スパイダー・ネットワーク 金融史に残る詐欺事件――LIBORスキャンダルの全内幕

  • 一九九一年、モルガン・スタンレーのロンドン支店に勤めるダグラス・キーナンという若手トレーダーがデリバティブに投資した。価値はLIBORの変動に基づいて算出されていた。そんなある日、市場が予測とは逆に動き、キーナンは疑いを抱いた。誰かがなんらかの方法で、自分のポジションに合わせて商品を操作しているのではないだろうか。キーナン はその話を同僚にしたが、何をいまさらと一笑に付された。各銀行が自らのポジションに合わせてLIBORに手を加えているのは、当時としては常識だった。キーナン以外の全員が事情を把握しているようだった。
  • 銀行がLIBORを押し上げる、あるいは引き下げる理由は複数あった。そのひとつが、各銀行が提出したデータは公開情報で、投資家はその情報を各行の財政の健全性を測る指標にしていたことだった。たとえばある銀行の借り入れコストが急増していた場合、それはその銀行が経営難に陥っている可能性を意味する。でなければ、他行が融資の手数料を増やす理由がないからだ。だから銀行は常に、特に市場が荒れている時期には、提出するデータの数字を低く抑える傾向があった。そしてもうひとつの理由が、各行のトレーダーがある瞬間に扱っている広範なデリバティブポートフォリオの価値を増やせることだ。各銀行の中では、さまざまなトレーダーがさまざまなポジションを取っているから、それがLIBORを上
    下動させる誘因になった。すべてはその直前に、行内のトレーダーがどのような売買をしているかで決まった。
  • シカゴ・マーカンタイル取引所(CME)の歴史は、南北戦争前のアメリカに遡る。そこはトウモロコシと家畜類を将来の決まった期日に、決まった値段で売買する契約を交わす取引の拠点で、役割に合わせて色分けした上着をまとう業者で賑わった。彼らは手振りで意思疎通を図った(それが可能だったのは、コミュニケーションを活発化するため、ピット"と呼ばれるすり鉢状のフロアのまわりに、スタジアムの座席に座るようにして集まっていたからだ)。一九六〇年代になると、"Merc"と業者から親しみを込めて呼ばれていたこの取引所は、豚バラなどの商品の先物取引も扱うようになり、それによって企業と農家は必需品の将来の値段をわかったうえで、長期的な投資や戦略的な判断ができるようになった。

 

  • タイからすると、ファーはまともな人物に見えたし、カジュアルな服装と気さくな態度は見せかけには思えなかった。それでも彼女はフィアンセのブローカーたちについて、基本的には不誠実なおべっか使いの集まりという印象を持っていた。一度、東京の外国人が集まるバーへ出かけたとき、ブローカーの集団から話しかけられたことがあったのだが、そのとき彼らは文字どおり列を成して、彼女に酒をおごり、表敬訪問する順番を辛抱強く待っていた。タイはマフィアのドンの妻になった気分がした。
  • ただ、そうした居心地の悪くなるような振る舞いも、ヘイズにときどきかかされる恥に比べればまだましだった。一度、ハーバート・スミス・フリーヒルズのパートナー弁護士であるタイの上司が、部下たちを集めて自分のアパートでバーベキューを主催したことがあった。タイとヘイズも、高級ワイン二本を土産にはせ参じた。ヘイズはそのワインを飲むのを楽しみにしていたのだが、上司は渡したワインをすでにボトルでいっぱいのワイン棚に収めてしまった。それからふたりを小さなバーカウンターへ連れていき、すでに栓の開いた別のワインを勧めた。結婚式に向け、ワインについて全力で情報収集を進めていたヘイズには、それが自分たちの買ってきたものよりずっと安物なのがわかった。ヘイズはタイの上司のすぐそばで、高級ワインをもらっておきながら安いのを出すのはおかしいとのたまった。恥ずかしくなったタイは口を閉じてとヘイズ に言った。そのあと、ヘイズは中庭をぶらつき、東京のアパートではめったに味わえない贅沢を楽しんだ。グリルで肉を焼いていたタイの上司が、本当に楽しいバーベキューになったと声をかけてきた。ヘイズはこう答えた。その気持ちはわかりますよ、安いワインと食べ物を出してチームの士気を上げられたんだから、今回のバーベキューはいい投資になったってことですよね。近くに立っていたタイはうめき声を漏らした。

 

  • ヘイズがUBSのチューリッヒ本店を訪れるのははじめてで、そしてそこに息づくまったく別の文化は衝撃だった。周囲の牧歌的な雰囲気もそうだし、昼食を取った豪華な内部食堂では、ウェイターがワイン付きのコース料理を提供していた。そこだけ時代がずれているかのように、ただでワインやブランデーが付いてくる本格料理をじっくり腰を落ち着けて堪能する会員制クラブめいた文化が深く根付いていた。 ランチといえばデスクで慌てて掻き込むのが当たり前で、そもそも食べないこともあるヘイズには驚きだった。しかも当時は金融危機の直後で、銀行が資金繰りに苦労していた時期だったのだ(しかもUBSは、ヘイズの東京の部屋代を払うのをやめようとしていたから、贅沢への不快感はいっそう強まった)。また、おそらくダクロットやダリンのチームとの関係が冷え切っていたことが原因で、チューリッヒのトレーダーからはさげすみの目で見られた。八月の終わりに東京へ戻ったヘイズは、スターじゃなくてのけ者扱いされているとタイにこぼし、それから数日間、ずっとUBSに尽くしてきたのに会社のほうは自分を尊重していないと文句を言い続けた。
  • 半年後(学問の世界ではかなり早いほうだ)、数え切れないほどの徹夜の日々と、焦るバジャーリからの厳しい突き上げを乗り越え、ふたりは論文の草稿を完成させた。三○ページで、文末には何ページ分かの図表も添付された論文のタイトルは「LIBORは銀行の借り入れコストを反映しているか」。ふたりはLIBORの操作の目的は低く見せることだという、『ウォール・ストリート・ジャーナル』からCFT
    Cまでに共通する意見を採り上げつつ、さらにこう綴った。自分たちの研究では「もっと根本的な理由、たとえば各銀行のポートフォリオLIBORの影響を受けやすいことなどが誘因となり、彼らが自分たちのポジションに応じてLIBORを動かしていることを指摘する」と。ところが専門的な表現を使っているせいで、論文は発見のインパクトをうまく伝えることができていなかった。
  • ふたりは論文をいくつもの学術誌に持ち込んだ。とりわけ権威ある『ジャーナル・オブ・ファイナンス』誌の編集者も、論文を不採用とした。「くだらない」と編集者は一蹴した。「仮にこれが真実だとして、いったい誰が気にするんだ?」
    採用する雑誌はひとつも現れなかった。