かくて行動経済学は生まれり

 1987年、『スポーツ・イラストレイテッド』誌がひいきの野球チーム、クリーブランド・インディアンスに表紙を飾らせ、ワールドシリーズを制覇するだろうと派手に書き上げた時だった。「ぼくはその通り、インディアンスは長年くさってたけど今年はワールド・シリーズで勝つんだと思ったよ」。だがその年、インディアンスはメジャーリーグ最低の記録でシーズンを終えた。なぜそうなったのか?「活躍すると書かれていた選手の成績がのきなみ悪かった」とモーリーは当時を思い出す。「そのときぼくは専門家なんて実は何もわかっていないんじゃないかと思ったんだ」

モーリーからすると、コンサルタントの仕事の大半は、たとえ確実ではないことでも、絶対確実だというふりをすることである。マッキンゼーの就職面接を受けたとき、彼は自分の意見に自信を持っていないと指摘された。「それは本当に自信がないからだと言ったんだ。しかし彼らに言わせると、『自分たちは顧客に年間50万ドルも支払っている。だから自分の言うことに自信を持たないといけない』となるんだ」

彼を雇ったコンサルティング会社は最初から最後まで、自身を表に出すよう言い続けたが、彼にとってそれは詐欺に近かった。たとえば顧客向けに原油価格を予測しろと言われる。「そして僕らは顧客のところに行って、原油価格を予想できますよと告げるんだ。でも原油価格を予測できるやつなんていない。まったくナンセンスだよ」

「確証バイアスの何がたちが悪いって、それが起きているとは気づかないことだよ」と彼は言う。スカウトはある選手についての意見を固めると、それからその意見の根拠となる証拠を集めてしまう。「いまに始まったことではない」とモーリー。「そして選手についてはいつものことだ。ある選手が気に入らなければ、ポジションがないと言う。もし気に入れば、どこのポジションでもできると言う。気に入った選手は、その身体能力を別の強い選手でたとえる。気に入らない選手は低迷する選手でたとえる」

同じ人種での例えを禁止することだった。『ある選手別の選手にたとえたい時は、人種の違う選手にたとえる』ということだ。たとえばその選手がアフリカ系アメリカ人で、『彼はナントカみたいなんですよ』と言いたいとき、そのナントカはアジア人かヒスパニック、あるいはイヌイットとか、黒人以外の選手でないといけない。頭の中で人種の線を越えなければいけないとなると、おもしろいことが起こる。似ているところを見るのをやめてしまうんだ。彼らの頭が、その線を飛び越えるのを拒否する。きっぱりと見なくなるんだ」

害とはこれだ。非常に有能なNBAプレイヤーが、単に専門家が向いてないとレッテルを貼ったために、本格的に NBA でプレーするチャンスをもらえないのだ。他にいったい何人のジェレミー・リンがいるだろう。

ジェレミー・リン - Wikipedia

それは一つのパターンの始まりだった。気分が盛り上がって、あるアイデアや大きな希望に飛びつくが、結局はがっかりしてやめてしまう。「私はずっと、アイデアというのは一山いくらというものだと感じている」と彼(ダニエル・カーネマン)は言う。「一つがうまくいかなければ、無理してそれを続けることはない。別のものを見つければいいんだ

 ヘブライ大学に心理学部ができるというんだ・・・入学を許可された二十人のうち十九人が博士号を取得した。・・・彼の名はエイモス・トベルスキー。彼が何を言ったか、アムノン(・ラポポート)は正確には思い出せない。ただどう感じたかははっきりと思い出せる。「私はこの男ほど頭は良くない。それだけはすぐ理解した」

 エイモス「あなたの経済モデルはどれも、人々は頭が良くて合理的だという前提で作られている。それなのにあなたのまわりにいる人はみんなばかなんですね」「なあ、マレー(・ゲルマン)、世界には君が自分と同等だと思えるほど頭のいい人間は一人もいないよ」

彼は物理学者ではなくて心理学者だと告げた。「それはありえない」と、その物理学者は言った。「彼はあそこにいた物理学者の中で一番頭がよかったんだ」

ミシガン大学のディック・ニスベット は、エイモスに会ったあと、たった一行の知能テストをつくった。「自分よりエイモスのほうが頭がいいとすぐ分かる人ほど知能が高い。」

エイモスは、人はちょっとした決まりの悪さを避けるために、あまりにも大きな代償を払っていると思っていた。

哲学でぼくらができることはもうない。プラトンが多くの問題を解決しすぎたんだ、この分野では大きな仕事は出来ない。頭のいい連中がたくさん集まっているのに、もうほとんど問題は残っていないし、答えの出ない問題ばかりだ

哲学の厄介なところは、科学の原則で動かないところだと、エイモスは思っていた。哲学覇者は人間の本質についての自らの理論を、標本数一つ、つまり自分自身で検証する。心理学はそれと比べれば科学的だと思えた。心理学者は自分で考えたどんな理論も、人間全体を代表していると思える標本を使って検証する。その理論は他人が検証、再現、反証することもできる。真実を発見すれば、それが定説となることもある。

心理学で扱う大半のことについて、エイモスはほとんど興味を持てなかった。幼児心理学、臨床心理学、社会心理学の授業を受けて、自分が選んだ分野の大部分は無視して差し支えないと判断した。

ウォード・エドワーズが書いた『意思決定の理論』・・・コレなどは経済学者の予測であり、心理学者が検証できそうだとエドワーズが考えた例だ。つまり、現実の人間は推移的なのか。

ミシガン大学では、心理学部博士課程の学生は2つの言語でテストに合格しなければならなかった。・・・エイモスは一つ目の言語として数学を選び、・・・二つ目の言語として、彼はフランス語を選んだ。・・・本は学生が選び、翻訳する部分は試験管が選ぶ。エイモスは図書館に行って、ほぼ数式しか書かれていない、フランスの数学の教科書を見つけ出した。

「エイモスの科学のあり方は、少しずつ積み上げていくというものではなかった」とリッチ・ゴンザレス・・・「一気に飛躍して進む。既存の理論的枠組みを見つけ、その一般命題を見つける。そしてそれをぶち壊すんだ。彼自身も否定的なスタイルで科学をしていると思っていた。実際、彼は否定的という言葉をよく使った。」それがエイモスのやり方だった。他人の間違いを指摘してやり直す。そしてそのうちに、他にも間違いがあったことがわかるのだ。

 ああ、ダニエル・カーネマンと比べたらだめだ。他の教師がかわいそうだ。ダニエル・カーネマンという教師のカテゴリーがあるんだ。普通の教師をカーネマンと比べてはいけない。他の人と比べて、いいとか悪いとかいうのはいい。でもカーネマンとはダメだ。

自分も思考に間違いを見つけたときはいつも、前に進み新たな発見をしているという感覚がある。

教育とは、知らないことにぶつかった時に何をすればいいか知っていることだと、以前誰かが言っていた・・・ダニエルはその考えを信じて、実践していた。

ダニエルのような非数理心理学者たちは、数理心理学は心理学への関心の無さを数学能力でカモフラージュしている意味のない研究だと、腹の中で思っていた。一方、数理心理学者たちは、非数理心理学者は頭が足りないので、自分たちの主張の重要性を理解できないのだと考えていた。

ロバート・オーマンに、エイモスについて覚えていることを尋ねると、・・・「彼は『それは考えもしなかったな』と言ったんだ。それが記憶に残っているのは、エイモスが考えていないことなんて、あまりなかったからだ」

エイモスにとって理論とは、心のポケットやブリーフケースのようなもので、とっておきたいアイデアを置いておく場所だった。もっと良い理論(実際に起きることをより正確に予測できる理論)と交換するまでは放り出したりしない。理論は知識を整理し、より正確な予測を可能にするのだ。

社会科学で信じられていた理論は、人間は合理的であるということだった。それはつまり、少なくともまともな直観的統計学者だということだ。新しい情報の意味を読み解き、確率の判断をうまくできる。もちろん間違えることはあるが、その間違いは感情の産物であり、感情は予想がつかないので、無視しても差し支えない、と。

ダニエルのオフィスはあまりに汚くて何も見つけられません。エイモスのオフィスでも何も見つけられませんでしたが、それは何もなかったからです。

ある年の鉢年生全体のIQの平均は百・・・50人の生徒を無作為に抽出・・・最初にテストした子のIQは百五十でした。この標本全体のIQの平均はいくつと推測できるでしょうか。・・・知識を持つ科学者(実験心理学者)も同じ間違いをしやすい・・・平均は百と推測することが多かった。彼らは最初に見せられた高いIQは外れ値であり、低い方の外れ値で相殺できると考えたのだ。コインの表が出れば、次は裏と考えるのと同じだ。しかし、ベイズの理論で計算すると、正解は百一である。

「無作為抽出に対する人間の直感は、少数の法則を満たしているようだ。それは大数の法則が、少ない数にも当てはまると考えてしまうことである」

例えば、鼻の長い人は嘘をつきやすい。もしこれが一つの標本では正しい、もう一つの標本では誤りという結果が出たら、学生はどうするべきだろうか。ダニエルとエイモスがプロの心理学者に、回答選択方式で質問した。選択肢の内三つは、標本を大きくするか、少なくとももっと理論を練るという要素が含まれていた。しかし心理学者達が圧倒的に支持したのは四つ目の選択肢だった。それは「それら二つの集団で違いが出た理由を見つける」だった。つまり、・・・逆の結果が出たことを正当化するべきだということだ。心理学者は少数の標本を信頼しきっているため、どちらの集団であれ、そこから引き出された結果はほぼ正しいと考える。その2つが互いに矛盾しているとしてもである。・・・「結果が矛盾しているのは、標本にばらつきがあるからだと考えることはめったにない。それはどんな欠陥についても、原因となる説明を見つけるからだ」「そのため標本のばらつきが影響していることに気づくことはほとんどない」

エイモスだけが、こう付け加えている。「エドワーズは、人は確率論的データから十分な情報や確実性を引出すことができないと論じている。彼はこの性質を保守性と呼んだ。しかし人間の反応は、とても保守性という言葉では説明できない。むしろ代表性仮説に合致していて、データに含まれている以上の確実性を、データから読み取っているのだ」

デイブ・クランツ「彼らの論文は天才的だった・・・統計学は確率論的な状況をどう考えるべきかについての学問だが、人がそれを実際にどう行っているかまでは関知しない。彼らの実験の被験者はみんな統計学をよく知っていた。それなのに間違えたんだ!参加者が間違えた問題は、私も間違えそうな気がする」

人の「直感的な予測を支配しているのは、世界についての一貫した間違った見方である」・・・もし一流の社会科学者が考えていることや、経済学的理論が前提としていることを、私達の頭がやっていないとしたら、それはいったい何をやっているというのだろう?

 人間はばかだということではない。可能性を判断する時に使っているあるルール(自分の記憶から簡単に思い出せることほど、起こる可能性が高い)に従えば、たいていはうまくいくのだ。しかし、正確な判断に必要な証拠がすぐに思い出せないような状況では、間違いが起こる。「その結果、利用可能性ヒューリスティックによって、系統的なバイアスが生じる」と、ダニエルとエイモスは書いている。人間の判断を歪めるのは、強い記憶に刻まれることなのだ。

 あれは経済人についての心理学理論だった。わたしは思ったね。これ以上のものがあるかって。どうして人が不合理なことや間違いをするのか、その理由がここにある。みんな人間の頭の内部の働きから来ているんだ。

「科学の進歩はほとんどが、わかった!という瞬間ではなく『うーん、これはおもしろい』と思うところから起こる」

「不確実なことがあるところには、判断しなくてはならないことがある 」「そして判断があるところには、人が間違える余地がある」

レデルマイアーはトロントの三つの大病院の百二十のエレベーターのボタン、九十六のトイレの便座の表面をこすりとり、エレベーターのボタンの方が病気の感染源になる可能性がはるかに高いという証拠を示した。

 レデルマイアーの経験からすると、医者は統計的に考えない。「医者の80%は、自分の患者に確率が当てはまると思っていない」「夫婦の95%は、離婚率50%という数字は自分たちに当てはまらないと思っているし、飲酒運転をするドライバーの95%は、酒を飲んでいないときより飲んでいるときのほうが交通事故を起こしやすいという統計が、自分に当てはまるとは思わない。それと同じだ」

「医学部に入ってすぐの頃は、間違っていることを堂々と話す教授が山ほどいた。それについてはあえて何も言わないけどね」。彼らはよくある迷信じみた話を、永遠の真実のように語っていた(「二度あることは三度ある」のたぐいだ)。

様々な医療分野のスペシャリストが、同じ病気の患者にまったく違う診断をした。・・・どちらも専門医としての自分の経験に、過剰な自信を持っていた。

そもそも医学という職業全体が、その決定の正しさを事後に確かめるようにできていた。例えば患者が回復すると、それは治療のおかげだと考えるのがふつうだが、実際のところ、それを証明する確たる証拠はない。治療したあと患者がよくなったからと言って、その治療のおかげで良くなったとは言えないというのが、レデルマイアーの考えだった。

自然に治るものなんだ。でも、苦しんでいる人は治療を求め、医者は何かしなければと感じるそこでヒルに血を吸わせてみる。すると調子がよくなる。そうなるとヒルが長く使われることになるかもしれない。あるいは抗生物質の過剰処方が続くかもしれない。。。。何か処置をして翌日よくなったら、誰だってその治療が良かったのだと思ってしまう。

証拠に基づく医療・・・私は顧みられていなかった分析をとくに意識するようになった。確率の多くは専門家の意見によって作られていたんだ。

このうえなく優秀な医者でも間違う理由を鮮やかに説明している・・・数学では常に自分の作業を点検する。でも医学ではしない。「もし明確な答えがある代数で間違いやすいなら、明確な答えがない世界ではもっと間違いやすいはずではないか」

誤りは必ずしも恥ずかしいことではない。人間なら避けられないからだ。「彼らは人間が考えている時に出くわす落とし穴について、それを語る言語と理論を提示してくれていた。それがあれば、このような間違いについて伝えることができる。人間がしやすい誤りが認識されたんだ。誤りを否定するわけではない。誤りを悪者扱いするわけでもない。ただそれが人間の性質の一部だと認めただけだ

エイモス・トベルスキーに会うのは、ハル・ソックスに言わせると「アルバート・アインシュタインとブレーン・ストーミングするようなものだ。彼は歴史に名を残す人物だ。彼のような人物はもう現れないだろう」ということだった。

  • 優れた科学はだれにでも見えることを見ながら、誰も言っていないことを考える。
  • とても賢明なことと、とても馬鹿げていることの違いは僅かであることが多い。
  • 多くの問題が起こるのは、従うはずだったのに従わなかった時、そして創造的であるはずだったのに創造的になれなかったときだ。
  • 優れた研究をするための秘訣は、いつもあまりうまく使われていない。何時間かを無駄にすることができなかったために、何年も無駄にすることになる。
  • 自分が世界をよい場所にしたと証明するより、世界をよりよいものにするほうが楽なときもある。

天気によって(関節炎の)痛みが変わるという患者の主張とは裏腹に、それらの間に相関関係はないと、彼とエイモスは断定した。・・・なぜ人は痛みと天気の間に関連を見出すのかを説明したいと考えた。・・・私たちはこの現象の原因は、選択的なマッチングにあると考える。・・・関節炎について言えば、選択的なマッチングによって、人は痛みが強くなると天気の変化に意識を向けるが、痛みが和らいだときは、天気をほとんど気にしない。痛みがひどくて天気が荒れた日がたった一日あれば、これら二つが関連しているという思い込みが一生続くのだ。

 「重大な決定は、現在も何千年前と同じように、権力を持つ立場にある少数の人間の直感と好みで行われている」「社会全体の運命が、指導者が犯した、避けられたはずのいくつもの間違いによって決められている可能性が高い」

 損失とはその人の基準点(参照点)より、結果的に悪くなることだ。

バリュー理論・・・私達が提示しているこの理論は、利益と損失を主体が知覚したものとして用いている

リチャード・セイラー・・・彼には二つの目立つ特徴があり、それが原因で経済学だけでなく学究生活そのものになじめずにいた。一つ目はすぐに飽きてしまい、その退屈から逃れるため新しいことを次々と考える性格だ。 ・・・もう一つの目立った特徴は、自分を無能だと感じていたことだ。・・・「私は変わり者で、数学が得意でもなかった」「得意なのは、おもしろいものを見つけることだった」

彼が自分の観察について同業者である経済学者に話して聞かせても、相手にする人はいなかった。「彼らは開口一番「人が間違えることがあるなんて当たり前だろう。だがその間違いに規則性なんかないし、その影響は市場の中で排除される』と言った」。

「彼には敵がいたけど、その敵を懐柔するのがあまりうまくなかった」と言うのは、ロチェスター大学経済学教授のトム·ラッセルだ。「学者に面と向かって『いまきみが
言ったことは本当にばかげている』と告げたら、大物なら『どうばかげているんだ?』
と返すかもしれない。しかし小物は何も言わず根に持つだけだ

経済学者が連絡を取るのは、常にエイモスだった。エイモスの言うことなら理解することができた。エイモスは経済学者とよく似た論理的な頭脳の持ち主で、しかもその出来はずっと良かった。

ダニエルにとって人間が合理的でないと証明するのは、人間には毛がないと証明することに似ているように思えた。

人間の性質についても考えを世間に理解させるには、それを理論に組み込んでしまうしかない。エイモスはそのことを、ダニエルよりもはっきりと理解していた。そのような理論は、既存の理論よりもうまく人の行動を説明し、予測するものでなければならない。更には、象徴的な論理で表現する必要もあった。「理論を重要なものにすることと、生き残れるものにすることは、まったく違った」・・・「科学は会話であり、それを聞いてもらうう権利をめぐって競争する。その競争にはルールがある。奇妙ではあるが、正式に発表された理論で検証されるというルールだ

エコノメトリカ・・・ダニエルは編集者の反応に当惑させられた。「私は心のどこかで、『損失回避は本当に面白いアイデアだ』と言われると思っていた。ところが彼は『いや、私は数学が好きなんだ』と言った。なんというか、打ち砕かれた気分だった

 ピーター・ダイアモンド「(ダニエルとエイモスの研究)どれもみんな本当のことだ。机上の空論ではない。とてもおもしろい現実で、それらは経済学者にとって重要な事だ。何年も前からどうやって使おうか考えていたが・・・うまくはいっていない」

スティーブン・スローマン「神にかけて本当のことだが、私は自分の持ち時間の四分の三を、経済学者を黙らせることに費やした」

エイミー・カディ「問題は、心理学者は経済学者のことを不道徳だと思い、経済学者は心理学者をばかだと思っていることです」

ジョージ・ローウェンスタイン・・・ジークムント・フロイトの曾孫(ひまご)・・・彼はエイモスに連絡を取って助言を求めた。自分は経済学から心理学に移るべきだろうかと。「エイモスは『経済学にとどまるべきだ。われわれはそこにいるきみを必要としている』と言ってくれた・彼は1982年には既に、自分自身が一大ムーブメントを起こすことを知っていた」

エイモス『人生は本だ。短い本がよくないということはない。私の人生はとてもいい本だった』

 

<本文はよかったが、解説はいただけなかった。マイケル・ルイス行動経済学にかこつけて、(恐らく嫌いなのであろう)主流派経済学を叩く論法は生産的でないし、本文の趣旨にもそぐわない。蛇足以外の何物でもなかった。

かくて行動経済学は生まれり

かくて行動経済学は生まれり