フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔

  • ある日曜日の午後、一一歳のノイマンと一緒に散歩をしていた一二歳のウィグナーは、ノイマンから「群論」を教えてもらったという。ウィグナーは、後にノーベル物理学賞を受賞することから推測できるように、幼少期から数学も抜群に優秀だったが、群論はまったく未知の概念だった。その当時、ノイマンの数学はすでに大学院レベルに達していた。
  • この頃、ウィグナーが「おもしろい定理があるんだけど、証明できるかな?」とノイマンに尋ねたことがあった。それはウィグナーには証明できない「数論」の難解な定理だった。彼は、いくらノイマンでも、容易に証明できるはずがないと思って尋ねたのである。
  • するとノイマンは、「この定理を知っている? 知らないか……。あの定理はどうか
    な?」と、さまざまな数論の基本的な定理を挙げて、ウィグナーがすでに知っている定理をリストアップした。そして、それらの定理だけを補助定理として用いて、遠回りしながらではあるが、結果的にその難解な定理を証明してみせたのである。さらにノイマンは、ウィグナーの知らなかった別の適切な補助定理を用いれば、もっと簡潔に証明できることも説明してみせた。
  • 自分が難解だと思っていた証明をノイマンが いとも簡単に導いたのを目のあたりにしたばかりか、自分の知識からだけでも証明できたことを思い知らされたウィグナーは、大変なショックを受けた。この日以来、彼はノイマンに「劣等感」を抱くようになった。

 

  • 一九四一年八月には、実際に逮捕された経歴もある。当時二八歳のエルデシュは、プリンストン大学大学院に留学中だった二九歳の角谷静夫と二二歳の学生と一緒にシカゴの学会に車で向かう途中、「立入禁止」の立札を見過ごして、レーダー基地のあるロングアイランドの海岸線に出てしまった。そこで呑気に記念撮影していた三人が「スパイ」ではないかと疑われ、FBIに誤認逮捕されてしまったわけである。
  • エルデシュは、ある定理の証明についてノイマンに話したことがあった。ノイマンは、あまり興味を感じていないようだったが、それでも紳士的に最後まで話を聞き終えて、「その証明は何かがおかしいね」と言って立ち去った。
  • エルデシュが証明を再検討したところ、たしかにノイマンの指摘が正しいことに気付いた。彼は「理解力の速度という意味で、フォン・ノイマンは尋常ではなかった」と述べている。エルデシュは、ノイマンのことを「出会った中で最も優秀な人物」と評価し続けた。
  • ェルデシュが最後にノイマンと接点を持ったのは、一九五一年のことである。この年、エルデシュは、過去六年間に発表された最も優れた数学論文の著者に授与される「コール賞」を受賞した。この賞を授与したのが、当時「アメリカ数学会会長」になっていたノイマンだった。

 

  • ワイル教授が出張に出掛けた学期には、大学院生としての資格で、ノイマンが代理で同級生に講義したこともあった。
  • ポリア教授は、当時のノイマンについて、次のように述べている。
  • 「彼は、私を怯えさせた唯一の学生でした。とにかく頭の回転が速かった。私は、チューリッヒで最上級の学生のためにセミナーを開いていましたが、彼は下級生なのに、その授業を受講していました。ある未解決の定理に達したとき、私が『この定理は、まだ証明されていない。これを証明するのは、かなり難しいだろう』と言いました。その五分後、フォン・ノイマンが手を挙げました。当てると、彼は黒板に行って、その定理の証明を書きました。その後、私は、フォン・ノイマンに恐怖を抱くようになりました!」
  • 一九二五年八月、ノイマンスイス連邦工科大学チューリッヒ校を卒業し、応用化学の学士号を取得した。
  • さらに、この年の『数学雑誌』に掲載された「集合論の公理化」は、ブダペスト大学大学院数学科の学位論文として認められた。ノイマンは、一九二六年に実施された最終口頭試問でも最高評価を得て、博士号を取得した。
  • つまり、二二歳のノイマンは、大学を卒業すると同時に大学院博士課程を修了し、博士論文も完成させて、前代未聞の「学士・博士」となったわけである。

 

  • 代数学の第一人者として知られるハーバード大学のラウル・ボット教授が、プリンストン高等研究所の研究員だった時代の思い出を述べている。パーティの席で、ボットは酔った勢いで、ノイマンに「偉大な数学者であるということは、どういうお気持ちなんですか」と尋ねた。ノイマンは答えた。「『偉大な数学者』だったら、一人しか知らない。ダフィット・ヒルベルトだよ!」

 

ハイゼンベルクシュレーディンガー

 

  • もしノイマンが一九二〇年代に「ゲーム理論」を追究して、より高度な成果を導いていれば、後にノーベル経済学賞を受賞した可能性も高かっただろう。しかし、若き天才ノイマンの興味は、一分野に留まることがなかった。
  • ノイマンは、量子力学であろうと数理経済学であろうと、 いかなる分野であろうと、既存の概念や偏見に左右されずに、新たな視点から数理モデルを定式化して、効率的な成果を導くための筋道を切り開き、長年の未解決問題でさえ、あっさりと解 い てしまうという離れ業を得意にしていた。
  • ただし、その「開拓」を終えると、すぐに興味を失ってしまう。彼は、睡眠時間を四時間と定め、残りの二〇時間を「楽しいことに使う」と決めていた。その「楽しいこと」の大部分は「考えること」であり、残りが、一流レストランで美食を楽しみ、ベルリンのキャバレーで飲むことだった。
  • 後にノイマンと共に「マンハッタン計画」を推進し、原子核反応理論でノーベル物理学賞を受賞するコーネル大学のハンス・ベーテは、次のように学会発表を点数付けしていた。
  • 「母親にわかる話が一点。女房にわかる話が二点。私にわかる話が七点。発表者とノイマンだけにわかる話が八点。発表者にもわからないがノイマンだけにわかる話が九点。ノイマンにもわからない話が一〇点だが、そんな話は滅多にないね」

 

  • ノイマンが一一月二九日付でゲーデルに送った手紙は、すでにゲーデルが第二不完全性定理を証明していることが明白であり、「もちろん私は、この結果を発表するつもりはあり りません」と記されている。が、その行間からは、ノイマンの大きな「失望」を読み取ることができる。
  • 当時「ヒルベルト学派の旗手」と呼ばれていたノイマンは、「ヒルベルト・プログラム」に基づいて「数論の完全性」を導くためのセミナーをベルリン大学で担当していたが、そのセミナーも打ち切られることになった。
  • このクラスにいたプリンストン大学の論理学者カール・ヘンペルは、次のように述べている。
  • 「ある日授業に来たノイマンが、突然、『ヒルベルト・プログラム』は達成不可能だと言った。彼は、それを証明したウィーン の若い論理学者の論文を受け取ったばかりだった」
  • ノイマンのように生まれてから一度も人に先を越されたことがない 天才にとって、自分が推進しようとしていた「ヒルベルト・プログラム」が「達成不可能」だと論理的に証明されたこと、しかもその事実に自分が先に気付かなかったことは、二重のショックだったに違いない。
  • この経験は、少年時代のウィグナーがノイマンに抱いた「劣等感」よりも、さらに深いダメージをノイマンに与えたかもしれない。
  • その後、ノイマンは、この分野の第一人者の地位をゲーデルに譲り、二度と数学基礎論に関する論文を発表しなかった。

 

  • ノイマンとウィグナーは、「人間の意識が量子論的状態を収束させる」という「ノイマン・ウィグナー理論」を提起したのである。
  • この理論によれば、最初に箱を開けたシュレーディンガーが猫の生死を「意識」した瞬間に、量子論的状態は収束し、無限連鎖のパラドックスは消滅する。とはいえ、当然のことながら、その「意識」とは何かという新たな疑問が生じる。
  • ノイマンは、それ以上は、量子論の解釈論争に深入りしなかった。そもそも「観測」を「意識」で定義するという理論についても、彼はウィグナーと共にセミナーの際に口頭で述べただけで、論文では一度も正式に触れていない。
  • この事例にも表れているように、ノイマンは、物理現象の解釈問題や、哲学的信念を伴うような論争には、基本的に立ち入らなかった。後に詳細を述べるが、彼は徹底した「経験主義者」であり、観念論争を嫌っていたのである。
  • ノイマンは、感情的な人間とも議論しなかったが、それは言い争っても時間の無駄と考えていたからだろう。彼は、パーティでもゲストが議論を始めそうになると、すぐにジョークで巧みに話題を逸らすというホスト役を務めていた。

 

  • ある日、一八世紀末から未解決の難問とされていた「中心極限定理」のことを考えているうちに、チューリングは、その定理を証明してしまったのである。
  • 実は、この「中心極限定理」は、すでに一九二二年にフィンランドヘルシンキ大学講師イヤール・リンデベルグが証明していたのだが、ニューマンとチューリングは、そのことを知らなかった。
  • いずれにしても、確率論の超難問を大学生が証明したとは驚愕だった。 この成果のおかげで、チューリングは、二二歳の若さでキングズ・カレッジ の「フェロー」に選出された。

 

  • チューリングの博士論文「序数に基づく論理システム」は、一九三八年五月に受理された。この論文は、「チューリング・マシン」における「計算不可能性」の限界を超えた「オラクルマシン」(神託機械)を想定する数学的に難解な内容である。そのイメージの中には、現代の「オンライン・ネットワーク」を予見するような一面もあった。
  • ノイマンは、チューリングの論文を非常に高く評価して、年俸一五○○ドルでプリンストン高等研究所の彼の助手にならないかと誘った。当時、ノイマンの助手になることは、研究者としての前途が約束される名誉ある就職だった。
  • チューリングは、かなり悩んだが、結果的にイギリスに帰国する道を選んだ。祖国イギリスへの「愛国心」のためだったと説明する伝記が多いが、同時に、彼が「アメリカ嫌い」で、環境に適応できなかったことも大きな理由の一つだろう。
    もしチューリングノイマンと一緒にアメリカでコンピュータを開発していたら、コンピュータは異次元の進化を遂げていただろう。しかし、その反面、ドイツ軍の暗号は解読されず、第二次大戦の行方が大きく変わっていたかもしれない。

 

  • ノイマンが誰よりも高く評価していたゲーデルは、集合や概念などの「数学的対象」が「人間の定義と構成から独立して存在する」こと、そして、そのような実在的対象を仮定するととは、「物理的実在を仮定することと、まったく同様に正当であり、それらの実在を信じさせるだけの十分な根拠がある」と信じていた。
  • ところが、ノイマンは、ゲーデルの「数学的実在論」に真正面から対立して、「あらゆる人間の経験から切り離したところに、数学的厳密性という絶対的な概念が不動の前提として存在するとは、とても考えられない」と断言している。ノイマンは、数学は、あくまで人間の経験と切り離せないという「数学的経験論」を主張しているわけである。
  • さらにノイマンは、数学が「審美主義的になればなるほど、ますます純粋に『芸術のための芸術』に陥らざるをえない」と皮肉を述べ、「結果的にあまり重要でない無意味な領域に枝分かれし、重箱の隅のような些事と煩雑さの集積に陥るようであれば、それは大きな危険と言えます」と警告する。
  • ノイマンの講演は、実に簡潔明瞭で、文学的にも洗練された印象を受ける。たとえば「何事も始まるとき、その様式は古典的です。それがバロック様式になってくると、危険信号が灯されるのです」という言葉は、ノイマンのように幅広い教養がなければ発することのできないものだろう。
  • 要するに、ノイマンは、「純粋数学」の限界を見極めて、「応用数学」の重要性に目を向けるべきだと主張しているわけである。「経験的な起源から遠く離れて『抽象的』な近親交配が長く続けば続くほど、数学という学問分野は堕落する危険性がある」というのが、ノイマンが未来の「数学」に強く抱いていた危機感だったのである。

 

  • ノイマンには、さまざまな職場で秘書のスカートの中を覗き込む「癖」があった。そのため、机の前を段ボールで目張りする秘書もいたほどだという。
  • 彼の助手を務めたスタニスワフ・ウラムによれば、ノイマンは、スカートをはいた女性が通ると、放心したような表情でその姿を振り返って見つめるのが常であり、それは、誰の目にも明らかな彼特有の「癖」だったと述べている。
  • 常に頭脳を全力回転させていたノイマンの奇妙な「癖」は、彼の脳内に生じた唯一の「バグ」だったのかもしれない。