ウォール街の物理学者

  • 物理学と数学の世界で彼が扱うのは、複雑な幾何学図形の分類に関するきわめて抽象的な問題だ。とくに数字や計算をやっているわけではない(それくらい高度に抽象化された領域になってくると、学校で習うような数学とは似ても似つかないものになってくるのだ)。
  • どこからどう見ても、彼はヘッジファンドのマネジャーになって荒稼ぎするタイプには見えない。
  • ところがシモンズはルネサンス・テクノロジーズというヘッジファンド運用会社を立ち上げ、 桁外れの成功を手に入れている。
  • 一九八八年、彼は数学者のジェイムズ・アックスと組んで、ルネサンス・テクノロジーズの主力ファンド「メダリオン」を立ち上げた。このメダリオンという名は、アックスとシモンズがそれぞれ六〇年代と七〇年代に受賞した名誉ある数学の賞に由来している。それからの一〇年で、 メダリオンは二四七八・六%という驚異の収益率を叩きだした。世界中のどんなヘッジファンドにもそんな数字はだせない。 メダリオンについで二位につけていたジョージ・ソロスのクォンタム・ファンドですら、この期間の総リターンはわずか一七一〇・一%だ。
  • その後も勢いは止まらなかった。創業から現在までのあいだ、 メダリオンは年平均で四○%近いリターンを維持している。しかも業界水準の二倍の報酬を払ったあとで、その数字なのだ(ちなみにウォーレン・バフェット率いるバークシャー・ハサウェイでも、一九六七年から二〇一〇年までの年平均リターンは二〇%程度)。
  • いまやシモンズは、世界でも有数の大金持ちになった。 フォーブズ誌の世界長者番付によると、二〇一一年時点で彼の資産は一〇六億ドル相当だと言われている。 シモンズの預金口座には、ちょっとした投資会社並みの資金が入っているはずだ。
  • シモンズ率いるルネサンス・テクノロジーズの従業員はおよそ二〇〇人で、そのほとんどがニューヨーク州ロングアイランドにある要塞のような本社に勤務している。 従業員の三分の一が、博士号の所持者だ。 しかも経済や金融ではなく、シモンズと同じく物理学や数学、統計などの分野を学んできた人間ばかり。 マサチューセッツ工科大学の数学科教授イサドール・シンガーによると、ルネサンスには世界中のどんな大学よりも優秀な物理学者や数学者が集まっているという。それこそが、ルネサンスの強さの秘密なのだ。
  • ルネサンスは、ウォール街の匂いがする人間をけっして雇わない。ファイナンス専攻の人間は門前払いだし、投資会社やヘッジファンドに勤めた経験のある人間もお断りだ。金融の専門家をあえて避けるというのが、シモンズの戦略だった。
  • この戦略は大成功した。 シモンズのような人間は本来存在してはならない、と金融の専門家たちは言う。理論的に言えば、シモンズのやったことは不可能なはずだった。
  • 彼は予測不可能なものを予測し、それによって莫大な富を築いたのだ。

 

  • 株の収益率と値動きは、数学的にいえば「対数」という関係にある。 仮に収益率が正規分布になるとしたら、株価の分布は対数正規分布という分布になる。 対数正規分布のグラフは変わった形をしていて、片方だけに長い尾を引いた山のようになる(図2を参照)。 オズボーンが株価のデータで発見したのは、ちょうどこの形だった。つまり株価の分布は正規分布ではなく、対数正規分布になっていたのだ。ということは、ランダムウォークの動きをするのは株価ではなく、収益率のほうだと考えられる。

 

  • オズボーンのアイデアは、やがて別の研究者たちの手でさらに改善され、金融の世界に革命を起こすことになる。でもオズボーンの直接的な影響については、過大評価するわけにはいかない。当時のウォール街の反響は、それほど大きなものではなかった。時代はまだ過渡期にあった。 オズボーンの論文は学者たちには広く読まれていたし、理論派の投資家のなかにも読んでくれる人はいた。しかしウォール街はまだ、オズボーンの説を全面的に受け入れる準備ができていなかったのだ。
  • 彼の理論が受け入れられなかった理由のひとつは、個々の株価を予測することは不可能だということがはっきりと示されていたからだった。 バシュリエとちがって、オズボーンはオプションについて論じなかった。 オプションであれば、統計的性質を使って適正な価格を導きだすことができる。 でも 「株式市場のブラウン運動」やその後のオズボーンの著作が示していたのは、株式市場で利益をだすことなんか不可能だという、希望のない結論だった。株価は予測不能であり、平均的な利益はゼロになる。投資は結局、勝ち目のない戦いだ。
  • やがて人びとは、オズボーンの研究からもっと明るい結論を導きだすことになる。株価の性質がランダムなら、バシュリエが言ったように、オプションなどのデリバティブの価格を統計的に予測できるからだ。でもオズボーンは、その方向に進もうとはしなかった(一九七〇年代後半になり、ほかの人たちがその種の研究に着手しはじめてから、ようやく手をだした程度だ)。オズボーンがめざしていたのは、別の方向だった。彼はその後のキャリアの大半を、株価のランダムでない性質をみつけだすことに費やした。株価の動きが「救いようのない混乱」であるという大胆な主張を押し通した末に、彼は徹底した綿密さで、株価の秩序と規則性を追い求めたのだった。

M. F. M. Osborne - Author Profile - zbMATH Open

 

  • ある日、ブノワはシューレムの研究室に居座って、ひどくばかげた博士論文のアイデアを語っていた。シューレムは完全に頭にきた。ゴミ箱に手を伸ばすと、くしゃくしゃに捨てられていた紙を引っぱりだした。 ゴミみたいな研究がやりたいなら、いくらでも紹介してやる。研究室のゴミ箱には、誰かのゴミみたいな論文がぎっしりとつまっているのだ。
  • 「これでも読んでいろ」とシューレムは吐き捨てるように言った。「おまえにはこういうのがお似合いだ」
  • シューレムは甥を反省させるつもりだったにちがいない。 ところが彼の行動は、完全に裏目にでた。 ブノワはその文章――ジョージ・キングズリー・ジップというハーバードの言語学者の著書が紹介されていた――を受けとると、帰り道でそれを熟読した。 ジップは誰もが認める変人で、その研究もほとんど真面目に受けとられていなかった。彼はそのキャリアを通じて、物理・社会・言語に共通する普遍的法則を追究していた。「ジップの法則」と呼ばれるものだ。
  • ジップの法則によると、何らかのカテゴリーにもとづくリストを洗いだし(たとえばフランスの都市や、世界中の図書館など)、それを大きい順(人口の多い順や、蔵書数の多い順)に並べると、かならずリストの順位とその要素のサイズがきれいにリンクする。二番目に大きいものは一番目に大きいものの二分の一のサイズになり、三番目に大きいものは一番目に大きいものの三分の一のサイズになる、といった具合だ。 ブノワが読んだ書評には、ジップの法則を文章中の単語に当てはめた例が紹介されていた。ジップはさまざまな文章にでてくる単語の数をすべて数えて、それを多くでてくる順に並べた。その結果、一番多くでてくる単語が二番目の単語より二倍多く使われていた。三番目の単語にくらべると三倍、四番目の単語にくらべると四倍といった具合だ。どんな文章を見てもそうだった。
  • シューレムはある意味で正しかった。ジップの法則は、まさにブノワが気に入るようなテーマだったからだ。でもジップの法則をゴミだと考えたのは、まちがいだった。 少なくとも、全部がゴミではなかった。たしかにジップは変人だったし、ジップの法則は推測と神秘思考を組みあわせたようなものだった。でもそこには、貴重なヒントが隠されていた。
  • ジップはある単語の出現順と、文章中に何種類の単語が出現するかをもとにして、その単語の出現回数を計算する公式を編みだしていた。 ブノワ・マンデルブロはそれを見ると、すぐにもっと改良できそうだと気がついた。どうやら、この公式には意外におもしろい数学的性質がひそんでいるようだった。彼は叔父をはじめとする最高峰の数学者たちの反対を押しきって、ジップの法則についての博士論文を書きあげた。 誰かに指導教官になってもらうこともなく、官僚的な大学組織のなかを独力で突き進んで論文を受理してもらった。きわめて異例のことだった。
  • ブノワ・マンデルプロのキャリアは、異例のことだらけだった。数学者のコミュニティを毛嫌いしていたし、研究テーマは奇抜なものばかりだった。たとえば世の中の大多数の数学者は、「なめらかな」 図形を扱うのが好きだった。粘土でささっとつくれるような形だ。
  • でもマンデルプロは、ジグザグで不完全な図形に注目した。でこぼこした山や、割れたガラスのような形だ。こういう形をもとに、彼は有名な「フラクタル」という概念を考えだした。フラクタルの研究を進めるうちに、彼は自然界にたくさんのランダムさが存在することに気づいた。コイン投げよりもずっと激しいランダムさだ。この発見は、やがて金融を含めたあらゆる数理科学に大きな影響を与えていくことになる。

 

  • マンデルブロは大学の世界から離れていたけれど、IBMでの所得分布の研究は、アカデミックな経済学者からも注目された。 ときどき大学に招かれて講演をするようにもなった。一九六一年、いつものように講演にでかけたマンデルブロは、そこで人生を変える出会いを経験することになる。
  • 講演はハーバード大学経済学部でおこなわれることになっていた。開始時間のすこし前に、マンデルブロハーバード大学教授のヘンドリック・ハウタッカーという経済学者と知りあった。ハウタッカーの研究室に入った瞬間、マンデルブロは黒板に描かれたグラフに目をとめた。マンデルプロが講演で使おうとしていたグラフと瓜二つだった。パレートの法則を示したグラフだ。 ハウタッカーが所得分布に興味をもっているのだと思ったマンデルブロは、同じ分野を研究しているなんて偶然ですね、といったようなことを口にした。 ハウタッカーはぽかんとした顔でマンデルブロを見た。
  • いくつかの気まずいやりとりのあと、マンデルブロは何かがおかしいと気づいた。彼は黒板のところへ行き、グラフを指さした。 「所得分布のグラフですよね?」ハウタッカーは当惑した顔で、それは大学院生が描いていった図で、綿花の値動きについて話していたときのものだと言った。黒板に描かれていたのは、綿花取引の一日のリターンを表すグラフだった。
  • ハウタッカーはさらに、綿花のマーケットについてしばらく前から研究しているけれども、データが理論と一致しないのだと語った。そのころすでに、バシュリエの理論は経済学の世界で有名になり、市場がランダムウォークで動くという考え方も広く受け入れられていた。
  • ハウタッカーはバシュリエやオズボーンが言ったようなランダムウォークの性質を、実際のデータで検証してみようと思った。もしもランダムウォーク仮説が正しければ、一日や週や月単位で見たときの綿花の値動きは一定の小刻みな幅になり、いきなり大きく動くことはほとんどないはずだ。ところがハウタッカーの調べたデータは、別のことを示していた。あまりにも小さな値動きや、あまりにも大きな値動きが多すぎた。 しかもバシュリエの仮説が前提としていたような、平均的な変化というものがみつからなかった。新しいデータをとるたびに、平均値はがらりと変わってしまった。要するに綿花の値段は、酔っぱらった銃殺隊に似た動きをしていたのだ。
  • マンデルブロは目を輝かせた。もっと詳しいデータが見たいと言うと、ハウタッカーはすぐに快諾してくれた。それどころか、全部もっていってもかまわないと言ってくれた。どうせプロジェクトをあきらめようと思っていたところだったのだ。

 

  • 当時の人びとがシンプルな統計学を使いつづけたのは不自然なことではない。 マンデルブロと初期の仲間たちが立ち上げたフラクタルや自己相似の考え方は、ちょっと新しすぎたのだ。こういう場合の暗黙の前提として、研究者たちはなるべくシンプルな仮説からはじめようとする。そのシンプルな仮説を行けるところまで進めてみて、それからどこがまちがっているのかを振り返るのだ。このケースで言えば、まず株価が(ある程度) ランダムに動くという仮説がでてきた。次のステップは、できるだけシンプルな形でその考えを先に進めていくことだ。それがバシュリエのランダムウォーク仮説だった。それからオズポーンが登場し、この仮説が正しくないことを指摘した。 バシュリエのモデルが正しいとすると、株価がマイナスになってしまうからだ。 オズボーンはバシュリエのモデルをほんのす
    こしだけ修正し、株価ではなく収益率がランダムウォークになっているという仮説を打ち立てた。そしてこの説のほうが、バシュリエのモデルよりもうまくデータと一致することを実証した。
  • ここでマンデルブロが登場し、オズボーンの説にも欠点があることを指摘する。 値動きのデータを詳しく調べると、オズボーンが言うのとはちがったパターンが見えてくるからだ。といっても、別物というわけではない。価格の動きはたしかにランダムだったけれど、 そのランダムさがオズボーンの想定とはすこしちがっていたのだ。
  • オズボーンとマンデルブロのモデルは相容れないように見えるが、それが目立ってくるのは異常な状況のときだけだ。とくに大きなできごとが起こらないふつうの日であれば、二つのモデルはほとんど同じように機能する。
  • のちの経済学者たちがデリバティブの価格やポートフォリオのリスクを割りだそうとしたときも、この二つの選択肢に直面することになった。 わずかな例外を除けば正しく動くシンプルなモデルと、例外的な事態にも対処できる複雑なモデルだ。 人びとがシンプルなほうを選んだのは、理にかなった選択だった。 まずは扱いやすいほうを試してみて、どう動くかをたしかめるのだ。 前提をうまく立てて、効果的な形でものごとを単純化すれば、とても難解な問いをいとも簡単に解くことができる。 細かいところはまちがっているかもしれないけれど、十分に実用的な答えがでてくるはずだ。もちろん、前提が完璧でないことは最初からわかっている (市場は効率的に動くとはかぎらないし、株価はシンプルなランダムウォークにはならない)。 でもとにかく、足がかりは得られるわけだ。
  • ちなみに、マンデルブロの論文が学者たちから無視されたというのも、一面的すぎる考え方だ。たしかにほとんどの経済学者は、マンデルブロではなくオズボーンの論文をもとにして金融の研究を進めていった。 でも一部のコアな数学者や経済学者は、マンデルブロの説に本気でとりくんでいた。 非常に詳細なデータを使い、より高度な数学を駆使してマンデルブロの説を追究していった。 世界が激しくランダムだとしたらどうなるのかを理解するために、新たな数式がいくつも考案された。そうした研究の結果、 マンデルブロの基本的な考え方は正しかったことが確認された。正規分布や対数正規分布だけでは、市場の動きは理解できな
    いということだ。 株の収益率は実際に、ファットテールになっていた。
  • ただし、マンデルブロが完全に正しかったわけではない。彼は一九六三年の論文のなかで、レヴィ安定分布という特定の確率分布をもちだした。 正規分布の場合をのぞいて、レヴィ安定分布のばらつきはどこまでも広がっていく。つまりふつうの統計手法では、期待値を割りだすことができないということだ(これまでの統計手法が用済みになってしまうとクートナーが言ったのも、そういう意味だ)。ところが最近の研究によると、マンデルブロのこの主張はどうやらまちがっていたらしい。たしかに収益率はファットテール分布になるが、レヴィ安定分布にはならないのだ。 これがマンデルブロの論文から五〇年近く経った現在の一般的な見方になっている。
  • 仮にそうだとすると、通常の統計手法を使って市場を理解することは可能だということになる。正規分布や対数正規分布ほど単純ではないにしても、ふつうの統計で理解できないほど複雑ではないということだ。ただし、そう断言できるわけでもない。 マンデルブロの説が正しいかどうかを判断できるのは、例外的な状況においてだけだ。そしてもちろん、例外的な状況のデータというのはどこにでも落ちているわけではない。単純にデータの数が足りないのだ。そうした数少ないデータをどう解釈すべきかについては、いまも論争がつづいている。
  • こういう事情もあって、マンデルブロの功績を正しく評価することはなかなか難しい。

 

  • 空売りの悪いイメージにもかかわらず、ソープは取引に応じてくれる人間をうまくみつけることができた。とりあえずケリー基準を試してみる最初の条件は整ったわけだ。だがソープにとって、世間のイメージよりもずっと大きな問題は、どこまで行くかわからない損失の可能性をどうするかだった。
  • ソープは悩んだあげく、画期的なアイデアを思いついた。ワラントの価格は、株価の動きと結びついている。だからワラント空売りすると同時に、その元になっている株をいくらか買っておけば、ワラントが高騰したときの損失を抑えることができるはずだった。 計算結果によると、ワラントの価格が上がれば株の価格も上がるからだ。株を高く売ることができるなら、ワラントが値上がりしても怖くない。さらにワラントと株のバランスをうまくとれば、株価がどんなに動いても、いくらかの利益がかならず手に入ることもわかった。
  • これがのちに「デルタヘッジ」として有名になるやり方だ。さらにこのやり方から、さまざまな転換証券(オプションのように、債券や株式など別種の証券と交換できる証券のこと)を使ったリスク回避手法のバリエーションも生まれてきた。ソープはそうした戦略を使って、年平均二〇%もの利益をだしつづけることに成功した。それから四五年間もずっとだ。彼はいまでも投資をつづけていて、二〇〇八年には不況のなかでも一八%の利益を上げている。一九六七年には、カリフォルニア大学で同じような研究をしていた同僚と一緒に『株式市場をやっつけろ!』という本を出版した。
  • 『株式市場をやっつけろ!』は、あまりにも風変わりで、あまりにも当時の常識からかけ離れた本だった。だからウォール街の反応は鈍かった。 多くの投資家たちはこの本を読もうともしなかったし、読んだ人間のほとんどはその内容や重要性を理解できないままに終わった。でもジェイ・リーガンというブローカーだけは、すぐにソープの真価を見抜いた。
  • リーガンはソープに手紙を書き、共同で「ヘッジファンド」をつくろうともちかけた(ヘッジファンドという言葉自体は、ソープとリーガンが出会う二〇年も前から存在していた。ただし、その後ほとんどのヘッジファンドがソープのデルタヘッジの影響を大きく受けることになるので、ソープとリーガンがヘッジファンドの生みの親だと言っても過言ではない)。リーガンはソープが苦手な仕事をすべて引き受けると言ってくれた。宣伝や営業、ブローカーとのやりとり、取引の実務といったような実際的な仕事だ。ソープはただ市場を分析して、株式と転換証券の正しい割合を計算していればいい。 西海岸の家を離れる必要すらない。リーガンは東海岸ニュージャージーで事業をまわし、ソープはカリフォルニアのニューポートビーチで数学者や物理学者、コンピュータ技術者などを集めて投資戦略に集中する。どこまでも理想的な申し出だった。 ソープはすぐに承諾の返事をだした。
  • ソープとリーガンは共同でヘッジファンドを立ち上げた。当初はコンヴァーティブル・ヘッジ・アソシエイツという社名で、 一九七四年にプリンストン・ニューポート・パートナーズに改名している。成果がでるのは早かった。最初の一年間で、投資家たちに一三%のリターンを提供することができた。 運用報酬を引いたあとで、それだけの数字だ(ちなみに市場の平均リターンはわずか三・二二%だった)。
  • さらに、大物にも気に入ってもらえた。ソープたちがヘッジファンドを立ち上げてまもなく、カリフォルニア大学アーバイン校で学部長をつとめていたラルフ・ジェラルド――つまりソープの上司にあたる人物だが、まとまった財産を相続した。それまでつきあいのあったファンドマネジャーが別の仕事に移るというので、このお金を投資するための新たなファンドを探していた。ソープがファンドをやっていると聞いて興味をもったけれど、自分の資産をまかせる前に、信頼していた元ファンドマネジャーに頼んでソープの能力を見積もってもらうことにした。ソープもその話に同意し、妻のヴィヴィアンをつれて海沿いのパシフィック・コースト・ハイウェイをドライブしながら、元ファンドマネジャーの住むラグナビーチへ向かった。気楽な夜になる予定だった。カードゲームでもしながら軽く話をして、ソープの人柄を知ってもらえばいい。
  • ソープ夫妻を迎えてくれた元ファンドマネジャーは、資産運用の世界を離れて新たなプロジェクトを立ち上げようとしているところだった。古い繊維会社を買いとり、経営を立て直すつもりだ。他人のお金を運用して一〇〇万ドルほどの資産を手に入れた彼は、今度は自分のお金で大きなことをやりとげたいのだと話してくれた。そういうビジネスの話にふれたあと、彼らは確率論の議論に熱中していった。ブリッジをプレイしながら、元ファンドマネジャーは「非推移的サイコロ」という仕掛けサイコロの話をもちだした。 それぞれちがう目をもつサイコロが三つセットになっているものだ。サイコローと二を同時に投げるとサイコロ
    二のほうが強く、サイコロニと三を同時に投げるとサイコロ三のほうが強い。ところがサイコローと三を同時に投げると、今度はサイコローのほうが強いというちょっと不思議な性質になっている。ゲームや確率論が大好きなソープは、以前から非推移的サイコロにとても興味があった。二人はこの話で意気投合し、一気に距離が縮まった。
  • ニューポートビーチへ戻る車内で、ソープはヴィヴィアンにこう言った。あの男は、いつか世界一の大富豪になるよ。この予言は、二〇〇八年に現実になった。 ソープが出会った元ファンドマネジャーは、あのウォーレン・バフェットだったのだ。バフェットのお墨付きを得て、ジェラルドはソープのファンドに資産をまかせることにした。
  • ソープとリーガンが立ち上げたプリンストン・ニューポート・パートナーズは、まもなくウォール街でもっともすぐれたヘッジファンドに数えられるようになった。でも、輝かしい成功はとつぜん終わりを迎えることになる。
  • プリンストン・ニューポート・パートナーズの崩壊劇は、一九八七年の一二月一七日にはじまった。この日、FBIやATF、財務省の人間たちがプリンストンの事務所にやってきた。総勢およそ五〇人の捜査官が事務所に上がり込み、大物ジャン
    ク債ディーラーのマイケル・ミルケンに関する書類や音声テープを探しまわった。 プリンストン・ニューポートの元従業員ウィリアム・ヘイルが起訴陪審で証言台に立ち、ミルケンとリーガンが株式の名義貸しによる脱税をおこなっていると証言したからだった。
  • デルタヘッジの弱点のひとつは、証券の保有期間によって課税の方法が分かれていることだ。だからリスク回避のために売りと買いをおこなうとき、税金の面から言えばその利益と損失が相殺されなくなってしまう。そこでリーガンがやろうとしていたのは、長期的な株の所有者であることを隠して、株を一時的にミルケンの会社名義に避難させておくことだった。表面上はミルケンが株を買ったことにしておいて、裏では一定期間後に同じ値段で買い戻す約束をとり交わしておく。そうやって余分な課税を防ごうとしたわけだ。それほど悪質な行為にも思えないけれど、とにかく名義貸しは法律で禁止されている。事件を担当していたル
    ドルフ・ジュリアーニはここに目をつけ、プリンストン・ニューポートを叩くことで、ミルケンを追い込むためのさらなる証拠を手に入れようとしたのだ。
  • この件について、ソープはまったく関与していなかった。騒ぎが起こるまで、東海岸で違法なことをやっているなんて思いもしなかった。それにリーガンのほうでも、捜査が入るころにはすでに弁護士を雇い、 ソープとの接触を拒否していた。そんなわけで、ソープが罪に問われることはなかった。会社は翌年までなんとかもちこたえたけれど、一連のゴタゴタを受けて評判はすっかり下がってしまった。プリンストン・ニューポート・パートナーズは、一九八九年にその幕を閉じた。創業から二〇年間の平均リターンは、一九% (報酬控除後で一五%以上)という圧倒的な数字だった。
  • プリンストン・ニューポートを閉鎖したあと、ソープはしばらく休みをとってから、エドワード・O・ソープ・アソシエイツという資産運用会社を立ち上げた。やがて他人の資産管理からは手を引いたが、いまでも自分の資産を使ってファンドを運営している。
  • 一方、プリンストン・ニューポートの成功をきっかけに、数百という数のクオンツヘッジファンドが続々と生まれてきた。 ウォールストリート・ジャーナル紙は一九七四年の記事で、ソープがコンピュータを活用した統計的手法を発明し、「資産運用の新時代」を切りひらいたと評している。

 

  • ブラックはパシュリエやオズボーンの説を十分に理解し、発展させられるくらいに物理学にも通じていた。そういう意味ではサミュエルソンにも似ていたが、サミュエルソンほど学者としてすぐれていたわけではない。ただしブラックには、サミュエルソンになかったものがあった。投資家や銀行の人間と話をするスキルだ。
  • ブラックは物理学のアイデアがどのように投資に役立つかを、ふつうの投資家にもわかる言葉で説明することができた。 バシュリエやオズボーンのランダムウォーク仮説を利益につなげたのはエド・ソープが最初だが、それはヘッジファンドというかぎられた世界のなかでのことだ。一方ブラックは、物理学をベースとした統計的アプローチを、投資銀行の必須ツールに出世させた。
  • ブラックのおかげで、物理学はウォール街という新たな世界に飛びだしていったのだ。
  • ブラックがはじめてハーバード大学にやってきたのは、一九五五年、一七歳のときだった。なぜハーバードだけに絞って出願したのかと聞かれたら、彼は「有名なグリークラブで歌ってみたかったから」と答えただろう。
  • 彼は最初から、我が道を行くことしか頭になかった。必要な課題は放っておいて、自分がおもしろいと思ったテーマの論文を勝手に書いた。基礎科目を何ヵ月か受講したあと、早くも大学院の授業を受けることにした。専攻に選んだのは「社会関係論」という、社会科学のさまざまな分野にまたがる総合的な学問だ。ブラックはさっそく自分自身を実験台にして、独自の研究をはじめた。 たとえば四時間寝て四時間起きているというふうに睡眠サイクルを変えてみて、体の反応を詳細に記録した。幻覚剤などのドラッグをやって、その効果を逐一追ってみたこともある。大学でつきあう人間は、ほとんど大学院生ばかりだった。
  • 三年生になるとき、ブラックは専攻を変えようと思い立った。 社会関係論はおもしろかったけれど、もっと科学的な研究の世界に行ってみたかったのだ。 オズボーンやソープと同じように、 ブラックは生まれながらの科学者だった。 実験が大好きで、仮説と検証をくりかえすタイプの研究が肌にあっていた。しかしこのまま社会関係論を学んでも、自分が求めるスタイルの仕事につくのは難しそうだった。そこでブラックは自然科学系に転向し、化学と生物学をかじったあとで、物理学に落ちついた。とにかくコアな部分の理論的な研究がやりたかったので、翌年には理論物理学の博士課程を受験した。 学部のときと同じく、ハーバード一択だ。彼は全米科学財団の奨学金を見事手に入れ、ハーバードの大学院に合格し。 こうして一九五九年の秋、ブラックは物理学者への道を歩みはじめた。
  • ところがその年の終わりには、また興味が別のところに移っていた。 物理学のコースは一科目しかとらずに、電気工学や哲学、数学などの授業ばかり受けていた。何にでもすこしずつ興味があったけれど、ひとつのことを長くつづけるのはどうしても苦手だった。数週間後、彼は学部変更の届け出をして、物理学から応用数学に乗り換えることにした。さらに翌年の春にはMITに入り浸り、人工知能のパイオニアであるマーヴィン・ミンスキーの授業を熱心に受けていた。それから一九六〇年の秋にはまた社会科学に戻ってきて、今度は心理学の科目に手をだしはじめた。
  • 成績はけっして悪くなかった。 でもやり方がめちゃくちゃだった。合格ラインぎりぎりの科目もいくつかあった。物理学で唯一登録していた授業もそのひとつだ。 大学院の二年目には、心理学の単位を落とした。流行りの「認知主義」がやりたかったのに、古くさい「行動主義」の理論ばかりだったからだ。頭の良さで言えば、彼はハーバードでもトップクラスだった。最初の年には数学の難問に挑むコンテストで見事正解し、翌年度の奨学金を手に入れた。 頭脳については何の問題もない。しかしエッティンガーの不安は的を射ていた。 ブラックは大学院の二年目になっても、まだ専攻をきちんと決められずにいた。どこかに落ちつくどころか、以前より速いペースで研究分野をどんどん切り替えていた。
  • ブラックにしてみれば、それは自然なことだった。いろんなことに興味があるだけなのだ。大学側が考えるような、古くさい学問の道に縛られるなんてまっぴらだった。そんなものは断固拒否して、自分のやりたいようにやる。たとえハーバードを追いだされることになったとしてもだ。
  • ブラックは最終的に、応用数学で博士号を取得することになる。でもそこにたどり着くまでには、けっこうなまわり道をした。
  • ハーバードを追いだされると、彼はボルト・ベラネク・アンド・ニューマン(BBN)というハイテク関連のコンサルティング会社に就職した。BBNがブラックを雇ったのは、コンピュータに強いからだった。 ブラックは図書資源協議会からの受託プロジェクトに配属され、大規模なデータ検索システムの開発にとりくんだ。そのなかで彼は、シンプルな質問に答える言語処理プログラムを書いた。「ルーマニアの首都はどこですか?」というような文章の入力を受けて、答えになるデータを推測するプログラムだ。 質問の文章を解析して質問者の意図を読みとるのが、このプログラムの肝だった。 ブラックが開発したプログラムは、自然言語処理(コンピュータに人間の言葉を理解させる)という分野の発展に大きく貢献した。
  • ブラックがBBNで開発したプログラムの噂は、すぐに各方面に広がった。一九六三年の春には、マーヴィン・ミンスキーの耳にも届いた。 ミンスキーはブラックの質問応答プログラムにいたく感心し、ハーバード大学にかけあってブラックの再入学を認めさせた。 ブラックの研究についてはミンスキーが責任もって指導し、表向きの指導教官にはハーバード大学のパトリック・フィッシャーがつくことになった。ブラックはBBNでのプロジェクトをもとにして質問応答システムについての博士論文を書き、1964年の6月に無事受理された。
  • しかしそのころには、ブラックは大学生活に飽き飽きしていた。少なくともしばらくは、学問の世界から離れたかった。 博士論文はどうにか書き上げたけれど、その分野で一生やっていくつもりはまったくなかった。 物書きになってノンフィクションの読み物でも書こうかと考えてみた。それともコンピュータ業界に入って、新たな技術を開発するのも悪くない。あるいはポスドクに応募してハーバードにとどまり、技術と社会の接点について研究するという手もある。でも、どの選択肢もいまひとつピンとこなかった。そこでブラックは、またコンサルティング業界に戻ることにした。とりあえずコンサルティング会社なら、多種多様なプロジェクトにとりくむことができる。それに、具体的な問題を解決するほうが性にあっている気がしていた。
  • ブラックはBBNには戻らず、アーサー・D・リトル(ADL) という別の地元企業で研
    究部門の職をみつけた。最初のころ、ブラックはコンピュータの問題を中心に担当した。たとえば大手保険会社のメットライフは、最高水準のコンピュータを買ったのにまだ性能に満足できていなかった。そこで、もう一台コンピュータを買うべきかどうかの判断をADLに依頼した。ブラックは二人の同僚と一緒にメットライフのコンピュータを調査し、問題がコンピュータの処理能力ではなく(これは半分程度しか使われていなかった)、データの格納の仕方にあることをつきとめた。三〇あるドライブのうち、八つのドライブだけを集中的に酷使していたのだ。 ブラックたちはすべてのドライブがうまく活用できるように最適化をおこない、 メットライフのコンピュータは無事に能力を発揮できるようになった。
  • ブラックはADLにおよそ五年間勤務した。この日々が、彼の人生を変えた。ADLにやってきたとき、彼は数学を利用したオペレーションズ・リサーチやコンピュータ・サイエンスの世界の人間だった。幅広い分野に興味をもっていたけれど、そのなかに金融はおそらくなかったはずだ。でも一九六九年にADLを去るとき、彼はブラック・ショールズ・モデルの基本部分をすでにつくりあげていた。周囲の人間からは、ちょっと過激ではあるがエキサイティングで将来有望な金融エコノミストだと思われていた。会社を辞めてすぐに、ウェルズ・ファーゴ銀行からトレード戦略研究の仕事を依頼されるほどだった。
  • 変化がはじまったのは、ADLにきてまもないころだった。 ブラックはオペレーションズ・リサーチ部門で、ジャック・トレイナーという先輩に出会った。 トレイナーはもともと物理学を志望してハバフォード大学に入り、 授業の質がよくなかったので数学に転向した。 大学を卒業するとハーバード・ビジネススクールで経営を学び、一九五六年にADLに就職した。 ブラックよりも一〇年ほど前のことだ。
  • トレイナーとブラックが一緒に働いた期間は長くなかった。一九六六年に、トレイナーがメリル・リンチに引き抜かれたからだ。でも二人は出会ったときから意気投合した。 ブラックはトレイナーの実務的な考え方が気に入ったし、彼の担当分野にもすぐに興味をもった。リスク・マネジメントやヘッジファンドのパフォーマンス、資産評価などの分野だ。トレイナーも金融を専門に学んだわけではなかったけれど、ビジネススクールでひととおり必要な知識は身につけていた。だからADLでは金融機関を中心に担当することになった。その一方で、彼は個々の問題をより一般化した理論的研究にもとりくんでいた。
  • ブラックがADLにやってきたとき、トレイナーはリスクと確率と期待リターンを組みあわせた新たなモデルを完成させていた。現在「資本資産価格モデル (CAPM)」として知られているものだ。
  • CAPMのベースにあるのは、リスクには一定の価格が割り当てられるという考え方だ。ここでいうリスクとは、不確実性や変動性を意味している。たとえばアメリカ国債など一部の資産は、基本的にリスクフリーだ。それでも国債を買えば、一定の利子は返ってくる。一方、株や社債などの資産は、国債にくらべるとお金が返ってこなくなるリスクが高い。そういうリスキーな資産に人が投資するのは、期待されるリターンが高いからだ。 少なくともリスクフリーな資産よりリターンが高くなければ、誰もリスクの高い投資なんかしない。トレイナーはそのように考えて、リスクフリー資産とくらべたときのリターンの大きさを「リスクプレミアム」と名づけた。大きなリスクを引き受けるときの、利益の上乗せ分という意味だ。 CAPMを使えば、リスクプレミアムの費用対効果からリスクとリターンの関係を理解することができる。
  • CAPMのことを知ったブラックは、たちまちこの理論にのめり込んだ。不確実性と利益のシンプルな関係性は、あまりにも魅力的だった。 CAPMの世界観は大局的で、合理的選択に対するリスクの役割を高度に抽象的なレベルで描きだしていた。何よりもブラックの心をとらえたのは、それが(ブラック自身の言葉を借りれば)「均衡理論」であるという点だった。
  • 「金融と経済に魅力を感じたのは、均衡というコンセプトのおかげだ」と彼は一九八七年の著書に書いている。 CAPMが均衡理論である理由は、資本の価値をリスクと報酬の自然なバランスとして捉えているからだ。世界を絶え間なく変化する均衡として理解する見方は、ブラックの物理学者としての感性にしっくりとなじんだ。 物理学の世界では、複雑なシステムがやがて小さな変化のもとで安定した状態になることがよくある。そうした状態は平衡状態と呼ばれ、さまざまな影響のあいだできれいなバランスが成り立っている。
  • ブラックは入社から一年のあいだに、トレイナーの金融に関する知識をすべて吸収した。一九六六年にトレイナーがADLを去ったとき、そのポジションにつくのはブラック以外にありえなかった。ブラックはADLのフィナンシャル・コンサルティング部門を引きつぎ、CAPMモデルのさらなる改善にとりかかった。この職場でブラックは、その後の偉大な業績すべての基礎を築いていくことになる。
  • ジャック・トレイナーがブラックにエコノミストになるきっかけを与えたとすれば、マイロン・ショールズはそれを花ひらかせた存在だ。
  • ショールズは一九六八年の秋にケンブリッジにやってきた。シカゴ大学の博士課程を終えたばかりのころだ。大学院時代の同級生だったマイケル・ジェンセンが、ショールズにブラックのことを教えてくれた。なかなかおもしろいやつだから、会ってみたらどうかと言う。ショールズはケンブリッジに着くと、さっそくブラックに連絡をとってみた。
  • 二人とも歳は若かった。 ショールズは二七歳で、ブラックが三〇歳だ。ショールズはMITで助教授の職を手に入れたばかりだったが、二人ともまだそれほど大きく成功しているわけではなかった。 ブラックとショールズは、エイコン・パークにあるADLの社員食堂でランチをともにした。殺風景な社員食堂で語りあう二人の平凡な若者が、世界を変えようとしているなんて誰に予想できただろう。ここからブラックとショールズの友情がはじまり、それはやがて金融の世界を大きく変えていくことになる。
  • ブラックとショールズは、正反対の性格だった。 ブラックはもの静かで、どちらかというと内向的だ。一方ショールズは人懐っこく、どこまでも積極的だった。ブラックは実用的な研究に興味をもっていたけれど、考え方としては抽象的・観念的な理論を好んだ。一方ショールズは、理論よりも目に見えるものが好きだった。 新古典派経済学の主流となっていた効率的市場仮説を検証するために、大量のデータを分析して実証的な博士論文を書いたところだ。
  • この二人が初対面でどんな会話をしたのかは、ちょっと想像がつかない。 でもなぜか、 二人は息があった。 ブラックとショールズはまた会う約束をし、その後もたびたび会うようになった。 ここから二人の生涯にわたる友情と研究仲間としての関係がはじまった。

 

  • ソープのデルタヘッジ戦略は、株価がそれほど極端に変化しないことを前提として、なるべく大きな利益をだすことを狙っていた。リスクはコントロールするが、完全にリスクをなくすことは考えていない (CAPMの論理から言っても、リスクを完全に排除して大きな利益を上げることは不可能だ)。一方ブラックのアプローチは、株とオプションをうまく配合して、完全にリスクフリーなポートフォリオを組み上げるというものだった。そこからCAPMを使い、このポートフォリオの期待リターンがリスクフリー資産のリターンと同じになることを論じようとしていた。このように株とオプションでリスクフリーの環境をつくる戦略は、のちにダイナミック・ヘッジとして知られるようになる。
  • ブラックはクートナーの論文集を読んでいたので、バシュリエやオズボーンのランダムウォーク仮説のことは知っていた。だからそれを使って、オプションの対象となる株の値動きをモデル化することができた。また株価とオプション価格の関係はすでにわかっていたので、株価のモデルをもとにオプション価格の動きを導きだすこともできた。こうして株価とオプション価格、それにリスクフリー資産の利率についての基本的なつながりがわかってしまえば、オプション価格の計算式はすぐそこだった。あとは株のリスクプレミアムとオプションのリスクプレミアムを結びつけるだけでいい。
  • でもここにきて、ブラックは壁に突きあたった。最終的な公式を得るためには、複雑な微分方程式株価の瞬間変化率とオプションの瞬間変化率を結びつける等式を解かなくてはいけない。ブラックはもともと物理学と数学をやっていたけれど、この方程式を解くにはすこし数学の知識が足りなかった。
  • 何ヶ月かこの問題にとりくんだあと、ブラックはとうとうあきらめた。 オプションの問題を途中まで解いたことについては、誰にも話していなかった。でも一九六九年の末になって、ショールズがオプション価格についての話をもちだしてきた。指導している学生がオプション価格決定に興味をもっていたからだった。CAPMを使って解決できるのではないか、とショールズが言ったので、ブラックは机の引きだしにしまい込んでいたノートをとりだし、オプション価格決定モデルの肝となる方程式を見せた。ここから二人の共同作業がはじまった。
  • 翌年の夏、二人はこの方程式を解くことに成功した。七月にはショールズがウェルズ・ファーゴの後援を得てカンファレンスを開催し、オプション価格を算出するブラック・ショールズ方程式がついに公開された。 一方、新しくMITでショールズの同僚になったロバート・マートン(もともとはエンジニアリングをやっていたけれど、経済学で博士号をとった)も、まったく別の方面から同じ方程式にとりくみ、 二人と同じ解答にたどり着いた。ブラックたちの方程式が、別の立場から確証されたのだ。ブラックとショールズとマートンは、大ききな手ごたえを感じた。
  • ブラックとショールズは、この問題についての論文を書いて『ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー』という超一流の経済誌に送った。でも論文はすぐに却下された。却下理由すらろくに書かれていなかった(真剣にとりあってもらえなかったということだ)。そこで二人は『レビュー・オブ・エコノミクス・アンド・スタティスティクス』誌に論文を送ってみた。しかし今度もとくに説明のないまま、すぐに却下されてしまった。その間、マートンのほうは自分の論文を提出するのを先送りしていた。 ブラックとショールズが自分よりも先に評価を受けとるべきだと思ったからだ。
  • ブラックとショールズの論文が、そのまま埋もれてしまうことはなかった。学界、財界、政界の権威たちが、二人の味方についていたからだ。 二度目に却下されたあと、シカゴ大学ユージン・ファーママートン・ミラーが二人のために動いてくれた。ファーマとミラーは当時もっとも強い影響力をもっていた経済学者で、初期のシカゴ学派をリードする存在だった。彼らの口利きのおかげで、『ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー』誌は再考せざるを得なくなった。そして一九七一年八月、ブラックとショールズの論文は、掲載に向けて無事に受理された。
  • そのころ、フィッシャー・ブラックはシカゴ大学で注目の的になっていた。シカゴ大学の経済学者たちは、ショールズを通じてブラックの仕事ぶりを知っていた。 オプション価格についてもそうだし、ウェルズ・ファーゴのカンファレンスでも彼の活躍を目にしていた。数年前の一九六七年には、ブラックがトレイナーと一緒にシカゴ大学にやってきて、研究の成果をアカデミックな世界に披露したこともあった。まだ一流経済誌に論文が載る前だったが、シカゴ大学の学者たちはとくに気にしなかった。ひと目見れば、ブラックに才能があることは明らかだったからだ。そして一九七一年五月、シカゴ大学はブラックに仕事のオファーを
    だした。ブラックが大学院をでてから七年も経っていたし、たった四本だけ発表していた論文のうち、経済学に関係するものは二本しかなかった。博士号はもっていたけれど、これも経済とは関係のない分野だった。それにもかかわらず、シカゴ大学はブラックを選んだ。とにかく彼を求めていたのだ。
  • シカゴ大学がブラックをほしがった背景には、それなりの理由があった。 ブラックの研究が今後重要になってくると判断できるだけの裏情報をにぎっていたのだ。 オプション取引は近いうちに、とんでもなく重要な存在になろうとしていた。 オプション価格を算出できる公式は、これからの金融界で不可欠なものになるはずだった。 世界経済を動かす二つの大きな変化が、シカゴを中心に進行していた。デリバティブの世界に革命を起こすほどの変化だ。こんなときに、ブラックのような男を味方につけておかない手はなかった。
  • 第一の変化は、一九七一年一〇月一四日に起こった。ブラックがシカゴにやってきてからほんの二週間ほど後のことだ。 米国証券取引委員会(SEC)はこの日、シカゴ・オプション取引所(CBOE)の設立を認可した。 アメリカの歴史上初めての、オープンなオプション取引所だ。
  • オプションの取引自体は、もう何百年も前から存在していた。アメリカでも、ワラントという形をとることが多かったが、一九世紀半ばごろからすでに取引されていた。でも公開市場で誰もが自由に取引できるのは、これが初めてだった。 シカゴの学者たちは、何年も前からオプションの公開市場を解禁するようにSECにはたらきかけていた。そして一九六九年、ついにシカゴ商品取引所(CBOT)が委員会を招集し、実現可能性についての話しあいが開始された。このとき委員長をつとめたジェイムズ・ローリーという人物は、シカゴ大学ビジネススクールの教授だった。ローリーはマートン・ミラーらと共同でオプション取引の重要性についてのレポートを書き、これをもとに一九七一年三月、CBOTは正式に取引所設立の申請をだした。
  • CBOEとブラック・ショールズ論文は、それぞれ数ヵ月もちがわない時期に準備をスタートさせた。それから二年後に、CBOEは取引を開始した。ブラック・ショールズ論文が世にでる一ヵ月前のことだ。 オープン初日には、一六種類の株をもとにしたおよそ九〇〇のオプション取引が成立した。やがてこの数字は、ものすごい勢いでふくれあがっていった。一九七三年だけで一〇〇万を超える数の取引が成立し、一九七四年一〇月には一日の取引量が平均で三万、ときには四万を超えるほどになった。それから一〇年のうちに、一日の取引量は五〇万に達した。

 

  • ブラックとショールズとマートンのオプション価格モデルは、一九六五年にソープが考えだしたやり方にそっくりだった。ソープはコンピュータのプログラムを使い、ブラックたちは自分たちの名を冠した方程式を使ったというだけのことだ。でもその背後にある論理は、かなり性質がちがっていた。
  • ソープはバシュリエの考え方をもとにして、オプションの適正価格は賭けの勝率が五分五分になる価格であると考えた。そして株価が対数正規分布になるというオズボーンの理論にもとづき、オプションのあるべき価格を導きだした。 ソープはこうして算出したオプションの「本当の」価格をもとに、株とオプションを組みあわせるデルタ・ヘッジ戦略を組み上げていった
  • 一方、ブラックとショールズのモデルは、まったく逆の方向からつくられた。彼らはまず最初に、ヘッジ戦略をつくった。株とオプションの組みあわせ方によって、つねにリスクフリーのポートフォリオがつくれることに気づいたからだ。それからCAPMを使って、このポートフォリオのリターンがどれくらいになるべきかを示した。それによると、このポートフォリオのリターンは、リスクフリー資産のリターンと同じになるはずだった。そしてここから、リスクフリーのリターンを実現するために、オプションの価格がどのようにして株価から導きだされるべきかを論じていった
  • 両者のちがいは、些細なものにも思える。 別々の方向から出発して、結局は同じモデルに行きついたわけだ。でも実用面から言うと、そこには決定的な差があった。ブラック・ショールズ・モデルの背後にあるダイナミック・ヘッジという考え方は、銀行がオプションを製造するためのツールになるからだ。
  • たとえばあなたが銀行をやっていて、顧客にオプションを売ることを考えているとしよう。つまり特定の株を決まった価格で売買する権利を顧客に売るということだ。このとき、あなたはなるべくリスクを引き受けたくない。目的は投機で大きく儲けることではなく、顧客からの手数料収入を得ることだからだ。 ということは、株価が上がった場合に損をしないようにしながら、株価が上がらなかった場合にも損をしないようにしなくてはいけない。
  • ブラックとショールズのダイナミック・ヘッジは、そういう状況にもってこいの手法だった。 ブラックとショールズの考え方を使えば、オプションを売りながらその他の資産を買うことで、すべてのリスクを(少なくとも理論的には)排除することができる。この技術は、オプションのあり方を大きく変えた。 オプションはいまや、マニュアルどおりに製造できる製品になったのだ。
  • ブラックは一九七五年までシカゴ大学にとどまったあと、MITに招かれてケンブリッジに戻った。最初の数年間は、大学のくらしが楽しくて仕方なかった。何でも好きなことが研究できたし、通貨オプションが登場してきた全盛期には、何もかもがうまくいくように思えたからだ。ブラックは大学のヒーローだった。誰からも尊敬され、最大限の自由が手に入った。
  • でも私生活のほうは、どんどんだめになっていった。二人めの妻であるミミは、シカゴでのくらしにまったくなじめなかった。 ケンブリッジに戻った大きな理由も、彼女が実家の近くに帰りたいと言いだしたからだ。しかしケンブリッジに戻ってからも、二人の関係は相変わらずぎくしゃくしていた。
  • 家庭の雰囲気が気まずくなるにつれて、ブラックはどんどん仕事時間を増やしていった。彼の関心はオプションから、もっと広い分野に移っていた。CAPMを一般化して、景気のサイクルを説明する理論をつくろうとしたのだ。
  • たった一〇年足らずのうちに、ブラックはよそ者から時代の寵児へとのぼりつめ、そしてまたよそ者に戻ったのだった。ブラックは大学の世界にうんざりした。いいかげん外の世界に逃げだしたいと思った。
  • 一九八三年一二月、ブラック・ショールズ・モデルの共同研究者だったロバート・マートンは、ゴールドマン・サックスに依頼されてコンサルティング業務をおこなっていた。七〇年代のブラックやショールズが、 ウェルズ・ファーゴのためにやっていたのと同じような仕事だ。学問の世界から最新の理論を引っぱってきて、実際の業務でどう使うかをアドバイスする。
  • マートンはそのなかで、ゴールドマン・サックスに金融理論の専門家をひとり雇い入れてはどうかと提案した。優秀な専門家に指揮をとってもらい、新たなやり方をスムーズに浸透させるのだ。当時ゴールドマン・サックスの株式部門リーダーだったロバート・ルービンはこれに同意し、優秀な人間を紹介してほしいとマートンに頼んだ。MITに戻ったマートンは、さっそく最近の卒業生のなかからこの重要なポジションにふさわしい人間を探しはじめた。ブラックにも、誰か心あたりはないかとたずねてみた。すると、ブラックは意外な答えを返してきた。自分がやりたいというのだ。
  • 三ヵ月後、ブラックは大学を辞めてゴールドマン・サックスに移り、株式部門に新設されたクオンツ戦略グループを統括するポジションについた。こうしてブラックは、みずから初期のクオンツになったのだった。投資だけでなく知的イノベーションに興味をもった、高度に専門的な理系トレーダーだ。ウォール街はいままさに、新たな時代を迎えようとしていた。

 

  • 一九八六年、サンタフェ研究所で初めての経済カンファレンスが開かれた。テーマは「複雑系としての国際金融」だ。 ファーマーも講演者のひとりだった。ファーマーは当時ロスアラモスで複雑系研究グループのリーダーになっていたけれど、経済学の集まりに参加するのはこれが初めてだった。ほかの講演者は、ほとんどが銀行やビジネススクールの人間ばかりだ。
  • 銀行の人間が自分たちの使っているモデルの説明をすると、そこにいた科学者たちはあっけにとられた。あまりにも単純すぎるモデルだったからだ。そして銀行の人間たちは、科学者の話に未来の呼び声を聞いたような気分になった。ただし科学者が何を言っているのかは、さっぱりわからなかった。とにかく難しいけれどすごそうだということで、彼らはサンタフェにぜひ二度目のカンファレンスを開催してほしいと呼びかけた。そして今度のカンファレンスには、有名大学の経済学者たちが招かれることになった。
  • 金融関係の人間には物理学やコンピュータ科学の最新理論は難しすぎたけれど、一流の経済学者ならうまく理解できるにちがいない。そう思って経済学者たちを招いたものの、思ったようにはいかなかった。 ファーマーやパッカード、それにサンタフェの研究者たちは科学的視点からさまざまな話をした。経済学者たちも自分たちの理論を紹介した。でも、両者がわかりあうことはなかった。物理学と経済学の世界は、あまりにも異なっていた。おたがい常識が通用しないのだ。物理学者たちは、経済学者が何もかもを単純化しすぎていると考えた。経済学者たちは、物理学者が意味のないでたらめをしゃべっていると考えた。二つの学間の偉大な出会いは、ついに起こらずじまいだった。
  • サンタフェ研究所はあきらめることなく、一九九一年二月に三度目のカンファレンスを開催した。ただし今度は、経済学者は招かれなかった。そのかわりに、投資会社などで投資実務に関わっている人間を招待した。カンファレンスの雰囲気も前回よりずっと実務的で、トレード戦略のためのモデルづくりと検証が話題の中心になった。投資家たちは経済学者よりもオープンだったし、カンファレンスが終わるころにはおたがいに大きな手ごたえを感じていた。とくにファーマーとパッカードにとっては、投資戦略の実務を明確に理解できたのが大きな収穫だった。さらに、自分たちならもっとうまくやれるという確信も得られた。
  • 一ヵ月後、二人は辞表を提出した。そろそろ現場に参戦する頃合いだ。

 

  • 会社はもうすぐ二年目を迎えようとしていたが、利益はまったくでていなかった。 投資会社なのに投資するお金がなければ、どうしようもない。経営者であるファーマーとパッカードとマッギルは、給料なしで働いていた。そのうえ大学院生やハッカーのチームを、もう八カ月も自分たちのポケットマネーで養っていた。全員がグリフィン通りのオフィスに住みついていたからだ。
  • そろそろ限界だった。出資者の選り好みをしている場合ではない。 設立早々に会社を売るのは気が進まなかったけれど、誰かのもとでヘッジファンドをやるのは悪くないアイデアに思えてきた。少なくとも資金は手に入るし、そこそこの独立性は保てるはずだ。 彼らはそれから数ヵ月間、最適なパートナーを探して数多くの会社と面接を重ねた。 それしか道はないように思えた。
  • しかし一九九二年三月、奇跡はやってきた。その日、ファーマーはコンピュータ業界のカンファレンスで講演をおこなった。本当は気が進まなかったけれど、シリコンバレーの投資家がやってくるはずだし、うまくいけば縛りのない資金が手に入るかもしれないと思ったからだ。ファーマーは市場予測におけるコンピュータの役割について話し、会場の反応は上々だった。 講演が終わってスライドを片付けているとき、スーツを着た男が近づいてきた。男はクレイグ・ハイマークと名乗り、オコナー&アソシエイツの共同経営者だと自己紹介した。
  • オコナー&アソシエイツといえば、ブラック・ショールズ方程式ファットテール対応バージョンをつくって大成功したオプション投資会社だ。 テクノロジーを駆使したデリバティブ戦略で利益を上げ、一九九一年ごろにはシカゴのコモディティ市場で最大級のプレイヤーになっていた。従業員はおよそ六〇〇人、運用資産は数十億ドル規模だ。オコナー&アソシエイツは非線形予測には関わっていなかったし、プレディクション・カンパニーはデリバテイプに興味がなかった。それでも、両者は性格的によく似ていた。実際、オコナーに最近入社した社員のなかには、独立前のファーマーとパッカードと一緒に共同研究をしていた友人もいた。
  • カンファレンスでの出会いからまもなく、ファーマーはオコナー&アソシエイツのもうひとりの共同経営者から電話を受けた。デヴィッド・ワインバーガーという男だ。ワインバーガーはもっとも初期のクオンツのひとりで、一九七六年にイェール大学のオペレーションズ・リサーチ(応用数学の一分野)の教授からゴールドマン・サックスに転身した。フィッシャー・ブラックより何年も前の話だ。そのあと一九八三年にオコナー&アソシエイツに移り、世の中で一般的になってきたブラック・ショールズ・モデルに変わる新たな戦略を研究しはじめた。彼ほど社会的に成功し、しかもプレディクション・カンパニーの科学者たちと同じ言葉を話せる人間というのは、一九九一年の時点でもかなり貴重な存在だった。ワインバー
    ガーは金曜の午後にシカゴから電話をかけてきて、土曜日の朝にはグリフィン通りのオフィスに座っていた。
  • オコナー&アソシエイツは、プレディクション・カンパニーが求めていた条件にぴったりの会社だった。何よりも、ファーマーやパッカードがやっていることを理解できて、きちんと評価できる相手だというのがよかった。彼らは順調に交渉を進め、プレディクション・カンパニーは独立を保てることになった。 オコナーは投資資金をだし、利益の一定部分を受けとる。方針に対する干渉はない。さらにプレディクション・カンパニーが困っていた当面の給与と設備の資金についても、オコナーが前貸ししてくれることになった。
  • オコナーとの契約は、これ以上ないほど完璧なものに思えた。しかもその後、さらにうれしいことが起こった。 オコナーは以前から、スイス銀行コーポレーション(SBC)とつきあいがあった。そして一九九二年、プレディクション・カンパニーとの契約が成立した直後に、SBCはオコナーを買収する意図を明らかにした。プレディクション・カンパニーは話の通じる相手と商売をしながら、SBCという巨大な財布を手に入れることになったのだ。ワインバーガーは合併後のSBCでトップマネジメントの地位につき、同時にブレディクション・カンパニーとの窓口でありつづけてくれた。まさに理想的な環境だった。プレディクョン・カンパニーは大あたりを引いたわけだ。
  • 一九九八年、SBCはさらに大手のスイス・ユニオン銀行と合併し、UBSという世界最大規模の銀行になった。SBCのほうが規模は小さかったけれど、UBSの役員の大半は元SBCの人間で占められることになった。プレディクション・カンパニーとの関係も、変わることなくつづいた。
  • オコナー&アソシエイツがずっと秘密主義をとっていたこともあり、プレディクション・カンパニーのパフォーマンスについては何も公表されていない。元役員の人間にもあたってみたけれど、具体的な情報については誰もが口をつぐんだ。おかしな話だ。成功しているのなら、わざわざそれを隠す必要なんかないように思える。でもウォール街では、それがあたり前なのだ。 成功が知られれば、真似をする人間たちがでてくる。そして同じ戦略をとる人間が増えれば、それぞれの取り分はどんどん減っていくからだ。
  • それでも、わずかな情報から、 プレディクション・カンパニーがものすごい利益を上げていることは想像できる。UBSの役員だったある人間は、いまでもプレディクション・カンパニーがUBSの現役部門として活躍していることを教えてくれた。別の信頼できる情報筋から聞いた話では、業務開始から一五年間のプレディクション・カンパニーのリスク調整後リターンは、代表的な株価指数であるS&P500のリターンを一〇〇倍も上回っているという。
  • ファーマーはおよそ一〇年間会社にとどまり、それから学問的な研究がやりたくなってビジネスの世界を離れた。一九九九年に、サンタフェ研究所で正式な研究員のポジションについている。パッカードは二〇〇三年までプレディクション・カンパニーの代表をつとめたあと、プロトライフという別の会社を立ち上げた。
  • プレディクション・カンパニーでの経験は、彼らに明確な答えを与えてくれた。統計の深い知識と、物理学のツールを金融に置き換えられるクリエイティビティがあれば、ウォール街をぶちのめすことが可能なのだ。それがわかったいま、彼らは新たな問題に向かって踏みだしていった。

 

  • 一般相対性理論によると、物質(自動車や人間や星など、ふつうに存在しているもの)は時空の幾何学的性質に影響を及ぼす。 そして時空の幾何学的性質は、ものがどのように動くかを決定する。そうやってゆがんだ時空のなかを巨大な物体が動くとき、その動きが重力と呼ばれるものになる。僕たちの体が地球にくっついていたり、地球が太陽のまわりをまわりつづけたりするのも重力のおかげだ。
  • 一般相対性理論の考え方は、それまでのニュートンによる重力理論とは似ても似つかないものだった。ニュートン力学では、時間と空間は静止している。空間のなかにどんなものがあったとしても、時間や空間自体にはとくに影響しない。物質は何か不可解な力によって、遠くからおたがいに引っぱりあっている。
  • でもアインシュタインの理論では、物質が時間と空間を曲げる。ただし物理学や数学の世界で何かが「曲がっている」と言うとき、それは日常的な意味とはすこしちがっている。 テーブルの表面やまっさらなレポート用紙は平らだし、バスケットボールやトイレットペーパーは曲がっている。でも数学的に言うと、テーブルとバスケットボールのちがいは、地面を転がるかどうかではない。テーブルの上に立つのが簡単で、バスケットボールの上に立つのが難しいということでもない。数学で曲がっているかどうかを決めるのは、同じ向きのままでその表面を移動しやすいかどうかということだ。もしもそのものが平らなら、同じ向きを向いたまま移動するのは簡単だ。同じ向きで移動するのが難しいなら、そのものは曲がっているということになる。
  • なんだかややこしい言い方だが、実際にイメージするのは難しくない。たとえばマンハッタンの中心部で、歩道に立っているとしよう。 マンハッタンの道路は、碁盤の目のように整然と並んでいる。その四角く区切られた一区画を、北を向いたまま時計まわりに一周してみよう。体を北に向けて、まずはそのまま前に進む。曲がり角までやってきたら、右に曲がって次の角まで行く。でもこのとき、体の向きを変えてはいけない。北を向いたまま、右へ右へと横向きに歩くのだ。そして角まできたら、今度は後ろ向きに歩きはじめる。 そして最後はまた、左に向かって横歩きだ。そうやって体の向きを変えないまま一周すると、スタート
    地点に戻ってきたときには、かならずさっきと同じ方向を向いている。
  • これはとくに不自然なことではない。体の向きを変えなかったのだから、同じ方向を向いているのは当然だ。でも、もうすこし長旅になると、話はちがってくる。 街の一区画ではなく、今度は地球をぐるりとまわってみよう。今回も体の向きを変えないで、ずっと北を向いたままだ。まずはニューヨークを出発し、大西洋を渡ってヨーロ着いたら、そこからアジアに向かってカニ歩きだ。 体の向きはしっかり北極点に向けておく。そのまま根気よく(無理な体勢で)歩きつづけていると、やがて太平洋にたどり着く。そこから北を向いたまま船に乗り、カリフォルニアに渡る。そしてアメリカ大陸を横断し、ついにニューヨークに到着だ。このとき、体の向きを変えていなければ、出発したときと同じように北を向いているはずだ。
  • でも地球を一周するやり方は、ほかにもある。今度はちがうルートを使ってみよう。ニューヨークを出発して、途中までは前回と同じく東に向かう。 カザフスタンまでやってきたら、今度は中国方面ではなく、北に進んでロシアに行ってみる(ようやく前向きに歩けるようになった)。そのまま進んで北極点までたどり着くと、ニューヨークが前方のずっと遠くに見えてくる。そのままカナダを通過し、ハドソン川を下ってニューヨークに到着だ。出発点まで戻ってみると、なぜか体がちがう向きになっている。南を向いているのだ。ずっと体の向きを変えなかったのに、なぜ反対を向いてしまったのだろう。最初の旅のときは戻ってきても北向きだったのに、どうして二度目は変わってしまったのだろう?
  • 二度目の旅でちがう方向を向いてしまった理由は、地球の表面が曲がっているからだ(図5)。それに対して、街の一区画は曲がっていない(もちろん街も地球の表面の一部なので、正確に言えば曲がっている。でも短い距離で見たときには、ほとんど曲がっていないのと同じになる)。もしもテーブルの上で蟻が同じことをやったとしたら、どんなルートを通っても、やっぱりつねに同じ向きになるはずだ。これが数学的に平らであるということだ。難しい言い方をすれば、平行移動(出発したときと同じ向きのまま動くこと)が「経路に依存しない」ということになる。これが曲がった表面であれば、どの経路を通るかによって体の向きが変わってしまう。つまり、平行移動が「経路依存」であるということだ。
  • 経路依存と曲面の関係性は、数学をやっていない人にはわかりづらいかもしれない。でも経路依存そのものは、ごくありふれた問題だ。日々のくらしのなかにも、経路依存になっているものごとはたくさんある。たとえば車を運転して食料品の買いだしに行ったとしよう。このとき、買ったミルクの量は経路に依存しない。つまり、どんなルートで家まで帰っても、ミルクの量に変化はない。 でも車のガソリンの量は、経路に依存する。いろいろまわり道をして帰れば、それだけ残ったガソリンの量が少なくなっている。
  • 平行移動の経路依存性も、そういうありふれた問題のひとつの形にすぎない。 出発点と目的地が同じでも、通る経路によってものごとは変わる可能性があるのだ。
  • アインシュタインは平行移動が経路依存であるという事実から、時空が曲がっているという重要な発見にたどり着いた。でもワイルは、アインシュタインよりもさらに先に行こうとした。
  • 一般相対性理論では、矢印を一周させたときに向きが変わっている可能性はあるけれど、矢印の長さはどんな経路でも変わらない。それに対してワイルは、向きが変わるなら長さだって変わる可能性があると考えた。そこに物理学的な意味での区別がみつからないからだ。ワイルはこの発想を推し進め、矢印を曲がった表面にそって一周させたとき、通る経路によって戻ってきた矢印の長さが変わるような理論をつくりあげた。
  • ワイルはこの新たな理論を、ゲージ理論と名づけた。 ゲージ理論の基本的な考え方は、これこそが正しいという絶対的な「ゲージ」(物差し)がどこにも存在しない、というものだ。たとえばあなたと隣の住人が、同じ建物にある職場にでかけるとする。二人とも自動車通勤で、車種もたまたま同じだ。 さて、出発しようとしたあなたに、 誰かがこうたずねる。 会社についた時点で、どちらの車のガソリンが多く残っているだろうか?
  • いまガソリンのメーターを見ると、ほぼ満タンを指している。隣人にたずねれば、そちらのガソリンの残量も教えてくれるだろう。でもそれだけでは、質問に答えられない。二人がどんな経路を通るかによって、答えは変わってくるからだ。 あなたは最短距離で会社をめざすかもしれないし、隣人はまわり道をするかもしれない。あるいは隣人が高速道路を使いあなたは一般道路を使うかもしれない。いずれにしても、どんなルートを使ったかによってガソリンの残量は変わってくる。 経路依存の量なので、単純に比較することができない。
  • 物差しの普遍的な基準が存在しない、とワイルが言うのはこういうケースだ。別々の場所にある物差しを、経路に依存しないでくらべる方法がないからだ。でもワイルは、うまい解決法をみつけた。シカゴにある物差しとコペンハーゲンや火星にある物差しをくらべるには、それを同じ場所にもってきて並べてやればいいのだ。もってくる経路によって長さは変わってしまうけれど、たいした問題じゃない。自分の使った経路がどんなふうに長さを変えるかを知っておけばいいだけだ。ということはつまり、長さをくらべるときの数学的基準こそが、この理論のポイントになってくる。別々の場所を決まった手順でつなげて、 経路依存の長さをシステマティックに比較できるようにするということだ。ワイルはこれを数学的に解決し、そのままでは比較できない二つのものを、同じ場所にもってきて直接比較する手法をつくりあげた。
  • しかしワイルの理論は、失敗に終わった。周知の実験結果と矛盾することを、アインシュタインがすぐに見抜いたからだ。こうしてワイルの理論は、科学の歴史のゴミ箱に葬られてしまった。でもゲージについての基本的な考え方――二つの量が物理的に等しいかどうかを決定するには、経路依存を考慮に入れた比較基準が必要だということは、彼の理論そのものよりもずっと重要な意味を含んでいた。
  • やがて一九五〇年代になって、ゲージ理論はよみがえった。ブルックヘブン国立研究所の若い研究者、楊振寧とロバート・ミルズの二人が、ワイルの理論をさらに一歩先へと進めたのだ。長さが経路依存であるような理論をつくることが可能なら、それ以外の性質についても経路依存でありうるのではないか、と二人は考えた。そこから二人は、ワイルよりもずっと複雑なゲージ理論の枠組みをつくりあげた。
  • ヤン=ミルズ理論として知られるようになったこの理論は、ゲージ革命とも呼ばれる大変革をもたらした。 そして一九六一年以降、物理学の基礎はゲージ理論のためにすっかり書き換えられることになった(やがて六〇年代後半になると、ヤンはルネサンス・テクノロジーズのジェイムズ・シモンズと共同で、ヤン=ミルズ理論と現代幾何学との深いつながりを発見する。これがゲージ革命をいっそう加速させることになった)。
  • ゲージ理論は物理学にとって、とりわけ重要な意味をもっていた。異なるものをくらべる基準があれば、自然界の基本的な力を「統一」して語ることが可能になるからだ。 一九七三年ごろまでには、素粒子物理学の三つの力――電磁力、弱い力、強い力――がゲージ理論のひとつの枠組みで説明できるようになった。これは標準モデルと呼ばれていて、現在までに発見されたどんな分野のどんな理論よりもしっかりと裏付けられている。これこそが現代の物理学の心臓にあたる部分だ。

 

  • 科学は知識の寄せ集めではなく、世界を知るための方法だ。 発見と検証と修正がつねにくりかえされる継続的なプロセスだ。 ウォール街で科学ができないと教授が言ったのは、つまり金融業界の体質がそうしたプロセスに向いていないという意味だった。
  • 投資銀行ヘッジファンドは、たいてい秘密主義だ。新たなことを発見しても、それを世間に公表してオープンに議論する習慣はない。
  • 物理学や生物学の場合、新たな発見は論文という形で専門誌に投稿され、そこでまず査読を受ける。査読というのは、その分野に詳しい研究者たちが、出版に値する内容かどうかを詳しくチェックすることだ。査読という第一関門をクリアしたアイデアは、今度は世の中の科学者たちの手ですみずみまでつつきまわされる。
  • 多くのアイデアは、こうしたプロセスの途中で挫折してしまう。世の中にでることのないまま終わる論文もあれば、誰にも注目されずに消えていく論文もある。たとえその論文が非常にすぐれていて、科学者たちに広く受け入れられたとしても、それが絶対的な理論として祭り上げられることはけっしてない。つねに批判を受けながら、次世代の理論やモデルを築くための踏み石として使われていくことになる。
  • 物理学とは、単に数理モデルや物理理論を学ぶことではない。問題は、そういうモデルをどのように理解するかということだ。
  • ゴールドマン・サックス社員でフィッシャー・ブラックの同僚だったエマニュエル・ダーマンは、オックスフォード大学数理ファイナンス課程の創始者であるポール・ウィルモットと組み、二〇〇九年に「フィナンシャル モデラー宣言」という論文を書いた。この論文の趣旨のひとつは、金融と経済を考えるうえで数理モデルが不可欠であるという事実を確認することだ。そしてもうひとつは、経済を教える 「先生」たちに、モデルというものが絶対的法則ではないという事実を思いださせることだった。

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  • 「モデルとは、現実を大まかに捉えるための道具である」と彼らは言う。 数理モデルはけっして万能ではない。不完全な前提に基づいたものだし、場合によってはまったく見当はずれなこともある。 モデルを有効に使うためには、しっかりとした常識をもち、そのモデルの限界を把握しておくことが必要だ。このことは数理モデルだけでなく、世の中のあらゆる道具にあてはまる。工事用の大型ハンマーで自宅の壁に絵を打ちつけようとすれば、結果は悲惨なことになる。
  • この本で紹介してきた歴史も、そのような考え方を裏づけるものになっていると思う。モデルというのは万能ではなく、特定の用途に使える道具だ。 そしてこの道具は、たえずバージョンアップされなければ正しく力を発揮できない。新たなモデルが登場し、そのモデルが機能しない状況が明らかにされ、それを踏み台にしてより強固なモデルが構築されていくのだ。

 

  • クオンツ危機と、その年の後半にやってきた余波は、まだほんの序の口だった。次の犠牲者は、八五年の歴史を誇る大手投資銀行ベアー・スターンズだ。
  • ベアー・スターンズは影の銀行システムを動かしていた中心的存在で、担保に使われる証券の多くを発行していた。この証券を支える住宅ローンのデフォルト率が急上昇すると、ベアー・スターンズの顧客はにわかに警戒しはじめた。そして二〇〇八年三月中旬、大手顧客が金を返してほしいと言いだした。最初にやってきたのはジェイムズ・シモンズのルネサンス・テクノロジーズで、五億ドルの返済を要求した。次にD・E・ショーがやってきて、 同じく五億ドルの資金を引き上げた。あとは古典的な取りつけ騒ぎだ。焦った顧客たちが押しかけて、一斉にお金を引きだそうとした。 ベアー・スターンズは身動きがとれなくなり、結局は政府の要請で、別の投資銀行であるJPモルガンに買収されることになった。
  • 危機はさらに加速した。本当のクライマックスは、その年の九月にやってきた。もうひとつの歴史ある大手投資銀行リーマン・ブラザーズが破綻したのだ。今度は政府が救済をおこなわなかったので、パニックはいっそう悪化した。
  • それからの数日間で、投資銀行の重鎮メリルリンチが経営難からバンク・オブ・アメリカに吸収合併され、最大手の保険会社AIGが破綻の危機におちいり政府の救済を受けた。銀行はお金を貸すことを恐れるようになった。何よりも、ほかの銀行にお金を貸すのが危険だった。相手の資産状況がどこまでも不確かだからだ。こうして影の銀行システムは一気に凍りつき、その負荷に耐えかねた金融市場はあえなく崩壊した。一〇月までに、アメリカの株式市場の四〇%にあたる価値が、跡形もなく消えてしまった。
  • 数理モデルのまちがいが、この危機の発生に絡んでいたことはたしかだ。サブプライムローン証券化して債券に似た商品をつくりだす過程には、デヴィッド・X・リーという統計学者の開発したモデルが使われていた。ところがリーのモデルには、根本的な欠陥があった。住宅ローンのデフォルトリスクを、別の住宅ローンのデフォルトに影響されないものとして見積もっていたのだ。
  • デフォルトが少ないうちは、この前提でうまくいっていた。何件かデフォルトしたからといって、住宅市場全体にはたいした影響はない。でも二〇〇六年になってデフォルト率が上がってくると、リーのモデルはとつぜん機能しなくなった。たくさんの人が返済不能になったせいで、本来は信用が高かったはずの住宅価格も下がりはじめ、近隣の地域を巻き込んでデフォルトの連鎖を引き起こしていったのだ。ただしこの事態は、モデルの欠陥以上の問題を含むものだった。リーのモデルに欠陥があったのはたしかだが、それだけが金融危機の原因ではない。サブプライムローン証券が諸悪の根源というわけでもない。
  • 数理モデルのまちがいは、原因のひとつにはちがいない。でもそれ以上に問題だったのは、一流金融機関の投資家たちが、モデルを科学的に使おうとしなかったことだ。リーのモデルは、一定の条件のもとではうまく動いていた。しかしどんな数理モデルであっても、その前提となる条件が崩れたら機能しなくなる。金融機関のリスクマネジメント担当者たちは、リーのモデルがどんなときに失敗するかという点を、あまり考えていなかったようだ。とりあえずみんな儲かっていたから、用心するのを忘れていたのかもしれない。
  • それ以上に根深い問題もある。金融危機はある意味で、政府の規制の手抜かりが引き起こした事態だった。影の銀行システムを、ずっと野放しにしてきたからだ。政府の人間は影の銀行システムのことをよく知らなかったか、あるいはそのリスクを見すごしていたようだ。業界にまかせておけばうまくいくと思っていたのかもしれない。いずれにせよ、二〇〇八年の金融危機は、こういうさまざまな原因が重なって起こったのだ。
  • 一九八七年の株価暴落のとき、オコナー&アソシエイツはうまく危機を回避して生き延びた。モデルの使い方が誰よりも上手だったからだ。そして二〇〇八年の金融危機のとき、ジェイムズ・シモンズのルネサンス・テクノロジーズは八〇%のリターンを上げた。ほかのどんなヘッジファンドよりも頭を使っていたからだ。ルネサンス・テクノロジーズが数々のファンドを差し置いて大きな成功をおさめた理由は、あのとき僕の指導教授が不可能だと言ったことを実現したからだった。
  • 彼らは、ウォール街で科学をやったのだ。
  • 科学をやったといっても、別に論文を世間に発表していたわけではない。ルネサンスは一般的なファンドよりもよっぽど秘密主義だ。でもルネサンスの社員たちは、物理学の考え方をいまも忘れていない。つねに前提を疑い、自分たちのモデルに小さな穴がないかどうかをチェックしつづけている。
  • ルネサンスの成功を可能にしたのは、そういうすぐれた社員の力だと言っていい。 クオンツのなかでも、飛びぬけて優秀な人間が集まっているからだ。そして同じくらい重要なのは、会社の体質だ。ルネサンスの研究者たちは、週の四〇時間をフルに使って自分の研究に打ち込んでいる。決められたスケジュールは何もなく、好きなように各自の研究を進められる。
  • ルネサンスは、けっしてみずからのルーツを忘れない。彼らの成功を見ればわかるように、理数系の頭脳は苦境の原因ではなく、解決策なのだ。

 

  • これまでの数十年間、政府はいつだって銀行や金融機関に遅れをとってきた。とくに二〇〇七年から二〇〇八年の金融危機については、あまりにも対処が遅すぎた。現場の投資家のほうが二歩も三歩も先を行っていたくらいだ。金融危機が起こる前、銀行はローンの証券化商品が抱えるリスクを見誤ってしまった。しかしそれを監督する立場だったはずの政府も、影の銀行システムの危うさを完全に見すごしていた。危機が起こったあとになって、ようやく規制の法案がでてきたというお粗末さだ。しかも新たな規制の内容は、すでに過去のものであるリスクにもとづいた初歩的な政策変更にとどまっている。
  • このままでいいわけがない。九・一一以降のアメリカは、諜報活動やテロ対策に膨大なリソースを費やしてきた。でも二〇〇八年の金融危機は、少なくとも経済的には、九・一一に劣らない損害をだしている。ほかのあらゆるリスクと同様、経済の災害を防ぐためにも僕らは全力をつくさなくてはいけない。FRBや証券取引委員会、世界銀行などの組織は、本来どんな金融機関よりもすぐれたプレイヤーであるべきだ。それが無理なら、学問の壁を超えた新たな経済研究機関をつくり、政策のアドバイスを頼んだほうがいい。世界経済を動かす立場の人びとが、ルネサンス・テクノロジーズに負けているようでは困る。
  • そろそろ本気をだすときだ。

 

 

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