エコノミクス・ルール

この本を読むことで多大な恩恵を受けることが予想される読者は、大きく3タイプいるように思う。
  1. 自分は経済学を理解していると錯覚し、的はずれな批判を繰り返す大半の人文学者及び自然科学者、及び「非主流派」経済学者
  2. ミクロ・マクロ経済学の学部経済学コア科目を一通り学んだ学部生(とくに経済学的思考に対して、何らかの気持ち悪さを感じている学生と経済学的思考を盲信している学生)
  3. 誘導系モデルを用いた統計分析を行い、経済学のモデルを「実証」しているつもりになっている実証経済学者

上記に理論経済学者を含めていないのは、さすがに真っ当な理論経済学者は、本書で書かれているような事実を十分に理解していると「仮定」しているためである。

もちろん上記以外の読者にとっても学ぶことが多い本だと思うので、経済学の初学者を除いたすべての人にとって一読の価値はあると思う。初学者は読んでも議論の意味がよくわからないと思うので、他の本から勉強を始めたほうがいい気がする。

 

  • この本は、ハーバード大学でロベルト・マンガベイラ・アンガーと共に数年間教えた政治経済学の授業をきっかけに生まれたものだ。ロベルトは、彼らしい独特なやり方で、私に経済学の強みと弱みについて真剣に考えさせ、経済学の手法で有益だとわかったものを明らかにするよう後押ししてくれた。ロベルトが言うには、経済学はアダム・スミスカール・マルクスのような崇高な社会理論を構築することをあきらめてしまったために、無味乾燥でつまらない学問になってしまったというのだ。
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  • それに対し私は、経済学の強みは規模の小さな理論を立てるところにあると指摘した。物事の因果関係を明らかにしーたとえ部分的なものであったとしてもー社会的現実を解明するための状況に応じた考え方のことだ。そして、資本主義システムがどのように機能しているのかや、世界中の富と繁栄を決定するものは何かといった普遍的理論に関する研究より、謙虚な姿勢で積み上げられた控えめな科学のほうが役に立つ傾向にあると私は論じた。彼を納得させることができたとは決して思わないが、彼との議論が私にある種の衝撃を与えたことをわかってもらえたらと思う。
  • 私の新しい所属先であるプリンストン高等研究所には、経済学の経験に基づく実証主義とは極めて対照的な人文学的ないし解釈的アプローチが息づいていた。研究所にやってきた多くの訪問者ー経済学と並ぶ学問である人類学、社会学歴史学、哲学や政治学の人々ーと出会うと、経済学者に向けられた心の奥底から発する強い疑いの目に驚かされた。彼らにとって経済学者は分かり切ったことを言ったり、単純な枠組を複雑な社会現象に無理に当てはめて失敗を犯したりするような存在だった。周りにいた数少ない経済学者が、社会科学における知識豊富な馬鹿者として扱われていると思えたこともあった。つまり、数学や統計学には優れているが、それ以外のことでは役に立たないというのだ。
  • 皮肉なことに、私はかつてこの種の態度をー反対側から 見たことがあった。たくさんの経済学者たちが集まる場をうろついて、彼らが社会学や人類学について何て言っているのかを見てくればいい!経済学者にとって、他の分野の社会科学者たちは、事実や数字よりも思想を扱っており、節操がなく、冗長で、実証的な裏付けに乏しい(あるいは)誤って実証分析の落とし穴にはまっている存在になっている。経済学者は、どのように考えれば結果を得ることができるのかを知っているが、他の学者たちは堂々巡りを繰り返すだけというのだ。この時に、私は反対側から向けられる疑いの目に対して備えておくべきだったのかもしれない。
  • 経済学の外部から繰り出されてきた批判の多くは的外れだと私は思った。経済学者が実際何を行っているのかについて、あまりにもたくさんの誤解があったのだ。そのため私は、経済学にとって必須の分析に関する議論や実証に目を向けることによって、他の社会科学の実践のあり方もある程度改善できるのではないかと思わずにはいられなくなった。
  • しかし、このような事態を招いた責任は他ならぬ経済学者自身にあることも明らかだった。経済学者がうぬぼれていることや、世界を考察する際に特定の理論に執着することが多いことだけが問題なのではない。経済学者は他人に自分たちの学問内容を説明するのが下手くそでもあるのだ。この本の大半は、世界がどのように動いているのかに対する様々な解釈や、公共政策が引き起こす様々な結果を示すたくさんの、そして今も増え続けている枠組を経済学が持っていると示すことに費やしている。しかし、非経済学者が経済学から決まって耳にするのは、市場、合理性、利己的行動に対するひたむきな賛歌のようなものだ。経済学者は、社会生活について条件付きの説明ー市場(そして市場における政府の介入)がその背後にある固有の条件次第で、いかにして効率性、公平性そして経済成長に対し
    て異なる結果を生み出すのかに対する明白な説明を行うことを得意にしている。しかし、経済学者は状況に関係なくどこでも成立する普遍的な経済の法則について宣告しているように思われることが多い。
  • 私は、このような分断を埋めるための本ーそれは経済学者と非経済学者の両方に向けたものだーの必要性を感じた。経済学者に対する私のメッセージは、自らが実践する科学を説明する優れたストーリーが必要とされているということだ。私は、科学を実践する者たちが陥りがちな罠を明らかにするとともに、経済学の中で次々に生まれている役立つ業績を目立たせる新たなフレームを提示するつもりだ。非経済学者に対する私のメッセージは、この新しいフレームの下では経済学に対する一般的な批判の多くは無効になるということだ。経済学には批判すべき点がたくさんあるが、称賛すべき(そして見習うべき)点もたくさんある。
  • 自然科学を模範としているところにも理由の一端があるのだろうが、経済学者はモデルを誤って用いる傾向がある。あるモデルを唯一のモデルとして、どんな状況にあっても関連づけたり適用したりする間違いを犯しやすいのだ。経済学者はこのような誘惑に打ち勝たなければならない。環境が変化し、一つの前提から別の前提に視点が移るのに合わせて、モデルを慎重に選び直さなければならない。異なるモデルを、もっと柔軟に使い分ける方法を学ばなければならないのだ。
  • 本書は、経済学の称賛と批判の両方を行うものだ。この分野の核にある部分ー知識を生み出す上で経済モデルが果たす役割は擁護するが、経済学者による経済学的手法の扱い方や、モデルの(誤った)使い方については批判をする。本書での私の議論は、経済学者の「党派的な見方」とは無縁である。経済学者の多くは、この分野に対する私の見方、特に経済学がどのような意味で科学と言えるのかについての見方について、同意してくれないと思う。
  • 他の社会科学を専攻する経済学以外の専門家と話していると、経済学が外部からどう見られているかが分かって困惑することがしばしばある。彼らの不満は、よく知られている。経済学は物事を単純化し過ぎていて視野も狭い。文化や歴史、背景や条件を無視して、自分たちが普遍的であるかのような主張をする。市場なるものが、本当に存在するかのように考えている。暗黙の価値判断を持ち込んでいる。そのくせ経済状況の変化について説明も予想もできない。これらの批判は大部分が、経済学とは何かを見誤っているところから来ている。実際の経済学には多様なモデルが存在しており、特定のイデオロギー的志向を持ったり、唯一の結論を導いたりするものではない。もちろん、経済学界でその多様性を反映させることができていないのだから、誤りは経済学者自身にあるとは言える。

モデルの多様性

  • 経済学者は、社会的相互作用の目立った側面を掴まえたモデルを構築する。こうした相互作用は、財やサービスの市場で起きている。市場とは何かについて、経済学者は幅広い合意を持っている。個人、企業、あるいは他の集合体が買い手と売り手になる。対象となる財・サービスには、ほとんどのものが含まれる。官職や地位など、市場価格が存在しないものもだ。市場は局所的、地域的、国家的、あるいは国際的でありうる。バザールのように物理的に構成されている場合もあるし、長距離交易のようにバーチャルな場合もある。伝統的に経済学者は、市場がいかに機能するかという問題に夢中になっている。市場は資源を効率よく使っているか?改善の余地はあるか、改善できるならどうやって?交換から得られた利益はどう分配されるのか?市場以外の制度の機能に光を当てるためにモデルを使うこともあるー学校、労働組合、政府などだ。
  • では、経済学のモデルとは何なのだろう? 要素間の特殊な関係の働きを、交絡要因を隔離して、単純に示したものと理解するのが最も簡単だ。モデルは原因に焦点を当てて、それがシステムを通していかなる結 果をもたらすのかを示そうとする。モデルを作るとは、全体の中のある部分と別の部分のつながりがどのようなものであるかを明らかにする、人工的な世界を作ることであるー要素が複雑に絡み合った現実世界を、漠然と見ているだけでは識別できないつながりだ。経済学のモデルは、医者や建築家が用いる物理モデルと大差ない。病院で見かけるプラスチック製の肺のモデルは、人体の他の部分から切り離された呼吸システムに焦点を当てている。建築家が作るモデルは、家の周辺の風景を示すものもあるし、内部のレイアウトを示すものもある。経済学者のモデルも同じだが、物理的な構築物ではなく、言葉と数式を用いる点で異なっている。
  • よくあるモデルは、経済学の入門科目を取った人にはおなじみの供給ー需要モデルだ。右下がりの需要曲線と、右上がりの供給曲線で構成され、交点で価格と数量が決まる。この人工世界は、経済学者が「完全競争市場」と呼ぶもので、消費者と生産者が無数にいる。全員が経済的利益を追求しており、誰も市場価格に影響を与えることができない。このモデルはたくさんのことを捨象している。人は物質的な動機の他にも、違う動機を持っている。合理性は感情によって曇らされたり、認知的短絡を起こしたりする。生産者は独占的に行動することもある、などだ。しかし、このモデルは現実の市場経済の単純な働きを解明してくれる。

寓話としてのモデル

  • 経済モデルを、寓話のようなものだと考えることもできる。名前のない、どこにでもある場所(ある村、森)に住む2、3人の登場人物が出てくる小話で、彼らの振る舞いや相互の交流から、ある種の教訓となる結末が導かれる。登場人物は人間の時もあるし、擬人化された動物や無生物の場合もある。寓話はシンプルだ。少ない言葉で語られ、登場人物は貪欲や嫉妬のような型どおりの動機で動く。寓話話はリアルである必要はないし、登場人物の人生を精密に描く必要もない。物語の筋を明確にするためにリアリズムを犠牲にし、不明瞭さを少なくする。重要なのは、寓話には誰にでも分かる道徳が含まれているということだ。正直が一番だ、最後に笑う者こそ勝者だ、同病相憐れむ、水に落ちた犬を叩くな、などである。
  • 経済学のモデルも似ている。シンプルで抽象的な環境を前提にしている。仮定の多くが現実的である必要はない。本物の人間や企業が住んでいるように見えても、登場人物は高度に定型化された振る舞いをする。生き物でないもの(「ランダムショック」「外生的パラメータ」「自然」)もしばしば登場し、行動に影響を与える。明確な原因、結果や条件式が、物語の筋となる。そして誰もが分かる道徳ー経済学者が政策的含意と呼ぶものがある。自由市場は効率的だ、戦略的な場面で機会主義的に行動すると全員の厚生が悪化する、インセンティブは重要だ、などである。
  • 寓話は短く、要点は明瞭だ。メッセージに誤解の余地はない。ウサギとカメの物語は、着実に、ゆっくり歩んでいくことの重要性を訴えている。物語の核になる部分を取り出せば、他の多様な環境にも応用できる。経済モデルを寓話と一緒にすると、「科学的」な地位が損なわれると思われるかもしれない。しかし、両者の主張は、全く同じように作用する。競争的な供給ー需要の枠組を学んだ学生は、市場の力に敬意を持ち続ける。囚人のジレンマを乗り越えようとするなら、協調の問題を考えないわけにはいかない。モデルの科学的な細部を忘れてしまった時でも、世界を理解し解釈するテンプレートは残るのだ。
  • この類比は、経済学者の職業的専門性を軽視するものではない。経済学者は、論文に書いた中小モデルが、寓話と本質的に変わらないと認識し始めている。優れた経済理論家のアリエル・ルービンシュタインは次のように述べている。「モデル」という言葉は「寓話」や「おとぎ話」より科学的に聞こえるかもしれないが、私には大きな違いがあるとは思えない。」哲学者のアレン・ギバードと経済学者のハル・ヴァリアンの言葉では、「経済学のモデルはいつもある物語を語っている。」同様に、科学哲学者のナンシー・カートライトは「寓話」という用語を、経済学や物理学のモデルに対して使っているが、経済学のモデルのほうがより比喩的だと考えている。道徳が明快に語られる寓話と違い、経済学のモデルから政策的含意を引き出すにはいっそうの注意と解釈が必要になる、とカートライトは言う。この複雑性は、モデルが一つの文脈的真実のみを取り上げ、あくまで特殊な条件に基づく結論を導いているという事実から来ている。
  • 多少の違いはあるが、寓話との類比は有益だ。寓話は数え切れないほどあり、それぞれの寓話が環境の異なった条件の下で行動する指針を与えている。また、寓話が導く道徳は、しばしば矛盾しあっている。ある寓話は信頼や協力の美徳を称賛しているが、別の寓話は自分をもっと信じるよう促している。あるものは事前の準備を称え、別のものは過剰に準備し過ぎると危ないと警告している。手持ちのお金を使って人生を楽しめというものもあれば、雨の日に備えて貯金すべきだというものもある。友達は持ったほういいが、友達が多すぎるのは良くない。それぞれの寓話が、一つの限られた視点から道徳を語っている。ただし全体を合わせると、疑いと不確実性が助長されるのだ。
  • そのため特定の状況に合う寓話を選ぶには、判断力が必要とされる。経済学のモデルを用いる時にも、同じような洞察力が必要になる。異なったモデルが異なった結論を出すという点は先に見た。自己利益に基づいた行動が双方にとって効率的(完全競争モデル)か、浪費的(囚人のジレンマモデル)かは、背後にある条件をどう見積もるかで変わってくる。寓話と同じように、競合する利用可能なモデルを選択する上で、優れた判断力は不可欠である。幸い、証拠の検証が、モデル選びに有益な導きを与えてくれる。その過程は、科学より技芸と言うべきである。

 

実験としてのモデル
  • モデルを寓話になぞらえるのがお気に召さなければ、研究室の実験になぞらえてもいい。これは、驚くような類比かもしれない。寓話がモデルを単純なおとぎ話にしてしまうとすれば、研究室の実験との比較は、モデルに過剰な科学的装いを与える危険があるからだ。事実、多くの文化圏で、研究室の実験は科学的尊敬の最高峰に位置している。白衣に身を包んだ科学者が行う実験は、世界がどのように動いているのか、ある特殊な仮説が本当に正しいのかをめぐる「真実」に到達するための手段である。経済学のモデルが、それに近づくことなどできるのだろうか?
  • 研究室の実験が本当にそうなのか、考えてみよう。実験室は、人工的な環境を作為的に設定したものだ。実験の対象となる物質は、現実世界の環境から隔絶される。研究者は、仮説上の因果関係のみに光を当て、他の潜在的に重要な影響要因を排除できるよう実験をデザインする。例えば、純粋に重力の影響を見たい場合、研究者は真空で実験を行う。フィンランドの哲学者ウスカリ・ マキが説明しているように、経済学のモデルを構築する場合も、絶縁(insulation)、隔離(isolation)、識別(identification)の同じ方法が用いられる。主な違いは、研究室の実験が、因果関係を観察するのに必要な隔離を物理的環境の操作によって行うのに対して、モデルの場合は因果関係の前提を操作する点にある。モデルは心理的環境を構築して、仮説の検証を行うのだ。
  • 次のような反論があるかもしれない。研究室実験は、環境は人工的かもしれないが、作用はまだ現実の世界で起きている。少なくとも一つの条件下で、何が起きるかは分かる。反対に、経済モデルは心の中でしか展開されない完全な人工的構築物だ。もっと大きな違いもある。実験の結果は、現実の世界に適用する前に何度も外挿(extrapolation)を要求される。実験室で起きたことが、実験室の外で起きるとは限らないからだ。例えば、薬の効果は、実験室の設定ー「実験的制御」ーで考えられたもの以外の現実世界の条件と混じり合うと、得られないかもしれない。一つの例を与えてみよう。コロンビアで、私立学校のバウチャーを無差別に配布したところ、教育効果が大きく改善した。だからと言って、同じプログラムがアメリカや南アフリカなどでも同じ結果をもたらすという保証はない。最終的な結果は、国によって違う多くの要素に依存する。所得水準、親の選好、私立と公立の質的差、教師や学校運営者を駆り立てるインセンティブーそれらの要素すべて、他の多くの潜在的に重要な事柄が結果に関係してくる。「あそこで効いた」ということから「ここでも効く」という結論を導くには、多くの追加的なステップが必要である。
  • 研究室(あるいは野外)のリアルな実験と、われわれが「モデル」と呼ぶ思考実験の間にある隔たりは、一般に考えられているより小さい。どちらも、その結果を必要な時と場所に適用する前に慎重な吟味(extrapolation)を必要とする。適切な吟味を順番に行うには、優れた判断力と他の情報源からの証拠、構造的推論の組み合わせが必要である。実験の価値は、その実験が行われた文脈の外側にある世界について、何を教えてくれるかで決まる。そのためには同一性を識別し、異なった設定でも並行関係を見出す能力が必要となる。
  • リアルな実験と同様、モデルの価値は特殊な因果関係を取り出し、識別する能力に宿る。現実世界の因果関係は、その作用を曖昧にする他の因果関係と並行して現れるので、科学的説明を試みるすべての人にとって複雑である。経済学のモデルは、この点で優位性があると言えるかもしれない。偶有性ー特殊な前提条件への依存ーがモデルには組み込まれているからだ。第三章で見るように、確実性が欠如していることで、われわれは複数の競合モデルから現実をよりよく記述することができるのだ。

 

  • ジョンの脳波論のように重要な仮定が明らかに事実に反する時、モデルの有効性を疑問視するのは完全に正しく、必要でさえある。この例では、モデルは単純化され過ぎるあまり、われわれを惑わせていると言うことができる。この場合の適切な反応は、もっと適合的な仮定を持った別のモデルを作ることであり、モデルを諦めることではない。悪いモデルへの解毒剤は、良いモデルを作ることなのだ。
  • 究極的には、仮定の非現実性を避けることはできない。カートライトが言うように、「非現実的な仮定を用いているからという理由で経済モデルを批判するのは、ガリレオの斜面落下運動の実験が完全に摩擦のない球体を用いたと言って批判するようなものだ。」しかし、われわれが蜂蜜の壺に落ちた大理石にガリレオの加速度の法則を適用しようとしないように、このことが重要な仮定が総じて現実とかけ離れたモデルを用いる言い訳にはならない。

 

  • 物理科学の標準からすると、経済学者の用いる数学はそれほど先進的ではない。多変数微分積分最適化問題の基礎があれば、たいていの経済学理論にとっては十分である。それでも、数学的形式主義は読者にある種の投資を要求する。経済学と他の社会科学の間にわかりにくさの壁を作るのだ。これが、経済学者でない人がこの職業に抱く疑念を高める原因にもなっている。数学のせいで、経済学者は現実世界から引きこもり、抽象の構築物の中で暮らしているように見えてしまう
  • 今日に至るまで経済学は、大学院で必須の修行期間を経ていない人にとって不可解なままの、ほぼ唯一の社会科学分野となっている。経済学者が数学を用いる理由は誤解されている。洗練とか、複雑さとか、高度な真理への要求とはあまり関係ない。経済学で数学は主に明晰さと一貫性の二つの役割を果たすが、どちらもその栄光を求めてのことではない。第一に、数学はモデルの要素ー仮定、行動メカニズム、そして主たる結果ーを確実で透明なものにする。ひとたび数学の形式で記述されると、モデルが言ったり行ったりするととは、読むことのできる人には理解しやすいものになる。この明快さは偉大な美徳に属するが、十分に高く評価されていない。われわれは今もなお、カール・マルクスジョン・メイナード・ケインズヨーゼフ・シュンペーターが本当は何を言おうとしていたのか、議論を戦わせている。三人は経済学分野の巨人だが、自分たちのモデルをほとんど(すべてというわけではないが)言葉で説明した。反対に、ポール・サミュエルソン、ジョセフ・スティグリッツケネス・アローが、ノーベル賞をもらった理論を開発していた時、心の中で何を考えていたのかは誰も気にしない。数学モデルが要求するのは、証明の細部に気を配れということだけだ
  • 数学の第二の価値は、モデルの内的一貫性を保証するというものだー簡単に言うと、結論が仮定から導けるかどうかである。これは平凡だが、不可欠な貢献だ。議論の中には、単純で自明過ぎるものもある。他の議論には、より慎重な扱いを要求するものもある。認知バイアスのせいで、見たい結果だけを導く場合には特にそうだ結果が純粋に間違っている時もある。重要な仮定を取り除くと議論が急に明示的ではなくなることもしばしばだ。こういう時、数学は有益な検証手段となる。ケインズ以前の経済学者の巨頭で、最初の本格的な経済学の教科書の著者、アルフレッド・マーシャルは優れたルールを持っていた。数学を簡略化された言語として用いよ。それを言葉に翻訳し終えたら数学は燃やしてしまえ!私が学生によく言うのは、経済学者が数学を使うのは彼らが賢いからではなく、十分に賢くないからだ。

 

  • こんな冗談がある。ドブリューが1983年にノーベル賞を受賞した時、ジャーナリストが経済の先行きについての彼の見解を知りたいと声をかけてきた。彼はしばらく考えた後、こう続けた。「n種類の製品とm人の消費者からなる経済を考えてみよう。」
  • 第一定理は、見えざる手の仮説を実際に証明している点で偉業といえる。すなわち、ある一定の仮定の下で、市場経済の効率性は、単なる推測や可能性ではなく、前提条件から論理的に導き出されるものであることが示されているのだ。この結果は数学のみを用いて示されているので、実際に正確な計算式を得ることができる。この結果がいかにして生み出されたのか、モデルによってわれわれは正
    確に知ることができるのだ。特に、モデルを用いることによって、効率性の実現を確実にするために必要な具体的な仮定が明らかにされている。 
  • 見えざる手の定理を満たすために必要な仮定は、十分条件であって必要条件ではない。言い換えると、仮定のうちのいくつかが満たされない場合であっても市場は効率的なものとなり得るのだ。このため、アロー=ドブリューの基準が完全に満たされていない場合であっても自由市場は望ましいものだと主張する経済学者もいる。

 科学的進歩、一つの時代に一つのモデル

  •  経済学者に経済学を科学たらしめるものとは何かを尋ねると、次のような答えが返ってくるだろう。「それは科学的手法を用いているからだ。われわれは、仮説を立ててから検証する。ある理論が検証に失敗すれば、その理論を捨てて別の理論に置き換えるか、その理論の改良版を提示する。その結果、世界をよりよく説明する理論が開発されて、経済学は進歩していくのだ。」
  • これは素晴らしい話だが、経済学者が実際に行っていることや、経済学が実際にどのような進歩を遂げているのかとは、ほとんど関係していない。第一に、経済学者の研究の多くは、最初に仮説を構築した後に現実世界の事実に向かい合うという、仮説演繹法とは大きく異なるものだ。より広く行われている方法は、既存のモデルでは説明できていないように思われる特別な規則性や出来事に応答してモデルを構築するというものだー例えば、銀行が企業に貸し出しを行う際に、高金利を課す代わりに、資金供給量を制限するという、一見したところ理に適っていない行動が挙げられる。研究者は、このような「常軌を逸した」出来事について、よりうまく説明することのできる新しいモデルを開発している。
  • モデルを生み出す思考方法には帰納的な要素が多く含まれている。そして、モデルは特定の経験的事実を説明するために具体的に考案されたものであるため、同様な現実に直面した場合にそれを直接検証することができない。言い換えると、信用割当の存在は、それ自身が最初に理論を構築する動機になったものであるため、その理論を検証するために用いることができないのだ。
  • さらに、演繹的な仮説検証アプローチに正しく従ったものでさえ、経済学者が生み出した研究の多くは、厳密に言うと実際に検証可能ではない。これまで見てきたように、経済学の分野は矛盾した結論を生み出すモデルにあふれている。しかし、経済学者の扱うモデルの中で、専門家にきっぱりと否定されて明らかに誤ったものとして捨て去られたものはほとんどない。多くの学術活動が、様々なモデルに対して実証的な支持を与えることを目的として行われている。しかし、これらの作業は概ね当てになるものではなく、結論がその後の実証分析によって弱められる(覆される)ことが多い。その結果、専門家の人気を集めるモデルの変遷は、事実の存在そのものよりも、一時的なブームや流行、あるいは適切なモデル構築のやり方についての嗜好の変化によって起こる傾向にある。
  • 専門家についての社会学は、この後の章で取り上げる。より根本的なのは、社会的現実は移ろいやすいために、経済学のモデルによる検証は本質的に困難であり、不可能でさえあるということだ。第1に、研究者が他の仮説の妥当性について明確な結論を導き出させるようなはっきりとした証拠を現実社会が提供してくれることは滅多にない。最も関心を集める問題ー経済成長を引き起こすものは何か?財政政策によって経済は活性化するのか?現金給付によって貧困は削減されるのか?ーは実験室で研究することはできない。一般的に、得られるデータには相互作用がごちゃごちゃ入り組んでいるため、探し求めている原因をはっきりと見つけることは難しい。計量経済学者が最善を尽くしているにもかかわらず、説得力のある因果関係を示す証拠を得ることはとても困難なのだ。
  • より一層大きな障害は、どんな状況にも有効な経済モデルを求めることは一切できないということだ。物理学においてさえ、不変的法則が多数あるのかどうかについて議論されている。しかし、私が本書で何度も強調してきたように、経済学は別ものだ。経済学では、状況がすべてなのだ。ある状況において正しいことは、別の状況においても正しいものである必要はない。競争的な市場もあれば、
    そうでない市場もある。ある状況においてセカンド・ベストの理論による分析が求められていたとしても、他の状況では違うかもしれない。金融政策における時間非整合の問題に直面している政治制度もあれば、そうでないのもある。その他もろもろだ。例えば国有資産の民営化や輸入自由化について、全く同じ政策介入が異なる社会で実施されたとき、多くの場合その影響が大きく異なっていることが観察されるのは驚くべきことではない。

 

  • 私は、実証的検証がどんなときでも必ずうまく機能すると主張したいわけではない。しかし、決定的な実証データが得られないときでさえ、モデルは見解の相違の原因を明らかにするための筋の通った建設的な議論を可能にする。経済学では、政策論議を行う際には、あるモデルと別のモデルを競わせるのが普通だ。一般的に、モデルによる後ろ盾のない見解や政策的処方が支持を得ることはない。そして、いったんモデルが生み出されれば、両者が現実世界についてどのような仮定を置いているのかが、すべてはっきりするようになる。このことによって意見の不一致が解決することはないかもしれない。実際、それぞれが現実を解釈しようとする方法が違う場合には、両者の見解の相違は解決しないのが一般的だ。しかし、少なくとも、何について意見が合わないのかについて、両者が最終的に
    同意することは期待できるだろう

 

  • 経済学者の特殊なモデル構築のしきたりに対する愛着ー合理的で将来を予想できる個人、よく機能する市場などはしばしば、彼らの周囲にある世界との間の疑う余地のない摩擦を見過ごさせる。イェール大学のゲーム理論家のバリー・ネイルバフは大抵の経済学者よりも鋭い判断力の持ち主だが、そんな彼でさえ面倒を起こしている。ネイルバフや他のゲーム理論家がある日の深夜、イスラエルでタクシーに乗っていた。運転手はメーターを倒さず、本来メーターが示すよりも降りる時には安い料金でいいと約束した。ネイルバフと同僚たちは運転手を信用する理由がなかった。しかし彼らはゲーム理論家で、以下のような推論をした。彼らが目的地に着けば、運転手は交渉力をほとんど持たず、乗客が喜んで払うのとちょうど同じ額を受け入れるはずだ。彼らは、運転手の申し出はよい取引で、うまくいくと踏んだのである。目的地に着くと、運転手は二千五百シケルを要求した。ネイルバフは拒否し、代わりに二千二百シケルを申し出た。ネイルバフが交渉を試みる間、激怒した運転手は車のドアをロックし、乗客を中に閉じ込め、危険なほど速いスピードで彼らが乗車した地点まで車を走らせた。彼らを縁石に叩き出し、こう叫んだのである。「二千二百シケルで行ける距離がどれくらいか分かっただろう。」
  • 結局明らかになったのは、標準的なゲーム理論は、現実に起きたことの貧弱なガイドにしかならないということだ。少しの帰納があれば、ネイルバフと彼の同僚は、最初から、現実世界の人々は理論家のモデルが前提とする合理的なオートマトンのようには振る舞わないと認識できたはずだ!

 

  • MIT 、イェール、UCバークレーは政策を評価しモデルを検証するフィールド実験を運営する主な中心地だ。フィールド実験の明らかな欠点は、それらが経済学の中心問題の多くにほとんど関係していないということにある。例えば財政政策や為替レート政策の役割といったマクロ経済学の大問題を検証するのに、経済実験がどの程度役立つのかを知るのは難しい。そして、例のごとく、実験の結果は注意深く解釈されなければならない。というのも、それらの結果は他の前提条件の下では適用できないかもしれないからだー外的妥当性のいつもの問題である。

モデルと理論

  • 読者の中には、私がこれまで「理論」という言葉を使うことをなるべく避けてきたことに気付いた人がいるかもしれない。「モデル」と「理論」は同じ意味で用いられることがあり、とりわけ経済学者にそのような傾向があるのだが、これら二つの言葉は同じものと考えないほうがよい。「理論」という言葉には野心的な響きがある。一般的な定義では、理論とは、ある事実や現象を説明するために述べられる一連の考えや仮説のことを指す。理論の中には、実験や検証によって推定されたものもあれば、単なる主張に留まっているものもある。例として、物理学における一般相対性理論とひも理論の二つを取り上げよう。アインシュタインの理論は、その後の実験研究によって完全に裏付けられたものと考えられている。その後に発展したひも理論は、すべての力と粒子の統一を目指した物理学の理論だが、それを支持する実験結果はまだ乏しい自然淘汰に基づくダーウィンの進化論は、その正しさを示唆する証拠が数多く存在するが、種が進化するまでにかかる時間の長さを考えると、進化論を直接実験によって証明することは不可能である。
  • 自然科学分野におけるこれらの例のように、理論には全般的かつ普遍的な妥当性があるものと考えられている。北半球でも南半球でもーそして異星人の生命にさ
    えもー同じ進化論が適用されるということだ。しかし、経済学のモデルは違う。経済学のモデルは、状況によって変わるものであり、ほぼ無限の多様性がある。経済学のモデルは、せいぜい部分的な解釈を与えるものであり、特定の相互作用のメカニズムや因果関係の経路を明らかにするために設計された抽象概念を主張するに過ぎない。これらの思考実験では、潜在的に存在しうる他の要因を分析の枠組から外すことによって、限定された要因がもたらす影響を隔離し識別しなければならない。そのため、多くの要因が同時に作用しているような場合は、経済学のモデルでは、現実世界で起こっている現象を完全に解明するにはいたらない。
  • モデルと理論について、両者の違いと重なり合う部分を理解するため、まずは次の三種類の問題を区別しておきたい。
  • 第一に、AがXに及ぼす影響とはどのようなものかという、「何」を問う問題がある。例えば、最低賃金の上昇が雇用に及ぼす影響はどのようなものか?資本流入が一国の経済成長率に及ぼす影響はどのようなものか?政府支出の増加がインフレに対してどのような影響をもたらすのか?などがある。これまで見てきたように、経済学のモデルは、これらの問いに対してもっともらしい因果関係の経路を説明し、それらの経路が特定の状況にいかに依存しているのかを明らかにすることによって、その答えを提示する。たとえ適切なモデルが存在していると十分確信することができたとしても、これらの問いに答えることは将来の予想を行うことではないことに注意しなければならない。現実の世界では、分析している効果と並行して多くの事柄が変化している。最低賃金の上昇が雇用を減少させると予想することは正しいことかもしれないが、現実の世界では、その予想とは関係なく雇用者が従業員への給与支払いを増やすような全般的な需要の増加が混在しているかもしれない。このような分析は、経済学のモデルに適した分野である。

 理論とは実のところ単なるモデルの寄せ集めに過ぎない

  • これまで見てきたように、経済学の理論は、あまりにも一般化されてしまったために現実世界に対して実際にはほとんど役に立たないか、あるいはあまりにも特定化されてしまったために、せいぜい現実の特殊な一面を説明できるに過ぎないかのいずれかになっている。この難問を、私は具体的な理論をとりあげて説明してきたが、これは経済学のいずれの領域でも妥当するものだ。資本主義の普遍的法則を発見したと主張した理論家を、歴史は常に裏切ってきた。自然とは違い、資本主義は人間が生み出したものであり、それゆえ柔軟な構造物なのだ。
  • もっとも、「理論」という用語が使われる頻度から判断すると、経済学は理論で溢れている。ゲーム理論、契約理論、サーチ理論、成長理論、貨幣理論などなどだ。しかし、用語に騙されるべきではない。実際、これらの理論の一つひとつは、状況に応じて注意深く用いられる特殊なモデルの集まりである。それぞれの理論は、研究の対象となる現象について万能の説明を与えるというより、むしろ
    分析道具の一つの組み合わせを提供しているのだ。それ以上のものを要求しない限りは、理論はとても有益であり適切なものになりえる
  • 五十年近く前、最も独創的な精神を持つ経済学者の一人だったアルバート・ハーシュマンは、社会科学者による「強引な理論化」に対して不満を言い、壮大なパラダイムの追求がいかにして「理解の妨げ」になり得るかを語っていた。網羅的な理論を構築しようという衝動によって、偶発的事件が果たす役割や、現実世界で生じうる様々な可能性から学者が目をそらしてしまうことを心配したのだ。経済学の世界で今日起こっていることの多くは、より穏健な目標を目指している。それは、ある時期に生じた一つの因果関係を理解するための研究なのだ。多くの問題は、大それた野心でこの目的を見失ってしまうときに生じる。

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  • 経済学者の理論は適切に検証することができないという批判がある。実証分析は決定的な結果を与えるものではなく、それによって誤った理論が排除されることは滅多にない。経済学は、一連のモデルが好まれたと思えばまた別のモデルが好まれるというようにゆらゆらと揺れ動いており、その原因も実証分析によって示された事実であることは少なく、むしろ好き嫌いやイデオロギーによるものであることが多い。経済学者が自らを社会という世界における物理学者と見なしているのであれば、この批判は意味がある。しかし、前にも述べたように、自然科学との比較は誤解を招く。経済学は社会科学であり、普遍的な理論や結論を探求するのは不毛なことなのだ。モデル(あるいは理論)はせいぜい状況に応じて有効なものでしかない。普遍的な実験検証や反証を期待しても、あまり意味はない。
  • 経済学は、潜在的に適用可能なモデルの集まりに、過去のモデルが見落としていたか、あるいは無視していた社会的現実を捉えた新しいモデルを加えることによって進歩する。新しい状況に遭遇した経済学者の反応は、その状況を説明するモデルを考えることだ。また経済学は、より良いモデルを選択するーモデルと現実世界の状況をより良く適応させるーより優れた手法が見つかることによっても進歩する。・・・これは科学というより技芸に近いものであり、注目されていない経済学の価値なのだ。モデルを扱うことの利点は、モデル選択の際に必要とされる諸要素ー重要な過程、因果関係の経路、直接的・間接的な含意ーがすべて明白で誰の目にもわかることにある。これらの要素があることで、経済学者がモデルと現実の状況が一致しているのかを、たとえ正式な検証や決定的なものでなく、略式で示唆的なものであったとしてもチェックすることが可能になる。
  • 最後に、経済学は予測に失敗していると非難される。神は、占星術師の見栄えをよくするために経済予測の専門家を創り出した。これはジョン・ケネス・ガルブレイス(彼自身も経済学者である)による皮肉だ。近年起こった証拠物件Aは、世界金融危機だ。これは、大多数の経済学者が、マクロ経済と金融は今後ずっと安定すると思い込んでいたときに発生した。前章で説明したように、このような誤った認識は、経済学によくある盲点、すなわち一つのモデルを唯一のモデルと間違えたことによって生じたもう一つの副産物だった。逆説的だが、経済学者が自身のモデルとより真摯に向き合っていれば、金融革命や金融グローバリゼーションがもたらす結末について自信が持てなくなり、その結果金融市場が引き起こす損害に対してもっと懸命に備えていただろう。
  • しかしながら、どのような社会科学も、予測を行ったり、予測の基礎となる判断をしたりするべきではない。社会生活の動向を予測することはできない。社会の推進力として作用しているものが多すぎるのだ。モデルの言葉に置き換えると、これまでにまだ構築されていないものも含めて、未来にはたくさんのモデルがあるのだ!経済学やその他の社会科学に期待できることは、せいぜい条件付きの予測をすることだ。つまり、その他の要因がそのまま一定である状況において、個々の変化から一つを選び、それがもたらすであろう結果をわれわれに教えてくれるということである。優れたモデルとはそのようなものだ。そのようなモデルは、ある程度大規模な変化がもたらす結果や、いくつかの要因が他の要因を圧倒するほど大きくなるときに起こる影響の目安を提供してくれる。大規模な価格操作は欠乏を生み出すだろうということや、凶作によってコーヒー価格が上昇するだろうということ、平時に中央銀行が貨幣を大量に供給するとインフレが生じるだろうということについて、われわれは十分確信できる。ただしこれらの例は、「その他すべてのことが同じ」ということが妥当な場合に成り立つ想定であり、そこで生じる予測は条件付き予測といったほうがふさわしい。問題なのは、妥当と考えられる多くの変化のうち、どれが実際に発生するか推測することや、それらが最終的な結果に対してどれほどの重みを持つのかについて、ほとんど確信を持つことができないということである。そのような場合、経済学には自信よりもむしろ注意深さや謙虚さが求められる。

多様性の欠如

  • 経済学について最もよく聞く不満の一つに、経済学は部外者を避ける同好会のようだというものがある。批判者によると、この排他性によって経済学は狭量なものとなり、経済学に対する新しく代替的な見方に閉鎖的になってしまっているというのだ。彼らが言うには、経済学はより包括的に、より多様に、そして異端の手法もより歓迎するべきなのだ。
  • このような批判は、学生がよく言うものだ。その理由の一つに経済学の教育法がある。例えば、1年秋に、ハーバードの有名な経済学入門コースであるeconomics 10、これは同僚のグレゴリー・マンキューが教えているのだが、その授業を一部の学生がボイコットしたことがある。学生が不満だったのは、コースの内容が経済科学の振りをした保守派のイデオロギーの宣伝であり、永続的な社会格差を助長するものだということだった。マンキューは抗議した学生を「見識が足りない」として退けた。彼は、経済学はイデオロギーを持っておらず、政策に関する結論を理路整然と考えて正しい答えにたどり着けるようにするための単なる道具にすぎないのだと指摘した。