VIP――グローバル・パーティーサーキットの社会学

  • これが、ドレの世界のエリートたちだ。上位1%ではない、と彼は言う。「上位0.0001%だよ。それが、俺の周りにいてほしい連中のランクだ」
  • ドレを取り巻く女性たちは、私も含め、金持ちに見えればそれでいい。実際に金持ちである必要はない。ありがたいことだ。私たちの誰一人、今晩の夕食代ですら支払えない可能性が高いからだ。カクテル、何皿ものパスタ、新鮮な野菜やサラダ、魚にステーキ、そしてデザートとエスプレッソが、誰も値段を見ないまま次々と運ばれてくる。私はこっそりメニューを覗いたからわかっているが、ザ・ダウンタウン》ではカクテルが1杯20ドルほどする。ビーツとヤギのチーズのサラダが24ドル。私は約18カ月の間にVIPパーティーの取材で十数回はここでディナーをとったが、一度も財布を出したことがない。
  • 「女の子」である私たちの飲み物と食事は、無料だった。際限なく出てくる皿やグラスはすべて、「店からのサービス」として提供されていた。テーブルに集まった客をもてなすために、ドレは給仕スタッフにチップを渡している。通常、代金の25%ほどだ。毎週日曜の夜、《ザ・ダウンタウン》は私たちをもてなすため
    だけに1000ドル以上を肩代わりしていた。だが長い目で見ると私たちの存在が店にとってははるかに大きな価値を生む。それは店で食事をする男性たちにとっても、ドレ自身にとっても大きな価値だ。
  • ドレはその晩の仕事でたっぷりと報酬をもらっていたかもしれないが、彼が招待する女性たちは、《ザ・ダウンタウン》でおよそでも、報酬を支払われてはいなかった。その代わり、彼女たちは二つの意味で「コンプリメント」を受けていた。 無料の飲食、そしてほかの状況なら平凡な地位や財政力の人々が歓迎されない排他的な世界に、美貌を持っているがために入れてもらえるという称賛。ほとんどの「女の子たち」がこの交換条件を理解していることは、のちに取材する中で明らかになった。ただ、クラブで遊んでいる間、彼女たちはそのことをめったに口にはしなかった。
  • その一方で、ザ・ダウンタウン》のようなVIP向けの施設は、大きな利益を上げる。《ザ・ダウンタウシ》はマンハッタン、ロンドン、香港、ドバイにも出店する国際的なレストランチェーンの一部で、その売上は優に年間1億ドルだ。だが、それさえも、ここや世界中のVIP専用クラブでボトルを空けまくるサウジの王族、ロシアの新興財閥、そしてよくある大手のITや金融企業の連中の財産に比べれば微々たる額だ。
  • 「この部屋には大金がうなってるんだよ」。笑顔で首を振りながら、ドレは教えてくれた。花火が刺さったドンペリのボトルを頭上高く掲げた裸同然のウェイトレスが脇を通り過ぎるたびに、彼はそっちに私の注意を促した。そのボトルは、1本がだいたい495ドルするのだ。
  • ボトルを注文しているのは世界的な経済界のエリートたちだった。研究するのも、定義するのすら難しいことで悪名高い彼ら「エリート」は、ここでは目に見えて莫大な経済資源を動かす人々を指す。彼らの影響力や政治力は問われない。VIPパーティーシーンは、《ザ・ダウンタウン》の1本495ドルのシャンパンがジェンナのような中流階級にとってのスターバックスのコーヒーに相当するような、主に若く新しい富裕層を惹きつける。そのジェンナは今、ドレのテーブルの近くに立ち、音楽に合わせて物憂げに体を揺らしながら、部屋の中を見渡している。ドレの女の子がたいていそうするように、ジェンナもおおむね彼のテーブルの傍を離れず、部屋の中を歩き回るのはごくたまにだった。1時間ほどして、うるさい音楽と点滅する照明の中で仕事の機会を手に入れられなかった彼女は帰っていった。
  • この店にいる全員が、なんらかの力を持っている。女性たちを店に入れるようにしてくれる外見の美しさもひとつの力ではあるが、それははかない短命の資産で、店内に入ってしまえば本気のプレイヤーとはみなされない。力の一部は端的に金融資本という場合もあり、大金を使う彼らの圧倒的な経済力はこれみよがし
    に示され、誰もがそれを目にして、ときには批判する。両替可能な力もあって、世界中のエリートとプロモターとのコネクションもそこに含まれる。
  • この群集のヒエラルキーにおける自分のステータスについて常に考えているドレは、トップを維持することを何よりも気にしていた。エリート客層が行くという評判が確立できていないクラブでの仕事は決して引き受けない。「上に行くしかないんだよ。絶対に下には戻らない。そんなことをしたら自分のブランドに傷
    がついて、ゆっくりだが確実に死に向かうだけだ。現金につられて、手っ取り早い報酬を追いかけるのは危険だよ。評判はついてまわるからな」。クラブのステータスがプロモーターについてまわることもある。ステータスが低い店で働いたり、モデルではない彼女とつきあったりすることは、「負け犬」の烙印を押され
    るということなのだった。

 

  • ベガスは、貴重なレジャーのチャンスを最大限に生かしたいと思っている気前のいい金持ちがこぞって目指す数多いグローバルシーンのひとつだ。ブラジル、インド、中国、ロシア、そして湾岸諸国の新興金融・エネルギー産業から流れこむ資金で、世界の経済的エリートたちはかつてないほど世界中に分散し、よりフットワークも軽くなった。エリートのコミュニティはもはや近隣地区や都市に固定されてはいない。1年のうちの特定の時期に、一番人気の目的地に群れを成して集まる。「金持ち居留区」と呼ばれるようになったそれらの場所は、夏ならハンプトンズやコート・ダジュール。冬ならサン・バルテルミー島、アスペン、グシュタードといったコロニーだ。サン・バルテルミー島は閑静な上流階級のリゾートから、1月のピークシーズンには百万長者のヨットの有名な停泊地へと変貌する。エリートビジネス階級は、VIPシーンの大西洋横断カレンダーを追いかける。1月にサン・バルテルミー、3月にマイアミ、7月にサントロペとイビサ。そして9月と2月にはそれぞれファッションウィークに合わせて当然のようにパーティーの予定が組まれるので、ミラノとロンドン、パリで途中下車するという流れだ。一方で、エリートはほかの階級よりも多様であり、地理的にも世界中に分散している。もう一方で、彼らはあまりにもほかの階級と隔離されているため、地理学者たちは彼らの移動を「超ジェントリフィケーション」と呼んでいる。その特徴は地理的隔離、社会的自己隔離、そして疎外感だ。現代の超行動的なエリートたちは、ほとんどの人々から離れた泡の中に生きているのだ。
  • ナイトクラブもそれに歩調を合わせてグローバル化を進めてきた。カンヌやドバイでサテライトパーティーを開くフランチャイズ店を立ち上げたり、コーチェラやアート・バーゼル・マイアミで期間限定クラブを立ち上げたりしている。「みんながA級の客を追いかけてる、競争の激しい商売だよ。世界中を追いかけ回さなきゃいけないんだからな」と言うのはニューヨークの《10AK》(「ほかに類のない」を意味する「ワン・オブ・ア・カインド」の略)の共同オーナーであるロニー・マドラだ。このクラブはメキシコシティ、ロサンゼルス、そしてラスベガスにもフランチャイズ展開している。かつてミートパッキング・ディストリクトに
    あった《プロヴォカター》は8月になるとニューヨークの店を閉め、このような貼り紙を出した。「プロヴォカター一家は、毎年恒例の夏休みでヨーロッパに行っています。8月下旬、ファッションウィークの前に戻ります」
  • しばしば《プロヴォ》と呼ばれていたこのクラブのニューヨークの常連客たちは、夏休みにコート・ダジュールで合流したときに誰に会うかがわかっている。私が取材した相手の多くが、遠い異国の地で見慣れた顔に再会することを「友愛会」「小さな共同体」「部族」といった言葉で説明した。裕福なレストラン経営者で、ニューヨークとサントロペのクラブ常連である18歳のリュックは、こう語る。
  • サントロペやイビサでも、どこに誰が座っているか完全にわかる。たまには新参者もいるが、まあ6、7割は顔見知りの古馴染みで、いつもいる連中さ……おかしいだろ、絆みたいなものだよ。毎度一緒にパーティーしてる仲間で、本当の絆とは違うが、絆には違いない。お互いに連絡を取り合って、一緒に会って。部族みたいなものなんだ。わかるかな。
  • 世界を渡り歩く有閑階級によるこの閉鎖的な周遊移動によって、VIPクラブは同じような見た目、同じような雰囲気をまとうようになる。ハンプトンズ、マイアミ、コート・ダジュール、ニューヨーク、どこのパーティーでも、同じようなヒットチャート1位のヒップホップやハウスミュージックをかける。ドリンクの選択肢は判を押したような定番のブランド、ベルヴェデールのウォッカにクリスタル、ドン・ペリニョン、ヴーヴ・クリコのシャンパンで、値段も似たり寄ったりだ。
  • これらの場所に行くには、時間と、経済的資源か人脈のいずれかが必要だ。ホテルと移動費が非常に高額になるからだ。夏のサントロペでは、一番大きな港からVIPが目指す《ニッキ・ビーチクラブ》までの6.5キロにかかるタクシー代が100ユーロだ。多くのクライアントはビーチの近くに停泊した自分のヨットから小さなボートを下ろして手っ取り早く上陸する。VIPの目的地の多くが公共の場で、表向きは誰にでも開かれている。だが実際は、意図的に事実上封鎖され、世界のもっとも特権階級の人々以外は入れないようになっている。
  • 地理学者ジョン・アーリが「スーパーリッチの夢の世界」と描写するこうした場所は、世界人口のうちごくわずかな人々にしかサービスを提供しない。だがそれによって、大衆の想像の中では、贅沢に対する欲求全般がかきたてられる。大半が男性かつ白人で構成されるエリートのたまり場として、これらは男性支配と白人優越性を検証するのにうってつけの場だ。もっとも、ジェンダーと人種はエリートに関する議論においては無視されることが多いのだが。また、これら夢の世界が重要な理由はほかにもある。金持ちで力を持つ男たちに、グローバルながら閉鎖的なコミュニティを構築し、現代の資本主義を推進する共通の文化的価値や信条をはぐくむ社会空間を提供するのだ。このような場において、エリートたちは互いに結びついているという感覚を持つことができる。そして研究者たちは、そこで何が起こっているかについてほとんど知ることがない。

 

  • 「大金持ちなイタリア人の年寄り」は当時のペトラの目には奇妙に映ったものの、彼のおごりで流行りのレストランでタダ飯を食べるのにはやぶさかではなかった。
  • 女の子とクライアントとのセックスは、大勢のモデルを揃える際に重要な目的ではない。どちらかというと、セクシーさを過剰なまでに可視化することがステータスを生み出すのだ。大勢の女の子は、クライアントの重要性を示す視覚的証拠となる。美の「過剰」を見せびらかすことができるのだ。多くの女の子の身体を展示することは、ただボトルを振って中身をまき散らしたシャンパンの空き瓶を展示することと同義だ。どちらも、浪費の誇示なのだ。
  • 女性の「エロティック資本」としての美の概念は人気があるが、データによる裏付けは薄い。玉の輿、あるいは「上方婚」は、女性がエロティック資本を活用できる方法に思えるかもしれない。だが選択婚についての調査の大部分が、実際には同類婚のほうがずっと一般的だということを示している。そして1980年代以降、男性はますます自分と同じような学歴や収入の女性と結婚するようになってきた。VIPの世界は美しい女の子と男性を引き合わせこそするが、その関係はあくまで一時的な快楽のため り と受け止められる。私が取材した男性たちは間違いなく、女の子たちを真剣な長期的恋愛関係やビジネスのパートナーとなる可能性がある相手としては見ていなかった。むしろその逆で、「戦略的な」女性はまさに彼らが避けたい相手だったのだ。
  • セクシュアリティはいつでも、男性と女性の間に非対称な結果をもたらしてきた。男性は性的征服によって地位と尊敬を手にするが、性の乱れは女性のリスペクタビリティを貶める。女の子は身体資本の形でふんだんな富を手に入れるかもしれないが、それを消費する力は性行為のジェンダー化されたルールのために制
    限されるのだ。
  • 女の子たちはVIP世界への切符となる身体資本という形の強力な資産を持っているが、その価値は男性にとってのほうがずっと高い。彼らにとって女の子は貴重な通貨として機能する、「女の子資本」とでも呼ぶべき資源なのだ。女の子資本があれば、不動産ブローカーのジョナスは社長たちとパーティーができるし、ドレは億万長者たちとディナーができる。ドナルドのようなクライアントは女の子資本を利用して金銭的に儲かりそうな取引につながる可能性のある、誰もが行きたがるパーティーへの招待状を入手する。女の子資本を利用して、サントスはカンヌという戦場での立ち位置を有利にし、貧しい出自の学歴が低いプロモーターたちが裕福な男たちとダンスフロアを共有できるようになる。そしてたいていの場合、女の子たちはこの恩恵にはあずかれない。金銭的支援や贈り物の形で儲けの分け前を要求する女の子は利用者、策略家、売女と呼ばれる。そして彼女たちの身体資本は年齢とともに価値が減っていくが、男たちはいつでも新しい女の子資本を入れることができる。街に来たばかりの若い女性たちを、このきらびやかで非常に不平等な世界へと気軽に招き入れるのだ。美は女性が上を目指すための近道に見えるかもしれないが、その実、美は女性自身よりは、男性の手中にあったほうが価値があるものなのだ。
  • 1人の人間が他人を資本化する能力の不平等は、マルクスの表現における典型的な搾取の手段だ。「女の子資本」から男性が得る剰余価値は主に目に見えない。
  • こうした条件を飲むことでカティアは、男性の都合で女の子が男性間で流通する非常に不平等なシステムを支えつつ、彼らのために金銭や人脈、地位という形で剰余価値を生み出す。このシステムは、文化人類学者ゲイル・ルービンがいまや有名な1975年のエッセイにおいて「女性の売買」と呼んだものだ。ルービンは、20世紀後半にフェミニスト論争を支配していたジェンダー不平等の謎、「なぜ女性は世界中ほぼすべての社会において男性に従属しているのか?」に取り組もうとした。その答えを見つけるため、ルービンは部族的な親族関係についての古典的人類学を再考した。そして、男性の権力の核心には女性の流通があると結論づけた。男性は娘や妹を嫁としてほかの男に与えることで、男性主導の親族グループ間の同盟を強めようとする。そうやって富と権力を蓄積していくのだ。女性は男性の権力を運ぶパイプである、とルービンは主張した。女性が贈り物として流通する交換システムを、男性が支配しているからだ。女性は、この交換が生み出す価値からほぼ排除されている。
  • 女性が主体性や移動の自由を一切持たない性的奴隷と密売システムについてルービンは書いているが、彼女の分析は今日における同意に基づく密売を便利に説明してくれる。女性の美は、男性が支配する幅広い業界で男性に見返りをもたらすものだ。アメリカとアジア全域における金融業界において、セックスワーカーの身体は投資家たちがビジネス上の取引をまとめさせる手助けをしている。アトランタのヒップホップ音楽業界では、新曲はしばしばストリップクラブで流される。新曲に乗る女性ダンサーのエネルギーがその曲をスターの座に押し上げ、男性が支配する業界をさらに豊かにさせうるからだ。そしてサービス業界において
    をは、中国のホテルから中米の《フーターズ》レストランまで、女性の身体は男性客を引き寄せるために戦略的に展開されている。女性は、社会学者エイミー・ハンザーによれば、サービス業界では「認識ワーク」を をおこなっているとのことだ。彼女たちは客のエゴをくすぐり、彼らが自分を特別な存在だと思えるよう手助けをする。その結果として生まれる利益は、圧倒的に男性に偏って蓄積される。女性の美しさは、大学の友愛会の評判を上げることもできる。最高のフラタニティハウスは、もっとも裕福でもっとも強力、そしてもっとも成功しているメンバーがいるハウスだ。新しいメンバーをスカウトするため、フラタニティは一番かわいい女の子たちをパーティーに呼ぼうとする。「妹」や「ラッシュガール」とも呼ばれる存在だ。女の子がいれば、フラタニティハウスは制度化された権力と尊敬を集めることができる。女の子たちが手にするのは、タダのビールだけだ。
  • ルービンは、女性の売買が近代以前の社会の遺物だとは思ってもいなかったし、それが現代の進歩した資本主義において消滅する可能性があるとも思っていなかった。むしろ、彼女はこのように予想していた。「「原始的」世界に封じ込められるどころか、これらの慣習はより「文明的」な社会においてますます強調さ
    れ、商業化されているようにしか見えない」。女性の交換は、資源が男性の手に偏って蓄積されているところならどこでも発展する。そこで、喫緊の問いはこれだ。なぜ女性たちは搾取されることに同意するのだろうか?
  • 私が検証したVIP世界において、男性の間で流通することによって女の子が得られる実質的な利益はふんだんにあった。タダ飯や送迎、住居などがそうだ。新しい街で友人たちのネットワークに入れる機会など、人脈的な利益もある。さらには、女の子たちが経験できる非常に魅惑的な官能的快楽もある。

 

  • 本書では、ステータスと人脈、そして経済的価値のすべてが新たな世界的エリートに集中する、国境を越えて贅沢消費が誇示される舞台としてのVIPパーティーシーンを分析してきた。不平等な階級構造の上層部におけるステータスのダイナミクスを理解するためには、彼らの消費が持つ社会的意味を把握しなければならない。VIPシーンは、付随的現象ではまったくなく、歴史的に重要な瞬間を体現している。これは21世紀の資本主義の条件によって可能になった、ステータス獲得の形なのだ。
  • 消費を価値の創出手段として考えるのは、ひょっとすると直観に反しているかもしれない。歴史的に、消費は価値の喪失、あるいは無駄とさえ定義されてきた。7世紀ヨーロッパにおける「消費」という言葉には軽蔑的な意味がこめられており、「むさぼる」または「使い果たす」衝動を示唆していた。肉体がむしばま
    れる肺結核は、20世紀初頭まで世間では「消費病」と呼ばれていた。
  • 産業革命の時代に経済科学が生まれると、専門家らは生産こそ価値創造の中心的手段だと考えるようになった。生産と価値創造こそが、男たちがやるべきことだった。初期の経済学者たちは、資本主義が健全である指標として、男性の賃金を調べた。消費は女性の無分別な行為とみなされ、産業化以前は教会によって「狂気の沙汰」とまで言われるほどだった。とりわけ、消費よりも貯蓄を個人の責務と定めて資本主義への転換の最前線に立っていたプロテスタントのヨーロッパにおいて、贅沢品の消費はきわめて病的な無駄遣いとみなされ、強欲な女と軟弱な男による愚行と考えられた。
  • 贅沢消費はまた、社会的ヒエラルキーを不安定化させる恐れがあるとして危険とみなされた。ヨーロッパでは何世紀にもわたって、もっとも高い社会的ステータスは先祖からの富を相続する貴族階級のものだった。真の上流階級は何世代も前から裕福でなければならず、昔から一族に伝わる、相当の年代を経た風格ある上
    質な古い品を所有していることが高い地位の本当の証だった。近代における家具や衣装などの新たな贅沢品の流通は、一種の政治的および社会的危機をもたらした。「 成金 」の商人階級が上流階級と同じような外見をすることが可能になり、社会集団間の区別がしにくくなってきたのだ。
  • ただ贅沢品を買うだけでステータスを手に入れられるというのは、斬新な考えだった。貴族階級はこの脅威に対し、下層階級が身につけたり消費できたりするものに法的制限を設けることで対処した。17世紀と18世紀の奢侈禁止令のもと、貴族階級は水晶を所有できるが商人階級はそれができず、仮に商人が水晶を入手
    したとしたら、余計に税金を払わなければならなかった。奢侈禁止令はとりわけ、女性の衣服と外見を標的にした。女性の靴のヒール、首飾り、袖のレースがそれぞれその人の社会的地位と、彼女の一族に含まれる男性の地位を明示する役割を果たした。勲爵士(くんしゃくし・ナイト)の妻や娘はドレスの長い裾に貴重な黄金や絹を使用することが許されていた。商人の妻がそのような恰好をしていたら、罰金を科せられる恐れがあった。
  • 消費資本主義の広がりから3世紀経った現在、階級の区別を法的に強制しようとするのは馬鹿げているように思える。十分な財力がある者なら誰でも、上流社会の上層部に参入を試みることができる。ソースタイン・ヴェブレンは19世紀後半、成金たちがステータスを求めて消費しようとするその行為に衝撃を受け、それが明らかに近代的な、そしてアメリカ的な現象だと考えた。成長著しい産業がたたき上げの男たちの懐を潤す中、新たな富を誇示しようと先を急ぐ彼らは資本主義的民主主義の未来を体現した。階級や血筋に関係なく、誰でも上流階級への参加に手を挙げることができるのだ。もっとも、人種とジェンダーはもちろん、まだ容認可能な上限を設けていたが。20世紀にかけて、法律がジェンダーと人種の排除も撤廃していくと、アメリカはますます千載一遇のチャンスの地のように見えてきた。どれほど低い身分の生まれでも、上位1%の地位まで上りつめる自分を想像することができるのだ。
  • 金持ちになることは、決してエリートへの仲間入りを保証してくれるものではなかった。金がステータスを保証してくれないことは、誰でも知っている。金をエリートというステータスに転換しようとする努力の実例には、有名なものがいくらでもある。億万長者から大統領にまでなったドナルド・トランプがその代表だ。彼が所有する金ぴかのペントハウスは、ニューヨークの上流社会からは鼻で笑われている。金は、ステータスを手に入れる手段でしかない。尊敬は、慈善活動を通じて買うことができる。客を感心させる美術品や高級ワインなど、高いステータスを示す品も買える。金があれば高級住宅街に住居を購入し、子どもをい
    い学校に入れることができる。こうした努力がすべて合わさると貴重な「文化資本」が生まれるが、これをフランスの社会理論学者ピエール・ブルデューは、上流階級の文化的コードへの精通と定義した。エリートの型にはまった行動や習慣は「自然」に見えるかもしれないが、ブルデューから見れば、それは上流階級の
    嗜好と差別化に関する暗黙のルールに向けた社会化の長い道のりの産物なのだ。人がエリート社会に属していると主張できるだけのふさわしい技能や知識に習熟できるのは経験を通じてのみだ、とブルデューは主張した。
  • 学者たちは競ってブルデュー文化資本の概念を採用し、上流階級文化の熟知を相対的な社会的優位性へと転換しようとする職業人や親、教師、生徒、それに日々の消費者の分析を磨き上げていった。彼らが知ろうとしたのは、上流階級の親や学校、職場は、上流階級であるための文化的に適切な方法をどうやって子ど
    もや生徒、従業員に伝えるのかだった。さまざまな文化資本の概念が社会学で花開き、同時に、ステータス主張の正当性をめぐる象徴経済を事細かに分析した研究が増殖した。
  • しかし、文化資本にそこまで注目が集まる中、学者たちは経済的権力、あるいはヴェブレンの言葉を借りるなら「金銭力」の誇示の重要性を見失ってしまった。文化資本は、ステータスを獲得する戦略のひとつに過ぎない。一部のエリートは、ステータスを求める手段として経済資本しか持たない。実際、ブルデュー
    身が書いているように、富裕階級の最高階層ー「支配階級の中でももっとも支配的な少数」―にとって、経済的支配は認識を求めて競う戦略になりうるのだ。一部の人間にとって、純然たる経済的権力は、高尚な洗練という心配なしに、ステータスを追求させてくれるものなのだ。
  • ヴェブレンは、アメリカの資本主義の中枢にあからさまな経済的競争を見た。だが今日、研究者は差別化の文化的側面にばかり意識を向けているため、金銭的権力が過剰に誇示されているのを見逃してしまう。大型ヨットの巨大化と人気の拡大、美術品の価格の記録的高騰、けばけばしいバースデーパーティー。中でも、
    ラスベガスの《LAVO》でストラティージック・グループのノア・テッパーバーグとジェイソン・ストラウスが2012年に主催した、数百万ドルもかかったことで悪名高いジョー・ロウの引歳のバースデーパーティーには、レオナルド・ディカプリオカニエ・ウェストブリトニー・スピアーズといったセレブゲストが目玉で、ブリトニーに至ってはジョーのバースデーケーキの中から飛び出してきて歌うために6桁のギャラを受け取ったと噂されている。
  • 経済学者たちは、この贅沢消費の高まりを「贅沢熱」と呼ぶ。猛烈な価格高騰に裏付けられた差別化は、地位財、つまりステータスを確約してくれる商品をめぐる激しい競争を生むというのだ。これらのダイナミクスは美術品や高級ワインのような高いステータスを象徴する商品の新たな市場を後押しする。フランスの理論家リュック・ボルタンスキーやアルノーエスケールらはこれを「例外物」と呼んでいる。金持ちが金持ちに売りつけ、主にその高価さのために珍重される商品のことだ。
  • 美術品やワインなどの贅沢品は、長く保存されればされるほど価値が高まる。最近ではこれに関連して賛沢な体験の市場が生まれたが、その基礎はまったく逆の、浪費という過程に置かれている。VIPクラブは「体験経済」の一部であり、商品を消費するという体験のほうが所有することよりも重視される。1990年代以降、企業は以前にも増してテーマを採用し、ただ商品やサービスを売るのではなく、記憶に残る時間を客に売るようアドバイスされている。体験そのもの、そしてその記憶が、商品となるのだ。
  • 贅沢体験の成長市場は、VIPクラブの台頭を理解するうえで必要な背景だ。VIPクラブがお膳立てするのは、入念に演出された浪費の誇示だ。ひょっとすると、これは経済的支配の究極の表現なのかもしれない。サントロペからサン・バルテルミー、そしてニューヨークのダウンタウンまで、大ロクライアントはボトルガール、モデル、「ボトル列車」、水鉄砲のように振りまかれるシャンパンなど、儀式化された無駄遣いによって大金を使い果たす。美術品などの物の収集を通じて価値を蓄積する行為の真逆であるVIPパーティーは、金を浪費するという体験と記憶を提供する。カジノや贅沢な音楽フェスのように、VIPパーティーはクライアントが見せびらかしを体験できる舞台を提供する。このようなポトラッチは金をその純粋な、ありのままの形で称賛する。つまり、経済的支配としての金だ。
  • 大金を使う客自身でさえ「馬鹿げている」とか「悪趣味だ」とまで表現する見せびらかし行為に裕福な男たちを走らせる組織的活動のすべてを、一般人が目にすることはまずないだろう。状況によっては、顕示的消費はステータスではなく軽蔑を招く。注意を向けるべきなのは、エリートのライフスタイルに対するマスコミの批判、そして大口クライアント自身が自らの浪費について軽蔑をこめて語ったその口調だ。VIPクラプは、意図的なステータス追求を見せない形でポトラッチを展開させなければならない。そのためには主として、すべてが偶発的に、楽しみながら発生しているように見せる必要がある。ポトラッチのパフォーマンスを成功させるには、膨大な労力が必要だ。あらゆる社会組織がそうであるように、ポトラッチは入念に仕組まれた状況で展開する集合的儀式だ。過剰文化の共有と、浪費の集合的価値決定によって構成されているものなのだ。
  • 消費と、そして浪費でさえも、何ということはないささいな行動などではなく、実際には世界経済の組織化原理である。こう主張したのは20世紀半ばの哲学者ジョルジュ・バタイユだ。あらゆる社会は、なんらかの儀式化された形で過剰を破壊する方法を編み出す、とバタイユは言う。社会がその過剰、つまり「非生産的支出」を売却する方法が、社会的関係を形作り、露呈させる。VIPクラブのテーブルでシャンパンを空中に振りまく行為は例外ではなく、今世紀の資本主義における明らかに不平等な社会の儀式的表現なのだ。かつては供犠、戦争、剣闘士の試合、記念碑、そして現在では贅沢品、カジノ、ナイトクラブが、社会生活を構成する浪費の誇示となっている。これらが私たちの夢や欲望を形作る。だからこそ注目する必要があるのだ。
  • シャンパンのボトラッチは、新たなグローバル有閑階級、そのジェンダー、その人種ヒエラルキーについて多くを暴露する。ヴェブレンは1世紀以上前、「女性所有」こそ男たちが顕示的にステータスを誇示できるもっとも顕著な手段だと述べた。これはVIPシーンやそのほかの領域までをも支配し続ける、ジェンダー化された権力関係だ。一方、有色人種の排斥と蔑視はVIP空間を特徴づけ、エリート空間のほとんどを白人が占めるという前提を暴露する。経済的支配のパフォーマンスは、男性性支配と白人優越性によって左右されるのだ。
  • シャンパンのポトラッチはまた、グローバルに移動するエリートの生活世界の転換をも示唆している。VIPクラブは、民主化と極端な富のグローバリゼーションの時代に生まれた。かつての富裕層の世代は、互いをよく知っていて共通の社会的空間やルールを持つ地域のコミュニティに根差していた。ボストンの名門階級やシカゴの紳士録に名を連ねるエリートを思い浮かべてみればいい。ヨーロッパの貴族階級と寄宿学校に通った彼らの子孫たちもそうだ。彼らの独立した富の孤島はすべて、行動と自制の内的コードによって統制されており、慎重に定められた婚姻関係によって再生産されていった。それとは対照的に、ロシアの新興財閥のようなニューエリートは、世界的につながっていて、きわめて移動的だ。彼らはサウジの王子たちやヘッジファンドの巨大企業と社会的空間を共有し、社会的重要性を争っている。富の世界的戦場がフラットになった今、エリートたちはもはや地域コミュニティという規範的な足掛かりにつなぎとめられてはいない。そして、彼らの匿名性も増している。アメリカン・エクスプレスのブラックカードさえ持っていれば誰でもVIPパーティーに参加できるし、そこでは家族や隣人、地元の慣習にとらわれず、誰でも思うがまま野放図に行動することができる。差別化への要求がずっとかなえやすくなるにつれ、ポトラッチは、ほんの数世代前まで優勢だったローカルな構造秩序ではほとんど意味を成さなかったであろう形で、ステータスを際立たせる理にかなった戦略のひとつとなった。
  • こうした他にはない移動性を持ったニューリッチを満足させるため、街全体、島全体、そして地域経済全体が、浪費センターへと変貌した。ラスベガスからドバイまで、マイアミからカンヌまで、VIPパーティーに行けば金持ちが際限なく金を浪費し、経済的権力を誇示している様子が目撃できる。それは入念に仕組まれた浮遊的でグローバルな舞台なのだ。