最悪の予感

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  • 理屈では、CDCはアメリカの感染症管理システムの頂点に位置する。しかし実際には、社会的権力を持たない人物に政治的リスクを押し付けるシステムと化していた。誰も背負いたがらないリスクと責任を、地域の保健衛生官に背負わせる。保健衛生官はそのためにいるようなものだ。損得勘定でいえば、CDCの姿勢は賢明だと、チャリティも理解していた。保健衛生官が何かしでかせば世間から糾弾されかねないが、何もしなければ非難を受ける恐れは小さい。勤勉な者は罰として解雇される。怠慢な者は、おそらく罪を問われないが、人々を死なせる。保健衛生官の仕事とは、二つの過ちのどちらを犯すかを自分で選ぶに等しい――やりすぎるか、やらなすぎるか? 「わたしは、そんな種類の勇敢さを求めて職に就いたわけではありません」とチャリティは語る。「まったく見込み違いでした。わたしはCDCに向かって『これはあなたたちの仕事でしょ。ちゃんと仕事をして!』と訴え続けました。でも、あのUCSBでの一件のあと、こう肝に銘じました。『助けが来るのを待つのはやめよう。誰も助けてはくれないのだから』
  • 国防総省のためにリチャードが知恵を絞ったのは、ワクチンが製造可能となるまでのあいだ、どうやって伝染病の感染拡大を遅らせるかだった。伝染病は社会的なネットワークを介して広がるのだから、そのネットワークを遮断する方法が必要になる、とリチャードは考えた。最も簡単な方法は、人と人との物理的距離を空けることだ。名付けて「戦略としての、有効なソーシャル・ディスタンス(社会的距離)の拡大」。「ソーシャル・ディスタンス」は、元来、人類学者が親族関係を表わすために使っていた言葉だが、当時のリチャードはそれを知らず、あらたな用語を生み出したつもりだった(「もっとも、ソーシャル・ディスタンシング(Social distancing)というing 形に変化して広まるとは思いも寄りませんでした」とのちに語っている)。
  • いつの日か歴史家が過去を振り返って、「アメリカ人」と自称する奇妙な民族はよくもまあ、こんなやりかたで統制が取れていたものだ、と驚嘆することだろう。アメリカ政府のなかには、小さな箱がたくさんある。何か問題が発生するたび、その問題に対処するため、新しい箱がつくられてきた。たとえば、「食の安全を確保するにはどうしたらいいか」「銀行の倒産を防ぐにはどうすべきか」「テロの防止にはどんな対策が必要か」などだ。それぞれの箱が、特定の問題の
    解決に役立つ知識や才能、専門技能を持った人たちに割り当てられる。時間の経過とともに、その問題を中心とした文化が出来上がり、小箱によって異なる文化が根付く。箱ごとに、独自の硬直した小さな世界になっていく。適応能力が低く、ほかの箱の内部で何が起こっていても関心を示さない。「政府の無駄づかい」を追及する人たちは、ふつう、納税された金がどう使われたかに注目する。しかし本当の無駄は、こうした箱単位の文化にある。ある箱のなかに、別の箱が抱えている問題の解決策が入っているかもしれないし、解決策を見いだせる人材がいるかもしれない。なのに、箱同士は互いの中身を知らないのだ。
  • 感染症の新しい数理モデルは、時間がかかるうえ扱いにくかったが、それでもリチャードにひと筋の希望を与えてくれた。ヘンダーソンをはじめとするCDCの関係者、さらには公衆衛生に携わるほとんどの人が、モデルには何の価値もないと考えていた。けれどもそれはおかしな話で、そういう人々も、じつはモデルを使っているのだ。抽象的な概念にもとづいて、判断を下している。判断材料としてふさわしい抽象概念が、たまたま頭のなかにあったにすぎない。現実世界のエッセンスとして、頭のなかにあるモデルを利用している。ただ、頭脳内のモデルとコンピュータ内のモデルがいちばん大きく違うのは、頭脳内のモデルの場合、存在が曖昧で検証しづらいということだ。コンピュータ内のモデルと同じように、専門家たちは世界についてさまざまな仮定をしているのだが、その仮定は目に見えない。
  • しかも、専門家の頭脳内のモデルには重大な欠陥があるらしいと、日々明らかになってきている。たとえば、プロスポーツの世界。何十年もの間、引退した選手たちが、現役選手と戦略の両方を評価できる専門家として扱われ、誰も疑いを持っていなかった。ところが、データ革命が起こった。数理モデル武装した完全な部外者たちが、専門家のプライドを木っ端みじんに打ち砕いたのだ。プロスポーツの世界では、強い市場原理の働きにより、無知が排斥されていった。疫学の分野にはそこまで強力な仕組みはなく、疫学者が犯したミスによって、チームが負けたり、上司が何千万ドルも損したりするわけではない。けれども、あるバスケットボール選手が試合で、どのくらいの価値を持つか、数理モデルを活かせばより正確な予測ができるのなら、パンデミックにおいてどんな対策がどのくらいの意義を持つか見極める際にも、同様の貢献ができてもおかしくないだろう。
  • そのグラフは、さまざまな戦略方針が感染症に及ぼす影響を示していた。患者を隔離する、患者がいる家庭を隔離する、大人同士のソーシャル・ディスタンスを空ける、抗ウイルス剤を投与する……。どの戦略方針も、多少の効果を発揮していた。しかしどの方法にしろ、たいして大きな効果ではなく、ましてや、増殖率を一未満に下げてパンデミックを食い止めることは不可能だった。ところが、一つの方法だけ、結果がまったく異なっていた。すなわち、学校を閉鎖して子供たちのあいだにソーシャル・ディスタンスを取ると、インフルエンザを模した病気の感染率は激減していくのだ(このモデルが定義する「ソーシャル・ディスタンス」とは、接触をゼロにすることではなく、子供たちの社会的な交流を六〇パーセント減らすことを指す)。「『なんてことだ!』と思わず叫びました」とカーターは言う。「学校を閉鎖しないかぎり、大きな変化は起こりません。ほかの措置とはまるっきり違うんです。なだらかな変化ではなく、がらりと局面が変わる。水温が1℃から0℃になるようなものです。2℃から1℃に下がってもあまり変わりませんが、0℃になると急に凍り始めます」
  • 最終的に解決したいのは、大きな政府機関がどのように資源を配分すべきなのかということだ。毎年、連邦議会は退役軍人省向けに一○○○億ドルを超える予算を計上している。それでも、省内のさまざまな部署が、前年に得た以上の額を欲しがる。しかし、本当のところ誰が頑張っていて、もっと助けを必要としているのか、誰が怠けているのか、上層部が把握する手段がなかった。「結局、上のほうとコネのある者が得をしていました。そんなようすを再三見せられ、わたしは嫌気がさしました」。とくに閉口したのは、自分の効率の悪さを棚に上げて、より多くの資金が必要であるかのように見せかける者がいる一方、少ない資金でやりくりする才能のある者が、結果的にますます少ない資金しか与えられないことだった。「そんなふうでは、自発的に道を切り開こうとする意気込みが削がれてしまいます。実情を正しく把握できるシステムがあればいいのに、と思いました」

 

  • 一月二〇日、テレビニュースで新型コロナウイルスが取り上げられた。これを機に、上司ともっと真っ正面から今回の問題を話し合ってみよう、とチャリティは思い立った。「微妙な加減が難しいのはわかっていました。上司が知らない情報を知っていると態度で示してはいけませんし、上司より先に警鐘を鳴らしてもいけません」。話し合いを始めて間もなく、その加減がうまくいっていないことを察した。終了後、上司であるエンジェルは、チャリティに「パンデミック」という言葉の使用を禁止し、ホワイトボード上の数字や津波の曲線を消すように命じた。「世間の人たちを怯えさせてしまう、と言うんです。わたしはこう答えました。「そうですとも、みんな怯えるべきです』」
  • その日から、チャリティはメールのやりとりから外され、会議の予定を通知されなくなった。「政府機関の内部では、あからさまなやりかたは避けられます。遠回しでなければいけないんです。上司は、何の通知もなしに、すべてからわたしを除外しました。無言のままわたしを完全に排除することで、「これはあなたの領域ではない」と伝えてきたわけです」。一月に入ってからの数週間、チャリティはよく眠れず、食事もまともに喉を通らなかった。「ベッドに横になって、これからどうなるのかを想像していました。どの街が最初に封鎖されるのか? どんな人たちを死なせてしまうのか」。
  • 「わたしは、生まれてこのかた、いつも戦争に備えているような気がします」。いま、敵が攻めてくるのがはっきりと見える。しかし、事態の緊急性を感じているのはチャリティひとりだった。政府内のどこへ目を向けても、チャーチル型とチェンバレン型というリーダーの差を感じずにいられない。平和な時代にリーダーになった人は、往々にして、争いを避ける才能、あるいは、争いを覆い隠す才能を持つ。戦場の指揮官に向いている人は、少なくとも一般市民が存亡の危機を察知するまで、リーダーに選ばれない。しかしそのころには――世間の人々が伝染病についてじゅうぶん知識を得て、恐怖を覚えるころには―戦いの最も重要な局面は終わっているのだ。チャリティは、この瞬間のために、人生をかけて準備してきた。

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