起業の天才!―江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男

  • ベゾスは名門プリンストン大学で電気工学と計算機科学を専攻し、米国の成績評価であるGPAで4・2ポイント (通常は4・0ポイントが最高値)という極めて優秀な成績で卒業した。コンサル大手のアーサー・アンダーセン(現・アクセンチュア)、インテル、通信大手AT&Tなど錚々たる企業から就職の誘いがあったが、ベゾスが選んだのは、無名のベンチャー企業、ファイテルだった。1994年にアマゾン・ドット24年にアマゾン・ドット・コムを立ち上げるまでのベゾスの足跡をたどると、ベゾスが極めて計画的にファイテルを選んでいたことが分かる。
  • ファイテルで「株取引のオンライン決済」を学んだベゾスが次に選んだ会社は大銀行のバンカース・トラスト(現・ドイツ銀行)だ。ここでもオンライン・システムの開発に従事した。その優秀さは群を抜いており、23歳の若さで副社長に抜擢された。だがベゾスはこの大銀行にも安住しない。このころ出会ったコロンビア大学コンピューター学科助教授のデビッド・ショーの誘いを受け、彼が立ち上げたヘッジファンドに移籍する。
  • ショーもチチルニスキーに負けず劣らずの天才だった。チチルニスキーが株の国際取引をオンライン化したのに対し、ショーは為替の裁定取引(アービトラージ)をオンライン化した。ショーはコンピューターで裁定取引をする異色のヘッジファンド、「D・E・ショー」を立ち上げ、ベゾスを引き抜いて上級副社長に据え、コンピューター・ネットワークの開発を任せた。
  • ベゾスがファイテル、D・E・ショーというベンチャーでチチルニスキーやデビッド・ショーといった天才たちの下で働いたのは、けっして偶然ではない。プリンストン大学の在学中から「いずれはコンピューターを使ったビジネスで起業する」と決めていたベゾスは、そのために必要な経験を着々と積み上げていた。将来の自分に必要な人脈とスキルを冷静に選んでいたのだ。

 

  • ベゾスはプリンストン大学を出てからの自分のキャリア形成について、「後悔最小化のフレームワーク」という独特の思考方法を使ってこう説明している。
  • 「80歳になったら、自分はウォール街を去ったことを後悔するだろうか? ノー
    ノー。インターネットの誕生に立ち会えなかったことを、自分は後悔するだろうか? イエス

 

  • 江副はさっそく、企画書をまとめ、取締役会に提出した。「『リクルートブック』に次ぐ主力媒体として、不動産を扱う情報誌の創刊」
  • だが現状に満足している多くの役員からは、次々と反対の声が上がった。「不動産屋というのは枕詞に『悪徳』がつくぐらい評判が悪い。これまで人材情報で築き上げてきた日本リクルートセンターのイメージに傷がつく」
  • 「そもそも出版業界には『住宅関連の雑誌は売れない』というジンクスがある」「我々は不動産のプロではない。素人ばかりで不動産の情報誌は作れない」だが江副はいっさい耳を貸さず「絶対に伸びる事業だから」と押し切った。江副には、すでにこの時点で住宅情報誌が『リクルートブック』並みに100億円以上を稼ぎ出す未来が見えている。「儲かると分かっているのに、やらない手はない」というのが江副の考え方である。「失敗するかもしれない」「売れなかったらどうしよう」というネガティブな発想は頭の片隅にもない。

 

  • アップル創業者、スティーブ・ジョブズ、テスラ創業者のイーロン・マスクも同じ類の人間だろう。ジョブズはコンピューターがまだ大企業や政府の持ち物だった時代に、個人がひとり1台のコンピューターを持つ世の中を夢想した。マスクは二酸化炭素を排出しない電気自動車(EV)が普及し、ガソリン車が地球から一掃されるビジョンを見ている。一時期のテスラは3ヵ月に1000億円のペースで現金を燃やしながらEVを作っていた。ふつうの人間から見れば「狂気」だが、マスクにとってそれは「必然」である。そして日本リクルートセンターによる住宅情報誌の発刊は江副にとって「必然」だった。

 

  • 初心で真っすぐな日本リクルートセンターの若者たちは、こうした悪質な商売を一掃した。「駅まで8分」は本当に8分なのか。「閑静な住宅街」が国道に面していることはないか。「情報審査室」を立ち上げ、読者からクレームのあった物件に足を運び、「悪質」と判断した広告は取り下げ、悪質な広告が多いデベロッパーとは取引をやめた。業界で大手と呼ばれる会社も例外ではなかった。
  • 「徒歩1分=0メートル」という業界内の規約が『住宅情報』の出現によって守られるようになり「怪しげな不動産広告」は減っていった。これまで不動産会社に閉じ込められていた情報が消費者に解放され、不動産会社も本当に家を買いたいと思っている人に物件情報を届けられるようになった。『住宅情報』は『リクルートブック』と同じ原理で買い手と売り手をマッチングし、双方をハッピーにした。未知なる不動産業界に飛び込んだ若者たちは「自分たちは世の中の役に立っている」という充実感を励みに、猛烈に働いた。

 

  • 会社をより大きくするため、江副はパッシーナで日本のエスタブリッシュメントとコネを作ろうとした。それがリクルートの理念と相容れないことに、考えが及ばなかったのだろうか。「リクルートブック』は親や教授のコネがない学生が大企業に入るきっかけを作った。『就職情報』と『とらばーゆ』は、後ろ暗いイメージがあった「転職」を当たり前のものにした。『住宅情報』は一般の消費者には知ることのできなかった不動産情報を誰でも手に入れられるようにした。情報誌ビジネスの理念は、既得権者が独占していた情報をオープンにする「情報の民主化」にある。江副は閉ざされた情報を人々に解放する改革者だった。

 

  • 「みなさん若いですね」
  • 若佐は前の会社を思い出していた。新しいことを提案するとまず「リスクが大きい」「前例がない」と後ろ向きな反応があり、どの部署にも「俺は聞いていない」とゴネる中間管理職がいた。ところがリクルートでは「いったいなんのサービス」と言いながら、全員がものすごいスピードで未知の領域に向かって疾走する。福岡の居酒屋が出すめっぽう新鮮なイカの刺身を噛み締めながら、若佐は思った。(ここでなら、思い切り働ける)

 

  • 特捜部は総務部長の竹原が裏ガネ工作に絡んでいると睨み、執拗に取り調べた。霞が関の中央合同庁舎にある特捜部での聴取は週2回から3回のペース。竹原の担当になったのは若い検事だ。
  • 「まず、会社の組織図を見せてください」
  • 「組織図ですか。いちおう、確認してみますが、たぶん、ないと思いますよ」「そんなはずはない。リクルートほどの大企業なら組織図くらいあるだろう」「いや、見たことないです」「じゃあ、職務権限表は」「なんですか、それ?」「君は、俺をバカにしているのか!」「いや、いや確認します。確認しますから電話借りてもいいですか」
  • 検事は電話機に向かって顎をしゃくり「かけろ」と合図した。「うん、そう、会社の組織図と職務権限表がいるらしいんだけど。そんなの、あったっけ。うん、そうだよなあ。俺も見たことないもんなあ」受話器を置いてから、竹原は言った。「やっぱりありません」検事が激昂した。「お前、ありませんでしたで済むと思っているのか!」
  • たえず新規事業が立ち上がり、激しい細胞分裂を繰り返す育ち盛りのリクルートでは、収益責任と人事権を持つ「現場の経営者」であるチームリーダーが頻繁に新しいプロジェクトを立ち上げ、必要な人員を採用したり他のチームから引き抜いたりする。仕事の中身も担当者も3ヵ月に一度のペースでコロコロ変わるので、組織図や職務権限表を作りたくても作れないのだ。あるのは電話の内線表くらいのものだ。
  • だが役所文化に染まった検事に、ベンチャーの内部事情を分かれと言うほうが無理である。「君たち一人ひとりが経営者だ」江副にそう教えられたリクルートの社員と、「検事総長を頂点とした指揮命令系統に服する検察官同一体の原則」の組織で育った検事の攻防は、モハメド・アリアントニオ猪木異種格闘技の試合のような、締まらない展開になった。
  • 泣く子も黙る特捜部に呼び出されれば、どんな大企業のエリート社員でも「自分だけは助けてくれ」と慈悲を乞うのがふつうである。取り調べを始めたところから、相手は降参の白旗を振っており、検事の「勝ち」は決まっている。だが怖いもの知らずのリクルート社員は勝手が違った。「今日は大事なミーティングがあるんで、早く帰してもらえませんか。今日、決めないと査定に響くんです」そう言って、検事を唖然とさせる強者もいた。竹原は捜査が終結するまで、1回3時間の取り調べを計8回受けた。自分が最多記録だと思っていたが、後で聞いたら社長の位田が30回を超えていた。

 

NTTの先祖返り

  • 真藤が去って蘇ったNTTの官僚組織はiモードの成果を自分たちの手柄にし、外人部隊を追い出しにかかった。松永ら外人部隊の大半は3年でドコモを去り、大星の次の社長になった立川敬二は、ベンチャー気風が漂うドコモに「営業利益率2割」を必達目標とする「計画経済」を持ち込んだ。
  • 立川の硬直的な経営でドコモは、KDDI(au)に通話料の値下げ競争や「着うた」サービスで後れを取り、Jフォンが写メールを大ヒットさせても、カメラ付き携帯電話に本気で取り組むまで時間がかかった。
  • 立川は「iモードの技術がいらないという会社があったら、お目にかかりたい」と豪語し、各国の通信会社に次々と出資。その投資総額は2兆円に及んだ。だが公社体質に戻ったドコモの殿様商売が海外で通用するはずもなく、「iモード」は世界に根付かなかった。結局ドコモの海外展開は、1兆5000億円の損失を出して「打ち止め」になる。
  • ドコモの失敗で、iモード対応の携帯電話を海外で売ろうと意気込んでいた電電ファミリーも総崩れになる。2007年にアップルの「iPhone」が出た後も、電電ファミリーはドコモに義理立てして「ガラケー(旧式の携帯電話)」に固執したため、スマホへの対応が遅れた。これが致命傷となり、日本メーカーの携帯電話は世界市場で完敗することになる。
  • 真藤が改革を完遂してNTTやドコモがまともな民間企業になっていたら、iモードの世界展開はまったく違う形になっていたはずだ。iモードが世界標準になれば、今ごろ、日本メーカーがファーウェイを押しのけて世界市場を席巻していたかもしれない。

 

  • 時の政権を倒し、ついに死者まで出した事件について、評論家の俵孝太郎は1989年5月21日付の読売新聞への寄稿で、こう語っている。
  • 「なんの具体的な証拠もないのに、憶測や予断や偏見や政治的打算に基づいて、政治的、道義的責任を問うという美名のもとに個人攻撃を加えるのは、明らかな政治的リンチであって、法が支配する社会で許される行為ではない」
  • こうした冷静な論評は「巨悪を逃がすな」とばかり一億総特捜検察、となった世論の前では、焼け石に水だった。

 

  • バブル崩壊直前に起きたリクルート事件で「不良企業」の烙印を押されたリクルートは、公的資金の救済を受けられるはずもない。3年余の歳月はかかったが、国を頼らず自力で1兆8000億円を返し切った。
  • 位田はデメジでネット時代への可能性を残し、河野は家計簿経営で乾いた雑巾をさらに絞った。そして「プリンス」と呼ばれた柏木の時代に、ついに借金返済のゴールにたどり着いた。江副が去った後もリクルートは「奇跡の会社」であり続けた。
  • バブルの時代に狂ったように貸し出し競争を繰り広げ、天文学的な規模の不良債権を抱えた金融機関を救済するため政府は2度にわたって銀行に公的資金を注入した。1度目は大手銀行と地方銀行、計2行に総額約1兆8000億円。奇しくもリクルートが背負った借金と同額だ。2度目は9年3月、大手銀行と地銀の計5行に総額約7兆5000億円を注入した。経済学者の野口悠紀雄は著書『戦後日本経済史』の中で〈破綻金融機関の処理で確定した国民負担の総額は、2003年3月末までで10兆4300億円に上った〉と推定している。
  • リクルート事件を引き起こした江副浩正は日本の経済史に「巨悪」と刻まれたが、自分たちの栄達と保身のためにバブルを膨らませ、国民に10兆円を超える負担を強いた大銀行の幹部や行政の責任が問われることはなかった。
  • 「信用できるのは大銀行や中央官庁で、起業家やベンチャーはいかがわしい」この価値観もまた、バブル崩壊から30年経っても日本経済が停滞から抜け出せない根本的な原因のひとつなのかもしれない。

 

  • 2018年に日本でもベストセラーになったフレデリック・ラルーの『ティール組織』は、人間が作る組織の進化を「カリスマが率いる衝動型(レッド)」「軍隊式のヒエラルキー型(アンバー=琥珀)」「成果主義型(オレンジ)」「人間関係重視型(グリーン)」「進化型(ティール=青緑)」に分類する。ティール組織は「強力な権限を持つリーダーが存在せず、現場のメンバーが多くのことを決定する」ことが特徴とされる。
  • 日本企業の多くはいまだ「レッド」か「アンバー」に属するが、江副の「社員皆経営者主義」は20年前から「ティール」だった。
  • 革新的なビジネス・モデルと、心理学に根ざした卓越したマネジメント理論。江副の手によってこのふたつを埋め込まれたリクルートは、江副が去った後も成長を続け、日本の情報産業を牽引する企業になった。2012年に1000億円で買収した米国の求人サイト「Indeed(インディード)」の爆発的な成長で、2019年3月期には連結売上高2兆3000億円のうち1兆円を海外で稼いだ。江副が成し得なかったグローバル化にも成功したのである。

 

ようやく時代が江副に追いついてきた

  • 1995年7月1日、まだ事件の余韻が残るリクルートに、たった7人の小さな事業部が生まれた。「電子メディア事業部」。通称「デメジ」である。
  • 事業部長は常務の木村義夫。リーダー格のエグゼクティブプランナーは木村が九州から呼び寄せた高橋理人。1982年入社の高橋は、木村が大阪支社長だったころ、関西版「住宅情報』営業で頭角を現し、この時は九州版『住宅情報」の編集長と九州支社長を兼ねていた。「人格者」で知られる高橋の下には若い暴れ馬が配された。たとえば1987年入社の薄葉康生と1988年入社の笹本裕。
  • 薄葉は東大工学部で情報工学を学んだ。リクルートに入社したあと、社費でロチェスター大学のサイモン・ビジネススクールに留学してMBA(経営学修士)を取得した。
  • 笹本はバンコク生まれで英語が堪能。獨協大在学中に米3大ネットワークNBCの日本支社で通訳兼ニュースデスクをしていた。薄葉と同様、1993年に社費でニューヨーク大学に留学。MBAを取得して1995年に帰国した。ふたりとも、会社が「将来の幹部候補」と見込んでいた逸材である。
  • デメジにエース級を集めた位田は、新聞のインタビューで、その狙いを説明している。
  • 「印刷物に頼った出版という概念だけにとらわれてはいけない。情報提供業と考えれば紙媒体だけでなくインターネットなど多様なメディア、通信と融合したサービスも展開できる。当社は質量とも優れたソフト、情報を持っている。これをベースに『いつでも、どこでも、だれでも』有益な情報に接触できる情報サービスのインフラをつくり上げたい」
  • デメジが誕生した1995年は、優れたネットワーク機能を持つマイクロソフトのパソコンOS(基本ソフト) 「Windows95」が発売された年であり、のちに「インターネット元年」と呼ばれる。その10年前に「紙の情報誌は終わる」と予言した江副が思い描いていた新しい情報産業の姿が、やっとおぼろげに見えてきた。
  • ちなみに江副時代にリクルートが出資した金融決済システムのベンチャー企業「ファイテル」で働いていたジェフ・ベゾスが、ヘッジファンドの「D・E・ショー」をやめて、オンライン書店の「カダブラ」(アマゾンの前身)を設立したのは、デメジが生まれる1年前の1994年7月。スタンフォード大学の学生だった楊致遠(ジェリー・ヤン)とデビッド・ファイロが「ディレクトリー(電話帳)」と呼ばれる「Yahoo!」を設立したのは1995年3月である。
  • 江副が1985年の「ALL HANDS ON DECK!」の演説でオンライン・シフトを宣言してから1年。ようやく時代が江副に追いついてきた。
  • 実は「情報サービスのインフラ」というアイデアを、社長の位田に持ち込んだのは薄葉だった。カーテン屋の息子だった薄葉は子供のころ、店のソロバンが電卓に置き換わったとき、「コンピューターってすげえ!」と目覚めた。大学卒業後はIBMに就職するつもりだったが、東大の先輩、熊澤公平に「日本でいちばんたくさんスーパーコンピューターを持っている会社はリクルートだぞ」と誘われ、ついついリクルートに就職してしまった。
  • 熊澤は希望どおり、元NASAのエンジニア、メンデス・ラウルが所長を務める「スーパーコンピュータ研究所」に配属されたが、薄葉の配属は経営企画部で、直属の部長はのちに社長になる当時20歳の柏木斉だった。
  • 柏木の下で5年ほど秘書業務の修行をした薄葉は、社費留学を許されインターネットの勃興期を米国で過ごした。薄葉はそこで、「紙の終わり」を論理的に理解した。そして帰国した1993年、位田にこう進言した。
  • リクルートの情報誌は、クライアントから、原価と乖離した法外な原稿料を取っています。そんなことができるのは書店やコンビニエンスストアで物理的な棚をリクルートが独占しているからですが、インターネットの時代になればこのアドバンテージが消えて今のような利益は稼げなくなる。われわれが率先してインターネットのビジネスを始め、潜在的な競争相手に進出する気をなくさせてしまうべきです。リクルートは出版社からインフォメーション・プロバイダーになるべきです」
  • 位田の最大の使命は、江副が残した1兆8000億円の借金を返済することだった。銀行に融資を続けてもらうため、当時のリクルートは、毎年、営業利益から1000億円を返済に充てていた。そのためには営業利益率20%というとてつもなく高い収益力が必要であり、位田自身も情報誌のコストを削減するため、製紙工場に交渉に出向いていた。借金漬けのリクルートは新規事業など始められる状態ではなかったが、位田は薄葉の提案に可能性を感じた。そこでリクルートでも屈指の「人材の目利き」である常務の木村に「精鋭中の精鋭」を選ばせた。たった7人の小さなチームが「情報革命」の松明を江副から引き継いだ。

河野栄子の家計簿経営

  • やがて中古車情報誌『カーセンサー』や書籍情報誌『ダ・ヴィンチ』がオンラインで読めるようになった。これらをまとめたサイトは「Mix Juice(ミックスジュース)」と名付けられた。ミックスジュースは月間7500万PV(ページ・ビュー)の人気サイトになり、7人で始まったデメジの部員数は50人に膨らんだ。
  • 99年1月、デメジの事業部長になった高橋はミックスジュースを刷新し、旅行、車、本など5分野140万件のデータベースを横断的に検索できる「ISIZE(イサイズ)」を立ち上げる。
  • ただこの時代のサイト運営者はPVを稼ぐことに夢中で、マネタイズ(収益化)が後回しになっていた。とにかく面白いコンテンツでPVを稼ぎ、「今、ページを見ている1000万人が月に1000円払うようになれば100億円」という仮想の数字で満足していた。だが実際に課金を始めると、利用者は潮が引くように逃げていく。
  • 高橋は年会費2000円で紹介した飲食店やホテルなどの割引サービスが受けられる
    「ISIZE club e」で、広告収入以外の収益を探ったが、このクーポン・サービスが世の中で認知されるのは10年以上後のことだった。誰もが、インターネットでカネを稼ぐ方法を見つけられないでいた時代だった。
  • 1997年6月、位田に代わって河野栄子が社長に就任した。河野は「何が何でも借金を返す」という鉄の意志を持つ経営者で、インターネットにはまったく興味を示さなかった。デメジ受難の時代が始まった。
  • 「あなた、それ無駄じゃないの」
  • 「それでいくら儲かるの」
  • 江副はもちろん、摑み所がなくて宇宙人と呼ばれた位田にも、大阪商人の中内にも、経営にロマンを求める傾向があった。だが、けっして裕福ではない家庭で育った河野にその甘さはなかった。河野は目の前の現実しか見ない。「ケチ」と言われようと「石頭」と言われようと、余分な経費は少しでも切り詰めて、すべてを借金の返済に回す。河野の経済観念のベースは「家計簿」だった。
  • 麻雀好きの河野は社長になっても5時半にきっちり仕事を終わらせ、雀荘に向かった。勝負師の河野はロマンチックな役満には目もくれず、小さな手でコツコツ上がり、必ず勝ちを拾った。ゴルフも男顔負けの腕前だ。ある日、社員が聞いた。
    「河野さんはどうしてそんなにゴルフがうまいんですか」河野は「何を当たり前のことを聞くのか」という顔で答えた。「あなたたちみたいに危ない場所に絶対、打たないからよ」「そんなにうまいんだから、僕らと同じレギュラーティーからやりませんか」「だって女性の権利だもん」河野はいつもどおりにレディースティーから打ち、コンペの商品をさらっていった。当然のことながら家計簿経営とデメジは相性が悪い。「そんなにおカネがかかるんじゃダメね」
  • 高橋が新しいビジネスプランを持ち込んでも、河野はゴーサインを出さない。その間隙をつくように、ヤフーを傘下に持つソフトバンク楽天などが日本のネット市場を席巻していく。先行したはずのISIZEは後発組に追い抜かれた。
  • もどかしい状況が続く中、ISIZEのメンバーはひとり、またひとりとリクルートを去っていく。
  • 笹本は1999年、ネットベンチャーのクリエイティブ・リンクに入社。翌年には取締役最高執行責任者(COO)として米ミュージック・ビデオ大手MTVの日本法人に移籍。代表取締役CEOを務めた後、マイクロソフトを経て2014年、ツイッター・ジャパンの代表取締役に就任した。
  • 高橋は2007年、ISIZEの経験を買われて楽天に入り、2016年までインターネット・ショッピング「楽天市場」の事実上の責任者として会社の成長を支えた。創業者の三木谷浩実は海外での企業買収からプロ野球まで多忙を極める。グループの中核である楽天市場の日常のオペレーションは高橋が受け持った。高橋が楽天市場の副事業長をしている間に、楽天の流通総額は9810億円(2007年度)から3兆$億円に膨らんだ。
  • デメジからWeb戦略室に移った薄葉は2002年、日本IBMに移り、GEコンシュー
    マーファイナンスを経ていったんリクルートに復帰した。しかし、それも束の間、2011年にはグーグル日本法人のチャンネル・セールスの責任者に就任した。
    グーグルに移籍した薄葉は思った。
  • 「江蘭さんが作りたかったのは、きっとこんな会社だったんだろうな」
  • デメジの中核メンバーは空に飛んだタンポポの種が別の場所で花を咲かせるように、日本のネット産業のあちらこちらで、その才能を開花させた。

 

 

 

MarketHack流 世界一わかりやすい米国式投資の技法

Market Hack流投資術10か条は以下の通りです。

  1. 営業キャッシュフローのよい会社を買え
  2. 保有銘柄の四半期決算のチェックを怠るな
  3. 業績・株価の動きが荒々しい銘柄と、おとなしい銘柄をうまく使い分
    けろ
  4. 分散投資を心がけろ
  5. 投資スタイルをきちんと使い分けろ
  6. 長期投資と短期投資のルールを守れ
  7. マクロ経済がわかれば、投資家としての洗練度が格段に上がる
  8. 市場のセンチメントを軽視する奴は儲けの効率が悪い
  9. 安全の糊代をもて
  10. 謙虚であれ(投資の勉強に終わりはない)

 

営業キャッシュフローとは、ある企業が商品やサービスを売ることで得た売上高から、原材料費などの支出を引くことで得られる現金収支を指します。私が純利益や1株当たり利益(EPS)よりも、まず営業キャッシュフローを重視する理由は、営業キャッシュフローは会計的に一番ごまかしにくいからです。着実に数字が増えていないようなら、その銘柄へは投資しないほうがいいでしょう。

Financials>Cash Flow>Operating Cash Flow

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次にTotal Cash Flow From Operating Activitiesと、先ほど飛ばした「Net Income」を比較します。比較の仕方は縦に、同じ年の営業キャッシュフローと純利益を見比べるのです。ここで気をつけなければいけないのは、Operating Cash Flow、つまり営業キャッシュフローは必ずNet Income from continuing、つまり純利益の数字より大きくなければいけないということです。

もし営業キャッシュフローより純利益のほうが大きくなってしまっている会社に遭遇した場合、その会社は無理矢理利益を計上しているリスクがありますので、絶対に避けるべきです。もう一度いい直すと
Operating Cash Flow > Net Income
でなくてはいけないのです。この基準を満たしていない銘柄は、投資するに値しません。

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営業キャッシュフロー・マージンが15~35%ある会社を狙え

次のポイントは営業キャッシュフローと売上高の比較です。ここで鉛筆と電卓が必要になります。まず最も新しい営業キャッシュフローの数字を紙にメモして下さい。

次に売上高の数字を調べます。先ほどメモした営業キャッシュフローの数字を売上高で割り算して下さい。これが営業キャッシュフロー・マージンです。もう一度、いい直すと:

営業キャッシュフロー÷売上高=営業キャッシュフローマージン

というわけです。理想としてはこの数字が15~35%あると素晴らしいです。平均的な米国株は11.9%前後です。

すでに儲かる構造になっている会社は、よほどのことがない限り、その儲けの構造は崩れないということです。

 

ヘッジファンド・マネージャーの財務分析

このコラムでは、実際にプロのファンドマネージャーが、どんな点に気
をつけながら財務諸表を読んでいるのかを解説します。最初にポイントを
まとめておきます。

  1. EPSはごまかしやすいが、営業キャッシュフローはごまかしにくい
  2. 営業キャッシュフローは、必ず純利益より大きくなければいけない
  3. 営業キャッシュフローは、年々着実に増えているのが望ましい
  4. 決算の数字を作るのに苦労しているかどうかは、リニアリティを見ればわかる
  5. ホッケー・スティック型の売上になっている企業は無理している
  6. その無理はDSO(売掛金の回収に要した日数)が増えることでバレる

企業が決算発表した時、大部分の投資家は売上高が予想を上回っていたか、さらに収益が予想を上回っていたかの2点に注目します。売上高や収益の数字が投資家から注目されているということは、企業の側からすると、この2つの面で「何がなんでも予想数字を達成したい」という気持ちが働くことを意味します。このような動機付けは往々にして無理して数字を作るプレッシャーを与えます。

毎期の決算である会社がちゃんと売上目標を達成しているか、それとも裏で結構苦労して数字をひねり出しているかを見分けるには・・・この概念をリニアリティといいます。・・・四半期末とか年度末とかに追い込みをかけて、最後に売上高がぐいっと伸びることを英語では「ホッケースティック」といいます。・・・一般論でいえば悪い会社です。

ホッケー・スティックで最後の追い込みをかけ「エイヤァ!」と数字を作った場合、P&L、つまり損益計算書で見る限り、ちゃんとコンセンサス予想を達成できているように見えます。でも期末に駆け込みで売った分については、お客さんは当然すぐに支払いしてくれませんから、売掛金が多く残ります。するとバランスシート上の売掛金の残高のところが膨らむということが起きます。つまり損益計算書でつくウソは、貸借対照表で見抜ける場合があるということです。

期末に駆け込みで数字を作った企業の四半期決算は、売掛金が多く残る

空売りを得意とするヘッジファンドなどはこの売掛金の動きを特に注意深く観察します。知っておいてほしい言葉が「DSO」という言葉です。DSOとは「デイズセールスアウトスタンディング」、つまり売掛金の回収に要した日数です。これは売掛金の残高を1日平均売上高で割り算した数字です。当然、この数字は小さければ小さいほうがよいのです。また、前期と比べて今期のDSOが増えているか減っているかを比較するようにして下さい。折角、コンセンサス予想を達成している企業でもDSOが増えていたら「あ、無理したな」というのがわかるわけです。

 

コンセンサス予想を調べる

さて、決算日の他に、投資家が知っておくべきことは何でしょう?それはコンセンサス予想です。コンセンサス予想とは、その銘柄を調査している各証券会社のアナリストの予想の平均値を指します。普通、EPS(EarningsPer Share=1株当たり利益)と売上高が問題にされます。それを調べるには再び英語版ヤフー・ファイナンスを使います。

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決算発表の前にコンセンサスEPSと売上高予想をあらかじめ調べておく

株価というものは絶え間なく未来を織り込もうとするものです。したがって現在の株価は既にコンセンサス予想を反映していると考えられます。「決算がよかった」とか「悪かった」といった場合、必ずこのコンセンサスの数字が基準になります。仮にEPSが去年に比べて + 100%成長した企業があったとしても、コンセンサス予想が+110%を見ていたのであれば、それは落胆すべき結果です。マスコミの報道は、しばしばこのコンセンサスを無視しているので「 + 100%も成長して、素晴らしい!」というトンチンカンな報道になるのです。

別のいい方をすれば、マスコミの報道は投資家の期待というものを理解していないのです。この場合、期待=コンセンサス予想です。それでは期待はどのように形成されるのでしょうか? 通常、投資家の期待は決算発表時に会社側が提示するガイダンスによって形成されます。ガイダンスは、バスガイドのガイドと同じ語源です。つまり来期以降の業績がどうなるかの理解を手助け(=ガイド)するために、会社側が提示する予想数字のことを指すのです。

もう一度、前に調べたEPSの表に戻って説明すると、Next Qtr.(来四半期)のところです。普通、企業は決算に際して来四半期(Next Qtr.)と通年(Current Year) の2つのガイダンスを提示します。ただ企業によってはガイダンスを示さないところもあります。

すると、ある会社の決算がよかったという場合は、まずEPSの数字がコンセンサス予想を上回ることが必要になります。次に売上高の数字もコンセンサス予想を超える必要があります。さらにガイダンスが来期 (Next Qtr.)のEPSと売上高の予想を超える必要があるのです。この三拍子が揃って、はじめて投資家の満足のいく決算だったと評することができるのです。

 

よい決算とは?:

  • EPSがコンセンサスを上回る
  • 売上高がコンセンサスを上回る
  • ガイダンスがコンセンサスを上回る

上場間もなく決算を2回連続でしくじった会社の株は売れ!

一般論として、どんなに歴史の長い企業でもEPS、売上高、ガイダンスの3つの点でコンセンサスを上回ることが必要です。しかしIPOして間もない企業の場合、この要求はきわめて厳しくなります。

IPOに際して主幹事証券は「上場後初の決算は絶対よい決算にならないといけません。だから業績の見通しは、あらかじめ大幅にサバを読んだ、楽勝に達成できる低い数字を語って下さい」と経営者に念を押します。だからのっけから決算でズッコケるというのは、あってはならないことなのです。もし、IPOして間もない若い会社が、2回連続して決算でしくじったら、どんなに損していても、その株はぶった切って下さい。なぜなら、その水準からさらに半値になるリスクが大きいからです。それでも淡い期待を持ち、「アホールド」してしまうのは、ひとえに皆さんの経験が浅いからです。


よい株というのは、来る決算も来る決算も、毎回、キッチリと予想を上回る株です。

英語版ヤフー・ファイナンスに「Earnings History」(アーニングス・ヒストリー=過去の決算の歴史)というのがあります。

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ここでEPS Estというのはコンセンサス予想です。EPS Actual というのは結果です。そしてSurprise %というのはどのくらいこれら2つの数字が乖離していたかを示しています。リンクトインの場合、全てアップサイド、つまり予想を上回るサプライズになっていることがわかると思います。このくらい「これでもか、これでもか!」というほど嬉しい思いをさせてくれれば、イヤでもファンになりますよね?

典型的な「凍死家」は、株を買う前だけ、一応、下調べします。それで「よいかな?」と思って株を購入すれば、もうそこでリサーチは終わったと錯覚します。ところが、プロはそうではありません。プロは「この株、どうかな?」と思ったら、まず打診買いといって、少し株を買ってみるのです。その理由は実際にポートフォリオの中にその銘柄を入れたほうが、調査に身が入るし、その企業のことを早く理解できるからです。でもそれは勉強の始まりを意味するのであって、個人投資家のように調査の終了を意味するのではありません。

個人投資家は(おれがちゃんと調べて買った株に、間違いはない)と全く根拠のない自信を持ち、決算もチェックせずにその株を抱き続けます。これは投資家ではなく、単なる「信者」です。いやしくも自分が投資家だと名乗るのであれば、最低限必要な継続的努力を続けて下さい。(よい株なんだから、いつかは自分の持ち株が上がるだろう)という考えは、リサーチではなく単なるHOPE(希望)です。

 

値幅取りの上昇余地に目を奪われる人ほど確率(オッズ)という問題に盲目なのです。

個人投資家株式投資ではせいぜい10銘柄から16銘柄程度が目の行き届く限界

最近では株式投資のリターンをベータ(市場全体のボラティリティからくる利食い部分)とアルファ(投資家の腕前)に分けることが流行っています。そこでは、投資資金の大部分をヘッジファンドなどの代替資産へ投資してアルファを取る、そういうやり方がされるのです。

 

グロース投資はここに気をつけろ

グロース投資を定義します。グロース投資とは、その企業が市場平均に比べてより高い収益成長の見込める場合、株価収益率、つまりPERや株価純資産倍率、つまりPBRなどの水準を気にせずに投資する方法のことを指します。

グロース・ファンドの先駆けはフィデリティが1958年に設定したアグレッシブ・グロース・ファンドで、当時のファンドマネージャーはジェラルド・サイという人でした。彼の成功を見て、いろいろなファンドが登場しました。フレッド・アルジャー、フレッド・メイツ、フレッド・カーといったファンドマネージャーたちが続々とグロース・ファンドを出したのです。当然ブームにはいつか終わりが来るので、ゴーゴーファンド・ブームも終焉を迎えました。

株式投資の際、一般に投資家は業績、モメンタム、マーケット、バリエーションについて考慮すると思うのですが、グロース投資の投資家は株価のモメンタム(勢い)や業績の成長率にとりわけ注意を払います。グロース投資の投資家は、マーケットそのものが強気相場に入っているか、それとも弱気相場か?という点にも敏感です。その反面、バリュエーション(割安かどうか?という株価評価)に関してはほとんど注意を払いません。

グロース投資の長所は、株を買った直後から利が乗り始めるケースが多いという点です。逆にいえば、株を買った直後からすぐに利が乗り始めないのなら、銘柄選択や買うタイミングをあなたが間違った可能性が高いのです。その場合、すぐ処分すべきです。

グロース投資で株を買った直後から利が乗り始めないのなら、銘柄選択や買うタイミングを間違った可能性が高い。すぐ処分せよ

グロース投資は、順張りで、しかも目をつける点が比較的明快なので初心者にも実践しやすいです。さらに相場環境そのものがよい時、グロース株はベータ値が高いので市場平均よりさらに大きなリターンが期待できると考える人もいます。

一方、その問題点としてはチャートが崩れた時、あるいは決算発表で悪い数字が出ているのに、なんだかんだと希望的なシナリオを描いて見切りをつけられない人がいるという点です。早目の損切りが断行できない人は、クロース投資をするべきではありません。

注ベータ値:市場全体の動きで説明できる株価の上下のこと。例えば日経平均が1%上昇した時、ある株が同じく1%上昇したなら、ベータ値は1.00になります。

あなたが未練がましい人間なら、グロース投資には向かない

またバリュエーションが高くても目をつぶって買いにいくことから、バブルの天井をつかむリスクがあります。さらに泡沫的企業や短命な商品、浮わついたアイデアに依存する危ない会社の株を買ってしまうリスクがあります。それから、ベア・マーケット(弱気相場=一般に直近の高値から20%以上下落した時は「ベア・マーケット入りした」と考えられます)になった時は、市場平均よりもっと遥かに大きな痛手をこうむります。なぜならベータ値が高いからです。今仮にベータ値が2.0 の株があるとすれば、その株は市場全体の動きの200%、つまり2倍、上昇も下落も激しいわけだから、マーケット全体が20%下げた局面では、40%下落することを覚悟しなくてはいけないのです。

グロース投資の投資尺度をもう一度整理します。

まずEPS成長率、これが大事です。売上高成長率にも注目する投資家もいます。それから市場全体に比べてその株価や業績の推移が優っているか?という比較感、それを「レラティブ・ストレングス」といいますが、これにこだわります。さらに決算を発表するたびにポジティブなサプライズが出ないといけないです。なぜなら、上方修正の繰り返しがモメンタムを生むからです。

バリュー投資はここに気をつけろ

次にバリュー投資に移ります。まずバリュー投資を定義します。バリュー投資とは、株価がその企業の内在価値に比べて割安に取引されている時を見計らって投資するスタイルのことを指します。

内在価値とは、英語では「イントリンシック・バリュー」と呼ばれます。これは企業を買収して、その資産をバラバラにして売却した場合の価値というケースもあると思いますが、むしろキャッシュフローを生み出す潜在力を指す場合が多いです。

さて、先ほど見たチェック項目にもう一度戻ると、バリュー投資家の場合、モメンタムはあまり気にしません。またマーケットの地合いにも頓着しません。一方、バリュー投資家はその銘柄にいったいいくら払うんだ?という買い値にはとても厳しいです。別のいい方をすれば、バリュー投資家は上値に手をつけるということは恥だと思っているフシがあります。

買い値にシビアでないくせに、バリュー投資家を自称する人は、もぐりである

逆にいえば、業績がガクンと悪くなって、株価が急落した局面でも、それはいっときのことで、また業績は元に戻ると思えば、ガッツで買い向かいます。だから悪い決算が出た時、グロースの投資家は躊躇せずブン投げて、それをバリューの投資家がせっせと拾うということは毎回繰り返される光景なのです。

バリュー投資のよい点はメチャクチャ短期で儲かったりしないかわり、比較的安定した投資成果が期待できる点にあります。また人気に流されたり、バタバタ取引しないので効率がよいし、バブルのド天井をつかんでしまうリスクも低いです。また常に余裕を見て、いわゆる、安全のための糊代を考慮しながら投資するため、それがクッションとなってダメージを小さく抑えるケースが多いです。

その一方で、バリュー投資の問題点は1年か2年くらいちょっと投資を勉強した程度では本格的なバリュー投資はできないという点にあります。つまりバランスシートや損益計算書を自在に読みこなせる能力が要求されるという点です。

ただ単にヤフー・ファイナンスなどでPERを見て、「うわあ、この株のPERは安い!」と思うのは、バリュー投資ではありません。なぜなら、本当に今の瞬間だけ割安になっている株と、万年割安放置されている駄目会社が区別できないからです。別のいい方をすればバリュー投資とは、過去にだいたい高い評価を維持できていた会社が、何かの拍子に今だけ割安に放置されており、黙って持っていれば自然にまた昔の姿に戻る……だから今の割安は、あくまでかりそめの姿なのだということを読めないといけないわけです。

このためにはある程度歴史がある会社でないと投資の対象にはならないし、インターネットのような新しい商品やサービスは投資の対象としては歴史がなさすぎるので不向きです。

バリュー投資でいうよい会社とは?

それではバリュー投資でいうよい会社とは、どんな会社でしょうか?ウォーレン・バフェットはよく「ワイド・モート(wide moat)」という言葉を使って、よい企業を説明します。そこで「ワイド・モート」の意味ですが、まずモート (moat)とは、中世の城の堀のことを指します。城池といういい方がされる場合もあります。これが巡らされていると、攻城戦の時、なかなか相手を攻略しにくいわけです。つまり投資用語でいうところのワイド・モート銘柄というのは、そういう卓越した防御力を持ったビジネスを指すわけです。

単純に考えれば、誰も参入したくないような仕事は、ある種の防御力を持っているといえますが、それだけでは投資用語でのワイド・モート銘柄とはいえません。まず大前提として、普通の会社以上に儲かっていることが必要です。次に、その儲けの構造が簡単に消失してしまわないことが条件となります。それではライバルの参入を撃退する際、何が武器、つまり城池になるか?ですが:

  1. 事業規模がバカでかい
  2. 市場占有率が圧倒的である
  3. 構造的競争優位(=多くの場合低コストになる特別な秘密を持ってい
    る)
  4. 太刀打ちできない無形資産(ブランド)
  5. ネットワーク効果
  6. ユーザーや顧客にとって乗り換えコストが大きすぎる

などが参入障壁となります。長寿の優良企業は、上に列挙した要素の1つだけを持っているのではなく、複数の武器を持っている場合が多いです。そのような深くて幅が広い城池を持っている企業は、簡単に打ち負かすことができないので、自ずと高い潜在事業価値が与えられます。さらに理想的には折角、そういう素晴らしい城池を持っているのだから、その会社の経営者が自ら堀の水を抜いたり、城壁を壊したりするような、防御力の破壊行為をしないことも重要です。

その一例は、奢った本社ビルを建てるなどです。つまりワイド・モート企業の最後のテストは、経営者が資本破壊的投資をしないこと、という条件になります。ここで特筆すべきは、普通、成長株へ投資する際、競争優位の源泉となる、新技術や新製品は、ワイド・モートとは無関係だということです。

さて、次の問題ですが、安く買うということは相場のセンチメントが悪い時に買うことを意味します。それはつまりすぐに利が乗らないことを意味するし、みんなが売っている時に買い向かうので強い信念が必要です。

皆が売っている時に、皆が嫌う会社を買うのだから、バリュー投資家は強い信念がなければいけない

よいビジネスを選別できなければいけないのですから、商売に対する鋭い嗅覚も必要になります。乱暴ないい方をすれば、実際に自分で商売をやったり、会社を経営したりしたことがある人のほうが有利であり、経験値がモノをいいます。

ろくに実社会でのビジネスの経験もないくせに、バリュー投資が極められると思うのは錯覚にすぎない

バリュー投資のルーツはグロース投資より古い

バリュー投資のルーツはグロース投資より古く、理論的な礎は1934年に出た「証券分析」という本が元になっています。ベンジャミン・グレアムとデビッド・ドッドというコロンビア大学の教授が書いた本ですけど、彼らはウォーレン・バフェットの師匠です。バフェットは今でもほぼ忠実にこの本に書かれている価値観やルールを実行しています。

この本が出る前は株式投資に対する体系的な理論というのは存在せず、株というのは賭け事と同じだと考えられてきました。でも機関投資家は当時も存在しました。それでは機関投資家は何に投資していたか? というと、それは主に債券でした。社債とか、鉄道債、電力債などが中心だったのです。

1929年に大暴落に至る株式ブームでは、人々は噂やムードに流されて手当たり次第株を買いました。だから暴落が起きた時は「やっぱり株なんて、手を出すもんじゃない」という否定的な意見が多かったのです。

グレアムとドッドはバブルの残骸の中から、「いや、そうじゃない、株式だって比較的安全に投資する方法があるはずだ」ということを主張したのです。別のいい方をすれば、株というものが機関投資家のまともな投資対象として、選択肢の1つに入るきっかけを作ったのがこの本なのです。

これをイメージしてもらうため、ちょっと脱線すると、オプションの価格決定理論に「ブラック・ショールズ理論」というのがありますが、あれが出る前はオプションというのは博打であり、機関投資家がオプション投資に手を染めることはありませんでした。でもブラック・ショールズ理論が出てからは、オプションやデリバティブに対するプロ投資家の認識がガラッと変わったわけです。「証券分析」という本は、ちょうどブラック・ショールズ理論と同じような一時代を画する型破りな本だったのです。その「証券分析」の本にはいろいろな投資のヒントが出ていますけど、私なりに参考にな
るなと思った言葉を抜き書きしてみました。

  • ある株が投資に値するかどうかの判断は市場全体の流れの中で決まるもので、「この値段なら買い」というふうに自動的、固定的なものは存在しない
  • 企業の内在価値は「薄価」と同じではない。また内在価値を企業の収益力の観点から捉えようとする場合でも収益力というのは一般化しにくい概念であり、その援用には注意を要する
  • ある株を分析することの有効性は偶然の要素がその分析に入り込む度合いが増えるにつれて薄まってしまう
  • ある株を買う時、「いくら払うか?」という問題は完成度の高い投資判断をするにあたって絶対欠かせない考察点である
  • 何が「よいビジネス」か?という定性的な判断の重要性はよく指摘されるところだが、その定義は簡単ではない
  • ある証券の「安全さ」は差し押さえることのできる担保価値によって決まるのではなく、その企業の返済能力によって決まる
  • 担保差し押さえ等の権利行使に際しては実際には理論と違って不都合なことがたくさん起こる
  • 株の買値には合理的に説明できる根拠がなくてはならない
  • 1銘柄だけに投資することを、投資とは呼ばない。投資であるためには分散ポートフォリオである必要がある
  • 「安全の糊代」を十分にとることだけが分析に交じり込む数々の不確実性に対する予防方法である

最後にバリュー投資の際に使われる投資尺度をもう一度まとめておきます。

 

マクロ経済がわかれば、投資家としての洗練度が格段に上がる

ジョージ・ソロスのグローバル・マクロという投資戦略

投資家によっては、経済の動きを心配するのは時間のムダだという人もいます。その典型的な例は米国屈指の投資信託会社、フィデリティで、かつて伝説的なファンドマネージャーだったピーター・リンチでしょう。彼は経済の分析をするような時間があったら、個別の銘柄を研究しろという主義でした。

この半面、主にマクロ経済の動きを観察することでトレード戦略を決め、素晴らしい成果を上げている投資家もいます。その代表はジョージ・ソロスです。彼はグローバル・マクロという投資戦略をとっています。

このように経済の動きを重視するかしないかに関しては、いろいろな意見があるのです。ただ1ついえることは、マクロ経済の動きがわかれば、それに沿ったカタチで自分の投資戦略を調整することができ、投資家としての洗練度は格段に上がるということです。

マクロ経済の動きがわかれば、投資家としての洗練度が格段に上がる

グローバル・マクロとはヘッジファンドを分類する時のカテゴリーの1つです。ヘッジファンドの投資戦略の1つだと申し上げてもよいでしょう。その特徴はマクロ経済の動きの中に不均衡を探す点にあります。

マクロ経済とは、財政収支や貿易収支やGDPなど、経済の巨視的な捉え方のことを指します。マクロ経済に対する概念はミクロ経済です。マクロ経済に何か不均衡があると、それが原因でストレスがたまります。そのストレスは、ある時点で堪え切れなくなって大きな訂正の局面を迎えます。このような激しい価格訂正の機会を捉えてFX、商品、株などをトレードするのがグローバルマクロヘッジファンドの投資戦略というわけです。

彼らのもう1つの特徴はそういうトレードをする際、レバレッジを使うという点です。また株なら株だけ、FXならFXだけというふうに自分の投資対象を限定せず、儲かると思えばなんにでも手を出すのがグローバル・マクロの特徴です。

ジョージ・ソロスは1992年にイギリスがEMS (European Monetary System、欧州通貨制度=ユーロの前身として採用された、地域的半固定為替相場制度)から脱退せざるをえなくなった時、ポンドを大量に売って「イングランド銀行を破産させた男」という異名を取りました。

ソロスはグローバル・マクロの投資戦略について次のように語っています。「私はあるルールにしたがってトレードするのではない。ゲームのルールが変わる瞬間をめがけてトレードを仕掛けるのだ」

グローバル・マクロ戦略ではまず投資のルールを決めて、それにしたがってトレードするのではなく、ゲームのルールが変わる瞬間をめがけてトレードを仕掛ける

危機が起こる可能性を探している

これは大変興味深い発言です。なぜなら多くの投資ストラテジーは、まずトレードに際してルールを確立して、後はそのルールに実直にしたがって投資するケースが多いからです。

例えばウォーレン・バフェットはバリュー投資家として知られています。彼の場合、師匠であるベンジャミン・グレアムが打ち立てたバリュー投資理論に基づいて、安全で長く生き残る会社が、何かの理由で割安になった時に買うという投資手法を持っています。だから急にFXに手を出したり、次はゴールドを取引したりとかはしないのです。

これに対してジョージ・ソロスに代表されるグローバル・マクロ・ヘッジファンドは、常に次におかしくなるところ、つまり危機が起こる可能性を探しているわけです。これは安いものを探すバリュー投資、急成長している会社に投資するグロース投資などとは根本的に異なるメンタリティです。

危機というのはみんなが安心し、慢心しているときにしのびよるものです。だからそういうチャンスを発見するのは簡単ではありません。また人の逆を行くコントラリアン(=へそまがり)の気質がなければそういうチャンスは発見できません。もう1つグローバル・マクロのトレーダーに要求されるものは、ちょうど何かが破綻する直前にポジションを建てるというタイミングのよさです。

レバレッジをかけるということは借りてきたお金、つまり金利のかかるお金でトレードするわけなので、イベントが起こらない1日、1日は損をこうむっているというふうにも考えることができます。またトレンドに逆らうコントラリアンである以上、早すぎる出動は命取りになりかねないのです。ここまで考えてくるとグローバル・マクロというのは、けっこう上級編の投資ストラテジーだということがおわかりいただけると思います。

グローバル・マクロというのは上級編の投資ストラテジー

グローバル・マクロのヘッジファンド・マネージャーの考えに接する

そんな難しいトレードを個人投資家がマネしてうまくいくのか? という素朴な疑問が出ます。確かにグローバル・マクロ・マネージャーたちの戦いは、我々が簡単に加担できるような生易しいものではありません。ただ個人投資家にはグローバル・マクロ・ヘッジファンドより圧倒的に有利な点があります。それは、トレードする資本が小さいので小回りが利くという点です。

有名なグローバル・マクロのヘッジファンドは数十億ドルもの資金を運用しています。しかも投資リターンを上げるために10倍から数十倍ものレバーレッジを利用することがあります。すると莫大な資金を投入できる投資対象でないと駄目だし、1日でカンタンに出たり入ったりできないのです。つまりスーパータンカーみたいなものです。すると、それらの巨大ファンドがどう動いているかということはウォール街じゅうに察知されてしまうし、手の内をさらけ出しながらトレードを成功させないといけないのです。

ヘッジファンドがポジションを建てることを「インプリメンテーション」といいます。インプリメンテーションは細心の注意を払って実行されます。でも手口がバレないことは稀です。だから例えば、ジョージ・ソロスなどの場合でも、自分がどう考えているか、自分がどういう投資戦略をしているかはそれほど包み隠ししません。

他の有名なヘッジファンド・マネージャーの例でいえば、例えばジョン・ポールセンはサブプライム問題が発生したとき大儲けしました。エンロンの崩壊を予測したジム・チェイノスは、最近は中国経済の減速を予言しています。またリーマンの破綻を予言したデビッド・アインホーンは日本国債をショート(売り)しています。このように有名な人がやっていることは新聞などにも書いてあるし、それほど苦労しなくても知ることができるのです。

それではなぜ一般投資家はそういう有名人のトレードを模倣することから利益を得ることができないのでしょうか?それは彼らの相場観は世間的常識から外れていることがほとんどだし、容易に受け入れがたい発想ないしは価値観だからです。

だからこそ、みすみす有名なヘッジファンド・マネージャーがある特定の相場観に基づいて動いていることを知りながら、それに合流できないのです。つまり耳を澄ましてそういう卓越したグローバル・マクロのマネージャーのいっていることを聞くことは大事だし、自分の先入観を疑って、全く正反対の視点から物事を考え直してみることも、時には必要なのです。そしてなぜ彼らがそういう結論に至ったかの根拠を理解するように努めて下さい。

グローバル・マクロのヘッジファンド・マネージャーの考えに接することで、自分の先入観を疑い、全く正反対の視点から物事を考え直してみる訓練ができる

 

安全の糊代をもて

安い仕込み値段だけが投資家にとっての防御だ

安全の糊代は、ウォーレン・バフェットの師匠であるベンジャミン・グレアムが「賢明なる投資家』という本で展開した議論です。崖っぷちギリギリのところを歩くのではなく、万が一に備えて、もっと内側を歩くという心構えに似ています。実際の投資に際しては、安全の糊代を提供するのは「仕込み値段」です。

安全の糊代を提供するのは、究極的には「安い仕込み値段」だけだ

株にはリスクがつきもの。だからこそなるべく安い値段で仕入れることで、物事が自分の思い通りの展開にならなかった場合でも、最悪のケースから自分を守ることができる..…そういう発想です。安い仕込み値段だけが、投資家にとって究極のプロテクション(防御)だ、という価値観だといい直してもよいでしょう。これはウォーレン・バフェットも、もちろん励行していることです。

この「無理をしない」という発想は、既に説明した分散投資にも相通じることですし、「ホームラン狙い」ばかりで、業績や株価の動きの荒っぽい気柄ばかりを狙う愚行を改めることにもつながります。

安易にPERの数値を信用するな

それではPERを使うこと自体に意味がないのでしょうか? 私は、そうは思いません。PERは「あーあ、やっちまったなあ」というデカいミスを避けるという意味で有効です。例えばPERが50%を超えているような銘柄を買ってしまうと、株価が半分や3分の1になるリスクを負いながら投資しているにほかならないのです。

PERは期待の高さを示しているのです。それはつまり「熱気 (hot air)」にほかなりません。もちろん、投資家は「この会社のEPSは、どんどん伸びる!」と信じているから高いPERを払うわけですが、勢い余って、熱気部分が業績の伸び(=EPS、成長率)より先走ることも多いのです。このような場面では、ベンジャミン・グレアムのいう安全の糊代は全くありません。

 

謙虚であれ(投資の勉強に終わりはない)

「最小限の努力で、最大のリターン」を考える奴はイチコロに死ぬ

投資を始めたばかりの人は(いつになれば必要最低限の知識を全部マスターできるだろうか?)ということに思いをはせます。そんな皆さんに、悪い知らせがあります。「これさえ知っておけば、OK」という、免許皆伝のようなことは、残念ながら投資の世界にはありません。

投資の世界でイチコロに死ぬのは、(最小限の努力で、最大のリターンを)と横着なことを考える奴です。そういう痛い投資家ほど、蜃気楼を追いかけるようにウマい話を追いかけます。そういう人に限って「百戦百勝」とか、「投資リターン数百%」という願い文句にコロッと参ってしまうのです。

「百戦百勝」とか「投資リターン数百%」などの「蜃気楼の法則ウマい話は蜃気楼と同じ。それを信じるのは、情弱な奴だけ

これが野球なら、もし誰かが「オレは打率8割だ」と自慢したら、すぐに大ボラだと気がつくでしょう。なぜならプロ野球で3割打てれば超一流だということは、誰でも知っているからです。しかしこれが投資の世界になると、とたんに「百戦百勝」式の文句に踊らされやすくなってしまいます。これはひとえに投資家の側に常識が欠如しているからです。


「オレは打率8割だ」と自慢する奴を(こいつはイタイ奴だな)と思えないのは、聞き手のリテラシーが低いから。投資の世界も全く同じ

投資はマーケットという絶えず波動を繰り返している不確実な相手と戦っているわけですから、これだけやっておけば万全ということはありません。またビジネスの世界は常に変化しているわけですから、ビジネスマンも新しいことを学ばなければいけないし、投資家もそれは同じです。だから投資の勉強に終わりはないのです。

道のりは長いです。だから「昨日より、今日のほうが少しだけよい投資家になりたい……」、そういう地に足のついた態度で粛々と研鑽を積む以外に、成功への道はないのです。

 

 

 

 

フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔

  • ある日曜日の午後、一一歳のノイマンと一緒に散歩をしていた一二歳のウィグナーは、ノイマンから「群論」を教えてもらったという。ウィグナーは、後にノーベル物理学賞を受賞することから推測できるように、幼少期から数学も抜群に優秀だったが、群論はまったく未知の概念だった。その当時、ノイマンの数学はすでに大学院レベルに達していた。
  • この頃、ウィグナーが「おもしろい定理があるんだけど、証明できるかな?」とノイマンに尋ねたことがあった。それはウィグナーには証明できない「数論」の難解な定理だった。彼は、いくらノイマンでも、容易に証明できるはずがないと思って尋ねたのである。
  • するとノイマンは、「この定理を知っている? 知らないか……。あの定理はどうか
    な?」と、さまざまな数論の基本的な定理を挙げて、ウィグナーがすでに知っている定理をリストアップした。そして、それらの定理だけを補助定理として用いて、遠回りしながらではあるが、結果的にその難解な定理を証明してみせたのである。さらにノイマンは、ウィグナーの知らなかった別の適切な補助定理を用いれば、もっと簡潔に証明できることも説明してみせた。
  • 自分が難解だと思っていた証明をノイマンが いとも簡単に導いたのを目のあたりにしたばかりか、自分の知識からだけでも証明できたことを思い知らされたウィグナーは、大変なショックを受けた。この日以来、彼はノイマンに「劣等感」を抱くようになった。

 

  • 一九四一年八月には、実際に逮捕された経歴もある。当時二八歳のエルデシュは、プリンストン大学大学院に留学中だった二九歳の角谷静夫と二二歳の学生と一緒にシカゴの学会に車で向かう途中、「立入禁止」の立札を見過ごして、レーダー基地のあるロングアイランドの海岸線に出てしまった。そこで呑気に記念撮影していた三人が「スパイ」ではないかと疑われ、FBIに誤認逮捕されてしまったわけである。
  • エルデシュは、ある定理の証明についてノイマンに話したことがあった。ノイマンは、あまり興味を感じていないようだったが、それでも紳士的に最後まで話を聞き終えて、「その証明は何かがおかしいね」と言って立ち去った。
  • エルデシュが証明を再検討したところ、たしかにノイマンの指摘が正しいことに気付いた。彼は「理解力の速度という意味で、フォン・ノイマンは尋常ではなかった」と述べている。エルデシュは、ノイマンのことを「出会った中で最も優秀な人物」と評価し続けた。
  • ェルデシュが最後にノイマンと接点を持ったのは、一九五一年のことである。この年、エルデシュは、過去六年間に発表された最も優れた数学論文の著者に授与される「コール賞」を受賞した。この賞を授与したのが、当時「アメリカ数学会会長」になっていたノイマンだった。

 

  • ワイル教授が出張に出掛けた学期には、大学院生としての資格で、ノイマンが代理で同級生に講義したこともあった。
  • ポリア教授は、当時のノイマンについて、次のように述べている。
  • 「彼は、私を怯えさせた唯一の学生でした。とにかく頭の回転が速かった。私は、チューリッヒで最上級の学生のためにセミナーを開いていましたが、彼は下級生なのに、その授業を受講していました。ある未解決の定理に達したとき、私が『この定理は、まだ証明されていない。これを証明するのは、かなり難しいだろう』と言いました。その五分後、フォン・ノイマンが手を挙げました。当てると、彼は黒板に行って、その定理の証明を書きました。その後、私は、フォン・ノイマンに恐怖を抱くようになりました!」
  • 一九二五年八月、ノイマンスイス連邦工科大学チューリッヒ校を卒業し、応用化学の学士号を取得した。
  • さらに、この年の『数学雑誌』に掲載された「集合論の公理化」は、ブダペスト大学大学院数学科の学位論文として認められた。ノイマンは、一九二六年に実施された最終口頭試問でも最高評価を得て、博士号を取得した。
  • つまり、二二歳のノイマンは、大学を卒業すると同時に大学院博士課程を修了し、博士論文も完成させて、前代未聞の「学士・博士」となったわけである。

 

  • 代数学の第一人者として知られるハーバード大学のラウル・ボット教授が、プリンストン高等研究所の研究員だった時代の思い出を述べている。パーティの席で、ボットは酔った勢いで、ノイマンに「偉大な数学者であるということは、どういうお気持ちなんですか」と尋ねた。ノイマンは答えた。「『偉大な数学者』だったら、一人しか知らない。ダフィット・ヒルベルトだよ!」

 

ハイゼンベルクシュレーディンガー

 

  • もしノイマンが一九二〇年代に「ゲーム理論」を追究して、より高度な成果を導いていれば、後にノーベル経済学賞を受賞した可能性も高かっただろう。しかし、若き天才ノイマンの興味は、一分野に留まることがなかった。
  • ノイマンは、量子力学であろうと数理経済学であろうと、 いかなる分野であろうと、既存の概念や偏見に左右されずに、新たな視点から数理モデルを定式化して、効率的な成果を導くための筋道を切り開き、長年の未解決問題でさえ、あっさりと解 い てしまうという離れ業を得意にしていた。
  • ただし、その「開拓」を終えると、すぐに興味を失ってしまう。彼は、睡眠時間を四時間と定め、残りの二〇時間を「楽しいことに使う」と決めていた。その「楽しいこと」の大部分は「考えること」であり、残りが、一流レストランで美食を楽しみ、ベルリンのキャバレーで飲むことだった。
  • 後にノイマンと共に「マンハッタン計画」を推進し、原子核反応理論でノーベル物理学賞を受賞するコーネル大学のハンス・ベーテは、次のように学会発表を点数付けしていた。
  • 「母親にわかる話が一点。女房にわかる話が二点。私にわかる話が七点。発表者とノイマンだけにわかる話が八点。発表者にもわからないがノイマンだけにわかる話が九点。ノイマンにもわからない話が一〇点だが、そんな話は滅多にないね」

 

  • ノイマンが一一月二九日付でゲーデルに送った手紙は、すでにゲーデルが第二不完全性定理を証明していることが明白であり、「もちろん私は、この結果を発表するつもりはあり りません」と記されている。が、その行間からは、ノイマンの大きな「失望」を読み取ることができる。
  • 当時「ヒルベルト学派の旗手」と呼ばれていたノイマンは、「ヒルベルト・プログラム」に基づいて「数論の完全性」を導くためのセミナーをベルリン大学で担当していたが、そのセミナーも打ち切られることになった。
  • このクラスにいたプリンストン大学の論理学者カール・ヘンペルは、次のように述べている。
  • 「ある日授業に来たノイマンが、突然、『ヒルベルト・プログラム』は達成不可能だと言った。彼は、それを証明したウィーン の若い論理学者の論文を受け取ったばかりだった」
  • ノイマンのように生まれてから一度も人に先を越されたことがない 天才にとって、自分が推進しようとしていた「ヒルベルト・プログラム」が「達成不可能」だと論理的に証明されたこと、しかもその事実に自分が先に気付かなかったことは、二重のショックだったに違いない。
  • この経験は、少年時代のウィグナーがノイマンに抱いた「劣等感」よりも、さらに深いダメージをノイマンに与えたかもしれない。
  • その後、ノイマンは、この分野の第一人者の地位をゲーデルに譲り、二度と数学基礎論に関する論文を発表しなかった。

 

  • ノイマンとウィグナーは、「人間の意識が量子論的状態を収束させる」という「ノイマン・ウィグナー理論」を提起したのである。
  • この理論によれば、最初に箱を開けたシュレーディンガーが猫の生死を「意識」した瞬間に、量子論的状態は収束し、無限連鎖のパラドックスは消滅する。とはいえ、当然のことながら、その「意識」とは何かという新たな疑問が生じる。
  • ノイマンは、それ以上は、量子論の解釈論争に深入りしなかった。そもそも「観測」を「意識」で定義するという理論についても、彼はウィグナーと共にセミナーの際に口頭で述べただけで、論文では一度も正式に触れていない。
  • この事例にも表れているように、ノイマンは、物理現象の解釈問題や、哲学的信念を伴うような論争には、基本的に立ち入らなかった。後に詳細を述べるが、彼は徹底した「経験主義者」であり、観念論争を嫌っていたのである。
  • ノイマンは、感情的な人間とも議論しなかったが、それは言い争っても時間の無駄と考えていたからだろう。彼は、パーティでもゲストが議論を始めそうになると、すぐにジョークで巧みに話題を逸らすというホスト役を務めていた。

 

  • ある日、一八世紀末から未解決の難問とされていた「中心極限定理」のことを考えているうちに、チューリングは、その定理を証明してしまったのである。
  • 実は、この「中心極限定理」は、すでに一九二二年にフィンランドヘルシンキ大学講師イヤール・リンデベルグが証明していたのだが、ニューマンとチューリングは、そのことを知らなかった。
  • いずれにしても、確率論の超難問を大学生が証明したとは驚愕だった。 この成果のおかげで、チューリングは、二二歳の若さでキングズ・カレッジ の「フェロー」に選出された。

 

  • チューリングの博士論文「序数に基づく論理システム」は、一九三八年五月に受理された。この論文は、「チューリング・マシン」における「計算不可能性」の限界を超えた「オラクルマシン」(神託機械)を想定する数学的に難解な内容である。そのイメージの中には、現代の「オンライン・ネットワーク」を予見するような一面もあった。
  • ノイマンは、チューリングの論文を非常に高く評価して、年俸一五○○ドルでプリンストン高等研究所の彼の助手にならないかと誘った。当時、ノイマンの助手になることは、研究者としての前途が約束される名誉ある就職だった。
  • チューリングは、かなり悩んだが、結果的にイギリスに帰国する道を選んだ。祖国イギリスへの「愛国心」のためだったと説明する伝記が多いが、同時に、彼が「アメリカ嫌い」で、環境に適応できなかったことも大きな理由の一つだろう。
    もしチューリングノイマンと一緒にアメリカでコンピュータを開発していたら、コンピュータは異次元の進化を遂げていただろう。しかし、その反面、ドイツ軍の暗号は解読されず、第二次大戦の行方が大きく変わっていたかもしれない。

 

  • ノイマンが誰よりも高く評価していたゲーデルは、集合や概念などの「数学的対象」が「人間の定義と構成から独立して存在する」こと、そして、そのような実在的対象を仮定するととは、「物理的実在を仮定することと、まったく同様に正当であり、それらの実在を信じさせるだけの十分な根拠がある」と信じていた。
  • ところが、ノイマンは、ゲーデルの「数学的実在論」に真正面から対立して、「あらゆる人間の経験から切り離したところに、数学的厳密性という絶対的な概念が不動の前提として存在するとは、とても考えられない」と断言している。ノイマンは、数学は、あくまで人間の経験と切り離せないという「数学的経験論」を主張しているわけである。
  • さらにノイマンは、数学が「審美主義的になればなるほど、ますます純粋に『芸術のための芸術』に陥らざるをえない」と皮肉を述べ、「結果的にあまり重要でない無意味な領域に枝分かれし、重箱の隅のような些事と煩雑さの集積に陥るようであれば、それは大きな危険と言えます」と警告する。
  • ノイマンの講演は、実に簡潔明瞭で、文学的にも洗練された印象を受ける。たとえば「何事も始まるとき、その様式は古典的です。それがバロック様式になってくると、危険信号が灯されるのです」という言葉は、ノイマンのように幅広い教養がなければ発することのできないものだろう。
  • 要するに、ノイマンは、「純粋数学」の限界を見極めて、「応用数学」の重要性に目を向けるべきだと主張しているわけである。「経験的な起源から遠く離れて『抽象的』な近親交配が長く続けば続くほど、数学という学問分野は堕落する危険性がある」というのが、ノイマンが未来の「数学」に強く抱いていた危機感だったのである。

 

  • ノイマンには、さまざまな職場で秘書のスカートの中を覗き込む「癖」があった。そのため、机の前を段ボールで目張りする秘書もいたほどだという。
  • 彼の助手を務めたスタニスワフ・ウラムによれば、ノイマンは、スカートをはいた女性が通ると、放心したような表情でその姿を振り返って見つめるのが常であり、それは、誰の目にも明らかな彼特有の「癖」だったと述べている。
  • 常に頭脳を全力回転させていたノイマンの奇妙な「癖」は、彼の脳内に生じた唯一の「バグ」だったのかもしれない。

レザーバックパック・リュック検討中リスト

オールレザーのリュックを買いたいので、色々と見て回っているリスト。

 

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英語独習法

  • 英語学習を始める第一歩は、自分が必要な英語はどのようなレベルなのか――つまり英語学習で達成したい目標を考え、自分はその目標達成のためにどこまで時間と労力を使う覚悟があるかを考えることだろう。日常生活でコミュニケーションがとれること(つまり小学校低学年レベル)がゴールなのか、ビジネスの場でプレゼンテーションをしたりレポートを書けるようになったりすることがゴールなのか、研究論文を書けるレベルがゴールなのか。ゴールに応じて、そのレベルに到達するための合理的な学習のしかたを考えるべきなのである。AI(人工知能)による自動翻訳の性能も向上してきている。翻訳ソフトで済むレベルを目標にするなら、わざわざ多大な時間をかけて英語を勉強するより、英語は翻訳ソフトに任せて、自分は他のスキルや知識を磨く、という選択肢もありうるのではないか。
  • 本書は主に、仕事の場でアウトプットできるレベル、すなわち自分の考えを的確・効果的に表現し、相手に伝えられるレベルの英語力を目指す人に向けて書かれている。

 

どの情報に注意するかはスキーマが決める

  • 本書でもっとも大事な概念である「スキーマ」について、ここで紹介しよう。スキーマというのは認知心理学の鍵概念で、一言でいえば、ある事柄についての枠組みとなる知識である。
  • スキーマは「知識のシステム」ともいうべきものだが、多くの場合、もっていることを意識することがない。母語についてもっている知識もスキーマの一つで、ほとんどが意識されない。意識にのぼらずに、言語を使うときに勝手にアクセスし、使ってしまう。子どもや外国の人がヘンなことばの使いかたをすれば、大人の母語話者はすぐにヘンだとわかる。しかし、自分がなぜそれをヘンだと思うのか、わからない。母語のことばの意味を説明してくださいと言われたときに、ことばで説明できる知識は、じつは氷山の一角で、ほとんどの知識は言語化できない。これは、自転車に乗れても、脳にどのような情報が記憶されているから自転車に乗れるのかが私たちには説明できないのと同じことだ。
  • 大切なことなので繰り返すが、「使えることばの知識」、つまりことばについてのスキーマは、氷山の水面下にある、非常に複雑で豊かな知識のシステムである。スキーマは、ほとんど言語化できず、無意識にアクセスされる。 可算・不可算文法の意味も、スキーマの一つなのである。
  • 外界で起こっている出来事や言語情報は、すべてスキーマのフィルターを通して知覚される。私たちは、スキーマによって、現在自分が置かれている状況で何が大事かを判断し、情報を取捨選択するのである。
  • 目の前で起こっている状況には、非常に雑多な情報が大量にある。さまざまな服装をし、持ち物をもっている多くの人がいて、絶えず視野に入っては消えていく。それのすべてに目を向け、覚えることは到底できない。人は、注意を向けないものを何度見ても正確に記憶することはない。何が大事な情報であるかを見極め、注意を向けるか向けないかを決めるのが、スキーマなのである。
  • 可算・不可算文法のスキーマがあれば、名詞が出てくるたびに、それが可算名詞なのか、不可算名詞なのかに注目し、話し手あるいは書き手がその名詞の指し示す対象を、個々に存在し数えられるモノと認識しているのか、不可分の数えられないモノとして認識しているのかがわかる。このスキーマをもたなければ、話し手・書き手の認識はもとより、名詞が可算か不可算かということに注意がいかず、この情報はスルーされてしまうのである。

英語を母語とする子どもの学びかた

  • 英語を母語として学習する子どもは、どのように可算・不可算の「意味」を理解するようになるのだろうか。
  • 意味を考える前に、まず、a(不定冠詞)で始まるか、s(複数形の接尾辞)で終わるかといった、名詞が現れる形の違いに気づく(便宜的に綴りに使われる表記を使って
    書いたが、もちろん子どもは音で聞いて気づく)。名詞の文法上の形態に注意を向けることは、遅くても1歳半ごろまでに、つまり単語の意味を推論しながら急激に
    語彙を増やしていくころには始まっている。言い換えれば、名詞を学習するときには、必ずその可算・不可算の形態ごと、名詞句としてかたまりで記憶されてい
    る。形態といっしょに覚えた名詞のストックがある程度記憶に溜まって初めて可算・不可算の意味を自分で発見する。aで始まるかsで終わる形で現れることばは、個体を単位として「数える」ことができること、aといっしょに現れることなく、いつも裸で(冠詞なし、複数形のsもなしで)現れる単語は、ミルクやバターの
    ような、形が定まらない、数える単位がわからないものであることを悟るのだ。つまり子どもはスキーマを自分で作るわけである。可算・不可算の形と名詞の種
    類の対応づけのスキーマが作られると、こんどはそれを新しく出会う名詞の意味の推論に使っていく。
  • たとえば、子どもが液体の入っているコップを手にしているときに tea ということばを聞く。そのとき、tea はコップのことなのか、中身の液体なのかは、子どもにとって曖昧である。しかし、可算・不可算文法を知っていると、tea が言われた形から、それは数えられないモノであることがわかり、コップではなくて中身のことなのね、という推論ができるのである。
  • 名詞をこのように覚えていくので、英語を母語とする子どもは、非常に小さいときから、名詞の意味を考えるときにまず名詞の文法的な形に注目するような注意のシステムが脳に作られている。つまり可算・不可算文法はこのようにして身体の一部になっているのである。もちろん、子どもが最初に発見する名詞の文法形態と対象の種類の対応づけは、「一つ一つにまとまりがあり、独立してそうだから、数えられるよね、それにはaがつくよね」のような単純なものだ。
  • しかし、常に名詞の文法形態に注意がいくので、furniture や jewelry のような、見ている対象は数えられそうに見えるモノなのに不可算名詞の形式でその名詞が言われることに、つまり自分のセオリーとの食い違いにも気づく。すると、不可算だから furniture は「椅子」という意味ではないのね、jewelry は「ネックレス」という意味ではないのね、と考えることができ、さらに意味を探索することができるのである。
  • 言い換えれば、無意識にコントロールされる自動的な注意システムが作られているから、当初の単純な形式と意味の対応づけを修正して、より複雑で洗練されたスキーマに発展させることができるのである。

日本語スキーマの影響

  • 日本語話者は、可算・不可算や冠詞の意味について、英語話者のような注意システムをもっていない。日本語ではそもそも可算・不可算という基準では名詞を文法的に分類しない。日本語で名詞を分類するのは「1冊、2冊」の「冊」や「1軒、2軒」の「軒」のような助数詞であるが、助数詞は「数えられる対象」と「数えられない対象」を明示することはない。英語では不可算名詞に対してのみ a cup of water, a slice of meat, a pinch of salt のように量詞をつける。つまり、水、肉、塩など、自身で数える単位をもたない(数えられない)対象は、量詞によって数える単位を明示して数えるのである。
  • 助数詞も理屈は英語の量詞と同じで、数える単位を明示する。しかし、英語の場合と違って、日本語助数詞は動物や自動車のように明らかに「数えられる」ものに対しても、水やバターのような「数えられない」ものに対しても使われる。つまり、その名詞が数える単位を外から与えられなければ数えることができないという英語の基準で考えると、日本語のすべての名詞は英語の不可算名詞と同等に扱われているということになる。しかも、日本語では助数詞は数といっしょのときにしか使われず、数を言う必要がないときは「コンピュータは書斎にあります」「マヨネーズは冷蔵庫の中にあります」というように、助数詞なしで名詞を
    使う。
  • このため、日本語話者は、英語話者のように名詞の文法形態に自動的に注意を向けるということをしない。これが英語の名詞の可算・不可算を覚えることを難し
    くする。英語を読む、あるいは聞くときに、名詞の意味にばかり注意を向けてしまい、可算・不可算の形態には注意しないので、名詞が文の中で現れるときの文
    法の形は記憶されない。その結果、可算・不可算の形態と切り離して英語の名詞の意味を覚えてしまう。
  • さらにその名詞を使うときに、可算・不可算文法を意識したとしても、その名詞の可算・不可算をついつい自分の感覚で推測してしまう。日本語の感覚ではレタスもキャベツもブロッコリーもカリフラワーも、ジャガイモや卵と同様に1個、2個、3個と数えられるモノなので、当然可算名詞だと思う。証拠も、一つ、二つ、と数えられるから evidence も当然数えられると思ってしまうのだ。
  • つまり、日本語母語話者は可算・不可算文法を学習するときに、二重の意味で母語の影響を受ける。第一に、母語において、数えられる、数えられないという観点で必ず名詞を分類する文法をもたないので、英語のインプットに対して、名詞の形態に自動的に注意を向けることをしない。注意を向けないので、名詞を聞いてもその可算・不可算を記憶できない。第二に、evidence や furniture など、母語によって作られた自分の「数えられる・数えられない」という感覚と矛盾する形態の単語がインプットにあっても、文法形態に注意を向けないために、そこは完全にスルーされてしまい、自分の思い込みが修正されない。このようなメカニズムが働くために、日本語母語話者にとって英語の可算・不可算文法は習得が非常に難しくなってしまっているのだ。

冠詞のスキーマ

  • ここまで可算・不可算文法のスキーマについて述べてきたが、英語の名詞を使うためにもう一つのハードルがある。そう、aとthe、不定冠詞と定冠詞の問題である。
  • 一つの名詞を使うとき、名詞が指す概念が数えられるか、数えられないかの他に、冠詞という、もう一つの軸が入り込んでくるところである。この軸の「意味」をことばで記述するは定冠詞、この単語は不定冠詞というように、名詞に結びつけて覚えることができないからである。
  • 可算・不可算の区別も、これまで述べてきたように、抽象的な意味をスキーマとして理解しないと、ほんとうには使いこなせないのだが、中心にある文法と意味
    の対応づけはそれなりにわかりやすいし、説明しやすい。名詞を覚えるときに、これは(基本的には)可算名詞、これは不可算名詞、というように、名詞に紐づけて覚えられる。
  • しかし、定冠詞・不定冠詞は、名詞との紐づけができない。同じ名詞が文脈によって定冠詞といっしょに使われたり不定冠詞といっしょに使われたりするため、この文法をもたない日本語話者としては何が何だかわからない、というのが正直なところだ。私も中学で英語の勉強を始めたとき、どうしてもa と the の「意味」がわからず、英語の先生にしつこく聞いたら先生が怒り出してしまい、「こんなこともわからないのか」と叱られてしまった苦い記憶がある。先生もわからなかったのだと思う。しかし生徒にそう言えないので、怒るしかなかったのではないだろうか。
  • スキーマは、単に「定まったものには the、定まっていないものにはa」ということばで表現されるルールとは違う。それぞれの状況で瞬時に身体が反応するような、身体に埋め込まれた意味のシステムなのである。
  • この例によって、スキーマとは何かが少しイメージしやすくなっただろうか? 学習者はこの「スキーマ」(=抽象的な意味のシステム)をどのように作っていったらよいのだろうか?

 

「語彙力が高い」とはどういうことか

  • 氷山の水面下の知識についてこれまで述べてきたことから、「語彙力が高い」とはどういうことかを考えよう。母語話者がもつ「生きた」単語の知識には、少なくとも以下の要素が含まれている。
  • ① その単語が使われる構文
  • ② その単語と共起する単語
  • ③その単語の頻度
  • ④その単語の使われる文脈(フォーマリティの情報を含む)
  • ⑤ その単語の多義の構造(単語の意味の広がり)
  • ⑥ その単語の属する概念の意味ネットワークの知識
  • これらの知識はもちろんバラバラにあるわけではなく、互いにがっちりとつながり、統合されて、水面下にあって見えない氷山の大部分を形づくっている。
  • ここまで述べたことでわかっていただけただろうか。「語彙力」というのは、頻度の低い、人が知らない単語をたくさん知っていることではない。もちろん知っている単語の数が多いに越したことはないが、文脈に応じて適切なことばを自由自在に使えてこその「語彙力」である。つまり①~⑥の知識に支えられた語彙が
    あることのほうが、辞書の見出しのすぐ後に出ている「意味」を一つか二つ言えるだけの単語の数よりも大事なのである。
  • 「ある文脈で言いたいことを表現するのにもっとも適切なことばが選べる」ためには、二つのことが重要である。一つには、個々の単語の意味をバラバラに覚えているのではなく、互いの意味の類似性と差異が理解できていること。もう一つは、それぞれの単語がもつ意味の広がりを理解し、それぞれの使いかたの文脈を知っていることだ。
  • 外国語の単語について初級学習者がもっている知識は、①~⑥がほとんどない。子どもが母語の動詞を覚えるときは、まず構文と名詞(主語と目的語)に注目し、文脈から動詞の意味を考える。しかし、外国語を覚えるときは、母語に訳された語義が与えられ、それだけを覚えようとする。だから動詞を使ううえでもっとも大事な構文や共起する名詞についての知識は、その動詞についての知識として入ってこない。一つか二つの訳語を知っているだけの知識は、氷山どころか、薄っぺらい板のようなものなのである。

行為をどう描写するか

  • 「ビンがぷかぷか浮かんだまま洞窟の中に入っていった」のように言うだろう。中心となる動詞は「入る」であり、ビンが動くさまは「ぶかぶか」のような擬態語で表される。日本語は前置詞をもたず、動きの方向性は「入る」のように動詞本体に担わせる。動きの様子は、副詞句、特に擬態語を用いて表現されることが多いが、様態を言い分けることは必須ではない。
  • 英語ではこれをどう表現するだろうか? 日本語話者だとつい A bottle entered the cave, slowly floating.などと言いたくなってしまう。これは間違いではないが、自然な英語ではなく、英語母語話者は、まずこのような文を言わない。A bottle floated into the cave.と言うのが普通だろう。英語では動きを表現するとき、本来は動きの様子を表す様態動詞(ここでは float)に方向を表す前置詞を組み合わせ、様態動詞を「~しながら移動する」という意味に転化させる構文を多用する。つまり英語話者がこのような状況でもっともよく使う構文は「様態動詞+前置詞」なのである。
  • この英語特有の構文スキーマは、英語の語彙の構造に直接に影響している。英語では、動きかた、行為のしかたを意味に入れ込んだ動詞が非常に多い。たとえば日本語では「歩く」と大雑把に表現するさまざまな歩きかたを、英語は非常に細かく言い分ける。amble(ぶらぶら散歩する)、swagger(胸を張ってずんずん歩く)、
  • toddle(よちよち歩く)、trudge(重い足取りでえっちらおっちら歩く)など。
  • 日本語で「人がふらつきながらドアへ歩いて行き、部屋に入った」と表現されるシーンを英語にするとき、
  • A man walked to the door and entered the room with unsteady steps. のように直訳したくなる。しかしこのような文を作る英語母語話者はほとんどいないだろう。A man wobbled into the room. のように言うのが普通だ。日本語と英語では何がどのように違うのだろうか。日本語では、「歩く」と「行く」と「入る」という三つの動詞が必要だ。「ふらつきながら」という句が「歩く」を修飾し、歩く様態の情報を付加する。それが英語ではwobbleという動詞一つで済まされている。
  • wobble という動詞は、もともとは「ふらつく」という動きを表す動作動詞であり、以下ののように使う。
  • The table wobbles where the leg is too short.(テーブルのこの脚が短くてガタガタする。Outford Dictionary of Englishの用例) ) 
  • His knees began to wobble.(膝がガクガク震え始めた。『ランダムハウス英和大辞典』の用例)
  • そもそも英語では wobble のように、ある特定の様態が動詞として表されることが非常に多い。対して日本語では、動作の様子(様態)の情報は動詞の中には入らない。様態は必要なら副詞(特に擬態語)で表現されるが、副詞はなくても文は作れる。このため、日本の英語学習者が「テーブルが不安定にガタガタする」「膝がガクガク震える」という日本語を英語にするとき、たいてい「する」「鳴る」「震える」など日本語の動詞を和英辞典で探して、一般的な述語の文を作ることがほとんどである。
  • The table stands unstably because one leg is too short.
  • His knees began to shake.
  • 文法的には誤っていないし、意味は伝わるだろう。しかし様態動詞を使いこなしたら上級の英語学習者と言えるだろう。
  • 様態動詞を前置詞と組み合わせて文を書く(言う)ことができたら引き締まって母語話者にとって自然な英語となる。 wobble のもともとの「ふらつく」という意味が、into という前置詞とともに使われることで「ふらつきながら[部屋に]入る」という意味に変化していることに気づいただろうか。前に述べたように、方向を示す前置詞が後に続くと動詞の意味が「~しながら移動する」という意味に変わるというのは、wobble に限らず英語の語彙全体を通して非常によく見られるパターンなのである。さらに発展させたのが
  • The little animal then staggered, wobbled and limped around for a few seconds before turning for the last time to his rescuers and wandering, stagger, wobble, limp という同じような、でも少しずつ違う意味をもつ様態動詞が繰り返され、不安定によろめく感じが強調されている。ちなみに stagger はどちらかというと前のめりで転びそうによろめく感じ、wobble は横に揺れてよろめいている感じ、limpは足を引きずる動きである。この文を訳してみると、その小さな動物はつんのめり、ガクガク震え、足を引きずりながら数秒間あたりを歩きまわり、そのあと最後に一度だけ、自分を助けた人たちを振り返ると、自然の中に消えていった。
  • のようになるだろう。最後の wander もまた、特定の様態の動作(ぶらぶら歩く)を表す動詞であるが、ここに to という前置詞を付けて一方向への移動の意味をもたせ、さらに off と backで「いなくなる」と「戻る」という意味を付け加えている。日本語に訳すときには、方向性を入れようとすると、どうしても wander の「ぶらつく」という様態を文中に入れ込むことができない。
  • 私たちが出来事を見て、そこに含まれる動作について語るとき、どの要素を動詞の中に入れ込み、どの要素を述部の前置詞句など動詞以外の部分で表現するかのパターンを「語彙化のパターン」という。ここまで述べてきたことからわかるように、英語は動作の様態の情報を主動詞で表し、移動の方向は動詞以外(前置詞)
    で表現する。
  • このパターンは歩きかたに限らない。笑いかた、話しかたなども、どう笑うか、どう話すかによって細かく言い分ける。たとえば普通に声を立てて笑うときに
    は laugh だが、くすくす笑うときはgiggle、歯をむき出してにたにた笑うときには grin、声に出さずにのどの奥でクックッと笑うときは chuckle と言う。この語彙化のパターンは、英語ではさまざまな概念の分野に通底して見られ、英語母語話者のスキーマの核となっている。英語学習者がこのスキーマを使えるようになれば、ネイティヴに近い、本格的な英語のアウトプットができるようになるだろう。

状態と動作の区別

  • 英語の動詞の意味の作りかたが日本語の動詞と顕著に違う点をもう一つ挙げるなら、英語では状態と動作を厳密に区別し、日本語ではその区別が曖昧だということだろう。これは、日本語では、状態と動作を表すのに同じ動詞を用い、「ている」の有無のみで区別するということに起因するのかもしれない。「ている」の意味自体も曖昧な場合が多い。たとえば「彼女はズボンをはいている」という文では、身に着けている「状態」を言っているのか、ズボンを身に着けつつあ
    る「動作」を言っているのかが、よくわからない。
  • 英語では、そもそも状態と動作は別の動詞で表される。たとえば wear という動詞は状態動詞であり、に着ける動作を言うときに使われることはない。She is wearing a red dress. は赤いドレスを(今)身に着けている状態を言っている。身に着ける動作を言うときはShe is puting on a red dress と言わなければならない。hold と carry の違いもそうだ。
  • 日本語話者は、状態動詞を動作の表現に誤って使ってしまうことがよくある。私は以前、「遅刻しそうだから早く洋服を着なさい」という日本語の文に対して、Hurry up and wear your clothes right away, or you will be late for school. という英文を見せ、この文が正しいかどうか日本の大学生に聞いたことがある。なんと80% の大学生がこの文を正しいと判断した。英語話者でこの文を正しいと判断した人は 0% だった。
  • (ところで、状態動詞は進行形で使わないと学校で習ったことがある方は、wear や hold は進行形が使えるから動作を表せるんじゃないの、と思われるかもしれない。たしかに、know, believe, like などの状態動詞には進行形を一般的には使わない。しかし、状態動詞でも、「今」こういう状態であるという含意をもたせるときには進行形を使う場合がある。たとえば、今、目の前の高校生が着ている制服がかわいいと言いたいときには、She is wearing a cute uniform. と進行形で言い、いつも特定のかわいい制服を身に着けていることを言うときには、The students of this school wear a cute uniform. のように現在形を使う。know とか believeのよう
    な動詞は、今だけ知っている、今だけ信じているということはなく、その状態が恒常的だから進行形が使われないのである。

スキーマのズレが語彙学習を妨げる

  • このような英語と日本語のスキーマのズレは語彙学習に大きく影響し、多くの場合、語彙学習を妨げてしまう。すでに述べたように、スキーマとは無意識に働く知識のシステムで、情報の選択や推論に用いられる。誰もが母語に対しては豊かなスキーマをもっているのだが、そのことを知らずに、聴いたり読んだりしたこ
    とを理解したり、話したり書いたりするときに無意識に使っている。暗黙の知識を無意識に適用しているので、外国語の理解やアウトプットにも母語スキーマを知らず知らずに当てはめてしまうのである。第1章で述べたように、人は注意を向けない情報を取り込むことはせず、記憶することもできない。そしてスキーマ
    注意を向ける情報を選択する。
  • 学習者が日本語のスキーマ、つまり動詞本体は動きの方向性を含んだ意味をもち、動きの様子は副詞句で表すというスキーマを無意識に当てはめながら英語を
    聴いたり読んだりするとどうなるか。様態を言い分ける動詞は記憶されない。様態動詞が使われるのを聴いても読んでも、様態を除いた「歩く」「話す」レベルの意味しか学習者に残らないからである。swagger(胸を張ってずんずん歩く)という動詞を読んでも、ああ「歩く」ことね、と思った瞬間、読んだ動詞は walkであったように記憶されてしまうのである。
  • 様態動詞が記憶されにくいだけでない。スキーマのズレは前置詞の学習にも影響を及ぼす。英語では、もともとは動きの方向性を意味に含んでいない様態動詞
    を前置詞と組み合わせることで、方向性も表現してしまう。float は「入る」とか「出る」という意味はもともともたないが、float into と言うと、「浮かびなが
    ら入っていく」という意味になる。しかし日本語には前置詞がないので、方向性を表したければ「入る」「出る」のような方向動詞を使うしかない。だからA bottle entered the cave, slowly floating.になってしまうのだ。日本語話者が英語の前置詞を使うのが苦手なのは、日本語のスキーマが邪魔をして、無意識に動き
    の方向性を動詞の中に入れてしまうので、方向性を前置詞で表現するという発想が妨げられてしまうためなのである。

 

  1. 自分が日本語スキーマを無意識に英語に当てはめていることを認識する。
  2. 英語の単語の意味を文脈から考え、さらにコーパスで単語の意味範囲を調べて、日本語で対応する単語の意味範囲や構文と比較する。
  3. 日本語と英語の単語の意味範囲や構文を比較することにより、日本語スキーマと食い違う、英語独自のスキーマを探すことを試みる。
  4. スキーマのズレを意識しながらアウトプットの練習をする。構文のズレと単語の意味範囲のズレを両方意識し、英語のスキーマを自分で探索する。
  5. 英語のスキーマを意識しながらアウトプットの練習を続ける。
  • ポイントは「意識」と「比較」である。最終的には意識しなくても自動的に英語スキーマが使えるようになりたい。しかし、最初のうちは、日本語スキーマとのズレを意識し、さらに、英語スキーマを働かせることを意識しながら練習を繰り返すことを続ける必要がある。この過程を経て、初めて英語スキーマは身体の一部となって、無意識に自動的に使えるようになるのである。

 

オンラインのコーパス:COCA, SkELL

www.english-corpora.org

skell.sketchengine.eu

 

関連語を探すツール

  • WordNetプリンストン大学のチームが作成した語彙分析ツールである。このツールは、ある単語をターゲットにして、その単語と関係がある語を網羅的に提示する。これまで紹介してきたコーパスは、共起関係から機械的に類義語を表示する仕様だが、WordNet言語学者、哲学者、心理学者が人力で作っている。その意味で、AIの自動作業ではなく、人の叡智によって勝大な時間と労力をかけて作られたツールである。言語にかかわる研究者はみなその恩恵を受けているが、学習者にとっても非常にありがたいツールである。無料で使えるので、これを利用しない手はない。
  • このツールは、コーパスというよりは英英辞典に近いので、これまで紹介してきたコーパスとはずいぶん性質が違う。ターゲットの単語を検索ウィンドウに入れると、辞書のように、たくさんの語義が出てくる。walk のように動詞と名詞の両方で使われる語は、品詞別に項目が立てられ、その下に語義のリストが出てくる。さらに、それぞれの語義についてネットワークが提示される。WordNet が示す「関係」は品詞によって違うのだが、ターゲットの単語を起点に上位の概念、下位の概念を示してくれるところが特徴的だ。

wordnet.princeton.edu

wordnetweb.princeton.edu

 

ツールを賢く組み合わせて使おう

  • 前章と本章では、オンラインで簡便に使えるツールを用いて、ターゲットの単語を的確に使うための「氷山の水面下の知識」を育てる方法を紹介した。れらのツールのうちどれがもっとも優れているかということは言えない。目的と、使える時間にもよる。もちろん、すべての単語についてコーパスや Word-Net で調べる必要はない。まずは辞書を活用し、辞書ではその単語をアウトプットするのに十分な理解が得られないと思ったときにコーパスなどを使えばよい。SkELL は COCAに比べてコーパスのサイズも小さく、例文に偏りがあるが、多くのことは SkELL で用が足りる。私は、ちょっとした調べ物には SkELL を使い、さらに深掘りが必要なときに COCA や Sketch Engineを使っている。COCA にあるたくさんの機能を使いこなすには、試行錯誤しながら使い込むことが必要だろう。私は本章で紹介した最低限のことだけ覚え、あとはデフォルトの設定で検索している。
  • WordNet を使えば、単語同士の関係を大きなネットワークの中でとらえることができるが、類義の単語の細かい意味の違いはわからない。たとえば wanderと類義の stray, ramble, drift, roam などの意味の違いを調べるには適さない。インターネットが発達した現在、辞書に加えてネットで使えるツールを賢く使い、自分で語彙ネットワークを探索していき、英語スキーマを身につけよう。

 

  • 英語の学習も同じだ。英語の文献をどんなに読み込んですらすらと読めるようになっても、書く練習をしなければ、書けるようにはならないのである。英語は情報を得るためだけに使う、英語でアウトプットする必要はないという人も多いだろう。それはそれでよい。しかし、英語で伝えたいことがある、世界に発信したいというのなら、アウトプットの練習をしなければならない。
  • アウトプットをする英語力が最近いたるところで求められるようになり、「読む」「聴く」「話す」「書く」の4技能をバランスよく育てるということが学習指導要領にも明記された。文部科学省は大学入試にも4技能のテストを含めようとした。
  • 英語力にこれらの四つの要素が必要だということには、まったく異存はない。しかし、4技能をバランスよく育てるために、最初から4技能の学習に同じだけ時間を使うというのは、学習の認知過程の観点からは、じつは合理的ではない。
  • 語彙が少ないうちは、知らない単語がたくさん含まれる教材を無理に聴く練習をしても意味がない。意味をなさない英語の音声がただ素通りしていくだけである。だからといって、あまりにも簡単な、面白くもなんともない内容で中学1年生レベルの単語を使って不自然にゆっくりと録音された教材を聴いても仮にそれが聴き取れてもビジネスには役に立たない。ビジネスの現場で、そのようにゆっくりした、内容が薄い会話がされることは絶対にないからである。
  • 自然なスピードで話され、中身がある内容を聴きたいが、語彙が足りなくて聴き取れない。そういうことが頻繁にある。そのような場合にはどうしたらよいか。リスニングに時間を使うより、まず語彙を強化することと、その分野の記事や論文を読んで、その分野のスキーマを身につけることに時間を使ったほうがよい。語彙が豊富にあり、スキーマが働くトピックなら、そしてここが大事なのだが――自分が絶対に理解したいと思う内容であれば一少し耳が慣れれば英語はおの
    ずと聴こえるようになる。

音の聴き分けはもっとも深く身体化されたスキーマ

  • 余談になるが、ここが、母語と外国語の習得の大きな違いである。母語では、子どもは言語を耳から覚える。母語で使われる音とリズムをまず分析し、文を単語ごとに区切っていくやりかたを自分で発見し、音のかたまりとして単語を記憶にためていく。切り出した音のかたまり(単語)に対して、自分で意味を推論し、単語の意味を覚えていく。このような過程である。
  • しかし、大人になってから外国語を学ぶ場合、流れる音声の中から単語を見つけていくのは難しい。これは「音のスキーマ」、特に単語を構成する音の単位である音素が母語と外国語で違うからである。乳児は、母語の特徴的な韻律のパターンを母親のお腹にいるときから学習し始める。母語で単語を区別するために必要な音の単位である音素を見つけるのは誕生後であるが、0歳代のときだ。
  • じつは、世界中の赤ちゃんは、生まれてすぐは、すべての言語で区別される音をもれなく区別することができる(聴覚障害などがない限り)。そこから、自分の母
    語の音素を探索し、音素のレパートリーを作っていく。英語の場合には、r, lは異なる音素であり、この二つの音の聴き分けができないと、race/lace, rice/lice な
    どの単語の区別がつかない。だから、英語を母語とする赤ちゃんは、(もともと区別できた)r とlの区別を保持し、さらに敏感に注意を向けることを学習する。で
    は日本の赤ちゃんはどうだろうか? 日本語にはrとlの区別はない。母語で必要のない音の区別をし続けると、情報処理のリソース(認知的資源)は限られているので、その分、他の必要な情報に注意を向けることができにくくなる。つまり、母語で必要とされる音の区別は残しつつ、必要のない音を区別する能力(音への注意)は捨ててしまったほうが、母語を学習するには有利だ。だから、赤ちゃんは1歳くらいまでに、不必要な音の区別には注意を向けなくなる。母語に必要な音の区別だけを残し、音素を効率よく区別できるような情報処理のシステムを作るためである。それが「音のスキーマ」なのである。 
  • だから大人の日本語話者は、r とl、b と vなど、日本語にはない英語の音素がうまく聴き分けられないのである。自分が育つ環境の言語で単語を作る単位となる音素は、子どもが作る最初のスキーマの一つであると言ってもよいだろう。
  • 英語の単語の意味を推論するのに、日本語のスキーマが邪魔をすると述べてきたが、音の情報処理も同じである。しかも、音のスキーマは、子どもの言語の発達過程の中でもっとも早く、単語の意味について考え、始める前に身につけるものだ。その分、もっとも深く、身体化されていて、言語を情報処理するときには自動的に、まったく意識にのぼることなく使われているものである。だから、rとlの区別のように英語では音素として区別されるが日本語では音素でない音の聴き分けは、乳児期を過ぎると難しくなるのである。
  • 外国語を学ぶとき、最初の授業でのっけから音素の聴き分けや発音練習から始めることがある。私が中国語を習い始めたとき、中国語の単語をまったく知らないのに「そり舌音」など、日本語にない音の発音を繰り返す授業が続き、うんざりした。これはじつは、成人にとってはもっとも困難なことを最初にやって出鼻をくじこうとしているようなものだ。

リスニングにはスキーマが必要

  • リスニングというのは、リーディングよりもずっと認知的な負荷が高い。リーディングは読むスピードを自分でコントロールできる。途中で意味が追えなくなってしまったら、戻って再度読むこともできる。しかし、リスニングでは、聴こえてくる音声のスピードは自分では調節できない。それでも生身の人が相手で、自分一人に話しかけてくる対話の状況でなら、相手がこちらの表情を読み取り、必要に応じてスピードを調整してくれたり、繰り返してくれたりするが、録音された媒体からのリスニングは非常に難易度が高くなる。
  • 人は入ってくる情報を、まったく何も考えず受動的に受け取っているわけではない。常にスキーマを使って、次の展開を予測しながら聴いている。次にどのような意味の内容を話し手が言うかを予測し、そこから単語も予測する。第1章でダルメシアン知覚のことを紹介した。何なのかわからない画像も、そこにあるべきものがわかると、見るべきものが浮かび上がってくるという現象である。「聴く」ときも同じである。どんなに優れた音素の聴き分け能力をもっていても、どのような内容のことばが耳に入ってくるかが予測できないと、知っていることばでも聴こえない。子どもと違って大人は豊かな概念と理解力をもっている。細かい音の聴き分けができなくても、相手が話している内容についてのスキーマを使うことによって、だいたい何を言っているのかがわかり、次に現れる単語も予測をすることができる。その逆に、予測ができないと、熟知している単語でも、聴き取れないことがある。
  • 私の体験を紹介しよう。たまたま飛行機の中でスパイ映画 007 シリーズの『スペクター』を見て、この映画にハマってしまった。この映画で登場人物が話す英語に感動したのである。セリフの一言一言にまったく無駄がなく、限りなく短く端的に言う。それがほんとうにカッコよい。特にボンド役のダニエル・クレイグの話す英語にシビレてしまった。そこで、セリフを全部聴き取りたいと思い、DVDを買ってみた。主題歌も素敵で、何度も聴いたのだが、歌詞の Could you my fall? のどの部分が何度聴いてもわからなかった。日本語字幕では、「落ちる僕を支えてくれるかい?」となっている。そこで、ネットで歌詞を探して、確認したら、なんと、break my fall だった。
  • 私は break という単語はもちろんよく知っている。(と思っていた)し、日常的に使っている。しかし、「支える」という字幕の日本語に引っ張られ、この文脈でbreak はまったく考えつかなかった。break はあえて日本語にするなら「断絶する」「断ち切る」という意味合いが強く、「支える」と break は反対の意味だからである。まさにダルメシアン知覚の聴覚版で、一度break だとわかれば、まったく問題なく break と聴こえた。この単語は短いし、特に日本語話者が聴き分けることが難しい単語ではない。しかし、break がまったく予想できなかったときには、何度聴いてもこの単語が聴き取れなかったのである。

リスニングのテスト問題は学習に不向き

  • スキーマを想起し、予測をするのに、人は耳からの情報のみに頼るわけではない。話す人の表情や文脈情報は、とても大事だ。だからそのような情報が豊富にある直接の対話はもっとも聴き取りやすいし、ストーリーが予測できる映画やドラマも理解しやすい。
  • その観点から、認知的にもっともハードルが高いのが、大学入試や TOEFL, TOEIC などの資格試験でのリスニングテストの方式、つまり、視覚情報や背景情報なしに録音された音声の聴き取りを求められる状況だ。短いダイアローグやパラグラフが文脈情報も視覚情報もなく一斉に放送されるので、スキーマを想起しづらい。何の話だろうと思っているうちにどんどん音声は流れていってしまい、予測が追いつかなくなって、置いていかれてしまう。
  • 試験の形態が録音された英語の聴き取りだから、リスニングの勉強はそれらの対策参考書についてくるCDを聴いて勉強するのがよいと思っている人は多いだろう。しかし、その学習法は、学習の認知メカニズムの観点からは、はなはだ疑問だ。リスニングは自分聴き分け のペースで情報処理ができないので、知らない単語が出てきて、そこで情報処理が止まってしまったら、その先に進むことが難しくなってしまう。
  • TOEFLリスニング対策の本を買い、ためしに模擬問題を聴いてみた。対話の内容は、大学の図書館でアルバイトを募集していて、それに応募したい大学生と、図書館のスタッフとのやりとりだった。ある程度の語彙力がある受験生にとっては、スピードや単語の難易度は適切だと思えた。しかし、アメリカで大学生活を経験したことがない学習者にとっては背景知識があまりない内容で、これを一生懸命聴いても行間を埋められず、ついていくのは難しいのではないかと思った。
    情報処理できない内容を何度繰り返し聴いても何も残らない。つまり何も学ぶものがなく、ただ時間を浪費することになるのである。
  • このように言うと、子どもは知っている単語が極端に少なく、概念のスキーマも乏しいのに、聴き取り能力を発達させているではないか、と反論が出るかもしれない。しかし、子どもも、子どもなりのスキーマをもっていて、それを使い、予測しながら大人の発話を理解している。そもそも大人は、小さな子どもに話しかけるとき、発達段階に応じて話す内容も言いかたも調整している。子どもが知らないような概念スキーマを必要とする内容を大人は話さないし、構文や表現も、子どもが理解できるように無意識に調節しながら話す。しかも、子どもは表情だったり、ジェスチャーだったり、指差しだったり、音声以外にも豊かな情報を受け取る。音声以外の情報から多くの手がかりを得て、子どもは大人の発話の意味を理解するのである。実際、赤ちゃんに向けた発話を観察すると、その言語を理解しなくても、話している内容は、大人ならだいたい想像できるはずだ。

耳を慣らすよりスキーマ

  • リスニングの学習に時間を使うなら、そこから何を得たいのかを先にきちんと考えるべきだ。まず耳を慣らすことを目的にするのか、内容をだいたい把握でき
    ることを目標にするのか。
  • そもそも「耳を慣らす」というのは何を目的に何をすることなのだろうか。同じ英語でもイギリス英語とアメリカ英語、オーストラリア英語、インド英語では、母音や子音の発音、アクセント (強勢)などが大きく違う。
  • たしかに耳が慣れていない種類の英語は聴き取りが難しいことがある。私にとっていちばん耳慣れているのは留学先のシカゴ近辺で話されているアメリカの標準英語である。イギリス英語もたいていはわかると思うが、まったく理解できない経験をしたことがある。イギリスのバーミンガムに行ったときのことだ。ホテルのフロントで、チェックインのときに従業員の言っていることがまったくわからなかったのである。翌日、バーミンガム大学で、共同研究者の学生さんと話した
    ときも、まったく何を言っているのかわからず、ドイツ人の研究者に英語の「通訳」(現地なまりのない英語への言い換え)をしてもらわなければならなかった。内容的にはわからないはずはないので、日本に住んでいるため英語のリスニング能力がずいぶん衰えてきているのかと少なからずショックを受けたのだが、バーミンガムはイギリスでもなまりが強いことで有名で、当初戸惑う人は多いと後から教えてもらった。
  • 考えてみたら、日本の中でも、慣れない土地でいきなり方言で話しかけられるとよく理解できないことがある。それと同じだ。バーミンガムの英語も、何日か滞在するうちに耳も慣れ、普通に理解できるようになった。しかし、すぐに耳が慣れて聴き取りができるようになったのは、相手が使う単語をほとんど知っていて、かつ内容についてのスキーマが十分にあったからである。方言、なまり以前に、内容についてのスキーマがない、語彙力が足りない場合には、聴き取ろうとするより、まず語彙を増やすことに時間を使ったほうが有効である。急がば回れ、である。
  • もう一つ大事なことは、聴き取りが苦手だと思ったらマルチモーダルな状況——つまり、音声以外に視覚情報もあり、内容についてのヒントを与えてくれる映像メディアを練習に使うことである。また、聴き取れなかった部分をスキーマで補えるような教材がよい。たとえば、自分の好きな映画はリスニング学習のとてもよい材料になる。スポーツが好きなら、スポーツの中継もよいし、料理が好きなら英語で放送されている海外の料理番組もよい。テレビ中継だと、英語がどんどん流れてしまってついていけないかもしれない。そういうときは、それを録画しておいて何度も見返すとよい。字幕なしでわからなければ字幕つきで見てもよい。
  • まとめるとリスニングの力を向上させるためのポイントは、
  1. 語彙を増やす
  2. スキーマを使う
  3. マルチモーダルな情報を手がかりにする
  • である。語彙を育て、スキーマを使い、マルチモーダルな状況で内容の聴き取りができるようになったら、あとは特定の目的のために耳を慣らせばよい。TOEFL, TOEIC のリスニングで高得点を取るためには、この試験の形式に対応する練習をしておいたほうがよいのはもちろんだ。だが、スキーマが働きにくい(自分になじみがない)トピックを扱った、音声情報だけの録音で最初から練習することはお勧めしない。なんといっても語彙力をつけることがリスニング力向上には欠かせないし、マルチモーダルな情報を使って英語の聴き取りに慣れてきてから音だけの媒体の聴き取り練習をしたほうが、学習の認知メカニズムの観点からはずっと理にかなっている。

多読学習の目的と限界

  • 多読の目的は、深い情報処理と反対の方向を向いている。多読では、短い時間で文章の内容を理解し、情報を取り込もうとする。そのとき、私たちの脳は、書かれているテーマについての知識(スキーマ)を総動員して内容を大まかにつかもうとすることに集中している。すると、一つ一つの単語の意味にはほとんど注目しない。知らない単語があっても、スキーマを使って文章全体の意味をつかめれば、単語の細かい意味はいちいち考えなくてすむのである。
  • たとえば、アメリカの大学における入学許可のしくみについて書かれた文章を読んだとしよう。するとadmission や admit という単語に頻繁に遭遇し、admission は「入学許可」、admit は「許可する」という意味だとわかるだろう。しかし、その他に日本語で「許す」あるいは「許可する」と訳される accept, approve, excuse, forgive などの単語がその文章に出てくるとはかぎらないので、それらの単語との差異を考えることは、この文章を読むだけではできないだろう。
  • つまり、多読をしているときの認知プロセスを考えると、多読によって多くの単語を覚え、アウトプットに使える語彙を作ることができるというのは考えにくい。多読学習は、ほとんどの単語を知っている文章の中でたまに出てくる知らない単語の意味を、読み取った内容と、自分がもっているスキーマを使って推測する練習だ。それ自身は非常に重要な能力なので、多読の訓練はすべきだ。ただし多読学習は、文章のレベルが、その学習者にとって辞書を引かなくても理解できるように適切に設定されていることが前提である。文章のレベルが学習者に合っていないと、多読学習の意味がなくなってしまうので、注意が必要だ。

語彙を育てるには多読ではなく熟読

  • リーディングから語彙を増やすにはどうしたらよいか。それには、一度読んで文意を読み取って終わりにするのではなく、何度か読み返すことである。一度目は多読の作法にのっとり、辞書を引かずに読み通し、内容を読み取ることに集中する。そのとき、自分が知らない気になる単語があったら、とりあえずマークだけしておく。
  • 二度目はゆっくりと読み進め、マークした単語をまず辞書で調べて、一度目に読んだときに推測した意味が正しいかどうか確かめる。長い文章だったら、一部分だけでもよい。辞書を引くときは、最初の語義だけではなく、最後まで目を通し、どの語義がその文に当てはまるかを確かめる。
  • そして、もう一度文章を読み直し、辞書に書かれていた意味がほんとうに文脈に合っているかを吟味する。
  • ここまですると、その単語に対して深い情報処理がなされ、単語の意味が記憶に定着する可能性が高い。気になる単語はさらに WordNetコーパスで深掘りをして、同じネットワークに属する関連語や類義語を調べ、それらとの違いを考えると、究極に深い処理がされ、英語スキーマの気づきにつながり、記憶にしっかり定着するはずだ。

多彩な表現への気づき

  • 日本語字幕を読みながら英語を聴くと、他にも収穫がある。内容を伝える言いかたは一つではない。何通りもある言いかたの中で、もっともそのときの状況にふさわしく、かつ相手にわかりやすく、相手の心をとらえる言いかたができる。これが言語のセンスというものである。
  • しかし、外国語だと、とにかく母語から外国語に「意味を移す」ことで頭がいっぱいになってしまい、この当たり前のことが見えていない人が多い。特に受験生に多いが、それは学校、塾や予備校などでそう教えられるからだろう。数学の公式や物理、化学の法則を暗記するかのように「日本語で○○なら英語で××と訳す」と教えられ、テストのために暗記することを繰り返すからだと思う。
  • 自然な英語をアウトプットできるようになるためには、この呪縛を打ち破ることが必要である。報告書、提案書や論文など、プロフェッショナルな書類を英語で書くときには、意味が通じれば OK、では通用しない。内容もさることながら、わかりやすく、簡潔で端的な文章を書けることが求められる。
  • 自分はまだ、そんなレベルではない、と思うかもしれない。しかし、そういう人こそ、教科書で習った定型文ではない表現のしかたで、自分のもっている語彙の範囲で基本的な単語を駆使して英語の文を作る練習をすることが大事である。単語が出てこないから、英語がうまく言えない、という人が多いと思うが、発想を転換して、知っている単語で、なんとか言いたいことを表現する工夫をすることが大事なのだ。そのためには、日本語を単語レベルで置き換えるのではなく、言いたいこと全体を英語の発想で英語に置き換える習慣をつけていくことが重要だ。
  • 私自身も、英語で文章を書くときに気をつけていることは、まさにそこである。言いたいことを単語レベルで日本語から英語に移すのではなく、伝えたい内容を文単位ではなくアイディアの塊として考え、日本語にとらわれずに、英語にする。そのときに、一つの言いかただけでなく、複数の可能な言いかたを考えたう
    えで、もっとも簡潔な表現を選ぶようにしている。映画熟見法に戻ろう。セリフがほぼ聴き取れ、頭に入ってきたら、こんどは、日本語字幕から、自分ならこういう英語を書くだろうなと考えるのもよい練習だ。自分の考える英文と、プロの脚本家が書いた選び抜かれたセリフのギャップを楽しむのだ。

多彩な表現のしかたを練習する

  • 映画の英語がほぼ聴き取れて頭に入ってくると、日本語字幕が決して英語の単語をそのまま日本語にしているわけではないことに今さらながら気づく。たとえば「動くな」は Don't move.でもよいが、ボンドはStay. と一言だけ言っていた。「君を救えるのは僕だ」はつい It is me who can rescue you. のような受験用の定番構文を使いたくなってしまうが、映画では I'm your best chance of staying alive.だ。「逮捕する」も、普通には I will arrest you. と訳したくなるが、I'm going to bring you in.だった。
  • 日本語は一般的に、名詞のウエイトが大きく、漢語名詞を中心にして文の意味が作られる。しかし、英語で中心になるのは、動詞と前置詞である。日本語の特徴を意識せずに単語単位で英語にしようとすると、日本語の名詞を辞書で引いて英語にしてしまうので、英語としてとても不自然な文を作ってしまうことになる。
  • 言い換えれば、自然な英語を書くには、日本語の名詞のことを忘れて、文全体で何を伝えたいのかを考えることがとても重要なのである。そのとき、まず動詞を
    考えるべきである。そういうことは、数多の英作文などの参考書で書かれているので知っている人も多いと思うが、映画を「熟見」しながら英語のセリフと字幕
    の日本語を比べると、それが実によく見えてくるのである。この「体験に基づく納得と気づき」も学習には――特に自分に染みついた日本語スキーマに打ち勝っ
    て英語スキーマを獲得するにはとても大事なことである。

スピーキングとライティングは認知的に何が違うか

  • これまで述べてきた方法で記憶に残った単語は、まだ自由に文を作れるレベルの深い知識には至っていないはずである。コーパス学習で得られるのは、「頭で理解する」知識である。自由に英語を話したり書いたりするには、「頭の知識」を「身体の知識」にしなければならない。「覚えた」単語を自在に使うためには、その単語を使ってたくさんの文をアウトプットする練習が必要だ。
  • では、どうやってアウトプットの練習をしたらよいのか。この点でも、合理的な学習法について、いろいろな誤解があるように思う。アウトプットには、スピーキングとライティングがある。多くの人が求めるのはスピーキングができるようになることだろう。母語では、話すことは書くことより易しいと思われている。実際、幼児は2歳前から話すようになるが、書くことができるようになるのは就学以降だ。しかも、小学生はもとより大学生にとっても書くことは易しいことではないことを多くの人は経験している。
  • しかし、スピーキングはリスニングと同様、リアルタイムで進行する。スピードを自分でコントロールすることはできず、わからない単語が出てきても、話しながら辞書などで単語を調べる余裕はないので、認知的な負荷が高い。また、スピーキングのときは細かいことを気にせず、とにかく手持ちの材料で「伝える」コミュニケーションが主眼になるので、いくら練習をしても、日本語スキーマの克服は難しく、英語スキーマを身体化することは期待できない。さらに、相手がいる会話で話す場合には、相手の言うことを理解しなければ応答することができないから、リスニング能力がなければ始まらない。つまり、スピーキングは、辞書を引かなくても自分で言いたいことを表現できるだけの語彙力と、相手の言うことをリアルタイムで聴き取り、理解できるリスニング能力がなければ成立しないのである。
  • 逆に、ライティングは、時間を自分でコントロールできるし、わからない単語を辞書やコーパスなど、さまざまな道具を使って調べることができる。だから、結論を先に言ってしまえば、覚えた単語を使いこなす練習をするには、スピーキングよりライティングに多くの時間を割いたほうが合理的なのである。

初学者のスピーキング練習の限界

  • 逆に言えば、語彙がないうちからやみくもにスピーキング練習をしてもあまり意味がないのである。初学者が簡単な挨拶や日常の基本的なことを話す練習をするのはよいとしても、それは英語のリズムで発声することが主な目的であるべきで、それ以上のことは、まず語彙力をつけることと、覚えた単語を使って作文を言語の表現の することに時間を使ったほうがよい。
  • リスニングもスピーキングも、いくら発音がきれいでも語彙が足りなければ上達は望めない。最終的には4技能をバランスよく習得することがもちろん望ましいのだが、最初から同じ時間をかけて4技能を学習することがよいわけではないのだ。もちろん、まったくリスニングやスピーキングの学習をしなくてもよいと言いたいわけではない。しかし、教師も生徒も、語彙がないのにリスニングやスピーキングに時間をたくさん使う前に、語彙を増やし、学習した単語を使ってたくさん作文する練習をするほうが、時間の有効利用であることは知っていてほしい。
  • スピーキングで大事なのは、アクセント(強勢)とイントネーション(調律)も含めた、単語と文の発音である。
  • 日本語話者の発音の問題は、rとlの発音などではない。実を言うと私もrとlの発音は上手にできない。そもそも聴き分けができないのだから無理はない。しかし、それで伝えたかったことが通じなかったことはほぼない。通じないのは、単語の母音の発音が間違っているときや、アクセントが間違っているときである。ご存知のように、英語は綴りと発音の対応が不規則である。たとえば light のiは「アイ」と発音されるが、live のiは「イ」となる。母音の発音が間違っていると、その単語に聞こえないので、てきめんに相手に通じなくなる。
  • アクセントも同じだ。英語は単語のアクセントで文全体の韻律を作っていく言語なので、母語話者は、アクセントがなかったり、位置が間違っていたりすると、とたんに音声情報処理が大きく阻害され、単語認識ができなくなってしまう。r とlのようにもともと音が似た音素は、発音が違っていても単語の他の部分でカバーしやすい。
  • 少し脱線してしまったが、アクセントや母音の読み違いは、学習者自身では気づかないので、教師からのフィードバックはとても大事である。教師一人に対して生徒大勢で一度に復唱しても、一人ひとりの発音の誤りはわからないので、あまり意味がない。教師一人の発音を生徒全員で復唱することに多くの時間を割くより、教師が短時間ずつでも個別に発音を指導し、そのあいだ他の生徒は作文の自習をしたほうが効果的だろう。
  • テキストに指定された簡単なダイアローグを生徒同士でロールプレイングするというのも、よく高校の英語の授業で見かける。これも、たくさんの時間を使っても効果はあまり期待できないと私は思う。先ほど紹介したホテルのロボット従業員のように、作りこんだ定型文を覚えても、現実のリアルな場で相手が定型文で返してくれるわけではないので、暗記したことが使えないからである。生徒同士によるダイアローグ練習が有効になってくるのは、かなり習熟度が上がり、語彙が豊富にあって、中身のある内容をゆっくりでも自由に言えるようになってからである。
  • 先ほど述べたように、スピーキングでは手持ちの語彙で伝えることが肝心だ。ぴったりの単語が見つからなければ、句で言い換えられるようになることが大事だ。語彙がかなり充実して、まがりなりにも文を作れるようになったら(しつこくて申し訳ないが、ここは強調しておきたい)、この練習——自分が使いこなせる単語で(必要なら)ごまかしながらリアルタイムで言いたいことを伝える練習——はするべきである。
  • このとき、定冠詞・不定冠詞や可算・不可算の表示、主語と動詞の数の一致、時制などまで気にしていたら話すことは到底できない。その意味で、いくらスピーキングの練習をしても、日本語スキーマの克服は難しく、英語スキーマを身体化することは期待できないのである。英語スキーマはライティングの練習で作っていくことができる。

ライティングは自己フィードバックこそ有効

  • スピーキングは即時のフィードバックを与えないと効果はないが、ライティングなら、生徒が書いた英語の作文に教師が一人ずつフィードバックをすることができる。作文も、書きっぱなしでは向上しない。その意味で教師のフィードバックはとても大事だし有効である。
  • しかし、学習者が、書いたあと読み返し、自分で吟味する習慣をつけることはもっと大事だ。本書で述べてきた人間の認知のクセを考えると、自分で問題点を意識して見直しをし、辞書、コーパスなどで調べない限り、教師のフィードバックはスルーしてしまう可能性が高い。日本語スキーマに基づいて書いた英語に対
    して、教師が誤りを指摘し、正答を書く。学習者は、そのときは「そうだね」と納得しても、結局、日本語スキーマに負けて教師の指摘は定着しない。それが人
    間というものである。
  • 結局、どんなに英語能力を向上させたい、という意欲をもっていても、英語は先生に教えてもらうもの、教えられたことを暗記するもの、という意識で学習して
    いる限り、伝えたいことを自在にアウトプットすることができるほんとうの英語力は身につかないのである。
  • 私は、英語で論文を書いたら、最低3回は読み直すようにしている。1回目は言いたいことを伝えるのに、もっとよい表現がないかと吟味する。同じことを表現するにも、よりよい別の表現ができないか検討するのである。そのあと、2回目は自分が苦手な冠詞と複数形だけに注目してもう一度チェック、さらに、主語と動詞の数の一致(主語が三人称単数現在のときに動詞に語尾 -s がついているか)と時制だけに注目して3回目の見直しをする。冠詞や数の一致の問題は、日本語話者にはなかなか理解が難しいうえに、注意していないと、それらをつけない裸の名詞の出てくる文を作ってしまいがちだからである。
  • この「悪いクセ」は、意識して注意を向けないと、絶対に直らない。そのとき、どのような単語や句を使って、どの構文で表現するかといういわゆる「内容表現」と細かい文法要素に同時に注意を向けようとするより、1回ごとに別の観点に集中して注意を振り向けたほうが間違いに気がつきやすい。
  • この習慣を続けていると、名詞を使うときに徐々に冠詞に注意が向くクセがつくようになった。すると、単数・複数を間違えなくなり、不定冠詞 a、定冠詞the、冠詞なしの使い分けも感覚的にわかってくるようになった。今では、学生が可算名詞を冠詞なしで裸で書いていると、気持ち悪くてしかたがない。(しかしそれでも校関してもらうと、ときどきは修正が入るので、完全に英語ネイティヴの感覚になっているわけではない。)
  • 冠詞、数の一致、前置詞は日本語話者には永遠の課題である。その理屈を書いた参考書は山のようにある。しかし、理屈をスピーキング、ライティングのときに習慣的に使えるようになるためには、注意を向けながらとにかく数をこなして、自分で感覚をつかんでいくしかないのである。つまり「熟書」の訓練を長年繰り返すことが、英語を話せる・書けるようになるには欠かせないのである。

スピーキングとライティングの合理的な学びかた。

  • 総合的に考えると、深い「生きた」語彙知識が育ち、ある程度自由に作文ができるようになるまでは、スピーキングよりもライティングに時間をかけたほうが合
    理的である。
  • 「生きた知識」としての語彙を増やすためにも、文法(特に冠詞、可算・不可算、時制)を使いこなせるようになるためにも、まず日本語と異なる英語スキーマ
    気づき、習慣的に注意を向けるように、情報処理のシステムを作っていく必要がある。
  • そのためには、リアルタイムでどんどん進んでしまうスピーキングより、オフラインで注意を向け、吟味することができる、ライティングの練習をするべきだ。
    アウトプットの練習は必要だが、日本語スキーマの語彙や文法を適用していることに気づかないままで、いくら話す練習、書く練習を重ねても、英語スキーマ
    身につかないし、英語として自然な(通じる)アウトプットはできない。最初のうちは、熟読・熟見・熟書で語彙を育て、英語スキーマを身につけることを学習の最大の目標にするべきだ。
  • ライティングが自由にできるようになれば、スピーキングは短期間の集中的な練習で上達する。熟読、熟見、WordNetコーパスを使ってアウトプットできる語
    彙を増やし、覚えた単語を即座に使って作文をする。無理に長い文章を書く必要はなく、シンプルな構文の短い文でよい。文を作ることで、情報処理が深くなり、記憶に定着しやすくなる。
  • こういう学習を繰り返していると、徐々に英語スキーマが使えるようになり、英語の熟達が進んでいくはずだ。そのタイミングで、英語が第一言語として日常的に使われる環境に短期間留学をして、現地の人とできるだけたくさん話す機会をつくり、英語を使う練習をする。こういう学習法は非常に合理的である。

最初の立ち上げは素早く、あとは気長に

  • ところで、外国語の学習は、短期集中でするのがよいのか、長く継続するのがよいのかという質問をよく受ける。この問題についてもやはり、子どもが母語をどのように学び、習得しているのかを考える糸口としよう。答えを先に言えば、はじめのうちは集中して学び、その後は少し間隔を空けながら気長に学ぶのが合理的である。
  • 人は新しい知識をすでにもっている知識に関係づけて学ぶとき、もっともよく学ぶことができる。一定量の知識がないと、新しい知識をすでにもっている知識に関係づけて、知識のシステムを作ることができない。実際、子どもが母語を学ぶとき、最初は非常にゆっくりしたスピードでしかことばを覚えることができない。単語をほとんど知らない状態では、新しい単語を覚えるのは困難だからである。しかし 50語ほど単語を覚えたのちは、ことばを覚えるスピードが急速に上がる。すでに覚えた単語を新しい単語の意味の推論に使うことができるからである。その後、新しいことばを覚えるスピードは徐々に落ち着く。新しい単語を語彙に加えつつ、すでに知っている単語の意味の修正もおこない、必要に応じて概念分野全体の修正もおこなうようになるからである。新しい項目を加えるだけでなく、知識のシステム全体を修正しつつさらに精緻にしていくフェーズに入るので、そのときは、急いで新しい知識を増やしていくのとは異なる認知プロセスが心と脳の中でおこなわれるようになるのである。
  • 外国語を学習するときも、ある程度のボリュームの知識がなければ何も始まらない。単語をほとんど知らず、基礎的な文法も知らなければ、簡単な文を言うこともできないし、文章を読むこともできない。だから、学習を始めたばかりのときには、集中的に学習して、不完全であっても最低限の文法と単語からなる一定量
    の知識システムをスピーディに立ち上げることが必要なのだ。
  • とはいえ、英語の単語を日本語に直しただけのリストを暗記するのは時間の無駄である。その単語が動詞なら、少なくとも文ごと覚えて、構文といっしょに覚える。名詞なら、それが不定冠詞の a や複数形のsといっしょに使われるか、無冠詞で使われるのかもいっしょに覚える。形容詞なら、修飾する名詞といっしょに覚えるべきである。英和辞典を使うのはもちろんOKだ。ただし、辞典に書かれた語義を読むとき、自分は日本語のスキーマのフィルターを通してその語義を解釈しているかもしれない、ということはいつも意識していたほうがよい。
  • 知っている単語が増えて、英英辞典や SkELL などの短い文をそんなに苦痛でなく読めるようになったら、手持ちの語彙システムを足がかりとして新しい単語を
    語彙に加えていきながら、日本語スキーマとは別の英語スキーマを徐々に作っていくフェーズに移る。ここでは気長に、ただしあまり間を空けすぎずに学習を続
    けていくことが大事だ。システムが走り出して、安定したフェーズに入ったら、毎日根を詰めて学習するより、ほどよい間をおいて学習したほうが、学習効果がたかい。
  • 記憶は時間とともに必ず減衰する。しかし減衰しかけたところで(完全に忘却する前に)以前覚えたことを再び学習すると、学習内容が既存の知識と関係づけられやすくなり、記憶が定着して、より深い学習ができるのである。短時間に集中して詰めこむ学習法を集中学習、少し間隔を空けて、前に学習したことを忘れかけたときにそれを思い出しながら新しいことを学習する方法を間隔学習と言う。長期的には間隔学習のほうが記憶の保持もよく、深い知識が得られることは、認知
    心理学の研究で明確に示されている。
  • ただ、あまり生真面目に、毎日・毎週必ず英語の勉強をしなければ、と思い詰めることはよくない。大人は忙しい。英語の学習ばかりしていられない。英語の学習の時間がストレスになるのなら、そして、どうしても今すぐ英語を使わないと生活に支障があるという差し迫った状況でないのなら、思い切ってしばらく休み、まとまった時間が取れたら再開する。そのとき、最初は少し集中して時間を使う。このサイクルを繰り返すのもよい。
  • いずれにせよ、英語の学習に完成はない。言語能力はどこまでも伸ばすことができる。だから、あせらず、気長に、完璧を求めず、しかし惰性ではなく、楽しみながら、よりよい学習法を考えながら続けること。それこそが英語学習の成功の秘訣である。

 

  • 作例を用いると、たとえ母語話者であっても確証バイアスが働いて、自分の仮説やセオリーに合う用例ばかりを思い出してしまうおそれがあることから、近年の言語研究では文の自然さの判断にコーパスを用いるようになってきている。

WHAT IS LIFE?(ホワット・イズ・ライフ?)生命とは何か

  • あらゆる形で存在する生命に圧倒されることがある。われわれはこの世界を、数え切れないほどの動物、鳥、魚、昆虫、植物、菌類、さらにもっと多くの名が連なる微生物たちと分かちあっており、各々が自分特有のライフスタイルにうまく適応しているように見える。何千年にもわたって、こうした多様性はすべて、創造主である神の努力のたまものに違いないと、人々が考えてきたのも不思議ではない。
  • 創世の神話は、ほとんどの文化にあふれている。ユダヤ教キリスト教に共通する創世記は、文字通りに読めば、「生命がほんの数日間で創造された」と主張している。すべての種は一つひとつ創造主によって形作られたという考えは、広く行き渡っていたが、あまりにも多様な甲虫をどう説明するのだろう。二〇世紀の遺伝学者 J・B・S・ホールデンは「神様ってえのは、とてつもなく甲虫が好きだったんだな」というジョークを飛ばした。

パスツール の 偉大な貢献

  • 発酵の科学的研究は、現代化学の始祖の一人である、一八世紀のフランス貴族で科学者のアントワーヌ・ラヴォアジエから始まった。彼にとっても、科学全体にとっても不幸なことに、非常勤で収税官をしていたせいで、フランス革命中の一七九四年五月に、ラヴォアジエは断頭台の露と消えた。その政治的な吊し上げ裁判で彼に判決を下した裁判官は、こう宣言した。「共和国には学者も化学者も必要ない」。
  • われわれ科学者は政治家によくよく気をつけねばならない! 残念ながら政治家、特に大衆に迎合しがちな政治家は、裏づけに乏しい自分の見解に専門知識が真っ向から対立する場合、「専門家」をないがしろにする傾向がある。
  • ギロチンと不慮の出合いをする前、ラヴォアジエは発酵のプロセスに夢中になっていた。彼は「発酵は初めのブドウジュースに含まれる糖が、できあがったワインのエタノールに変換される化学反応である」と結論づけた。発酵をこんなふうに考えた人は、それまで誰もいなかった。その後、ラヴォアジエはさらに踏み込んで、「発酵素」と呼ばれるものがあって、それはブドウそのものに由来し、化学反応で中心的な役割を果たしているようだと提案した。とはいえ、ラヴォアジエは、発酵素の正体をつかむことはできなかった。
  • およそ半世紀後、工業用アルコールの製造者たちが、自分たちの製品を台無しにしてしまう現象の謎を解明してくれないかと、フランスの生物学者で化学者のルイ・パスツールに依頼し、すべてが明らかになった。
  • 甜菜のビートパルプ(=甜菜から糖分を絞ったあとの残りかす)を発酵させるとき、うまくいかずに、エタノールではなく酸っぱくて不快な酸ができてしまうことがある。それがいったいなぜなのか、彼らは知りたがった。パスツールは探偵顔負けのやり方で、この謎に挑んだ。
  • 彼は顕微鏡を使って決定的な証拠を手に入れた。首尾よくアルコールができた発酵用の大樽の沈殿物には、酵母細胞が含まれていた。酵母は明らかに生きていた。酵母のいくつかには芽が出ており、活発に増殖していることを示したからだ。
  • 一方、酸っぱくなった大樽を調べると、酵母細胞が一つも見当たらなかった。この単純な観測結果から、微生物の酵母こそが、あの得体の知れない「発酵素」、つまりエタノールを作り出す鍵となる物質にちがいないと、パスツールは提案した。酸っぱくなった大樽の方は、他のなんらかの微生物、おそらくもっと小さな細菌が、酸を作ってダメにしてしまったのだ。
  • ここで重要なのは、生きている細胞の成長が、特定の化学反応の直接的な原因である点だ。この例では、酵母細胞がブドウ糖エタノールへ変えている。パスツールの偉大な貢献は、個別の事柄から一般的な事柄へと歩みを進め、重大な新しい結論にたどり着いたことだ。彼は、化学反応が単なる細胞レベルの興味深い特徴ではなく、生命の決定的な特徴だと見抜いた。パスツールはこのことを鮮やかに「化学反応は細胞の命のあらわれだ」という言葉でまとめた。
  • 現在では、あらゆる生物の細胞内で、何百何千もの化学反応が同時進行していることが分かっている。こうした化学反応が生命を司る分子を作り出し、それが細胞の成分や構造を形作る。化学反応はまた、分子の分解も行う。細胞成分を「リサイクル」してエネルギーを得るためだ。
  • これらを合わせた、生命体で発生する膨大な化学反応のことを「代謝」と呼ぶ。それは生きているものが行うすべての基礎だ。維持、成長、組織化、生殖、そしてこうしたプロセスを促進させるのに必要なすべてのエネルギーの源。代謝は生命の化学反応なのだ。

 

「合成生物学」のインパク

  • 今後10年で、遺伝子工学的手法を利用する必要性がさらに出てくると私は思う。「合成生物学」として知られる、比較的新しい科学分野のインパクトは大きい。合成生物学者は、遺伝子工学がこれまで用いていた、的を絞り、少しずつ進歩するやり方ではなく、生き物の遺伝子プログラムを根本から書き換えようとしている。
  • ここに立ちはだかる技術的なハードルは高く、そうした新しい種をどのように制御し、環境に流出させないか、という問題もある。しかし、実現した際の見返りは膨大だ。生命の化学的性質は、人間が実験室や工場で行ってきたような化学プロセスよりも、はるかに適応性があり効率的だからだ。
  • 遺伝子組み換えと合成生物学により、生命の輝きを再編成し、別の目的に向かわせることができる。合成生物学を使って栄養の強化された作物や家畜を作り出すことは可能なはずだが、それよりも、もっと幅広い応用も考えられる。再設計された動植物や微生物を作り出して、そこからまったく新しいタイプの薬剤、燃料、生地、建築材料を生産しているわれわれの姿が目に浮かぶ。
  • 遺伝子工学的に操作された新たな生物システムは、気候変動を解決に導くかもしれない。科学者の大半は、地球温暖化が加速段階に入ったと考えている。これは、人類だけでなく、(人類もその一部である)生物圏への深刻な脅威だ。
  • 差し迫る緊急課題は、われわれが発生させている温室効果ガスの量を削減し、温暖化の広がりを縮小することだ。本来の状態よりも効率的に光合成をする植物を再設計したり、生体細胞という枠を超え、それを工業規模で活かすことができれば、カーボンニュートラルな生物燃料や工業用の材料を作ることが可能だ。
  • 科学者は、頻繁に干ばつに襲われたりして、それまで開墾されたことがなかった、劣化した土壌や地域など、いわゆる耕作限界の環境で繁茂できる新種の植物も、遺伝操作で作ることができる。そうした植物は、世界中の人々に食物を供給するだけでなく、二酸化炭素を引き下げて、気候変動に対処するためにも利用できる。
  • また、持続可能な方法で稼働する「生きた工場」の基礎とすることもできる。化石燃料に依存する代わりに、廃棄物や副産物や太陽光から効率的にエネルギーを得る生物システムも作り出せるかもしれない。
  • こうした遺伝子工学による生命体と並行して、もう一つの目標は、自然に光合成をする生き物が地表に占める総面積を増やすことだ。これは見かけほど単純な提案ではない。大きな効果を得るためには、大規模に実施する必要があり、さらに、植物が枯れたり収穫された際の、長期にわたる炭素貯蔵の問題も検討する必要がある。これには、森林を増やしたり、海での藻や海草の培養や、泥炭湿原の形成を促すことも関わってくる。
  • しかし、こうした介入を迅速かつ効率よく行うことで、生態動力学に関するわれわれの理解は、限界まで広がってゆくだろう。現在、広い範囲で進行中の、ほとんど説明がつかない昆虫の数の減少の謎も、解明されるかもしれない。われわれの未来は、昆虫と切っても切れない縁がある。昆虫は、多くの食用作物を授粉させたり、土壌を作ったり、その他多くのことをしているのだから。
  • こうした応用が発展するためには、生命の仕組みについて、さらに深く理解する必要がある。分子生物学者、細胞生物学者、遺伝学者、植物学者、動物学者、生態学者、 その他、あらゆる領域の生物学者が一丸となって働く必要がある。
  • 人類の文明が、生物圏の他の生き物たちを犠牲にすることがあってはならない。これを成功させるためには、自分たちが「いかに何も知らないか」を直視する必要がある。われわれは、生命の働きへの理解を大きく進歩させてきた。
  • だが、現在の理解は部分的で不完全だ。われわれの野心的で実用的な目標を達成するために、生物系に建設的かつ安全に干渉することを望む、まだまだ学ぶべきことがたくさんある。
  • 新しい応用にとりかかる場合、生命の働きのさらなる基礎理解と手を取りあって、前進すべきだ。ノーベル賞を受賞した化学者のジョージ・ポーターは、かつてこう警鐘を鳴らした。「応用科学を養うために基礎科学を飢えさせることは、建物をもっと高くするために建物の基礎を節約するのと似ている。大建造物が崩れ落ちるのは時間の問題だ」。
  • しかし、科学者の側だって、好きなことだけやって胡座をかいていてはいけない。役に立つ応用は、可能な限り実現すべきだと、肝に銘ずる必要がある。自分の知識を公共の利益のために使う好機が巡ってきたら、科学者は、それをなすべきなのだ。

生命を理解して世界を変える

  • だが、これは別の疑問とさらなる問題を生じさせる。何をもって「公共の利益」とするか、意見は一致するだろうか? 新しいがんの治療がきわめて高額な場合、治療を受ける優先順位はどうやって決めるのか? 充分な証拠なしにワクチン拒否を推奨したり、抗生物質を誤用したりすることは、犯罪行為なのか? 個人の遺伝子に強い影響を受けて起きた犯罪を罰するのは正しいのか? 生殖細胞遺伝子の編集で、ハンチントン病の家系の人々を病から解放できるとしたら、彼らにはゲノム編集を自由に選ぶ権利があるだろうか? 成人のクローンを作ることは、いつか許されるようになるのか?
  • そして、気候変動への取り組みが、何十億もの「遺伝子組み換え藻」を海に植え付けることを意味する場合、実行すべきだろうか?
  • これらは、生命について深まりゆく理解により、われわれが自問自答すべき、差し迫った、多くの場合、きわめて個人的な疑問の一握りにすぎない。納得のいく答えを見つける唯一の方法は、開かれた本音の議論を続けることだ。
  • 科学者はこのような議論で特別な役割を果たす。前進する度に、恩恵と危険性と起こりうる障害をはっきり説明しなければいけないのは科学者なのだから。
  • しかし、議論の主導権を握るのは社会全体であるべきだ。政治指導者たちも、全面的にこうした問題に関与すべきだ。今のところ、科学技術がわれわれの生活や経済に与える多大な影響に、充分に気づいている政治指導者はほとんどいない。
    だが、政治の出番は、科学より「後」であって「前」ではない。 この順番が逆に
    なったとき、どれだけ悲惨なことになるか、世界は幾度となく目撃してきた。
  • 冷戦中、ソビエト連邦原子爆弾を作り、初めて人類を宇宙に送った。しかし、遺伝学と作物の改良は、思想的な理由によって深刻な被害を受けた。スターリンは、メンデル遺伝学を否定するペテン師ルイセンコの説を信望した。その結果、人々は飢えに苦しむこととなった。
  • 最近では、科学的な理解を無視したり、積極的に攻撃したりする気候変動「否定」論者たちが、対応の遅れをもたらすのを、われわれは目のあたりにしてきた。公共の利益に関する議論は、知識と証拠と合理的な思考によって牽引されるべきで、イデオロギーや根拠のない信念や欲や過激な政治思想によってではない。
  • 科学の価値自体に議論の余地がないことは確かだ。世界は科学と、それが提供する進歩を必要としている。自我を持ち、独創性があり、好奇心にかられて行動する人類であるわれわれは、生命についての理解を利用して世界を変えられる、 またとないチャンスを手にしているのだ。
  • 人生をもっと良いものにするために、自分たちにできることをするかどうかは、われわれ次第だ。それは、われわれの家族や地域社会のためだけでなく、来たるべきすべての世代のため、そして、(われわれが切っても切り離せない一部である)生態系のためでもある。
  • われわれを取り巻く生き物の世界は、尽きることのない驚きを人間にもたらす源であり、われわれの存在そのものを支えてくれている。

恐れのない組織

コロナ禍における危機対応を通じて、いかに日本の政治家が与野党を問わず無能であるかを大半の国民が再認識させられている。震災およびその後の危機対応という歴史的な重大インシデントから何らかの教訓を得て活かすことができていれば、これほどの惨事にはならずに済んだのではないか、というのが、本文を読んだ率直な感想である。

波風を立てないために歩調を合わせる

  • 以上見てきたように、沈黙の文化とは、懸念の表明より周囲との同調が大勢を占める文化だと理解していいだろう。根底にあるのは、人々の意見にはたいてい価値がない、ゆえに尊重するには及ばないという前提だ。もしかしたら、福島の事故を引き起こすに至った一連の考え方を、沈黙の文化がどのように伝え続けてきたかについて、最も的を射た批判をしたのは、国会事故調(東京電力福島原子力発電所事故調査委員会、NAIIC)の委員長、黒川清かもしれない。彼は、英語版の報告書の冒頭に、次のように記した。
  • どんなに詳しく書いても、この報告書では――とりわけ世界の人々に対して――十分に伝えきれないことがある。それは、この大惨事の背後にある、過失を促したマインドセットである。これが「日本であればこそ起きた」大惨事であったことを、われわれは重く受けとめ、認めなければならない。根本原因は、日本文化に深く染みついた慣習――すなわち、盲目的服従、権威に異を唱えたがらないこと、「計画を何が何でも実行しようとする姿勢」、集団主義、閉鎖性―――のなかにあるのだ。
  • 黒川が挙げた「染みついた慣習」はいずれも、日本文化に限ったものではない。それは、心理的安全性のレベルが低い文化(率直な発言も抵抗もしたがらない姿勢と、世間に対して体裁をよくしておきたいという強烈な願望とが混ざり合っている文化)に特有の慣習なのだ。評判を気にするせいで、従業員は、外部に対してだけでなく内部でも意見を言えなくなる。福島第一原発の安全性――および、よりたしかな安全対策の実施に必要なもの――に対する警告をはねつけたことは、原子力エネルギーを推進したいという国の強い希望とも密接に関連していた。
  • 第3章で取り上げたニューヨーク連邦準備銀行のストーリーでは、規制を受ける側の強力な組織がそれとなく結託し、勇気を出して率直に発言したり拒否したり反対したりする少数の人々を黙らせてしまったが、同様に、日本の原子力産業も「規制の虜」に苦労していた。黒川によれば、原子力によって国家のエネルギー安全保障を実現するという日本の長年の政策目標が強力な命令になったために、原子力が、シビル・ソサエティ(市民社会)による監視の目などどこ吹く風の、止めようのない力と化したという。原子力の規制が、その推進について責任を負う同じ政府の役人に委ねられてしまったのだ。このように、必要性にとらわれ、何が何でも実現しようとしたことが、「規制当局の圧力をものともしない、小さな事故を隠すのが慣例の」文化を生み、「……福島第一原発の事故を引き起こしてしまった」のである。
  • 2013年、スタンフォードの調査によって、5000万ドルもあれば、十分な高さの壁を建設し、この大惨事を回避できたはずだったことが突きとめられた。しかしながらこの事例はやはり次の点を示している。メッセージを聞こうとしないことが支配的な文化になっているときに耳を傾けてもらうこと――意見を歓迎し、じっくり話し合い、ときにはその意見に基づいて行動を起こしてもらうこと――が、どれほど困難であるかを。

率直さを実現する

  • 一九九五年に三歳より上の年齢であったなら、あなたはおそらく『トイ・ストーリー』という映画に関心を持っていた、あるいはほどなく持つようになっただろう。『トイ・ストーリー』は、ピクサーが公開した史上初のコンピュータ・アニメーション長編映画である。その年、『トイ・ストーリー』が第一位の興行収入をあげ、ピクサーIPO(新規株式公開)も同年最大となった。その後のことは周知のとおりである。ピクサー・アニメーション・スタジオは以来、一九の長編映画を制作し、そのすべてが商業的に大成功を収めている。これは、ヒットを出すことが重要だが簡単ではない業界において、きわめて意義深い。また、ただ一社によって失敗なくヒットを飛ばし続けるというのは、他にほぼ例がない。同社はどのようにして、そんな偉業を成し遂げているのか。答えはこれだ――創造性と批判の両方が次々生まれる状況を、リーダーシップが生み出しているのである。ピクサーの仕事はストーリーの創造とアニメーション化かもしれないが、会社としてのあり方には、その映画と同様に普遍的で大切なことが、心理的安全性に関して示されている。
  • ピクサーの共同創設者であるエドウィン(エド)・キャットムルは、同社の成功の一因は率直さだと述べている。彼は、率直さとはざっくばらんに、あるいは腹蔵なく話すことだと説明し、「率直さ」という言葉からは遠慮のない正直な話し方が連想されると指摘しているが、それらはまさしく心理的安全性の考え方に通じている。率直さが職場の文化の一部になっていると、人々は発言を禁じられているように感じない。考えを胸にしまっておくこともない。皆、思うことを述べ、アイデアや意見や批判を共有する。理想的な場合は、ともに笑いながら、やかましいくらいに話をする。キャットムルは、率直さを促すために、組織においてそれを制度化する方法を模索している。わけても注目すべきは、「ブレイントラスト」というミーティングである。
  • 数名が数カ月ごとに集まって、制作中の映画を評価し、忌憚のない意見を監督に伝え、創造的問題の解決を手伝うブレイントラストは、一九九九年に生まれた。ストーリーに難のあった『トイ・ストーリー2』を面白いものに変えようと急いでいたときのことである。ブレイントラストが用いる方法は、いたってシンプルだ。監督たちとストーリーづくりに関わる人たちが、直近につくられたシーンを一緒に観て、ランチをともにし、その後、面白いと思うところと思わないところについて監督にフィードバックするのである。カギとなるのは、率直さだ。もっとも、率直であることはシンプルだが、決して簡単ではない。

素晴らしいものをつくるプロセスで悪いものを受け容れる

  • キャットムルが率直に認めているように、「……どの作品も、最初は箸にも棒にもかからない駄作」である。つまり、「トイ・ストーリー」はまかり間違えば、おもちゃたちの秘密の暮らしを描いた感傷的でつまらない映画になりかねなかったということだ。実のところ、その創造的なプロセスは本質的に繰り返しの作業であり、面白い作品になるかどうかは、誠実で正直なフィードバックを得られるかどうかにかかっている。もし、ブレイントラスト・ルームに集まって制作途中のシーンを観た人々がよくない、何かが足りない、わかりにくい、理解できないと思う部分を率直に述べても大丈夫だと安心できず、お世辞のような言葉を口にするだけであったら、「トイ・ストーリー』と「トイ・ストーリー2」が空前の大ヒット映画になることは、おそらくなかっただろう。
  • ピクサーのプレイントラストには、いくつかルールがある。第一に、フィードバックする際には建設的に、そして個人ではなくプロジェクトについて意見を述べなければならない。同様に、監督は批判に対して過敏になったり個人的なものとして受け取ったりせず、事実を告げる声に喜んで耳を傾ける姿勢を持つ必要がある。第二に、トップダウンにしろその逆にしろ、相手に強制することはできない。監督は作品について最終的な責任を負っており、提案された解決策を採用も却下もできる。第三に、率直なフィードバックは「あら探しして恥をかかせること」ではなく、共感の観点から行わなければならない。これについては、批評する側の監督たち自身も過去に何度もフィードバックを受けているため、その経験が活きてくる。わけても監督の構想や夢に対しては、称賛と好意的な批評が惜しみなく与えられる。キャットムルも述べているとおり、「ブレイントラストは心が広く、力になりたいと思っている。利己的な考えは持っていない」のだ。ブレイントラストは、臆病な「彼ら」ではなくむしろ中立的で自由に動ける「一団」と言ってよく、個々のメンバーの総和以上の存在と考えられる。人々が安心してひらめきや意見や提案を言うことができると、部屋のなかのナレッジが飛躍的に増える。これが起きるのは、個々の見解や提案が互いをもとにして進化し、新たなものを形づくったり今までと違う価値を生み出したりするためである。これは、フィードパックが別々に集められる場合とは対照的だ。
  • 専門家集団意見を率直に仲間に伝える、共通の目標を持つ人々から成る一団は、メンバー一人ひとりの個性やメンバー同士の相性に影響されやすい。言い換えるなら、誰かが先頭に立ってうまくプロセスを導かなければ、あっという間に収拾がつかなくなりかねない。素晴らしい結果を出すためには、マネジャーは長期にわたり絶えずダイナミクスに気を配る必要がある。また、人々が互いの専門知識に敬意を払い、意見を信頼し合うと、とてつもなく大きな成果をあげられるようになる。ピクサーアンドリュー・スタントン監督は、効果的にフィードバックするグループにふさわしい人材の選び方について、次のようにアドバイスする。曰く、その人材とは「より賢く考える力をもたらし、短時間に多くの解決策を提案できる人」でなければならないという。より賢く考える力をもたらす人を集めるというスタントンの重要なアドバイスは、革新と進歩に心理的安全性が不可欠である理由の核心を突いている。集まった人が心に思っていることを述べないかぎり、より賢く考えることはできないのだ。
  • 残念だが、ひとつ言っておかなければならないことがある。二〇一七年の終わり頃、エド・キャットムルとともにピクサーを創設したチーフ・クリエイティブ・オフィサーのジョン・ラセターが、不適切な行為が原因で休職し、「望まないハグや、どんな形であれ一線を越えていると感じる行為を受けたあらゆる人」に対し電子メールで謝罪した。ほどなく、ラセターのハラスメントについて、ビクサー従業員から抗議の声があがり始める。第6章で詳述するが、MeToo 運動のなかで起きたラセターの行為とそれに続く休職は、心理的安全性の脆く持続しにくい性質を明確に示している。一線を越えて身体的に関心を寄せると、苦労して獲得した信頼がたやすくむしばまれてしまうのである。
  • ピクサーのブレイントラストは、研究者が査読と呼ぶもの論文の草稿や執筆中の本を、同分野の別の専門家が読んで建設的な批評をするプロセス――に似ている。これは改善のためのきわめて貴重な情報になる可能性があり、ほとんどの場合、当初より格段によくなった原稿が世に出ることになる。ただ、同業の専門家の意見は(匿名の場合は特に)ライバル意識混じりで冷ややかにもなりうるのに対し、そういうことは、最高の状態にあるピクサーのブレイントラストならまず起
    きない。また、ピクサーのブレイントラストは、「芸術批評」にも似ている。芸術を学ぶ学生たちが、多くは教授かプロの芸術家の指導を受けながら、互いの作品について率直に批評し合うものである。この芸術批評は、他のグループプロセス同様、共感して支援する姿勢を伴わず、率直さがかえって足を引っぱってしまう場合、心理的安全性が弱まってしまいかねない。一方で、必ずしもそうとは限らない。仲間のフィードバックは貴重であり、それがあれば、若い芸術家たちは自律的に行動できるようになるのだ。一大スキャンダルになったフォルクスワーゲンディーゼルエンジンを、失敗を恐れ率直に話そうとしない人々ではなく、エンジニアという専門家集団が管理していたらどうなっていたかを考えてみよう。そのようなエンジンの実現可能性について、もしエンジニアたちが率直に意見を言えていたら。そうすれば、状況は全く違ったものになったかもしれなかっ
    た。

yamanatan.hatenablog.com

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遠慮なく失敗する

  • ピクサーがヒット作を出し続けるもう一つの要因として、キャットムルは失敗を挙げる。興行的失敗がピクサーとして何としても避けたい事態である点を考えると、これは奇妙に思えるかもしれない。だが実は、そのような事態を避けられるかどうかは、制作の早い段階で積極的に失敗できるか否かにかかっていると理解されているのである。ブレイントラストはリスクや失敗を、クリエイティブなプロセスに不可欠と捉えている。キャットムルによれば、最初はどの作品も「箸にも棒にもかからない駄作」だという。スタントンも、自転車の乗り方を学ぶときに何度も失敗することなくすいすい乗れるようになる人はいないが、映画制作のプロセスも同様だと述べている。キャットムルはこう信じている。もし何度でも失敗することができなかったら、皆「かつて成功した、うまくいくとわかっているやり方に、いつまでも甘んじるようになるだろう。そんな仕事は模倣でしかない。革新的じゃない」と。他の多くの仕事がそうであるのと同様、イノベーションには試行錯誤のプロセスが欠かせないのである。
  • キャットムルは正直に、また人間らしく、失敗は怖いものだと認めている。積極的に失敗するのは実のところ、言うは易く行うは難しなのだ。彼は次のように述べている。「失敗のいい面と悪い面を見つけるためには、痛みと、その結果として生じる利益の両方を理解する必要がある」。失敗したときにそれを認め、この先は避けたいものだと願いながら歩み続けるだけでは不十分だ、とも説明している。私たちは失敗を、不安に思ったり避けようとしたりするのではなく、学習と冒険に必ずついてくるものだと理解する必要がある。自転車の乗り方を学ぶときに膝をすりむいたり肘にあざをつくったりといった身体的な痛みが伴うのと同様、オリジナリティあふれる映画をつくるには、失敗という心理的な痛みが伴う。さらに言えば、学習するときに失敗という痛みを避けようとすると、さらにひどい痛みを味わうことになる。キャットムル曰く、「そんな戦略、つまり先回りすることによって失敗を回避するなどという戦略を採るのは、特にリーダーにとって命取りだ」
  • 言うまでもないが、興行的に失敗すれば費用が莫大になる可能性があり、ピクサーは制作の早い段階での積極的な失敗を促すべく、策を講じている。たとえば、監督が構想に数年かけるのを認めているし給料も支払うが、制作コストの超過には制限を設けるといった具合だ。結果につながる失敗かどうかは、どうすればわかるのか。プロジェクトを打ち切って損失を減らすほうがいいのは、どんな場合か。キャットムルによれば、プロジェクトがうまくいっていない場合にピクサーが監督をクビにする理由はただ一つだ。すなわち、監督が明らかにチームから信頼されなくなっているか、ブレイントラスト会議で出される建設的な意見を受け容れ、その意見に基づいて行動するのを長期にわたって拒否している場合である。このように、ピクサーは「ミスをしても社員が恐怖を感じない」くらい心理的安全性の高い環境をつくり、それによって、キャットムルが「不安と失敗を切り離す」と呼ぶものを制度化しようとしている。言うまでもないが、率直に話したり積極的に失敗したりすることを重視しているのはピクサーだけではない。実際、成功しているクリエイティブな事業では、それとなくであれ目に見える形であれ、必ず実践されている。例としてもう一つ、大成功を収めている(そして何かと物議を醸す)ブリッジウォーター・アソシエイツ(世界有数のヘッジファンド運用会社)のレイ・ダリオを次に取り上げよう。
  • マネジャーも、部下のことを、当人がいないところで話してははいけない。ダリオ日く、「わが社では、陰口を言う者は卑劣な密告者と呼ばれる」。社員それぞれの継続評価の統計データは、「ベースボール・カード」に記録される。社員なら誰でも閲覧できるこのカードは、報酬、報奨、昇進、解雇について判断するためにマネジャーによって使われる。社内の誰も、不透明性のなかに隠れることはできず、これはダリオも例外ではない。全重役会議の動画をおさめる「透明性ライブラリー」は、方針や戦略がどのように議論されたかを従業員が知りたいと思った場合に、観ることができる。
  • 学習プロセスにはミスや賢い失敗が欠かせないとするダリオの考え方は、成長の仕方やイノベーションの生まれ方について私たちが知っているものと一致している。ダリオは次のように考えている。現代社会の失敗恐怖症は深刻だ」、なぜなら、正解を探すことを小学校時代の初めに教えられてしまい、革新的・自立的思考へつながる道として失敗から学ぶことを身につけないからだ、と。また、彼は早くから次のように述べている。「誰もがミスをするし欠点もあること、それらにどう対処するかで決定的な違いが生じることを学んだ」。だからブリッジウォーターでは、「失敗するのは構わないが、失敗に気づき、分析し、そこから学ばないのは容認されない」のである。
  • ブリッジ ウォーターでは、「真実と、その真実について何をすべきか」を知るために衝突する。それは、誰が何をするかに関してタスクベースの会話をしたり、別の視点を教え合ったり、相違や誤解を乗り越えたりすることでもある。人間は衝突するとつい競いたくなるものだと認めて、ダリオはこう助言する。「議論に『勝とう』としてはいけない。自分の間違いに気づくのは学んでいる証拠であり、それは正しくあることよりはるかに価値が高い」。重要なのは、些末なことにあまり時間をかけず、考えの不一致を解決するタイミングを見きわめることだ。ダリオ曰く、ブリッジウォーターでは「偏見のない衝突」が日常茶飯であり、当然ながら社員の頭に血が上ることもある(驚くことではないが、ブリッジウォーターの新入社員は離職率が高い。同社の文化が万人向けではないためだ)。マネジャーは、人々が手に負えないほど感情的になっているときには「会話の論理性にポイントを置く」よう指示を受けている。これを実行するためには「常に冷静かつ分析的に、他者の考えに耳を傾ける」のが最良の方法である。
  • ダリオは、会話の三タイプ(ディベート、議論、ティーチング)を区別しており、どのタイプが目前の問題にとって最適かを明確に判断するようマネジャーに助言している。ダリオによれば、議論とは、組織においてさまざまなレベルの経験や権限を持つ人々が参加し、考えや可能性をオープンに探究するものである。ここでは、質問し、意見を述べ、提案をすることが、参加者全員に求められる。そして、すべての考えが歓迎され、じっくり検討される。一方、ディベートは「ほぼ同等の人々」の間、ティーチングは「理解度がまちまちな人たち」の間で行われる。フィアレスな組織では、コミュニケーションがおそらく三タイプすべてを併せ持っており、境界が流動的になりがちだが、反面、三タイプともが存在しているために、心理的に安全な環境での話し合い方について、有用な考え方とその構築の仕方がもたらされる。
  • ここでわかるのは、明確なヒエラルキー心理的安全性が、フィアレスな組織では相容れないものではないということである。ブリッジウォーターでは考えを頻繁かつ率直に言うのが当たり前になる必要があるが、一方で、率直に話すことがヒエラルキ――個人の実績を基盤の一部とするヒエラルキー――と共存している。ただし、コンセンサスによる意思決定は行われない。ピクサーのブレイントラスト同様、率直な討論の目的は、主要な意思決定者に別の視点をもたらして、最良の結果を見出しやすくすることなのだ。また、もし独断的で自信たっぷりな社員の意見をあらかじめ選んでおきがちな文化であるなら、傲慢さに対して注意が必要だとダリオは警告する。「意見を述べる資格を得ているかどうか、自問してみるといい」と彼は言う。そのような資格は、実績を積み、責任を果たすことによって得ることができる。ダリオはこれを、難しい斜面をスキーで滑り降りる技に例えて言う。他人に教えるためには、まず自分がその技をしっかりできるようになる必要がある、と。一方、マネジャーとしては、(経験に基づいて導き出されているために)最も価値のある意見と、推測にすぎない意見を区別する必要がある。
  • リーダーとしての輝かしいキャリアがそろそろ終盤を迎えるダリオだが、自信過剰という落とし穴を回避するために、次の原則を、特に重要な原則の一つとして加えている。それは、「『無知』であることを心得るパワー」である。この原則に気づいて忠実に守ってきたことが、成功の一因だと彼は言う。なぜなら、このパワーのおかげで、質問し、助言を求め、難題に対する最良の答えを見つけてきたからである。

yamanatan.hatenablog.com

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失敗がその役割を果たすとき

  • 優秀で意欲あふれるパロ・アルトの人々が、丸二年にわたって、ある革新プロジェクトに取り組んだことがあった。海水を低価格な燃料に変えるプロセスの開発プロジェクトである。そんな目標を達成するのは不可能だと、あなたは思うかもしれない。だが、科学者たちはすでに必要な技術を編み出し、ごく少量では成功を収めていたのだ。プロジェクト・フォグホーンという名のこの取り組みの課題は、採算に合うくらい大規模なプロセスにできるかどうかを見きわめることだった。だが、研究を重ねること二年、チームはやむなく認めた――経済的に競争力のある燃料をつくれるほど生産コストを抑えられない。今は原油価格が下落してしまったから、と。そしてプロジェクトの打ち切りを決断した。
  • チームは解雇されたのだろうか。面目丸つぶれだったのだろうか。何週間もばつの悪い思いをしたのだろうか。とんでもない。フォグホーン・チームのメンバーは誰もが、会社からボーナスを受け取ったのである。

安心して失敗できるようにする

  • その会社とは、グーグルX(エックス)。発明と革新を行う研究所であり、グーグルの親会社アルファベットの社内独立部門として活動している。改名してX(エックス)となったこの研究所のミッションは、「ムーンショット〔桁違いの壮大で有意義な挑戦]」テクノロジーを世に出し、世界をよりよい場所にすること。そして明確な目標は、重大な問題に対する、世界を根底から変えるような解決策を考案し商品化すること、すなわち、やがて次代のグーグルへと成長する可能性を持つブレイクスルーを生み出すことである。Xでの成功には、賢い失敗がことのほか重要だ。そのため、賢く失敗する方法と、失敗することが組織で許されるようにするためにリーダーたちが育てているマインドセットについて、私たちは多くを学ぶことができる。
  • 失敗したら報奨金を出すというのはインセンティブとして問題があるように思えるかもしれない。だが詳しく検討すると、斬新でスケールの大きなアイデアを追いかける研究組織にとっての、ビジネス上のロジックが見えてくる。XのCEO(正確には「キャプテン・オブ・ムーンショット」)を務めるアストロ・テラーは、次のように考えている。実行不可能なプロジェクトを何年もずるずると続けてリソースを使い果たしてしまうより、将来性のないプロジェクトを打ち切ったという理由で人々に報奨金を与えるほうが、経済戦略として優れている、と。言い換えるなら、何度も試し失敗して初めて大当たりが生まれるということになる。Xは、クリーンエネルギーから持続可能な農業や人工知能まで幅広い分野において、ムーンショットのためのアイデアを毎年一○○以上考える。だが、常勤の正社員が取り組むプロジェクトになるアイデアは、そのなかのほんの一握りにすぎない。
  • テラーは、二〇一六年のTEDトークに登壇し、Xで「安心して失敗できる」理由と方法を詳しく語った。
  • 怒鳴りつけて無理やり「早く失敗させる」ことはできない。皆、抵抗する。不安にも思う。「失敗したらどうなるだろう。みんなに笑われるんじゃないか。クビになるんじゃないか…」。スケールが大きくリスキーなこと、つまり大胆なアイデアに挑み、どんな困難にぶつかっても取り組み続けてもらえるかどうかは、みんなの抵抗感を最小限にできるかどうかにかかっている。Xでは、安心して失敗してもらうために全力を尽くしている。駄目だという証拠がそろったら、チームはさっさとプロジェクトを中止する。同僚からは拍手してもらえる。マネジャー、特に私からはハグとハイタッチだ。昇進もできる。プロジェクトを打ち切ったチームには、二人だけのチームであれ三〇人を超えるチームであれ、一人ひとりにボーナスが出る。
  • テラーが注目しているのは、失敗することが、わけても職場で、どれほど嫌なものであるかという点である。人は誰しも、周囲の目や解雇されることを心配に思う。そのため、もしリーダーが明確かつ積極的に、失敗を不安なくできるものにしないなら、人々は失敗を避けようとするだろう。

迅速な評価

  • 賢く失敗するためには心理的に安全な環境づくりが不可欠だが、同様に、失敗を活かすためには具体的なプロセスの確立が欠かせない。このミッション追求のためにテラーとXが使っているのが、規律ある実験というプロセスだ。科学者が仮説を覆す証拠を探すのと同じように、この会社はきわめて楽観的・理想主義的なアイデアがうまくいかない証拠を探す。そのようなアイデアをで できるだけ早く除いて、別のアイデアへ移るためである。プロジェクトは、社の内外を問わず多方面から提案される。そのなかの最も有望なアイデアのみに専念するために、Xには「迅速な評価」チーム――提案を調査分析し、アイデアを吟味し、達成できそうなものだけにゴーサインを出すチーム――がある。シニア・マネジャーと発明家から構成されており、まずはアイデアがうまくいかない理由をできるだけ多く探し、失敗を事前に予測する。「ラピッド・エバル(迅速な評価)」という名で知られるこのチームは、問題の大きさ、実行可能性、技術的リスクを詳しく検討する。漸進的に進められるこの段階では、ピクサーのブレイントラストを思わせる率直な話し合いによって、さまざまな点に疑問が投げかけられ、変更が加えられ、改良される。
  • 「ラピッド・エバル」の段階をクリアできるアイデアは、ごくわずかだ。あるアイデアが見込みありと判断されたら、荒削りな試作品が、理想的には数日でつくられる(X所有の「デザイン・キッチン」が入っている建物には、そういう試作品をつくるための道具と材料がそろっている)。完成した試作品に納得できたら、「ラピッド・エバル」は次の段階を担うグループ「ファウンドリー(鋳物場)」によってそのアイデアを突きつめる。ファウンドリーは次のように問うのだ。「この解決策を世に出すべきか。提案された解決策に投資対効果があるか。このアイデアを製品化できたとして、ニーズがあるか」
  • Xは、賢い失敗を別の場で褒め称えるという取り組みも行っている。「ファウンドリー」にゴーサインをもらえず、お蔵入りになってしまった試作品は、パロ・アルトのオフィスに展示されるまた、二〇一六年一一月以来、Xは年に一度パーティーをひらいて、中止になったプロジェクトについての「テスティモニアル(推奨意見)」を聞いている。(破綻した人間関係についての話や個人的な失敗談も歓迎されるが、)お蔵入りになった試作品が小さな祭壇に置かれ、その試作品の自分にとっての意味を人々が簡単に述べるのである。この儀式のおかげで、従業員は、全霊を傾けた試作品が日の目を見ずに終わって以来引きずっていた苦い思いをいくらか軽くすることができる。

失敗できないことが本当の失敗である

  • 以上のとおり、失敗はXにとって、してはならないことではない。いや実際、テラーが二〇一四年、BBCニュースに語ったように、「本当の失敗は、やってみてうまくいかないとわかったのに、なおも続けていくこと」なのだ。本当の失敗とは学ばないこと、あるいは面子がつぶれるほどのリスクを取らないことだという。テラーとXは、失敗を完全に受け容れているため、プロジェクトで成功したことについては全く話をしない。代わりに話すのは、「賢く失敗できない」ことについてである。賢い失敗は、技術だ。適切なときに適切な理由のために失敗できれば、役に立つ。第7章では、組織が失敗を活用・制度化しているほかの方法を検討しよう。

仕事をフレーミングする

失敗をリフレーミングする

  • 失敗(を報告すること)を恐れるのは、職場環境の心理的安全性が低いことを示す最大のサインである。そのため、失敗にリーダーがどのような意味を持たせるかが、きわめて重要になる。グーグルXについてのアストロ・テラーの発言を思い出してみよう。「スケールが大きくリスキーなこと、つまり大胆なアイデアに挑み、どんな大変な問題にぶつかっても取り組み続けてもらえるかどうかは……みんなの抵抗感を最小限にし、安心して失敗してもらえるようにできるかどうかにかかっている」。言い換えるなら、もしリーダーが明確かつ積極的に、人々が安心して失敗できるようにしなければ、必然的に人々は失敗を避けるようになるということである。では、テラーはどのようにして、失敗を「遠慮なくしてよいもの」としてリフレーミングしたのか。「自分は、失敗のプロではなく、学習のプロだ」ということを、みずから述べ、信念とし、みんなに納得させたのである。失敗からは、貴重なデータが手に入る。ただし学習するためには、失敗からの学びを注意深く精査できるだけの心理的安全性が不可欠であることを、リーダーは理解し、伝える必要がある。A・G・ラフリーは、P&GのCEOを務めているときに出版した『ゲームの変革者――イノベーションで収益を伸ばす』(日本経済新聞出版社)のなかで、最も金のかかった一一の失敗を素晴らしいと称え、それぞれについてなぜ価値があるのか、会社として一つひとつの失敗から何を学んだかを述べ
    た。

  • エド・キャットムルも、ピクサーのアニメーターたちに、映画はどれも最初は箸にも棒にもかからない代物であるとはっきり伝え、彼らが「不安と失敗を切り離せる」ようにしている。これぞ、リーダーとして「仕事をフレーミングする」発言だ。「素晴らしいもの」をめざすなかで「駄目なもの」に積極的に向き合って初めて、目を見はるような大成功が生まれる。そんな仕事をしているのだということを、みんなに確認しているのである。同様に、オープンテーブルのクリスタ・クォールズCEOも、従業員に次のように話している。「早く、頻繁に、とんでもない失敗を見せて。それでいいの。完璧である必要なんかない。駄目なものを見ることで、はるかに素早く軌道修正できるようになるから」。この言葉も、仕事をフレーミングしている。レストランのオンライン予約サービス事業における成功は、まるで手品のように最初からひょいと正解を出すことによってではなく軌道修正することによって生まれる。クォールズは早く、頻繁に、とんでもない失敗をすることを、のちの大成功を生む優れた決定をするための重要な情報としてフレーミングしているのである。
  • 失敗から学べるようになることは、とても重要になっている。そのため、スミス大学(をはじめとする全米のさまざまな大学)は、失敗や難題や挫折に学生がもっとうまく対応できるよう、新たな課程や取り組みを開始している。「失敗は、学習するうえでのバグ(誤り)ではなく、一つの特徴だ。それを、私たちは教えようとしている」。そう述べたのはレイチェル・シモンズだ。スミス大学ワーテル・センター・フォー・ワーク&ライフのリーダーシップ開発の専門家にして、学内の非公認「失敗王」である。「失敗は、学習経験から締め出すべきものではない。本学の多くの学生―スミス大学のような大学に入るためにほぼ何でも完璧にできなければならなかった学生たち―――は、失敗をあまり経験したことがない。そのため、失敗すると、深刻な影響を受けてしまいかねない」同大学では、インポスター・シンドローム(詐欺師症候群)に関するワークショップ、完璧主義についてのディスカッション、さらに学生の六四パーセントがBマイナス以下の成績であることを当の学生たちに思い出してもらうキャンペーンを含むプログラムを、彼らのレジリエンスを育てる取り組みの一環として実施している。
  • 失敗が果たす役割は、仕事によって異なることに注目しよう。仕事というスペクトルの一方の端には大量の反復作業を行う仕事、たとえば組立工場やファストフード店、さらには腎透析センターなどがある。患者を正しく透析装置につなげなかったり、自動車のエアバッグを正確に取り付けられなかったりしたら、大変な事態を招いてしまうかもしれない。そのため、このタイプの仕事では、ベスト・プラクティスからのズレにどんどん気づいて修正することがきわめて重要になる。つまり、ここでの「失敗を称賛する」とは、そういうズレを見つけたときに「よくぞ見つけた!」と褒め、ごく小さな間違いに気づく人を観察眼の鋭い人として評価する、の意味になる。
  • スペクトルのもう一端にあるのはイノベーションと研究、つまり、望ましい結果を得る方法がほとんどわからない仕事である。映画や、独創的な衣類や、海水を燃料に変える技術を生み出すことはすべて、この範疇に含まれる。これらの仕事においては、派手な失敗が求められ、称賛される必要がある。なぜなら、そういう失敗は成功への道の重要な部分だからである。スペクトルの真ん中に位置するのは、病院や金融機関のような複雑な業務だ(現代においては大半の仕事がこの領域に入る)。ここに含まれる仕事では、回避可能な失敗を避けるうえでも賢い失敗を褒め称えるうえでも、注意を怠らないこととチームワークがきわめて重要である。
  • 失敗のリフレーミングは、失敗のタイプによる基本的な分類を理解することから始まる。詳細は私の他書に委ねるが、失敗の典型は、回避可能な失敗(絶対に、よい知らせではない)、複雑な失敗(やはり、よい知らせではない)、そして賢い失敗(楽しくはないが、高い価値をもたらすので、よい知らせと考えられるべき失敗)である。回避可能な失敗は、望ましいプロセスから逸脱して悪い結果をもたらす。たとえば、誰かが工場で保護眼鏡をかけ忘れて目を損傷してしまった場合が、回避可能な失敗だ。複雑な失敗は、いくつかの要因がかつてない重なり方をしたときに起きる。二〇一二年、ハリケーン・サンディによってニューヨーク・ウォール街近くの地下鉄の駅が受けた深刻な浸水被害がまさにこれだ。注意を怠らずにいれば、複雑な失敗は、常にではないものの回避できる場合がある。ただ、回避可能な失敗も複雑な失敗も、称賛には値しない。
  • 一方、賢い失敗については、「賢い」のだから、称賛してより頻繁に失敗することを促す必要がある。もっとも、回避可能な失敗や複雑な失敗同様、賢い失敗もしたくてする人はいない。ただ、他の二つと違い、賢い失敗は熟慮して新たなことを始めた結果である。表7・2に、これらの違いを明確に表す定義およびコンテクストをまとめている。フレーミングで重要なのは、失敗は起きて然るべきものであることを人々に確実に理解してもらうことだ。失敗のなかには、正真正銘よい報告となるものもあれば、そうでないものもある。ただ、どのような失敗であれ、その失敗から学ぶことが、何より重要な目的である。

率直な発言の必要性を明確にする

  • 仕事をフレーミングすることは、失敗を当たり前のものにするだけでなく、別の側面(具体的にどのような側面かは仕事や環境ごとに異なる)へ注意を促すことでもある。わけても重要な側面は不確実性、相互依存、危機にさらされているものの三つであり、そのどれもが失敗にも大きな関わりがある(頻繁に失敗することへの期待、失敗の価値、失敗が及ぼす影響など)。不確実性に注意を向けると、次のよ
    うに人々に伝えることになる。好奇心を旺盛にし、アンテナを張りめぐらして、変化の兆し(新たな市場での顧客の好み、薬剤に対する患者の反応、新技術の出現など)に早く気づく必要がある、と。
  • 相互依存に注意を向ける場合は、自分の仕事と他者の仕事がどのように関係し合っているかを理解する責任が自分にあることを、皆に知ってもらうことになる。相互依存にスポットを当てることによって会話が頻繁になり、人々は自分の仕事が他者に与える影響を理解し、次いで他者の仕事が自分に及ぼす影響を知る。言い換えるなら、仕事をフレーミングするとき、リーダーは、アイデアや懸念を共有する必要性と同様、対人関係のリスクを取る必要性を強く伝えている。
  • 三つめの、危機にさらされているものに注意を向けることは、危機の大小にかかわらず重要である。(病院や鉱山やNASAでそうであるように)人命が懸かっていることを思い出すと、広い視野に立って対人関係のリスクを考えやすくなる。率直な発言の重要性をリーダーがフレーミングすれば、人々がそのように発言する可能性が高くなり、結果として、発言と沈黙の非対称性が克服される。