ゲーム理論はアート

日本人ゲーム理論家では五本の指に入る松島先生によるゲーム理論の手ほどき、とくに第三章、第四章のアブルー・松島メカニズムの説明は圧巻。

 

ただやみくもにその詳細を調べ上げても、事の本質に迫れないばかりか、かえってますます混乱していくような難題だということだ。

問題を調査するための「基本方針」をきちんと定めていかないといけない。・・・基本方針は、論理的に首尾一貫した、社会の仕組みを簡潔に表現する「社会理論」でなければならない。そして、方針をどのように定めるかは、まるで芸術家が作品を生み出すような、創造的作業になる。・・・「ゲーム理論」という名の数学を使うことによって、理想的になされることを解き明かしたい。

現実にまったく背を向けて、既存のモデルを機械的に拡張するだけなら、そのうち社会科学は枯渇してしまう。だから、そうならないように、自分の経験や人生観、外部の観測などを、社会科学にどんどんぶつけていかないといけない。

 

モデルは、仮説形成の段階から、正しいモデルかどうかの真偽を問う「実証的段階」に進むことになる。このような研究のステップを係止した場合、ゲーム理論は悪い官僚主義に利用される恐れがでてくる。

官僚主義的悪用とは、問題解決の答えが先に決まっていて、あとから、その答えの裏書きができるような、真偽は定かではないがもっともらしく聞こえるような仮説的モデルを、御用学者に見繕ってもらうことである。こんな御用学は、創造的行為をやめてしまった研究者が陥りがちな背任の代表格である。

 

スミスは、賢明な利己的個人であれば、他人の足を引っ張るようなことはせず、自身の利己的動機と矛盾しない仕方で、他人との利害をうまく調整する能力がある、つまりインセンティブの問題を解決する自助の能力がある、と仮定したのだ。では、果たしてどうやって、インセンティブの問題が解決されるというのか。スミスはこれについて明確な説明をしなかった。

そのため、インセンティブの問題は、スミス以降の経済学に課せられた大きな宿題になった。この大問題は、ゲーム理論の登場によって初めて体系的に分析できるようになったのである。

 

 オークションの実態は、善悪入り交じるような一筋縄でいかない代物だ。だから、オークションと上手に付き合える社会は成熟度が高いと言っていい。残念ながら日本はそうでない。

上手にルールがデザインされれば、オークションによって、品物は、常にそれを一番欲しがっている人の手に渡るようにできる。一気に最大多数の最大幸福が実現されるのだ。

みんなのニーズや内緒にしておきたいことが白日のもとにさらされることにもなる。これが災いして、思惑も駆け引きも複雑になることもある。オークションのルールデザインに失敗すると、いらぬ危険やトラブルが無視できなくなるデリケートなしくみでもある。

しかし、こんなオークションと上手に付き合える社会になることこそが、資本主義にまだまだ未来があると言えないだろうか。その点に関してはたして日本はどうか。

日本では、入札といえば談合がつきもので、今やDangoは世界共通語になっている。談合は、入札のルールに問題があるときには、プラスに働くことがないわけではないが、きちんとデザインされたルールにとっては、天敵以外の何ものでもない。このことを知らずに、談合こそは日本の文化などと本気でのたまう学者もいるのだから、日本文化をおとしめるのも大概にせよと言いたい。

せり上げは、各参加者に、どのくらい欲しているかについて、正直に表明させることができる。こうして、本当に一番欲している人に品物を割り当てることができる。

せり上げがもつこの願ってもない特性を、社会の様々な問題の解決にも応用できないだろうか。そうすれば、いつでも、国民全体のニーズを正しく把握でき、国民全体の満足を最大限に高めることができよう。さらには、権力者や癒着体質の企業が、既得権益を振りかざし、大声で主張して、何でもかんでも政治決着に持っていく。そんな不公平で不透明な事態を回避できる。

1960年頃、経済学者ビックリーは、こんなせり上げ入札の値付けの魔術を複数単位や複数種類の財の値付けなどの、もっと一般的な問題に拡張する研究をした。

押しの強い、声のでかい人、裏でズルをやれる人が勝つような決め方を、政府などがしていてはいけない。オークションのような透明性の高い決め方のルールを、困難でも、成果が見えにくくても、積極的、具体的に取り入れる姿勢を政府は持つべきだ。

しかし、どうも日本ではこういった理屈が通らないらしい。

 

世界中がオークションをこぞって取り入れた、エポックメイキングな出来事・・・携帯電話事業者に周波数利用免許を割り当てる、電気通信産業の政策現場において起こった。1994年以降の話である。

アメリカ政府は、ルール設計を、その道のプロとなった元俊英たちに依頼して、「SMRA(Simultaneous Multiple Round Auction)」と呼ばれる新ルールを完成させたのだ。それを実施した結果、数兆円規模のとてつもない大商いになったのである。

このオークションは単なるバブル現象のように思えなくもないので、今となっては大手を振って大成功とはいい難いかもしれない。が、それでも透明性の高い配分を実現できたこと、国民の電波利権を守ったことには大きな意義があるのだ。

アメリカに続けと、世界中が周波数免許割当にオークションを導入した。談合や不都合はたくさん起きた。が、この世界規模の経験は後々の妙薬になっていった。今までに、OECD加盟国全ては、オークションによって周波数免許を割り当てるようになっている。いや、一国だけそうじゃない国があった。それは日本だ。

公共目的にオークションを導入する政策は、いわば、「自由主義のマスクをかぶる全体主義国家」出ないことを世界に知らしめるための試金石だ。なのに、我が国は、一度も真面目に取りあわなかった。

 

 スタンフォード大学の経済学者アルビン・ロスが、腎交換ネットワークという社会システムを考案した。適合条件を満たさない親子は、まずこのネットワークに登録する。(いやなら、登録しなければいいだけのこと。)登録すれば、ネットワークの管理者は、適合条件を満たす別の登録者を探してくれる。見つかれば、この登録者の腎臓を移植して、命が助かる。一方、助かった子の親は、他の登録者の子供に、今度は自身の腎臓を提供する。こうして、交換によって、不適合のために泣き寝井入していた大勢の患者が救われる。

日本人は自身のタブーを乗り越えられない。日本では、人口官ネットワークは、今の所普及していない。しかも、移植学会のような権威に、ウェブ上で、交換腎移植は社会システムによって推進すべきでない、とまで言われてしまう 

ドナー交換腎移植は医学的・倫理的に大きな問題を含むものであり、個別の事例として各施設の倫理審査のもとに行われるべきものである。したがって、ドナー交換ネットワークなどの「社会的なシステム」によりドナー交換腎移植を推進すべきものではない。

www.asas.or.jp

 気鋭のゲーム理論家アンバー(Utku Unver)をはじめとするグループは、肺の交換ネットワークについても研究している。肺は5つの部位で構成されている。だから、肺に疾患がある場合には、複数のドナーが必要になる。親戚や脳死者からの移植だけではどうにもならないケースなのだ。しかし、交換ネットワークがうまくデザインされれば、こんな悪条件のケースでも、多くの人命を救うことができるようになるかもしれない。

日本人の奇妙な行動パターンの例として、日本人は、腎交換ネットワーク導入に断固反対する。その一方で、腎臓疾患で困っている日本の家族は、移植手術を受けるべく、大変な思いで海外長期滞在を決断する。今度は、そのような報道を耳にすれば、頑張って、気の毒に、応援しますと大合唱になる。日本人本来の、優しい心がそう叫ばせるのだが、これは何とも残酷すぎる優しさだ。

 

世間体を気にして、人と違うことはしない、偉い人にはさからわない。同調や服従と言ったこんな態度は、日本人の専売特許のように思うことがある。

これらは、タブーを守るための世界共通手段でもある。・・・こんな性向の人物は、悪玉権威者の言いなりになる典型だからだ。

アーレントの観察の重要なポイントは、独裁者によるマインドコントロールによって衆愚が生み出されるという点にある。これは、政治は民主か専制か、という問い事態が不完全で不毛であり、政治的決定のプロセスを制度設計の理論的な問題として考えるべきことを示唆する。

 

1990年代、ニューヨークで急激に犯罪率が低下した。メディアはこぞって、これは市長ジュリアーニが大胆な犯罪撲滅政策を講じた賜物だ、素晴らしいと称賛した。ジュリアーニ市長は、人家の窓ガラスが割れたままと言った些細なことでも、犯罪の早期発見につながるとして、徹底的に取り締まったのだ。

シカゴ大学の経済学者スティーブン・レヴィット教授の研究グループが大都市の犯罪率滴下の原因を精緻に実証分析したところ、このような徹底取り締まりは、あまり効果がなかったらしい。それどころか、この犯罪率低下には、さかのぼること20年前、アメリカ社会において中絶を合憲とした、とある裁判(ロー対ウェイド裁判)の判決の影響が大きい、とのことである。

重要な観測を得た場合に、次にするべきは新しい仮説形成である。これは理論の仕事になってくる。「理論なき計測」は、場合によっては、ただの危険分子に過ぎないのだ。

本当の経済学は観測のあとから始まる。経済学の大事な使命は、社会の出来事と、社会構成の根本との間に、どのような関係があるかについて、きちんと仮説形成して見定めていくことにある。もしエビデンス・ベースドの政策を不用意に浅薄に吹聴するのなら、それは大概にせよ、と言いたい。

 

日本経済が絶好調だった時、いろんな経済学者が、日本経済や経営のシステムは独特だが実は素晴らしいのだと世界中に吹聴していた。私は、これに嫌悪感を抱いていた。今や、年功や天下りなどの日本的慣行といわれるものは、非効率、差別、格差の温床だ。日本経済の普及活動は、今となっては、経済学のディシプリンへの、実害の大きい、後味の悪い、不毛な挑戦だった。

 

 各トレーダーにとって、電話会社と契約することは「優位戦略(他の競争相手がどのような戦略をしようとも、常にベストな戦略のこと)」になっている。

こうして、全員が契約することで、この電話会社は、99億円という法外な設備投資を全額回収できてあまりある、ということになる。こうして、フラッシュボーイがくすねとる101億円の大半は、シカゴとニューヨークの直線トンネルのような、まったくもって非生産的な設備投資の回収にどんどんつぎ込まれていくことになる。

 フラッシュウォーズに終止符を打つ手・・・連続時間取引をやめてしまえばいいのだ。

フラッシュボーイの早いものがちレースは、1000分の1秒を競う、我々の感覚では手に負えない別次元のアスリート競技だ。しかし、バディッシュ達によるミリ秒単位の取引データによれば、この極端な高速レースは、むしろ人工的に利ざや取りのチャンスを生み出しているだけという有様のようだ。極端な高速取引は、彼らのレースのせいで、市場効率性にはあまり寄与していないらしい。

具体的、実践的な取引ルールとして「高頻度バッチオークション(frequent batch auction)」を提案した。・・・複数の売り手と書いての需給をすり合わせるこのようなやり方は「ダブルオークション」と呼ばれる。・・・バッチオークションは、ダブルオークションの代表例である。・・・マッチングマーケットデザイン・・・オークションとは異なり、金銭のやり取りを伴わない配分をどうするかを検討する、実践的な人気分野だ。

 一昔のアメリカでの話だが、労働市場が不完全なため、研修医候補の医学生をめぐって、複数の病院が青田買い競争をする事態が深刻化した。最悪のシナリオは、専門分野もまだ定まらないような早いタイミングで、就職内定が加速化していく事態である。

アメリカの医師会は、青田買いを全面禁止し、卒業時に合わせて、全卒業生、全病院が一同に介して、希望を提出させ、「受け入れ保留アルゴリズム(differed acceptance algorithms)」と呼ばれるマッチングアルゴリズムに従って、一気に決着させるという規則を制定した。・・・仮にある病院と卒業生が契約していても、あとから別の卒業生が名乗りを上げた場合に、病院は契約をキャンセルして、この別の卒業生と契約し直すことができるとするルールである。これは、メカニズムデザインが、早いもの勝ちを排除することで、より良い市場を作った好例である。

我々がこの例から本当に学ぶべきことは、「メカニズムデザイン(制度設計)する」ということの、もっと「本質」的な意味についてだ。つまりそれは、青田買いをしたら罰金を科す、とかいった程度の姑息な治療だけでなく、問題の所在を突き止め、その根本原因を取り除く、本格的な社会の仕組みの「治療」を行うことによって、新しい研修マッチング制度を樹立させたことだ。

 

 想定外の実験結果を目の当たりにして、既存の理論仮説を練り直し、新しい仮説を思いつこうではないか。そのため、プレーヤーの合理性だけでなく、切れば血の出るような生身の「感情」をも、ゲームの理論の中に取り入れようではないか。

 

ウーバーのプラットフォーム・ビジネスは、十分な「厚み」をキープでき、安全運転を守る「暗黙の強調」のインセンティブを、ドライバーからうまく引き出している。ガバナンスにずいぶん成功しているように、私には思える。

ウーバーのやり方は、ドライバーに高い運転技術を要求することで安全を担保する日本式の「許可制」とは、対局にある。

ウーバーのような情報システムなら、日本政府がなかなか手放せない許可制にあまり頼らずに、ガバナンスを維持できる。