大学なんか行っても意味はない?――教育反対の経済学

シグナリング理論を軸にした非常に面白く読み応えのある論考。大学や大学院の卒業要件が簡単で、大半が何も学ばずに4年間を過ごす日本人とっては賛同するべきところも多いのではないだろうか。高校卒業時の受験問題を解く能力の順位付けを金科玉条のごとく崇め奉っているが、それもまたシグナリングに過ぎないのだ。高校や大学の教員利権、アカデミアの研究費利権について、資本主義国家は再考するべき時なのかもしれない。※放棄所得は機会費用と訳してほしかった。

 

  • 誤解のないよう言っておくが、役に立つスキルを教える、経済学者の言葉で言えば「人的資本を形成する」教育も多少あることを肯定するのにやぶさかではない。学校では読み書きと計算を習う。 このスキルは現代のほとんどの仕事で必要とされている。私は大学院で統計学を学んだ。今の仕事では統計学を使っている。本書では人的資本論を批判しているが、学校が人的資本を多少形成するという見方を否定するものではない。本書が否定するのは「人的資本純粋主義」|aほぼすべての教育が仕事で役に立つスキルを教え、その仕事のスキルが教育が労働市場で見返りをもたらすほぼ唯一の理由である、とする見方である。
  • 同様に、本書で教育のシグナリング理論を擁護するからといって、教育のすべてがシグナリングだと主張しているわけではない。教育のかなりの部分がシグナリングであると言っているのだ。「かなりの部分」とは厳密にはいかほどか。第一に、学生が学校で過ごす時間の少なくとも3分の1はシグナリングである。第二に、学生が享受する金銭的な見返りの少なくとも3分の1はシグナリングである。個人的には、シグナリングが占める割合は50%を超えていると考えている。おそらく80%に近いのではないか。・・・我が国の教育制度にシグナリングが占める割合がたとえ3分の1程度であったとしても、膨大な時間とお金が無駄遣いされていることがわかるだろう。

 

  • 私が博士課程の学生に経済学教授になるためのトレーニングをする場合は、魔法は介在しない。学生は私と同じ仕事をしたがっている。やり方を教えるまでだ。だが私の教え子の大部分は経済学教授にはならない。何の教授にもならない。では私の授業はどうやって教え子たちのエンプロイアビリティ「鯛だ。]を高めるの
    か。私は自分の知らないことは教えられない。教え子たちの大半が就く仕事のやり方を私は知らない。ほとんどの大学教授が知らない。
  • 魔法に実体はない。象牙の塔での業績が実社会での成功になぜ結びつくのか、論理的な説明がなければならない。ここでその説明をしよう。学生が学ぶことと労働者がすることに違いはあっても、学業成績の良さは労働者としての生産性の高さの強いシグナルになるのだ。労働市場が報酬を出すのはあなたが習得した役
    に立たない学問に対してではない。それを習得したことによって示した、あなたにあらかじめ備わっている特性に対して報酬を出すのである。
  • 学生にあらかじめ備わっているスキルを認証するのは実に簡単なので、これまでの人生をずっと世間から隔絶された象牙の塔で過ごしてきた私でもやり方を知っている。どうするかって? 典型的な大学教授がすることをすればよい。自分がハマっているオタク的興味について講義する。学生に宿題をやらせ、試験を受けさせる。学期末に授業内容の習熟度に基づいて学生の成績をつける。奇跡でも起こらなければ、教え子が仕事でマフィアの経済学を活用することはない。それでもいいのだ。私の授業で高成績を取るのにふさわしい資質が仕事で高い業績を上げるのにふさわしい資質と合致している限り、雇用主が単位を落とした学生よりAを取った教え子を選ぶのは賢い。

 

教育という錬金術

  • 他を考慮せず卒業生の給料の額だけを見るなら、教育は鉛を黄金に変える錬金術だ。飲食店員を入れると経済コンサルタントになって出てくる。教師にしてみれば、自分の手柄とついつい考えたくなる――角帽姿のかつての教え子を眺めて「我ながらよくやった」とほれぼれしたい。だが自分の胸に正直に聞いてみたと
    したら、教師は自画自賛をためらうはずだ。われわれは本当に飲食店員を経済コンサルタントに変えたのかーそれとも飲食店員に経済コンサルタントの資質があると評価したにすぎないのか。
  • 喩えるなら、一個の石の市場価値を上げる力は彫刻家にも鑑定家にもある。彫刻家は石を作品に作り上げることによって市場価値を上げる。鑑定家は作品の価値を判定することによって市場価値を上げる。教師であるわれわれは「自分がしたことはどの程度が彫刻で、どの程度が鑑定なのか」と自問しなければならない。
    教師が自問しないなら、かわりに卒業生がそれを問わなければならないのである。

 

  • なぜ数学専攻が教育学や「公園/レクリエーション」学専攻と同じ分類に入っているのか。見方によっては、数学ほど技術的スキルが身につく専攻科目は他にない。しかし純粋数学には明確な就職先がない。多くの雇用主は数学専攻学生を、全般的な数学能力を評価して雇う。だが学問の世界以外で、定理の証明に給料を払ってくれるところなどない。
  • 有益性低―この分類に入る専攻科目の大半 「美術、哲学、女性学、神学など――は位置づけに異論がないだろう。リベラルアーツ・プログラムは「知のための知」という理想を掲げている。ほとんどは、社会に出たときに備えて学生を育成するという体面を繕うことすらしない。コミュニケーション学と心理学の有益性の評価が低すぎるとあなたは言うかもしれない。これらの専攻科目はジャーナリズムや心理学の仕事に就く学生を養成しているのでは?と。だがそれは「歴史学歴史学者の仕事に就く学生を養成しているのでは?」と言うに等しい、世間知らずな抗議だ。心理学とコミュニケーション学と歴史学の有益性を「低」にしたのは、有給の仕事を獲得するのが不可能に近い分野で学生を育てているからだ。 2008–2009年度に心理学の学士号を取得した学生は9万4000人いるが、国内で心理学者として働いている人の数は7万4000人しかいない。同年にコミュニケーション学の学士号を取得した学生は8万3000人以上いる。記者、特派員、ニュース解説者の仕事の総数は5万4000だ。歴史学者は予想通り最も前途が厳しい。歴史学を修めた新卒者は3万4000人以上いるが、歴史学者として働いている人は全国で3500人しかいない。これらの学位を取得した学生の大多数は、専門外の分野で就職している。そう考えなければ帳尻が合わない。
  • 断固たる教育擁護派は科目や専攻を「有益性」で仕分けするという考えを認めない。ラテン語や三角法やエミリー・ディキンソンの知識がいずれ仕事の役に立たないとどうしてわかる?ある男性は、フランス語の知識があったおかげでパリの空港でアナウンスが理解できたと話してくれた。高校時代にフランス語をやっていなければ飛行機に乗りそびれていただろう。今、数年間投資しておけば、いつの日か空港で数時間を無駄にせずにすむかもしれない。ほら、フランス語の勉強は役に立つでしょう!こういう主張を聞くと「ホーダーズ Hoarders」「溜め込む人々の意」というドキュメンタリー番組を思い出す。番組に登場するのは常軌を逸した所有欲で人生を狂わせた人々だ。猫を集める人、古い冷蔵庫を集める人、自分が出したゴミを溜め込む人もいる。使うわけでもない所有物をなぜ一部でも捨てないのか。お決まりの答えが「いつか必要になるかもしれない」。牛乳の空容器100本がいつか「必要になるかもしれない」というのだ。
  • 文字通りに取るなら、ホーダーズの言い分は正しい。彼らのゴミがいつか必要になる可能性はある。だが常識で考えれば、家にゴミをぎっしり溜め込むのは大体においてよろしくない。保管費用と役に立つ可能性を天秤にかけるべきだ。
  • 知識についても同じである。たしかに、いつかラテン語が「必要になるかもしれない」。もしかしたらタイムマシンで古代ローマに迷い込むなんてことがあるかもしれない。それでも、ほぼ確実にありえないシナリオに備えて死語になった言語を何年もかけて学ぶのは理にかなっているだろうか。不可知論に逃げてはいけない。「このゴミがいつか役に立つか否かは誰も知りえない」はゴミを溜め込む理由としてナンセンスだ。
  • 「この知識がいつか役に立つか否かは誰も知りえない」は知識を溜め込む理由としてナンセンスだ。

 

科学

  • 科学の初歩がわかっているアメリカの成人はほとんどいない。総合的社会調査がその無知ぶりの何よりのエビデンスだ。近年、この調査は12の基本の科学的事実について一般人の知識をテストしてきた(表2-4参照)。正解した成人は60%だった。低いと思われるかもしれないが、これは大きく水増しされた数字だ。正/誤二択の質問だから、あてずっぽうでも50%の確率で正解できるのだ!
  • あてずっぽうの分を差し引いたら、一般人の科学知識のなさはあきれるばかりだ。地球が太陽の周りを回っていることを知っているアメリカの成人は半数そこそこしかいない。原子が電子より大きいことを知っているのはわずか32%だ。抗生物質ではウイルスは死なないことを知っているのは14%だけ。進化の知識があ
    る人はゼロをわずかに上回るほどしかいない。ビッグバンを知っている人は実質ゼロを下回る。コイントスで回答した方が正答率が高いくらいだ。あてずっぽうの分を差し引いた補正後の平均を出すと、平均的な回答者が正解を知っていたのは4.6問。これら12の子供向けの質問について成人が知っていることをすべて高校の科学の授業で習ったのだとすると、1年間に学習したのは1.4問ということになる。
  • 大半の回答者がビッグバンと進化を信じていないのを、おそらく教育者はキリスト教原理主義のせいだと言うかもしれない。だが科学の初歩についての無知は宗教とは関係がない。聖書が書かれた通りの真実であることを否定しているアメリカの成人のうち、2問すべてに正解したのはわずか7%なのだ。質問の易しさを考えれば、アメリカ人の科学の知識は可もなく不可もなしと結論づけるべきではない。アメリカ人の科学の知識はほぼ皆無だと結論づけるべきである。

外国語

  • 高卒者は平均2年間、外国語の授業を受けている。成人はいかほどの成果を見せてくれるだろうか。総合的社会調査(GSS)でだいたい正確な推定ができる。この調査では回答者に次の質問をしている。「あなたは英語以外の言語を話せますか?」「その言語をどれくらい流暢に話せますか?」「その言語を初めて習ったのは子供のときに家庭でですか、学校ですか、それ以外の場所ですか?」
  • 結果は、まったくお粗末きわまりない。学校で外国語がペラペラになった人は実質、一人もいない(図2-5参照)。学校の勉強で外国語が「上手に話せる」ようになったと言う人はわずか0.7%だ。学校の勉強で外国語が「まあまあ上手に」なったと言う人が1.7%。これは自己申告なので、本当の言語能力はもっと低いにちがいない。家庭で習得しない限り、外国語はほぼ確実に身につかない。これが厳しい現実である。
  • アメリカ人の驚異的な無知は人的資本純粋主義への致命傷にはならないかもしれないが、それでも気まずい事実だ。学校で学ぶことがこれほどわずかしかないのであれば、なぜ雇用主はこれほど大きく教育に報いるのだろうか。最も簡単な答えは、雇用主が教師と同様、相対評価をするというものだ。読み書き計算能力
    が中庸というとインテリは眉をひそめる。だが雇用主から見れば、中庸は基礎や基礎未満よりよほどましである。
  • この答えの主な欠点は、学校で出来が良かった成人でさえたいてい歴史、公民、科学、外国語の基礎知識がないことだ。それでもこれらの科目を落とせば就職には不利になる。スペイン語を落とせば高校を卒業できず、大学に進学できず、労働市場に冷たくあしらわれる―――大半の学士も同じように母国語しか話せなくても。人的資本純粋主義者はこれをどう説明するのだろう。

 

  • ジョンズホプキンス、MITなど評価の高い大学の研究者らが、大学レベルの物理学で優秀な成績を取った学生が、授業で教えられ試験を受けたのとは少しだけ形を変えて出された基本的な問題や質問を解けないことが頻繁にある、と報告している。
  • コインを投げ上げたら、空中で作用する力はいくつあるだろうか。教科書の答えは「一つ」だ。コインが手を離れた後、コインに作用するのは重力だけである。ところが人気のある答えは「二つ」だ。コインを投げ上げた力がコインを上昇させ続け、重力がコインを下に引っ張るという。誰に人気があるのか? ほぼすべての人だ――物理学の学生も含めて。学期が始まった時点で、力学入門の授業を取っている大学生のうちコイン問題に正解するのは2%しかいない。学期が終わる時点でも2%が正解できない。難しい宿題や試験問題のこなし方を覚えた後でも、学んだことを単純な実生活の事例に応用する者は一握りしかいないのだ。

 

しつけと社会性

  • 教育者は自分たちが生徒に考え方を教えていると豪語する。だが子供たちが学校で何を身につけているのか、素人に好まれやすいのは、それよりもっと冷めていて信用性の高い説、すなわちしつけと社会性だ。
  • 学校は学生に協調させ、対立をおさめさせ、チーム作業をさせ、身だしなみを整えさせ、きちんとした言葉遣いをさせることによって、社会的スキルを身につけさせている。ふつうの労働者は階層制組織の中で退屈な仕事をして日々を送る。おそらく教育は子供たちを将来担う役割に慣らしているのだ。
  • すべてもっともらしい主張だ。学生が耐えている何千時間もの苦役と人づきあいを考えれば特に。しかししつけと社会性を身につけさせるという説は重大な疑問を見落としている。学生が学校に行かないとしたら、かわりに何をするだろう?10代を自宅でビデオゲームばかりして過ごす若者は野放図に育つかもしれない。でもその10代を働いて過ごしたとしたら? 仕事でしつけが身につく。仕事で社会的スキルが身につく。なぜ教育が仕事の世界そのものよりもうまく仕事の世界に備えさせる、などと言えようか。
  • 学校が教え込むのは労働倫理というより学校の倫理だ。この二つの倫理は完全に一致するわけではない。たしかに学校も仕事も、指示に従い他人と協調することを教える。だが成功の定義と尺度はそれぞれ違う。学校は現実的な成果よりも抽象的な理解、市場テストに通るよりも試験に通ること、銭金よりも公正さを重んじる。このせめぎあいをアンドリュー・カーネギーが辛辣に指摘している。
  • 人は子息を大学にやってギリシャ語やラテン語のような、実用性のなさではチョクトー語(ネイティブアメリカンの一部族の言葉)と大差ない知識の獲得にエネルギーを浪費させてきた。[…] 蛮族同士のささいで取るに足りない小競り合いの詳細を詰め込まれ、悪党の集団を英雄とあがめたてまつるよう教え込まれる。それをもって私たちは「教育を身につける」と呼んできた。「教育を身につける」と、まるでこの地球とは別の惑星での人生が宿命づけられるかのようだ。[…]若者たちが身につけた代物は、彼らに誤った考えを吹き込んで実人生に嫌悪感を持たせる働きをしてきた。 […] 大学に行っていた数年間を実業の世界で過ごしていたら、本当の意味での教育が身についていただろう。若者の情熱とエネルギーは踏み消され、有為の人生ではなく無為の人生をいかにうまく生きおおせるかが彼らの大命題になってしまっているのだ。
  • カーネギーを前時代的だの俗物だのと言って片づける教育者が、まさに私の正しさを証明している。学校は、倫理的な価値はともかくとして、仕事での成功を邪魔する態度を山ほど教え込む。子供に大人になる準備をさせるのであれば、1年間学校に通わせるより1年間仕事を経験させた方が、もっとふさわしいしつけと社会性が植えつけられる。

 

  • 教育には見返りがあるかのように見える。これについての人的資本純粋主義の説明は、教育が有益な仕事のスキルをたくさん教えるから、の一点張りだ。つい信じたくなる説だ……学校が何を教え、学生が何を学び、大人が何を知っているかを精査するまでは。これがわかってしまうと、人的資本純粋主義は単に誇張というだけでなくジョージ・オーウェルの描いたディストピア風に見えてくる。学校が教えることの大半は労働市場では何の価値もない。学生には教えられたことの大半が身についていない。大人は学んだことの大半を忘れている。この不都合な事実を口にすると、教育者はミラクルで反論してくる。何かを勉強した経験によって何でも上手にできるようになるのだと。教育心理学者の1世紀にわたる研究によってそのミラクルが気休めの神話であると暴かれたことぐらい何だというのだ。
  • たしかに楽観的に見れば、私がまとめた事実は別のとらえ方もできる。学校が教えることの大半が労働市場では何の価値もないとすれば、学校で教えることの一部には価値がある。学生が教えられたことの大半を身につけられないとすれば、教えられたことの一部は身についている。大人が学んだことの大半を忘れているとすれば、学んだことの一部は覚えている。
  • 異論はない。だが疑問は残る。学校で学ぶささやかな仕事のスキルで、卒業後に獲得する報酬の上乗せ分の説明はつくのだろうか。答えの決め手はプレミアムの大きさだ。少なくとも表面上は、現代の教育は非常にお金になる。ささやかな学びが本当に法外な所得に結びつくのだろうか。それとも、教育の一見すると莫大な見返りは統計上の幻影なのか。

 

実在する謎、無益な教育の大きな見返り

  • 世の中には使えない専門家があふれている。南北戦争なり『スター・トレック』なりの全知識をマスターしたとして、雇用主はあなたにそんな難解な知識があっても「何もできない」と一蹴するだろう。学生が耐えてこなしている無益な教育課程はオタク趣味と同程度の金銭的見返りしかないのではないか、と推測したい誘惑にかられる。日常生活を見回せばその誘惑はさらに大きくなる。大卒なのに無職の人、博士号を持っているのにレジ打ちをしている人、どれも従来型の大学のカリキュラムが市場テストではじかれている証拠ではないか。
  • しかし所得統計を精査すれば、まるで異なる風景が見えてくる。教育程度が上がると給与も上がる。収入格差は絶大だ。 2011年に、修士号以上の学位を持つ人は高校中退者の3倍近くも稼いでいた。学歴が一段階上がるごとに大きな効果があるようだ。この情報化時代に高卒の資格などたいした意味がないように思われるが、高卒者は中退者より30%も給与が高い。国勢調査局からそのまま持ってきた数字だ。

小麦VSもみ殻?

  • 教育はこれほどまでに仕事の能力と無関係なのに、なぜこれほどまでにお金になるのか。明快な説明が一つ存在する小麦/もみ殻理論と呼ぼう――シグナリングに訴えない説だ。 この理屈では、教育には金銭的見返りの高い小麦(読み書き、計算、批判的思考、技術教育)と金銭的見返りのないもみ殻(歴史、ラテン語、体育、フランス語詩)が混じり合っている。学校教育がお金になるのは公式統計では「実務に直結した」授業と「実務に直結した」専攻を「お遊びの」授業と「お遊びの」専攻と一緒にしているからだ。
  • 小麦/もみ殻理論は現状を絶対的に支持するものではない。「カリキュラムにはきわめて貴重な仕事の下地作りと仕事とは無関係の埋め草が入り混じっている」とすれば改善の余地はおおいにある。小麦/もみ殻理論は教育制度を褒めているようで実はけなしているとも言えるかもしれない。それでも、もしこの説が正しいなら、教育制度は―欠点はあるにせよ――本当に学生を錬金術で優秀な労働者に変身させていることになる。
  • しかしエビデンスを見ると、小麦/もみ殻説はよくいっても誇大宣伝だ。小麦がもみ殻より金銭的見返りが高いのは明らかだが、もみ殻にも確実に金銭的見返りがある。ほとんどの教育課程では入学か卒業に(あるいは両方に)膨大なもみ殻の履修が必須なのだから、もみ殻に金銭的な見返りが発生すると考えるのは当然だろう。
  • 工学を例にとろう。図3-2を単純に解釈すると、平均的な教育学専攻学生が工学専攻に転向すれば5%収入が上がると読める。しかし平均的な教育学専攻学生のSATの得点、高校時代のGPA、数学の素養を見ると事情は違ってくる。工学に転向した平均的な教育学専攻学生の収入増は本当はどれほどだろうか。本の別個の論文の推定は5%増から8%増と幅があり、平均すると4%増となる。この補正値は実は楽観的だ。教育学専攻学生に工学のカリキュラムを修了する能力があることを前提にしているからだ。実際は、熱意のある工学専攻学生ですらもっと楽な専攻に逃げてしまうことがよくある。私がカリフォルニア大学バークレー校の学部生だったとき、「GPAの下限が0に近くなったら政治学に行け」という文字の入ったTシ
    ャツが流行っていた。元工学専攻の学生たちには笑えないユーモアだったが。
  • それはさておき、小麦/もみ殻理論の真偽を正しくテストするには、収入の高い専攻を収入の低い専攻と比較すべきではない。小麦/もみ殻理論はもみ殻が労働市場では価値がないと言っているのだから、収入の低い専攻を高卒と比較するのが正しいテスト法である。図313は大学プレミアムと専攻プレミアムをあらかじめ備わった能力で補正した場合、各専攻がどれだけ収入を得られるかを示す。
  • 収入が最も高い専攻だけを見れば小麦/もみ殻理論には信憑性がある。しかし小麦/もみ殻理論をテストするには、収入が最も低い専攻まで見なければならない。結果はどうか。大学便覧に掲載されている収入が最も低い専攻の収入プレミアムは約3%である。世間でばかにされる多くの専攻―人類学、考古学、英語、リベラルアーツ社会学、歴史、コミュニケーション――は収入を約30%押し上げる。政治学専攻学生は経営学専攻学生とほぼ同等の収入で、どちらも生物学専攻学生よりわずかに収入が高い。
  • 経済学教授として最も目をむいた小麦/もみ殻理論への反撃材料は、経済学専攻が工学専攻とほぼ同じくらい稼いでいることだ。私の職業が労働市場に備える訓練を学部生に施す努力をほとんどしていないことは、私が保証する。カリフォルニア大学バークレー校やプリンストン大学のようなエリート大学ですら学生たちに甘い。率直に言って大半の経済学教授は昔のソ連のジョーク「国は賃金を払うふりをし、国民は働くふりをする」ではないが「われわれは教えるふりをし、彼らは学ぶふりをする」を実践している。4年間の勉強期間の間に、優秀な学生であれば売れるスキルを二つだけ身につける。初等統計学と、割引現在価値を計算する能力だ。
  • では経済学教授は8期の授業を何で埋めているのか。教授陣を魅了しているトピックを水で薄めた内容だ。すなわち需要と供給の問題、数理経済学、経済成長、そして呼称から期待するほどには「応用」されていないあまたある分野――マクロ経済学、産業組織論、労働経済学、規制論、公共選択論、経済史。仕事のスキルという観点からすると、経済学の学位はほぼすべてもみ殻である(経済学教授を目指す者以外にとって)。ところが、私たちが経済学専攻学生に職業訓練を施せていないにもかかわらず、労働市場は卒業生を工学専攻学生と同等に遇している。
  • 小麦/もみ殻理論に公正を期して言うが、経済学は外れ値である。最もお金になる専攻は職業に関わる個向が高い。工学専攻学生とコンピュータサイエンス専攻学生は文句なしのトップであり、金融学、会計学、謎看護学がほぼ互角で後に続く。しかしそれでも、役に立たない楽勝科目を専攻して4年間遊び暮らした学生
    が、「時間の無駄だから大学には行かない」という同世代より5%高い収入を当然のように期待できるという事実は残る。

小麦ともみ殻とミスマッチ

  • 仕事と専攻はどの程度の関係があるのだろうか。大卒者の約5%が「密接な関係がある」、5%が「まあまあ関係がある」、3%が「まったく関係ない」と答えている。この回答はおそらくエゴによって歪められている。自分の仕事と専攻が「まったく関係ない」と白状したい人がいるだろうか。しかしそれでもこの回答には意味がある。ミスマッチを認めている人々は、専攻に合った仕事に就いている平均的な人よりも収入が0―2%低い。職業と関連のある専攻ほど、ミスマッチのリスクは低い。
  • これらの事実はすべて小麦/もみ殻理論と一致するが、一つ重大な矛盾がある。職業と関連性の高い専攻ほど労働市場においてミスマッチが不利になるのだ。工学専攻学生とコンピュータサイエンス専攻学生の場合は20%以上、医療系の専攻学生は30%近く収入が減る。それに対して職業と関連性の低い専攻の場合、ミスマッチによるペナルティはほぼゼロである。英語専攻と外国語専攻ではミスマッチによって収入が約1%減少する。哲学専攻と宗教学専攻の場合はミスマッチによって収入はなんと20%増える! 「実務に直結した専攻」のメリットを十二分に享受するためには、受けた訓練を使う仕事に就かなければならない。それに対して「お遊びの専攻」のメリットを十二分に享受するためには、大学の学位を求める仕事に就けばよいだけだ。そして小麦/もみ殻理論とは裏腹に、お遊びの専攻のメリットはばかにならない。
  • 小麦/もみ殻理論の提唱者として最も有名なのはおそらくコメディアンのジェイ・レノだろう。レノいわく、「大学で哲学を専攻する学生は、コップの水が半分入っているのか半分空なのかを研究する。後にウェイターの仕事に就く下準備をしているわけだ」。レノが言っていることはあながちまちがいではない。哲学は収入の低い専攻であり、哲学専攻学生の一部は実際にウェイターの仕事に就く。しかし統計的には、レノの言葉は誇張である。平均的な哲学の学士号取得者は、能力は同等でも大学に行かなかった者より30%近く収入が高い。学位は仕事の能力を上げる役には立たないかもしれないが、良い仕事に就く役には立つのだ。哲学だけが特別なのではない。何であろうと勉強すれば、何も勉強しないより金銭的な見返りがある。

 

IQ「ロンダリング

  • 人的資本純粋主義者はよく「労働者がなぜ3時間のIQテストではなくわざわざ4年間の学位で能力をシグナリングするのか」と言って抗議する。雇用主がIQは高くても真面目さと協調性に欠ける低学歴の就職希望者を恐れるのは当然ではないか、が私の答えだ。しかし教育産業に批判的な人々はもっとあっさりした答えを用意している。アメリカの雇用主がIQテストより学歴に頼るのは、IQテストが実質的に違法だからだと。
  • 1991年に公民権法に条文化されることになる画期的な判決となった1971年のグリッグス対デューク・パワー社裁判のおかげで、IQで採用する会社は高額な訴訟リスクを負う。なぜか。IQテストには黒人およびヒスパニック系の就職希望者に差別的効果があるからだ。責任を問われないためには、雇用主はIQテストの実施を「業務上必要」であると証明しなければならない。この法的なハードルを乗り越えるのはほぼ不可能であるため、雇用主は労働者のIQスコアを「ロンダリング」 する方法として高学歴に頼っているのである。ジョナサン・ラストがいみじくも述べている通りだ。
  • グリッグス裁判では、人種的マイノリティのIQテストの成績が相対的に低い場合、雇用主はIQに類するテストに依存してはならないという判決が下った。そこで雇用主が行っているのは、テストスコアの取得を大学を通してロンダリングすることだ。大学はこのような考課材料の利用を許されているからである。

 

幸福度

  • 学歴の高い人の方が平均して幸福度が高い。本当に教育によって人の幸福度は高まるのだろうか。二重計算を避ける限り、エビデンスは弱い。教育は、所得で補正したとしても、幸福度を多少は上げるかもしれない。ある研究チームが、大卒者は高卒者より2パーセンテージポイント、高卒者は高校中退者より4パーセンテージポイント、幸福度が高い傾向があると報告している。しかし所得と健康の両方で補正した研究では、教育はむしろ幸福度を下げる可能性があるとしている。この場合も、おそらく教育は期待値を膨れ上がらせているのである。大卒者は客観的に見て比較的幸運であるため、世の中が自分に敵対しているという主観的な感情を持たずにすんでいるのにちがいない。エビデンスは両方の結果が混在しており弱いため、計算では幸福度に対する教育の効果をゼロとする。

 

  • ステイシー・デールとアラン・クルーガーの有名な2本の論文では、大学の格はほぼ無価値だとしている。二人が注目したのは一部の主に難易度の高い大学ではあるが、代表サンプルで同様の結果を得ている。彼らの最も驚くべき発見は、質の高い大学に多数の願書を提出する学生は、実際にそれらの大学に進学したかどうかに関係なく、キャリアで飛び抜けた成功を果たしていることだ。理由は、まさか労働者が17歳のときに送った願書の数をもとに雇用主が給与を決めているからではないだろう。大学受験で上を目指して相応の努力をする人には野心と意志の力――この二つは労働市場が高く評価する特性である――が強い、と解釈するのが妥当だ。デールとクルーガーの結果が信じがたいと思うなら、ハーバードにも入れるくらい優秀な一人の学生に、デラウェア大学が学部を挙げて目をかけ支援するところを想像してみてほしい。
  • デールとクルーガーの研究は興味深いが、とはいえ外れ値である。他の専門家はほぼ全員が、大学の格に何らかの金銭的見返りを発見している。実際、デールとクルーガーも大学員に関する情報を度外視すれば、同じく大学の格に金銭的見返りを発見しているのである。『バロンズ』誌の格付けで大学の質を測定した研究者は概して、「トップ」大学の卒業者は「底辺」大学の卒業者より約20%収入が多いとしている。SATの平均点で大学の質を測定した研究者は、SATの平均点が100ポイント上がると、卒業生の所得は1%から11%上がるとしている。授業料で大学の質を測定した研究者は、授業料が1000ドル上がるごとに卒業生の収入は0–1%上がり、10%上がると卒業生の収入は0-1.4%上がるとしている。私立校と公立
    校の比較も行われているが、結果はばらつきがある。なかでも目を引く研究は、さまざまな測定尺度を丹念にまとめて大学の質の総合指標を作成している。最終結果。底辺からトップの四分位数に移動すると、男性の収入は約12%、女性の収入は約8%上がる。
  • ということは、貪欲に稼ぎたい人が大学に行くなら、入れる中で最も難易度の高い大学に入学すべきなのだろうか。そうとは限らない。直観的には、いい学校ほど難しく、難しい学校ほど修了の確率は低いと考えるだろう。カリフォルニア工科大で果たしてやっていけるのか? 卒業率を見ると、良い大学ほど学生の修了確率はふつうよりも高いのがわかるが、これにはわかりやすい説明がつく。トップ校の学生は指折りに難しい授業を楽々とこなせるほど優秀だからだ。
  • 不思議なことに、この話題になるとほとんどの専門家が結局、この常識感覚による説明を否定する。専門家の一致した見解は、一流校は入った者勝ちだということだ。プリンストン大学に無作為にどんな学生を入れても、卒業の確率と卒業後の給与は自動的に上がる。なぜか。勉強と怠けは伝染するからではないだろうか。周りが勤勉な学生ばかりだったら、怠けていると孤立してしまう。一流校の学生たちには研究者が見落としている別の優位性があるのではないかと私は個人的ににらんでいる。それでも、エビデンスに照らして、私の収益率の計算では大学の質と修了の確率は無関係とする。
  • では、底辺校ではなく一流校から卒業する分のリターンはどれだけあるのか。研究結果がばらついているため、図5-9では大学の質プレミアムの推定値を低、中、高で出している。低い推定値は大学の質プレミアムをゼロとしている。中程度の推定値では一流校を卒業すると報酬が5%高く底辺校では5%低く――なる。高い推
    定値は一流校で+10%に、底辺校で-10%である。当面、授業料は年間3662ドルで固定していると想定しよう。
  • 大学の質が上がっても授業料は上がらず修了の確率が下がらないとすれば、学生にとって考慮に値する選択肢は二つだけとなる。入れる中で最高の大学に行くか、大学には進学しないかだ。ここで興味深いインプリケーションがある。大学の質プレミアムが上がるほど、大学は「秀才君」と「優等生君」にとっては得な取引になり、「凡才君」と「鈍才君」にとっては損な取引になるのだ。なぜか。優秀な学生は良い大学に入れるが、出来の良くない学生はそれほど良くない大学で妥協しなければならないからだ。出来の良くない学生を受け入れてくれる中でレベルが一番の大学は、進学する価値がおそらく今ひとつだろう。

自己負担費用と教育の利己的なリターン

  • 学士号と修士号についての私の計算では、全学生が公立大学の実質授業料である年平均3662ドルを支払うと想定している。では、全額支給の奨学金を利用したり、私立大学に正価を支払ったりする場合、リターンはどう変わるだろう。図5-10に、大学の質が費用に依存しない(あるいは労働市場が大学の質に対して金
    銭的見返りを与えない)場合、自己負担費用によってリターンがどのように変動す
    るかを示す。
  • 数字はほぼあなたの予想通りだ。「凡才君」と「鈍才君」にとっては、全額支給の奨学金でさえ大学は得な取引とはならない。公立大学に正価を支払うのは「秀才君」にとっては得な取引、「優等生君」にとってはまあまあ得な取引、「凡才君」と「鈍才君」にとっては価値のない取引である。「秀才君」でなければ、私
    立大学の投資価値はよくても並程度――標準的な授業料の減免を勘定に入れてもだ。計算をさらに複雑にするのは、ほとんどのエリート大学が、低所得家庭で成績がトップクラスの学生には非常に気前の良い学資援助を行っていることだ。例えば世帯所得が7万5000ドル未満の場合、ハーバード大学が請求する授業料は通常、ジョージ・メイソン大学の公式の州内授業料より安い。貧しい家庭の「秀才君」は一流大学に出願するのがお奨めだ―そして最も安い授業料を請求してきた大学に行けばよい。
  • 授業料が高いほど有利な学位を買えるわけではないのか? これはまったくわからない。『バロンズ』誌の格付けで測定しても、SATの平均点で測定しても、多くの公立大学―例えばカリフォルニア大学バークレー校、バージニア大学ミシガン大学―――は序列の最上位に近い。地元の州で一番の公立大学が入学させてくれるのなら、余分な授業料を払うべき明確な理由はない。
  • 最後の論点。授業料を喜んで出してくれる親は多いが、わが子に「現金の方がいい?交換条件なしで」と聞く親はあまりいない。この親の援助という隠し玉ゆえに、教育は家族にとってはしょっぱい投資かつ子供にとってはおいしい投資になりうるのだ。あなたが私立大学に行っている「優等生君」で、親が全額出してくれているとしよう。家族の学位のリターンは2%だ。しかしあなた個人で見ると、あなたは図5-10の「全額支給型の奨学金」と同じ5.6%のリターンを獲得する――うまくすれば親がお小遣いまでくれるかもしれない。

 

  • 結婚はトリクルダウン経済の最も純粋な形態の一つだからである。配偶者の追加所得の多くが、経済的な浸透現象によってあなたの追加所得になるのだ。
  • キャンパスで意識的に玉の輿もしくは逆玉を狙う人はあまりいないかもしれないが、それでも教育程度が上がるほど玉の輿/逆玉に乗る確率は上がる。人生で逆はまずありえない。つがうには出会う必要がある。われわれの社会では、上の学校に進学するほど、裕福な―あるいは将来裕福になる――人々に囲まれて日々を過ごす可能性が高まる。相手を選ばずに知り合いと結婚するとしても、高学歴は高所得の配偶者と結ばれる確率を高めるのだ。
  • そして相手を選ばずに結婚する人はごく少ない。人は自分と似通ったパートナーに惹かれる。年齢、宗教、民族、階級、趣味……そして学歴。互いに惹かれ合う力は強い。あなたの教育年数が1年延びれば、あなたの配偶者の教育年数は通例0.5ないし0.6年延びる。この効果は、知力、年齢、年度、人種、性別、宗教で補正しても約3%残る。総合的社会調査(GSS)を使うと、実のところシープスキン効果のシープスキン効果が発見できる。高校を卒業すると高卒者と結婚する確率が30パーセンテージポイント上がる。大学を卒業すると大卒者と結婚する確率が25パーセンテージポイント上がる。アメリカ人の結婚は卒業証書を基準としたカースト制なのだ。
  • 従来、結婚に対する教育のリターンは女性にとってのみ大きかった。女性の多くは卒業後まもなく結婚してキャリアを追求しなかった。私がカリフォルニア大学バークレー校の学部生だったころは、学業の振るわない女子学生を評して、あの子たちは永久就職の資格を取りに来てるんだね、という失礼なジョークがまだささやかれていたものだ。今は世の中がすっかり変わった――現代女性が永久就職の資格を取らなくなったからではなく、現代男性が永久就職の資格を取り始めたからだ。
  • 結婚に対する教育の金銭的見返りはどれほど大きいのだろうか。女性に関しての研究は意外に少なく、男性に関してはほとんど存在しない。高所得の男性が高所得の女性と結婚するようになっていることに学者は十分に気づいているが、「在学期間が1年延びると金持ちと結婚する確率はどれだけ上がるか」という発想にはなかなか至らない。だがこの疑問を実際に深掘りした少数の学者は金塊の山を掘り当てている。
  • 研究が少ないことの一つの説明は、結婚に対する金銭的見返りがゼロサムと見られるからだ。夫婦が世帯所得を均等に分け合い、自分の取り分を別々に消費する場合、収入が少ない方の金銭的利益は自動的に、収入が多い方の金銭的損失に等しくなる。妻の収入が6万ドルで夫の収入が4万ドルであれば、結婚によって夫は1万ドル豊かになるが、そのかわり妻は1万ドル貧しくなる。
  • しかしよく考えれば、夫婦は共同で消費することによって多額の節約ができる。「一人口は食えぬが二人口は食える」のことわざはさすがに言い過ぎだ。とはいえ、一人世帯二つより二人世帯一つの方が住居費、家具類、交通費、光熱水道費、雑費、さらにはコストコのような量販店のおかげで食費すら節約できるのは
    明らかである。夫婦はいくら節約になるのか。学者はこの下世話な疑問をさまざまな手法で分析している。その結果わかった節約は 20–40%で、最も信頼性の高い推定値は約35%である。結婚は収入が低い方の配偶者を自動的に豊かにし、収入が高い方の配偶者を豊かにする潜在的可能性がある。
  • 総合的社会調査(GSS)を使って結婚に対する教育のリターンの概算を出そう。第一に、自分の学歴によって結婚相手の学歴がどれだけ上がるかを推定する。第二に、配偶者が学歴に応じた平均であるとして、自分の学歴によって配偶者の所得がどれだけ上がるかを算出する。第三に、夫婦が生活費を折半して5%節約すると想定して、自分の教育の学位のリターンを計算する。計算を複雑にしないために、a 25歳で結婚、b ずっとフルタイムで働いている、c 結婚生活を継続している夫婦だけを対象とした(図5-3参照)。
  • 予想通り、結婚は男女ともすべての能力レベルにおいて教育のリターンを増やす。結婚のおかげで、教育のリターンは男性で約1パーセンテージポイント、女性で2パーセンテージポイント上がる。この変化だけで進学に賭けることを決断するにはたいがい十分だ..…ただし、若いうちに結婚するとわかっている限りにおいてだが
  • ちなみに、高額な私立大学にお金を払うおそらく最強の理由が結婚市場である。ハーバード大学に行けば、人より良い仕事に就けるとは限らないが、一生有効な高級会員制の出会いの場にほぼ確実に入れたことになる。このトピックに関する
    わかりきった事実を確証している。ある研究チームは、女性にとって大学の質の金銭的見返りの半分以上は結婚によるものとしている。学校が本人以上に配偶者をグレードアップするという考えは直観的にもうなずける。ハーバード大学に行けば、あなたは別人になるわけではないが、エリートと出会う。
  • 「お金のために結婚するな。お金持ちが集まる場所に行って、恋愛結婚をしなさい」という世間の知恵がある。古くさい考え方に聞こえるかもしれないが、不朽の真理だ。男女の差が縮まるにつれ、女性にとって結婚に対するリターンは重要性が薄らいできたが、逆に男性にとっては結婚に対するリターンが価値を発揮
    するようになった。弁護士と結婚した大学教授として、私はよく知っている。

労働参加率と教育の利己的なリターン

  • ここまで、すべての学生が卒業から引退まで、中断なくフルタイムで働くことを希望していると想定してきた。専門用語で言えば、すべての推定値は「100%の労働参加率」および「100%のフルタイム労働」を前提としている――卒業生は時折、職探しに苦労するものの、6歳まで正規の労働時間で働こうとするのをやめない。「自分の教育は受けるだけの価値があるか」とわざわざ問う人なら、卒業後は本格的なキャリアを望むと仮定している。
  • これは過大な仮定である。最もモチベーションが高い学生でも、子育て、「自分探し」、あるいは慢性疾患の治療のために労働市場を退出する可能性はある。さらに重要な点として、人に教育についてのアドバイスをする場合、アドバイスされる側の多くはモチベーションが高くはないだろう。受けた教育を活用しようと
    するのをいずれやめる者もいるだろうし、そもそも最初から活用しない者もいるだろう。労働参加率は学歴とともに上がるが、いずれも100%には遠く届かない数字だ(図5-14参照)。

 

賢い学生のための実践的指針

  • 「答えだけ教えてくださいよ」と学生がごねると教師は嫌がる。学者にとって、簡潔な解決策は徹底した説明の衣装を着せなければ体裁が悪いのだ。しかし教育に関する決断はリスクが高いので、私は体裁をかなぐり捨てよう。そして私の計算には非金銭的な価値が含まれているので、このアドバイスは見かけの印象以上に効き目が強い。世の中はチャンスに満ちているし、人は一人ひとり違う。絶対誰でも成功する戦略というものはない。一般論には必ず例外がつきものだ。だが、他を選ぶよりも賢明な学歴の選択というものは存在する。それが、こちらである。
  • あなたがよほどの劣等生でない(または定職に就くことを望まない)限り、高校には行け。卒業後に定職に就きたいなら、ほぼどんな学生にとっても高校は得な取引である。高校に入学した初日の時点で、「秀才君」「優等生君」「凡才君」、そして「鈍才君」でさえ、最低5%の学位のリターンをあてにできる。学歴と経験のない労働者の給与は低いので、たとえ負けるのが通例でも、若者は安い賭け金で学業の成功に賭けられるのだ。
  • たとえ厳しいシナリオでも、高校の金銭的見返りは大きい。独身主義者と「鈍才君」と教室に座っているのが苦痛な人々にとって学校は実りが小さいが、結婚するつもりがなく学校嫌いの男性の「鈍才君」でも学位のリターンは4%ある。高校に行かずに低スキル職に就いた方がいいグループは大きく分けて二つしかない。第一のグループは、卒業後フルタイムで働くつもりのない「純才君」だ。第二のグループは「鈍才君」より下の学生である。学業成績が下位 0–5%であれば卒業の見込みはあまりに低いので、退学して働き始めた方がいい。くれぐれも、GEDを受けようかなどと思わないこと。魅力的な妥協策に思えるかもしれないが、GEDの役目など「私は頭脳はありますが高校を卒業するだけの気力に欠けています」と雇用主に伝えるのが関の山である。
  • あなたが優秀な学生であるか特殊なケースに限り、大学に行け。次の三つのシンプルなルールに従えば、「秀才君」と「優等生君」にとって大学は損のない取引だ。第一に、「実務に直結した」専攻を選べ。STEMは明らかに「実務に直結」している。経済学、経営学政治学も含まれるといってよいだろう。第二に、評判のいい公立大学に行け。おそらく正価は請求されないだろうし、たとえ請求されたとしても払うだけの価値はある。第三に、卒業後はフルタイムでしっかり働け。大学卒業後に非正規で働くのは、自分が種を蒔いた作物を半分収穫し損なうようなものだ。この三つのルールが守れない者は痛い目を見る。
  • 出来の良くない学生にとって、大学は通常は損な取引だ。「凡才君」なら、特殊なケースのみ進学するといい。工学のような科目を専攻するつもりか? エリート大学から奇跡的においしい奨学金を提示されたか? 女性で絶対に結婚するつもりか?それなら学業成績にムラがあっても、大学進学はありかもしれない。そうでなければ進学はやめて就職することだ。最後に、「鈍才君」は問答無用で大学に行くべきではない。
  • よほどの条件がそろわない限り、修士号は取るな。「秀才君」でさえ、修士課程に進んだ初日の段階で、学位のリターンはわずか2.6%の見込みになる。だから不利な勝率を克服できると思える確実な理由―あるいはそれなりの理由が複数ある場合にのみ進学すべきだ。まずは、学力が「秀」を超えていなくてはならない。修士課程は脱落者が出るのがあたりまえで、フィニッシュラインを通過することが確信を持って期待できるのは学生のうち上位5-10%しかいない。専攻分野も非常に重要だ。科目別の卒業生の収入に関するデータは少ないが、工学、コンピュータサイエンス、経済学の方が美術、教育学、人類学よりはるかにリターンが高いことはほとんど疑いがない。美術、教育学、人類学の学位は、あなたが周りの修士課程の学生と比べても専攻科目に心底入れ込んでいる場合にのみ意味がある。最後に、女性の場合、将来結婚するかどうかも重要になる。「秀才君」であることが前提だが、結婚する女性なら修士号は悪くない取引、しかし独身を貫く女性にとっては益のない取引だ。
  • 私の助言は多くの人の気持ちを逆なでする。「エリート主義的」「俗物」、あるいは「性差別的」として否定する人もいる。正確に評すれば「率直」である。教育の見返りが卒業に左右されるのは私のせいではない。過去の学業成績から卒業の可能性が高い確度で予想できるのは私のせいではない。美術の学位の金銭的見返りが低いのは私のせいではない。既婚女性の方が独身女性より教育から利益を得られるのは私のせいではない。あまりに多くの卒業生がフルタイムで働かないのは私のせいではない。私はただ伝えているだけだ。事実を正直に報告するのが私の仕事なのである。特に、実生活上とても重要な、歓迎されざる事実を。
  • しかし私のアドバイスに対する最もよくある反射反応は、私を偽善者と糾弾することだ。「なるほど、彼は他人の子供に大学進学を考え直せとアドバイスしている。だが自分の子供には絶対そんなことを言わないはずだ」と。そういう人は私を知らない。私はわが子にもまったく同じようにアドバイスする。私は伝える内容を相手の身の丈に合わせている。学生の学業成績、モチベーション、志している学問分野、結婚の意思などを聞き出す。その上で、その人物像に当てはまる人には通常どんな進路の選択肢があるかを教えている。わが家の上の子二人は成績優秀で経済学に興味があるので、当然ながら大学を奨めるだろう。下の子二人は
    学校に上がったばかりなので、まだ判断は下せない。もしどちらかが成績が振るわなければ、私は優しくも断固として高校卒業後は定職に就けとアドバイスするだろう。
  • 最後に、私の処世訓はどれ一つとして、人が教育のリターンを緻密に計算して進学の決断をしているとは想定していない。 むしろ逆だ。人が教育のリターンを緻密に計算して進学の決断をしているなら、とっくにそうしているのだから私のアドバイスなど必要ないだろう。私たちの進学の決断は世間知らずと人並み意識とプライドに深く毒されている、と私は踏んでいる。その声を一掃して――せめて薄めて――読者に無駄な時間とお金と涙を出させないのが私の目指すところである。

 

報酬から生産性へ

  • 教育の利己的なリターンは報酬に左右される。あなたは在学中にその期間に得られたであろう給与をどれだけ失い、修了後どれだけ給与を余分に獲得するだろうか。それに対して、教育の社会的なリターンは生產性に左右される。社会はあなたが在学中にその期間に得られたであろう生産物をどれだけ失い、修了後どれだけ生産物を余分に獲得するだろうか。
  • 純粋な人的資本説では、報酬と生産性はどんなケースでも必ず等しい。あなたが自分の生産力以上の給与を要求すれば雇用主はあなたを雇いたがらないし、雇用主もあなたの生産力以下の給与を提示すればあなたを雇えない。
  • それに対して、純粋なシグナリング・モデルでは、報酬と生產力は平均においてのみ等しい。あなたの学歴が能力と合致していれば、あなたの生産性は給与と合致している。そうでない場合、給与と生産性には乖離が生じる。もし学歴があなたの能力に比べて著しく低ければ、あなたの収入は生產力に比べて少ない。もし学歴があなたの能力に比べて著しく高ければ、あなたの収入は生產力に比べて多い
  • そこで、教育の社会的なリターンを計算するには、教育が給与と福利厚生を上げるのはなぜかを知らなければならない。教育によって報酬が上がるのが、教育が労働者の生産性を上げるためだけであれば、社会の利得は労働者の利得と等しい。教育によって報酬が上がるのが、教育が労働者の生産性を示すためだけであれば、社会の利得ははるかに少ない。ほとんどの場合、むしろ社会の利得はゼロだ。 たしかに、唇用主がその労働者が優秀でどの労働者がそうでないかを知っていれば、経済の生産性は上がる――そして社会はよ豊かになる。知識は富である。だから学生の格付けには社会的な価値がある。しかしひとたび学生が適正に
    格付けされてしまえば、社会的価値は消える。労働者の質に関する雇用主の知識は、もし全員が一つ下の学位を持っていたとしても本質的に同じはずだろう。経済学用語で言えば、たとえシグナリングの社会的な総便益は大きくても、その社会的な限界便益はほぼゼロである。
  • 収入と雇用に対する教育の効果に、シグナリングが占める割合は正確にはどれくらいだろうか。これまでの章で検証したエビデンスから、シグナリングの役割について慎重な見方と妥当な見方が導き出される(図6-1参照)。慎重な見方はシープスキン効果を100%シグナリングの功績としているが、それ以上のものはシグナリングに認めていない。本書のシープスキンの内訳を踏まえると、高校で38%、学士号で59%、修士号で74%がシグナリングの割合となる。しかし、途中学年ごとのリターンの一部もシグナリングであると考える方が妥当だ。教育年数が1年長いことは、あなたについて多くを伝えはしないかもしれないが、何がしかは伝わる。どれくらい伝わるだろうか。複数のアプローチで、妥当な推定値はシグナリングが総合で。80%とされている。シープスキン効果がすべてシグナリングであれば、学年ごとのシグナリングの割合は高校で57%、学士課程で47%、修士課程で25%となる。
  • 生産性に対する教育の効果を得るには、論を進めるための前提として、労働者が平均的に自分の価値に見合った収入を得ているとする。学士号を持っている「優等生君」は自分の生産力に見合った収入を得ている。なぜなら定義上、「優等生君」は学士号を持っている平均的な労働者の能力を持っているからだ。しかし同じ学生が高校を卒業してすぐ就職した場合、市場は彼に単により安い給与を支払
    うだけではない。彼の生産力に比べて安い給与を支払うことになる。なぜか。学
    歴が彼を実力以下に見せているからだ。同様に、もし「優等生君」が修士号を取得した場合、市場は彼に単により高い給与を支払うだけではない。彼の生産力に比べて高い給与を支払うことになる。なぜか。学歴が彼を実力以上に見せている
    からだ。シグナリングの割合が高くなるにつれ、生産性と給与の乖離も大きくな
    っていく。図6-2に「優等生君」の場合のパターンを示す。
  • 利己的な観点からすると、在学中に得られなかった給与と、卒業後に獲得する給与の上乗せ分は釣り合いが取れている。得られなかった給与はすべて個人的費用だ。獲得する給与の上乗せ分はすべて個人的便益だ。しかし社会的な観点からすると、重要なのは給与ではなく生産性である。学校の社会的費用はあなたが生產
    しなかった生産物である。学校の社会的便益はあなたが学習によって余分に生産できるようになった生產物だ。教育の金銭的な見返りの80%がシグナリングで、教育年数1年で年収が5000ドル上がるとすれば、社会にとっての真の利得は1000ドルしかない。残りの4000ドルは、雇用主に対して自分の価値を過小評価していると説得することによって得たあなたの見返りである

 

経済成長

  • 新しいアイデアは進歩の根幹である。現代人の生活が1800年当時よりずっと向上しているのは、現代人の知識が1800年当時よりずっと増えているからだ。1800年当時の地球にだって飛行機や iPad の製造に必要な材料はすべてそろっていた。だが適切なアイデアが生まれるまで、材料は眠っていた。人類は適切なアイデアが現れるまで、なぜこれほど長く待たなくてはならなかったのか。答えの一端として、アイデアはひとたび生まれてしまえば安価に模倣できるということがある。その結果、イノベーターは自分たちが創造した価値のほんのわずかな一部を手にするにすぎない。
  • このわかりきった道理が「教育は活力ある社会の基盤である」という感動的な説教につながる。大半の生徒に創造性はないが、高校までの教育に大きく投資すれば、全員にイノベーションの知的ツールが与えられて、社会の潜在的な創造力が豊かになる。同様に単科大学や総合大学に大きく投資すれば、優秀な学生が研究の最前線に送られ、イノベーションを引っ張る人々に雇用や資金が与えられる。国民所得の10%を一貫して教育に投資し、年間成長率が1%から2%に上がれば、それ以上の便益が何もなくても社会的なリターンは11%にもなる。
  • 残念ながら、この感動的な説教は虫のいい願望である。すでに第4章で国の教育プレミアムに関する研究をレビューした。エビデンスは混在しているが、教育は個人に比べると国への効果は低いようだ。国家レベルでは、教育が生活水準を上げるかどうか、まして教育が国の生活水準の向上を速めるかどうかは定かではない。動くかどうかわからないなら、それは永久運動機関ではないと考える方が無難だろう。教育が進歩を加速するかどうかを具体的に検証している研究者らは、ほとんど成果を出していない。
  • 長期的なマクロ経済学データに欠陥があることを踏まえれば、学術研究を無視して一般的な感覚を大事にすべきではないか、と答える人もいるかもしれない。だが一般的な感覚で実際に何がわかるだろうか。「教育を受けた人々はイノベーション力がある」という言葉がそれらしく聞こえるのも、カリキュラムが実社会
    といかに乖離しているかを思い出すまでの話だ。高校で生徒が数学と科学に費やす時間は全体の4分の1ほどしかない。大学で工学を専攻する学生は約5%、コンピュータサイエンスは2%、生物学と生物医学は5%だ。「イノベーションを起こすために必要な知的ツールを学生に与える」というのは、善意に解釈しても後付けの理屈である。しかも現代の世の中では、最も頭脳明晰な学生たちは大学教授になり、創造性を商業的価値のあるトピックより学問的に関心のあるトピックに注ぎ込むことが多い。たしかに、象牙の塔で好きな研究に没頭した結果、ある産業に革命を起こす場合もある。しかし一般的な感覚からすれば、有益なアイデアを発見する最善の方法は、有益なアイデアを探すこと以外に考えられない――興味のおもむくままに研究して、それがいずれ役に立てばと祈るよりも。

 

  • シグナリングを慎重に見積もった想定の難点は、先に論じたように、慎重すぎることだ。教育の年数は――卒業だけでなく――すべて、何がしかの良いシグナルを発信する。妥当な見方――すなわち教育の便益の80%をシグナリングが占めるとした場合、教育の社会的なリターンはどうなるだろう(図6-6参照)。
  • 結果は悲惨きわまりない。すべての学歴レベル、すべての学生の能力レベルで社会的なリターンは非常に低い。「鈍才君」を高校にやってもたった0・2%の利益にしかならない。それ以外の教育投資はマイナスのリターンを生む。繰り返すが、これは学校が学生を向上させられないという意味ではない。学校は学生を
    向上させることができる。言いたいのは、社会が時間とお金の初期支出を回収する前に学生はたいてい寿命が来て死ぬということだ。学校教育のあまたある社会的な便益も、その莫大な社会的費用の前には色あせてしまう。
  • 利己的なリターンはかなり高いのに、社会的なリターンがこれほどまでに低いのはなぜだろうか。それはシグナリングの仕組みが再分配だから、つまり個人の取り分は大きくなってもパイは大きくならないからだ。「教育の収益率が高いと、世の中が教育過剰になるのはなぜ?」ときくのは、「自動車が便利だと、大気汚染
    が過剰に発生するのはなぜ?」ときくようなものだ。

 

教育版ドレイクの方程式

  • カール セーガンの畏敬に満ちた言葉によれば、銀河一つひとつに「何十億個もの」星がある。しかし銀河に無数にある太陽系の中で、生命を有するものは一つしか確認されていない。私たちの星だ。銀河にこれほどまでに生命の可能性が少ないのはなぜだろうか。天文学者のフランク・ドレイクがそれを明らかにするエレガントな方程式を発表した。ドレイクの方程式という。方程式の主旨をひらたく言えば、生命が発生するための途方もない数の必要条件が、生命が発生する途方もない数の機会を相殺している。人類が外の世界に発信する技術を持っているのは、私たちの太陽系に生命を維持できる惑星が存在し、その星に実際に生命が誕生し、知的生命体に進化し、その知的生命体が惑星間通信技術を発達させ、私たちがまだ自滅していないからにすぎない。このような条件のすべてを別の太陽系が満たさない限り、異星の文明との交信は永久に実現しないだろう。宇宙がこれほどさびしく見えるのも無理はない。
  • 同じ心構えで向き合えば、教育の統計もセーガンのような畏敬の念を呼び起こす。高校中退者の人生を見てみよう。彼らの貧困、無職状態、犯罪に引き寄せられるさまを。それを工学の学位を取得した大卒者の人生と比較しよう。彼らの裕福さ、キャリアに打ち込み、法を守るさまを。両者の人生の隔たりは天文学的だ。高校中退者が全員、工学の学位取得者に変わったら私たちの社会がどんなユートピアになるか想像するがいい。ハーバードの元学長、デレック・ボックはかつて「教育が高額だと思うなら、無教育を試してほしい」という名言を吐いた。利得がこれほど大きいのに、なぜ費用のことで騒ぐのか。
  • 教育が社会を変える力が銀河系級に過大評価されているからだ。例えば高校中退者と工学の学位取得者の間に観察された格差は、教育版ドレイクの方程式とでも呼べるものの一つの項にすぎない。労働者にとって教育の社会的な便益は、高校中退者と工学の学位取得者の間に観察された格差に教育を無事に修了する確率を掛け、格差のうち元の能力差のせいではない割合を掛け、格差のうちシグナリングのせいではない割合を掛けたものに等しい。
  • 平均的な工学の学位取得者の社会への貢献度を総合すると平均的な高校中退者の3倍であり、教育版ドレイクの方程式の他の項がそれぞれ50%だとしよう。すると教育の真の効果を算出するには、観察された格差の+200%に、修了の確率30%を掛け、能力バイアスによらない50%を掛け、シグナリングによらない50%を掛ける。出た答えはたった+5%だ。
  • なぜ私の方法では一般的な感覚にはそぐわないほど情けない社会的なリターンになるのだろう。細かい部分の惨状はおくとしても、つまるところ教育版ドレイクの方程式のせいである。私は他の教育研究者が同様に観察した格差からスタートした。しかし他の研究者は――通常は暗に、時として明白に――教育版ドレイクの方程式の他の項をすべて100%に設定しているのだ。全員が進学したら必ず卒業し、能力バイアスによる格差はゼロ、シグナリングによる格差はゼロ、全員が働く。これではご本家のドレイクの方程式のすべての項を100%に切り上げておいて、銀河系には高度文明を有する星が数十億あると発表するようなものだ。たしかに高い教育を受けた者は模範的市民スキルが高く、定職に就き、法を守る――だが、教育は模範的社会への道ではない。むしろ教育版ドレイクの方程式に理にかなった数字を当てはめれば、模範的社会への道はUターンから始まることがわかる。教育支出を大幅削減しても人間は変わらないが、節約した数十億ドルがあれば大変革が起こせる。

 

  • それでも私は抜本的な改革を支持する。理念上は私は頑固なリバタリアンだ。納税者が教育を支援することに対して絶対に反対するわけではないが、納税者が何かを支援することに対して反対する確固とした倫理的立場をとる。なぜか。私は他者への非介入を支持する確固とした倫理的立場だからであり、課税は他者への介入例の極致だと考えているからだ。たとえ税金が民主主義的に全面支持されていても、立証責任は課税を望まない少数派ではなく、課税を望む多数派が負うのが筋だ。これも超えられる壁である。課税が明らかな惨事を避ける唯一の方法であるなら、税金を取ればよい。だが社会的な便益が小さいか、便益があるかど
    うかわからないプログラムに資金を出すために国民から税金を取るのは、私にはおおいにまちがっていると思われる。
  • リバタリアニズムが現代の政治思想として異端であるのはわかっている。なぜ私のような変わり種の考え方をする人間がいるのか、興味がある方には哲学者マイケル・ヒューマーの『政治的権威の問題 The Problem of Political Authority』を紹介することで説明に変えさせていただく。とはいえ、読者から「理想的な教育政策はどのようなものか?」と聞かれて「あなたの持っている理念による」と答えたのでは、責任逃れもはなはだしいだろう。私の教育反対論の、理念に左右されない核心部分から目をそらす便利な言い訳にはなるが、読者にはすべてを知る権利がある。
  • すべてを考え合わせた結果、私は学校と国家は完全に切り離すべきだと思う。政府はいかなる種類の教育も税金を使って財政支援するのをやめるべきだ。各種学校はやめるべきだ。各種学校は――小学校、中学校、第3期教育(高等教育)、いずれも等しく―学費と民間の慈善活動だけでまかなうべきだ。このような政策(というか無策?)はリバタリンの基準からしても極端である。ほとんどのリバタリアンはバウチャー制度を夢想している。学校を民営化し、公費でまかなうというものだ。しかし私からすると、バウチャー制度――もっと一般的な呼び方では「学校選択制」――では現状がごくわずかに改善されるにすぎない。教育は大半がシグナリングなのだから、主要な問題は質の低さではなく量の多さである。アメリカの学校は、スポーツスタジアムと同様、無用の長物なのだ。政府による莫大な支援の大きな難点は、これらの無用の長物がうまく運営されていないとか競争力がないことではなく、数が多すぎ、お金をかけすぎていることだ。政府はどちらの産業も自由市場に委ね、大量倒産を市場の失敗ではなく市場による調整と見るべきである。
  • 学校と国家の完全分離というと教条主義的に思われるかもしれないが、穏当な提案よりも実利的に優れている。ユーモア作家のP・J・オルークの言葉を借りれば、「政府に金と権力を与えるのは十代の若者にウィスキーと車のキーを与えるようなものだ」。公的資金で財政支援された教育の過去の実績は悲惨で、毎年数千億ドルを浪費している。完全分離すれば、透明性を確保した状態で政府の信用ならない手を教育産業のコントロールパネルから遠ざけておける。それに対して「95%の分離」政策では監視しづらく、教育が別の形で不正利用される可能性をなくせない。先ほどの比喩を使って、十代の男の子に飲酒運転の前歴があると
    しよう。この少年から運転する権利を95%取り上げるというやり方もたしかにある。飲酒検査にパスし、昼間だけ運転を許可し、十代の同乗者を乗せないという条件をクリアしなければハンドルを握らせないのだ。しかしどんなルールを課しても彼がうまくすり抜けるリスクがついてまわることを考えれば、危険運転する
    人間から車のキーを没収する方が賢明なやり方ではないだろうか。

 

なぜ教育に課税しないのか

  • 高等教育に正の外部性があるとの見方は変えていませんが、高等教育には負の外部性もあることを私はかなり意識するようになりました。高等教育に政府が助成金を出すことが果たして正当か、『資本主義と自由』を書いた当時よりも今は疑問を感じています。PC[ポリティカル・コレクトネス」が現在広まっていることは非常に強い負の外部性であると思われますし、1960年代の学生デモはまちがいなく高等教育による負の外部性でした。こうしたことを徹底的に分析すれば、高等教育にはそれがもたらす負の外部性を相殺するために課税すべきという結論に導かれるかもしれません。――ミルトン・フリードマン「リチャード・ヴェダーへの手紙」
  • 教育を抑制するのがこれほどの名案なら、助成金がゼロになった時点でなぜやめるのか。もっと踏み込んで、教育に課税してはどうか。このアイデアは「政治的に不可能」かもしれないが、これまで検討してきた最善の改革はすべてそうだった。世間受けしない以外に、教育に課税してまずい点はあるだろうか。
  • 正面きった反論は、教育は100%シグナリングというわけではない、というものだ。繰り返すが、私の最善の推測値では教育は約80%がシグナリングで20%がスキル形成である。教育にまるごと課税すると、角(シグナリング)を矯めて牛(スキル形成)を殺す危険がある。しかしよく考えれば、これは反論としては弱い。たしかに教育税によってシグナリングもろともスキル形成まで失う可能性はある。だが助成金をカットすることにもまったく同じマイナス面がある。1%の課税が抑制するスキル形成は、助成金の1%カットと同程度であるはずだ。
  • さらに強い課税反対論は、政府が長年にわたって無駄な教育に多額の後援をしてきたという指摘から始まる。その実績を踏まえれば、逆の行為を政府に任せてしまうのは考えが甘い。たとえ理想の政府なら積極的に教育を抑制するはずであっても、現実の政府にその権限を与えるのは愚かだ。教育税が専攻や学校のランクによって変わる場合、税法がどれだけ複雑になるか――法を悪用する機会がどれだけあるか――を思い浮かべてみればいい。それに代わる透明性の高い方法は、政府を教育に関わらせないことだ。
  • だがこの新種の税に対する決定的な反対論は、ほぼすべての倫理的な立場がこれに反対しているということだ。教育への課税は教育や現状維持を重視する伝統的な立場と衝突するだけではない。国民に介入しないことを重視するリバタリアンの立場ともぶつかる。この提案はまだ試されたことがないため、効果は臆測の域を出ない――そして、効果があるとわかるまでは試すべきではない。

 

  • 教育万歳という感情の遍在を、社会的望ましさのバイアスではどう説明できるだろうか。主力の説が三つある。一つは人間の普遍性に原因を求めるものだ。背負っている文化は多様であっても、一皮むけば私たち人間はよく似ている。世界中のホモ・サピエンスが母性、砂糖、吸いつくような美しい肌に惹きつけられる――「現代社会では、すべての子供に最高の教育を受けさせなければならない」といった思いやりにあふれ、未来志向で理想を掲げたスローガンにも。ポピュリズムが世界のどこでもよく似ているのは、大衆の好みが世界のどこでもよく似ているからだ。
  • それを補足するのが、次の説だ。大衆の考えを何でもかんでも「誤謬」と呼ぶのは社会的に望ましくない――そして人間の心は生まれつき合成の誤謬を犯しやすい。教育は利己的なリターンが高いため、社会的なリターンも同等にあると早合点してしまう。一部に言えることは全体にも言えるはずでしょう? 社会的望ましさのバイアスは、カリキュラムが仕事に即していないという実体験からの知識を使って私たちがこの誤謬に異議を唱えるのを阻む――ひそかに心の中で思うことさえも。
  • 最後の説は世界的なエリート文化に原因を求める。非欧米出身のエリートは二つの世界に身を置いている。欧米のエリート文化と自分の出自である伝統文化だ。欧米のエリートは19世紀に教育に惚れ込んだ後、欧米の大衆と非欧米のエリートもその価値観に取り込んだ。その後、非欧米エリートも自国の文化に教育という
    福音を徐々に伝えていった。教育万歳という感情が世界に遍在しているのは、アブラハムの宗教〔世界三大宗教ユダヤ教キリスト教イスラム教」が世界に遍在しているのと同じく、何ら不思議ではないのだ。
  • 社会的望ましさのバイアスの何がそんなに悪いのか? 無駄で生産性を下げる政策の元凶だからである。そのメカニズムは知っての通りだ。世界中のほぼすべての政府は大衆の支持を必要とする。民主主義国では、大衆の支持を失ったリーダーはリーダーの座にいられなくなる。独裁国では、大衆の支持を失ったリーダーは権力にしがみつくことはできるが、しがみつかざるをえなくなるわけだ。いずれの国でも、リーダーには大衆の支持を得られることなら何でもする――つまり大衆におもねる強いインセンティブがある。
  • 「それで万事うまくいくのでは?」というのは甘い考えだ。世界を見渡し、人間の感情を考えてみればよい。多くの優れた政策は耳に心地よくない。多くの愚策は耳に心地よい。政治家は本能的に、社会的望ましさのバイアスに立ち向かうかわりに迎合してしまう――デマゴーグに走るのだ。「現代社会では、すべての子供に最高の教育を受けさせなければならない」? すばらしい。子供たちのために年間1兆ドル支出しよう。かわりに可能だったはずの他の施策はどうなる?いや、トレードオフなどない。教育に支出する額が多いほど、将来豊かになるのだから。異端の政治家ならこのごまかしを甘い考えだと言えるかもしれないが、デマゴーグに加担する方がデマゴーグを打破するよりはるかに楽である

 

  •  とどのつまり、二種類の職業教育をめぐる議論ということになる。「従来派」は全員を作家、歴史家、政治学者、翻訳者、物理学者、数学者のような、なれる確率が低く社会的地位の高い職業に向けてトレーニングしたがる。いわゆる職業教育重視派は、本人が就く可能性の高い職業に向けてトレーニングしたがる。従来ルートであれば教育者に痛みはない。自分が先生から教わったことを学生に教えればよい。職業ルートは教育者の痛みをともなう。こちらを選択すれば学生の適性と労働市場を常にチェックしなければならないからだ。結構なことではないか。若者を現実的な将来に備えさせるために、教育者に痛みを感じてもらおう。
  • 従来型の学問を擁護する人々は、将来の不透明さをよく引き合いに出す。労働市場は変化がめまぐるしい。学生が雇用されるのは2025年ないし2050年の経済環境の中なのに、2015年の経済環境に向けて備えさせる意味がどこにある?おっしゃる通りだが、これは昔ながらの普通科の授業を支持する論拠にはならない。先が見えないことは、ほぼ確実に就かないであろう職業に学生を備えさせる言い訳にはならない。仕事の未来について今わかっていることがあるとすれば、作家、歴史家、政治学者、翻訳者、物理学者、数学者の需要は低いままだろうということだ。
  • しかし職業教育重視に対する世間受けのいい反対理由は、知識習得の観点からではなく平等主義に訴えたものだ。全員を普通科に入れた方が、子供たちを「適性」で選別して「ふさわしい」トレーニングをあてがうよりも平等に見える。平等などすでに幻想だと言うこともできる。すべての人が大学を目指せるという虚
    構が出回っていても、大学がまともに相手にするのはオナーズクラスとAPクラス〔ともに高校の成績上位者向けの履修コース] の生徒だけだ。しかしあくまで高い理想を掲げる平等主義者は「それなら全員をオナーズクラスとAPクラスに入れよう」と言い出すだろう。

 

  • 後進国の子供たちは働いている。先進国の子供たちは勉強している。文明が進むにつれ、子供が有給雇用から隔離されて過ごす年数が増えていく。現代は仕事が学校の妨げになることが懸念され、学校が仕事の妨げになることは懸念されない。このようなルールが自然の法則かと思われるくらい深く浸透している。
  • わかるようでわからない理屈だ。社会が発展するに従って、子供たちにいかいふな職業を教えるのが常識だろう。職業を教えないで卒業後に子供たちが労働市場に適応することを期待するのは常識ではない。どれほど進んだ社会になろうと同じだ。子供たちに10年以上も実社会と関係のない教科を勉強させるのは、時代に関係なくおかしい。
  • 非主流とは何だろう? 職業教育を再起動させようではないか。就職市場の未来予測を立てようとするかわりに昔から定着したカリキュラムを守り続けるのは、よそで落とした鍵をこっちの方がよく見えるからという理由で街灯の下で探すようなものだ。もちろん、正真正銘の一般的スキルである読み書き計算は教えるべきだ。だがそれ以外については、学校は将来のキャリア機会に関して裏づけのある予測を立て、適性を見きわめた上で学生を現実性の高い職業に触れさせるべきだ。子供の雇用を「搾取」だの学業がおろそかになるリスクがあると見るのでなく、仕事を最も純粋な形の職業教育として称揚すべきだ。子供が本格的に仕事をするために学校をやめても、嘆くべきではない。そういう子たちがガンの治療法を発見することはないだろうが、少なくとも自立した社会の一員にはなるのだから。
  • 暗鬱なディストピア的未来構想だろうか。まったくそんなことはない。6歳の子供たちが実質的な仕事のスキルを身につけて、自活できるだけの収入を得る世界を思い浮かべてほしい。学業に向かない十代前半の子たちが、不良ではなく見習い職人に憧れる世界を思い浮かべてほしい。学生が自分の受けている授業を実生活で役に立つか面白いと思える世界を思い浮かべてほしい。生產的で自立し、社会参加した新しい世代を育てることができたなら、今の退屈し、子供扱いされた若者と比べて大きな進歩と言えないだろうか。ディストピア的な未来を恐れるよりも、ディストピア的な現在を見つめるべきだ。現代社会では、成功を目指す子供たちは20年近くも学校で過ごす。ほとんどの子供はカリキュラムを途方もなくつまらないと思っている。この長期にわたる苦行の間、学生は貧乏生活を送るか親に経済的に依存している。卒業してようやく「実社会」に出ても、活用するのは勉強したことのほんの一部だ。そして自身の子供ができれば、長々しい未熟な期間を今度は親の立場で再体験する。私たちの現状は『一九八四年』や『すばらしい新世界』とは違う。だがもし今の教育制度に慣れきっていなかったら、誰がこんなものを望むだろう?

 

 

  • 教育はリベラルにも保守にも受けがいい。イデオロギーを超えた盲目の愛によって人は教育を賛美する説に走り、教育を批判する説を拒否する。
  • 小学校と中学校には資産調査付きバウチャー制度。貧困家庭の子供の教育は税金でまかなう。それ以外の家庭は親が負担する。
  • 高等教育は?
  • 税金による助成はやめる。貧困家庭の学生の教育の機会を確保するためには、助成金の補助のない学生ローンを政府から提供すればいい。滞納金の回収はIRS(歳入庁)にアウトソースする。
  • 授業料が高くなれば、若者はシグナリングのために学校に通う無駄な年数を切り上げ、早く就職して生産活動に従事するようになる。
  • 社会にとっては無駄な教育に、一体なぜ政府が助成金を出す必要があるのかと。
  • 有権者は、たとえうまくいかなくても耳に心地よい政策を好み、政府はそれを採用する。私は「社会的望ましさのバイアス政治」と呼んでいます。教育支出の削減はメリットが有るのに非道に思われてしまうから、今後も大衆の支持が得られず試されないままでしょう。 

 

  • ブライアン 授業の初日に、教え子のどれくらいの割合が文学を退屈だと考えていますか?
  • シンシアうーん、8割かな。
  • ブライアン学期末の時点で、教え子のどれくらいの割合が文学を退屈だと考えていますか?
  • シンシアさあ。78%かしら。あなたの成果はもっと?
  • ブライアンだといいですがね! 経験上、私の「思いが届く」のは、それを受け止めたいと望むまれな学生だけです。残りの学生はちょっと勉強して、試験を受けた後は、日々の忙しさにとりまぎれていきますね。
  • シンシア他にいい方法はあるの?
  • ブライアン 向学心のある学生に思想や文化を教える。それ以外の学生にはおせっかいをせず、向こうから気持ちを変えてくれることを願っていればいいんですよ。
  • シンシア 学生が文章の読解をつまらないと思うなら、学ぶべきではないの?
  • ノライアン 学ぶべきですよ。読むのは実用的なスキルですから。今はつらくても、長い目でみれば本人のためになる。
  • シンシア詩についても同じことが言えない?
  • ブライアン 詩は実用的なスキルではないですから。詩の勉強が苦痛だと思う学生の大多数は一生「苦労が報われる」ことはありません。
  • シンシア物質的な見返りはなくても、人生を豊かにしてくれるわ。
  • ブライアン そんなことはまずない。
  • シンシアなぜわかるの?
  • ブライアン 詩の本の売れ行きをごらんなさい。ほとんどすべての人が学校で詩を勉強させられる。でも大人になってから自発的に詩の勉強を続ける人はほとんどいない。詩は後から身につくたしなみだけど、それが身につく人なんてほとんどいないんです。
  • シンシア 私は身についたわ。
  • ブライアン 私もですよ。でもわれわれのような飛び抜けた例外は全員に詩を押しつける理由としては弱すぎる。
  • シンシア 学校で教えなければ、私たちのような飛び抜けた例外もいずれいなくなってしまうわ。
  • ブライアン そんなことはありません。思想や文化の多くは税金の支援など受けていない。公立校では宗教を教えていないけど、宗教は存続しているでしょ。公立校でも私立校でもロックンロールをわざわざ聴かせるところなんてほとんどないけど、ロックンロールは流行っているじゃないですか。私が子供のころは何かに興味を持ったらよく図書館で調べました。今の子供たちにはインターネットという天の恵みがあるでしょう。
  • フレデリック教育に反感を持っていないと言うわりにはずいぶん教育に否定的だね。
  • ブライアン教育を愛するからこそ、オーウェルの世界をほうふつとさせる今の教育もどきを受け入れられないんです。
  • フレデリック 理想が高すぎるんだよ。
  • ブライアン高くないですよ。オンライン学習を見てください。世界最高の先生たちが教えるすばらしい教材にあふれ、真剣に知識を求める人たちが学んでいる。従来型の学校で同じことができていないのであれば、従来型の学校に問題があるんです。
  • ジリアン ちょっと待って。あなたはシグナリング説を理由にオンライン教育には悲観的なのかと思ってたけど。
  • ブライアンシグナリングがあるがゆえにビジネスモデルとしてのオンライン教育には悲観的ですが、私はオンライン教育をおおいに評価していますよ。将来性うんぬん以前に、今すでにオンライン教育のおかげでインターネット接続があれば誰でもほぼ無料で知識が得られている。SFさながらの人類の知の勝利ですよ。
  • ジリアン [不満そうに] じゃあ実質的にはオンライン教育が勝っているけど、従来型の学校はビジネスモデルの主流であり続けるんですね。
  • ブライアン その通り。
  • シンシア 学校について何か肯定的なことを教えてくれないかしら。世間で評価されるだけの成果を実際に上げている部分だって少しはあるはずよ。
  • ブライアン そうですね。私は4人の子供の父親として、子供たちの目を通して教育を再体験しているんですが、一番感心したのは何だと思います?
  • シンシア数学?
  • ブライアン プリスクールなんです。
  • シンシア プリスクールには一生のメリットがあるというあの手の研究を信じてるの?
  • ブライアンというわけじゃないですけど。それでもプリスクールでの体験には心から感心したんです。幼児たちが文字と数字、ともに有益なスキルを学んでいる。先生方は子供たちに楽しんでできそうな活動を少しずつ試させてやる。子供たちが自由に遊べる時間もたっぷりある。プリスクールに行くのを、娘は楽しみにしているんですょ――こちらも入れて良かったなと思う。
  • シンシア 私もプリスクールは好きよ、でも一生プリスクールが続くわけじゃない。
  • ブライアン続けるべきでもないですね。私がプリスクールを評価するのは、優先順位が正しいからです。後の人生で使いそうなスキルを全員に教える。心を豊かにする機会に幅広く触れさせる。一生つきあえるものに出会えたらすばらしい。でもそうでなければ、放っておいて本人の自主性に任せる。
  • フレデリックそれでどうなるか。思想や文化を愛する人が今よりさらに減ってしまいますよ。
  • ブライアン可能性はあるけど、どうかな。思想や文化を嫌がる子供たちに無理に押しつければ、愛する気持ちより嫌悪感を生じさせることになりやすい。ふてくされた高校生がシェイクスピアを朗読するのを聞いたことがありますか?[身震いしながら]
  • フレデリック [身震いしながら]他にいい方法はないの?
  • ブライアン 気長に待つことです。今は目先の利害にしか興味がなくても、知への無関心を考え直す一生という長い時間が子供たちにはあるんですから。
  • フレデリック それは希望的観測じゃないの。
  • ブライアン人類のあらゆる知に無料で瞬時にアクセスできる時代、人文主義者は自分たちがいかに恵まれているかを考えるべきですよ。知的生活はいまやすべての人に開放されている。強制的な啓蒙にそもそも意味があるとははどうにも思えないけれど、いずれにしても、それはもう時代遅れなんですよ。

 

  • 社会の立場から見ると、(教育の)過大評価は特に著しい。学生は最終試験を受けたら学んだことの大半を忘れてしまう。実生活では一生知る必要がないからだ。喧伝される教育の社会的恩恵などほとんど幻想である。教育の主要な成果として普及するのは、広い層の繁栄ではなく学歴インフレだ。冷静にそろばんをはじいてみれば、教育に対する社会的な投資のパフォーマンスはタンス預金を下回る。
  • 個人の立場から見れば教育の投資効率はましだが、それでも期待には遠く及ばない。高校はほぼ全員にとって見返りが大きいが、ふつうの人は大学には行くべきではない。もっと言ってしまえば、今のふつうの大学生は大学に行くべきではないのだ。
  • この鉄則を裏づけるもの? 第一に、能力バイアスがある。典型的な大卒者が成功しているのは、学歴、知力、モチベーション、態度がそろった「ドリームチーム」のおかげであって、大学の卒業資格だけのおかげではない。第二に、修了の確率がある。大学に入学するのは事業を立ち上げるのと同じで、ギャンブルだ―しかも勝率は「ガリ勉」と「先生のお気に入り」が有利だ。失敗する確率の高い大多数に大学進学を奨めるのは残酷な誘導ミスである。それくらいなら宝くじを買えと言った方がましだ。当たれば左うちわで暮らせるのだから。
  • 教育は人文主義的な、あるいは「精神論」的な見方からはさらにはなはだしく過大評価されている。たまに超優秀な先生の感化によって思想や文化を愛するようになる例はあるが、超優秀な先生はごくわずかしかいない。それを証明するのに物々しく統計を持ち出す必要はない。基本的な事実を挙げるだけで十分だろう。美術作品、高尚な音楽、古典文学の消費がすべて学校のおかげだとしても、使われているお金は雀の涙だ。政治や社会への姿勢に対する教育の効果も過大評価されている。学校で過ごした時間は左翼思想の推進や伝統的な生き方の放棄にはほとんどつながらない。ピア効果は多少確認できるものの、 それはむしろ逆の方向
    に作用することが多い。教育は人を資本主義嫌いではなく、資本主義好きにするのである。
  • 教育の名誉を挽回する方法、私たちが子供のころから聞かされてきたプロパガンダに見合ったものにする方法はあるだろうか。考えられなくもないが、『ロード・オブ・ザ・リング』のエオメルの言葉を引用するなら「望みを託すな。ここは見捨てられた土地だ」。プロパガンダはあまりにも華々しく、現実はあまりに
    も暗い。既知の情報に基づいて行動するのが賢いだろう。盗人に追い銭はやめよう。教育予算を削減しよう。教育費の負担を納税者から学生とその家族に移そう。職業教育には期待できるが、まずは「障害物を取り除く」のが出発点になる。今後実施できそうな職業教育はたくさんあるが、それには否定派の声が小さくなることが条件なのだ。

  • 私たちは今どれほど行き詰まっているのか。現状の教育に政府が年間一兆ドル近く注ぎ込んでいることを考えたら、固まってしまいそうだ。上っ面の化粧直しがたえず行われているので、柔軟に時代に対応しているかのような幻想がある。新しい歴史教科書を採用したり、中国語を履修要覧に追加したり。テクノロジーを採り入れてみたり。大学生は教授の講義中に教室でスマホをいじるかわりに、寮の自室でインターネットでストリーミングされる教授の講義を聞き流しながらスマホをいじれるわけだ。だがどれほど化粧直しを重ねようと、学校の本質は変わらない。学生は卒業後は使わない退屈な内容を山ほど学びながら10年以上も過ごす。
  • この難題を一刀両断する方法がある。政府の助成金削減だ。それで仕事に即した授業内容に変わるわけではないが、学生が教室に座って過ごす期間は数年減るだろう。役に立つことをたいして学んではいないのだから、全般的に「スキルの退化」ではなく学歴デフレの効果があるだろう。前例のないこの逆転は社会的なSFに聞こえるが、論理は明快だ。就職希望者の学歴が低いほど、自分に雇う価値があると雇用主を説得する必要性も少なくなる。
  • 難問の解決は果たせるだろうか。私は悲観的だ。スタンドプレーしたがる政治家や有識者とは違って、私は将来自分の正しさが裏づけられるなどと期待していない。社会的望ましさのバイアスは政府を支配している。政策が支持され継続されるのは成功するからではない。耳に心地よいから支持され継続されるのだ。「すべての子供は最高の教育を受けさせるに値する」は社会的なリターンが壊滅的に低くても、世界中の国民に受けがいい。