経済学をまる裸にする

ベッカー教授やバロー教授、フランクの啓蒙本と並んで、非常によくできた古典的な経済学の啓蒙本。最近は行動経済学やレヴィットのやばい経済学のように、標準的な経済学とはややずれた啓蒙本が流行っているが、やはりこういう正統派経済学の威力を感じられる本はいいなと実感。 

ベッカー教授の経済学ではこう考える―教育・結婚から税金・通貨問題まで

ベッカー教授の経済学ではこう考える―教育・結婚から税金・通貨問題まで

 
バロー教授の経済学でここまでできる!

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日常の疑問を経済学で考える (日経ビジネス人文庫)

日常の疑問を経済学で考える (日経ビジネス人文庫)

 
ヤバい経済学 [増補改訂版]

ヤバい経済学 [増補改訂版]

 

 

物理は太陽の周りを回る惑星や、原子のまわりをまわる電子といった単純で閉じた系ならエレガントに説明できる。だが物理科学ですら、自然界で起こることを理解するのには苦労する。天気予報がその一例だ。

気象予報士地球温暖化といった話の長期予測を頼まれると、その予測の幅は経済予想のほうがずっと高精度に思えるほどのものだ。

経済学が物理科学よりも難しいのは、研究室で対照実験を実施できないのが普通なのと、人々が必ずしも予想通りには動かないことがある。行動経済学の大きな一分野は、心理学者と経済学者の洞察を組み合わせることで大いに注目されたが、それでも個人の行動はあまり正確には予想できない。だが、すべてを理解するにはほど遠いからと言って、何もわかっていないことにはならない。個人の行動がインセンティブに強く左右されるのはわかっている。論理的な規則性もたくさんある。すべての売上は購入を伴い、利益の機械が明らかならば、それが見過ごされることは少ないのもわかっているーこれは証券市場がきわめて効率的だという理論の背後にある基本的なアイデアだ。

経済学者のように考えるには、演繹的な推論の連鎖を必要とするし、それを需要と供給といった単純化したモデルと組み合わせて使わねばならない。制約のもとでのトレードオフも見つける必要がある。ある選択の費用を、別の選択から得られたはずの逸失利益として考えることもしなくてはならない。効率性ーつまり限られた資源から最大のものを得ることーという目標も考えねばならない。限界主義的、あるいは段階主義的なアプローチも必要だ。追加の便益を得るのにどれだけ追加費用がかかるかという問題も尋ねる。資源には多様な使いみちがあって、望んだ結果を得るために各種の違う資源で代替できることも考慮する。そして最後に、経済学者たちは個人が独自の選択をすれば厚生が高まり、競争市場が個人の選択を表現するのにきわめて効率の良い仕組みだと考える傾向がある。(マルキールの序文より)

 

航空会社はこれがかなり上手だ。なぜ土曜の夜を現地で過ごすと運賃が急落するのか? 土曜の夜は、いとこの結婚式でみんなが踊っているときだ。娯楽客は通常、目的地で週末を過ごすがビジネス客は週末はほとんど過ごさない。チケットを2週間前に買うと、離陸11分前に買うよりずっと安い。休暇の客は前から予定を立てるが、ビジネス客はギリギリになってから買うからだ。航空券は価格差別の最もわかりやすい例だが、あたりを見ればどんどん目につくようになる。アル・ゴアは2000年の大統領選で、自分の母親とイヌとが同じ関節炎の薬を飲んでいるのに、母親のほうがずっと高い値段を払っていると文句を言った。実はこの話は、ゴアがイヌと人との薬価格差について読んでねつ造した話だったのだが、それはどうでもいい。例としては完璧だ。一部の薬が人とイヌとでちがう値段になっているのは、まったく当然のことだ。人々はペットにやる薬より自分の薬のほうに高値を支払う。だから利潤最大化の戦略は、二本足の患者には高めに、四つ足の患者には安めに売るということだ。
を当然のことだ。

価格差別は、企業が技術によって顧客に関する情報を集められるようになると、もっと広まるだろう。たとえば、オンラインで注文する客と電話注文の客とで価格を変えることもできる。あるいは過去の購買パターンに応じて顧客ごとにちがう価格を提示することもできる。プライスライン(消費者が旅行サービスをめぐって競りをするサイト)のような企業の背後にある論理・・・

財の配分に価格を使うので、ほとんどの市場は自己矯正的となる

石油輸出国機構OPEC)加盟国の石油相たちは定期的に外国のどこかに集まって、石油の世界的な生産制限に合意しようとする。その直後にいくつかのことが起こる。

  1. 原油天然ガスの価格が上がり始める
  2. 政治家たちは、石油市場に介入する各種のアイデアをやたらに繰り出し始める(その大半はろくでもないアイデアだ)。

だが高価格は熱と同じだ。それは症状でもあり、潜在的な治療手段でもある。政治家たちが議会でつばを飛ばして激論している間に、重要なことが起こり始めるのだ。人々は運転を控える。暖房の請求書が届いて、屋根裏の断熱を改善する。フォードのショールームに行っても、高燃費のエクスぺディションの前は通過して低燃費のエスコートに向かうようになる。

ガソリン価格がリッター1ドルを超えたとき、アメリカ消費者のすばやい対応には経済学者たちでさえ驚いた。アメリカ人たちは小さな車を買うようになった(四駆の売上は激減し、小型車の売上は増えた)。乗車距離も減った(30年で初めて月間走行距離が減った)。公共バスや列車に、これまで乗ったことのない人まで乗った。公共交通の乗客は、50年前の州間高速道路網整備以来のどの時期に比べても高くなった。

そうした行動変化のすべてが健全というわけではなかった。多くの消費者は自動車からバイクに切り替えた。これは、燃費はよいが危険性は高い。何年にもわたり二輪車の死者数は着実に減っていたが、ガソリン価格が上昇を始めた1990年半ば以来、上昇に転じた。『アメリカ公衆衛生ジャーナル』の研究によれば、ガソリン価格が1ドル上がると、年間のバイク死者数は1500人ずつ増えるという。

市場システムで価格を固定したら民間市場は他に競争するやり方を見つける

消費者はしばしば、飛行機旅行の「古き日々」について郷愁を込めて振り返る。機内食はおいしかったし、シートはもっと大きかったし、みんな飛行機に乗るときには着飾っていた、と。これは単なる郷愁ではない。エコノミークラスの旅行の質は大幅に下がっている。だが、航空券の価格はそれ以上に急落している。1978年まで、航空運賃は政府が固定していた。デンバーからシカゴへのフライトはすべて同じ値段だった。それでもアメリカン航空ユナイテッド航空は、顧客をめぐって競争していた。その差別化要因は品質だ。業界が規制緩和されると、競争の主要な部分は価格となった。おそらく消費者が価格を最も気にするからだろう。それ以来、航空機に乗ったり近づいたりするのに関係するものはすべて快適さが下がっているが、平均運賃はインフレ分を除けば、ほぼ半額になった。

1995年に南アフリカを旅していたが、途中のガソリンスタンドのサービスがすばらしいのに感激したものだ。店員たちはぱりっとした制服にしばしば蝶ネクタイをしていて、飛び出してきてはガソリンをタンクに入れ、オイルを調べ、窓を拭いてくれる。トイレもぴかぴかだった。

アメリカを運転していて出くわす恐ろしい代物とは雲泥の差だ。南アフリカにはなにか特別なサービス精神があるのだろうか?いや。ガソリン価格は政府に決められている。だから民間企業であるガソリンスタンドは、顧客を引きつけるのに蝶ネクタイと綺麗なトイレに頼っているのだ。

どの市場取引も参加者すべてにとって得となる

企業は自分の利益を最大化するように行動し、消費者も同様だ。これは単純な発想 がすさまじい力を持つ。人を怒らせるような例を考えてみよう。アジアのタコ部屋工場の問題点は、それが不足しているということだ。成人の労働者は、こうした不快で低賃金の製造工場で自発的に働く(ここで言っているのは強制労働や児童労働の話ではない。それは話が別だ)。だから、次の二つのどちらかが正しいことになる。

  1. 労働者がタコ部屋工場で働くのは就業の選択肢としてそれが最善のものだから。あるいは、
  2. アジアのタコ部屋工場労働者たちは頭が悪くて他にいろいろ魅力的な職場があるのに、わざわざタコ部屋工場で働いている。

グローバリゼーションに反対するほとんどの議論は、暗黙のうちに2を想定している。シアトルでWTOに反対して店舗のウィンドウをたたき割っていたデモ隊は、発展途上国の労働者は国際貿易を減らし、先進国のために靴やハンドバッグを作っている工場を閉鎖すれば、途上国の労働者のためになるのだ、と主張しようとしていた。だが、それで
ずばりどのように途上国の労働者のためになるのだろうか?工場を閉鎖しても新しい機会が生まれるわけではない。それが社会厚生を改善し得る唯の方法は、クビになったタコ部屋工場の労働者たちが新しくもっと条件のよい仕事に就ける場合だけだ

 

 民間部門のすごいところは、インセンティブが魔法のように整って、万人が得になるようにしてくれる点だ。そうなんだよね?うーん、必ずしもそうとは限らない。アメリカの企業はてっぺんから底辺まで、整合しない競合インセンティブのゴミ溜めとなっている。ファストフード店のレジ近くに、こんな貼り紙がしてあるのを見たことはないだろうか?「レシートが提供されなければ食事は無料です。店長をお呼びください」。バーガーキングがこうやって熱心にレシートを渡すのは、家計簿をつけるのを楽にしてあげようと思ってのことだろうか?もちろんちがう。バーガーキングは従業員の猫ばばを防ぎたいのだ。そして従業員が猫ばばするには、取引があってもそれをレジに打たず、バーガーやフライが売れたときにレシートを出さないようにして、その代金を懐に入れてしまうことだ。これは経済学者がプリンシパルエージェント問題と呼ぶものだ。プリンシパル(バーガーキング)はエージェント(レジ係)を雇うが、レジ係は会社にとって必ずしも最善の利益にならないことをやるインセンティブがある。バーガーキングは、従業員が猫ばばしないよう監視するために多くの手間暇をかけることもできるし、お客にそれを肩代わりさせるようなインセンティブを提供することもできる。あのレジ横の小さな貼り紙は見事な管理ツールなのだ。

税金が個人に損をさせつつ他に得をする人もまったくいない状況を「死荷重損失」と呼ぶ。

むしろ、すべてのスポーツカーに課税するとか、車すべてに課税するとかしたほうがいい。というのも、ずっと少額の税金でずっと多くの歳入が得られるからだ。だが、ガソリン税は、新車への課税と同じくドライバーから歳入を集めるが、燃料節約のインセンティブもできる。たくさん運転する人はたくさん税金を払う。これで、わずかな税金によりかなりの歳入をあげつつ、環境にも少し貢献しているわけだ。多くの経済学者は、もう一歩踏み出したがるだろう。石炭、石油、ガソリンなど、あらゆる炭素燃料の使用に課税をすべきだ。こうした税は歳入を広い範囲から集めつつ、非再生資源を節約するインセンティブをもたらし、地球温暖化を引き起こすCO2排出を減らす。

悲しいかな、こうした考え方では最適な税は実現できない。単に一つの問題が別の問題に置き換わっただけだ。赤いスポーツカーへの税金を払うのはお金持ちだけだ。炭素税は、貧富問わず支払うが、おそらく貧困者のほうが所得に占める割合は高いだろう。お金持ちより貧困者に重くのしかかる税金は、逆進性のある税金と言われるが、人々の正義感を逆なですることが多い(所得税のような累進税は、貧乏人よりお金持ちのほうが負担が重い)。ここでも他の場合と同様に、経済学は「正しい答え」を与えてはくれない。与えてくれるのは重要な問題を考えるための分析の枠組みだけだ。実際'あらゆるものの中で最も効率的なものー完璧に広範で単純で公平なもの(公平といっても、狭い税金面だけで見た場合の公平だ)ーは一括税で、これはその区域内にいるあらゆる個人に対し均等に課せられる税金だ。かつてのイギリス首相マーガレット·サッチャーは、コミュニティ課金または「人頭税」としてこれを1989年に導入しようとした。何が起きたか?あらゆる大人が、所得や資産とまったく関係なしに、地元のコミュニティサービスに対して同じ金額を支払うことに対し、イギリス人たちは街頭で暴動を起こした(ただし学生、貧困者、失業者は少し割引があったのだが)。つまり経済学でよいことが、必ずしも政治的によいとは限らないわけだ。

 

何年も前に大学院に出願したとき、人を月に送り込める国に、なぜいまだにホームレスがいるのかを不思議に思うという論説を書いた。この問題の一部は、政治的なやる気の問題だ。ホームレスをなくすのが国の優先課題になれば、たぶんかなりのホームレスは明日にでもいなくなる。でも私は次第に、NASAの仕事のほうが実に楽なのだと気づき始めた。ロケットは、不変の物理法則にしたがう。任意の時点に月がどこにいるかはわかる。宇宙船が地球の軌道にどれだけの速度で出入りするかも厳密にわかる。方程式さえきちんとすれば、ロケットは意図した通りの場所に着陸するー必ず。

人間はこれよりもっと複雑だ。回復中の麻薬中毒者は、軌道上のロケットほど予想しやすくはない。16歳の高校生に、ちゃんと卒業するよう促す方程式もない。でも、強力なツールはある。人々は自分の状態がよくなるよう行動することはわかっている。ただし、何がよい状態かの定義は人それぞれだが人間の状態を改善する最高の希望は、なぜ人々が今のように行動するかを理解して、それに応じた計画をすることだ。プログラム、組織、システムは、インセンティブをうまく使うほうが機能する。ボートを下流に漕ぐように。


エコノミスト』誌はいささか意地悪く、小さな子供連れの乗客は飛行機の後方にまとめるよう義務づけ、その他の乗客が「禁子供ゾーン」を享受できるようにすべきた、と示唆した。同誌の論説は「子供はタバコや携帯電話と同じく、近くの人々に明らかに負の外部性を課す。ギャン泣きする赤ん坊が前の列にいる中で12時間フライトした人や、真後ろから退屈した子供にシートの背をやたらに蹴飛ばされ続けた人は、そのガキの首を締め上げたくなるのと同じくらいすぐに、この主張をご理解いただけるだろう。ここには明らかに市場の失敗の一例がある。両親はその費用をすべて負担しない(それどころか赤ん坊は無料だ)ので、平気で騒々しいガキどもを連れてくるのだ。見えざる手がガキどもに、きついお灸をすえてしかるべきではないか?」

シカゴでリチャード・デイリー市長は、テイクアウトの食品購入2ドルにつき1セントの税金をかけようとした。この「ゴミ税」は、ファストフードの容器が大半を占めるゴミを集める費用の穴埋めに使われるという。市長の経済学はしっかりしていたーポイ捨てゴミは古典的な外部性だ。だがある判事がこの条例を憲法違反だとした。各種のファストフード容器への対応という点で「曖昧であり均等性を欠く」というのが理由だった。いまや、連邦レベルでジャンクフード税(+またはソーダ税)が検討されているが、これは別種の食料関連外部性に対処するためのものだ。その外部性は、肥満だ。肥満に関連したヘルスケア費用は、おおむね喫煙関連のものと同じくらい高い社会は政府の保健プログラムや高い保険料という形で、そうした肥満医療費の一部は負担しているーだから私は、あなたが昼にビッグマックを食べたかどうか気にする理由があるのだ。

 

 公共財には二つ重要な特徴がある。まず、その財を追加の利用者ーそれが何千、何百万人でもーに提供する追加費用は、とても低いかときにはゼロだ。今のミサイル防衛システムを考えてほしい。私がテロリストのミサイルを撃墜する費用を負担したら、シカゴ都市圏で私の近所に住む何百万の人々は、その恩恵を無料で受けられる。これは無線や灯台や大きな公園でもそうだ。いったん一人のためにそれが機能するようになったら、追加で何千人もの役に立つには一切追加費用がかからない。第二に、支払いをしない人物がいても、その人がそれを利用しないよう排除するのは難しいか、ほぼ不可能だ。船長さんに、灯台を使ってはいけないと言えるだろうか? 近くを航行するときには目を閉じるように要求しようか? (「アメリカ戦艦ブリタニカ号に告ぐ!のぞき見してるだろう!」)。あるプリンストン大学の教授は、公共財についての講義をこんなふうに始めた。「よーし、公共ラジオ放送にお金を寄付しているウスラバカどもってのは、どこ
のどいつなんだ?」

フリーライダーは事業を台無しにできる。作家スティーブン・キングはかつて、新作長編をインターネットで直接読者に届けるという実験を試みた。毎月、続きがアップロードされ、読者たちは自己申告で月額1ドルずつ支払う方式だ。キングは、読者のうち自主的に支払う読者が75パーセント以下ならばこの仕組みをやめる、と警告していた。「支払えば、話は続く。支払わないと、止まる」とキングはウェブサイトに書いた。結果はこの手の問題を研究した経済学者たちにとって、悲しいほど予想がつくものだった。物語は止まった。『ザ・プラント』が止まったとき、最後の章をダウンロードして支払った読者はたった46%だった。

公共財を民間事業に任せた場合の基本的な問題がこれだ。企業は消費者に対し、こうした材に支払いを行うよう強制できない。それがどれだけの効用をもたらすか、どれだけ頻繁にそれを使うかは関係ないのだ(灯台を思い出そう)。そして自発的支払いのしくみはすべてフリーライダーに食い物にされる。

 

 経済学にできるのはせいぜい、それなりに筋の通った見方に枠組みを与えることくらいだ。一方の極には、個人は合理的だ(少なくとも政府よりは合理的だという信念がある。つまり自分にとって何がいいかは他の誰よりも、個々の市民がいちばんよくわかっているという見方だ。シンナー遊びをして階段を後ろ向きに転げ落ちるるのが好きなら、それはそれで結構なことです。ただ、自分の医療費は自分で負担できるようにして、あとシンナーでふらふらしているときには車は運転しないでくださいね。

行動経済学者たちは、この対極にある証拠をたくさん提供している。社会は、悪い結果になりそうなことを人々がするのを止められるし、止めるべきだというまっとうな人がたくさんいるのだ。人間の意思決定はある種のまちがいを犯しやすいという証拠は山ほどある。たとえばリスクを過小評価したり、将来の計画が下手だったりという具合だ。現実問題として、こうしたまちがいは、たしかに他人にも影響を与えることが多い。これは不動産市場の崩壊とそれに伴うサブプライム危機からもわかる。

よい政府は重要なのだ。経済がますます高度になるにつれて、政府制度もますます高度になる必要がある。インターネットはその見事な実例だ。民間部門こそがウェブ経済の成長推進力だが、詐欺を取り締まり、オンライン取引に法的拘束力を持たせ、財産権(たとえばドメイン名}を整理し、紛争を解決し、まだ思いついてもいないような問題に対処するのは政府なのだ。

9・11世界同時多発テロの悲しい皮肉は、「自分のお金の使い道は政府よりも納税者のほうがよく知っている」という、政府に対する単細胞的な見方がいかに空疎なものかを露わにしてしまったことだった。個々の納税者は、情報を集め、アフガニスタンの山中にいる逃亡者を追い詰め、バイオテロについて研究し、飛行機や空港を守ったりはできない。たしかに、政府が給料から税金を差し引けば、私に効用を与えてくれるものが買えなくなる。でも、自分では買えないようなものでも、あったほうがよいものがあるのもまちがいない。私は自前ではミサイル防衛システムを建設できないし、絶滅寸前の生物も保護できず、地球温暖化も止められないし、信号機も設置できないし、ニューヨーク証券取引所を規制したりもできないし、中国と貿易障壁削減の交渉をすることもできない。政府はわれわれが集合的に、こうした活動をできるようにしてくれるのだ。

政府は富の再分配を行う。一部の市民から税金を集め、他の市民に補助を与える。世間一般に思われているのとはちがい、政府による便益の大半は貧困者にいくわけではない。メディケア(医療補助)や社会保障(公的年金)の形で中産階級にいくのだ。それでも政府はロビン・フッド役を果たす合法的な権限を持っている。ヨーロッパをはじめとする世界の他の政府は、アメリカ政府ほど積極的には動かない。この点について経済学者は何が言えるだろうか? 残念ながら、大したことは言えない。所得分配に関する最も重要な問題で求められているのは哲学的、イデオロギー的な答えであって、経済学的な答えではないのだ。

経済学は、所得分配に関わる哲学的な問題に答えるためのツールは与えてくれない。たとえば経済学者は、スティーブ・ジョブズから1ドルを無理矢理むしり取って、飢えた子供にあげたほうが全体としての社会的厚生が改善されるのだと証明はできない。ほとんどの人は当然そうなると直感的に思っているが、理論的には、スティーブ・ジョブズが1ドル取られて失う効用のほうが、飢えた子供の得る効用よりも高いということはあり得る。これは一般的な問題の中の極端な例だ。われわれは厚生の状態を効用なるもので計測する。これは理論的な概念であって、定量的に計測したり、人々同士で比べたり、国全体で集計したりできるものではない。たとえば、A候補の税制改革は国全体に効用120単位をもたらし、B候補の税制改革はたった111単位しかもたらさないとは言えない。

 

政府は大きな外部性に対処できるー一方で規制しすぎて経済をつぶしてしまえる。政府は重要な公共財を提供できるーあるいは無駄な計画やお気に入りプロジェクトのために税収を山ほど浪費できる。政府は金持ちから不遇な人々に所得移転できるーあるいは一般人からコネのある連中に所得を移転することもできる。要するに、政府は活発な市場経済の基盤を作るのにも使えるが、きわめて生産的な行動を締め上げるのにも使えるのだ。そのちがいを見分けるのが知恵の出しどころとなる。

もし政府が財やサービスの単独提供者になるのであれば、民間企業では失敗すると考えるべき納得のいく理由が必要ということだ。こうした理由があるからこそ、政府のやることはいろいろある。公衆保健から国防まで、そうした理由がある活動はさまざまだ。免許試験場の悪口を並べたばかりで恐縮だが、それでも運転免許発行は政府が引き続き実施すべき活動と認めざるを得ない。民間企業が運転免許を発行するようになると、値段とサービスの質以外で競争を始める可能性がある。能力のないドライバーにまで免許を出してお客を集めようとする強いインセンティブができてしまうのだ。

そうは言いつつも、政府がやってはいけないことも、これでいろいろわかる。郵便配達もその一つだ。1世紀前なら、政府は郵便事業をやる正当な理由があったかもしれない。アメリカの郵政公社は、補助金つきの料金で配達を保証することにより、低開発地域を間接的に支援していた(というのも遠隔地に郵便を届けるのは、都市部に配達するよりもお金がかかるが、料金は同じだからだ)。当時は技術もちがっていた。1820年には、複数の民間企業が全国どこへでも郵便を配達するシステムを構築するのに必要な大規模投資をするとは考えにくかっただろう(民間独占は政府独占と同じくらい、いや場合によってはもっとひどい)。でも時代は変わった。フェデックスUPSは、民間企業だって世界的な配達インフラを十分構築できることを証明してみせた。

郵便サービスがろくでもないことで、巨大な経済的費用が生じているだろうか?たぶんないだろう。だがアメリ郵政公社が、経済の他の重要セクターを支配していたらどうだろう。世界には、政府が製鉄所や炭鉱、銀行、ホテル、航空会社などを運営している国もある。こうした事業に競争がもたらす便益はすべて失われており、結果として市民が損をしている(ちょっと考えてほしい。アメリカに残る最大の政府独占は公共教育だ)。

政府が経済の中で、道路や橋の建設といった重要な役割を果たせるからといって、政府自身がその作業をしなくてはならないわけではない。実際にコンクリートを混ぜるのは役人でなくてもいいのだ。むしろ政府は新しい高速道路の計画を作り、資金を用意して、民間建設会社にその工事の入札をさせればいい。入札が正直で談合がなければ(多くの場合、ここはかなりの問題となる)、プロジェクトは最高の仕事を最低の費用でできる企業にいく。つまり公共財が、市場の便益をすべて活用した形で実現するわけだ。

ときどきアメリカの納税者はこのちがいを忘れてしまう。この点について、ヘルスケア改革に関するタウンホールミーティングの一つでバラク・オバマも指摘している。「ある日、女性からこんな手紙をもらい圭した。『政府運営のヘルスケアなんかいらない。社会化された薬も不要。メディケアもいじるな』」。これが皮肉なのは、メディケアというのがまさに政府運営のヘルスケアだからだ。メディケアでは、65歳以上のアメリカ人は民間医師の治療を受けて、医師はその費用を連邦政府に請求できるのだ。

 

経済が政治に任される部分は、少なければ少ないほどいい。たとえば誰が銀行融資を受けられるかを決めるのは、強力な政治家でないほうがいい。でも、中国のような専制国家や、民主国でもインドネシアのように政治家たちが「縁故資本主義」を行う場合には、まさにそれが起こる。潜在的にとても利益のあるプロジェクトには資金がつかず大統領の義弟がやっているいかがわしい事業には大量の政府資金が投じられる。消費者たちは二つの面で損をしている 。まず、そもそも資金などつくベきではないプロジェクトがつぶれると、税金が無駄遣いされる(あるいは劣悪な政治的融資だらけの銀行システムを丸ごと救済しなければならないとそうなる)。第二に、融資(有限の資源だ)が無価値なプロジェクトに向けられてしまうため、経済の発展が本来よりも遅くなり、効率も落ちる。自動車工場は建設されない。起業家にお金がつかない。結果として、資源が抱え込まれて経済は潜在力よりはるかに低いところでしか可動しない。

 

政府が経済のある一部を支配するとき、希少な資源は市場ではなく、専制支配者や官僚や政治家によって配分される。旧ソ連では、巨大製鉄所が何トンもの鋼鉄を生産したが、一般市民は石けんも、まともなタバコも買えなかった。今にして思えば、ロケットを公転軌道に乗せるのにソ連がいちばん乗りしたのは当然ではあった(そしてソ連マルガリータ・スペースパックが発明されなかったのも)。政府は単に、資源を宇宙プログラムに割くよう命じることができる。人々が本当は新鮮な野菜やチューブソックスをほしがっていてもそれは無視できる。こうした資源配分の決定は悲劇的なものだった。たとえばソ連中央計画者たちは、避妊が経済的な優先事項になるとは思わなかった。ソ連政府は万人に避妊薬を行き渡らせることもできた。大陸間弾道ミサイルの作り方を知っている国なら、避妊ピルか、少なくともコンドームの作り方くらいはわかる。だが避妊は、中央の計画者たちが国の資源を振り向けようとは思わない分野だったので、唯一の家族計画手法は中絶となった。共産主義時代には、新生児1人につき2件の妊娠中絶があったという。ソ連の崩壊以降、西側の避妊法が広く普及して、中絶率は半減した。

 

ミルトン・フリードマンはすばらしい著述家で、政府介入の削減に関するスポークスマンとして雄弁だった(そしてその遺髪を告ぐと称して最近、新聞などの論説欄にのさばる物書きの多くよりも、はるかに繊細な思想家だった)。彼はこの点について述べるのに、ある弁護士の大規模集会で、経済学者とアメリカ弁護士連合会代表とが展開したやりとりを、『資本主義と自由』で描いている。その経済学者は会場に対して、弁護士業界はあまり制約を多くすべきではないと論じていた。この分野で活動する弁護士をもっと増やし、あまり出来がよくない人でも活動できるようにすれば、法曹サービスの費用は下がると経済学者は言う。なんといっても一部の法律手続きは、遺書の作成や不動産取引のとりまとめなど、バリバリの憲法学者などが出るまでもないものだ。そしてたと
えとして、政府がすべての車はキャデラックでなければならないなどと決めるのはばかげているでしょう、と述べた。このとき、会場にいた弁護士が立ち上がってこう言った。「アメリカにはキャデラック級弁護士以外はふさわしくないんだ!」

実は「キャデラック級弁護士」だけにしろと論じるのは、経済学がトレードオフについて教えてくれるものをすべて無視することになる(これは別に、キャデラックを作るゼネラル・モーターズが問題だらけだという話はまったく関係ない)。キャデラックだけの世界では、ほとんどの人はまったく移動手段がなくなってしまう。ときには、人々がトヨタカローラを運転してもいけないことはまったくないのだ。

 

規制にもいろいろある。重要な問題は 政府が経済に関与すべきかどうかということで
はない。介入するとして、その規制をどう構築すべきかという問題のほうが重要かもしれない。シカゴ大学の経済学者でノーベル経済学賞を受賞したゲーリー・ベッカーは、夏をケープコッドで過ごすが、そこで捕れるストライブドバスが大好物だ。この魚のストックは減少しつつあるので、政府はシーズンごとに認められるストライプドバスの商用水揚げ高を制限した。ベッカー氏は、それについては何も文句はない。10年後にもストライブドバスを食べたいと思っているからだ。

ただし、『ビジネスウィーク』のコラムでベッカー氏は、総水揚げを制限するために政府が使った方法について問題にした。その執筆時点で、政府はシーズンごとに水揚げできるストライプドパスの総量に規制をかけていた。ベッカー氏はこう書いている。「残念ながら、これは漁業を抑える方法としてきわめて不適切だ。というのも各漁船はこれで、シーズンの早い時期になるべく多くの魚を捕まえようとするからだ。そうしないと他の船がやってきて水揚げしてしてしまい、全員にかかる総量規制の上限がきてしまう」。そうなるとみんなが損をする。漁師たちは、シーズン初旬にやたらにストライブドバスが市場に出回るために単価が下がってしまう。そしてシーズンの早い時期に総量規制の上限がきてしまうと、その後は消費者たちはまったくストライプドバスを食べられなくなる。数年後、マサチューセッツ州はストライブドバスの水揚げ量が個別の漁師の間で山分けされるような方式に変えた。これで総量は相変わらず制限されているが、
個々の漁師はその割り当てをシーズン中、いつ使ってもかまわない。

経済学者的な考え方で重要なのは、市場をいじる際に必ず発生するトレードオフを認識することだ。規制は資本と労働の流れを妨害しかねないし、財やサービスの値段を上げ、イノベーションを抑え、その他各種の方法で経済に足枷をはめてしまう(たとえば蚊が生き延びられるようにしてしまうとか)。善意から生じた規制ですらそうなのだ。最悪の場合、規制は企業が政治制度を自分に有利に使うことで、利己性の強力なツールになりかねない。競争相手に勝てないのであれば、政府に競争相手の足を引っ張ってもらえばいいじゃないかというわけだ。シカゴ大学教授ジョージ・スティグラーは、企業や業界団体が自分の利益のために規制を求めるという鋭い観察と、それを支持する証拠によって、1982年にノーベル賞を受賞した。

私のいるイリノイ州で行われた規制キャンペーンを見てほしい。州の立法府は、ネイリストのライセンス要件をもっと厳しくする規制の施行を求めて圧力がかけられていた。これはペディキュアでひどい目にあった被害者たちによる草の根のロビイングキャンペーンだっただろうか?(苦痛に顔をしかめて議事堂の階段を上る被害者たちの姿が目に浮かぶようだ)それが、そうでもないのだ。ロビイングを行ったのはイリノイ化粧業協会で、すでにあるスパやサロンを代弁して行われたものだった。これらの企業は、大量の移民による新規参入のネイリストと競争したくなかったのだ。1990年代末にはネイルサロンの数が年に23パーセントも増え、フルサービスのサロンでは25ドルかかるのに、ディスカウントサロンではたった6ドルだった。厳しいライセンス要件ーこれはほぼ常に既存サービス提供者は適用除外となるーがあれば、新設のサロン開店が高価になり、厳しい競争が制限される。

 

経済学者たちが考えたがる関連した問題がある。ハーバード大学の卒業生は人生で大いに成功するが、それはハーバードで成功につながるようなことを学んだからなのか、
それともハーバードが、どのみち人生ですごく成功しそうな有能な学生だけを選んで入学させるからなのか?言い換えると、ハーバードは生徒に大量の付加価値をもたらすのか、それともハーバードに入学できたということで賢い生徒が才能を宣伝するための入念な「シグナリング」を提供するだけなのか?プリンストン大学の経済学者アラン・クルーガーと、メロン財団の経済学者ステイシー・デールは、この問題に取り組むおもしろい研究を行った。トップ大学の卒業生は、卒業後にそれほどでもない大学の卒業生より高い給料をもらっている。たとえば、1976年にイエール、スワスモア、ペンシルベニア大学に入学した平均的な学生は、1995年には年収9万2000ドルだった。そこそこいい大学、たとえばペンシルベニア州立、デニソン、テュレーン大学に入った平均的な学生は年収がそれより2万2000ドル低かった。これは特に驚くべき発見ではないし、イエールやプリンストンなどの学生が、4年にわたりビールの一気飲みとテレビ三昧で過ごしても、レベルの低い大学に比べてたくさん稼げるか、という問題には答えていない。

そこでクルーガーとデールは分析をもう一歩進めた。トップ大学とそこそこの大学両方に合格した学生の収入を見たのだ。そうした生徒の一部はアイビーリーグ校などトップ大学に向かい、一部は二番手を選んだ。クルーガーとデールの主要な発見は、その論文の題名にうまくまとめられている。「エリート校に行けるくらい賢い生徒は、わざわざ行くまでもない」。トップ校と準トップ校の両方に受かった学生の平均的な稼ぎは、どっちの大学に行こうとあまり変わらなかった(唯一の例外は、低所得世帯出身の学生で、こちらだとトップ校に行くことで稼ぎは大幅に増えた)。全体として、人生で後に影響するのはどの大学に行ったかではなく、その生徒自身の質らしい。

アイビーリーグ校に通うのに15万ドル以上もかけるのは不合理なのだろうか? 必ずしもそうではない。最低でも、プリンストンやイエールの学位は経歴書において、ロジャー・エバートの「いいね!」マークに匹敵するものだ。その人が非常に有能であることを示すので、人生で出会う人々ー雇い主、伴侶、親戚ーにとっての疑問の余地は減る。それに、世界最高の頭脳と4年も付き合うことで、本当に何かを学べる可能性はまちがいなくある。それでも、クルーガー氏は大学を選ぶ学生に以下のアドバイスを提供している。「通う価値のある大学が自分の入れなかった大学なのだとは思わないこと。(中略)自分自身の動機や野心、才能こそが、経歴書に書かれた大学名よりも成功を左右するのだというのを忘れないこと」

賢いやる気のある個人(そして同じくらいやる気のある両親を持つ人)はどんな学校に行こうとも成功するという発想は、アメリカの学校改革論者がしばしば忘れるものだ。イリノイ州では、秋ごとに州の学校採点表が発表される。州の学校はすべて、各種の標準学力試験で生徒たちがどのくらいの成績をあげたかに基づいて評価されるのだ。メディアはすぐにそうした学校採点表を使って州の「最高の」学校を発表するが、それは通常は豊かな郊外部にある学校となる。だがこのプロセスは、どの学校が最も有効かを少しでも表しているのだろうか? 必ずしもそうは言えない。「多くの郊外コミュニティでは、学生は登校して4年間ずっと倉庫に閉じこもっているだけでも、標準学力試験での成績はよい」とロチェスター大学の経済学者エリック・ハヌシェクは指摘する。彼は、学校による入力と生徒の成績とのいささか面倒な関係に関する専門家だ。ここには根本的な情報が欠如している。「好成績校」ではどのくらいの価値が本当に追加されているのだろうか?そこに傑出した教師や学校運営者がいるのか、それともどこの学校に行こうとも標準学力試験で好成績をおさめる優秀な生徒がそもそも集まっているだけなのか?

 

市場経済の他の側面と同じく、ある技能の価格は、その社会的価値とは何ら本質的な相関はなく、希少性に反応するだけだ。あるとき、1987年ノーベル経済学賞受賞者で、野球ファンとして名高いロバート・ソローにインタビューした。そのとき、ノーベル賞を受賞したのに受け取れるお金がロジャー・クレメンスの1シーズンの稼ぎより少ないというのは気にならないかと尋ねた。ロジャー·クレメンスは、当時ボストンのレッドソックスでピッチャーを務めていたのだ。「いいや、よい経済学者はたくさんいるが、ロジャー・クレメンスは1人しかいないからね」とソローは答えた。これが経済学者の発想だ。

さてここで、公共政策における最も有害な概念を取り上げるときがきた。労働量一定の誤謬だ。これは、経済の中でやるべき仕事の量は固定しており、したがって新しい職が生み出されたら、必ずその分だけどこかで職が失われるというまちがった信念を指す。この議論によれば、私が失業していた場合、職にありつくためには誰かがもっと少なく働くか、失職してくれねばならない。フランス政府はかつて、これが世界の仕組みだと信じていた。そしてこれはまちがっている。職は個人が新しい財やサービスを提供するときにはいつでも作り出されるのだ。あるいは古いサービスを提供するもっとよい(またはもっと安い)方法を見つけることでもいい。

経済学者ゲーリー・ベッカーは人的資本の分野での研究でノーベル賞を受賞したが、教育や訓練、技能、人々の健康ですら含めたストックは、現代経済における富のおよそ75パーセントを構成すると見ている。ダイヤでも建物でも、原油、きれいなハンドバッグなどでもないー頭の中に人々が持っているものだ。ベッカー氏はある演説でこう述べている。「私たちの経済は本当は、『人的資本主義経済』と呼ぶべきなんです。というのも、それは実際にほとんどがそうだからなのです。各種の資本ー機械や工場といった物理資本、金融資本、人的資本ーはどれも重要ですが、最も重要なのは人的資本です。実際、現代経済では富と成長を作り出すにあたり、人的資本こそが最も重要な資本形態なのです」。

 

1982年にノーベル賞を受賞したシカゴ大学の経済学者、故ジョージ·スティグラーが
打ち出した考え方は、直観に反している。企業や産業はしばしば規制の恩恵を受けるというのだ。どの州も

ありそうもないことのように聞こえるだろうか?教員免許を例に考えてみよう。どの州も、公立学校の教員には免許取得のために特定のことを行ったり、習得したりするよう義務づけている。ほとんどの人は、これをきわめて理にかなったことと捉えている。イリノイ州では、時とともに免許取得の要件が着実に増加している。公立高校改革が重視されていることを考えると、やはりこれも理にかなっているように見受けられる。だが検定の政治をよく調べてみると、どうも怪しくなってくる。 アメリカで最も有力な政治的勢力の一つ、教職員組合は、教員により厳しい研修と試験を義務づける改革を一貫して支持している。だが但し書きに注目。どんな要件が新たに課されようと、すでに教員になっている人たちはほぼ例外なく、これらの規定の対象外とされるのだ。つまり、教員になりたい人は、追加講習を受けたり、新しい試験に合格したりしなければならない。既存の教員は、その必要がない。教員検定法が生徒の利益のために作られているなら、あまりつじつまが合わない。教えるために何かをすべきなら、教壇に立つ誰もがやらなければならないはずだ。

教員検定法には、他にも筋が通らない点がある。私立学校の教員の多くは、数十年間の経験があっても、ほぼ確実に不要な数々の手順(教育実習を含む)を踏まない限り、公立学校の教壇には立てないのだ。大学教授も然り。

この話で何より最も特筆すべき(かつ苛立たしいの)は、認可要件と教師としての能力とはまったく無関係だと研究で実証されている点だ。これについてもってこいの(私が目にした他のあらゆる証拠とも一致する)証拠が見受けられるのが、ロサンゼルスだ。カリフォルニア州では1990年代後半に、州全域で1学級当たりの人数を減らす法が制定され、ロサンゼルスでは教員を新しく大量に雇う羽目になり、その多くは資格を満たしていなかった。ロサンゼルスでは、個々の先生が受け持つ生徒の成績について、学級レベルでデータをとった。公共政策シンクタンク、ハミルトンプロジェクトは、生徒15万人の学業成績を3年間調べて、二つの結果にたどりついた。

  1. 教員の優秀さは重要。上位4分の1の教員に割り当てられた生徒たちは、下位4分の1の教員についた生徒たちより10パーセンタイル点上位で3年間を終えた(調査開始時点の成績水準については調整済)。
  2. 資格は重要でない。調査では「有資格の教員に割り当てられた生徒たちと、無資格の教員に割り当てられた生徒たちの学業成績に、統計上、有意な差は見られなかった」

この結果を踏まえて、研究者たちは才能ある人間が公立学校の教員になるのを阻む、あらゆる参入障壁を排除するよう勧めている。ほとんどの州がやっているのは、その反対だ。スティグラーなら、すべて容易に説明がつくと主張しただろう。

 

では、いったい何が悪いのか。問題は、政治家が古い経済構造を守ると決めたら、市民が新しい経済構造の恩恵を得ることができない点だ。元FRB副議長のロジャー・ファーガソン・ジュニアは、こう説明している。「絶え間なく動き続ける競争環境と富の創造の関係を認識できない政策立案者たちは、衰退しつつある方法や技能に注力してしまう。そうして弱く、時代遅れの技術を守ることを目的とした政策を打ち立て、結局は経済の歩みを遅らせてしまうのだ」

クリントン政権で財務長官を務めていたロバート・ルービンはこう述べている。「過去8年間にわたって協議してきた関税率削減による経済効果は、世界史上最大の減税となる」

こちらではよい靴、あちらではよりよいテレビーそれでも平均的な一般市民がどこかへ飛行機ででかけて世界貿易機関WTO)支持のデモをするには至らない。一方、グローバリゼーションの影響を最も直接的に受ける人々には、もっと強力な動機がある。記憶に残る例では、1999年にアメリカ労働総同盟産別会議(AFL-CIO)をはじめとする複数の団体が、およそ3万人をシアトルに派遣して、WTOの拡大に抗議した。発展途上国の賃金と労働条件を懸念する、というのがその見え透いた言い訳だった。でたらめだ。アメリカ労働総同盟産業別組合会議が心配していたのは、アメリカの仕事の口だ。貿易が増えるというのは、無数のアメリカの消費者に、安価な物品とともに、失業と工場閉鎖がもたらされることを意味する。これは過去の歴史を見ても、労働者たちがデモに繰り出す動機になってきた。かつてラッダイトと呼ばれたイギリスの織物工たちは、織機を破壊して、機械化が招く低賃金と解雇に抗議した。彼らの思い通りになっていたらどうなっただろうか。

ポール・クルーグマン曰く「グローバリゼーションは、人間の善意ではなく利潤動機で動かされているが、善意の政府や国際機関によるあらゆる外国援助やソフトローンよりも、はるかに多くの善をはるかに多くの人々に対して行ったと言えるーそしてぼくもそう主張する。そしてさらに悲しそうにこう付け加えている。「でもこう言うと、罵倒メールが山ほど届くのは確実だということを経験からぼくは熟知しているのだ」


「ほとんどの西洋人と同じく、この地域にやってきた私たちはタコ部屋工場に怒り心頭だった。だがやがて、アジア人のほとんどが支持する見方を受け入れるようになった。
タコ部屋工場に反対する運動は、それが助けようとしている当の人々に被害を与えかねないのだというものだ。というのも、うわべはいかに陰惨でも、タコ部屋工場はアジアを一変させつつある産業革命の明らかな徴だからだ」。その劣悪な条件ートイレ休憩も取れず、危険な薬物にさらされ、土日も働かされるーを挙げてから、二人はこう結論する。「アジアの労働者たちは、アメリカの消費者たちが抗議のために一部のおもちゃや衣服をボイコットするという発想に怖気をふるうことだろう。最貧のアジア人を助ける最も簡単な方法は、タコ部屋工場からの購入を増やすことで、減らすことではない」


ポール・クルーグマンは、善意が裏目に出た悲しい例を挙げている。
1993年に、バングラデシュで児童労働がウォルマート向けの衣料を作っているのがわ
かり、トム・ ハーキン上院議員は未成年労働者を雇う国からの輸入品を禁止する法案を提出した。その直接の結果として、バングラデシュの衣料工場は子供を雇うのをやめた。でも子供たちは学校に戻っただろうか? 幸せな家庭に戻っただろうか? オックスファムの調査では、そうはなっていない。クビになった児童労働者たちは、もっとひどい仕事に就くか、浮浪児になったーそしてその相当数は売春婦になるしかなかったという。おっと、これは失敗、ですな。

過剰な規制は、汚職と裏腹だ。政府官僚は各種のハードルを設けて、それを乗り越えようとしたり、迂回しようとしたりする人々から賄賂をゆすり取る。モスクワで自販機を設置する場合、ある適切な「警備会社」を雇うとずいぶんお手軽になるのだ。他の途上国で事業を始めようとしたらどうだろう。またもやペルーの経済学者ヘルナンド・デ=ソトがすばらしい研究をしている。デ=ソトは仲間とともに、リマの郊外で合法的に登記された事業所として店員1人の洋服屋を開店しようとしたときの苦労を記録しているのだ。研究者たちは、賄賂は支払わないと誓った。これにより、法に準拠するコストの総額が反映されるようにしたのだ(最終的に、一同は10回にわたり賄賂を要求され、プロジェクトが完全に頓挫するのを防ぐために2回はそれに応じた)。一同は1日6時間、42週にわたって働き続け、7つの政府機関から11種類の許可証を手に入れることになった。所要時間抜きでかかった費用は1231ドル、あるいはペルーの月額最低賃金の31倍だーたった1人の店舗を開くだけでこれだけかかるのだ。

ハーバード大学の経済学者ロバート・バローによる経済成長の古典的な研究は、およそ100カ国について30年以上を検討しているが、政府支出ー教育と国防以外の総政府支出ーは1人当たりGDP成長と負の相関を持っているそうだ。こうした支出(およびそのための課税)は生産性を高める見込みが低く、したがって、有害無益になりがちなのだとバローは結論している。アジアの虎は、経済開発の中でもオールスターチームと言える諸国だが、経済発展を実現したのは政府支出がGDPの2割くらいのときだった。世界の他の地域だと、高い税率が不均衡に適用されているため経済が歪み、汚職や腐敗の余地を生み出している。多くの貧困政府は、もっと税率を下げてそれを単純で集めやすくすれば、かえって税収は増えるかもしれない。

インターネットはあらゆるところで透明性を高める大きな可能性を持つ。そしてこれは貧困国で特にあてはまる。ある地元プロジェクト(たとえば道路やヘルスクリニック)のために中央政府がいくら予算をつけているかオンライン上で公開するだけで、市民たちは得られるはずだったものと実際に実現したものとを比べられる。「コミュニティセンターに5000ドルの予算がついたって? あのコミュニティセンター、とても5000ドルには見えないぞ。市長と話をしなくては」

技能労働者たちが新しい職を作ったり古い職をもっとうまくやったりして、経済成長を生み出す経済を描いた。技能こそが重要だー個人にとっても経済全体にとっても。これは今でも正しいのだが、発展途上国に行くと、ここにもう一つひねりが加わる。技能労働者が成功するには、他の技能労働者が必要となる場合が多いのだ。心臓外科医として訓練を受けた人物が成功するには、設備の整った病院や熟練看護師、医薬品や医療
器具を売る企業、心臓手術の費用を支払えるだけのリソースを持った人々が必要となる。貧困国は、人的資本の罠に捕らわれてしまうこともある。技能労働者が少ないと、他の人々も技能を得るために投資するインセンティブが下がってしまう。技能を得た人々は、技能労働者の比率がもっと高い地域や国に行ったほうが、自分の能力の価値が高いことを発見し、お馴染みの「人材流出」が生じてし圭う。世界銀行エコノミストであるウィリアム・イースタリーが述べるように、その結果は悪循環となる。「ある国が当初から高技能なら、技能はさらに高まる。低技能から出発すると低技能のままだ」

 

経済学者たちは、豊富な天然資源がもたらすマイナス効果を「オランダ病」と呼ぶようになっている。これは1950年代に北海でオランダが莫大な天然ガスを発見した影響を見たことによるものだ。天然ガス輸出の激増はオランダギルダーの価値を引き上げ(というのも他の国々はオランダの天然ガスを買うためにギルダーを要求したからだ)、他の輸出品はつらい思いをすることになった。政府はまた天然ガスの売却益で社会福祉支出を拡大したので、企業の社会保障支出も引き上げられ、したがって製造費用も上がった。オランダは昔から貿易商の国であり、GDPの半分以上は輸出からのものだった。だが1970年代になると、他の輸出産業、つよりそれ土でオランダ経済の屋台骨となってきた産業は、競争力がガタ落ちになっていた。あるビジネス誌はこう述べている。「天然ガスは経済の仕組みを極度に拡大し歪めたので、貿易国にとってはよいことだったか判断がつけがたい」

最後に最も重要かもしれない点として、各国は天然資源からの収入を使って国を豊かにすることもできる・・・・が、実際にはそうしないのだ。莫大な見返りをもたらす公共投資ー教育、保健、公衆衛生、予防接種、インフラーに使えたお金は、むしろ無駄遣いされることのほうが多い。世界銀行の援助で、チャドから出てカメルーンを通り海に出る石油パイプラインが建設されると、チャドの大統領イドリス・デビーは石油で真っ先に入ってきた450万ドルを、反乱軍と戦う兵器の購入に使ったのだった。

経済学をまる裸にする  本当はこんなに面白い

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