僕は君たちに武器を配りたい

メインターゲットは高校生、意識の高い中学生にもおすすめ。大学生では少し遅いかもしれないが、読まないよりはまし。就活生はラストチャンスに間に合ったと思って読みましょう。遅い早いもさることながら、ここに書かれていることはすべて「現代社会の常識」であることをしっかり理解して、今後の意思決定に活かすことが肝要です。
就職相談を受けた時、以前であればここに書かれているような内容をくどくどと説明していたのですが、この本が出版されてからはとりあえずこの本を薦めています。今回は著者の訃報に際し、あらためてまとめてみました。
併せて読みたい
  • コモディティとは前述したように、「スペックが明確に数字や言葉で定義できるもの」という意味である。個々の商品の性能自体が高いか低いか、品質が優れているかどうかは、関係がない。
  • 人間の採用においても同じことだ。学歴が博士課程の人を募集するのであれば「博士」というスペックで、もしくは六大学以上の学歴でTOEICが900点以上というスペックで募集をかける。そうすると、そこに集まった人は「みな同じ」価値しかない。そこで付加価値が生まれることはないのだ。
  • 業務マニュアルが存在し、「このとおりに作業できる人であれば誰でも良い」という仕事であれば、経営者側にとっての関心は「給料をどれだけ安くできるか」という問題になる。
  • こうして、いかに人を買い叩くか、という競争がグローバル市場の中で行われ、ホワイトカラーの労働力そのものがコモディティ化してしまった。そのため、今の社会は構造的に「高学歴ワーキングプア」を生み出す仕組みになっているのである。

計画経済の恐ろしさ

  • そもそも、なぜこれほどまでに「資本主義」が世界を席巻するのだろうか。
  • 資本主義について話をする前にまず、資本主義経済の逆の体制である「計画経済」について、説明したいと思う。計画経済体制の国家というのは、旧ソ連が典型だが、簡単にいうと「どこかに神様のように万能な頭のいい人がいて、その人の正しい予測をもとに、社会が進んでいく」という前提で作られた社会である。
  • 万能で頭のいい人とはつまり、国家を運営する官僚=役人である。
  • そうした社会では、「優秀な学校を出て、難しい試験に合格した官僚には、国民のみんなが欲しがっているものが何か、いつどれぐらい必要なのか、全部分かる」というのが前提となっている。
  • さらに、食糧をはじめとする生活に必要な物資を作るために、何をしたらいいかも科学的に完全に予想できる。

「正しい人が勝つ」のが資本主義

  • 一方、資本主義の社会では、初めから「頭のいい人がすべてを決めるなんて無理」と考える。このかわり、市場に集まったそれぞれの人が、自由にお金とモノをやりとりすることで、自然にうまくいくという考え方をとる。アダム・スミスの考えた「神の見えざる手」のコントロールに任せよう、という思想だ。
  • 「お金」は市場に売りに出されるどんなモノとも交換できる。さらに時間が経っても「お金」は腐ったりしないし、(インフレなどがない限り)価値が目減りすることもない。だから商売の交渉においては、できるだけたくさんのお金があるほうが有利となる。そのため、資本主義社会の参加者は、基本的に全員がお金をたくさん得ること=富を目指す。
  • では、どういう人ならば、資本主義の社会でお金を増やすことができるのか。
  • 簡単にいえば、「より少ないコストで、みんなが欲しがるものを作った人」である。
  • その逆に、みんなが欲しがらないものを作ったり、必要以上のコストをかけて作る行為は、社会的に無駄な行為となり、自然と淘汰されていく。これが、資本主義の基本的な構造である。
  • 資本主義社会の中で正しいアウトプット、つまり顧客に売れる商品を提供し続ける人は、その見返りとしてたくさんのお金を得ることができる。そのお金を使ってさらに人々が欲しがる商品を開発し、生産力を高めることができるので、さらにまたお金が入ってくる、という上昇スパイラルを描くことができる。
  • その逆に間違ったアウトプット、つまりみなが欲しがらない商品を作っている人のところには、お金が入ってこないのでどんどん貧しくなっていく。コストを削って作った商品はさらに魅力がなくなり、ますます売れなくなっていく。その結果、自然とその人は商売を諦めることになり、無駄なコストをかけて商品が作られることもなくなる。さらに、資本主義社会の優れた仕組みは、基本的に、「何がいくらで売っているかが、公開されていること」である。計画経済では、公定価格という決まりがあり、「500円の商品は全員500円で買いなさい」と決められている。
  • しかし、資本主義社会においては、市場で500円で売られているものを、「自分なら400円で作れる」と思ったならば、作って売り出す自由がある。500円で売っていた人は、400円で同じ商品を売る人が出てくることで、自分も400円に値下げしなければならないというプレッシャーを受ける。価格が同じであれば、品質の競争が始まる。結果的に、価格はどんどん下がり、品質はどんどん向上していく。その品物を買いたい人は、より安い値段で、より高品質の商品を手に入れることができる。このスパイラルが繰り返されることで世の中が進歩していくというのが資本主義の世界なのである。
  • このように資本主義は、人間のいい意味での欲望に合致した、社会を進歩させる動力を内包したシステムであるところが優れているのである(ただしその進歩が進みすぎた結果として、商品の差がなくなり、値段が限界まで低下するコモディティ化現象も起きている。また、超富裕層と貧困層で格差が固定される問題もある。だから、バフェットやビル·ゲイツのような超富裕層は、寄付を通じて格差是正を支援したり、あえて超富裕層の課税強化に賛成したりしている)。

 

  • 働く人々、とくに正社員ではなく派遣社員などの非正規雇用で働く人たちからは、資本主義や資本家を糾弾する声が日増しに高まっており、最近の国会でも、製造業への派遣を原則的に禁止する、ということが決まった。
  • しかし私はそのニュースを見て、「本質からずれているのではないか」と感じていた。
  • なぜなら、労働者の賃金が下がったのは、産業界が「派遣」という働き方を導入したのが本質的な原因ではなく、「技術革新が進んだこと」が本当の理由だからだ。
  • 自動車産業に代表される工場のラインがオートメーション化され、コモディティ化した労働者がそこに入っても、高品質の製品が作れるようになったことが、賃金下落の本当の原因なのである。
  • 今政府がとろうとしている政策は、世間の人たちのウケを狙った小手先の改革にすぎず、賃金下落の本質を捉えていない。メーカーへの派遣が法律で禁止されれば、メーカーは次に、その仕事を外注に出し、請負先の企業がやはり低賃金で人を 雇ってモノを作らせるだけだ。
  • つまり賃金下落も、産業の発達段階の問題でしかないのである。産業の成熟化が進み、熟練労働者が必要なくなれば、新自由主義といった思想とは関係なく、労働者は必然的に買い叩かれる存在となってしまうのである。

 

  • かつて日産は「100分の1の技術から1000分の1の技術へ」というキャッチフレーズで、自分たちの技術の高さを宣伝した。しかし、これは日産の経営戦略の致命的な誤りだったといえるだろう。なぜならば、1000分の1の違いを感じ取れるユーザーは、存在しないからだ。「分からない差異は、差異ではない」のである。それより「色がたくさん選べる」といった、はっきり目で見える差異のほうが、よっぽどユーザーにとっては大事なのである。

 

  • 最近、早稲田大学政治経済学部でいちばん人気のあるゼミでスピーチをすることになった知人から、こんな話を聞いた。学生に就職について話す機会があり、事前にリサーチをしたところ、女子学生の3分の1が「一般職で就職し、職場の男性と早く結婚して、寿退職する」というシナリオを考えているというのである。
  • それを聞いた知人は、「君たちは現状がまったく分かっていない」と諌めたそうだが、私もまったく同感だ。寿退職を狙うとはつまり、夫に自分の人生のすべてをかけるということである。死ぬまで健康な男はいない。絶対に潰れない会社も存在しない。他人に自分の人生のリスクを100%委ねることほど、危険なことはないのである。
  • さらにいえば、その「お嫁さんマーケット」には、そこでもっともパフォーマンスの高い物件(結婚相手)をつかむために、大学に入る前からモテるためにあらゆる努力をしてきた、「女子力が高い」女の子がたくさんいる。
  • 早稲田大学という狭いマーケットの中では、男性の友人たちにちやほやされていたかもしれない。しかし社会という広い市場に出てみると、付け焼き刃の努力では「女子力」の高い女子と戦うのは不利な戦いとなろう。だから高学歴女性が「お嫁さんマーケット」で勝負しようと思うのは、非常にリスキーな選択なのだ。

 

  • 本田教授は「人間力」といった客観的に数値化することのできない、性格的特性を重視する傾向が広まることで、若者の無気力や諦め、社会に出ることへの不安を助長することにつながってしまう可能性があると指摘する。そうした能力の多くは、多分に生得的なもので、教育や努力を通じていかに身につけるかも解明されていない。性格の明るさやコミュニケーション力というものは、人の個性そのものである。企業が人を評価するうえで、人格や感情の深部にまで介入するのは間違いだ、というのが本田教授の主張だ。そうした理由から本田教授は、大学で各個人が学んだ専門知識を、もっと企業は評価するべきだという提案をしている。
  • 本田教授の主張には頷けるところもあるが、現実的ではない。なぜならば、現在ではほとんどの企業は、学生が大学で学ぶレベル程度の専門知識を必要としていないからだ。そして、本来は大学教育で身につけられる論理的思考力すら、コミュニケーション力の一部くらいに思われている
  • 昔は、大学の持っている知識が、企業が必要としているレベルより高いところにあった。しかし現在では、産業を牽引する最先端の知識は、企業の側に蓄積されているのである。企業が大学に求めるのは、現時点では何に役立つのかも分からない、スーパーハイエンドな知識だけであって、中途半端な研究は必要としていないのだ。

 

  • 多くの場合、大量のコマーシャルを放映している会社というのは、「新規顧客を獲得するのは大変だが、一度カモ(お客)を捕まえればとても高い利益を生むビジネス」を行っている。商品自体に特徴や魅力が足りないため、無理やり売り込む必要があり、そのために大量の営業マンを 雇うようになるのである。

 

若者を奴隷にする会社
  • 中小企業でブラック化するパターンに多いのは「カン違いカリスマ社長が君臨し、イエスマンだけが役員に残り、社員はみな奴隷」という構図だ。特色のない町工場などは、会社の主力商品自体が大企業に買い叩かれるコモディティ商品であるため、それでも会社が無理矢理利益を出そうとすると、給料を下げて従業員を搾取するしかなくなってしまう。だから、奴隷状態でも甘んじて働く社員しか残らない。
  • ある経営者は,「うちの会社はお客さんが儲けさせてくれるんじゃなくて、社員が儲けさせてくれるんです」と述べていたが、現代においても形を変えた「奴隷ビジネス」はまだ続いているのである。
  • 同じことは中小企業に限らず、大手企業にもいえる。業種・業界を問わず、商品がコモディティになってしまった業界は、商品を寄仕入れて、安く売るしかないコモディティ市場で戦う会社は必然的にブラック企業になる運命なのだ。
  • たとえばITのシステム開発会社などでも、特別な技術を持たず、さまざまな案件を人海戦術でこなすのが売りの会社は、ブラック化しやすい。「2ちゃんねる
    ブラック企業ランキングを見ると、幅広い業界で「安いことを売りにする会社がブラック化していることを見てとることができる。
  • 歴史のある会社でも、先行きがあまり明るくない企業を見分ける方法はある。まず40代、50代の役職者が大量にいる会社は危険だ。生産性が低いのに給料が高い高齢社員がたくさんいるということは、彼らの給料や退職金を稼ぐために、若い社員がたくさんの負担を課せられているということだ。
  • また古い会社は、現在そこで働いている社員だけでなく、退社した社員の福利厚生が現役社員の重しとなっているケースもよく見られる。破綻したJALが、辞めた社員の年金を払い続けるかどうかでモメていたが、今後も多くの破綻していく企業で年金問題がクローズアップされることだろう。現在40代から50代の社員が幸せそうにしている会社は、そこで働く若者の犠牲によって成り立っている可能性が大いにあるのだ。

 

  • 就職先を考えるうえでのポイントは、「業界全体で何万人の雇用が生み出されるか」という大きな視点で考えるのではなくて、「今はニッチな市場だが、現時点で自分が飛び込めば、数年後に10倍か20倍の規模になっているかもしれない」というミクロな視点で考えることだ。まだ世間の人が気づいていないその市場にいち早く気づくことなのだ。

 

  • 特定の産業があるタイミングで大きくなり、そこで働いていた人が一時的に潤うが、そこにあとからやってきた人は報われない、という状況が繰り返されるだけだ。
  • これから就職や転職を考える人は、マクロな視点を持ちつつ、「これから伸びていき」「多くの人が気づいていない」ニッチな市場に身を投じることが必要なのだ。つまり就職においても後に述べる「投資家的視点」を持っているかどうかが成否を左右するのである。
  • どのような会社に就職すべきかについて悩む人に、最後にこの言葉を贈りたい。高級ホテルチェーンを世界で経営するマリオット・グループは、ホテルマネージャーの心得として次のように述べている。「従業員に対してお客さまのように接しなさい。そうすれば従はあなたが接したように、お客さまに接するでしょう」
  • つまり従業員を大切にする会社は、顧客を大切にする会社なのである。逆にいえば、顧客を大切にしない会社は、従業員も大切にしない会社なのだ。会社のビジネスモデル自体がお客さんを小馬鹿にしている、あるいは馬鹿なお客さんをターゲットとしている会社には、長期的には未来がないと考えていいだろう。

 

  • B to B(企業と企業との商取引)、B to C(企業と消費者との商取引)の別を問わず、
    これまで個々の営業マンの人間的能力と労力で培われてきた購買行動が、ネットによって激変した。何かモノを買おうと思ったら、グーグルの検索窓にその商品名を入れればいい。瞬時にすべてのメーカーが提供する同一ジャンルの商品が一覧で表示され、その価格からスペックまで比較検討できる。消費者は同じ商品ジャンルの中から、もっとも安いものを選んで買えばいい。
  • これと同じことが、あらゆる企業の仕入れや見積もりでも起きている。個々人の営業力の商売はもはや時代遅れとなり、価格の透明化も進んでいることから、営業利益、つまり「サヤ」を抜くのが年々難しくなっているのである。
  • 企業においても「トレーダー」的な業種、つまり商品を「右から左へ」と渡すことで稼いでいた企業はどんどん経営が苦しくなっている。商社をはじめ、広告代理店や旅行代理店など、いわゆる「代理」業務を行ってきた会社は、インターネットの普及によってビジネスモデル自体に構造の転換が迫られている。
  • トレーダー的、エキスパート的な仕事は、先に挙げた商社などの業種に限らず、
    幅広い業界に存在する。
  • たとえば企業の海外駐在員という仕事の需要も減ってくるだろう。かつて、日本の企業は大量の海外駐在員を世界中に派遣していた。アメリカやイギリスで情報を集めて本国にレポートを送るのが仕事だったが,「ウォール・ストリート・ジャーナル」は東京でも読めるし、アメリカの金融業界の情報も在米のアナリストが直接ブログなどで発言している。英語が読めれば国外に人を置く必要がない。ただ情報を集めてくる、英字紙を切り抜きする人というのは、もういらないのである。
  • もちろん、本当に深いところの情報はネットでは手に入らない。だが逆にそういう情報は現地の人とのネットワーキングによって得られるものであり、中途半端な駐在員がたくさんいればいいというものではない。

 

  • ベネトンの洋服にさまざまな色が用意されてるのは、本当は「服の型紙の種類を極力少なくしてコストダウンをはかり、流行の色に合わせてあとから染色する」という会社側の都合によるものだ。だがそれを、「世界の多様性を受け入れる、
    すなわちダイバーシティを重視する企業」というメッセージとつなげることで、
    大衆には違和感なく受け入れられたのである。

自分の頭で考えない人々はカモにされる

  • 実はこの(ライブドアの)「情報弱者の大衆から広くお金を集める」手法を昔から行っているのが、金融業界だ。投資会社は、広く個人を相手に小口の商いをする会社と、特定の法人や信頼のおける個人とだけ高額の取り引きをする会社に分かれる。
  • 成功している投資会社は、個人市場からはいっさい資金調達をしない。投資した企業が成長したり、運用で儲けても、もともとの出資者にリターンを支払い、残ったお金は次の投資に回すのである。すごくうまくいっている投資会社は、市場から資金調達をする必要がないのだ。つまり、一般の個人投資家向けに売られている金融商品は、「プロが買わないような商品だからこそ、一般個人に売られている」ということである。
  • つまり、一般個人投資家は、本当に儲かる投資先には、アクセスすることすらできない仕組みになっているのである。
  • 資金を調達したい側の会社や人にとってみれば、たくさんお金を持っている人に交渉して自社の株を買ってもらったほうが、ずっと効率的に、楽に儲けられるのだ。それなのに、「個人を相手に小口に分割して手間ひまをかけてまで金融商品にして売る」ということは、「金融に詳しい目利きのお金持ち投資家が買わないような投資先であり、値づけだから」なのである。
  • 個人を相手に金融商品を売る会社にとって、いちばんありがたい顧客となるのは、「自分の頭で物事を考えない」人々だ。そしていつの時代もそうした人々はたくさんいる。つまり、個人を相手に商売するときは、「人数がたくさんいて、なおかつ情報弱者のターゲット層」のほうが効率が良いのである。だから、ホールセール(機関投資家や企業相手の大口取引)の金融事業で儲けられなくなってきた会社は、みなリテール(個人向けの小口の金融ビジネス)に進出しているのだ。
  • FX(為替取引)はまさに、そういう金融ビジネスモデルの筆頭である。一言でいえば「中産階級向けパチスロ」といって良いだろう。

 

「士」になっただけでは稼げない
  • 会計士においても、弁護士においても、その資格を手にすること自体には、ほとんど意味がないことがお分かりいただけただろうか。
  • 資格や専門知識よりも、むしろ自分で仕事を作る、市場を作る、成功報酬ベースの仕事をする、たくさんの部下を自分で管理する、というところにこそ、「付加価値」が生まれるのである。
  • それに対して単に弁護士資格を持っているだけの人は、まったく価値のない「野良弁」になってしまう。稼げない「野良弁」と、すごく成功している弁護士を分けるのは、弁護士資格ではなく、そうした新しいビジネスを作り出せる能力があるかどうかなのだ。
  • そこで求められるのは、マーケティング的な能力であり、投資家としてリスクをとれるかどうかであり、下で働く人々をリーダーとしてまとめる力があるかどうかだ。高学歴で難度の高い資格を持っていても、その市場には同じような人がたくさんいる。たくさんいる、ということならば、戦後すぐの、労働者をひと山いくらでトラックでかき集めたころとなんら違いはないのである。
  • 「弁護士いる?弁護士。日給1万5000円で雇うよ」といった具合に。

 

  • 彼(ゴーン)のように、優れたリーダーには「自分はすごい」という勘違いが必要なのである。そういう宗教家のような確信に満ちた態度がなければ、自分が信じ込んでいるビジョンやストーリーを、何千人もの社員に伝えて先導していくことはできない。
  • そういう観点からすると、ここ最近の日本の政治家で、いちばんリーダーの素質を持っていたのは小泉純一郎元首相だろう。在任期間中の彼は、時にむちゃくちゃとも思える発言でニュースを騒がせたが、多くの国民の人気を集めた。彼の言葉を詳細に見れば、かなりの「とんでも発言」をしているのだが、えてして一般大衆はああいった分かりやすい言葉を歯切れよく語る指導者についていくものなのである。
  • 学校では「みんなの上に立つ人はすばらしい人」と習うが、現実の歴史では、そういうすばらしい人」が、人の上に立って何か大きなことをなしたことはほとんどない。
  • 日本人の多くは、謙虚ですばらしい人格を持ったリーダーを好むが、そういう人は実際にはリーダーにはなれないのである。歴史に名を残すレベルの企業を作ったようなリーダーというのは、みなある種の「狂気の人」であることが多いのだ。

 

  • アメリカの本物のベンチャーキャピタリストは、だいたい本人自身に事業で大成功した過去がある場合が多い。当然、大金持ちであり、企業を経営した経験も豊富に持っている。一方、日本のベンチャーキャピタリストというのは、銀行を辞めた人や商社を辞めた人が独立して起こした会社がほとんどだ。つまり彼ら自身に経営の経験や事業を成功させた体験はほとんどないのである。
  • ビジネスパーソンが「儲かるから」という動機だけでいきなりラーメン屋を開いても、うまくはいかないのが道理である。
  • ところがなぜか日本のベンチャーキャピタルの場合は、元商社マンや元銀行家といった、起業や投資とは畑違いで実業の経験のない人々が集まって始めることが多いのだ。そのため多くのベンチャーキャピタルは、ベンチャー投資に関する知識や経験、判断能力もなければ、その後、会社を大きくするノウハウも持ち合わせていない

 

  • サラリーマンとは、ジャンボジェットの乗客のように、リスクをとっていないのではなく、実はほかの人にリスクを預けっぱなしで管理されている存在なのである。つまり、自分でリスクを管理することができない状態にあるということなのだ。

 

  • 人生の重要な決断をするときに覚えておくべきは「リスクは分散させなくてはならない」ということと、「リスクとリターンのバランスが良い道を選べ」という2点だ。
  • たとえリスクが少し高くとも、それに見合ってリターンも高いのであれば、そして万が一、外した場合でも自分で責任がとれるなら、その投資は「あり」だ。つまり「ローリスク・ローリターン」よりも、「ハイリスク・ハイリターン」の件数を増やしたほうが良い、ということである。
  • この観点からすると、最悪なビジネスといっても過言ではないのが、コンビニエンスストアに代表されるフランチャイズに加盟することである。フランチャイズビジネスの多くがリスクを加盟店に背負わせることで、本部だけが安全に儲かる仕組みとなっているが、なかでもコンビニの経営は、「ハイリスク・ローリターン」の最たるものといえる。

 

  • ここで私がお伝えしたいことは、「メディアの情報をそのまま信用するな」ということだ。日本でもっとも信頼されている経済情報源といえば、日本経済新聞であることは間違いない。だが、日経の記事を鵜呑みにすることは投資家としてもっともやってはいけないことである。
  • 会社に入ると新入社員は先輩から「日経ぐらいは読んでおかないと恥ずかしい」などと説教をされることがあるようだが、私から言わせれば、日経の記事をそのまま信じるほうがよっぽど恥ずかしい。これは私だけがそう言っているのではなく、外資系の投資銀行の第一線で働く40代のバンカーもよく「日経の記事はまったく金融が分かっていない奴が書いている」と言っているのである。
  • かといって新聞を読むな、と言っているわけではない。投資家の情報源のひとつとして日経を読むのは必須だが、そこに書いてあることをそのはま信じるな、
    ということなのである。世の中の人々が、話題となっている会社や商品、サービス、世の中のトレンドについてどう思っているのか。社会経済全般の動向を知るために日経を読むことは不可欠なことだ。だがそこでほかの人々と同じように考えてはいけない。

 

「現時点の少数意見」が正しければ必ず儲かる
  • 資本主義では、「自分の少数意見が将来、多数意見になれば報酬を得られる」という仕組みになっている。
  • たとえば凋落が叫ばれる出版業界について、多くの人々が「もう紙の本は終わりだ。将来的には本はすべて電子書籍になる」という意見を持っていたとする。そのときに「いや、紙の本にも別の生きる道がある。みなが電子化するならば自分たちはあえて紙の本にこだわる」という選択をして、事業を新たに始めたとする。その少数意見が正しければ、将来儲けることができる。反対に、その意見がやはり間違っていた場合は、儲けることができずに事業は継続できなくなる。このように資本主義はきわめてフェアな仕組みだといえる。
  • 投資ではよく「市場の歪み」を見つけることが重要だといわれる。「歪み」とは、本来であればもっと高い値段がついていいはずの商品が不当に安く値付けされていたり、もっと多くの人が買ってもいいはずなのに誰もまだその商品に気づいていない、といった状態を指す。つまりその「歪み」を正すことが、社会にメリットをもたらし、自分には財を運んでくれるのである。

 

  • 学部時代にもマッキンゼーに行くか、大学院をスキップしていきなり助手になれるキャリアを選ぶか非常に迷った。しかし、当時の東大法学部の価値観では、「君はどっち?」というのが挨拶で、キャリア官僚か司法試験かが普通の進路であった。なかでも成績上位者が助手に誘われるというシステムで、民間、まして外資に行くなどというのは、ハズレ者だった。したがって、助手とマッキンゼーで迷うなどという者は「前代未聞」「正気の沙汰ではない」とまで、言われていた。
  • しかし、20年後の大学がどうなっているか、そのとき、法学部の伝統的な研究者の地位はどうなっているかと想像したときに、自分の人生に対する投資判断は、
    それほど難しくなかった。
  • 投資銀行に行くか、マッキンゼーに行くかでも迷ったが、投資銀行は伝統的にどこもトップダウン、上意下達の企業文化だ。新卒で入社した社員は数年間、膨大な資料づくりに追われ、朝まで帰れないような日々が続く。一方でコンサルティング業界はもっと自由な気風があり、とくにマッキンゼーは部下が言ったことでもそれが正しい意見ならばすぐに採用される文化があった。学生時代にインターンマッキンゼーに行ったときに、「よほど大学の研究室より民主的だな」と感じていたため、入社することを決めたのである。

 

  • 大学で学ぶ本物の教養には深い意義がある、という価値観は世界で共通している。それは良い大学、良い会社に進めば人生は安泰、という日本でこれまで流布されてきた考え方とは何の関係もない。リベラル·アーツが人間を自由にするための学問であるならば、その逆に、本書で述べた「英語・IT・会計知識」の勉強というのは、あくまで「人に使われるための知識」であり、きつい言葉でいえば、「奴隷の学問」なのである。
  • 昨今の大学では、企業への就職率を上げるために、上記の「奴隷の学問」の勉強を学校自体が推奨しているところがあるが、私からすればまったくの間違いだ。
    私の起業論を学ぶ学生から、「将来、起業して成功するために、学生時代は何をやったらいいか」と聞かれることがある。どうやらベンチャーを設立して成功したすごい先輩を見ると「学生時代からすごい活動をしていたのではないか」と思うらしい。
  • しかし成功した起業家に実際に聞いてみると、学生のときから起業のためにすごく努力をしていた、という人はほとんどいない。
  • そうではなくて、自分が長年興味と関心を抱いていた何かに、心から打ち込んでいるうちに、たまたま現在の状況につながっていった、というケースが多いのだ。だから私は、社会に出てからのステップアップやキャリアプランについて、
    学生のうちから考え続けることは意味がほとんどないと考える。

 

人生は短い。戦う時は「いま」だ

  • 彼の生き方から我々が学べることは、時には周囲から「ばかじゃないのか」と思われたとしても、自分が信じるリスクをとりにいくべきだ、ということである。自分自身の人生は、自分以外の誰にも生きることはできない。たとえ自分でリスクをとって失敗したとしても、他人の言いなりになって知らぬ間にリスクを背負わされて生きるよりは、100倍マシな人生だと私は考える。
  • リーマンショック以降の日本では、資本主義そのものが「悪」であるかのように見なされる風潮がある。しかし資本主義それ自体は悪でも善でもなく、ただの社会システムにすぎない重要なのは、そのシステムの中で生きる我々一人ひとりが、どれだけ自分の人生をより意味のあるものにしていくかだ。
  • 若手の経済評論家の中からは、「既得権益を握っている高齢世代から富を奪え」というような意見も聞かれるが、社会全体のパイが小さくなっているときに、世代間で奪い合いをすることには意味がない。才能がある人、優秀な人は、パイを大きくすること、すなわちビジネスに行くべきだ。
  • パイ全体が縮小しているときに、分配する側に優秀な人が行っても意味がない。誰が分配しようが、ない袖は振れないからだ。社会起業家とか公務員という選択は、社会に富が十分にあって分配に問題がないときなら意味があるだろう。だが分配する原資がなくなりつつあるのが、今の時代ではないだろうか。
  • 自分が勤める会社に、働かないうえに新しい発想もなく、社内政治だけには長けた、既得権益を握って離さないオジサンたちが居座って甘い汁を吸っている。そう感じるのならば、本書で述べたように自分の会社をぶっ潰すためのライバル企業を作ってしまえばいいのである。自分の会社が本当に不合理なシステムで動いているのならば、正しい攻撃をすれば必ず倒せるはずだからだ。
  • 人生は短い。愚痴をこぼして社長や上司の悪口を言うヒマがあるのなら、ほかにもっと生産性の高いことがあるはずだ。もし、それがないのであれば、そういう自分の人生を見直すために自分の時間を使うべきだ。
  • 若い人が何か新しいことにチャレンジしようとするときに、「それは社会では通用しないよ」としたり顔で説教する「大人」は少なくない。
  • しかしその言葉は、既得権益を壊されたくない「大人」が自分の立場を守るために発しているかもしれないのだ。自分の信じる道が「正しい」と確信できるのであれば、「出る杭」になることを厭うべきではない。本書で述べてきたように、
    人生ではリスクをとらないことこそが、大きなリスクとなるのである。