ブルシットジョブ

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  •  クルトの仕事がブルシット・ジョブの典型例だとみなしうるのは、ひとつの単純な理由による。つまり、それらの仕事口がたとえ消えてなくなったとしても、世の中になんの影響も与えない(make no discernible differencein the world)だろう、ということである。

 

  • 価値のある仕事とは、あらかじめ存在している必要性に応えたり、ひとが考えたこともない製品やサービスをつくりだして、生活の向上や改善に資するような仕事ではないでしょうか。わたしは、ずっと昔の仕事はほとんどがこういう種類の仕事で、われわれが暮らしてきたのはそういう世の中だったはずだと信じています。いまとなっては、ほとんどの産業では供給が需要をはるかに上回っていて、それゆえ、いまや需要が人工的につくりだされるのです。わたしの仕事は、需要を捏造し、そして商品の効能を誇張してその需要にうってつけであるようみせることです。実際、それこそが、広告産業になんらかのかたちでかかわるすべての人間の仕事なのだといえるでしょう。商品を売るためには、なによりもまず、ひとを欺き、その商品を必要としていると錯覚させなければならない。もしも、そんなことにわれわれが携わっているのだとすれば、こうした仕事がブルシットでないとはとてもいえませんよね。
  • 広告業界マーケティング業界、さらには広報業界においては、この種の不満が非常に高まっており、もっぱら広告業界の労働者によって創刊された雑誌(『アドバスターズ」)が存在するほどである。かれらは生活のためにやらされてきた仕事に憤っており、みずからが広告業務で獲得してきた力を、悪事ではなく善いことに使いたいとねがっている。

 

  • だがもちろん、肝心な点は効率ではない。事実、もしも学生に効率的な仕事の習慣を教えることだけを考えるなら、最良の手段は、かれらの学習にゆだねることである。結局のところ、学業は、金銭が支払われないことを除けば(奨学金や仕送りを受け取っているならば、実際には支払われているわけだが)、あらゆる意味で
    実質のある仕事である。事実、パトリックやブレンダンは「現実世界」の仕事を引き受ける義務さえなければ、別の活動にかかわっていただろう。そして、その活動のほとんどすべてと同じく、学業は、実際には、かれらの余儀なくされた仕事もどきの仕事などよりもはるかに実質的なものだ。学業は実質的な内容をもっている。講義に出席し、文献を読解し、筆記訓練や論文作成に取り組み、その結果に対して評価を受けなければならないのだから。けれども実際には、まさにこのことが、学生たちに現実世界を教えなければと考えるようになった権威者たち――保護者、教師、政府当局など―――の眼に学業には欠陥があるようにみられている理由なのである。
  • それがあまりに結果重視にすぎるということだ。試験をパスしさえすれば、好きなやり方で勉強できるのだから。目標達成をめざす学生は自己規律を学ばねばならないが、これは命令下でいかに行動するかを学ぶことと同義ではない。もちろん、学生たちが関与する可能性のあるそれ以外の計画や活動のほとんどについても、同じことがいえる。演劇のリハーサルや、バンド演奏、政治活動、あるいはクッキーを焼いたりマリファナを栽培して同級生に売ったり、などなど。こうした活動が訓練としてふさわしい社会とは、自営業の大人からなる社会か、自律した専門家(医者、弁護士、建築家等)――かつて大学はこのような専門家を輩出すべく設計されていた――から主に構成される社会である。それは、パトリックの完全なるコミュニズムの夢想の主題でもあった、民主的に組織された集団の一員にすべく若者を訓練する方法としてもふさわしいかもしれない。しかし、ブレンダ
    ン が指摘するように、ブルシット化した労働環境に適応するための訓練とそれは、まったく相容れないのである。
  • この手の学生むけバイトの仕事の多くは、IDのスキャンや、からっぽの部屋の監視や、すでにきれいになっているテーブルの掃除といった、ブルシットな業務のたぐいです。学校に通いながら金が手に入るのだからと、だれもが、そうした業務を冷めた目でみています。とはいえ、学生に直接お金を渡して、そんな仕事は自動化したり取りやめたりしてもかまわないはずです。
  • 全体の仕組みについてはよくわかっていませんが、こうした仕事の多くは米連邦政府によって資金提供されていて、学生ローンとむすびついています。これは、学生に多額の負債を負わせるべく設計された連邦制度全体の一部であって――学生にとって借金を免れることはとてもむずかしいので、それによって将来にわたって労働に束縛されることが確実になります――、それに付随して、将来のブルシッ ト・ジョブのため の訓練と準備をほどこすべく設計された、ブルシットな教育プログラムもあるのです。

 

  • 金融の支配のもとで、企業活動のあらゆる次元にある種の競争ゲームが導入されてきた。さらにいえば、企業とは対極にあると考えられてきた大学のような組織やチャリティ活動の領域にも、競争ゲームが導入されてきた。おそらく、ハリウッドには、いまだ完全にブルシット化の波に呑まれない部分も残っている。しかし、経営封建制は、いたるところで、何千時間もの創造的な努力の時間を、文字通りゴミ箱行きにしてしまうであろう。ここでもう一度、科学研究や高等教育の領域をとりあげてみよう。助成機関が採用するのが、すべての申請のうちのたった10%だとすれば、申請の準備に投入された労働の90%は、アポロニアの「デブすぎてヤレない』という企画倒れに終わったリアリティ・ショーのプロモづくりに投入された労働と同程度、無意味だったということである(というか、もっと悪い。というのも、あとでそれをイカれたエピソードとして話のネタにすることもできないからだ)。これは人間の創造的なエネルギーの途方もない浪費である。この問題の規模を感覚的につかんでおこう。最近のある研究によると、ヨーロッパの大学は一年間でおよそ一四億ユーロもの大金を、通りもしない助成金申請に費やしているとい もちろんその大金を、研究資金として活用することもできたのはあきらかである。
  • 学者が論文や書評の執筆に対して報酬を受け取ることはないが、少なくとも、かれらに報酬を支払っている大学は、しぶしぶながらも研究は職務の一部であると認めている。ビジネスの世界はもっと悪い。たとえば、ニューヨーク大学でライティングの教授をしているジェフ・シュレンバーガーは、本書の原型となった2013年の小論にブログで応答し、いまや企業人の多数が、もし少しでも満足を感じられる仕事があるならば、それに対する報酬は支払われるべきではないと考えていると指摘している。
  • グレーバーによれば、ブルシット・ジョブは道徳的責務を伴うものである。「あなたがつねに忙しくしていなければ――なんで忙しいのかは大した問題ではないのでなんでもよい――、あなたは悪人なのである」。だが、このような論理には裏面があって、それはつぎのようなものである。あなたがXというおこないを本
    当に好んでいるとする、それに、そのおこないには価値もあり意味もあって、内面的な報いをあなたにもたらしてくれるとする。とすれば、そのおこないに(十分な)報酬を期待するのはまちがっている。そのおこないによって他者が利潤を得るとしても(とりわけそのようなばあいこそ)、無償でそれをおこなうべきである。
    いいかえれば、われわれはきみが好きなことを(タダで)やることで食わせてもらうが、きみの食い扶持はきみのいやなことをやって稼がなきゃならないのであって、そうじゃなきゃ許さないよ、というわけだ。

 

  • 前章で展開した「価値」と「諸価値」の対立に立ち戻るならば、つぎのようにいえる。もしたくさんお金を稼ぎたいのであれば、そうする方法はある。一方で、もし別のかたちの価値――真実(ジャーナリズム、アカデミックな研究)、美(アート世界、出版界)、正義(社会運動、人権活動)、チャリティなど――を追求し、なおかつそれで食っていこうとするならば、家族の資産や社会的ネットワーク、文化資本などがある程度なければ、それは端的に不可能である。「リベラル・エリート」とは、お金を稼ぐこと以外の目的をもって活動してもお金を稼ぐことができる地位に実質的に組み込まれている人びとである。かれらはあたらしいアメリカの貴族階級になろうとしており、おおむねそれに成功しているとみなされている。ハリウッドの特権階級と同じである。かれらは世襲の権利を独占し、それによって豊かな暮らしと高い目的に寄与しているという充実感―――高貴であるという実感―の両方を得ることのできる職に就いているわけだから。

 

  • 労働にかかわりのない万人の生活保障が提起されると、最初にあがる典型的な反論は、そんなことをしたら人間はたんに働かなくなるだけだというものである。しかし、これは明白な誤りであり、ここではあっさりと退けてよいと思う。二つ
    めのより深刻な反論は、たいていの人間は働くかもしれないが、その多数が自己満足的な関心でのみ働くのではないか、というものだ。つまり、へたくそな詩人とか、ひとをイラつかせるようなパントマイマーや、イカれた科学理論の布教者などで街は満ちあふれ、だれもやるべきことをやらなくなるだろう、というわけだ。ブルシット・ジョブ現象が痛感させてくれるのは、そのような発想の愚かさである。自由な社会の一定の層が、それ以外の人びとからすればバカバカしいとか無駄だとおもえる企てに邁進するであろうことはあきらかである。しかし、
    そのような層が、10や20%を超えるとはとても想像しがたい。ところが、である。富裕国の37%から40%の労働者が、すでに自分の仕事を無駄だと感じているのだ。経済のおよそ半分がブルシットから構成されているか、あるいは、ブルシットをサポートするために存在しているのである。しかも、それはとくにおもしろくもないブルシットなのだ!もし、あらゆる人びとが、どうすれば最もよいかたちで人類に有用なことをなしうるかを、なんの制約もなしに、みずからの意志で決定できるとすれば、いまあるものよりも労働の配分が非効率になるということがはたしてありうるだろうか?