起業の天才!―江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男

  • ベゾスは名門プリンストン大学で電気工学と計算機科学を専攻し、米国の成績評価であるGPAで4・2ポイント (通常は4・0ポイントが最高値)という極めて優秀な成績で卒業した。コンサル大手のアーサー・アンダーセン(現・アクセンチュア)、インテル、通信大手AT&Tなど錚々たる企業から就職の誘いがあったが、ベゾスが選んだのは、無名のベンチャー企業、ファイテルだった。1994年にアマゾン・ドット24年にアマゾン・ドット・コムを立ち上げるまでのベゾスの足跡をたどると、ベゾスが極めて計画的にファイテルを選んでいたことが分かる。
  • ファイテルで「株取引のオンライン決済」を学んだベゾスが次に選んだ会社は大銀行のバンカース・トラスト(現・ドイツ銀行)だ。ここでもオンライン・システムの開発に従事した。その優秀さは群を抜いており、23歳の若さで副社長に抜擢された。だがベゾスはこの大銀行にも安住しない。このころ出会ったコロンビア大学コンピューター学科助教授のデビッド・ショーの誘いを受け、彼が立ち上げたヘッジファンドに移籍する。
  • ショーもチチルニスキーに負けず劣らずの天才だった。チチルニスキーが株の国際取引をオンライン化したのに対し、ショーは為替の裁定取引(アービトラージ)をオンライン化した。ショーはコンピューターで裁定取引をする異色のヘッジファンド、「D・E・ショー」を立ち上げ、ベゾスを引き抜いて上級副社長に据え、コンピューター・ネットワークの開発を任せた。
  • ベゾスがファイテル、D・E・ショーというベンチャーでチチルニスキーやデビッド・ショーといった天才たちの下で働いたのは、けっして偶然ではない。プリンストン大学の在学中から「いずれはコンピューターを使ったビジネスで起業する」と決めていたベゾスは、そのために必要な経験を着々と積み上げていた。将来の自分に必要な人脈とスキルを冷静に選んでいたのだ。

 

  • ベゾスはプリンストン大学を出てからの自分のキャリア形成について、「後悔最小化のフレームワーク」という独特の思考方法を使ってこう説明している。
  • 「80歳になったら、自分はウォール街を去ったことを後悔するだろうか? ノー
    ノー。インターネットの誕生に立ち会えなかったことを、自分は後悔するだろうか? イエス

 

  • 江副はさっそく、企画書をまとめ、取締役会に提出した。「『リクルートブック』に次ぐ主力媒体として、不動産を扱う情報誌の創刊」
  • だが現状に満足している多くの役員からは、次々と反対の声が上がった。「不動産屋というのは枕詞に『悪徳』がつくぐらい評判が悪い。これまで人材情報で築き上げてきた日本リクルートセンターのイメージに傷がつく」
  • 「そもそも出版業界には『住宅関連の雑誌は売れない』というジンクスがある」「我々は不動産のプロではない。素人ばかりで不動産の情報誌は作れない」だが江副はいっさい耳を貸さず「絶対に伸びる事業だから」と押し切った。江副には、すでにこの時点で住宅情報誌が『リクルートブック』並みに100億円以上を稼ぎ出す未来が見えている。「儲かると分かっているのに、やらない手はない」というのが江副の考え方である。「失敗するかもしれない」「売れなかったらどうしよう」というネガティブな発想は頭の片隅にもない。

 

  • アップル創業者、スティーブ・ジョブズ、テスラ創業者のイーロン・マスクも同じ類の人間だろう。ジョブズはコンピューターがまだ大企業や政府の持ち物だった時代に、個人がひとり1台のコンピューターを持つ世の中を夢想した。マスクは二酸化炭素を排出しない電気自動車(EV)が普及し、ガソリン車が地球から一掃されるビジョンを見ている。一時期のテスラは3ヵ月に1000億円のペースで現金を燃やしながらEVを作っていた。ふつうの人間から見れば「狂気」だが、マスクにとってそれは「必然」である。そして日本リクルートセンターによる住宅情報誌の発刊は江副にとって「必然」だった。

 

  • 初心で真っすぐな日本リクルートセンターの若者たちは、こうした悪質な商売を一掃した。「駅まで8分」は本当に8分なのか。「閑静な住宅街」が国道に面していることはないか。「情報審査室」を立ち上げ、読者からクレームのあった物件に足を運び、「悪質」と判断した広告は取り下げ、悪質な広告が多いデベロッパーとは取引をやめた。業界で大手と呼ばれる会社も例外ではなかった。
  • 「徒歩1分=0メートル」という業界内の規約が『住宅情報』の出現によって守られるようになり「怪しげな不動産広告」は減っていった。これまで不動産会社に閉じ込められていた情報が消費者に解放され、不動産会社も本当に家を買いたいと思っている人に物件情報を届けられるようになった。『住宅情報』は『リクルートブック』と同じ原理で買い手と売り手をマッチングし、双方をハッピーにした。未知なる不動産業界に飛び込んだ若者たちは「自分たちは世の中の役に立っている」という充実感を励みに、猛烈に働いた。

 

  • 会社をより大きくするため、江副はパッシーナで日本のエスタブリッシュメントとコネを作ろうとした。それがリクルートの理念と相容れないことに、考えが及ばなかったのだろうか。「リクルートブック』は親や教授のコネがない学生が大企業に入るきっかけを作った。『就職情報』と『とらばーゆ』は、後ろ暗いイメージがあった「転職」を当たり前のものにした。『住宅情報』は一般の消費者には知ることのできなかった不動産情報を誰でも手に入れられるようにした。情報誌ビジネスの理念は、既得権者が独占していた情報をオープンにする「情報の民主化」にある。江副は閉ざされた情報を人々に解放する改革者だった。

 

  • 「みなさん若いですね」
  • 若佐は前の会社を思い出していた。新しいことを提案するとまず「リスクが大きい」「前例がない」と後ろ向きな反応があり、どの部署にも「俺は聞いていない」とゴネる中間管理職がいた。ところがリクルートでは「いったいなんのサービス」と言いながら、全員がものすごいスピードで未知の領域に向かって疾走する。福岡の居酒屋が出すめっぽう新鮮なイカの刺身を噛み締めながら、若佐は思った。(ここでなら、思い切り働ける)

 

  • 特捜部は総務部長の竹原が裏ガネ工作に絡んでいると睨み、執拗に取り調べた。霞が関の中央合同庁舎にある特捜部での聴取は週2回から3回のペース。竹原の担当になったのは若い検事だ。
  • 「まず、会社の組織図を見せてください」
  • 「組織図ですか。いちおう、確認してみますが、たぶん、ないと思いますよ」「そんなはずはない。リクルートほどの大企業なら組織図くらいあるだろう」「いや、見たことないです」「じゃあ、職務権限表は」「なんですか、それ?」「君は、俺をバカにしているのか!」「いや、いや確認します。確認しますから電話借りてもいいですか」
  • 検事は電話機に向かって顎をしゃくり「かけろ」と合図した。「うん、そう、会社の組織図と職務権限表がいるらしいんだけど。そんなの、あったっけ。うん、そうだよなあ。俺も見たことないもんなあ」受話器を置いてから、竹原は言った。「やっぱりありません」検事が激昂した。「お前、ありませんでしたで済むと思っているのか!」
  • たえず新規事業が立ち上がり、激しい細胞分裂を繰り返す育ち盛りのリクルートでは、収益責任と人事権を持つ「現場の経営者」であるチームリーダーが頻繁に新しいプロジェクトを立ち上げ、必要な人員を採用したり他のチームから引き抜いたりする。仕事の中身も担当者も3ヵ月に一度のペースでコロコロ変わるので、組織図や職務権限表を作りたくても作れないのだ。あるのは電話の内線表くらいのものだ。
  • だが役所文化に染まった検事に、ベンチャーの内部事情を分かれと言うほうが無理である。「君たち一人ひとりが経営者だ」江副にそう教えられたリクルートの社員と、「検事総長を頂点とした指揮命令系統に服する検察官同一体の原則」の組織で育った検事の攻防は、モハメド・アリアントニオ猪木異種格闘技の試合のような、締まらない展開になった。
  • 泣く子も黙る特捜部に呼び出されれば、どんな大企業のエリート社員でも「自分だけは助けてくれ」と慈悲を乞うのがふつうである。取り調べを始めたところから、相手は降参の白旗を振っており、検事の「勝ち」は決まっている。だが怖いもの知らずのリクルート社員は勝手が違った。「今日は大事なミーティングがあるんで、早く帰してもらえませんか。今日、決めないと査定に響くんです」そう言って、検事を唖然とさせる強者もいた。竹原は捜査が終結するまで、1回3時間の取り調べを計8回受けた。自分が最多記録だと思っていたが、後で聞いたら社長の位田が30回を超えていた。

 

NTTの先祖返り

  • 真藤が去って蘇ったNTTの官僚組織はiモードの成果を自分たちの手柄にし、外人部隊を追い出しにかかった。松永ら外人部隊の大半は3年でドコモを去り、大星の次の社長になった立川敬二は、ベンチャー気風が漂うドコモに「営業利益率2割」を必達目標とする「計画経済」を持ち込んだ。
  • 立川の硬直的な経営でドコモは、KDDI(au)に通話料の値下げ競争や「着うた」サービスで後れを取り、Jフォンが写メールを大ヒットさせても、カメラ付き携帯電話に本気で取り組むまで時間がかかった。
  • 立川は「iモードの技術がいらないという会社があったら、お目にかかりたい」と豪語し、各国の通信会社に次々と出資。その投資総額は2兆円に及んだ。だが公社体質に戻ったドコモの殿様商売が海外で通用するはずもなく、「iモード」は世界に根付かなかった。結局ドコモの海外展開は、1兆5000億円の損失を出して「打ち止め」になる。
  • ドコモの失敗で、iモード対応の携帯電話を海外で売ろうと意気込んでいた電電ファミリーも総崩れになる。2007年にアップルの「iPhone」が出た後も、電電ファミリーはドコモに義理立てして「ガラケー(旧式の携帯電話)」に固執したため、スマホへの対応が遅れた。これが致命傷となり、日本メーカーの携帯電話は世界市場で完敗することになる。
  • 真藤が改革を完遂してNTTやドコモがまともな民間企業になっていたら、iモードの世界展開はまったく違う形になっていたはずだ。iモードが世界標準になれば、今ごろ、日本メーカーがファーウェイを押しのけて世界市場を席巻していたかもしれない。

 

  • 時の政権を倒し、ついに死者まで出した事件について、評論家の俵孝太郎は1989年5月21日付の読売新聞への寄稿で、こう語っている。
  • 「なんの具体的な証拠もないのに、憶測や予断や偏見や政治的打算に基づいて、政治的、道義的責任を問うという美名のもとに個人攻撃を加えるのは、明らかな政治的リンチであって、法が支配する社会で許される行為ではない」
  • こうした冷静な論評は「巨悪を逃がすな」とばかり一億総特捜検察、となった世論の前では、焼け石に水だった。

 

  • バブル崩壊直前に起きたリクルート事件で「不良企業」の烙印を押されたリクルートは、公的資金の救済を受けられるはずもない。3年余の歳月はかかったが、国を頼らず自力で1兆8000億円を返し切った。
  • 位田はデメジでネット時代への可能性を残し、河野は家計簿経営で乾いた雑巾をさらに絞った。そして「プリンス」と呼ばれた柏木の時代に、ついに借金返済のゴールにたどり着いた。江副が去った後もリクルートは「奇跡の会社」であり続けた。
  • バブルの時代に狂ったように貸し出し競争を繰り広げ、天文学的な規模の不良債権を抱えた金融機関を救済するため政府は2度にわたって銀行に公的資金を注入した。1度目は大手銀行と地方銀行、計2行に総額約1兆8000億円。奇しくもリクルートが背負った借金と同額だ。2度目は9年3月、大手銀行と地銀の計5行に総額約7兆5000億円を注入した。経済学者の野口悠紀雄は著書『戦後日本経済史』の中で〈破綻金融機関の処理で確定した国民負担の総額は、2003年3月末までで10兆4300億円に上った〉と推定している。
  • リクルート事件を引き起こした江副浩正は日本の経済史に「巨悪」と刻まれたが、自分たちの栄達と保身のためにバブルを膨らませ、国民に10兆円を超える負担を強いた大銀行の幹部や行政の責任が問われることはなかった。
  • 「信用できるのは大銀行や中央官庁で、起業家やベンチャーはいかがわしい」この価値観もまた、バブル崩壊から30年経っても日本経済が停滞から抜け出せない根本的な原因のひとつなのかもしれない。

 

  • 2018年に日本でもベストセラーになったフレデリック・ラルーの『ティール組織』は、人間が作る組織の進化を「カリスマが率いる衝動型(レッド)」「軍隊式のヒエラルキー型(アンバー=琥珀)」「成果主義型(オレンジ)」「人間関係重視型(グリーン)」「進化型(ティール=青緑)」に分類する。ティール組織は「強力な権限を持つリーダーが存在せず、現場のメンバーが多くのことを決定する」ことが特徴とされる。
  • 日本企業の多くはいまだ「レッド」か「アンバー」に属するが、江副の「社員皆経営者主義」は20年前から「ティール」だった。
  • 革新的なビジネス・モデルと、心理学に根ざした卓越したマネジメント理論。江副の手によってこのふたつを埋め込まれたリクルートは、江副が去った後も成長を続け、日本の情報産業を牽引する企業になった。2012年に1000億円で買収した米国の求人サイト「Indeed(インディード)」の爆発的な成長で、2019年3月期には連結売上高2兆3000億円のうち1兆円を海外で稼いだ。江副が成し得なかったグローバル化にも成功したのである。

 

ようやく時代が江副に追いついてきた

  • 1995年7月1日、まだ事件の余韻が残るリクルートに、たった7人の小さな事業部が生まれた。「電子メディア事業部」。通称「デメジ」である。
  • 事業部長は常務の木村義夫。リーダー格のエグゼクティブプランナーは木村が九州から呼び寄せた高橋理人。1982年入社の高橋は、木村が大阪支社長だったころ、関西版「住宅情報』営業で頭角を現し、この時は九州版『住宅情報」の編集長と九州支社長を兼ねていた。「人格者」で知られる高橋の下には若い暴れ馬が配された。たとえば1987年入社の薄葉康生と1988年入社の笹本裕。
  • 薄葉は東大工学部で情報工学を学んだ。リクルートに入社したあと、社費でロチェスター大学のサイモン・ビジネススクールに留学してMBA(経営学修士)を取得した。
  • 笹本はバンコク生まれで英語が堪能。獨協大在学中に米3大ネットワークNBCの日本支社で通訳兼ニュースデスクをしていた。薄葉と同様、1993年に社費でニューヨーク大学に留学。MBAを取得して1995年に帰国した。ふたりとも、会社が「将来の幹部候補」と見込んでいた逸材である。
  • デメジにエース級を集めた位田は、新聞のインタビューで、その狙いを説明している。
  • 「印刷物に頼った出版という概念だけにとらわれてはいけない。情報提供業と考えれば紙媒体だけでなくインターネットなど多様なメディア、通信と融合したサービスも展開できる。当社は質量とも優れたソフト、情報を持っている。これをベースに『いつでも、どこでも、だれでも』有益な情報に接触できる情報サービスのインフラをつくり上げたい」
  • デメジが誕生した1995年は、優れたネットワーク機能を持つマイクロソフトのパソコンOS(基本ソフト) 「Windows95」が発売された年であり、のちに「インターネット元年」と呼ばれる。その10年前に「紙の情報誌は終わる」と予言した江副が思い描いていた新しい情報産業の姿が、やっとおぼろげに見えてきた。
  • ちなみに江副時代にリクルートが出資した金融決済システムのベンチャー企業「ファイテル」で働いていたジェフ・ベゾスが、ヘッジファンドの「D・E・ショー」をやめて、オンライン書店の「カダブラ」(アマゾンの前身)を設立したのは、デメジが生まれる1年前の1994年7月。スタンフォード大学の学生だった楊致遠(ジェリー・ヤン)とデビッド・ファイロが「ディレクトリー(電話帳)」と呼ばれる「Yahoo!」を設立したのは1995年3月である。
  • 江副が1985年の「ALL HANDS ON DECK!」の演説でオンライン・シフトを宣言してから1年。ようやく時代が江副に追いついてきた。
  • 実は「情報サービスのインフラ」というアイデアを、社長の位田に持ち込んだのは薄葉だった。カーテン屋の息子だった薄葉は子供のころ、店のソロバンが電卓に置き換わったとき、「コンピューターってすげえ!」と目覚めた。大学卒業後はIBMに就職するつもりだったが、東大の先輩、熊澤公平に「日本でいちばんたくさんスーパーコンピューターを持っている会社はリクルートだぞ」と誘われ、ついついリクルートに就職してしまった。
  • 熊澤は希望どおり、元NASAのエンジニア、メンデス・ラウルが所長を務める「スーパーコンピュータ研究所」に配属されたが、薄葉の配属は経営企画部で、直属の部長はのちに社長になる当時20歳の柏木斉だった。
  • 柏木の下で5年ほど秘書業務の修行をした薄葉は、社費留学を許されインターネットの勃興期を米国で過ごした。薄葉はそこで、「紙の終わり」を論理的に理解した。そして帰国した1993年、位田にこう進言した。
  • リクルートの情報誌は、クライアントから、原価と乖離した法外な原稿料を取っています。そんなことができるのは書店やコンビニエンスストアで物理的な棚をリクルートが独占しているからですが、インターネットの時代になればこのアドバンテージが消えて今のような利益は稼げなくなる。われわれが率先してインターネットのビジネスを始め、潜在的な競争相手に進出する気をなくさせてしまうべきです。リクルートは出版社からインフォメーション・プロバイダーになるべきです」
  • 位田の最大の使命は、江副が残した1兆8000億円の借金を返済することだった。銀行に融資を続けてもらうため、当時のリクルートは、毎年、営業利益から1000億円を返済に充てていた。そのためには営業利益率20%というとてつもなく高い収益力が必要であり、位田自身も情報誌のコストを削減するため、製紙工場に交渉に出向いていた。借金漬けのリクルートは新規事業など始められる状態ではなかったが、位田は薄葉の提案に可能性を感じた。そこでリクルートでも屈指の「人材の目利き」である常務の木村に「精鋭中の精鋭」を選ばせた。たった7人の小さなチームが「情報革命」の松明を江副から引き継いだ。

河野栄子の家計簿経営

  • やがて中古車情報誌『カーセンサー』や書籍情報誌『ダ・ヴィンチ』がオンラインで読めるようになった。これらをまとめたサイトは「Mix Juice(ミックスジュース)」と名付けられた。ミックスジュースは月間7500万PV(ページ・ビュー)の人気サイトになり、7人で始まったデメジの部員数は50人に膨らんだ。
  • 99年1月、デメジの事業部長になった高橋はミックスジュースを刷新し、旅行、車、本など5分野140万件のデータベースを横断的に検索できる「ISIZE(イサイズ)」を立ち上げる。
  • ただこの時代のサイト運営者はPVを稼ぐことに夢中で、マネタイズ(収益化)が後回しになっていた。とにかく面白いコンテンツでPVを稼ぎ、「今、ページを見ている1000万人が月に1000円払うようになれば100億円」という仮想の数字で満足していた。だが実際に課金を始めると、利用者は潮が引くように逃げていく。
  • 高橋は年会費2000円で紹介した飲食店やホテルなどの割引サービスが受けられる
    「ISIZE club e」で、広告収入以外の収益を探ったが、このクーポン・サービスが世の中で認知されるのは10年以上後のことだった。誰もが、インターネットでカネを稼ぐ方法を見つけられないでいた時代だった。
  • 1997年6月、位田に代わって河野栄子が社長に就任した。河野は「何が何でも借金を返す」という鉄の意志を持つ経営者で、インターネットにはまったく興味を示さなかった。デメジ受難の時代が始まった。
  • 「あなた、それ無駄じゃないの」
  • 「それでいくら儲かるの」
  • 江副はもちろん、摑み所がなくて宇宙人と呼ばれた位田にも、大阪商人の中内にも、経営にロマンを求める傾向があった。だが、けっして裕福ではない家庭で育った河野にその甘さはなかった。河野は目の前の現実しか見ない。「ケチ」と言われようと「石頭」と言われようと、余分な経費は少しでも切り詰めて、すべてを借金の返済に回す。河野の経済観念のベースは「家計簿」だった。
  • 麻雀好きの河野は社長になっても5時半にきっちり仕事を終わらせ、雀荘に向かった。勝負師の河野はロマンチックな役満には目もくれず、小さな手でコツコツ上がり、必ず勝ちを拾った。ゴルフも男顔負けの腕前だ。ある日、社員が聞いた。
    「河野さんはどうしてそんなにゴルフがうまいんですか」河野は「何を当たり前のことを聞くのか」という顔で答えた。「あなたたちみたいに危ない場所に絶対、打たないからよ」「そんなにうまいんだから、僕らと同じレギュラーティーからやりませんか」「だって女性の権利だもん」河野はいつもどおりにレディースティーから打ち、コンペの商品をさらっていった。当然のことながら家計簿経営とデメジは相性が悪い。「そんなにおカネがかかるんじゃダメね」
  • 高橋が新しいビジネスプランを持ち込んでも、河野はゴーサインを出さない。その間隙をつくように、ヤフーを傘下に持つソフトバンク楽天などが日本のネット市場を席巻していく。先行したはずのISIZEは後発組に追い抜かれた。
  • もどかしい状況が続く中、ISIZEのメンバーはひとり、またひとりとリクルートを去っていく。
  • 笹本は1999年、ネットベンチャーのクリエイティブ・リンクに入社。翌年には取締役最高執行責任者(COO)として米ミュージック・ビデオ大手MTVの日本法人に移籍。代表取締役CEOを務めた後、マイクロソフトを経て2014年、ツイッター・ジャパンの代表取締役に就任した。
  • 高橋は2007年、ISIZEの経験を買われて楽天に入り、2016年までインターネット・ショッピング「楽天市場」の事実上の責任者として会社の成長を支えた。創業者の三木谷浩実は海外での企業買収からプロ野球まで多忙を極める。グループの中核である楽天市場の日常のオペレーションは高橋が受け持った。高橋が楽天市場の副事業長をしている間に、楽天の流通総額は9810億円(2007年度)から3兆$億円に膨らんだ。
  • デメジからWeb戦略室に移った薄葉は2002年、日本IBMに移り、GEコンシュー
    マーファイナンスを経ていったんリクルートに復帰した。しかし、それも束の間、2011年にはグーグル日本法人のチャンネル・セールスの責任者に就任した。
    グーグルに移籍した薄葉は思った。
  • 「江蘭さんが作りたかったのは、きっとこんな会社だったんだろうな」
  • デメジの中核メンバーは空に飛んだタンポポの種が別の場所で花を咲かせるように、日本のネット産業のあちらこちらで、その才能を開花させた。