あの天才がなぜ転落 伝説の12人に学ぶ「失敗の本質」

  • テスラがエジソンとの電流戦争に勝利できたのは、支援したウェスティングハウスが綿密な資金計画を作り、事業の進め方にも的確なアドバイスをしていたおかげだった。
  • しかし、世界システムを援助していたモルガンは、金は出すが口は出さないタイプの投資家で、テスラの暴走を止めることはしなかった。世界システムの構築に際しても、ウェスティングハウスのような、面倒見のよい協力者がいれば、テスラは失敗せずにすんだのではないだろうか。
  • グーグル創業者の一人であるラリー・ペイジはこんなことを語っている。「テスラは素晴らしい発明家だったが、資金を確保できなかったために、すべてのアイデアを実現することはできなかった。もし、彼が失敗していなかったら、いま頃は大陸を横断する無線電力網が完成していただろう」と。
  • 世界システム事業に取り組んでいたテスラは、マネジメントチームを作ることなく、研究開発から資金調達に至るまで、自分一人でこなそうとした。その結果、ベンチャービジネスの生命線である資金調達に失敗してしまったのである。

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  • ウェルズが更に大きなチャンスを掴んだのは、1844年12月のことだった。
    ェルズは近所で開かれた「亜酸化窒素吸入効果の大実演会」というイベントを見物に出かけた。「笑気ガス」とも呼ばれる亜酸化窒素を吸うと、人が暴れたり踊り出したりすることが知られていた。ウェルズが見物した実演会とは、観客の中から希望者を募って舞台に上げ、亜酸化窒素を吸わせて、その滑稽な振る舞いを面白がるというものだった。
  • 亜酸化窒素を吸ったウェルズが正気に戻ったとき、一緒に舞台に上がった知人が足から血を流していることに気づいた。その知人は舞台上で暴れ回り、椅子に足をぶつけていた。しかし、ウェルズが「けがをしているみたいだよ」と指摘するまで、彼は気づかなかった。このとき、ウェルズは閃いた。亜酸化窒素を使えば、痛みなく虫歯を抜けるのではないかと。
  • 翌日、ウェルズは自らが実験台になる。亜酸化窒素を吸入した上で、仲間の歯科医に親知らずを抜いてもらったのだ。目を覚ましたウェルズは、親知らずがあった場所に、隙間ができていることを感じた。ウェルズは叫んだ。「これは大発見だ。ピンが刺さったほどの痛みも感じなかったぞ!」と。人類が待ち望んでいた麻酔が発見された瞬間であった。
  • ウェルズはすぐさま自身の歯科医院で亜酸化窒素を使い始めた。「痛みのない歯科医」という評判が広がり患者が殺到する。ウェルズは仲間の歯科医にその方法を伝授する一方で、その効果を広げるための公開実技を計画する。場所はボストンのマサチューセッツ総合病院、医学の最先端を走るハーバード・メディカル・スクールの関連病院だった。
  • 1845年1月、ウェルズは麻酔の公開実技に挑んだ。「外科手術の痛みを感じなくさせる方法を知っているとおっしゃるこの紳士から、あなた方にお話があるそうです」。集まった多くの医学者や医学生を前に、病院の外科部長JC・ウォレンがウェルズを紹介する。
  • 誰もが懐疑的な目を向ける中、ウェルズは患者役となった学生に亜酸化窒素を吸入させた上で抜歯を始めた。最初は静かに眠っていた患者役の学生だが、しばらくすると、うめき声のような声を出し始める。ボストンで調達した亜酸化窒素の濃度が、ふだん使っているものよりも低く、効き目が弱かったのだ。
  • 固唾をのんで抜歯を見守っていた人々はざわつき始め、やがて「ペテン師!」という罵声をウェルズに浴びせかけた。
  • 世界初となるはずだった麻酔の公開実技は失敗し、ウェルズは逃げるようにその場を立ち去った。麻酔を発見してから2ヶ月弱で実施例も十数回だけ、あまりに拙速な公開実技だったのだ。
  • しかし、ウェルズは決してペテン師などではない。それを誰よりも知っていたのが、公開実技を手伝っていた弟子のモートンだった。このモートンこそ、本物のペテン師だったのである。
  • ウィリアム・トマス・グリーン・モートンは、1819年8月9日にマサチューセッツ州チャールトンに生まれた。モートンは筋金入りの詐欺師で、全米各地を転々とする中で、金を使い込んだり、不正経理に手を染めたり、小切手を偽造したりと、数多くの悪行を繰り返していた。
  • 21歳になったモートンは、生まれ故郷のチャールトンに戻ってきた。そのとき、偶然にも歯科の巡回診療に訪れたウェルズに出会う。モートンはそれまでの悪行を改め、歯科医になるべくウェルズの下で修業を始めたのだった。
  • 人生を立て直したかに見えたモートンだったが、ウェルズが麻酔の公開実技に失敗するのを見たとき「詐欺師の顔」が蘇る。世紀の大発見を盗み取ろうと考えたモートンは、ウェルズから麻酔の詳細を聞き出す。そしてウェルズの失敗から一年後、同じマサチューセッツ総合病院で公開実技を計画するのだ。
  • しかし、ウェルズと同じ亜酸化窒素を使うと、信用されない上に、成功しても盗用が疑われる。そこでモートンは知人で化学者のチャールズ・ジャクソンに相談し、亜酸化窒素と同様の効果を持つと考えられたエーテルを使用することにした。
  • 1846年10月16日、今度はモートンによる麻酔の公開実技が行われた。患者役となったのは首に腫瘍を持っていた男性で、メスを握るのはウェルズの公開実技で案内役を務めた病院の外科部長ウォレンだった。
  • アメリカ外科医学界の大物であったウォレンが、どこの馬の骨とも分からない若者の公開実技にかかわることに反対する声もあった。失敗すればその名声に傷がつくというわけだが、ウォレンは進んで協力を申し出た。「長く苦痛に満ちた手術のむごたらしさを目にして、胸の痛みを感じない外科医がどこにいるだろうか。あのころ、自分の手で患者に与えている苦痛をやわらげる手段があると聞いて、胸を躍らせない外科医がいったいどこにいただろうか!」と。
  • モートンエーテルを吸入させると、患者は三、四分後には意識を失った。「患者の準備はできております」と、執刀医のウォレンに告げるモートン。「ただちに首の皮膚を三インチにわたって切開し、重要な神経と血管のあいだの腫瘍を切除しにかかった。しかし、患者には何の苦痛のしるしも見られなかった」と、ウォレンは書き記している。
  • 麻酔の公開実技は大成功、「これはペテンではありません」とウォレンは静かに宣言した。居合わせた医学関係者は驚愕し、画期的だと拍手喝采を送った。後に「エーテル・デイ」と呼ばれるこの日は、人類が外科手術の痛みから解放された記念日となるのである。
  • 麻酔発見のニュースは瞬く間に医学界を駆け巡った。雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」は、「非常に困難または苦痛の大きい外科手術が、これによって支障なくおこなえるようになるかもしれない」とモートンの成功を紹介、イギリスの著名な外科医がエーテルを使った足の手術を行い、「諸君、ヤンキーのこの妙手は、催眠術を完全に打ち負かしました!」と絶賛するなど、アメリカ国外にも広がりを見せる。
  • 麻酔(anesthesia)の名付け親は、アメリカの医者で作家でもあったオリバー・ウェンデル・ホームズ。「感覚麻痺」という意味のギリシャ語に由来するもので、これを使ってはどうかとモートンに提案したのだ。
  • ところが、医者たちは麻酔を思うように使うことができなかった。モートンエーテルの使用量や濃度など、麻酔の具体的な方法を一切公開せず、自分の歯科診療所だけで使おうとした。モートンの目標は金儲け、医学の進歩や患者を手術の激痛から解放することなどは二の次だったのである。
  • 麻酔から得られる利益を独占するために、モートンは公開実技からわずか十一日後の十月二十七日に麻酔の特許を申請し、翌月十二日には認められていた。これによって、公開実技を執刀したウォレンですら、麻酔を利用することができなくなってしまう。
  • モートンの許可なく、エーテルを使って麻酔を行えば特許権侵害になるが、使用料を支払うことにも強い抵抗感があった。麻酔の特許申請を行ったモートンに対して、医学界からは抗議の声が上がっていた。病気を治したり、苦痛を和らげたりする薬があるなら、全ての医師が自由に使えるのが当然であり、特許を取得するのは医学の倫理に反する行為だというのだ。こうした中で自分が使用料を支払えば、モートンの行為を認めることになる。
  • そこでウォレンはモートンに麻酔のやり方を公開するように求める手紙を書いた。「外科手術に際して患者の苦痛を緩和する手段を、小生は切に求めております。貴兄が使用しておられる器具および製剤について具体的なご説明をいただけるならば、あるいは当病院のためにこの器具をお譲りいただけるならば、人類にとって真の福音となるでしょう。小生としても感謝に堪えません。貴兄の友にして忠実なしもべ、J・C・ウォレン」
  • 外科医学界の権威であり、公開実技の執刀まで買って出たウォレンの懇願にも、モートン聞く耳を持たなかった。引き下がるしかないと、ウォレンは麻酔の使用を見合わせる決断を下したのである。
  • 一方、モートンは、麻酔がもたらすであろう膨大な富に心を躍らせていた。麻酔は人類が待ち望んでいた大発見であり、特許料を支払ってでも使おうとする人々が続出するはずだ。特許権の有効期限は十四年間で、その間に得られる特許権の使用料は36万5千ドル(現在価値で約700万ドル)に上ると計算した。モートンは麻酔の吸引器具も合わせて販売しようとした。ウェルズから盗み取った麻酔で、モートンは大金持ちになろうとしていたのである。
  • 麻酔の特許で大儲けを企んだモートンだったが、その思惑は完全に外れてしまう。麻酔は患者にエーテルを吸わせるだけという極めて単純なもの。エーテルは空気や水のように、地球上に幾らでも存在する「ただ同然」のものだった。
  • そこでモートンは麻酔の詳細を明かさず、「リーセオン」という謎めいた名前を付けて売り出した。ギリシャ神話に登場する痛みを忘れさせる川「レテ」からとったもので、オレンジ香料を混ぜることで、中身がエーテルだけではなく、他の薬剤も加えた独自に開発されたものだと思わせようとしたのだ。
  • しかし、その正体はすぐに明らかになり、麻酔は特許に値しないという議論が広がる。モートンは本格的な医学を学んだ人間ではなく、偶然にエーテルの持つ特性に気づいただけ。特許を認めたこと自体が誤りであるとして、リーセオンを購入せずに、エーテルを使った麻酔を行う医者が続出したのだ。
  • モートンに特許を与えた政府ですら、公然と無視し始める。当時のアメリカはメキシコ戦争の最中で、モートンは政府にリーセオンの購入を持ちかけていた。ところが、中身がエーテルであると分かると、政府は特許を無視して勝手に戦場で使い始めてしまう。
  • 法律上は特許権が成立していることから、特許権侵害で裁判を起こすことも可能だった。しかし、その対象が膨大であり、政府すら無視している状況では勝ち目はない。モートンの麻酔の特許は有名無実化してしまったのだ。
  • これによってモートンは経済的な苦境に追い込まれる。大量の注文が来ると想定して発注していたリーセオンと吸入器具が不良在庫となった。また、リーセオンの販売に集中するために歯科医を廃業し、経営していた義歯工場も閉鎖していたため、収入の道も閉ざされた。借金が膨らみ続け、生活が困窮したモートンは、政府に十万ドルの報奨金を要求する。特許権を踏みにじったことに対する損害賠償請求のつもりだったのだろう。しかし、議会での審議は二転三転し、結論がなかなか出ないまま、時間だけが経過していった。
  • こうした中、誰が麻酔の発見者であるかについても激しい論争が展開された。ウェルズが発見した亜酸化窒素を使った麻酔を、エーテルに変えて特許を取得したのがモートンだった。このモートンに対し、自分が発見者だと言い出したのがチャールズ・ジャクソン、モートンから亜酸化窒素に代わる薬剤を尋ねられ、エーテルを使うように提案した人物だ。

 

  • 特許戦略に失敗したモートンだが、医学界に与えた影響は大きかった。「1846年10月16日(筆者注:モートンが麻酔の公開実技に成功した日)が人類の運命の分かれ目だったとすれば、10月27日――特許が正式に申請された日付 は、別の意味で新しい時代が幕をあけた日だった。医学の進歩という神聖な領域が、損得勘定によって浸食される時代が到来したのだ」――「エーテル・ディ | 麻酔法発明の日』の著者ジュリー・M・フェンスターは、モートンの特許申請をこのように評価している。モートンが取得した麻酔の特許は、世界初の「医療特許」だった。「仁術」だった医学を「算術」に変えたのがモートンだったのだ。
  • 現代の医学界では医薬品の価格が驚くほど高額に設定されたり、医療機器の価格が億単位になったりしている。その要因の一つが医療特許であり、これが患者や国家の医療費負担を増大させ、一部の人にしか恩恵が受けられない状況を生み出しているのだ。
  • しかし、医療特許は負の側面ばかりを持つわけではない。フェンスターはモートンの行為について、「それは医学の進歩を支える精神をそこなったが、同時に進歩を加速させることにもなる」と指摘している。ウェルズやモートンが生きた時代、医者は儲かる職業ではなく、多くは日々の生活を維持することで頭がいっばいだったという。医療特許が認められることで、ゆとりある生活ができるならモチベーションも上がり、医師のなり手も増えるだろう。
  • モートンが医療特許というパンドラの箱を開けたことで、「医学は算術」となってしまった。しかし、パンドラの箱の底に「希望」が残されていたように、医療特許が「仁術」としての医学の発展を加速させていることも確かなのだ。

 

  • 中央銀行総裁であったローは、この独立性を守ることができなかった。バンク・ロワイアルの成功に気をよくしていた政府は、ローに更なる銀行券の発行を迫った。ローはこの圧力に耐えきれず、不換紙幣に切り替えた上に、銀行券の大量発行に踏み切ってしまう。この結果、銀行券の信用力が失われると同時に、巨大なバブルが生み出されてしまったのである。
  • しかし、ローはリフレ政策や債務の株式化を発明した天才であったことは間違いない。ドイツの経済学者で、優れた洞察力で知られるジョセフ・シュンペーターも、「あらゆる時代の貨幣理論家のなかで、最上の貨幣理論を構築した人物である」と、ローに賛辞を送る。また、新古典派経済学の基礎を築いた経済学者アルフレッド・マーシャルも、「向こう見ずで、並外れた、しかし最も魅力的な天才」と、ローを高く評価しているのだ。
  • リフレ政策という画期的な金融緩和策を編みだしたものの、そのコントロールに失敗して沈んでしまったジョン・ロー。あまりに惜しまれる天才の過ちであった。

 

もし「ファミリーオフィス」があったなら

  • 事業承継は企業を創業したり、発展させたりするよりも困難な場合があり、
    オーナー企業経営者の大きな課題となっている。しかし、薩摩商店で見られ
    るように、親と子供、孫という血縁関係があることから、思うような決断が
    できないのも事実だろう。
  • こうしたことから、アメリカでは「ファミリーオフィス」が広く活用されて
    いる。オーナー経営者一族(ファミリー)の資産管理や運用などを、ファミリ
    ーオフィスという外部機関に委ねるというもので、カーネギー家やロックフ
    ェラー家などの大富豪が先駆けとされている。
  • ファミリーオフィスが対象とするのは、財的・人的・知的の三つの資産を合
    わせた「ファミリーウェルス(富)」全体だ。財的資産として管理・運用するの
    は、預金や有価証券などの金融資産、不動産といった一般的なものだけでは
    ない。絵画やヨット、自家用ジェット機といった、より広範囲の財的資産も
    対象としている。
  • ファミリーの人的資産を維持・向上させるために、ファミリーオフィスは、
    子弟が通う教育機関の選定など、教育方針の立案なども担う。また、一族の
    行動規範を定めたり、慈善事業や文化貢献事業を通じて、知的資産の蓄積も
    積極的に進めてゆく。
  • ファミリーオフィスは、ファンドマネージャーに会計士や弁護士、教育の
    専門家から美術商まで含めたプロ集団で、第三者的な立場からアドバイス
    行う。これによって、円滑な資産管理と事業承継を実現させ、ファミリーが
    その事業と共に、末永く繁栄できるように導いていくのだという。
  • アメリカには三千を超えるファミリーオフィスが存在するとされているが、
    日本ではほとんど活用されていないのが実情だ。もし、薩摩商店がファミリ
    ーオフィスを活用していれば、経営の継続と後継者の育成、さらには治郎八
    が力を注いだ文化貢献事業に至るまで、バランスのとれた事業承継が可能で
    あったかもしれない。

 

  • 芸術家といえば創作活動にしか興味を持たず、経済観念の欠如した人物と思われがちだ。ところがゴーギャンは数字に強く、几帳面で論理的だった。後に画家のヴィンセント・ファン・ゴッホと共同生活を送った際、そのいい加減さに業を煮やしたゴーギャンは、自ら家計簿を作ってお金の管理をしたという。こうした能力は株価や決算などといった、数字が重要な役割を持つ仲買人の仕事に役立ったに違いない。
  • 当時のフランス経済がバブルの様相を呈していたことも手伝って、ゴーギャンは株式の仲買人として大きな成功を収めた。ゴーギャンの月収は二百フランで、これ以外に年額報酬として三千フランが加わったという。年収にすれば五千四百フランとなる。当時の労働者の平均月収は九十フラン程度、年収にすれば一千八十フランで、ゴーギャンは二十代前半でその五倍も稼いでいたことになる。
  • 画家になることを夢見ていたシュフネッケルに感化されて、ゴーギャンは一緒にルーヴル美術館で模写をしたり、展覧会を見に行ったりするようになる。アカデミー・コラロッシで絵を描き始めたゴーギャンは、シュフネッケルが驚くほど、絵画制作にのめり込んでいった。
  • この頃からゴーギャンは、同時代の画家たちの作品を購入し始めた。
  • 絵画の本質を見抜く鋭い目を持っていたゴーギャン。その革新的な作風から、保守的な画家や批評家から酷評されていたモネやセザンヌピサロなどの作品を、ゴーギャンは評価が高まる前に手に入れていた。
  • ゴーギャンにとって、絵画は投資の対象でもあった。将来性のある会社を見つけ出し、株価が低いうちに株式を購入して大儲けする。同じことを絵画でも行うことで、ゴーギャン印象派絵画コレクションは、やがて大きな資産価値を持つようになる。八七六年、ゴーギャンは画家としての栄誉を手にした。サロンに入選したのである。サロンはフランス王立絵画彫刻アカデミーが主催する「官展」で、プロの画家の登竜門になっていた。その審査は厳しく、プロを目指す画家たちがなかなか入選できない中、ゴーギャンはたった一度の応募で入選してしまう。
  • ゴーギャンを悩ませていた問題がもう一つあった。生活費を工面するために、メットがゴーギャン印象派絵画コレクションを売り始めていたのだ。「何枚絵を売ったかすぐ知らせて下さい。私は、そのために非常に落ち着かないのです。…そのいきおいで売ったら、いつが、私の絵は一枚もなくなってしまうでしょう。そのうち、セザンヌ二枚は、私が最も熱愛しているものです。彼が数日で描きあげたもので、この種のものでは珍しいものです。そして、いつか非常な価値の出るものです」(一八八五年十一月末 メット宛て書簡)と訴えたゴーギャンだったが、メットは絵画を売り続けた。