる幼い子供二人と取り残され、ボストンの実家に助けてもらうわけにもいかない。一説によると、ミミはボストンの新聞を読み、時計をボストン時間に合わせていたそうだ。フォード財団で教授職を得ることを奨めたのは彼女だが、そんなに長くなるとは予想していなかったし、夫が研究生活にこれほどのめり込むとも思っていなかった。ミミにとってはとんだ誤算だが、家族をほったらかしにせずにあれほどの研究をやり遂げられるものではない。 結婚したとき、夫はコンサルタントで友人もみな同業者だった。ところが教授になってみれば、まわりにいるのもむさくるしい学者ばかり。ミミにしてみれば、少しも望んでいた生活ではなかった。学者の先生たちを呼んでパーティーを開いてみても、事態は一向に好転しない。研究者が研究に没頭するのは当たり前だと誰もが考えており、ケニルワースの瀟洒な邸宅でミミは後悔の日々を送るしかなかった。
  • 実際にはこの結婚は、シカゴかボストンか、教授かビジネスマンか、といった問題では済まされないほど危うくなっていた。アーサー・D・リトル(ADL) にいた頃はまだ平和だったが、その頃でさえミミは、夫が消極的で野心に欠けるのが不満だった。昇給を交渉するよう夫を急き立て、うまくいかないと独立を奨めた。オフィスを手配し秘書を雇ったのもミミである。彼女に言わせると、夫はおそろしく非現実的で出世にも無頓着だから、自分がやらなければどうしようもないという。「フィッシャーときたら、オールが一本しかない救命ボートで漂流しているみたい。全然機転が利かないし、常識も知らないお馬鹿さんなの。それに孤独な人。ホームレスといい勝負よ」。ブラックの父は息子があてもなく人生をふわふわと漂っていると批判したが、その点にミミはまったく同感だった。
  • 事態を一層悪化させたのは、ブラックにはいわゆる野心や出世欲はなかったけれども、学問の場で自分の価値を証明したいという強い願望は持っていたことである。しかもこの方面で成功しても、妻も父も少しも評価しようとしない。ブラックは誰が何と思おうとかまわないといったふうを気取り、ときには本気でそう思うこともあったが、実際には父や妻がどう感じるかをひどく気にしていた。そして、二人とも自分の研究にとんと価値を認めていないことを知って大いに傷つくのだった。ミミは「真夜中に数式をとつぜん殴り書きする変人」だと夫を一言の下に片づける。父親からは「いつになったらまともな職に就くつもりだ」と聞かれる。するとブラックはますます意固地になり、目にものを見せてくれようと決心を新たにする。だがそうなれば、いよいよ家族を放擲して研究に打ち込むことになった。

 

  • 幸いなことに、人的資本としてのブラックはかなりよく「分散化」されていたから、経済学への関心をファイナンスへスイッチすることは造作もなかった。ちなみに、批判派はことあるごとに「ブラックはファイナンスへ帰れ」と言ったものである。同時に彼は、学界好みの抽象論から企業好みの実践論へとスイッチを切り替える。大学を離れてもファイナンスの問題を論じることはできるし、むしろ外の方が自由に意見を戦わせられることを、ブラックは過去の経験からよく知っていた。両親と妻が切望していた成り行きである。
  • 別の言い方をすれば、人的資本としての自分が最高のリターンを上げられる場ではなくなったから、ブラックは大学を去ることにしたのだった。ブラックは自分という人的資本を有効活用し、ファイナンス理論を使ってマクロ経済学に革命を起こそうとした。だが幸運の女神は彼にほほえまず、代わって勝利を収めたのはルーカスだった。市場の判断には従い、コストを払うしかない。ウェルズ・ファーゴでステージコーチ・ファンドのごたごたがあったとき、ブラックは実業界にはまだ自分の理論を受け入れる態勢が整っていないと感じた。実業界を去って研究生活に入ったのはこのためである。しかし、いまや準備が整っているのは実業界の方らしい。そこで、ブラックは再びスイッチを切り替えることにした。

 

  • ゴールドマンの方は、なぜブラックを登用したのだろう。彼のひどく独創的なマクロ経済学に興味を感じたのでないことは確かだ。ファイナンスに関する抜きん出た業績のためでもない――それらはすでに誰でも利用できるようになっていた。ゴールドマンが買ったのは、毎日現場で遭遇する実務的な問題に深い知識と洞察で対応できるブラックの能力だった。ゴールドマンが契約したブラックは、シカゴ大学やMITの終身教授ではない。また、ジャック・トレイナーからファイナンスのイロハを学び、ウェルズ・ファーゴコンサルティングのスキルを磨いた若きブラックでもない。彼らがほしがったブラックは、「フィッシャー・ブラック、オプションを語る」や「フィッシャー・ブラック、マーケットを語る」を書いたブラックだった。 この二種類のニュースレターは、オプション・サービスの加入者向けに、七六ー七七年にブラックが配布したものである。
  • また、目先のことを言えば、もちろんブラックの貨幣理論ではなく、年金基金の投資方針、企業会計理論、資本予算の策定手法が、ゴールドマンにとってはすこぶる魅力的だった。三つの問題はどれも、ブラックがファイナンス畑で働き始めた頃、トレイナーとの会話からヒントを得て研究してきたものである。 学術界では軽くみられがちだが、ゴールドマンでは重要なテーマであり、ブラックのアドバイスはクライアントの問題解決に貢献すると期待された。

 

  • 次に、会計理論に移ろう。この方面についても、やはりジャック・トレイナーが、一九七二年の論文 "The Trouble with Earnings" (企業収益の問題点)のなかで警鐘を鳴らしている。今度の標的になったのは、公認会計士だった。会計士は「投資業界最古の職業」と言われ、科学や工学の類に最も抵抗感が強く、合理的な判断に対して「会計の慣習」を振り回す種族である。トレイナーが問題視したのは、会計士が出す答えのなかで最も重要な「会計上の利益」なるものが「経済上の利益」とほとんど無関係なことだった。 証券アナリスト企業価値を算出するときに必要なのが後者であることは、言うまでもない。
  • トレイナーのみるところ、会計士にとってアナリストの存在は脅威だった。 証券アナリストが繰り出す近代的かつ科学的な企業価値の判定基準は、明らかに会計士の基準より優れているからである。投資家が知りたいのは企業価値であって、会計士が固執する価値の推移ではない。アナリストは合理的だが会計士は形式的であり、共存の余地はなかった。会計士は持っている情報を開示し、慣習的・形式的な会計処理をやめ、あとはアナリストに任せればよいというのがトレイナーの持論だった。
  • ブラックは生涯を通じて企業会計の問題に取り組むことになるが、その出発点はトレイナーにあった。ただしブラックの方は、もう少し会計士を肯定的にみている。新しいファイナンス理論の登場で、会計慣行が大幅な変革を余儀なくされることはまちがいない。ただ、会計士にも重要な役割があることは確かであって、彼らの任務はアナリストのそれとははっきり違うというのがブラックの考えだった。単に情報を開示するだけでは解決にはならない。 アナリストに情報を教えれば、競争相手にも知られてしまうからだ。この意味で、「会計士の仕事は隠すことであって、暴露することではない」。さらに会計士は企業内部の重要情報にも触れるので、アナリストよりも企業価値を正確に評価できる。したがって、アナリストでは会計士の代わりにはならず、むしろ会計士の関心を企業価値の評価に向けさせる方がいいとブラックは考えた。
  • 証券アナリストが何より欲しいのは実態に即した利益を表す数字だということを、ブラックはよくわかっていた。それがわかれば、株価収益率(PER)を掛けるだけで企業価値を計算できるからである。すでに数字を手元に持っている会計士が、アナリストのニーズに配慮し、企業価値の計算に適した形で収益報告をすることは十分可能なはずだ(先例を重んじる会計士たちは、そうした数字が決算期ごとの変化を表すとは頑として言わないかもしれないが)。しかし、実際には時価など実態に即した数値はランダム・ウォークに近く、ちょうど効率的な市場における資産価値のようなふるまいをする。しかも薄価など他の会計データに比べ、市場価値との相関がはるかに高い。会計士はすでに暗黙のうちに利益の形で企業価値を報告しているわけだから、もっとわかりやすい形で報告してくれても悪くないだろう。七六年七月に発表したニュースレターのなかで、ブラックは、会計士は「価値の変化ではなく価値の計測値として」収益データを明示すべきだと述べている。

 

  • 新しいタイプのトレーダーたちは、自分たちのやり方には分析的なサポートが非常に重要であることに気づいていた。リスク・エクスポージャーに対してどの程度のヘッジが必要かを計算するためには、何らかのモデルなり計算式なりが不可欠である。しかしトレーダーたちはまた、抽象的なファイナンス理論が実務で使えるモデルからどれほどかけ離れているかも身に染みて知っていた。
  • 「フィッシャー・ブラックのような人間がいれば助かるのだが」という発想は、おそらくゴールドマンでなければ生まれなかっただろう。この会社では「知性は競争優位である」と認める文化が根づいている。まずは頭脳。次に、それを使ってどうやって儲けるかを考える。もちろん、ブラックの頭脳には文句のつけようがなかった。さて、それを、どう生かすか。
  • フィッシャー・ブラックと雇用契約を結んだとき、二つのことを期待していたとルービンは明かす。一つは、ブラックなら、ファイナンス理論を証券取引のみならず社内のあらゆるビジネスに応用する役割を果たせるだろうということ。ビジネスというビジネスを片っ端から取り上げてなぜ利益が上がるのかを理論的に突き詰め、それを一般化あるいは拡張して、有益なアドバイスをしてくれるに違いない。 ゴールドマンを世界最大の投資銀行に育てたいというルービンの野望にとって、ブラックは打ってつけの人材だった。即効効果が期待できないことはルービンも承知していたが、彼には実りを待つ余裕があった。「われわれはブラックから学ぶ。向こうもわれわれから学ぶだろう」―そう言って、ルービンは気乗り薄の同僚を説得した。
  • ゴールドマンは、クォンツを強化したいと思いながらも、何をどうしたらいいのかよくわかっていなかった。そこでまずブラックを登用し、徐々に陣容を強化していく作戦をとる。 ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント(GSAM)でブラックと数年間を共にしたアラン・シャッハは次のように話す。「フィッシャー・ブラックを看板に掲げてクォンツを募集し、ふるいにかけた。フィッシャーが難色を示した応募者は絶対に採用しなかったし、いいと言えば無条件でとった。彼はそれほど信用されていた」。一旦採用すると、ブラックは新人のためにいつでも時間をとった。まるで「自分をアシスタントとして使ってかまわないよ」と言っているようだったという。「応募者の多くは学究的な研究をするのだと思っていたらしいが、ブラックと話すと、自分たちが行動しなければならないことを理解した」
  • ゴールドマン初のクォンツとして、ブラックは会社のためにさまざまなモデルを開発した。損を出してしまい事後分析のためにブラックに面会する羽目に陥ったトレーダーは、勝負に出る前に会っておけばよかったと後悔の臍をかむのが常だった。また投資案件の交渉担当者は、事前にブラックの歯に衣着せぬ意見を聞いておくことがどれほど大切かをしみじみ感じたものである。 証券取引・投資銀行いずれの業務も、計量ファイナンス理論に基づくブラック流の分析という裏付けを得て投資規律が確立され、それがゴールドマンの文化に根づいていった。まさにルービンが狙った通りの展開である。こんなふうにうまくいったのは、ブラックがいろいろな意味でゴールドマンが掲げる理想の社員像そのものだったからである。 チームワーク、協調、誠実、顧客重視、理性……。それはまた、ブラックがゴールドマンを気に入った理由でもあった。「ゴールドマンはほかの会社とは違う。有能で意欲的な人材であっても、会社のために尽くす気のない人間は雇わない。ゴールドマンはチームワークを発揮させる方法を知り抜いており、成功報酬はチームに公平に配分される。この業界では職業倫理がつねに問われるが、ゴールドマンには顧客の利益を最優先する文化が根づいている。だから、私の考えのように従来の常識から外れた奇抜な意見も、受け容れる余地がある。それに、社員同士がお互いの仕事をレビューする方式が根づいているから、人事管理が公正で透明性が高い」
  • しかしまた別の意味では、ブラックはまったくゴールドマンの社員らしからぬ人間だった。管理職としてはでたらめだし、営業マンとしては最悪である。仲間内の和気藹々とした雰囲気に入っていけず、顧客との付き合いも下手くそだった。放っておけば殻に閉じこもってしまう。ロバート・ルービンのように大局観を備え各人の持ち味を見抜く眼力の持ち主が、彼を殻からひっぱり出し、会社の経営に巻き込まなければならなかった。「深く考える人間が社内にいて、何かに気づき警告してくれるのはとてもいいことだった」とルービンは回想する。
  • そしてマーク・ウィンケルマンは、みごとに一言でブラックを表現したー「ブラックはパズルの名手ですよ。いつも細心の注意を払ってパズルのピースを探している」。ピースをみつけると、ブラックはそれをみんなに見せる。だが、会社にそれを活用するよう促す努力はことさらしない。 使いたい人がいれば使えばいいし、使いたくなければそれはそれでよい。その点にはブラックはおおむね無関心だった。彼は自分の発見を売り込もうとはしないーと言うよりも、できなかった。アイデアを皿に載せて出す。あとはアイデア自身に語らせる。それがブラックのやり方だった。いろいろな意見があって一つだけ正しくあとは全部まちがっているとき、市場なら効率的に選別するとトレイナーは常々言っていたが、たぶんブラックも同意見だったのだろう。いずれにせよ、新しいピースを発見してしまったら、ブラックはオフィスへ戻って別のピース探しに専念する。彼のオフィスには長距離ランナーのポスターが貼ってあり、そこには次のように書かれていた。「勝つのは速いランナーではない。走り続けるランナーである」
  • ゴールドマンは自分の活用方法をあまりわかっていない、とブラックはよく言っていた。彼によれば、もっと適当に任せてくれる方がいいという。たいていの人はこれこれをやればボーナスをはずむなどと言われると俄然やる気を出すものだが、ブラックは報酬で動くタイプではなかった。ジョン・コージンは懐かしく思い出す。 「報酬の交渉をするのに彼ほどやりやすい相手はいなかったよ。要するに全然気にしないんだ」。 マーク・ウィンケルマンも賛成する。「フィッシャーは金銭以外のモノサシを持っていて、終生それを変えることはなかった」

 

  • ブラックの癌が再発したのがわかると、MITの同僚だったジョン・コックス、ゴールドマン・サックスのジョン・コーザイン、当時はヘッジファンドのロングタームキャピタルマネジメント (LTCM)にいたロバート・マートンがそれぞれ慌ただしく動き出す。そして死のわずか一ヶ月前ではあったが、ブラックの偉業を称え記念する企画が相次いで実行に移された。
  • 第一に、MITは金融経済学の客員教授を招くフィッシャー・ブラック基金を用意した。 基金には「この地位を希望する者は、フィッシャー・ブラックの名に恥じない資質を示さなければならない。すなわち独創性、知的好奇心、学術研究への献身、学問に対する誠実さ、現状に挑む勇気が求められる」と定められている。 第二に、アメリカ・ファイナンス学会がフィッシャー・ブラック賞を設けた。第三に、ブラックの学術論文集が出版された。論文集は、研究仲間による次の言葉とともにブラックの元へ届けられている。「この論文集は優れた着想が発展する過程をなぞると同時に、テーマを超えまた時を超えた連続性を探ろうと試みたものです。 さらに、二冊の著書によって提示された著者独自の思考もここから読みとることができるでしょう」
  • ブラックは非常に驚き、そして深く感謝した。「私は基礎研究と応用研究をミックスするのが好きでした。最高に純粋な学問は応用問題を解くところから生まれると考えるからです。 そして最高の応用研究は、ごく単純な知的好奇心に端を発することが多いのです。(中略)この思いがけない贈り物は何物にも代え難い。ほかのどんな賞よりもこれを頂けたことに感謝します。 これを機に、真実を追い求める私の情熱は一段と燃えさかることでしょう」と書き送っている。 ここで言っている「ほかの賞」とは、言うまでもなくノーベル賞のことである。ブラックはオプションに関する研究が受賞候補に挙がっていることを知っていたが、死後には与えられないこともよく承知していた。