知られざる天才 ニコラ・テスラ

 帰郷したテスラが電気の研究に進みたいと伝えると、息子に聖職を継がせたいと考えていた両親の猛反対に遭った。テスラをさらに困らせたのが三年間の兵役義務だった。拒否すれば、待っているのは逮捕・投獄。・・・彼は帰郷と同時に当地で流行中のコレラに感染してしまった。

 

エジソンが干し草の山から針を見つけようとしたら、ただちに蜂の勤勉さをもって藁を一本一本調べ始め、針を見つけるまでやめないだろう。私は理論と計算でその労力を90%節約できるはずだとわかっている悲しい目撃者だった

 

直流で電気を送る場合、供給される電力の一部は電線の抵抗によって熱に転換されて失われてしまう。この損失の大きさは、電流の二条と抵抗の積によってあらわされる(電力損失P=電流I^2✕抵抗R)。つまり電圧が一定の場合、電流を百倍にすると、損失は一万倍に増えることになる。

電力は電圧と電流の積であらわされる(電力P=電圧V✕電流I)から、損失を減らすには、できるだけ電圧を高くして総体的に電流を小さくすればよいことがわかる。しかし、直流システムには適当な変圧方法がなかったため大電力を送るには電流を大きくするしかなく、その結果、損失も幾何級数的に大きくなってしまった。これが直流システムの抱える本質的な弱点だった。

電力損失による末端の急激な電圧降下を補うため、エジソンの発電機は最適電圧より少し高めに設定されていた。それでも送電距離はせいぜい2,3キロどまり。それ以上になると新たな発電所が必要で、これでは都市間や、山奥の発電所から都市への遠距離送電など不可能だった。

エジソンもハンデに気づかなかったわけではない。それでも直流を選択したのは、前出のように電球販売という至上命題があったからである。彼の非は交流優位が確定してからも直流に固執した点にあると言われるが、大量の資本を投下した経営者としては、いまさら方向転換もできなかったのだろう。

このハンデを押して、彼は何十ヶ所もの発電所を建設し、数十ん万個の電球を販売した。発明王の執念だったというべきだろう。

 

 この頃ニューヨーク州では、新しい死刑手段として「電気椅子」が採用されようとしていた。エジソンはこの電源に交流を用いるよう、政治家を通じて週当局に働きかけたのである。

エジソン側の狙いは、交流は死刑に使われるほど危険な電流だと宣伝し、法規制をかけさせることにあった。これこそ、まさにいいがかりというものだろう。交流が殺人的なら、直流だって十分に殺人的なのだから。しかしエジソンのごり押しに屈した週当局は、ウェスティングハウスの交流機の購入を決定。1890年、世界最初の電気椅子処刑が交流電気で執行された。

一方、テスラも彼らしい過激なデモンストレーションで対抗した。100万ボルトの交流を体内に通して証明を灯す実験を科学者の前で演じたのである。無線研究の成果を示すのが主目的だったが、高圧交流電気の安全性のアピールもかねていた。

直流陣営の激しい抵抗にもかかわらず、交流の優位性は投資家にも浸透していった。ことここに至っては、交直双方に投資していたJPモルガンも流石に腹を決めた。電力事業発展のためにも不毛な対立を解消すべきと考えた金融王は、協力者のエドワード・ディーン・アダムスをエジソンのもとに派遣して交渉にあたらせた。だが、長年の抗争で意固地になっていた発明王聞く耳を持たなかったという。

 

 結婚した人間によってなされた偉大な発明をあげることはできないだろう

「脳の創造性が成功に向かって開かれていくときの感動は、発明家にとって何者にも代えがたいもので、・・・・そうした感動は、食事も、睡眠も、友達も、愛も、何もかも忘れさせてくれる」

 

三極管によってラジオの時代をリードしたド・フォレストは、若い頃からテスラの熱烈な信奉者でもあった。・・・イエール大学在学中にテスラの著作に衝撃を受けた若い工学徒は、1896年5月、研究所を訪問して、就職の希望を伝えた。

「彼のニューヨークの研究所は、電気を学ぶすべての意欲的な学生がそこに入所し、とどまりたいと望むすばらしい領土だった」

しかし火災で消失した研究所の再建に追われていた当時のテスラは、若者の願いを聞く余裕はなかった。その後の何度か就職希望を伝えたが、諸般の事情から願いは叶わなかった。もし、才能豊かな彼の協力がえられていれば、世界システムやラジオを巡る展開も違ってきていたかもしれない。

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テスラは、発明家を、発明家に原理を提供する「発見者」と、単なる発明家とに二分していた。テスラによれば自分は前者であり、エジソンは後者だった。この厳密な区分に経てば、発明家に過ぎないエジソンとの同時(ノーベル賞)受賞などあり得なかったというのだ。

 

回転磁界の発見と、それに基づく交流電力システムの完成、無線の基盤技術の確立、このどちらも、独創性と影響の広がりからいって充分受賞に値するというのが現代の評価であるのに。稀代の発明家が候補にものぼらなかった理由の1つは賞の性格にあるだろう。

交流の業績がドブロヴォロスキーを始め、多くの競争者に振り分けられてしまったこと。無線の業績では、マルコーニが代表して受賞してしまったことなどだが、当時の科学会はイギリスを盟主とするヨーロッパが中心で、新興アメリカ科学会の力がまだ弱かったことも関係しているかもしれない。ノーベル賞も科学政治の力関係と無縁ではないのである。