金融工学者フィッシャー・ブラック

  • ゴールドマン・サックスの方が自由な研究が出来るし、論文に関してレフェリーとあれこれやりあうのがイヤになったためだ、というものだった。
  • そのときは天下のブラック博士の論文でも、レフェリーに拒絶されることがあるのか、と驚いたものだが、本書によれば、八〇年代以降の論文のほとんどすべてが拒絶査定を受けたという。当時は金融工学をまともに評価する学術誌はなかったから、ブラックは(トレイナーが編集長を務める)実務家向けのフィナンシャル・アナリスツ・ジャーナルに寄稿する道を選んだ。一〇〇人の経済学者を相手にするより、一〇倍以上の読者があるジャーナルの方がいいと判断したのである。

 

  • サミュエルソンアメリカ経済学会(AEA)で行った有名な会長演説に、次のくだりがある。「結局のところ経済学者というものは、この世でただひとつ価値ある貨幣のために身を粉にする。その貨幣とは、経済学者からの称賛である」。この定義からすれば、ほかの価値ある貨幣を求めたトレイナーはレースから脱落ということになる。サミュエルソンも、ジョン・リントナーがトレイナーからCAPMの着想を得たという噂は聞き知っていたに違いない。たしかにトレイナーはハーバード大学院でリントナーの弟子だったが、しかしそれはあくまで噂であって証拠はない。重要なのは、正真正銘の学者であるシャープとリントナーの二人が、それぞれ別個に確かな結果を出したということだ。シャープだけがノーベル賞をもらったのは運命のいたずらである。 ノーベル賞委員会がファイナンス理論の価値を認める前にリントナーは亡くなってしまったのだ。

 

  • 「研究をしていていちばん楽しいのは、最初は馬鹿げた考えだと思えたことが、最後にはすっきりと説明できることだ」とブラックはかつて言ったことがある。ブラックは誰も自説を支持してくれなくても気にしなかったし、むしろそれを楽しんでいる節もあった。
  • とにかく頭を使って問題を解くプロセスがブラックには楽しくてたまらない。ゴールドマン・サックス時代には、ゲームボーイを家に置いてこなければならないほどだった。さもないと仕事時間中にお気に入りのゲーム、スーパーマリオブラザーズに手が出てしまう。ブラックのみるところ、ファイナンスの問題はゲームによく似ている。ある方法でアタックし、うまくいかなければ別の方法を試み、さらに別の方法を試す。こうやって、正しく理解できるまで問題をあちこちから攻める。 そして、誰も思いついたことのないような攻略法やこれまでにない解決策を編み出すのだった。キノコ王国のピーチ姫を大魔王クッパの手から救い出す方法をみつけるだけでは、ブラックは満足しない。これまでの最高得点を上回るスコアを叩き出すにはどうしたらいいか、それが知りたかった。他のプレーヤーとスコアを競うのではなくて、ゲーム自体を打ち負かしたかったのである。たとえ仕事ではなく遊びであっても。
  • 何か新しい解決方法を考えつくのはうれしいものだが、その喜びのほとんどは、解決それ自体ではなく、試行錯誤の途中で学んださまざまなことから生まれる。ブラックは人から言われてやるような受け身の勉強は絶対にしなかった。目の前の問題を解くのに役立ちそうなことを片端から学ぶのがブラック流である。「研究は目的をもってやらなければならない」と彼は考えていた。幸いにも興味をそそられる問題はいくらでもあったから、一生の間、次から次へと解き続けることができた。おもちやがいっぱいの部屋にいる子供、それがブラックである。一つのおもちゃで思う存分遊んだら、すぐ次のおもちゃにとりかかる......。
  • よい問題は、よいおもちゃと同じで、なかなか飽きない。さまざまな角度から立ち向かうことができ、そのたびに新鮮な驚きがあり、何か新しい発見の可能性がある。どんなに突飛にみえるアイデアも、思いがけずうまくいくかも知れないから、試してみる価値がある。問題が難しければ難しいほど、いろいろな方法を自由に試す余地は大きい。ブラックはこの自由な感覚が大好きで、好んで難問に取り組んだ。と言っても手当たり次第に突き進んだわけではない。彼の意見によれば、既知の方法で問題が解けないからと言って、もっと高度な方法が必要だということにはならない。実際にはその反対のことが多いという。問題が難しいのはこちらの技術が未熟なのではなくて、理解不足であることが多いと彼は考えていた。
  • ブラックは問題の核心に切り込む方法をみつけるとき、基本に忠実な直接的アプローチをとるよう心がけた。これは、本能的なものだったかも知れない。ゴールドマン・サックスでブラックの同僚だったエマニュエル・ダーマンはこう回想する。「ブラックのやり方は、とにかく失敗を恐れずに考えて考えて考え抜くこと、直観を大切にすること、高等数学に頼らないことが特徴だったように思う。彼は真っ向から問題にアタックし、手の内にある技術を次々に試した。たいていはそれがうまくいった」。
  • 大問題には、本質的な大発見につながる可能性が秘められている。だから、やり甲斐がある。だが、大発見に結びつくのは基本に忠実な手法でアプローチしたときに限られる、というのがブラックの持論だった。

 

  •  CAPMを学んだブラックは、ばらばらに株を買うのをやめてミューチュアル・ファンドに切り替え、株には一切手を出さなくなった。若い頃にはリスク許容度は高いと考え、わざわざ借金をしてまでリスク・エクスポージャーを拡大したこともあったが、痛い目に遭ってからというものは、自分の本当の性格を身に染みて知ったようだ。ゴールドマン・サックスのパートナーになってから、「私のリスク許容度はほとんどゼロだ」と語ったという。
  • そして会社への出資以外は、MMF (市場金利連動型投信)や短期証券に投資した。 株式市場で金儲けのリスクを冒すよりも、知的生活のなかで学問研究のリスクを冒す方が好ましくなったのだ。なにしろこちらは下落のリスクがはるかに小さく、上昇の可能性ははるかに大きい。
  • 現実の生活を考えてみよう。たいていの人にとって、富のなかで比重が大きいのは将来の給与所得である。したがって、給与所得のリスクを減らしてくれる条件を整えておけば、長期にわたるリスク全体も減らせることになる。ただあいにくなことに、高所得を得るには専門的なスキルが必要であることが多い。そして、専門に特化することはリスクを増大させる。何らかの特殊な専門性の価値は、ごく短期間にがらりと変わってしまうことがあるからだ。これに対する一つの解決策として、複数分野を専門にする「分散化」が考えられる。 フィッシャー・ブラックはまさにこの戦略を採用し、象牙の塔と民間企業の間を行ったり来たりした。もう一つの解決策は、状況に柔軟に対応することである。つまり、将来を覆い隠していた霧が晴れるにしたがって、臨機応変に方向性を変えていく。 ブラックは論理的な思考や明晰な文章を書く能力など、何にでも応用できる能力をベースに職業を選んだ。 これは、高等数学や統計学など特殊な専門能力に依存するのと比べ、リスクの低いやり方と言えるだろう。
  • 不安定な世界で安定した人生を送るもう一つの方法として、長期契約を結ぶことが挙げられる。女の役割が決まっている伝統的な結婚は、おそらくそうした契約の代表例だろう。ほかにも大学教授の終身的な地位や、ゴールドマン・サックスなどが採用しているパートナーシップ制などは安定した長期契約である。長期契約の方が安全だとブラックはよく言っていたものだ。

 

  • フランコ・モジリアニがブラックのことを「人間コンピュータ」と茶化すのも理由のないことではない。MITの同僚でノーベル賞経済学者であるロバート・ソローは、ブラックの一風変わった外見も含めて、彼をET (地球外生物)と呼んだ。なにしろ頭が大きくて首が細いのである。だがいちばん正しい評価は、やはり同僚であるジョン・コックスによるものだろう―「これまでファイナンス畑で出会ったなかで、正真正銘の天才と呼べるのはフィッシャー・ブラックだけだ。ロバート・マートンやスティーブン・ロスも頭脳明晰だが、考え方の筋道は自分と似かよったところがある。だがフィッシャーは、そもそもの発想がまったく違う」
  • 本人の方は、外見に反して、自分の頭脳がマシンのようだと思ったことはない。ブラックは大学院時代に人工知能をかじったが、そのとき、コンピュータはいつの日かある面おそらく記憶容量と演算速度では人間を越えるにしても、創造はできないという結論を下していた。創造性は、人間だけに与えられた能力である。そこでブラックは、記憶力の鍛錬や計算能力の強化に努めるのはエネルギーの浪費だと考えるようになった。いずれコンピュータが全部やってくれるのだから、努力しても意味がない。記憶と計算は急成長中のコンピュータに任せ、自分は創造性を鍛える方がずっといい。考えることができるのは人間だけである。だから人間はそれをすべきだ。それに、考えることはじつに楽しい......。

 

  • 論文を書いている最中から、彼は両親にこんなことを書き送っている。「博士号をとったら何をしようか考えています。可能性はたくさんあります。科学者、技術者、研究者は、どれもあまり気が進みません。コンピュータの世界にとどまりたいのかどうかもよくわからない。この世界の人間はそんなに好きになれないからです。誰もたいして人と変わらないのに、自分のアイデアはすごいものだと見せかけようとしています。電力会社の社員が、原子力発電所で働いていることを自慢するみたいに」

 

  • コンチネンタル銀行のためにブラックが行った分析は、じつは一〇年前にトレイナーがやった研究の延長線上にある。トレイナーは自分の知的好奇心を満足させるためだけにリースの研究をしていた。つまりブラックはトレイナーの足跡をたどったことになる。 数年後になって、ブラックは研究成果を称える手紙をトレイナーに書いている。
  • 「あなたのおかげでファイナンスに目が覚めました。ブルとベアのバランスをとり、投機と投資を均衡させる市場メカニズムは本当にみごとです。私が次々に話す思いつきを辛抱強く聞いてくれてありがとう。おかげですこしは考えがまとまってきました。この借りはとても返せそうにありません」
  • これは単なる儀礼的な感謝ではない。フィッシャー・ブラックの金融や経済に対する見方はすべてジャック・トレイナーから始まっている。トレイナーは彼にとって最初にして最大の師だった。

 

  • ハーバード・ビジネススクールは、チャールズ川を挟んで大学キャンパスと反対側にある。ラース・アンダーソン橋を渡れば、ハーバード・スクエアから歩いて五分とかからない。それでも大学とビジネススクールは別世界だった。どちらもジョージ王朝風の赤レンガの建物であるところは同じだが、それ以外はまったくちがう。ビジネススクールでは徹底してケース・メソッドによる教育・研究が実践され、大学の抽象的でアカデミックな経済学は非現実的であるとして排除された。授業も研究も、まず具体的な事例から始まる。細部にいたるまで複雑きわまりない現実のケースが教材になり、経済学理論の一般原則の類は扱われなかった。つまりそこには、博士号を持つ経済学者の居場所はなかったのである。にもかかわらず、ジョン・リントナーはそこにいた。ジョージ・ガンド経営学・経済学教授として、駐車場とサッカー場を見下ろすベイカー図書館裏のオフィスにどっしりと構えていた。

 

  • 証券価格研究センター(CRSP)のデータが出揃うのを待ちきれない大学院生たちは、手持ちのデータをかき集め、大人気の実証研究プログラムに押し寄せた。たとえばベンジャミン・キングは、自分で抽出したCRSPのデータの一部を利用した。ユージン・ファーマは六〇年にビジネススクールに入学したときに日次株価データ数年分を持ち込んでおり(このとき彼は若干二一歳だった)、それを活用している。 タフツ大学の大学院に在籍中、指導教官だったマーティン・アーンストのために集めたデータである。すでにこのときファーマはデータを綿密に調べ上げて儲けの多い投資戦略を探り、アーンストがそれを自分のマーケット・ニュースレターで発表していた。しかしファーマが仰天したことに、過去のデータに基づく市場戦略で成功したものは皆無だった。ハリー・ロバーツが指摘した通り、どのパターンも幻想にすぎなかったのだ。ファーマはそこでさっさとランダム・ウォーク理論に乗り換える。六三年の論文では、彼はもはや独立性の検定に手間暇をかけるのをやめ、リターンの確率分布の形状というもう一つの問題に集中した。
  • この研究に対して、数学者のブノワ・マンデルブローがさっそく反応を示す。ある種の資産価格は、ガウス分布(正規分布)に従うとは言えないほど変動幅が大きいと指摘したのだ。この事実をみる限り、「価格変動の問題にはまったく新しいアプローチが必要だ」とマンデルブローは主張した。正規分布の裾野が厚い、いわゆるファットテールの存在は前々から指摘されていたことだった。マンデルブローは、これらの分布を安定パレート分布と呼ばれる確率分布の一種として扱ってはどうかと提案する。幸いにもマンデルブローが三ヶ月ほどシカゴ大学に来たので、ファーマは直接教えを請うことができた。その後論文を書き、アメリカの三〇銘柄の株価分布がマンデルブローの仮説に一致することを証明している。
  • 一見するとマンデルブローの仮説はさほど大胆ではなく、おなじみのガウスのランダム・ウォークを一般化しただけのようにみえる。だがMITのポール・コートナー教授は、六二年一二月二九日に開かれた経済学会で警鐘を鳴らす。「マンデルブローは、かのチャーチル首相のように、ユートピアではなく血と汗と労苦と涙を約束している。もし彼が正しいとしたら、われわれの統計理論の大半最小二乗解析、スペクトル解析、最尤法、すべての標本理論、閉じた形の分布関数は無用の長物になりはてるだろう。それにこれまでになされた計量経済学の研究は、ほぼ例外なく意味がなくなる。数世紀に及ぶ研究を焼却処分にする前に、せめてわれわれの研究が何の役にも立たないという確証を得ておきたいものだ」。この発言からは、功成り名遂げた教授が自らの業績を守ろうとする本能がうかがえる。だが、学生だった若いファーマの本能は正反対の方向に働いた。彼がそれまでに研究したのは効率的市場仮説だけだったが、その時点では彼は、マンデルブローの仮説を採用しても効率的市場仮説を捨てる必要はないと判断する。むしろ、系列独立性という意味での効率的市場とファットテールに関するマンデルブローの仮説を組み合わせれば、データをうまく実証的に説明できるとファーマは考えた。
  • しかしマンデルブローの考えは違った。証券価格は、新しい情報が将来に及ぼす影響を直ちに現在に割り引いて動く。 したがって裁定取引は系列依存性を排除するとしても、価格の大幅変動も招きかねない。そしてこれがファットテールを生む、というのが彼の意見だった。しかし価格変動に限度があるとすれば、裁定取引で排除できる系列依存性にも限度があることになる。したがって系列依存性は、ファットテールとともにデータにつねにつきまとう属性と言える。マンデルブローによれば、ちょうど効率的市場と正規分布のように、非効率な市場とパレート分布は理論上切り離せないペアなのである。
  • 六四年、ファーマはシカゴ大学ビジネススクールの教授陣に加わる。まだ理論研究が十分進んでいない時期だったこともあってファーマの実証研究は高い評価を獲得し、効率的市場とファットテールシカゴ大学ファイナンス課程の金看板になった。 そして、 ファーマはシカゴ大学での最初の仕事として、効率的市場に関する初めての講義を準備して教える役割を引き受ける。その講義録は、マートン・ミラーが七二年に執筆・出版したシカゴ大学の標準的な教科書『ファイナンス理論』に収められている。
  • ファーマが講義を開始してほどなく、ポール・サミュエルソンブノワ・マンデルブローが効率的市場を統計的に論じた論文を相次いで発表した。二人とも効率的市場は理想であって現実にはあり得ないことを認め、効率的市場仮説は魅力的な帰無仮説でも役に立つ仮説でもないと述べている。対照的に、七〇年にファーマが発表した"Efficient Capital Markets: A Review of Theory and Empirical Work (効率的資本市場―理論と実証研究の概観)は明らかに自説に確信を持つ研究者の力作であり、専門家なら誰もが読むべき古典的文献と評されている。 ファーマはこの論文で、情報が株価に反映されるレベルに応じて効率性をウィーク、セミストロング、ストロングの三段階に分類し、定性的な議論(効率的か、そうでないか)から定量的な議論(どの程度効率的なのか)へと議論を方向転換させている。
  • だが、ファーマの効率的市場とパレート分布の組み合わせは、まだ理論と呼べるほどのものではなかった。株価変動の特徴を論じてはいるが株価水準を扱っていないし、リターンの変動は論じてもその平均は扱っていない。こうした状況で、シャープのCAPMが登場して真空地帯を埋めたのである。いや正確には、シャープのCAPMはリターンのパレート分布にまで及んだ。だがファーマは、期待リターンに関する理論ではなく効率的市場にあくまでこだわった。そして、とうとう効率的市場仮説を救うためにCAPMを放棄する。

 

  • 数ヵ月後、さっそく二人のコンビを生かす機会が訪れる。ウェルズ・ファーゴ銀行のケースである。この仕事では、ショールズは効率的市場に関するシカゴ学派の代弁者という役回りだった。マックーンはショールズを正社員に採用しようとしきりに誘ったのだが、学界に戻りたいというショールズの固い意志に阻まれた経緯がある。 上層部からは新しい理論を試してよいとのお墨付きをもらっていることもあり、困ったマックーンはどうにかしてくれとショールズに談判し、そこでショールズがブラックを推薦したというわけである。 マックーンはすでに証券価格研究センター(CRSP)でブラックに会ったことがあり、即座にOKする。
  • またとないタイミングだった。 妻に尻を叩かれたブラックは勇気を振り絞ってADLに給料の大幅アップをかけあったのだが、失敗に終わっている。そこで六九年三月三一日付けで退職し、ミミのツテでベルモントのレオナルド通り六八番地にオフィスを借りて、自分でコンサルティングを始めたところだった。このつつましい会社の名前はアソシエーツ・イン・ファイナンス。秘書はパートタイムで、マイロン・ショールズが最初のアソシエーツである。ほかに期待できそうな協力者としては、マイケル・ジェンセンなどがいた。独立するときブラックはADL時代のクライアントを二、三社押さえていたが、最大の顧客は何と言ってもウェルズ・ファーゴ銀行であり、この仕事にブラックは時間の半分をとられるようになる。忙しい時期にはショールズは三時きっかりにMITを出てブラックのオフィスに立ち寄り、数時間働くという日課をこなした。
  • プロジェクトそのものは、このうえなく刺激的だった。ウェルズ・ファーゴの連中はとにかく何か新しくて人と違ったことを試したくてたまらず、 そのためなら喜んで巨額の資金を投じる意気込みである。 同行が契約したコンサルタントの数は片手ではきかない。ブラックとショールズは大勢のなかの二人にすぎず、ファイナンスの大御所がずらりと名を連ねていた。シャープ、リントナーはもちろん、 マートン・ミラー、ジェームズ・ローリー、ユージン・ファーマといったシカゴ大学のお歴々。さらにはマイケル・ジェンセン、リチャード・ロールなど当時まだシカゴ大学の学生だった連中までいた。誰もがこのおいしい蜜に群がっていたのである。ブラックにとってこのビジネスは、資本資産評価モデル (CAPM) を現実の世界で試すチャンスだった。ウェルズ・ファーゴCAPMを使って利益を上げられれば、他の企業も追随し、世界は変わるだろうと思えた。
  • それにまたこの仕事では、しょっちゅうカリフォルニアに行ける。ブラックは六一年夏に訪れたとき以来すっかりカリフォルニアが気に入っていた。 ウェルズ・ファーゴはサンフランシスコにある―正確にはダウンタウンのど真ん中、マーケット通りとモンゴメリー通りの角にあるので、カリフォルニア北部に行きやすい。プロジェクトが進行中の三年間にわたり、ブラックは月に一度は打ち合わせのためにカリフォルニアに飛んだ。ときにはミミと生まれたばかりの赤ん坊、アリシアも連れて。それは、しあわせな日々だった。
  • ウェルズ・ファーゴでの役回りも彼の好みにぴったりだった。汚れ仕事、つまりデータと格闘したりコンピュータでシミュレーションをしたり、といったことはすべてウェルズ・ファーゴのスタッフがやってくれる。それを定期的にチェックして次の指示を出せばよい。つまり理論を使って実証研究を導くのが仕事である。ふだんは、三〇〇〇マイル離れたボストンにいて銀行業務とは全然違うこと
    をしている。だが、月に一度はサンフランシスコで会議のテーブルにつく。こんなふうに離れたり近づいたりするやり方は、ブラックが大好きなスタイルだった。
  • ウェルズ・ファーゴの社員からみたブラックの姿はどんなものだったのだろうか。ものすごい集中力で没頭し、次から次へと何時間でもぶっ続けで、しかも緻密に仕事をこなし、疲れた素振りさえみせない。唯一のエネルギー源は、何杯もお代わりする甘いアイスティーだけ―それがブラックだった。よくトイレに行かずに我慢できるものだと社員はジョークを言い合ったが、しかし感嘆すべきは、言うまでもなく彼の有能ぶりである。なにしろ一ヵ月分の仕事をたった一日でチェックして、次の指示を出してしまうのだ。ウェルズ・ファーゴは大勢のコンサルタントと契約し、そのなかには学者も多かったが、最も優秀だったのはまちがいなくブラックとショールズだった。利益に結びつく金融商品の開発に本気で手を貸そうとしたのは、この二人だけだったのである。
  • 二人にとって報酬よりも大事だったのは、知的好奇心を刺激する難題に取り組むことである。ウェルズ・ファーゴの仕事で受けた刺激は、膨大な量のノートに結実した。そのどれもが、CAPMの考え方を実際の投資運用に応用することを試みている。 "Expanding the Market for Short Term Securities" (短期証券市場の拡大)、 "Variable Options" (変額オプション)、 "Investment with Leverage and without Taxes" (税金を想定しないレバレッジド投資)、 "The Term Structure of Interest Rates" (金利の期間構造)、 "Capital Market Equilibrium with No Riskless Borrowing or Lending" (無リスク貸借を伴わない資本市場の均衡)、"The Effects of Dividends on Common Stock Prices: A New Methodology" (配当が普通株の株価に及ぼす影響―新しい方法論、ショールズとの共著)、"A Fully Computerized Stock Exchange" (全面的にコンピュータ化された証券取引市場)等々......。 だが残念ながら、どんな仕事にも終わりは来る。思うようにいかないことに不満をつのらせてマックーンが辞めたとき、ブラックにとってもプロジェクトは終わった。あとから思い返しても、これは本当に楽しい仕事だった。
  • 後年、大学からゴールドマン・サックスに移るチャンスが訪れたとき、刺激に満ちたこの仕事のことが生き生きとブラックの脳裏に甦り、決め手となったという。それだけでなく、ゴールドマンに行けばマックーンのような役割を果たせるかも知れないという思いもあった。 マックーンは伝統的な銀行業界に新しい発想を導入するための組織として、ウェルズ・ファーゴに投資運用科学部を立ち上げている。これがブラックの頭にあったのはまちがいない。ゴールドマンにおける彼の仕事は、言わばウェルズ・ファーゴにおけるマックーンに相当するものであった。

 

  • CAPMの世界を築くのは非常に難しいという教訓とは別に、ブラックはウェルズ・ファーゴでもう一つの教訓を学ぶ。それは、実証主義には限界があるということだった。学生時代の論理学の講義で、すでにヴァン・クワインからそのことを漠然と教わってはいたが、ジェンセンやショールズとの共同作業を通じて再びはっきりと思い知ることになった。
  • ブラックが好きな実証研究のスタイルは、三種類の仮想のポートフォリオ戦略から上がるリターンを計量化したときの手法をみるとよくわかる。たとえばレバレッジを使った低ベータ戦略を採用した場合、CAPMでは不可能とされている利益を上げられることを二人は証明した。このように証明できたこと自体が、理論に何か誤りがあることの十分な論拠になる。だから、それ以上の説明はいらないとブラックは考えた。確かにポートフォリオ・テスト(自分のやり方をブラックはそう呼んでいた)は、理論のどこを修正すべきかを教えてくれる点で、高度な統計的テストより優れている。ブラックがいつも言う通り、ある理論が否定されたからと言ってすぐに投げ捨てるわけではないのだ。その理論をあちこち手直しし、強化して、次は却下されないように練り上げればよい。実証研究の眼目は、理論をテストすることよりもむしろ、次にどこを強化すれば理論がもっと強固になるかを探すことにある。

 

  • このように、クワインの言う「反抗的実験」を通じて自分の理論を精緻にしていくのがブラック流である。そのために彼は熱心に反抗的実験の材料を探した。 反抗的実験の結果は、よくみればほぼ例外なく均衡理論に従うとブラックは言う。「私は均衡というレンズを通して世界をみる。 これで道を踏み外したことはそうないと思う」。ブラックにとって、反抗的実験の余地をみつけて均衡理論を強化していくプロセスは、世界の仕組みを学ぶプロセスにほかならなかった。
  • ブラックは自分流のこのやり方を、共同研究者がいても変えようとはしなかった。マイロン・ショールズとは非常にうまくいった。 ショールズも、ブラックとの研究は「理想的なお手本」だったと回想している。 実証研究で突き止めたアノマリーが理論研究を刺激し、理論研究が実証研究を刺激して新たなアノマリーの発見を促す。 このやり方があまりにうまくいったため、後年ブラックが実証研究から離れ、マクロ経済学を変えようと非現実的な試みに没頭したことをショールズは残念がり、あれは多大な損失だったとしきりにぼやいたという。
  • もっとも他の研究者はブラックをなかなか理解できず、ブラックの方もうまくコミュニケーションがとれなかった。学者たちを満足させるためにウェルズ・ファーゴに出す報告書を書き直したことは、ブラックにとっては長年の痛恨事であり、計量経済学の標準的手法に対する反感はいつまでも消えなかった。あんなことは二度とやるまいと固く決心したほどである。ブラックに言わせれば、計量経済学はほとんど統計学であって、経済学はおまけ程度でしかない。「計量経済モデルは主にデータで組み立てられ、理論は二の次三の次だ。しかも、たいていのモデルで線形回帰分析が使われている。データ分析に計量経済学の手法を取り入れた論文はたくさん読んだし発表も聞いたが、ほとんどが失敗に終わっていた。
  • この手の研究では、線形回帰モデルを規定し、データと適合させ、いざ係数を求める段になったとき、大問題が起きる。必ずと言っていいほど、モデルが正しく規定されていないのだ。たとえ正しく規定されたモデルで独立変数が誤差なく計測されていても、今度は検定の問題を抱えることになる。そもそも独立変数は計測に誤差を伴うものだし、ほとんどつねに共線性を示す。そして独立変数の計測誤差は、変数間でみても経時的にみても独立ではない。その結果、推定された係数にはほとんど意味がなくなってしまう」
  • 計量経済学の手法に対するブラックの批判は当時からよく言われていたことで、現在もこの状況は変わっていない。それでも計量経済学の研究者は、ありとあらゆるテクニックを駆使して突き進んでいる。だがそれはブラックの行き方ではなかった。自説を刺激するような「反抗的」な材料を、彼はいつも探している。ただし、すぐに誤りと判明するような経験的データにかかずらわって時間を無駄にはしない。 計量経済学には批判的なブラックだったが、自ら開発したポートフォリオ・テストの有効性は信じていた。もっともポートフォリオ・テストでも、配当性向テストでそうだったように、明快な答えが出ないことの方が多い。しかしそれは問題ではなかった。答えが出ないのは、ブラックにとってはむしろ好ましいことだったのである。不確かな実証データに基づく理論を組み立てて時間を無駄にするよりは、理論の不備や欠点を思い知らされる方がずっとよかった。もう一つブラックの特徴として、高度な統計処理ツールを介さずに直接データを扱うのを好んだことを挙げておこう。理論をテストするときでも係数を推定するときでも、データの山のなかでせっせと新しい知識を掘り起こすのがブラック流だった。
  • こんな具合に方法論の問題は自分のなかで解決済みだったから、ブラックはいつでもどこでも自分のやり方を貫き通す。 二五年後にゴールドマン・サックスでも、最善の運用方法について次のように語っている。「複雑な現象は、ただ観察するだけでは十分ではない。歪んだイールドカーブや説明のつかない株価の動きにはいろいろなヒントが隠されているが、私が知りたいのはもっと大局的なことだ。なぜそうしたパターンが存在していたのか、取引を始める前に知っておきたい。たとえ正しい説明ができないとしても、何も考えずに売買はしたくない。どのような需給不均衡から取引機会が生まれたのか、まず知っておきたいのだ」。ここには、ブラックが学生の頃にクワインから受けた深い影響をみてとることができる。

 

  • ワラント価格の研究が機縁となって、 マートン南カリフォルニア銀行とコンサルティング契約を結ぶことができたが、それ以上の発展はなかった。のちにノーベル委員会に提出した経歴書のなかで、マートンはこのコンサルティング業務を次のように回想している。「皮肉なことだが、南カリフォルニア銀行のために私が開発した『同一シグマリスクに対する同一収益モデル』を連続取引に拡張していれば、ブラック=ショールズ公式にたどりついていたはずだった」。だがそうはならなかった。サミュエルソンと共同でワラントの論文を書き上げると、 マートンの関心は、彼にとってもっと大きくもっと重要な問題に移ってしまったのだ。それは、不確実性の下での異時点間の選択である。マートンはこれを博士論文のテーマにした。
  • マートンは、この問題に連続時間確率過程という数学的アプローチを持ち込んだ最初の経済学者である。このアプローチは、無限小の一瞬一瞬にサイコロを投げてリターンを決めるのと基本的に同じである。 有限期間のリターンは、それがどれほど短い期間であっても、必ずサイコロを投げた結果の合計になる。

 

  • 学術界では、自分の理論を相手に納得させるのは知力を振り絞る競争にほかならない。こうした競争は日常茶飯事だが、オプション価格問題の場合には、議論が迷走しかねなかった。なぜならマートンとショールズが象牙の塔の住人なのに対し、ブラックはよそ者だからである。マートンとショールズには学者としての信認もあったし、大学教授というれっきとした職業にも就いていたし、学者仲間に支持者もいた。だがブラックはそうではない。科学の歴史をみれば、傍流が権威ある主流に負ける例は掃いて捨てるほどある。ブラックにしても、ジャック・トレイナーがCAPM理論を構築しながら、みすみす他人に功を攫われたことは忘れられなかっただろう。だがブラックは、トレイナーの憂き目には遭わずにすんだ。理由の一つは、大きな括りでみれば、ブラックだけでなくショールズもマートンも異分子だったからである。三人はともに、経済学界とファイナンス学界の常識を敵に回したのだった。
  • そもそもファイナンスと名のつくものは、当時の正統派経済学からみれば「外様」だった。ポール・サミュエルソンは自分自身のことをこう語っている。「ファイナンスは私にとって日曜日に絵を描く趣味のようなものだった。日曜画家はプロには相手にされない。レフェリー付きの専門誌に論文を掲載してもらえないから、大勢の人に読んでもらうことすらできない」。ちなみにサミュエルソンがここで言及しているのは、明らかにインダストリアル・マネジメント・レビュー誌に掲載された自分の初期の論文であろう。スティーブン・ロスも、ペンシルバニア大学ウォートン院生だった七〇年に経済学からファイナンスに専攻を切り替えようとしたとき、「ファイナンスなんて、経済学からみれば、医者からみた骨接ぎみたいなもの」だと警告されたという。勇を奮ってファイナンス分野に乗り込んできた研究者たちはこの状況を打開しようとするが、きっかけをつかむのはむずかしかった。この頃、専門誌から掲載を拒否された良質の論文の発表の場となったのは、マイケル・ジェンセンの "Studies in the Theory of Capital Markets" (資本市場理論に関する研究) (一九七二年)である。やがてジャーナル・オブ・フィナンシャル・エコノミクス誌が論文発表の受け皿となるが、ようやく創刊にこぎつけたのは七四年だった。
  • ブラックとショールズを取り巻いていたのは、こうした状況だった。そして研究成果を経済専門誌に発表しようと考えた二人は、経済学界におけるファイナンスの地位の低さを思い知らされることになる。七〇年秋、論文はジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー誌とレビュー・オブ・エコノミクス・アンド・スタティスティックス誌からあっさり拒絶される。どちらの雑誌も、レフェリーに審査を求めようともしなかった。一通り目を通した編集者が、経済学の論文とはいえないから評価に値しないと即断したのである。狭い技術的な問題を扱ったにすぎないと切り捨てられた。
  • 二人はファイナンス専門誌に論文を送ってもよかったはずだが、じつは当時のファイナンス学の分野でも、彼らの研究は異色だった。経済学者がファイナンス学を軽視したのは、科学的な分析の水準が低かったからである。当時のファイナンス学は主に言葉で説明するといった体のもので、現実の世界のデータを収集しても、それを解析してモデル化するのではなく、経験則で分類する手法が大半だった。そんなわけだから、ブラックとショールズがファイナンス誌への投稿を考えなかったのも当然だろう。経済学から生まれたファイナンスの世界で起きつつある革命の一端を、自分たちが担うのだ―二人はそういう意気込みだったから、まず経済学者を屈服させなければならなかった。ここで助け船を出したのが、マートン・ミラーとユージン・ファーマである。ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー誌と交渉し、考え直すよう説得してくれた。
  • なぜミラーとファーマはそんなことをしたのだろう。確かにショールズは門下生である。だが見ず知らずのブラックのために一肌脱いだのはどうしてか。一つには、ブラックはそれほど無名の存在ではなかったからである。 六七年一一月にブラックとトレイナーがシカゴに来てCRSPのセミナーで論文発表をしたとき、二人はブラックに会っていた。さらに六九年八月と七〇年三月にも会う機会があった。六九年には、ニューヨークのロチェスター大学でウェルズ・ファーゴの研究会が開かれ、七○年には、シカゴでバリューライン・インベストメント・サーベイ誌の編集長アーノルド・ベルンハルドが主宰する討論会があったからだ。討論会は「ポートフォリオのアクティブ運用対パッシブ運用」というテーマで、シカゴに呼ばれたブラックはパッシブ側の意見を述べた。このときの主張をまとめたのが "Implications of the Random Walk Hypothesis for Portfolio Management" (ランダム・ウォーク仮説がポートフォリオ管理に及ぼす影響) で、トレイナーが編集長を務めるフィナンシャル・アナリスツ・ジャーナル誌に掲載されたブラックの論文第一号となった。象牙の塔の後ろ盾がなくともブラックは次第に知られた存在となり、シカゴ大学にも何かと関わるようになっていたのである。
  • 事実ジェームズ・ローリーによれば、教授任用委員会でもブラックの名前は急上昇中だったという。そしてついに委員会は決断を下す。ローリーは71-72年度にファイナンスを担当するフォード財団客員教授としてブラックを招くことを提案。ブラックは七一年五月一三日にシカゴに来て面接を受け、その足で長いこと延び延びになっていたハネムーンのためにミミと一緒にインディアナへ飛んだ。五月一九日、学部長がブラックに内定を伝える。そして八月には、ブラック=ショールズの論文が若干の修正を条件に受け付けられた。翌九月、ブラックは家族と一緒にシカゴに引っ越す。自分はよそ者だと思い込んでいたブラックだが、シカゴ大学には強力な支持者がたくさんいたのだった。
  • もっとも、シカゴのブラック支持派はべつに親切でそうしたわけではない。この一派が中心になってシカゴ商品取引所(CBOT)にオプション取引市場を創設する動きがあり、ブラックの研究に目を付ける立派な理由があったのである。CBOTは六九年七月にオプション市場の影響調査をする諮問委員会を発足させているが、その委員長は誰あろう、ジェームズ・ローリーだった。それだけではない。諮問委員会はコンサルティング会社のロバート・ネイサン・アソシエイツに調査を依頼しており、同社は調査報告の作成にローリーとミラーを雇っていたのである。報告書は上下二巻にも及び、"Public Policy Aspects of a Futures-Type Market in Options on Securities" (株式オプションのフューチャー型マーケットに関する公共政策の検討)というタイトルで六九年一一月に提出されている。七一年三月三〇日に証券取引委員会(SEC)に提出された最終報告書の核となったのは、この二巻の報告書だった。
  • 六八年にブラックが研究に着手したときは学術界の異端だったオプション価格問題は、いつの間にか時流に乗っていた。そして、シカゴ大学の経済学者たちはこの機を逃すまいとする。当時はまだ世間にほとんど知られていない代物だったが、彼らだけは、オプションが大化けするとわかっていた。他の大学や研究機関がブラックにようやく関心を抱き始めた頃、シカゴ大学がいちはやくブラック獲得に乗り出したのには、こうした背景があったのである。ブラックがシカゴ大学の教授に就任してほどなく、慎重に検討を終えたSECが新しいオプション取引所の創設を認める。 七一年一〇月一四日のことだった。取引所開設までに準備すべきことはたくさんあったが、障害はもはや何もない。七三年四月二六日、シカゴ・オプション取引所(CBOE)はついにオープン。直後にブラック=ショールズ公式が発表される。ほとんど一夜にして、脇役は主役になっていた。

 

  • ブラックがシカゴ大学に行くことを決めたのは、大学を取り巻く知的雰囲気に惹かれたからである。そして、この期待は裏切られなかった。マートン・ミラーとジェームズ・ローリーによる庇護の下、大学院で教授の地位を確保したブラックは、学内のあちこちで繰り広げられる経済学の議論に首を突っ込む。 ブラックの研究室はローゼンウォルドの三階にあり、両隣はマイロン・ショールズユージン・ファーマだった。ここにいれば、誰にも邪魔されずにもう一つの自分だけの知的世界に浸ることもできる。シカゴ大学では、社会規範に従わないからと制裁を受けることもなく自由な異端者でいられた。ブラックにはそれが至極心地よかった。
  • しかし、うまい話ばかりではない。教える義務は苦痛だった。学生と一対一で研究することにかけては、ブラックほどよい先生はいない。だがそれも、ブラック自身が研究したいと思うようなテーマに限っての話である。学生の側は、ただ単位を取ろうとしてもだめで、問題解決に興味を持たないと厄介なことになる。自分の解決案は先生の代案 (しかも、ブラック以外には誰も思いつかないような奇抜な代案である)よりどこが優れているのか、きちんと弁護できるよう準備していかなければならない。ブラックにとって、学問の世界に生きるとは、新しい発想をすることだった。この思いを共にする人にしか用はない。ブラック先生と議論を戦わせるのは非常に面白いが、論文審査に加わってもらうのはやめた方がいい。あの先生は簡単にはサインしてくれないぞ―そういう噂が飛び交っていたらしい。
  • そんなブラックだから、すでに解決済みの問題を教室で講義するのはひたすら退屈だった。当然ながら、ひどく不出来である。「学生が私の講義につけた評価は最低だった」と本人も認めている。「講義は時間の無駄だと考えていた私にとっても、学生にとっても。すでに本に書かれている内容なら、なおさらだ。そんなわけで、いつも休講にする理由を探していた。あるとき、これまでの試験の見直しをやらせたことがある。これはうまくいった。そこで、学生にやらせることを増やすようにした。最後には、こんなシステムにした。
  • 学期のはじめに、質問のリストと読むべき本や論文のリストを渡す。授業ではそのなかから三つか四つの質問を取り上げて議論し、学生も私も一人ひとり意見を述べる。このやり方は好評だった。私の評価は最低から最高に跳ね上がった。私の下手くそな講義より、学ぶところが多かったのは確かだと思う」。学生はブラックの「五〇の質問」講座をよく覚えている。毎年出される質問は同じだが、答えはいつも違う。こうしてブラックは大嫌いな教育を、大好きな研究と知的な対話にみごとに変身させた。
  • この生活に影を落とすたった一つの暗雲といえば、妻のミミがシカゴを嫌っていたことである。高級住宅街ケニルワースに手のかかる幼い子供二人と取り残され、ボストンの実家に助けてもらうわけにもいかない。一説によると、ミミはボストンの新聞を読み、時計をボストン時間に合わせていたそうだ。フォード財団で教授職を得ることを奨めたのは彼女だが、そんなに長くなるとは予想していなかったし、夫が研究生活にこれほどのめり込むとも思っていなかった。ミミにとってはとんだ誤算だが、家族をほったらかしにせずにあれほどの研究をやり遂げられるものではない。 結婚したとき、夫はコンサルタントで友人もみな同業者だった。ところが教授になってみれば、まわりにいるのもむさくるしい学者ばかり。ミミにしてみれば、少しも望んでいた生活ではなかった。学者の先生たちを呼んでパーティーを開いてみても、事態は一向に好転しない。研究者が研究に没頭するのは当たり前だと誰もが考えており、ケニルワースの瀟洒な邸宅でミミは後悔の日々を送るしかなかった。
  • 実際にはこの結婚は、シカゴかボストンか、教授かビジネスマンか、といった問題では済まされないほど危うくなっていた。アーサー・D・リトル(ADL) にいた頃はまだ平和だったが、その頃でさえミミは、夫が消極的で野心に欠けるのが不満だった。昇給を交渉するよう夫を急き立て、うまくいかないと独立を奨めた。オフィスを手配し秘書を雇ったのもミミである。彼女に言わせると、夫はおそろしく非現実的で出世にも無頓着だから、自分がやらなければどうしようもないという。「フィッシャーときたら、オールが一本しかない救命ボートで漂流しているみたい。全然機転が利かないし、常識も知らないお馬鹿さんなの。それに孤独な人。ホームレスといい勝負よ」。ブラックの父は息子があてもなく人生をふわふわと漂っていると批判したが、その点にミミはまったく同感だった。
  • 事態を一層悪化させたのは、ブラックにはいわゆる野心や出世欲はなかったけれども、学問の場で自分の価値を証明したいという強い願望は持っていたことである。しかもこの方面で成功しても、妻も父も少しも評価しようとしない。ブラックは誰が何と思おうとかまわないといったふうを気取り、ときには本気でそう思うこともあったが、実際には父や妻がどう感じるかをひどく気にしていた。そして、二人とも自分の研究にとんと価値を認めていないことを知って大いに傷つくのだった。ミミは「真夜中に数式をとつぜん殴り書きする変人」だと夫を一言の下に片づける。父親からは「いつになったらまともな職に就くつもりだ」と聞かれる。するとブラックはますます意固地になり、目にものを見せてくれようと決心を新たにする。だがそうなれば、いよいよ家族を放擲して研究に打ち込むことになった。

 

  • 幸いなことに、人的資本としてのブラックはかなりよく「分散化」されていたから、経済学への関心をファイナンスへスイッチすることは造作もなかった。ちなみに、批判派はことあるごとに「ブラックはファイナンスへ帰れ」と言ったものである。同時に彼は、学界好みの抽象論から企業好みの実践論へとスイッチを切り替える。大学を離れてもファイナンスの問題を論じることはできるし、むしろ外の方が自由に意見を戦わせられることを、ブラックは過去の経験からよく知っていた。両親と妻が切望していた成り行きである。
  • 別の言い方をすれば、人的資本としての自分が最高のリターンを上げられる場ではなくなったから、ブラックは大学を去ることにしたのだった。ブラックは自分という人的資本を有効活用し、ファイナンス理論を使ってマクロ経済学に革命を起こそうとした。だが幸運の女神は彼にほほえまず、代わって勝利を収めたのはルーカスだった。市場の判断には従い、コストを払うしかない。ウェルズ・ファーゴでステージコーチ・ファンドのごたごたがあったとき、ブラックは実業界にはまだ自分の理論を受け入れる態勢が整っていないと感じた。実業界を去って研究生活に入ったのはこのためである。しかし、いまや準備が整っているのは実業界の方らしい。そこで、ブラックは再びスイッチを切り替えることにした。

 

  • ゴールドマンの方は、なぜブラックを登用したのだろう。彼のひどく独創的なマクロ経済学に興味を感じたのでないことは確かだ。ファイナンスに関する抜きん出た業績のためでもない――それらはすでに誰でも利用できるようになっていた。ゴールドマンが買ったのは、毎日現場で遭遇する実務的な問題に深い知識と洞察で対応できるブラックの能力だった。ゴールドマンが契約したブラックは、シカゴ大学やMITの終身教授ではない。また、ジャック・トレイナーからファイナンスのイロハを学び、ウェルズ・ファーゴコンサルティングのスキルを磨いた若きブラックでもない。彼らがほしがったブラックは、「フィッシャー・ブラック、オプションを語る」や「フィッシャー・ブラック、マーケットを語る」を書いたブラックだった。 この二種類のニュースレターは、オプション・サービスの加入者向けに、七六ー七七年にブラックが配布したものである。
  • また、目先のことを言えば、もちろんブラックの貨幣理論ではなく、年金基金の投資方針、企業会計理論、資本予算の策定手法が、ゴールドマンにとってはすこぶる魅力的だった。三つの問題はどれも、ブラックがファイナンス畑で働き始めた頃、トレイナーとの会話からヒントを得て研究してきたものである。 学術界では軽くみられがちだが、ゴールドマンでは重要なテーマであり、ブラックのアドバイスはクライアントの問題解決に貢献すると期待された。

 

  • 次に、会計理論に移ろう。この方面についても、やはりジャック・トレイナーが、一九七二年の論文 "The Trouble with Earnings" (企業収益の問題点)のなかで警鐘を鳴らしている。今度の標的になったのは、公認会計士だった。会計士は「投資業界最古の職業」と言われ、科学や工学の類に最も抵抗感が強く、合理的な判断に対して「会計の慣習」を振り回す種族である。トレイナーが問題視したのは、会計士が出す答えのなかで最も重要な「会計上の利益」なるものが「経済上の利益」とほとんど無関係なことだった。 証券アナリスト企業価値を算出するときに必要なのが後者であることは、言うまでもない。
  • トレイナーのみるところ、会計士にとってアナリストの存在は脅威だった。 証券アナリストが繰り出す近代的かつ科学的な企業価値の判定基準は、明らかに会計士の基準より優れているからである。投資家が知りたいのは企業価値であって、会計士が固執する価値の推移ではない。アナリストは合理的だが会計士は形式的であり、共存の余地はなかった。会計士は持っている情報を開示し、慣習的・形式的な会計処理をやめ、あとはアナリストに任せればよいというのがトレイナーの持論だった。
  • ブラックは生涯を通じて企業会計の問題に取り組むことになるが、その出発点はトレイナーにあった。ただしブラックの方は、もう少し会計士を肯定的にみている。新しいファイナンス理論の登場で、会計慣行が大幅な変革を余儀なくされることはまちがいない。ただ、会計士にも重要な役割があることは確かであって、彼らの任務はアナリストのそれとははっきり違うというのがブラックの考えだった。単に情報を開示するだけでは解決にはならない。 アナリストに情報を教えれば、競争相手にも知られてしまうからだ。この意味で、「会計士の仕事は隠すことであって、暴露することではない」。さらに会計士は企業内部の重要情報にも触れるので、アナリストよりも企業価値を正確に評価できる。したがって、アナリストでは会計士の代わりにはならず、むしろ会計士の関心を企業価値の評価に向けさせる方がいいとブラックは考えた。
  • 証券アナリストが何より欲しいのは実態に即した利益を表す数字だということを、ブラックはよくわかっていた。それがわかれば、株価収益率(PER)を掛けるだけで企業価値を計算できるからである。すでに数字を手元に持っている会計士が、アナリストのニーズに配慮し、企業価値の計算に適した形で収益報告をすることは十分可能なはずだ(先例を重んじる会計士たちは、そうした数字が決算期ごとの変化を表すとは頑として言わないかもしれないが)。しかし、実際には時価など実態に即した数値はランダム・ウォークに近く、ちょうど効率的な市場における資産価値のようなふるまいをする。しかも薄価など他の会計データに比べ、市場価値との相関がはるかに高い。会計士はすでに暗黙のうちに利益の形で企業価値を報告しているわけだから、もっとわかりやすい形で報告してくれても悪くないだろう。七六年七月に発表したニュースレターのなかで、ブラックは、会計士は「価値の変化ではなく価値の計測値として」収益データを明示すべきだと述べている。

 

  • 新しいタイプのトレーダーたちは、自分たちのやり方には分析的なサポートが非常に重要であることに気づいていた。リスク・エクスポージャーに対してどの程度のヘッジが必要かを計算するためには、何らかのモデルなり計算式なりが不可欠である。しかしトレーダーたちはまた、抽象的なファイナンス理論が実務で使えるモデルからどれほどかけ離れているかも身に染みて知っていた。
  • 「フィッシャー・ブラックのような人間がいれば助かるのだが」という発想は、おそらくゴールドマンでなければ生まれなかっただろう。この会社では「知性は競争優位である」と認める文化が根づいている。まずは頭脳。次に、それを使ってどうやって儲けるかを考える。もちろん、ブラックの頭脳には文句のつけようがなかった。さて、それを、どう生かすか。
  • フィッシャー・ブラックと雇用契約を結んだとき、二つのことを期待していたとルービンは明かす。一つは、ブラックなら、ファイナンス理論を証券取引のみならず社内のあらゆるビジネスに応用する役割を果たせるだろうということ。ビジネスというビジネスを片っ端から取り上げてなぜ利益が上がるのかを理論的に突き詰め、それを一般化あるいは拡張して、有益なアドバイスをしてくれるに違いない。 ゴールドマンを世界最大の投資銀行に育てたいというルービンの野望にとって、ブラックは打ってつけの人材だった。即効効果が期待できないことはルービンも承知していたが、彼には実りを待つ余裕があった。「われわれはブラックから学ぶ。向こうもわれわれから学ぶだろう」―そう言って、ルービンは気乗り薄の同僚を説得した。
  • ゴールドマンは、クォンツを強化したいと思いながらも、何をどうしたらいいのかよくわかっていなかった。そこでまずブラックを登用し、徐々に陣容を強化していく作戦をとる。 ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント(GSAM)でブラックと数年間を共にしたアラン・シャッハは次のように話す。「フィッシャー・ブラックを看板に掲げてクォンツを募集し、ふるいにかけた。フィッシャーが難色を示した応募者は絶対に採用しなかったし、いいと言えば無条件でとった。彼はそれほど信用されていた」。一旦採用すると、ブラックは新人のためにいつでも時間をとった。まるで「自分をアシスタントとして使ってかまわないよ」と言っているようだったという。「応募者の多くは学究的な研究をするのだと思っていたらしいが、ブラックと話すと、自分たちが行動しなければならないことを理解した」
  • ゴールドマン初のクォンツとして、ブラックは会社のためにさまざまなモデルを開発した。損を出してしまい事後分析のためにブラックに面会する羽目に陥ったトレーダーは、勝負に出る前に会っておけばよかったと後悔の臍をかむのが常だった。また投資案件の交渉担当者は、事前にブラックの歯に衣着せぬ意見を聞いておくことがどれほど大切かをしみじみ感じたものである。 証券取引・投資銀行いずれの業務も、計量ファイナンス理論に基づくブラック流の分析という裏付けを得て投資規律が確立され、それがゴールドマンの文化に根づいていった。まさにルービンが狙った通りの展開である。こんなふうにうまくいったのは、ブラックがいろいろな意味でゴールドマンが掲げる理想の社員像そのものだったからである。 チームワーク、協調、誠実、顧客重視、理性……。それはまた、ブラックがゴールドマンを気に入った理由でもあった。「ゴールドマンはほかの会社とは違う。有能で意欲的な人材であっても、会社のために尽くす気のない人間は雇わない。ゴールドマンはチームワークを発揮させる方法を知り抜いており、成功報酬はチームに公平に配分される。この業界では職業倫理がつねに問われるが、ゴールドマンには顧客の利益を最優先する文化が根づいている。だから、私の考えのように従来の常識から外れた奇抜な意見も、受け容れる余地がある。それに、社員同士がお互いの仕事をレビューする方式が根づいているから、人事管理が公正で透明性が高い」
  • しかしまた別の意味では、ブラックはまったくゴールドマンの社員らしからぬ人間だった。管理職としてはでたらめだし、営業マンとしては最悪である。仲間内の和気藹々とした雰囲気に入っていけず、顧客との付き合いも下手くそだった。放っておけば殻に閉じこもってしまう。ロバート・ルービンのように大局観を備え各人の持ち味を見抜く眼力の持ち主が、彼を殻からひっぱり出し、会社の経営に巻き込まなければならなかった。「深く考える人間が社内にいて、何かに気づき警告してくれるのはとてもいいことだった」とルービンは回想する。
  • そしてマーク・ウィンケルマンは、みごとに一言でブラックを表現したー「ブラックはパズルの名手ですよ。いつも細心の注意を払ってパズルのピースを探している」。ピースをみつけると、ブラックはそれをみんなに見せる。だが、会社にそれを活用するよう促す努力はことさらしない。 使いたい人がいれば使えばいいし、使いたくなければそれはそれでよい。その点にはブラックはおおむね無関心だった。彼は自分の発見を売り込もうとはしないーと言うよりも、できなかった。アイデアを皿に載せて出す。あとはアイデア自身に語らせる。それがブラックのやり方だった。いろいろな意見があって一つだけ正しくあとは全部まちがっているとき、市場なら効率的に選別するとトレイナーは常々言っていたが、たぶんブラックも同意見だったのだろう。いずれにせよ、新しいピースを発見してしまったら、ブラックはオフィスへ戻って別のピース探しに専念する。彼のオフィスには長距離ランナーのポスターが貼ってあり、そこには次のように書かれていた。「勝つのは速いランナーではない。走り続けるランナーである」
  • ゴールドマンは自分の活用方法をあまりわかっていない、とブラックはよく言っていた。彼によれば、もっと適当に任せてくれる方がいいという。たいていの人はこれこれをやればボーナスをはずむなどと言われると俄然やる気を出すものだが、ブラックは報酬で動くタイプではなかった。ジョン・コージンは懐かしく思い出す。 「報酬の交渉をするのに彼ほどやりやすい相手はいなかったよ。要するに全然気にしないんだ」。 マーク・ウィンケルマンも賛成する。「フィッシャーは金銭以外のモノサシを持っていて、終生それを変えることはなかった」

 

  • ブラックの癌が再発したのがわかると、MITの同僚だったジョン・コックス、ゴールドマン・サックスのジョン・コーザイン、当時はヘッジファンドのロングタームキャピタルマネジメント (LTCM)にいたロバート・マートンがそれぞれ慌ただしく動き出す。そして死のわずか一ヶ月前ではあったが、ブラックの偉業を称え記念する企画が相次いで実行に移された。
  • 第一に、MITは金融経済学の客員教授を招くフィッシャー・ブラック基金を用意した。 基金には「この地位を希望する者は、フィッシャー・ブラックの名に恥じない資質を示さなければならない。すなわち独創性、知的好奇心、学術研究への献身、学問に対する誠実さ、現状に挑む勇気が求められる」と定められている。 第二に、アメリカ・ファイナンス学会がフィッシャー・ブラック賞を設けた。第三に、ブラックの学術論文集が出版された。論文集は、研究仲間による次の言葉とともにブラックの元へ届けられている。「この論文集は優れた着想が発展する過程をなぞると同時に、テーマを超えまた時を超えた連続性を探ろうと試みたものです。 さらに、二冊の著書によって提示された著者独自の思考もここから読みとることができるでしょう」
  • ブラックは非常に驚き、そして深く感謝した。「私は基礎研究と応用研究をミックスするのが好きでした。最高に純粋な学問は応用問題を解くところから生まれると考えるからです。 そして最高の応用研究は、ごく単純な知的好奇心に端を発することが多いのです。(中略)この思いがけない贈り物は何物にも代え難い。ほかのどんな賞よりもこれを頂けたことに感謝します。 これを機に、真実を追い求める私の情熱は一段と燃えさかることでしょう」と書き送っている。 ここで言っている「ほかの賞」とは、言うまでもなくノーベル賞のことである。ブラックはオプションに関する研究が受賞候補に挙がっていることを知っていたが、死後には与えられないこともよく承知していた。

 

NFTs: The metaverse economy

  • Prototype next-generation metaverses such as Decentraland and Somnium Space already show the beginnings of true society, with individuals settling land, interacting socially, exchanging goods and asserting ownership rights. Any society (physical or virtual) needs a functional economy. And in the metaverse, the economy depends on authentication of digital properties, such as one’s metaverse home, car, farm, books, clothing and furniture. To flourish, it also needs the ability to travel and trade freely between realms that might have different laws and rules.
    • DecentralandやSomnium Spaceのような次世代メタベースのプロトタイプでは、個人が土地を定め、社会的に交流し、商品を交換し、所有権を主張して、真の社会の始まりがすでに示されている。どんな社会(物理的または仮想的)でも、機能的な経済が必要である。そしてメタバースでは、経済は、メタバースの家、車、農場、本、衣服、家具などのデジタル資産の認証に依存します。また、メタバースが発展するためには、異なる法律やルールを持つ領域間を自由に行き来し、取引する能力も必要です。
  • Non-fungible tokens – records of digital ownership stored in the blockchain – will be the linchpin of the metaverse economy, by enabling authentication of possessions, property and even identity. Since each NFT is secured by a cryptographic key that cannot be deleted, copied or destroyed, it enables the robust, decentralised verification – of one’s virtual identity and digital possessions – necessary for metaverse society to succeed and interact with other metaverse societies.  
  • Beyond the hype of multi-million dollar digital art sales, the significance of NFTs may lie in enabling the beginnings of something resembling genuine human society, based on free markets (for goods, services and ideas), independent ownership and social contracts, to flourish in the metaverse.  

    “NFTs really started initially with the digital art side. But it's going to be a lot more powerful,” says Eric Anziani, COO of Crypto.com. “It will be the tool that represents any digital type of assets in virtual worlds going forward. So the applications are tremendous.”

    • 数百万ドル規模のデジタルアート販売という誇大広告を越えて、NFTの意義は、(商品、サービス、アイデアの)自由市場、独立した所有権、社会契約に基づく真の人間社会に似たものをメタバースで開花させることにあるのではないでしょうか。 

      「NFTは当初、デジタルアートの側面から始まりました。しかし、NFTはもっと強力なものになる」とCrypto.comのCOOであるEric Anziani氏は言う。「NFTは、今後、仮想世界におけるあらゆるデジタルタイプの資産を表現するツールになるでしょう。だから、応用はとてつもなく大きい。"

  • A key economic concept of Decentraland and other metaverses is adjacency of land. All metaverse parcels are contiguous to others at a fixed location – within a finite geography. This creates scarcity due to the limited amount of property supply. And scarcity enables property value to rise and fall, based on universal laws of supply and demand.  
    • Decentralandや他のメタバースにおける重要な経済的コンセプトは、土地の隣接性です。すべてのメタバース区画は、有限の地理の中で、一定の位置で他の区画と隣接しています。このことは、財産の供給量に限りがあるため、希少性を生み出します。そして、その希少性によって、需要と供給の普遍的な法則に基づき、不動産の価値が上下するのです。 
  • Already, the implications of this real estate revolution are being felt in emphatic fashion. In June, digital property investment fund Republic Realm bought a parcel of land in Decentraland for more than US$900,000. Republic Realm, owned by investment fund Republic, is turning the plot into a virtual mall called Metajuku, modelled after the Harajuku district in Tokyo.  
    • すでに、この不動産革命の影響は、強調された形で感じられる。6月、デジタル不動産投資ファンドのリパブリック・レルムは、ディセントランドにある土地の一区画を90万米ドル超で購入しました。投資ファンドRepublicが所有するRepublic Realmは、この土地を東京の原宿をモデルにした「Metajuku」というバーチャルモールに生まれ変わらせようとしている。 
  • Fashion is one of the earliest sectors to grasp the economic potential of NFTs and the metaverse. Luxury house Burberry created NFT accessories for the Blankos Block Party video game, while Louis Vuitton launched its own NFT-studded video game, LOUIS THE GAME.  
  • Meanwhile, RTFKT – bespoke shoemaker to the metaverse – designs limited edition NFT sneakers that can be worn in virtual worlds and has already posted millions of dollars in sales.  
    • 一方、メタバースに特注の靴メーカーであるRTFKTは、仮想世界で履ける限定版NFTスニーカーをデザインし、すでに数百万ドルの売上を計上しています。 
  • “Even five months ago, we were at 100 million crypto users globally. Now, we're more than 200 million users,” Anziani says. “We have a strong belief that the next wave to get to a billion or two billion is going to happen through metaverses – the integration of virtual worlds with blockchain tech – in particular NFTs.”
    • 「5ヶ月前でも、世界の暗号利用者は1億人でした。現在では、2億人以上のユーザーがいます」とAnzianiは言います。「10億、20億に達する次の波は、メタバース、つまり仮想世界とブロックチェーン技術、特にNFTの統合によって起きると、私たちは強く信じています」。

 

The New World Of Work: 5 Trends To Watch For 2022

  • Education as a benefit: Gone are the days of one-off professional development courses. Employers that are leading in the future of work are now offering employees at all levels the opportunity to earn degrees. Case in point: Amazon, Macy’s, and Starbucks. Historically, employers have spent 80% of their professional development dollars on their highest wage earners. We will see that in 2022 and beyond, more employers will shift to adopt an “education as a benefit” strategy to attract, retain and grow their workforce at all levels. Edtech platforms like Guild Education are making it easier for all employers to offer this upskilling opportunity to their incumbent workforces. The reality is that many advertised unfilled positions are developmental opportunities for internal candidates. Companies who understand this are poised to fair better in today’s competitive market for talent. 
    • 福利厚生としての教育:単発の専門能力開発コースの時代は終わりました。未来の仕事をリードする雇用主は、あらゆるレベルの社員に学位を取得する機会を提供しています。その一例です。アマゾン、メイシーズ、スターバックス。これまで、雇用主は専門能力開発費の80%を最も賃金の高い従業員に費やしてきました。2022年以降、より多くの雇用主が、あらゆるレベルの労働力を引きつけ、維持し、成長させるために、「福利厚生としての教育」戦略を採用する方向にシフトしていくことが予想されます。Guild EducationのようなEdtechプラットフォームは、すべての雇用主が現職の労働力に対してこのアップスキルの機会を提供することを容易にしています。現実には、広告に掲載されている多くの未就職のポジションは、社内の候補者向けの能力開発の機会です。このことを理解している企業は、今日の人材獲得競争において、より有利な立場に立つことができるのです。

  •  

    This confluence of trends means that companies will need to find creative ways to outsource talent. Similar to software as a service, talent as a service is a model that allows employers to hire flexible talent when they need it, for as long as they need it. New players in this space like SV Academy and Colaberry are placing and training for highly-skilled roles in emerging career fields.

    • このようなトレンドが重なると、企業は人材をアウトソーシングするための創造的な方法を見つける必要があります。サービスとしてのソフトウェアと同様に、サービスとしての人材は、雇用主が必要なときに必要な期間だけ柔軟な人材を雇用することを可能にするモデルである。SVアカデミーやColaberryのようなこの分野の新しいプレイヤーは、新興のキャリア分野で高度なスキルを持つ職務の配置とトレーニングを行っています。
  • This approach is attractive for employers because it de-risks hiring and staffing. For workers, this model allows greater autonomy to change their careers and trajectories. Talent as a Service and contract workers at various levels will likely become an essential part of any company’s long-term talent strategy, and align with a broader shift to more entrepreneurial ways of working.
    • このアプローチは、雇用主にとっては雇用と人材配置のリスクを回避できる点で魅力的です。また、労働者にとっては、キャリアと軌道を変えるためのより大きな自律性を可能にするモデルである。タレント・アズ・ア・サービスや様々なレベルの契約社員は、企業の長期的な人材戦略に欠かせない存在となり、より起業家的な働き方への幅広いシフトと調和していくことでしょう。
  • Rising employee power: With rising instability and labor shortages, many organizations are unable to operate on a business model predicated on low wages.
    • 上昇する従業員のパワー:不安定要素の増加と労働力不足により、多くの企業は低賃金を前提としたビジネスモデルで運営することができなくなっています。

 

  • The rise of “The Metaverse” in reskilling and apprenticeships: In my discussions with employers in the life sciences and medical tech sectors, entry-level manufacturing job training is cited as a major requirement to success. Unfortunately, this kind of training often involves prohibitive upfront investments to create job-specific training centers. Augmented reality (AR) and virtual reality (VR) have the potential to bridge this gap and make job-specific manufacturing training far less expensive and far more accessible.  

    We will also likely see a coalescence around apprenticeships—transforming this from an “alternative pathway” to a pathway that should increasingly be made available to all Americans. We’re already seeing the capital markets beginning to bet on this space with the near-billion dollar valuation of the metaverse and larger venture rounds closing. When we look back on this decade in 2030, we will see that apprenticeships became a major part of our education-to-employment system—let's hope that novel technology and experiential education democratized these immersive opportunities making them less time and physical-space dependent.

    • リスキルや実習における「メタバース」の台頭:ライフサイエンスや医療技術分野の雇用者と話をすると、製造業の初級職業訓練が成功のための主要な条件として挙げられます。しかし残念ながら、このような訓練には、職種別の訓練センターを設立するための高額な先行投資が必要な場合が多いのです。拡張現実(AR)とバーチャルリアリティVR)は、このギャップを埋め、職種別の製造トレーニングをはるかに安価で、はるかに利用しやすいものにする可能性を秘めています。 

      また、徒弟制度が「代替手段」から、すべてのアメリカ人がますます利用できるようになるべき手段へと変化し、徒弟制度をめぐる合従連衡も見られるでしょう。資本市場はすでに、メタバースの評価額が10億ドル近くに達し、大規模なベンチャー・ラウンドが終了するなど、この分野に賭けるようになっています。2030年にこの10年間を振り返ってみると、実習が教育から雇用へのシステムの主要な部分になっていることがわかるでしょう。新しいテクノロジーと体験型教育が、こうした没入型の機会を民主化し、時間や物理的空間に依存しないものにしたことを期待しましょう。

 

  • The pandemic and its lasting effects have brought into sharp relief the true costs of engaging in work. As businesses struggle to find talent in this highly competitive labor market, we are reminded that “people choose to work with people, not companies.” Attracting (and keeping) strong talent requires us to be people-centered and more closely examine how we treat one another.  
    • パンデミックとその持続的な影響により、仕事に従事するための真のコストが浮き彫りになっています。この競争の激しい労働市場で企業が人材確保に苦戦する中、「人は企業ではなく人と働くことを選ぶ」ことを思い知らされます。優秀な人材を獲得し、維持するためには、人を中心に考え、互いの接し方をより綿密に検討することが必要です。 

 

 

www.forbes.com

Machine Learning Trends You Need to Know

  • Piecing together multiple ML and MLOps solutions will be too complex for most teams. Consequently, we believe ML is a platform play and companies will use at most two platforms to manage the entire pipeline: one will manage the exploration phase, while another platform will manage deployment and operations. ML training and inference workloads have different characteristics, and different end-users. The exploration phase is performed by data scientists and includes data preprocessing, experiment tracking, dataset versioning, and model management. The deployment phase is handled by production engineers and is focused on deployment efficiency, metrics and monitoring, and incident response. 
    • 複数のMLとMLOpsのソリューションを組み合わせることは、ほとんどのチームにとって複雑すぎるでしょう。そのため、MLはプラットフォームであり、企業は最大でも2つのプラットフォームを使用してパイプライン全体を管理することになると考えています。MLのトレーニングと推論のワークロードは異なる特性を持ち、エンドユーザーも異なります。探索フェーズはデータサイエンティストが行い、データの前処理、実験の追跡、データセットのバージョン管理、モデルの管理などが含まれます。デプロイメントフェーズは、プロダクションエンジニアが担当し、デプロイの効率化、メトリクスとモニタリング、インシデント対応に焦点を当てます。 
  • Training large neural models, such as foundation models, requires an enormous amount of data and computational resources, so they are dominated by a few research groups. But there are a few hopeful trends worth highlighting. First, pre-trained and foundation models shift the focus from comprehensive model training towards less computationally intensive approaches (fine tuning and transfer learning). Second, algorithmic and systems improvements continue to help lower costs and carbon footprints:
    • AIはより安価に、より効率的に 基礎モデルのような大規模なニューラルモデルを鍛えるには、膨大なデータと計算資源が必要なため、少数の研究グループに支配されている。しかし、注目すべきいくつかの希望的なトレンドがあります。第一に、事前学習済みモデルや基礎モデルは、包括的なモデル学習から、より計算量の少ないアプローチ(ファインチューニングや転移学習)へと焦点を移していることである。第二に、アルゴリズムとシステムの改善は、コストとカーボンフットプリントの低減に引き続き貢献しています。 
  • Since 2018, the cost to train an image classification system has decreased by 63.6%, while training times have improved by 94.4%. The trend of lower training cost but faster training time appears across other MLPerf task categories such as recommendation, object detection and language processing, and favors the more widespread commercial adoption of AI technologies.
    • 2018年以降、画像分類システムの学習コストは63.6%低下し、学習時間は94.4%向上している。学習コストは下がるが学習時間は早くなるという傾向は、推薦、物体検出、言語処理など他のMLPerfタスクカテゴリにも現れ、より広くAI技術を商業的に採用することに有利になっている

The pipeline from research to industry will remain robust

  • There will continue to be a steady stream of research tools that eventually translate into solutions for real-world, production grade applications.  Here are just a few examples of active research areas that are leading to real-world tools and applications:  
    • Graph Neural Networks – Companies like Pinterest, Uber, and Google have reported significant improvements in recommendations, fraud detection, and forecasting models after incorporating GNNs.
    • Transformers – Transformers are starting to make an impact in domains other than NLP (e.g., in computer vision).
    • Multi-modal models  – SageMaker Healthcare example; Google MUM; OpenAI DALL-E; LAION-5B; and DeepMind’s Gato.
    • Reinforcement Learning – While RL remains challenging for most teams, we are starting to see a variety of use cases in financial services, retail and ecommerce, security, semiconductors, and beyond.
    • Robotics – The price of robotic arms decreased by 46.2% in the past five years.
  • 今後も、実世界のプロダクショングレードのアプリケーションのためのソリューションにつながる研究ツールは、着実に生まれ続けるでしょう。 ここでは、実世界のツールやアプリケーションにつながる活発な研究分野の例をいくつか紹介します。

    • グラフ・ニューラル・ネットワーク - PinterestUberGoogleなどの企業は、GNNを取り入れた後、推薦、詐欺検出、予測モデルが大幅に改善されたと報告しています。

    • トランスフォーマー - トランスフォーマーは、NLP以外のドメイン(例:コンピュータビジョン)でもインパクトを与え始めている。

    • マルチモーダルモデル - SageMaker Healthcareの例、Google MUM、OpenAI DALL-E、LAION-5B、DeepMindのGatoなど。

    • 強化学習 - RLはほとんどのチームにとって依然として難しいが、金融サービス、小売とeコマース、セキュリティ、半導体、およびそれ以外の分野でのさまざまな使用例が見られるようになってきている。

    • ロボティクス - ロボットアームの価格は過去5年間で46.2%減少した。

 

gradientflow.com

シンギュラリティは近い

  • 人間の脳は、さまざまな点でじつにすばらしいものだが、いかんともしがたい限界を抱えている。人は、脳の超並列処理 (一〇〇兆ものニューロン間結合が同時に作動する)を用いて、微妙なパターンをすばやく認識する。だが、人間の思考速度はひじょうに遅い。 基本的なニューロン処理は、現在の電子回路よりも、数百万倍も遅い。このため、人間の知識ベースが指数関数的に成長していく一方で、新しい情報を処理するための生理学的な帯域幅はひじょうに限られたままなのだ。
  • われわれの現在備えているバージョン1000の生物的身体も、同じようにもろく、無数の故障モードに陥ってしまう。身体を維持するのに、厄介な儀式が必要なのは言うまでもない。人間の知能は、ときには高い創造力や表現力を発揮できることもあるが、その思考するところのほとんどは、たんなる模倣にすぎなかったり、たいして重要でなかったり、制約があったりする。
  • シンギュラリティに到達すれば、われわれの生物としての身体と脳が抱える限界を超えることが可能になり、運命を超えた力を手にすることになる。死という宿命も思うままにでき、好きなだけ長く生きることができるだろう(永遠に生きるというのとは、微妙に意味合いが違う)。人間の思考の仕組みを完璧に理解し、思考の及ぶ範囲を大幅に拡大することもできる。二一世紀末までには、人間の知能のうちの非生物的な部分は、テクノロジーの支援を受けない知能よりも、数兆倍の数兆倍も強力になるのだ。

 

  • 一九五〇年代、伝説的な情報理論研究者のジョン・フォン・ノイマンがこう言ったとされている。「たえず加速度的な進歩をとげているテクノロジーは・・・・・・人類の歴史において、ある非常に重大な特異点に到達しつつあるように思われる。この点を超えると、今日ある人間の営為は存続することができなくなるだろう」。ノイマンはここで、加速度と特異点という二つの重要な概念に触れている。加速度の意味するところは、人類の進歩は指数関数的なものであり(定数を掛けることで繰り返し拡大する)、線形的(定数を足すことにより繰り返し拡大する) なものではない、ということだ。

  • 人間の脳は、非常に効率の悪い、電気化学的なデジタル制御のアナログコンピューティング処理を用いている。 脳の計算の大半は、ニューロン間結合(シナプス結合)によって行なわれ、毎秒約二〇〇回の計算速度しかない (ひとつの結合ごとに)。 これは、現在の電子回路の速度より一○○万倍以上も遅い。しかし、人間の脳は、三次元の超並列組織を構成していることから、驚異的な力をもっている。 三次元回路を人工的に構成するためのさまざまなテクノロジーはすでに準備段階に入っている。

  • 人の個性や技能は、脳の中だけに存在するのではない、と言っておく必要はある もちろん、脳が主な居場所ではあるのだが。 神経系は体中にはりめぐらされ、内分泌(ホルモン)系も同じく影響をもっている。 それでも、複雑さの大半は、脳の中にある。 脳には、神経系の大半が存在しているのだ。 内分泌系から出される情報のビット数はかなり低い。それというのも、決定要因となるのは、ホルモンの全体的な濃度であって、ホルモンの分子一個一個の正確な位置ではないからだ。

心を広げる

  • 二〇三〇年ごろのナノボットのもっとも重要な利用法は、生物的知能と非生物的知能の融合によってわれわれの心を、文字どおり、拡大することだろう。最初の段階は、ひじょうに遅い人間の一〇〇兆のニューロン間結合を、ナノボットのコミュニケーションを経由する高速のヴァーチャル結合によって増強することだ。これにより、 非生物的知能の強力な方式と直接つながることができ、同時に、人間のパターン認識力、記憶力、そして総合的な思考力は格段に向上するだろう。その技術は、ある脳から別の脳への無線通信も可能にする。

  • 二一世紀半ばを待たずして、 非生物的基盤を経由した思考が優位を占めるだろうという指摘は無視できない。第三章でくわしく述べたように、生体の人間の思考はひとり一秒あたり10^16CPSとなり(ニューロモーフィックによる脳部位のモデルに基づく)、人類全体ではおよそ毎秒10^26となる。これらの数字は、バイオエンジニアリングによってヒト遺伝子を調整したとしてもさほど変化しないだろう。これに対して、非生物的知能の処理能力は指数関数的に(指数自体を増しながら) 向上しており、二〇四〇年代半ばまでには生物的知能をはるかにしのぐと予想される。

  • そのときには、生物的な脳の中にナノボットを入れるというパラダイム自体、過去のものになっているだろう。 非生物的知能は数十億倍以上も強力であるため、優位を占めるようになる。れわれはバージョン3.0の人体をもち、思いのままに新しい形へ変わったりもとに戻ったりできるようになる。二〇二〇年までに、完全没入型の視聴覚ヴァーチャル環境の中で体をすばやく変化させられるようになるだろう。 そして二〇二〇年代にはあらゆる感覚と結びついた完全没入型のVR環境の中で変身できるようになる。そして二〇四〇年代には現実世界でそれが可能になる。

  • 非生物的知能はやはり人間と見なされるべきだろう。というのも、それは完全に「人間と機械の文明」から生じたものであり、少なくともその一部は、人間知能のリバースエンジニアリングに基づいているからだ。この重要な哲学的問題については次章で扱うことにする。この二つの知能の合体は、単に生物的な思考媒体と非生物的なそれとの合体というだけではない。さらに重要なのは、それによって人間の心が事実上、ひとつの思考法、思考体系として想像できる限りどのようにでも拡大できるようになるという点である。

  • 今日のわれわれの脳の設計は、相当に固定したものとなっている。通常、学習していく過程で、ニューロン開結合や神経伝達物質の集中のパターンが増えることはあるが、現在のところ人間の脳の総合的能力はかなり抑圧されている。 思考の中で非生物的な部分が優位を占め始める二〇三〇年代の終わりまでには、われわれは脳の神経領域の基本的構造を超越できるようになるだろう。

  • 多数の知的ナノボットを脳に移植することにより、記憶力ははるかに増し、あらゆる感覚、パターン認識、認知能力もはなはだしく向上するだろう。 ナノボットは互いにコミュニケーションをとるため、新しいニューロン間結合の形成や、既存の結合の破壊神経発火を抑えることによって)も可能であり、新たに生物と非生物の混成ネットワークを作り、新たな非生物的知能と緊密に連結するだけでなく、完全に非生物的なネットワークを追加できる。

  • 脳の拡張を目的とするナノボットの使用は、今日始まったばかりの神経移植手術に目覚ましい進歩をもたらすだろう。 ナノボットは外科手術なしに血流をとおって導入され、必要とあればすべて退去させられるので、処置後にも簡単にもとに戻すことができる。 それらはプログラム可能であり、ある一瞬ではVRを生みだし、その次には脳機能を多様に拡張することもできる。また、そのプログラム設定やソフトウェアの変更も可能だ。おそらくもっとも大きな違いは、外科的な移植では、神経移植片は一か所か多くて数か所にしか入れられないが、ナノボットは脳内に多数分布させて、数十億のポジションに置けることだ。

 

  • 合衆国陸軍の調査実験部門の長でASAGとの連絡役を務めるジョン・A・パーメントラ博士は、国防総省のトランスフォーメーション(変革) プロセスの方向性について 「高感度で、ネットワークを中心とし、迅速な決定が可能であり、あらゆる軍編成に勝り、いかなる戦闘空間においても圧倒的な力を発揮する」軍隊への動きである、と述べている。また、目下開発中で、二〇二〇年代に完成予定のフューチャー・コンバットシステム(FCS)については、「より小さく、より軽く、より速く、より破壊的で、より賢い」と評している。
  • 未来の部隊展開とテクノロジーに関して劇的な変化が準備されている。 細部に変更はありそうだが、陸軍は、約二五〇〇名の兵士と無人ロボットシステム、そしてFCS装備からなる旅団戦闘チーム (BCT) の配置を想定している。ひとつのBCTはおよそ三三〇〇の「プラットフォーム」(コンピュータ基盤)からなり、 それぞれ独自の知的コンピューティング能力を備える。BCTには戦闘域についての共通操作画面 (COP) があり、その情報は適切に変換されている。一方、各兵士はさまざまな形で情報を受け取る。その手段としては網膜へのディスプレイ(その他、さまざまな要警戒表示)や、将来的には神経への直接接続もありえるだろう。
  • 陸軍の目標はBCT単体で九六時間、全師団で一二〇時間の部隊展開を可能にすることだ。各兵士の装備の重量は、現在はおよそ四、五〇キログラムあるが、新素材や新装置に替えることで一五キロほどに減り、一方で戦闘力は劇的に向上するだろう。 装備のいくらかは「ロボットラバ」(四足歩行ロボット)が分担するようになる。
  • 軍服の新素材は、ケブラーという新しい合成樹脂とシリカ・ナノ微粒子を分散させたポリエチレングリコールを用いて開発されている。その素材は通常はしなやかだが、圧力を受けるとただちに突きとおせないほど密集し、防護服となる。また、MITにある軍用ナノテクノロジー研究施設では、「エクソマッスル」(外筋肉)というナノテクノロジーベースの素材を開発中で、戦闘員が重い装備を扱うときに筋力を大幅に補強することを目指している。
  • 米陸軍の主力戦車エイブラムスは戦闘員の安全に関して驚異的な記録をもっている。 二〇年にわたって戦闘で使用されてきたが、死傷者はわずか三名にすぎない。これは装甲素材が進化するとともに、ミサイルなどの武器を迎撃するよう設計されたインテリジェントシステムが発達した結果だ。しかし、戦車は七〇トン以上あり、FCSが目指すより小さなシステムの一部となるには、かなりの減量が求められる。軽量でありながらひじょうに強固な新しいナノ素材 (プラスチックがナノチューブと結合し、鋼鉄の五〇倍の強さとなるものなど)は、ミサイル攻撃を迎え撃つコンピュータ知能の発達とともに、地上戦闘システムの重量をおおいに減らすだろうと期待されている。
  • 最近のアフガン戦争やイラク戦争で使われた武装プレデターに始まる無人航空機(UAV) への流れは、今後急速に加速していくだろう。陸軍が研究しているUAVの中には、鳥ほどの小型サイズのものも含まれ、偵察と戦闘、双方の任務を速く正確にこなすことができる。さらに小型の、マルハナバチぐらいのものも想定されている。実際のマルハナバチの航行能力は、左右の視覚システム間の複雑な相互作用によるものだが、最近そのリバースエンジニアリングがなされた。やがてはこれらの小型飛行マシンに適用されるだろう。
  • FCSの中心は自己組織型で超分散型の通信網になっており、個々の兵士と機器から情報を集め、適切な情報画面とファイルをそれを必要とする兵士と機器に返送できる。敵の攻撃を受けやすい通信中枢は存在しない。情報はネットワークの傷ついた部分をすみやかに迂回する。そのためになによりなすべきことは、完全な通信状態を維持しながら敵軍による回線の盗聴や操作を防止するテクノロジーの開発である。 同様の情報セキュリティ技術は、電気的手段とソフトウェアウィルスを使用したサイバー戦争において、敵の通信への侵入・妨害・攪乱・破壊に適用されるだろう。
  • FCSは単体のプログラムではない。遠隔誘導、自律型、小型化、ロボットシステム、強固な結合、自己組織化、分散化、そして安全な通信を目指す総合的な軍事プログラムである。
  • アメリカ統合軍司令部のアルファ計画 (この計画が陸軍全体における急速な考え方の変化を導いている)は、二〇二五年の戦闘を「ロボット化がかなり進んだ」ものとして想定しており、「任務内容によって、何段階かの自律性調整可能な自律、管理下の自律、完全な自律―を発揮する」自律型戦闘ロボット (TAC)が組み込まれていると予測する。 TACは、ナノボットやマイクロボットから大型のUAVやその他の航空機や車両まで、幅広いサイズで利用でき、また複雑な地形でも走行できるようにオートメーション化されている。NASAが軍用に開発した画期的デザインは、ヘビの形をしている。
  • 自己組織化する小型ロボットの群れという二〇二〇年代のコンセプトを体現するプログラムのひとつは、米海軍研究局の「自律型インテリジェント・ネットワークシステム」 (AINS) で、それが目指す無人戦闘部隊は自律型無人ロボットからなり、水中、地上、空中を問わず活躍できる。そのロボット群を統括するのは人間の司令官で、プロジェクトの長、アレン・モシュフェグが「難攻不落の空のインターネット」と呼ぶネットワークによって分散的に命令を下し、コントロールする。
  • 群知能の設計については広範囲にわたって研究が進められている。群知能とは、個々のエージェント(機能主体)は比較的単純なルールに従って動いていても、数多く集まれば複雑な行動を起こすことができるというものだ。たとえば、昆虫の群れはコロニーの構造設計のような複雑な問題でも、しばしば知的に工夫して解決する。 もちろん一匹一匹にそのような能力はないのだが。
  • DARPAは二〇〇三年、一二〇体の軍事用ロボット(アイロボット社製、同社の創設者のひとりは、ロボット工学の先駆者、ロドニー・ブルックスである)からなる大部隊が群知能ソフトウェアによって、組織化された昆虫の行動をまねることができたと発表した。 ロボット工学システムがより小型化し、ますます発展するにしたがって、自己組織化する群知能の原理はいっそう重要な役割を担うだろう。
  • 軍部には開発期間を短縮する必要があるとの認識もある。歴史的に、軍事プロジェクトの調査研究から開発までにかかる期間は、典型的なもので一〇年を超えている。しかし一〇年ごとに、テクノロジーパラダイムシフトが倍増する状況では、多くの武器システムは戦場で使われる前にすでに時代遅れのものとなってしまっているため、開発期間はスピードアップする必要がある。その方策のひとつは、新しい武器の開発およびテストにシミュレーション(模擬実験)を用いることだ。これまでは、プロトタイプを作って実際に使用して(しばしば爆破させて) テストする手法をとっていたが、シミュレーションに替えれば、武器システムの設計から実現、そしてテストまでを、はるかに短期間で行えるようになる。
  • もうひとつの重要な傾向は、戦闘から兵士を遠ざけて、その生存率を高めることだ。 システムが遠隔操作できるようになれば、これは実現する。 車両から操縦士が離れることで、より危険な任務を果たすことができ、設計上、はるかに操作しやすくなる。また、人命を守るためのさまざまな設備が不要になるため、全体がひじょうに小さくなる。 将軍たちはさらに遠くへ移動している。 アフガンの戦闘では、陸軍大将のトミー・フランクスはカタールの観測室から指揮をとっていた。

スマートダスト

  • DARPAは鳥やマルハナバチよりさらに小さなデバイスを開発中だ。それは「スマートダスト」(賢い)と呼ばれる、虫ピンの頭ほどの複雑なセンサーシステムである。開発が充分に進めば、これらのデバイス数百万個を敵の勢力圏にばらまいて、敵の動きを詳細に監視させ、最終的には攻撃を支援できるようになるだろう(たとえば、すぐあとで述べるナノウェポンを放つなど)。 スマートダスト・システムの動力はナノエンジニアリングされた燃料電池で供給することになるが、同時にそれ自身の動きや風、熱流がもたらす力学的エネルギーを動力に転化することもできる。

  • 重要な敵や、隠された武器の位置の発見は、スマートダストに任せればいい。その本質は目に見えない大量のスパイで、敵のテリトリーを数センチ単位で隅々までくまなく監視し、あらゆる人間(体温、磁気画像、果てはDNAテスト、その他の手段によって)、あらゆる武器を識別し、敵側の目標物を破壊することさえできるのだ。

ナノウェポン

  • スマートダストのさらに先は、ナノテクノロジーベースの兵器となり、それより大きいサイズの兵器は時代遅れになる。そのように広く分散した勢力に対抗するには、敵もナノテクノロジーを採用する他なくなるだろう。加えて、ナノデバイスに自己複製力をもたせれば、その能力をさらに拡大できるが、破滅的な危険も招き入れることになる。

  • ナノテクノロジーはすでに幅広く軍事に適用されている。具体的には、ナノテクコーティングによる装甲板の強化、化学兵器生物兵器を迅速に発見し特定するチップ上に構築された"ナノ実験室〟一定地域の汚染を除去するナノスケールの触媒、状況に応じて自力で再構築できるインテリジェント素材、負傷者からの感染を防ぐために生物破壊性のナノ粒子が組み込まれたユニフォーム、プラスチックと結合してきわめて強力な素材を作りだすナノチューブ、自己修復する素材、などである。たとえば、イリノイ大学では自己修復するプラスチックが開発されているが、それはプラスチック基盤に液状モノマーの微小球と触媒を組み入れたもので、ひびが入ると微小球が砕けて自動的にその割れ目をふさぐようになっている。

スマートウェポン

  • ミサイルはすでに、標的への的中を願って発射される低能なものから、パターン認識を利用してみずから無数の戦術的決定を行なっていく巡航ミサイルへと移っている。しかし銃弾は、依然として本質的には旧型ミサイルを小さくしたものであり、それに知能をもたせることがもうひとつの軍事目標となっている。
    軍用兵器が小型化し、数を増やすにつれて、人間がデバイスの一つひとつをコントロールすることは、ほぼ不可能になるだろう。それゆえ、自律制御のレベルを上げることがまた別の重要な目標となる。 機械の知能が生身の人間の知能に追いついたあかつきには、より多くのシステムが完全に自律的なものになるだろう。

 

 

 

The Financial Modelers’ Manifesto

  • Physicists study the world by repeating the same experiments over and over again to discover forces and their almost magical mathematical laws. Galileo dropped balls off the leaning tower, giant teams in Geneva collide protons on protons, over and over again. If a law is proposed and its predictions contradict experiments, it’s back to the drawing board. The method works. The laws of atomic physics are accurate to more than ten decimal places. It’s a different story with finance and economics, which are concerned with the mental world of monetary value.
  • 物理学者は、力とそのほとんど魔法のような数学的法則を発見するために、何度も何度も同じ実験を繰り返すことによって世界を研究している。ガリレオは斜塔からボールを落とし、ジュネーブの巨大チームは陽子と陽子を何度も何度もぶつけ合う。ある法則が提案され、その予測が実験と矛盾する場合は、また振り出しに戻る。この方法は有効だ。原子物理学の法則は小数点以下10桁まで正確である。しかし、金融や経済となると話は別だ。金融や経済は、金銭的価値という精神世界に関わる。
  • Financial theory has tried hard to emulate the style and elegance of physics in order to discover its own laws. But markets are made of people, who are influenced by events, by their ephemeral feelings about events and by their expectations of other people’s feelings. The truth is that there are no fundamental laws in finance. And even if there were, there is no way to run repeatable experiments to verify them. 
  • 金融理論は、独自の法則を発見するために、物理学のスタイルとエレガンスを模倣しようと懸命になっている。しかし、市場は人間でできており、人間は出来事や出来事に対する刹那的な感情、他人の感情に対する期待に影響されるものである。実は、金融に基本的な法則はないのである。仮にあったとしても、それを検証するための再現性のある実験ができるわけでもない。
  • From the sublime to the elegantly ridiculous: all uncertainty is reduced to a single parameter that, when entered into the model by a trader, produces a CDO value. This over-reliance on probability and statistics is a severe limitation. Statistics is shallow description, quite unlike the deeper cause and effect of physics, and can’t easily capture the complex dynamics of default. Models are at bottom tools for approximate thinking; they serve to transform your intuition about the future into a price for a security today. 
  • すべての不確実性は、トレーダーがモデルに入力すると、CDOの値を生成する単一のパラメータに還元されるのである。このように確率と統計に過度に依存することは、深刻な限界である。統計学は浅い記述であり、物理学の深い因果関係とは全く異なり、デフォルトの複雑なダイナミクスを容易に捉えることはできない。モデルはあくまで近似的な思考のための道具であり、将来についての直感を今日の証券の価格に変換する役割を果たします。
  • Our experience in the financial arena has taught us to be very humble in applying mathematics to markets, and to be extremely wary of ambitious theories, which are in the end trying to model human behavior. We like simplicity, but we like to remember that it is our models that are simple, not the world Unfortunately, the teachers of finance haven’t learned these lessons.
  • 私たちは金融分野での経験から、数学を市場に適用する際には非常に謙虚であること、そして、結局は人間の行動をモデル化しようとする野心的な理論には極めて慎重であることを学びました。しかし、残念ながら、金融の先生方はこの教訓を学んでいません。
  • Finance is not one of the natural sciences, and its invisible worm is its dark secret love of mathematical elegance and too much exactitude. We do need models and mathematics – you cannot think about finance and economics without them – but one must never forget that models are not the world.
  • 金融は自然科学の一つではないし、その見えない虫は、数学的な優雅さと厳密すぎるものを愛するという暗い秘密を持っている。モデルや数学は必要です。それなくして金融や経済を考えることはできません。しかし、忘れてはならないのは、モデルが世界ではないということです。
  • The most important question about any financial model is how wrong it is likely to be, and how useful it is despite its assumptions. Many academics imagine that one beautiful day we will find the ‘right’ model. But there is no right model, because the world changes in response to the ones we use. Progress in financial modeling is fleeting and temporary. Markets change and newer models become necessary.
  • 金融モデルについて最も重要なことは、それがどの程度間違っている可能性があるか、また、その仮定にもかかわらず、どの程度有用であるかということです。多くの学者は、ある美しい日に「正しい」モデルを見つけることができると想像している。しかし、正しいモデルなど存在しない。なぜなら、我々が使用するモデルに対応して世界は変化するからだ。金融モデルにおける進歩はつかの間のものであり、一時的なものです。市場は変化し、より新しいモデルが必要になる。
  • To confuse the model with the world is to embrace a future disaster driven by the belief that humans obey mathematical rules.
  • モデルと世界を混同することは、人間が数学的ルールに従うという信念によって引き起こされる未来の災いを受け入れることである。

 

https://www.soa.org/globalassets/assets/Library/newsletters/risk-management-newsletter/2009/september/jrm-2009-iss17-derman.pdf

ウォール街の物理学者

  • 物理学と数学の世界で彼が扱うのは、複雑な幾何学図形の分類に関するきわめて抽象的な問題だ。とくに数字や計算をやっているわけではない(それくらい高度に抽象化された領域になってくると、学校で習うような数学とは似ても似つかないものになってくるのだ)。
  • どこからどう見ても、彼はヘッジファンドのマネジャーになって荒稼ぎするタイプには見えない。
  • ところがシモンズはルネサンス・テクノロジーズというヘッジファンド運用会社を立ち上げ、 桁外れの成功を手に入れている。
  • 一九八八年、彼は数学者のジェイムズ・アックスと組んで、ルネサンス・テクノロジーズの主力ファンド「メダリオン」を立ち上げた。このメダリオンという名は、アックスとシモンズがそれぞれ六〇年代と七〇年代に受賞した名誉ある数学の賞に由来している。それからの一〇年で、 メダリオンは二四七八・六%という驚異の収益率を叩きだした。世界中のどんなヘッジファンドにもそんな数字はだせない。 メダリオンについで二位につけていたジョージ・ソロスのクォンタム・ファンドですら、この期間の総リターンはわずか一七一〇・一%だ。
  • その後も勢いは止まらなかった。創業から現在までのあいだ、 メダリオンは年平均で四○%近いリターンを維持している。しかも業界水準の二倍の報酬を払ったあとで、その数字なのだ(ちなみにウォーレン・バフェット率いるバークシャー・ハサウェイでも、一九六七年から二〇一〇年までの年平均リターンは二〇%程度)。
  • いまやシモンズは、世界でも有数の大金持ちになった。 フォーブズ誌の世界長者番付によると、二〇一一年時点で彼の資産は一〇六億ドル相当だと言われている。 シモンズの預金口座には、ちょっとした投資会社並みの資金が入っているはずだ。
  • シモンズ率いるルネサンス・テクノロジーズの従業員はおよそ二〇〇人で、そのほとんどがニューヨーク州ロングアイランドにある要塞のような本社に勤務している。 従業員の三分の一が、博士号の所持者だ。 しかも経済や金融ではなく、シモンズと同じく物理学や数学、統計などの分野を学んできた人間ばかり。 マサチューセッツ工科大学の数学科教授イサドール・シンガーによると、ルネサンスには世界中のどんな大学よりも優秀な物理学者や数学者が集まっているという。それこそが、ルネサンスの強さの秘密なのだ。
  • ルネサンスは、ウォール街の匂いがする人間をけっして雇わない。ファイナンス専攻の人間は門前払いだし、投資会社やヘッジファンドに勤めた経験のある人間もお断りだ。金融の専門家をあえて避けるというのが、シモンズの戦略だった。
  • この戦略は大成功した。 シモンズのような人間は本来存在してはならない、と金融の専門家たちは言う。理論的に言えば、シモンズのやったことは不可能なはずだった。
  • 彼は予測不可能なものを予測し、それによって莫大な富を築いたのだ。

 

  • 株の収益率と値動きは、数学的にいえば「対数」という関係にある。 仮に収益率が正規分布になるとしたら、株価の分布は対数正規分布という分布になる。 対数正規分布のグラフは変わった形をしていて、片方だけに長い尾を引いた山のようになる(図2を参照)。 オズボーンが株価のデータで発見したのは、ちょうどこの形だった。つまり株価の分布は正規分布ではなく、対数正規分布になっていたのだ。ということは、ランダムウォークの動きをするのは株価ではなく、収益率のほうだと考えられる。

 

  • オズボーンのアイデアは、やがて別の研究者たちの手でさらに改善され、金融の世界に革命を起こすことになる。でもオズボーンの直接的な影響については、過大評価するわけにはいかない。当時のウォール街の反響は、それほど大きなものではなかった。時代はまだ過渡期にあった。 オズボーンの論文は学者たちには広く読まれていたし、理論派の投資家のなかにも読んでくれる人はいた。しかしウォール街はまだ、オズボーンの説を全面的に受け入れる準備ができていなかったのだ。
  • 彼の理論が受け入れられなかった理由のひとつは、個々の株価を予測することは不可能だということがはっきりと示されていたからだった。 バシュリエとちがって、オズボーンはオプションについて論じなかった。 オプションであれば、統計的性質を使って適正な価格を導きだすことができる。 でも 「株式市場のブラウン運動」やその後のオズボーンの著作が示していたのは、株式市場で利益をだすことなんか不可能だという、希望のない結論だった。株価は予測不能であり、平均的な利益はゼロになる。投資は結局、勝ち目のない戦いだ。
  • やがて人びとは、オズボーンの研究からもっと明るい結論を導きだすことになる。株価の性質がランダムなら、バシュリエが言ったように、オプションなどのデリバティブの価格を統計的に予測できるからだ。でもオズボーンは、その方向に進もうとはしなかった(一九七〇年代後半になり、ほかの人たちがその種の研究に着手しはじめてから、ようやく手をだした程度だ)。オズボーンがめざしていたのは、別の方向だった。彼はその後のキャリアの大半を、株価のランダムでない性質をみつけだすことに費やした。株価の動きが「救いようのない混乱」であるという大胆な主張を押し通した末に、彼は徹底した綿密さで、株価の秩序と規則性を追い求めたのだった。

M. F. M. Osborne - Author Profile - zbMATH Open

 

  • ある日、ブノワはシューレムの研究室に居座って、ひどくばかげた博士論文のアイデアを語っていた。シューレムは完全に頭にきた。ゴミ箱に手を伸ばすと、くしゃくしゃに捨てられていた紙を引っぱりだした。 ゴミみたいな研究がやりたいなら、いくらでも紹介してやる。研究室のゴミ箱には、誰かのゴミみたいな論文がぎっしりとつまっているのだ。
  • 「これでも読んでいろ」とシューレムは吐き捨てるように言った。「おまえにはこういうのがお似合いだ」
  • シューレムは甥を反省させるつもりだったにちがいない。 ところが彼の行動は、完全に裏目にでた。 ブノワはその文章――ジョージ・キングズリー・ジップというハーバードの言語学者の著書が紹介されていた――を受けとると、帰り道でそれを熟読した。 ジップは誰もが認める変人で、その研究もほとんど真面目に受けとられていなかった。彼はそのキャリアを通じて、物理・社会・言語に共通する普遍的法則を追究していた。「ジップの法則」と呼ばれるものだ。
  • ジップの法則によると、何らかのカテゴリーにもとづくリストを洗いだし(たとえばフランスの都市や、世界中の図書館など)、それを大きい順(人口の多い順や、蔵書数の多い順)に並べると、かならずリストの順位とその要素のサイズがきれいにリンクする。二番目に大きいものは一番目に大きいものの二分の一のサイズになり、三番目に大きいものは一番目に大きいものの三分の一のサイズになる、といった具合だ。 ブノワが読んだ書評には、ジップの法則を文章中の単語に当てはめた例が紹介されていた。ジップはさまざまな文章にでてくる単語の数をすべて数えて、それを多くでてくる順に並べた。その結果、一番多くでてくる単語が二番目の単語より二倍多く使われていた。三番目の単語にくらべると三倍、四番目の単語にくらべると四倍といった具合だ。どんな文章を見てもそうだった。
  • シューレムはある意味で正しかった。ジップの法則は、まさにブノワが気に入るようなテーマだったからだ。でもジップの法則をゴミだと考えたのは、まちがいだった。 少なくとも、全部がゴミではなかった。たしかにジップは変人だったし、ジップの法則は推測と神秘思考を組みあわせたようなものだった。でもそこには、貴重なヒントが隠されていた。
  • ジップはある単語の出現順と、文章中に何種類の単語が出現するかをもとにして、その単語の出現回数を計算する公式を編みだしていた。 ブノワ・マンデルブロはそれを見ると、すぐにもっと改良できそうだと気がついた。どうやら、この公式には意外におもしろい数学的性質がひそんでいるようだった。彼は叔父をはじめとする最高峰の数学者たちの反対を押しきって、ジップの法則についての博士論文を書きあげた。 誰かに指導教官になってもらうこともなく、官僚的な大学組織のなかを独力で突き進んで論文を受理してもらった。きわめて異例のことだった。
  • ブノワ・マンデルプロのキャリアは、異例のことだらけだった。数学者のコミュニティを毛嫌いしていたし、研究テーマは奇抜なものばかりだった。たとえば世の中の大多数の数学者は、「なめらかな」 図形を扱うのが好きだった。粘土でささっとつくれるような形だ。
  • でもマンデルプロは、ジグザグで不完全な図形に注目した。でこぼこした山や、割れたガラスのような形だ。こういう形をもとに、彼は有名な「フラクタル」という概念を考えだした。フラクタルの研究を進めるうちに、彼は自然界にたくさんのランダムさが存在することに気づいた。コイン投げよりもずっと激しいランダムさだ。この発見は、やがて金融を含めたあらゆる数理科学に大きな影響を与えていくことになる。

 

  • マンデルブロは大学の世界から離れていたけれど、IBMでの所得分布の研究は、アカデミックな経済学者からも注目された。 ときどき大学に招かれて講演をするようにもなった。一九六一年、いつものように講演にでかけたマンデルブロは、そこで人生を変える出会いを経験することになる。
  • 講演はハーバード大学経済学部でおこなわれることになっていた。開始時間のすこし前に、マンデルブロハーバード大学教授のヘンドリック・ハウタッカーという経済学者と知りあった。ハウタッカーの研究室に入った瞬間、マンデルブロは黒板に描かれたグラフに目をとめた。マンデルプロが講演で使おうとしていたグラフと瓜二つだった。パレートの法則を示したグラフだ。 ハウタッカーが所得分布に興味をもっているのだと思ったマンデルブロは、同じ分野を研究しているなんて偶然ですね、といったようなことを口にした。 ハウタッカーはぽかんとした顔でマンデルブロを見た。
  • いくつかの気まずいやりとりのあと、マンデルブロは何かがおかしいと気づいた。彼は黒板のところへ行き、グラフを指さした。 「所得分布のグラフですよね?」ハウタッカーは当惑した顔で、それは大学院生が描いていった図で、綿花の値動きについて話していたときのものだと言った。黒板に描かれていたのは、綿花取引の一日のリターンを表すグラフだった。
  • ハウタッカーはさらに、綿花のマーケットについてしばらく前から研究しているけれども、データが理論と一致しないのだと語った。そのころすでに、バシュリエの理論は経済学の世界で有名になり、市場がランダムウォークで動くという考え方も広く受け入れられていた。
  • ハウタッカーはバシュリエやオズボーンが言ったようなランダムウォークの性質を、実際のデータで検証してみようと思った。もしもランダムウォーク仮説が正しければ、一日や週や月単位で見たときの綿花の値動きは一定の小刻みな幅になり、いきなり大きく動くことはほとんどないはずだ。ところがハウタッカーの調べたデータは、別のことを示していた。あまりにも小さな値動きや、あまりにも大きな値動きが多すぎた。 しかもバシュリエの仮説が前提としていたような、平均的な変化というものがみつからなかった。新しいデータをとるたびに、平均値はがらりと変わってしまった。要するに綿花の値段は、酔っぱらった銃殺隊に似た動きをしていたのだ。
  • マンデルブロは目を輝かせた。もっと詳しいデータが見たいと言うと、ハウタッカーはすぐに快諾してくれた。それどころか、全部もっていってもかまわないと言ってくれた。どうせプロジェクトをあきらめようと思っていたところだったのだ。

 

  • 当時の人びとがシンプルな統計学を使いつづけたのは不自然なことではない。 マンデルブロと初期の仲間たちが立ち上げたフラクタルや自己相似の考え方は、ちょっと新しすぎたのだ。こういう場合の暗黙の前提として、研究者たちはなるべくシンプルな仮説からはじめようとする。そのシンプルな仮説を行けるところまで進めてみて、それからどこがまちがっているのかを振り返るのだ。このケースで言えば、まず株価が(ある程度) ランダムに動くという仮説がでてきた。次のステップは、できるだけシンプルな形でその考えを先に進めていくことだ。それがバシュリエのランダムウォーク仮説だった。それからオズポーンが登場し、この仮説が正しくないことを指摘した。 バシュリエのモデルが正しいとすると、株価がマイナスになってしまうからだ。 オズボーンはバシュリエのモデルをほんのす
    こしだけ修正し、株価ではなく収益率がランダムウォークになっているという仮説を打ち立てた。そしてこの説のほうが、バシュリエのモデルよりもうまくデータと一致することを実証した。
  • ここでマンデルブロが登場し、オズボーンの説にも欠点があることを指摘する。 値動きのデータを詳しく調べると、オズボーンが言うのとはちがったパターンが見えてくるからだ。といっても、別物というわけではない。価格の動きはたしかにランダムだったけれど、 そのランダムさがオズボーンの想定とはすこしちがっていたのだ。
  • オズボーンとマンデルブロのモデルは相容れないように見えるが、それが目立ってくるのは異常な状況のときだけだ。とくに大きなできごとが起こらないふつうの日であれば、二つのモデルはほとんど同じように機能する。
  • のちの経済学者たちがデリバティブの価格やポートフォリオのリスクを割りだそうとしたときも、この二つの選択肢に直面することになった。 わずかな例外を除けば正しく動くシンプルなモデルと、例外的な事態にも対処できる複雑なモデルだ。 人びとがシンプルなほうを選んだのは、理にかなった選択だった。 まずは扱いやすいほうを試してみて、どう動くかをたしかめるのだ。 前提をうまく立てて、効果的な形でものごとを単純化すれば、とても難解な問いをいとも簡単に解くことができる。 細かいところはまちがっているかもしれないけれど、十分に実用的な答えがでてくるはずだ。もちろん、前提が完璧でないことは最初からわかっている (市場は効率的に動くとはかぎらないし、株価はシンプルなランダムウォークにはならない)。 でもとにかく、足がかりは得られるわけだ。
  • ちなみに、マンデルブロの論文が学者たちから無視されたというのも、一面的すぎる考え方だ。たしかにほとんどの経済学者は、マンデルブロではなくオズボーンの論文をもとにして金融の研究を進めていった。 でも一部のコアな数学者や経済学者は、マンデルブロの説に本気でとりくんでいた。 非常に詳細なデータを使い、より高度な数学を駆使してマンデルブロの説を追究していった。 世界が激しくランダムだとしたらどうなるのかを理解するために、新たな数式がいくつも考案された。そうした研究の結果、 マンデルブロの基本的な考え方は正しかったことが確認された。正規分布や対数正規分布だけでは、市場の動きは理解できな
    いということだ。 株の収益率は実際に、ファットテールになっていた。
  • ただし、マンデルブロが完全に正しかったわけではない。彼は一九六三年の論文のなかで、レヴィ安定分布という特定の確率分布をもちだした。 正規分布の場合をのぞいて、レヴィ安定分布のばらつきはどこまでも広がっていく。つまりふつうの統計手法では、期待値を割りだすことができないということだ(これまでの統計手法が用済みになってしまうとクートナーが言ったのも、そういう意味だ)。ところが最近の研究によると、マンデルブロのこの主張はどうやらまちがっていたらしい。たしかに収益率はファットテール分布になるが、レヴィ安定分布にはならないのだ。 これがマンデルブロの論文から五〇年近く経った現在の一般的な見方になっている。
  • 仮にそうだとすると、通常の統計手法を使って市場を理解することは可能だということになる。正規分布や対数正規分布ほど単純ではないにしても、ふつうの統計で理解できないほど複雑ではないということだ。ただし、そう断言できるわけでもない。 マンデルブロの説が正しいかどうかを判断できるのは、例外的な状況においてだけだ。そしてもちろん、例外的な状況のデータというのはどこにでも落ちているわけではない。単純にデータの数が足りないのだ。そうした数少ないデータをどう解釈すべきかについては、いまも論争がつづいている。
  • こういう事情もあって、マンデルブロの功績を正しく評価することはなかなか難しい。

 

  • 空売りの悪いイメージにもかかわらず、ソープは取引に応じてくれる人間をうまくみつけることができた。とりあえずケリー基準を試してみる最初の条件は整ったわけだ。だがソープにとって、世間のイメージよりもずっと大きな問題は、どこまで行くかわからない損失の可能性をどうするかだった。
  • ソープは悩んだあげく、画期的なアイデアを思いついた。ワラントの価格は、株価の動きと結びついている。だからワラント空売りすると同時に、その元になっている株をいくらか買っておけば、ワラントが高騰したときの損失を抑えることができるはずだった。 計算結果によると、ワラントの価格が上がれば株の価格も上がるからだ。株を高く売ることができるなら、ワラントが値上がりしても怖くない。さらにワラントと株のバランスをうまくとれば、株価がどんなに動いても、いくらかの利益がかならず手に入ることもわかった。
  • これがのちに「デルタヘッジ」として有名になるやり方だ。さらにこのやり方から、さまざまな転換証券(オプションのように、債券や株式など別種の証券と交換できる証券のこと)を使ったリスク回避手法のバリエーションも生まれてきた。ソープはそうした戦略を使って、年平均二〇%もの利益をだしつづけることに成功した。それから四五年間もずっとだ。彼はいまでも投資をつづけていて、二〇〇八年には不況のなかでも一八%の利益を上げている。一九六七年には、カリフォルニア大学で同じような研究をしていた同僚と一緒に『株式市場をやっつけろ!』という本を出版した。
  • 『株式市場をやっつけろ!』は、あまりにも風変わりで、あまりにも当時の常識からかけ離れた本だった。だからウォール街の反応は鈍かった。 多くの投資家たちはこの本を読もうともしなかったし、読んだ人間のほとんどはその内容や重要性を理解できないままに終わった。でもジェイ・リーガンというブローカーだけは、すぐにソープの真価を見抜いた。
  • リーガンはソープに手紙を書き、共同で「ヘッジファンド」をつくろうともちかけた(ヘッジファンドという言葉自体は、ソープとリーガンが出会う二〇年も前から存在していた。ただし、その後ほとんどのヘッジファンドがソープのデルタヘッジの影響を大きく受けることになるので、ソープとリーガンがヘッジファンドの生みの親だと言っても過言ではない)。リーガンはソープが苦手な仕事をすべて引き受けると言ってくれた。宣伝や営業、ブローカーとのやりとり、取引の実務といったような実際的な仕事だ。ソープはただ市場を分析して、株式と転換証券の正しい割合を計算していればいい。 西海岸の家を離れる必要すらない。リーガンは東海岸ニュージャージーで事業をまわし、ソープはカリフォルニアのニューポートビーチで数学者や物理学者、コンピュータ技術者などを集めて投資戦略に集中する。どこまでも理想的な申し出だった。 ソープはすぐに承諾の返事をだした。
  • ソープとリーガンは共同でヘッジファンドを立ち上げた。当初はコンヴァーティブル・ヘッジ・アソシエイツという社名で、 一九七四年にプリンストン・ニューポート・パートナーズに改名している。成果がでるのは早かった。最初の一年間で、投資家たちに一三%のリターンを提供することができた。 運用報酬を引いたあとで、それだけの数字だ(ちなみに市場の平均リターンはわずか三・二二%だった)。
  • さらに、大物にも気に入ってもらえた。ソープたちがヘッジファンドを立ち上げてまもなく、カリフォルニア大学アーバイン校で学部長をつとめていたラルフ・ジェラルド――つまりソープの上司にあたる人物だが、まとまった財産を相続した。それまでつきあいのあったファンドマネジャーが別の仕事に移るというので、このお金を投資するための新たなファンドを探していた。ソープがファンドをやっていると聞いて興味をもったけれど、自分の資産をまかせる前に、信頼していた元ファンドマネジャーに頼んでソープの能力を見積もってもらうことにした。ソープもその話に同意し、妻のヴィヴィアンをつれて海沿いのパシフィック・コースト・ハイウェイをドライブしながら、元ファンドマネジャーの住むラグナビーチへ向かった。気楽な夜になる予定だった。カードゲームでもしながら軽く話をして、ソープの人柄を知ってもらえばいい。
  • ソープ夫妻を迎えてくれた元ファンドマネジャーは、資産運用の世界を離れて新たなプロジェクトを立ち上げようとしているところだった。古い繊維会社を買いとり、経営を立て直すつもりだ。他人のお金を運用して一〇〇万ドルほどの資産を手に入れた彼は、今度は自分のお金で大きなことをやりとげたいのだと話してくれた。そういうビジネスの話にふれたあと、彼らは確率論の議論に熱中していった。ブリッジをプレイしながら、元ファンドマネジャーは「非推移的サイコロ」という仕掛けサイコロの話をもちだした。 それぞれちがう目をもつサイコロが三つセットになっているものだ。サイコローと二を同時に投げるとサイコロ
    二のほうが強く、サイコロニと三を同時に投げるとサイコロ三のほうが強い。ところがサイコローと三を同時に投げると、今度はサイコローのほうが強いというちょっと不思議な性質になっている。ゲームや確率論が大好きなソープは、以前から非推移的サイコロにとても興味があった。二人はこの話で意気投合し、一気に距離が縮まった。
  • ニューポートビーチへ戻る車内で、ソープはヴィヴィアンにこう言った。あの男は、いつか世界一の大富豪になるよ。この予言は、二〇〇八年に現実になった。 ソープが出会った元ファンドマネジャーは、あのウォーレン・バフェットだったのだ。バフェットのお墨付きを得て、ジェラルドはソープのファンドに資産をまかせることにした。
  • ソープとリーガンが立ち上げたプリンストン・ニューポート・パートナーズは、まもなくウォール街でもっともすぐれたヘッジファンドに数えられるようになった。でも、輝かしい成功はとつぜん終わりを迎えることになる。
  • プリンストン・ニューポート・パートナーズの崩壊劇は、一九八七年の一二月一七日にはじまった。この日、FBIやATF、財務省の人間たちがプリンストンの事務所にやってきた。総勢およそ五〇人の捜査官が事務所に上がり込み、大物ジャン
    ク債ディーラーのマイケル・ミルケンに関する書類や音声テープを探しまわった。 プリンストン・ニューポートの元従業員ウィリアム・ヘイルが起訴陪審で証言台に立ち、ミルケンとリーガンが株式の名義貸しによる脱税をおこなっていると証言したからだった。
  • デルタヘッジの弱点のひとつは、証券の保有期間によって課税の方法が分かれていることだ。だからリスク回避のために売りと買いをおこなうとき、税金の面から言えばその利益と損失が相殺されなくなってしまう。そこでリーガンがやろうとしていたのは、長期的な株の所有者であることを隠して、株を一時的にミルケンの会社名義に避難させておくことだった。表面上はミルケンが株を買ったことにしておいて、裏では一定期間後に同じ値段で買い戻す約束をとり交わしておく。そうやって余分な課税を防ごうとしたわけだ。それほど悪質な行為にも思えないけれど、とにかく名義貸しは法律で禁止されている。事件を担当していたル
    ドルフ・ジュリアーニはここに目をつけ、プリンストン・ニューポートを叩くことで、ミルケンを追い込むためのさらなる証拠を手に入れようとしたのだ。
  • この件について、ソープはまったく関与していなかった。騒ぎが起こるまで、東海岸で違法なことをやっているなんて思いもしなかった。それにリーガンのほうでも、捜査が入るころにはすでに弁護士を雇い、 ソープとの接触を拒否していた。そんなわけで、ソープが罪に問われることはなかった。会社は翌年までなんとかもちこたえたけれど、一連のゴタゴタを受けて評判はすっかり下がってしまった。プリンストン・ニューポート・パートナーズは、一九八九年にその幕を閉じた。創業から二〇年間の平均リターンは、一九% (報酬控除後で一五%以上)という圧倒的な数字だった。
  • プリンストン・ニューポートを閉鎖したあと、ソープはしばらく休みをとってから、エドワード・O・ソープ・アソシエイツという資産運用会社を立ち上げた。やがて他人の資産管理からは手を引いたが、いまでも自分の資産を使ってファンドを運営している。
  • 一方、プリンストン・ニューポートの成功をきっかけに、数百という数のクオンツヘッジファンドが続々と生まれてきた。 ウォールストリート・ジャーナル紙は一九七四年の記事で、ソープがコンピュータを活用した統計的手法を発明し、「資産運用の新時代」を切りひらいたと評している。

 

  • ブラックはパシュリエやオズボーンの説を十分に理解し、発展させられるくらいに物理学にも通じていた。そういう意味ではサミュエルソンにも似ていたが、サミュエルソンほど学者としてすぐれていたわけではない。ただしブラックには、サミュエルソンになかったものがあった。投資家や銀行の人間と話をするスキルだ。
  • ブラックは物理学のアイデアがどのように投資に役立つかを、ふつうの投資家にもわかる言葉で説明することができた。 バシュリエやオズボーンのランダムウォーク仮説を利益につなげたのはエド・ソープが最初だが、それはヘッジファンドというかぎられた世界のなかでのことだ。一方ブラックは、物理学をベースとした統計的アプローチを、投資銀行の必須ツールに出世させた。
  • ブラックのおかげで、物理学はウォール街という新たな世界に飛びだしていったのだ。
  • ブラックがはじめてハーバード大学にやってきたのは、一九五五年、一七歳のときだった。なぜハーバードだけに絞って出願したのかと聞かれたら、彼は「有名なグリークラブで歌ってみたかったから」と答えただろう。
  • 彼は最初から、我が道を行くことしか頭になかった。必要な課題は放っておいて、自分がおもしろいと思ったテーマの論文を勝手に書いた。基礎科目を何ヵ月か受講したあと、早くも大学院の授業を受けることにした。専攻に選んだのは「社会関係論」という、社会科学のさまざまな分野にまたがる総合的な学問だ。ブラックはさっそく自分自身を実験台にして、独自の研究をはじめた。 たとえば四時間寝て四時間起きているというふうに睡眠サイクルを変えてみて、体の反応を詳細に記録した。幻覚剤などのドラッグをやって、その効果を逐一追ってみたこともある。大学でつきあう人間は、ほとんど大学院生ばかりだった。
  • 三年生になるとき、ブラックは専攻を変えようと思い立った。 社会関係論はおもしろかったけれど、もっと科学的な研究の世界に行ってみたかったのだ。 オズボーンやソープと同じように、 ブラックは生まれながらの科学者だった。 実験が大好きで、仮説と検証をくりかえすタイプの研究が肌にあっていた。しかしこのまま社会関係論を学んでも、自分が求めるスタイルの仕事につくのは難しそうだった。そこでブラックは自然科学系に転向し、化学と生物学をかじったあとで、物理学に落ちついた。とにかくコアな部分の理論的な研究がやりたかったので、翌年には理論物理学の博士課程を受験した。 学部のときと同じく、ハーバード一択だ。彼は全米科学財団の奨学金を見事手に入れ、ハーバードの大学院に合格し。 こうして一九五九年の秋、ブラックは物理学者への道を歩みはじめた。
  • ところがその年の終わりには、また興味が別のところに移っていた。 物理学のコースは一科目しかとらずに、電気工学や哲学、数学などの授業ばかり受けていた。何にでもすこしずつ興味があったけれど、ひとつのことを長くつづけるのはどうしても苦手だった。数週間後、彼は学部変更の届け出をして、物理学から応用数学に乗り換えることにした。さらに翌年の春にはMITに入り浸り、人工知能のパイオニアであるマーヴィン・ミンスキーの授業を熱心に受けていた。それから一九六〇年の秋にはまた社会科学に戻ってきて、今度は心理学の科目に手をだしはじめた。
  • 成績はけっして悪くなかった。 でもやり方がめちゃくちゃだった。合格ラインぎりぎりの科目もいくつかあった。物理学で唯一登録していた授業もそのひとつだ。 大学院の二年目には、心理学の単位を落とした。流行りの「認知主義」がやりたかったのに、古くさい「行動主義」の理論ばかりだったからだ。頭の良さで言えば、彼はハーバードでもトップクラスだった。最初の年には数学の難問に挑むコンテストで見事正解し、翌年度の奨学金を手に入れた。 頭脳については何の問題もない。しかしエッティンガーの不安は的を射ていた。 ブラックは大学院の二年目になっても、まだ専攻をきちんと決められずにいた。どこかに落ちつくどころか、以前より速いペースで研究分野をどんどん切り替えていた。
  • ブラックにしてみれば、それは自然なことだった。いろんなことに興味があるだけなのだ。大学側が考えるような、古くさい学問の道に縛られるなんてまっぴらだった。そんなものは断固拒否して、自分のやりたいようにやる。たとえハーバードを追いだされることになったとしてもだ。
  • ブラックは最終的に、応用数学で博士号を取得することになる。でもそこにたどり着くまでには、けっこうなまわり道をした。
  • ハーバードを追いだされると、彼はボルト・ベラネク・アンド・ニューマン(BBN)というハイテク関連のコンサルティング会社に就職した。BBNがブラックを雇ったのは、コンピュータに強いからだった。 ブラックは図書資源協議会からの受託プロジェクトに配属され、大規模なデータ検索システムの開発にとりくんだ。そのなかで彼は、シンプルな質問に答える言語処理プログラムを書いた。「ルーマニアの首都はどこですか?」というような文章の入力を受けて、答えになるデータを推測するプログラムだ。 質問の文章を解析して質問者の意図を読みとるのが、このプログラムの肝だった。 ブラックが開発したプログラムは、自然言語処理(コンピュータに人間の言葉を理解させる)という分野の発展に大きく貢献した。
  • ブラックがBBNで開発したプログラムの噂は、すぐに各方面に広がった。一九六三年の春には、マーヴィン・ミンスキーの耳にも届いた。 ミンスキーはブラックの質問応答プログラムにいたく感心し、ハーバード大学にかけあってブラックの再入学を認めさせた。 ブラックの研究についてはミンスキーが責任もって指導し、表向きの指導教官にはハーバード大学のパトリック・フィッシャーがつくことになった。ブラックはBBNでのプロジェクトをもとにして質問応答システムについての博士論文を書き、1964年の6月に無事受理された。
  • しかしそのころには、ブラックは大学生活に飽き飽きしていた。少なくともしばらくは、学問の世界から離れたかった。 博士論文はどうにか書き上げたけれど、その分野で一生やっていくつもりはまったくなかった。 物書きになってノンフィクションの読み物でも書こうかと考えてみた。それともコンピュータ業界に入って、新たな技術を開発するのも悪くない。あるいはポスドクに応募してハーバードにとどまり、技術と社会の接点について研究するという手もある。でも、どの選択肢もいまひとつピンとこなかった。そこでブラックは、またコンサルティング業界に戻ることにした。とりあえずコンサルティング会社なら、多種多様なプロジェクトにとりくむことができる。それに、具体的な問題を解決するほうが性にあっている気がしていた。
  • ブラックはBBNには戻らず、アーサー・D・リトル(ADL) という別の地元企業で研
    究部門の職をみつけた。最初のころ、ブラックはコンピュータの問題を中心に担当した。たとえば大手保険会社のメットライフは、最高水準のコンピュータを買ったのにまだ性能に満足できていなかった。そこで、もう一台コンピュータを買うべきかどうかの判断をADLに依頼した。ブラックは二人の同僚と一緒にメットライフのコンピュータを調査し、問題がコンピュータの処理能力ではなく(これは半分程度しか使われていなかった)、データの格納の仕方にあることをつきとめた。三〇あるドライブのうち、八つのドライブだけを集中的に酷使していたのだ。 ブラックたちはすべてのドライブがうまく活用できるように最適化をおこない、 メットライフのコンピュータは無事に能力を発揮できるようになった。
  • ブラックはADLにおよそ五年間勤務した。この日々が、彼の人生を変えた。ADLにやってきたとき、彼は数学を利用したオペレーションズ・リサーチやコンピュータ・サイエンスの世界の人間だった。幅広い分野に興味をもっていたけれど、そのなかに金融はおそらくなかったはずだ。でも一九六九年にADLを去るとき、彼はブラック・ショールズ・モデルの基本部分をすでにつくりあげていた。周囲の人間からは、ちょっと過激ではあるがエキサイティングで将来有望な金融エコノミストだと思われていた。会社を辞めてすぐに、ウェルズ・ファーゴ銀行からトレード戦略研究の仕事を依頼されるほどだった。
  • 変化がはじまったのは、ADLにきてまもないころだった。 ブラックはオペレーションズ・リサーチ部門で、ジャック・トレイナーという先輩に出会った。 トレイナーはもともと物理学を志望してハバフォード大学に入り、 授業の質がよくなかったので数学に転向した。 大学を卒業するとハーバード・ビジネススクールで経営を学び、一九五六年にADLに就職した。 ブラックよりも一〇年ほど前のことだ。
  • トレイナーとブラックが一緒に働いた期間は長くなかった。一九六六年に、トレイナーがメリル・リンチに引き抜かれたからだ。でも二人は出会ったときから意気投合した。 ブラックはトレイナーの実務的な考え方が気に入ったし、彼の担当分野にもすぐに興味をもった。リスク・マネジメントやヘッジファンドのパフォーマンス、資産評価などの分野だ。トレイナーも金融を専門に学んだわけではなかったけれど、ビジネススクールでひととおり必要な知識は身につけていた。だからADLでは金融機関を中心に担当することになった。その一方で、彼は個々の問題をより一般化した理論的研究にもとりくんでいた。
  • ブラックがADLにやってきたとき、トレイナーはリスクと確率と期待リターンを組みあわせた新たなモデルを完成させていた。現在「資本資産価格モデル (CAPM)」として知られているものだ。
  • CAPMのベースにあるのは、リスクには一定の価格が割り当てられるという考え方だ。ここでいうリスクとは、不確実性や変動性を意味している。たとえばアメリカ国債など一部の資産は、基本的にリスクフリーだ。それでも国債を買えば、一定の利子は返ってくる。一方、株や社債などの資産は、国債にくらべるとお金が返ってこなくなるリスクが高い。そういうリスキーな資産に人が投資するのは、期待されるリターンが高いからだ。 少なくともリスクフリーな資産よりリターンが高くなければ、誰もリスクの高い投資なんかしない。トレイナーはそのように考えて、リスクフリー資産とくらべたときのリターンの大きさを「リスクプレミアム」と名づけた。大きなリスクを引き受けるときの、利益の上乗せ分という意味だ。 CAPMを使えば、リスクプレミアムの費用対効果からリスクとリターンの関係を理解することができる。
  • CAPMのことを知ったブラックは、たちまちこの理論にのめり込んだ。不確実性と利益のシンプルな関係性は、あまりにも魅力的だった。 CAPMの世界観は大局的で、合理的選択に対するリスクの役割を高度に抽象的なレベルで描きだしていた。何よりもブラックの心をとらえたのは、それが(ブラック自身の言葉を借りれば)「均衡理論」であるという点だった。
  • 「金融と経済に魅力を感じたのは、均衡というコンセプトのおかげだ」と彼は一九八七年の著書に書いている。 CAPMが均衡理論である理由は、資本の価値をリスクと報酬の自然なバランスとして捉えているからだ。世界を絶え間なく変化する均衡として理解する見方は、ブラックの物理学者としての感性にしっくりとなじんだ。 物理学の世界では、複雑なシステムがやがて小さな変化のもとで安定した状態になることがよくある。そうした状態は平衡状態と呼ばれ、さまざまな影響のあいだできれいなバランスが成り立っている。
  • ブラックは入社から一年のあいだに、トレイナーの金融に関する知識をすべて吸収した。一九六六年にトレイナーがADLを去ったとき、そのポジションにつくのはブラック以外にありえなかった。ブラックはADLのフィナンシャル・コンサルティング部門を引きつぎ、CAPMモデルのさらなる改善にとりかかった。この職場でブラックは、その後の偉大な業績すべての基礎を築いていくことになる。
  • ジャック・トレイナーがブラックにエコノミストになるきっかけを与えたとすれば、マイロン・ショールズはそれを花ひらかせた存在だ。
  • ショールズは一九六八年の秋にケンブリッジにやってきた。シカゴ大学の博士課程を終えたばかりのころだ。大学院時代の同級生だったマイケル・ジェンセンが、ショールズにブラックのことを教えてくれた。なかなかおもしろいやつだから、会ってみたらどうかと言う。ショールズはケンブリッジに着くと、さっそくブラックに連絡をとってみた。
  • 二人とも歳は若かった。 ショールズは二七歳で、ブラックが三〇歳だ。ショールズはMITで助教授の職を手に入れたばかりだったが、二人ともまだそれほど大きく成功しているわけではなかった。 ブラックとショールズは、エイコン・パークにあるADLの社員食堂でランチをともにした。殺風景な社員食堂で語りあう二人の平凡な若者が、世界を変えようとしているなんて誰に予想できただろう。ここからブラックとショールズの友情がはじまり、それはやがて金融の世界を大きく変えていくことになる。
  • ブラックとショールズは、正反対の性格だった。 ブラックはもの静かで、どちらかというと内向的だ。一方ショールズは人懐っこく、どこまでも積極的だった。ブラックは実用的な研究に興味をもっていたけれど、考え方としては抽象的・観念的な理論を好んだ。一方ショールズは、理論よりも目に見えるものが好きだった。 新古典派経済学の主流となっていた効率的市場仮説を検証するために、大量のデータを分析して実証的な博士論文を書いたところだ。
  • この二人が初対面でどんな会話をしたのかは、ちょっと想像がつかない。 でもなぜか、 二人は息があった。 ブラックとショールズはまた会う約束をし、その後もたびたび会うようになった。 ここから二人の生涯にわたる友情と研究仲間としての関係がはじまった。

 

  • ソープのデルタヘッジ戦略は、株価がそれほど極端に変化しないことを前提として、なるべく大きな利益をだすことを狙っていた。リスクはコントロールするが、完全にリスクをなくすことは考えていない (CAPMの論理から言っても、リスクを完全に排除して大きな利益を上げることは不可能だ)。一方ブラックのアプローチは、株とオプションをうまく配合して、完全にリスクフリーなポートフォリオを組み上げるというものだった。そこからCAPMを使い、このポートフォリオの期待リターンがリスクフリー資産のリターンと同じになることを論じようとしていた。このように株とオプションでリスクフリーの環境をつくる戦略は、のちにダイナミック・ヘッジとして知られるようになる。
  • ブラックはクートナーの論文集を読んでいたので、バシュリエやオズボーンのランダムウォーク仮説のことは知っていた。だからそれを使って、オプションの対象となる株の値動きをモデル化することができた。また株価とオプション価格の関係はすでにわかっていたので、株価のモデルをもとにオプション価格の動きを導きだすこともできた。こうして株価とオプション価格、それにリスクフリー資産の利率についての基本的なつながりがわかってしまえば、オプション価格の計算式はすぐそこだった。あとは株のリスクプレミアムとオプションのリスクプレミアムを結びつけるだけでいい。
  • でもここにきて、ブラックは壁に突きあたった。最終的な公式を得るためには、複雑な微分方程式株価の瞬間変化率とオプションの瞬間変化率を結びつける等式を解かなくてはいけない。ブラックはもともと物理学と数学をやっていたけれど、この方程式を解くにはすこし数学の知識が足りなかった。
  • 何ヶ月かこの問題にとりくんだあと、ブラックはとうとうあきらめた。 オプションの問題を途中まで解いたことについては、誰にも話していなかった。でも一九六九年の末になって、ショールズがオプション価格についての話をもちだしてきた。指導している学生がオプション価格決定に興味をもっていたからだった。CAPMを使って解決できるのではないか、とショールズが言ったので、ブラックは机の引きだしにしまい込んでいたノートをとりだし、オプション価格決定モデルの肝となる方程式を見せた。ここから二人の共同作業がはじまった。
  • 翌年の夏、二人はこの方程式を解くことに成功した。七月にはショールズがウェルズ・ファーゴの後援を得てカンファレンスを開催し、オプション価格を算出するブラック・ショールズ方程式がついに公開された。 一方、新しくMITでショールズの同僚になったロバート・マートン(もともとはエンジニアリングをやっていたけれど、経済学で博士号をとった)も、まったく別の方面から同じ方程式にとりくみ、 二人と同じ解答にたどり着いた。ブラックたちの方程式が、別の立場から確証されたのだ。ブラックとショールズとマートンは、大ききな手ごたえを感じた。
  • ブラックとショールズは、この問題についての論文を書いて『ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー』という超一流の経済誌に送った。でも論文はすぐに却下された。却下理由すらろくに書かれていなかった(真剣にとりあってもらえなかったということだ)。そこで二人は『レビュー・オブ・エコノミクス・アンド・スタティスティクス』誌に論文を送ってみた。しかし今度もとくに説明のないまま、すぐに却下されてしまった。その間、マートンのほうは自分の論文を提出するのを先送りしていた。 ブラックとショールズが自分よりも先に評価を受けとるべきだと思ったからだ。
  • ブラックとショールズの論文が、そのまま埋もれてしまうことはなかった。学界、財界、政界の権威たちが、二人の味方についていたからだ。 二度目に却下されたあと、シカゴ大学ユージン・ファーママートン・ミラーが二人のために動いてくれた。ファーマとミラーは当時もっとも強い影響力をもっていた経済学者で、初期のシカゴ学派をリードする存在だった。彼らの口利きのおかげで、『ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー』誌は再考せざるを得なくなった。そして一九七一年八月、ブラックとショールズの論文は、掲載に向けて無事に受理された。
  • そのころ、フィッシャー・ブラックはシカゴ大学で注目の的になっていた。シカゴ大学の経済学者たちは、ショールズを通じてブラックの仕事ぶりを知っていた。 オプション価格についてもそうだし、ウェルズ・ファーゴのカンファレンスでも彼の活躍を目にしていた。数年前の一九六七年には、ブラックがトレイナーと一緒にシカゴ大学にやってきて、研究の成果をアカデミックな世界に披露したこともあった。まだ一流経済誌に論文が載る前だったが、シカゴ大学の学者たちはとくに気にしなかった。ひと目見れば、ブラックに才能があることは明らかだったからだ。そして一九七一年五月、シカゴ大学はブラックに仕事のオファーを
    だした。ブラックが大学院をでてから七年も経っていたし、たった四本だけ発表していた論文のうち、経済学に関係するものは二本しかなかった。博士号はもっていたけれど、これも経済とは関係のない分野だった。それにもかかわらず、シカゴ大学はブラックを選んだ。とにかく彼を求めていたのだ。
  • シカゴ大学がブラックをほしがった背景には、それなりの理由があった。 ブラックの研究が今後重要になってくると判断できるだけの裏情報をにぎっていたのだ。 オプション取引は近いうちに、とんでもなく重要な存在になろうとしていた。 オプション価格を算出できる公式は、これからの金融界で不可欠なものになるはずだった。 世界経済を動かす二つの大きな変化が、シカゴを中心に進行していた。デリバティブの世界に革命を起こすほどの変化だ。こんなときに、ブラックのような男を味方につけておかない手はなかった。
  • 第一の変化は、一九七一年一〇月一四日に起こった。ブラックがシカゴにやってきてからほんの二週間ほど後のことだ。 米国証券取引委員会(SEC)はこの日、シカゴ・オプション取引所(CBOE)の設立を認可した。 アメリカの歴史上初めての、オープンなオプション取引所だ。
  • オプションの取引自体は、もう何百年も前から存在していた。アメリカでも、ワラントという形をとることが多かったが、一九世紀半ばごろからすでに取引されていた。でも公開市場で誰もが自由に取引できるのは、これが初めてだった。 シカゴの学者たちは、何年も前からオプションの公開市場を解禁するようにSECにはたらきかけていた。そして一九六九年、ついにシカゴ商品取引所(CBOT)が委員会を招集し、実現可能性についての話しあいが開始された。このとき委員長をつとめたジェイムズ・ローリーという人物は、シカゴ大学ビジネススクールの教授だった。ローリーはマートン・ミラーらと共同でオプション取引の重要性についてのレポートを書き、これをもとに一九七一年三月、CBOTは正式に取引所設立の申請をだした。
  • CBOEとブラック・ショールズ論文は、それぞれ数ヵ月もちがわない時期に準備をスタートさせた。それから二年後に、CBOEは取引を開始した。ブラック・ショールズ論文が世にでる一ヵ月前のことだ。 オープン初日には、一六種類の株をもとにしたおよそ九〇〇のオプション取引が成立した。やがてこの数字は、ものすごい勢いでふくれあがっていった。一九七三年だけで一〇〇万を超える数の取引が成立し、一九七四年一〇月には一日の取引量が平均で三万、ときには四万を超えるほどになった。それから一〇年のうちに、一日の取引量は五〇万に達した。

 

  • ブラックとショールズとマートンのオプション価格モデルは、一九六五年にソープが考えだしたやり方にそっくりだった。ソープはコンピュータのプログラムを使い、ブラックたちは自分たちの名を冠した方程式を使ったというだけのことだ。でもその背後にある論理は、かなり性質がちがっていた。
  • ソープはバシュリエの考え方をもとにして、オプションの適正価格は賭けの勝率が五分五分になる価格であると考えた。そして株価が対数正規分布になるというオズボーンの理論にもとづき、オプションのあるべき価格を導きだした。 ソープはこうして算出したオプションの「本当の」価格をもとに、株とオプションを組みあわせるデルタ・ヘッジ戦略を組み上げていった
  • 一方、ブラックとショールズのモデルは、まったく逆の方向からつくられた。彼らはまず最初に、ヘッジ戦略をつくった。株とオプションの組みあわせ方によって、つねにリスクフリーのポートフォリオがつくれることに気づいたからだ。それからCAPMを使って、このポートフォリオのリターンがどれくらいになるべきかを示した。それによると、このポートフォリオのリターンは、リスクフリー資産のリターンと同じになるはずだった。そしてここから、リスクフリーのリターンを実現するために、オプションの価格がどのようにして株価から導きだされるべきかを論じていった
  • 両者のちがいは、些細なものにも思える。 別々の方向から出発して、結局は同じモデルに行きついたわけだ。でも実用面から言うと、そこには決定的な差があった。ブラック・ショールズ・モデルの背後にあるダイナミック・ヘッジという考え方は、銀行がオプションを製造するためのツールになるからだ。
  • たとえばあなたが銀行をやっていて、顧客にオプションを売ることを考えているとしよう。つまり特定の株を決まった価格で売買する権利を顧客に売るということだ。このとき、あなたはなるべくリスクを引き受けたくない。目的は投機で大きく儲けることではなく、顧客からの手数料収入を得ることだからだ。 ということは、株価が上がった場合に損をしないようにしながら、株価が上がらなかった場合にも損をしないようにしなくてはいけない。
  • ブラックとショールズのダイナミック・ヘッジは、そういう状況にもってこいの手法だった。 ブラックとショールズの考え方を使えば、オプションを売りながらその他の資産を買うことで、すべてのリスクを(少なくとも理論的には)排除することができる。この技術は、オプションのあり方を大きく変えた。 オプションはいまや、マニュアルどおりに製造できる製品になったのだ。
  • ブラックは一九七五年までシカゴ大学にとどまったあと、MITに招かれてケンブリッジに戻った。最初の数年間は、大学のくらしが楽しくて仕方なかった。何でも好きなことが研究できたし、通貨オプションが登場してきた全盛期には、何もかもがうまくいくように思えたからだ。ブラックは大学のヒーローだった。誰からも尊敬され、最大限の自由が手に入った。
  • でも私生活のほうは、どんどんだめになっていった。二人めの妻であるミミは、シカゴでのくらしにまったくなじめなかった。 ケンブリッジに戻った大きな理由も、彼女が実家の近くに帰りたいと言いだしたからだ。しかしケンブリッジに戻ってからも、二人の関係は相変わらずぎくしゃくしていた。
  • 家庭の雰囲気が気まずくなるにつれて、ブラックはどんどん仕事時間を増やしていった。彼の関心はオプションから、もっと広い分野に移っていた。CAPMを一般化して、景気のサイクルを説明する理論をつくろうとしたのだ。
  • たった一〇年足らずのうちに、ブラックはよそ者から時代の寵児へとのぼりつめ、そしてまたよそ者に戻ったのだった。ブラックは大学の世界にうんざりした。いいかげん外の世界に逃げだしたいと思った。
  • 一九八三年一二月、ブラック・ショールズ・モデルの共同研究者だったロバート・マートンは、ゴールドマン・サックスに依頼されてコンサルティング業務をおこなっていた。七〇年代のブラックやショールズが、 ウェルズ・ファーゴのためにやっていたのと同じような仕事だ。学問の世界から最新の理論を引っぱってきて、実際の業務でどう使うかをアドバイスする。
  • マートンはそのなかで、ゴールドマン・サックスに金融理論の専門家をひとり雇い入れてはどうかと提案した。優秀な専門家に指揮をとってもらい、新たなやり方をスムーズに浸透させるのだ。当時ゴールドマン・サックスの株式部門リーダーだったロバート・ルービンはこれに同意し、優秀な人間を紹介してほしいとマートンに頼んだ。MITに戻ったマートンは、さっそく最近の卒業生のなかからこの重要なポジションにふさわしい人間を探しはじめた。ブラックにも、誰か心あたりはないかとたずねてみた。すると、ブラックは意外な答えを返してきた。自分がやりたいというのだ。
  • 三ヵ月後、ブラックは大学を辞めてゴールドマン・サックスに移り、株式部門に新設されたクオンツ戦略グループを統括するポジションについた。こうしてブラックは、みずから初期のクオンツになったのだった。投資だけでなく知的イノベーションに興味をもった、高度に専門的な理系トレーダーだ。ウォール街はいままさに、新たな時代を迎えようとしていた。

 

  • 一九八六年、サンタフェ研究所で初めての経済カンファレンスが開かれた。テーマは「複雑系としての国際金融」だ。 ファーマーも講演者のひとりだった。ファーマーは当時ロスアラモスで複雑系研究グループのリーダーになっていたけれど、経済学の集まりに参加するのはこれが初めてだった。ほかの講演者は、ほとんどが銀行やビジネススクールの人間ばかりだ。
  • 銀行の人間が自分たちの使っているモデルの説明をすると、そこにいた科学者たちはあっけにとられた。あまりにも単純すぎるモデルだったからだ。そして銀行の人間たちは、科学者の話に未来の呼び声を聞いたような気分になった。ただし科学者が何を言っているのかは、さっぱりわからなかった。とにかく難しいけれどすごそうだということで、彼らはサンタフェにぜひ二度目のカンファレンスを開催してほしいと呼びかけた。そして今度のカンファレンスには、有名大学の経済学者たちが招かれることになった。
  • 金融関係の人間には物理学やコンピュータ科学の最新理論は難しすぎたけれど、一流の経済学者ならうまく理解できるにちがいない。そう思って経済学者たちを招いたものの、思ったようにはいかなかった。 ファーマーやパッカード、それにサンタフェの研究者たちは科学的視点からさまざまな話をした。経済学者たちも自分たちの理論を紹介した。でも、両者がわかりあうことはなかった。物理学と経済学の世界は、あまりにも異なっていた。おたがい常識が通用しないのだ。物理学者たちは、経済学者が何もかもを単純化しすぎていると考えた。経済学者たちは、物理学者が意味のないでたらめをしゃべっていると考えた。二つの学間の偉大な出会いは、ついに起こらずじまいだった。
  • サンタフェ研究所はあきらめることなく、一九九一年二月に三度目のカンファレンスを開催した。ただし今度は、経済学者は招かれなかった。そのかわりに、投資会社などで投資実務に関わっている人間を招待した。カンファレンスの雰囲気も前回よりずっと実務的で、トレード戦略のためのモデルづくりと検証が話題の中心になった。投資家たちは経済学者よりもオープンだったし、カンファレンスが終わるころにはおたがいに大きな手ごたえを感じていた。とくにファーマーとパッカードにとっては、投資戦略の実務を明確に理解できたのが大きな収穫だった。さらに、自分たちならもっとうまくやれるという確信も得られた。
  • 一ヵ月後、二人は辞表を提出した。そろそろ現場に参戦する頃合いだ。

 

  • 会社はもうすぐ二年目を迎えようとしていたが、利益はまったくでていなかった。 投資会社なのに投資するお金がなければ、どうしようもない。経営者であるファーマーとパッカードとマッギルは、給料なしで働いていた。そのうえ大学院生やハッカーのチームを、もう八カ月も自分たちのポケットマネーで養っていた。全員がグリフィン通りのオフィスに住みついていたからだ。
  • そろそろ限界だった。出資者の選り好みをしている場合ではない。 設立早々に会社を売るのは気が進まなかったけれど、誰かのもとでヘッジファンドをやるのは悪くないアイデアに思えてきた。少なくとも資金は手に入るし、そこそこの独立性は保てるはずだ。 彼らはそれから数ヵ月間、最適なパートナーを探して数多くの会社と面接を重ねた。 それしか道はないように思えた。
  • しかし一九九二年三月、奇跡はやってきた。その日、ファーマーはコンピュータ業界のカンファレンスで講演をおこなった。本当は気が進まなかったけれど、シリコンバレーの投資家がやってくるはずだし、うまくいけば縛りのない資金が手に入るかもしれないと思ったからだ。ファーマーは市場予測におけるコンピュータの役割について話し、会場の反応は上々だった。 講演が終わってスライドを片付けているとき、スーツを着た男が近づいてきた。男はクレイグ・ハイマークと名乗り、オコナー&アソシエイツの共同経営者だと自己紹介した。
  • オコナー&アソシエイツといえば、ブラック・ショールズ方程式ファットテール対応バージョンをつくって大成功したオプション投資会社だ。 テクノロジーを駆使したデリバティブ戦略で利益を上げ、一九九一年ごろにはシカゴのコモディティ市場で最大級のプレイヤーになっていた。従業員はおよそ六〇〇人、運用資産は数十億ドル規模だ。オコナー&アソシエイツは非線形予測には関わっていなかったし、プレディクション・カンパニーはデリバテイプに興味がなかった。それでも、両者は性格的によく似ていた。実際、オコナーに最近入社した社員のなかには、独立前のファーマーとパッカードと一緒に共同研究をしていた友人もいた。
  • カンファレンスでの出会いからまもなく、ファーマーはオコナー&アソシエイツのもうひとりの共同経営者から電話を受けた。デヴィッド・ワインバーガーという男だ。ワインバーガーはもっとも初期のクオンツのひとりで、一九七六年にイェール大学のオペレーションズ・リサーチ(応用数学の一分野)の教授からゴールドマン・サックスに転身した。フィッシャー・ブラックより何年も前の話だ。そのあと一九八三年にオコナー&アソシエイツに移り、世の中で一般的になってきたブラック・ショールズ・モデルに変わる新たな戦略を研究しはじめた。彼ほど社会的に成功し、しかもプレディクション・カンパニーの科学者たちと同じ言葉を話せる人間というのは、一九九一年の時点でもかなり貴重な存在だった。ワインバー
    ガーは金曜の午後にシカゴから電話をかけてきて、土曜日の朝にはグリフィン通りのオフィスに座っていた。
  • オコナー&アソシエイツは、プレディクション・カンパニーが求めていた条件にぴったりの会社だった。何よりも、ファーマーやパッカードがやっていることを理解できて、きちんと評価できる相手だというのがよかった。彼らは順調に交渉を進め、プレディクション・カンパニーは独立を保てることになった。 オコナーは投資資金をだし、利益の一定部分を受けとる。方針に対する干渉はない。さらにプレディクション・カンパニーが困っていた当面の給与と設備の資金についても、オコナーが前貸ししてくれることになった。
  • オコナーとの契約は、これ以上ないほど完璧なものに思えた。しかもその後、さらにうれしいことが起こった。 オコナーは以前から、スイス銀行コーポレーション(SBC)とつきあいがあった。そして一九九二年、プレディクション・カンパニーとの契約が成立した直後に、SBCはオコナーを買収する意図を明らかにした。プレディクション・カンパニーは話の通じる相手と商売をしながら、SBCという巨大な財布を手に入れることになったのだ。ワインバーガーは合併後のSBCでトップマネジメントの地位につき、同時にブレディクション・カンパニーとの窓口でありつづけてくれた。まさに理想的な環境だった。プレディクョン・カンパニーは大あたりを引いたわけだ。
  • 一九九八年、SBCはさらに大手のスイス・ユニオン銀行と合併し、UBSという世界最大規模の銀行になった。SBCのほうが規模は小さかったけれど、UBSの役員の大半は元SBCの人間で占められることになった。プレディクション・カンパニーとの関係も、変わることなくつづいた。
  • オコナー&アソシエイツがずっと秘密主義をとっていたこともあり、プレディクション・カンパニーのパフォーマンスについては何も公表されていない。元役員の人間にもあたってみたけれど、具体的な情報については誰もが口をつぐんだ。おかしな話だ。成功しているのなら、わざわざそれを隠す必要なんかないように思える。でもウォール街では、それがあたり前なのだ。 成功が知られれば、真似をする人間たちがでてくる。そして同じ戦略をとる人間が増えれば、それぞれの取り分はどんどん減っていくからだ。
  • それでも、わずかな情報から、 プレディクション・カンパニーがものすごい利益を上げていることは想像できる。UBSの役員だったある人間は、いまでもプレディクション・カンパニーがUBSの現役部門として活躍していることを教えてくれた。別の信頼できる情報筋から聞いた話では、業務開始から一五年間のプレディクション・カンパニーのリスク調整後リターンは、代表的な株価指数であるS&P500のリターンを一〇〇倍も上回っているという。
  • ファーマーはおよそ一〇年間会社にとどまり、それから学問的な研究がやりたくなってビジネスの世界を離れた。一九九九年に、サンタフェ研究所で正式な研究員のポジションについている。パッカードは二〇〇三年までプレディクション・カンパニーの代表をつとめたあと、プロトライフという別の会社を立ち上げた。
  • プレディクション・カンパニーでの経験は、彼らに明確な答えを与えてくれた。統計の深い知識と、物理学のツールを金融に置き換えられるクリエイティビティがあれば、ウォール街をぶちのめすことが可能なのだ。それがわかったいま、彼らは新たな問題に向かって踏みだしていった。

 

  • 一般相対性理論によると、物質(自動車や人間や星など、ふつうに存在しているもの)は時空の幾何学的性質に影響を及ぼす。 そして時空の幾何学的性質は、ものがどのように動くかを決定する。そうやってゆがんだ時空のなかを巨大な物体が動くとき、その動きが重力と呼ばれるものになる。僕たちの体が地球にくっついていたり、地球が太陽のまわりをまわりつづけたりするのも重力のおかげだ。
  • 一般相対性理論の考え方は、それまでのニュートンによる重力理論とは似ても似つかないものだった。ニュートン力学では、時間と空間は静止している。空間のなかにどんなものがあったとしても、時間や空間自体にはとくに影響しない。物質は何か不可解な力によって、遠くからおたがいに引っぱりあっている。
  • でもアインシュタインの理論では、物質が時間と空間を曲げる。ただし物理学や数学の世界で何かが「曲がっている」と言うとき、それは日常的な意味とはすこしちがっている。 テーブルの表面やまっさらなレポート用紙は平らだし、バスケットボールやトイレットペーパーは曲がっている。でも数学的に言うと、テーブルとバスケットボールのちがいは、地面を転がるかどうかではない。テーブルの上に立つのが簡単で、バスケットボールの上に立つのが難しいということでもない。数学で曲がっているかどうかを決めるのは、同じ向きのままでその表面を移動しやすいかどうかということだ。もしもそのものが平らなら、同じ向きを向いたまま移動するのは簡単だ。同じ向きで移動するのが難しいなら、そのものは曲がっているということになる。
  • なんだかややこしい言い方だが、実際にイメージするのは難しくない。たとえばマンハッタンの中心部で、歩道に立っているとしよう。 マンハッタンの道路は、碁盤の目のように整然と並んでいる。その四角く区切られた一区画を、北を向いたまま時計まわりに一周してみよう。体を北に向けて、まずはそのまま前に進む。曲がり角までやってきたら、右に曲がって次の角まで行く。でもこのとき、体の向きを変えてはいけない。北を向いたまま、右へ右へと横向きに歩くのだ。そして角まできたら、今度は後ろ向きに歩きはじめる。 そして最後はまた、左に向かって横歩きだ。そうやって体の向きを変えないまま一周すると、スタート
    地点に戻ってきたときには、かならずさっきと同じ方向を向いている。
  • これはとくに不自然なことではない。体の向きを変えなかったのだから、同じ方向を向いているのは当然だ。でも、もうすこし長旅になると、話はちがってくる。 街の一区画ではなく、今度は地球をぐるりとまわってみよう。今回も体の向きを変えないで、ずっと北を向いたままだ。まずはニューヨークを出発し、大西洋を渡ってヨーロ着いたら、そこからアジアに向かってカニ歩きだ。 体の向きはしっかり北極点に向けておく。そのまま根気よく(無理な体勢で)歩きつづけていると、やがて太平洋にたどり着く。そこから北を向いたまま船に乗り、カリフォルニアに渡る。そしてアメリカ大陸を横断し、ついにニューヨークに到着だ。このとき、体の向きを変えていなければ、出発したときと同じように北を向いているはずだ。
  • でも地球を一周するやり方は、ほかにもある。今度はちがうルートを使ってみよう。ニューヨークを出発して、途中までは前回と同じく東に向かう。 カザフスタンまでやってきたら、今度は中国方面ではなく、北に進んでロシアに行ってみる(ようやく前向きに歩けるようになった)。そのまま進んで北極点までたどり着くと、ニューヨークが前方のずっと遠くに見えてくる。そのままカナダを通過し、ハドソン川を下ってニューヨークに到着だ。出発点まで戻ってみると、なぜか体がちがう向きになっている。南を向いているのだ。ずっと体の向きを変えなかったのに、なぜ反対を向いてしまったのだろう。最初の旅のときは戻ってきても北向きだったのに、どうして二度目は変わってしまったのだろう?
  • 二度目の旅でちがう方向を向いてしまった理由は、地球の表面が曲がっているからだ(図5)。それに対して、街の一区画は曲がっていない(もちろん街も地球の表面の一部なので、正確に言えば曲がっている。でも短い距離で見たときには、ほとんど曲がっていないのと同じになる)。もしもテーブルの上で蟻が同じことをやったとしたら、どんなルートを通っても、やっぱりつねに同じ向きになるはずだ。これが数学的に平らであるということだ。難しい言い方をすれば、平行移動(出発したときと同じ向きのまま動くこと)が「経路に依存しない」ということになる。これが曲がった表面であれば、どの経路を通るかによって体の向きが変わってしまう。つまり、平行移動が「経路依存」であるということだ。
  • 経路依存と曲面の関係性は、数学をやっていない人にはわかりづらいかもしれない。でも経路依存そのものは、ごくありふれた問題だ。日々のくらしのなかにも、経路依存になっているものごとはたくさんある。たとえば車を運転して食料品の買いだしに行ったとしよう。このとき、買ったミルクの量は経路に依存しない。つまり、どんなルートで家まで帰っても、ミルクの量に変化はない。 でも車のガソリンの量は、経路に依存する。いろいろまわり道をして帰れば、それだけ残ったガソリンの量が少なくなっている。
  • 平行移動の経路依存性も、そういうありふれた問題のひとつの形にすぎない。 出発点と目的地が同じでも、通る経路によってものごとは変わる可能性があるのだ。
  • アインシュタインは平行移動が経路依存であるという事実から、時空が曲がっているという重要な発見にたどり着いた。でもワイルは、アインシュタインよりもさらに先に行こうとした。
  • 一般相対性理論では、矢印を一周させたときに向きが変わっている可能性はあるけれど、矢印の長さはどんな経路でも変わらない。それに対してワイルは、向きが変わるなら長さだって変わる可能性があると考えた。そこに物理学的な意味での区別がみつからないからだ。ワイルはこの発想を推し進め、矢印を曲がった表面にそって一周させたとき、通る経路によって戻ってきた矢印の長さが変わるような理論をつくりあげた。
  • ワイルはこの新たな理論を、ゲージ理論と名づけた。 ゲージ理論の基本的な考え方は、これこそが正しいという絶対的な「ゲージ」(物差し)がどこにも存在しない、というものだ。たとえばあなたと隣の住人が、同じ建物にある職場にでかけるとする。二人とも自動車通勤で、車種もたまたま同じだ。 さて、出発しようとしたあなたに、 誰かがこうたずねる。 会社についた時点で、どちらの車のガソリンが多く残っているだろうか?
  • いまガソリンのメーターを見ると、ほぼ満タンを指している。隣人にたずねれば、そちらのガソリンの残量も教えてくれるだろう。でもそれだけでは、質問に答えられない。二人がどんな経路を通るかによって、答えは変わってくるからだ。 あなたは最短距離で会社をめざすかもしれないし、隣人はまわり道をするかもしれない。あるいは隣人が高速道路を使いあなたは一般道路を使うかもしれない。いずれにしても、どんなルートを使ったかによってガソリンの残量は変わってくる。 経路依存の量なので、単純に比較することができない。
  • 物差しの普遍的な基準が存在しない、とワイルが言うのはこういうケースだ。別々の場所にある物差しを、経路に依存しないでくらべる方法がないからだ。でもワイルは、うまい解決法をみつけた。シカゴにある物差しとコペンハーゲンや火星にある物差しをくらべるには、それを同じ場所にもってきて並べてやればいいのだ。もってくる経路によって長さは変わってしまうけれど、たいした問題じゃない。自分の使った経路がどんなふうに長さを変えるかを知っておけばいいだけだ。ということはつまり、長さをくらべるときの数学的基準こそが、この理論のポイントになってくる。別々の場所を決まった手順でつなげて、 経路依存の長さをシステマティックに比較できるようにするということだ。ワイルはこれを数学的に解決し、そのままでは比較できない二つのものを、同じ場所にもってきて直接比較する手法をつくりあげた。
  • しかしワイルの理論は、失敗に終わった。周知の実験結果と矛盾することを、アインシュタインがすぐに見抜いたからだ。こうしてワイルの理論は、科学の歴史のゴミ箱に葬られてしまった。でもゲージについての基本的な考え方――二つの量が物理的に等しいかどうかを決定するには、経路依存を考慮に入れた比較基準が必要だということは、彼の理論そのものよりもずっと重要な意味を含んでいた。
  • やがて一九五〇年代になって、ゲージ理論はよみがえった。ブルックヘブン国立研究所の若い研究者、楊振寧とロバート・ミルズの二人が、ワイルの理論をさらに一歩先へと進めたのだ。長さが経路依存であるような理論をつくることが可能なら、それ以外の性質についても経路依存でありうるのではないか、と二人は考えた。そこから二人は、ワイルよりもずっと複雑なゲージ理論の枠組みをつくりあげた。
  • ヤン=ミルズ理論として知られるようになったこの理論は、ゲージ革命とも呼ばれる大変革をもたらした。 そして一九六一年以降、物理学の基礎はゲージ理論のためにすっかり書き換えられることになった(やがて六〇年代後半になると、ヤンはルネサンス・テクノロジーズのジェイムズ・シモンズと共同で、ヤン=ミルズ理論と現代幾何学との深いつながりを発見する。これがゲージ革命をいっそう加速させることになった)。
  • ゲージ理論は物理学にとって、とりわけ重要な意味をもっていた。異なるものをくらべる基準があれば、自然界の基本的な力を「統一」して語ることが可能になるからだ。 一九七三年ごろまでには、素粒子物理学の三つの力――電磁力、弱い力、強い力――がゲージ理論のひとつの枠組みで説明できるようになった。これは標準モデルと呼ばれていて、現在までに発見されたどんな分野のどんな理論よりもしっかりと裏付けられている。これこそが現代の物理学の心臓にあたる部分だ。

 

  • 科学は知識の寄せ集めではなく、世界を知るための方法だ。 発見と検証と修正がつねにくりかえされる継続的なプロセスだ。 ウォール街で科学ができないと教授が言ったのは、つまり金融業界の体質がそうしたプロセスに向いていないという意味だった。
  • 投資銀行ヘッジファンドは、たいてい秘密主義だ。新たなことを発見しても、それを世間に公表してオープンに議論する習慣はない。
  • 物理学や生物学の場合、新たな発見は論文という形で専門誌に投稿され、そこでまず査読を受ける。査読というのは、その分野に詳しい研究者たちが、出版に値する内容かどうかを詳しくチェックすることだ。査読という第一関門をクリアしたアイデアは、今度は世の中の科学者たちの手ですみずみまでつつきまわされる。
  • 多くのアイデアは、こうしたプロセスの途中で挫折してしまう。世の中にでることのないまま終わる論文もあれば、誰にも注目されずに消えていく論文もある。たとえその論文が非常にすぐれていて、科学者たちに広く受け入れられたとしても、それが絶対的な理論として祭り上げられることはけっしてない。つねに批判を受けながら、次世代の理論やモデルを築くための踏み石として使われていくことになる。
  • 物理学とは、単に数理モデルや物理理論を学ぶことではない。問題は、そういうモデルをどのように理解するかということだ。
  • ゴールドマン・サックス社員でフィッシャー・ブラックの同僚だったエマニュエル・ダーマンは、オックスフォード大学数理ファイナンス課程の創始者であるポール・ウィルモットと組み、二〇〇九年に「フィナンシャル モデラー宣言」という論文を書いた。この論文の趣旨のひとつは、金融と経済を考えるうえで数理モデルが不可欠であるという事実を確認することだ。そしてもうひとつは、経済を教える 「先生」たちに、モデルというものが絶対的法則ではないという事実を思いださせることだった。

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  • 「モデルとは、現実を大まかに捉えるための道具である」と彼らは言う。 数理モデルはけっして万能ではない。不完全な前提に基づいたものだし、場合によってはまったく見当はずれなこともある。 モデルを有効に使うためには、しっかりとした常識をもち、そのモデルの限界を把握しておくことが必要だ。このことは数理モデルだけでなく、世の中のあらゆる道具にあてはまる。工事用の大型ハンマーで自宅の壁に絵を打ちつけようとすれば、結果は悲惨なことになる。
  • この本で紹介してきた歴史も、そのような考え方を裏づけるものになっていると思う。モデルというのは万能ではなく、特定の用途に使える道具だ。 そしてこの道具は、たえずバージョンアップされなければ正しく力を発揮できない。新たなモデルが登場し、そのモデルが機能しない状況が明らかにされ、それを踏み台にしてより強固なモデルが構築されていくのだ。

 

  • クオンツ危機と、その年の後半にやってきた余波は、まだほんの序の口だった。次の犠牲者は、八五年の歴史を誇る大手投資銀行ベアー・スターンズだ。
  • ベアー・スターンズは影の銀行システムを動かしていた中心的存在で、担保に使われる証券の多くを発行していた。この証券を支える住宅ローンのデフォルト率が急上昇すると、ベアー・スターンズの顧客はにわかに警戒しはじめた。そして二〇〇八年三月中旬、大手顧客が金を返してほしいと言いだした。最初にやってきたのはジェイムズ・シモンズのルネサンス・テクノロジーズで、五億ドルの返済を要求した。次にD・E・ショーがやってきて、 同じく五億ドルの資金を引き上げた。あとは古典的な取りつけ騒ぎだ。焦った顧客たちが押しかけて、一斉にお金を引きだそうとした。 ベアー・スターンズは身動きがとれなくなり、結局は政府の要請で、別の投資銀行であるJPモルガンに買収されることになった。
  • 危機はさらに加速した。本当のクライマックスは、その年の九月にやってきた。もうひとつの歴史ある大手投資銀行リーマン・ブラザーズが破綻したのだ。今度は政府が救済をおこなわなかったので、パニックはいっそう悪化した。
  • それからの数日間で、投資銀行の重鎮メリルリンチが経営難からバンク・オブ・アメリカに吸収合併され、最大手の保険会社AIGが破綻の危機におちいり政府の救済を受けた。銀行はお金を貸すことを恐れるようになった。何よりも、ほかの銀行にお金を貸すのが危険だった。相手の資産状況がどこまでも不確かだからだ。こうして影の銀行システムは一気に凍りつき、その負荷に耐えかねた金融市場はあえなく崩壊した。一〇月までに、アメリカの株式市場の四〇%にあたる価値が、跡形もなく消えてしまった。
  • 数理モデルのまちがいが、この危機の発生に絡んでいたことはたしかだ。サブプライムローン証券化して債券に似た商品をつくりだす過程には、デヴィッド・X・リーという統計学者の開発したモデルが使われていた。ところがリーのモデルには、根本的な欠陥があった。住宅ローンのデフォルトリスクを、別の住宅ローンのデフォルトに影響されないものとして見積もっていたのだ。
  • デフォルトが少ないうちは、この前提でうまくいっていた。何件かデフォルトしたからといって、住宅市場全体にはたいした影響はない。でも二〇〇六年になってデフォルト率が上がってくると、リーのモデルはとつぜん機能しなくなった。たくさんの人が返済不能になったせいで、本来は信用が高かったはずの住宅価格も下がりはじめ、近隣の地域を巻き込んでデフォルトの連鎖を引き起こしていったのだ。ただしこの事態は、モデルの欠陥以上の問題を含むものだった。リーのモデルに欠陥があったのはたしかだが、それだけが金融危機の原因ではない。サブプライムローン証券が諸悪の根源というわけでもない。
  • 数理モデルのまちがいは、原因のひとつにはちがいない。でもそれ以上に問題だったのは、一流金融機関の投資家たちが、モデルを科学的に使おうとしなかったことだ。リーのモデルは、一定の条件のもとではうまく動いていた。しかしどんな数理モデルであっても、その前提となる条件が崩れたら機能しなくなる。金融機関のリスクマネジメント担当者たちは、リーのモデルがどんなときに失敗するかという点を、あまり考えていなかったようだ。とりあえずみんな儲かっていたから、用心するのを忘れていたのかもしれない。
  • それ以上に根深い問題もある。金融危機はある意味で、政府の規制の手抜かりが引き起こした事態だった。影の銀行システムを、ずっと野放しにしてきたからだ。政府の人間は影の銀行システムのことをよく知らなかったか、あるいはそのリスクを見すごしていたようだ。業界にまかせておけばうまくいくと思っていたのかもしれない。いずれにせよ、二〇〇八年の金融危機は、こういうさまざまな原因が重なって起こったのだ。
  • 一九八七年の株価暴落のとき、オコナー&アソシエイツはうまく危機を回避して生き延びた。モデルの使い方が誰よりも上手だったからだ。そして二〇〇八年の金融危機のとき、ジェイムズ・シモンズのルネサンス・テクノロジーズは八〇%のリターンを上げた。ほかのどんなヘッジファンドよりも頭を使っていたからだ。ルネサンス・テクノロジーズが数々のファンドを差し置いて大きな成功をおさめた理由は、あのとき僕の指導教授が不可能だと言ったことを実現したからだった。
  • 彼らは、ウォール街で科学をやったのだ。
  • 科学をやったといっても、別に論文を世間に発表していたわけではない。ルネサンスは一般的なファンドよりもよっぽど秘密主義だ。でもルネサンスの社員たちは、物理学の考え方をいまも忘れていない。つねに前提を疑い、自分たちのモデルに小さな穴がないかどうかをチェックしつづけている。
  • ルネサンスの成功を可能にしたのは、そういうすぐれた社員の力だと言っていい。 クオンツのなかでも、飛びぬけて優秀な人間が集まっているからだ。そして同じくらい重要なのは、会社の体質だ。ルネサンスの研究者たちは、週の四〇時間をフルに使って自分の研究に打ち込んでいる。決められたスケジュールは何もなく、好きなように各自の研究を進められる。
  • ルネサンスは、けっしてみずからのルーツを忘れない。彼らの成功を見ればわかるように、理数系の頭脳は苦境の原因ではなく、解決策なのだ。

 

  • これまでの数十年間、政府はいつだって銀行や金融機関に遅れをとってきた。とくに二〇〇七年から二〇〇八年の金融危機については、あまりにも対処が遅すぎた。現場の投資家のほうが二歩も三歩も先を行っていたくらいだ。金融危機が起こる前、銀行はローンの証券化商品が抱えるリスクを見誤ってしまった。しかしそれを監督する立場だったはずの政府も、影の銀行システムの危うさを完全に見すごしていた。危機が起こったあとになって、ようやく規制の法案がでてきたというお粗末さだ。しかも新たな規制の内容は、すでに過去のものであるリスクにもとづいた初歩的な政策変更にとどまっている。
  • このままでいいわけがない。九・一一以降のアメリカは、諜報活動やテロ対策に膨大なリソースを費やしてきた。でも二〇〇八年の金融危機は、少なくとも経済的には、九・一一に劣らない損害をだしている。ほかのあらゆるリスクと同様、経済の災害を防ぐためにも僕らは全力をつくさなくてはいけない。FRBや証券取引委員会、世界銀行などの組織は、本来どんな金融機関よりもすぐれたプレイヤーであるべきだ。それが無理なら、学問の壁を超えた新たな経済研究機関をつくり、政策のアドバイスを頼んだほうがいい。世界経済を動かす立場の人びとが、ルネサンス・テクノロジーズに負けているようでは困る。
  • そろそろ本気をだすときだ。

 

 

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