THE ONE DEVICE ザ・ワン・デバイス

  • 私はSiriの開発部隊に異動した当初、ボスから新しいiPhoneを開発用にもらってこいと命じられた。 喜んで大急ぎでエンジニア向けにデバイスを配る社内店舗に行き、「新しいiPhoneをください!」と注文したところ、「iPhoneって何? そんなもの知らないよ」と真顔で言われ、門前払いを食らった。悔しいので、後からくるエンジニアたちがどのように注文しているかを見ていると、「N41」とか「N50」というコードネームで注文していることを知り、コードネームを同僚から教えてもらって出直したという苦い思い出がある。

 

  • 当時はタッチ式技術といえばほとんどが「抵抗膜方式」だった。 昔の銀行ATMや空港のチケット端末を思い浮かべてほしい。 抵抗膜方式のタッチパネルは複数のレイヤーを重ねた構造で、電気抵抗力のある物質をコーティングした二枚の膜の間にわずかなすき間がある。 指でタッチパネルを押すと二枚の膜がくっつくため、触れた場所がわかる仕組みだ。抵抗膜方式は精度が低くて誤作動が多く、使用者はイライラすることの多い技術だった。空港のチケット端末で、触れた場所とはまったく違うボタンが作動して困った経験をお持ちなら、 抵抗膜タッチパネルの欠点が切実にわかるだろう。
  • 一方、静電容量式は〝指で押す力"ではなく、人体の電気化学を利用して指が触れた場所を知る。我々人間は誰もが導電体なので、静電容量式センシングのタッチパネルを指で触るとパネル表面の静電場にゆがみが生じ、それを静電容量の変化として検知することで触った場所をかなり正確に特定できる。どうやらフィンガーワークスはこの技術に精通しているらしい。

 

 

  • 一台のiPhoneを作るのにどれだけの土壌を採掘する必要があるのか、ミショーが計算してくれた。世界各地の採掘作業に関するデータをもとにはじき出した推計値によると、129グラムのiPhone一台に必要な金属を得るには、ざっと34キログラムの鉱石を掘り出さねばならない。一台に含まれる金属の原料価格は合計で約一ドル。その五六%はごくわずかに含まれる金の価格だ。一方、掘り出された三四キロの鉱石のうち九二%は、iPhone一台のわずか五%の重さを占めるに過ぎない各種金属を得るために使われている。言い換えれば、ごく微量の希少元素を得るために大量の採掘と製錬が行われているわけだ。
  • 2016年までに売れたiPhoneは累計で10億台。鉱石量に換算すれば3400万トンになる。大量の土壌が掘り返され、その痕跡を地上に残しているわけだ。 鉱石から金属を分離・抽出するには鉱石一トンあたりおよそ三トンの水を使う。すなわちiPhone一台当たりおよそ100リットルの水を汚染していることになる。ミショーによれば、10億台のiPhoneを製造したことで1000億リットルの水が汚染されたことになる。

 

  • 1950年代初頭、コーニングの社内発明家でドン・ストゥーキーという化学者が感光性ガラスの実験を行っていた。場所はニューヨーク州北部にある本社内の彼の研究室。ガラスの表面にケイ酸リチウムのサンプルを塗り600度で熱する。ピザを焼く窯の温度がだいたいこれくらいだ。ところが制御装置の故障で温度が900度まで上がってしまった。 これは地表の中性溶岩に近い温度だ。このミスに気づいたストゥーキーは、実験自体も実験道具も台無しになったと思いながらかまどの戸を開けた。すると驚いたことに、ケイ酸リチウムは溶けておらず、ガラスは黄色がかった白色のプレート状に変貌していた。 トングでかまどから取り出そうとしたところ、つるりと滑って床に落ちた。なんと奇妙なことにガラスは割れず、跳ね返ったのである。こうして合成ガラス・セラミックスが誕生した。
  • 当時、発明家たちは少なくとも五〇年以上にわたり、粉々に砕けない安全ガラスを作りだそうと努力していた。一九〇九年にはフランスの化学者にしてアールデコ芸術家、エドゥアール・ベネディクトゥスが誤ってフラスコを棚から落としたところ、ひび割れはしたが粉々にはならなかった。フラスコにはかつて硝酸セルロースの液体プラスチックが入っていたが、中身が蒸発してガラスの内側に薄い膜だけが残されていたのだ。ベネディクトゥスは世界初の安全ガラスの特許を取り、第一次世界大戦中の米軍やフォード製自動車のフロントガラスに使われるようになった。

 

  • 新型iphoneが登場するたびに内蔵カメラの性能は上がっているが、アップルはなかでも「光学式手ブレ補正機能」を何度となく最大の売り物にしてきた。iPhoneは本体がとても軽いので、この機能なしでは手ブレでまともな写真が撮れない。
  • この極めて重要な機能を開発した人物の名前を知っている人はまずいないだろう。その人物は大嶋光昭博士という。 パナソニックの研究者だった大嶋は、初期のカーナビシステムに使われた振動ジャイロスコープの研究をしていた。だが、一九八二年の夏に休暇でハワイを訪れる直前、そのプロジェクトは突然打ち切られた。
  • 「休暇で来たハワイで、友達とドライブしていたんです。友達は車内からハワイの景色をビデオ撮影しながら〝どうしても映像がブレてしまう"と文句を言っていました」と大嶋は私に話した。その頃のビデオカメラは肩に乗せる大型の機材で、揺れる車内から撮影すれば手ブレは避けられない。高額の製品だったが、手ブレを避けるための機能などついていなかった。 友人の不満を聞きながら、大嶋の頭に一つの考えがひらめいた。振動ジャイロでビデオカメラの回転角を測り、それに応じて画像を補正すれば、手ブレをなくせるのではないだろうか――。「日本に帰るやいなや、振動ジャイロを使った手ブレ補正の研究に着手しました」
  • 残念なことにパナソニックの上司は彼のアイデアに興味を示さず、予算が確保できなかった。だが大嶋には手ブレ補正の価値を実証できるという確信があった。彼は通常業務を終えてから夜遅くまで職場に残り、ついに試作品を作り上げた。「試作品のカメラを初めて起動した時のドキドキした気持ちを今でも覚えています。 カメラ本体を揺さぶっても、映像はまったくブレません。信じられないほどの効果でした。私の人生であれが最高の瞬間でした」
  • 大嶋はヘリコプターをチャーターして大阪城の上空を飛び、手ブレ補正機能をオンとオフにして二種類の映像を空撮した。映像は手ぶれ補正機能の効果をはっきりと物語り、上司に見せるとすぐさまプロジェクトの予算が獲得できた。ところが、何年も研究を重ねて量産用の試作品までできたのに、会社の上層部が製品化に乗り気にならない。
  • 「手ぶれ補正機能の製品化には一部に反対意見がありました。日本のビデオカメラ市場は何しろ小型化することに熱中していましたから。一方、米国市場では小型化がそこまで重視されたことは一度もありませんでした」
  • そこで大嶋は、北米市場を担当していたグループ会社の松下寿電子工業(当時)を頼って米国で売り出す道を探った。1988年、世界初の手ブレ補正機能付きビデオカメラとしてPV-460が米国で発売されると、2000ドルという高めの価格にもかかわらず大ヒットした。 競合製品より高くても消費者は手ブレ補正付きを選ぶと証明されたのだ。
  • 1994年にはニコン、1995年にはキヤノンがこの技術を自社のデジタルカメラに採用するとあっという間に普及が進み、大嶋の開発した技術は世界中のデジタルカメラの手ブレ補正に使われるようになった。「信じられないことに、最初に開発してから三四年経った今でもほとんどのカメラにこの技術が使われています。iPhoneやアンドロイドのカメラにも使われています。世界中のすべてのカメラにこの技術を使って欲しい、という私の夢がついにかないました」
  • 大嶋にとってイノベーションとは、異なるアイデアを結びつける新しいネットワークを創り出す、または既存のネットワーク同士をつなげる新しい道筋を創り出す作業だという。 「ひらめきとは、一つのアイデアがまったく思いもしなかった別のアイデアと頭の中で結びつく現象だと思います」と大嶋は言う。そうした現象はエコシステムの拡大によって引き起こされる。

 

  • 地球の自転を証明するため「フーコーの振り子」 を考え出したのは、哲学者として有名なミシェル・フーコーではなく、物理学者のジャン・ベルナール・レオン・フーコーである。振り子の動くコースが少しずつ変化することで、今でいうコリオリの力を証明した。これは、回転座標系を動く質点が移動方向に直角な力を受けることを指す。地球という回転座標系の場合、北半球では、動く物体はコリオリ効果によって右に曲がる。
  • フーコーはこの振り子の実験をさらに正確にするため、ジャイロスコープを利用した。これは大まかに言えば、回転する先端部分とその回転を維持するための仕組みを持つ装置で、今のiphoneに使われているものと原理的にそれほど変わらない。iPhoneの画面が本体の向きに応じて正しく回転できるのは、コリオリ効果を利用しているからなのだ。ただしフーコーと違い、現代のジャイロスコープはMEMS (微小電気機械システム) 技術のおかげで極めて小さい。極小のチップに詰め込まれたMEMS ジャイロスコープは、対称で美しい構造をしており、まるでSFにでてくる未来の神殿の設計図のようだ。
  • 我々のスマートフォンに組み込まれているジャイロスコープはVSG (振動型ジャイロ)という。振動子を使って回転の速さ(角速度)を計測するからだ。 振動子は、自身を支える土台が回転しても同じ平面上で振動を続けようとする。その際に振動子はコリオリ効果によって一定の力を土台に加える。その力を計測すれば角速度が算出できる。今や親指の爪より小さくなったVSGは、iPhoneを始め自動車やゲーム機などあらゆる機械に搭載されている。

 

  • 「今の携帯電話に入っているコンピュータは、アポロ計画でロケットを月へと導いたコンピュータを上回る性能を持つ」――そんな話を聞いたことがあるかもしれない。だがこれは、携帯電話のコンピュータをずいぶん過小評価している。実際にはアポロ計画で使われたものよりざっと10万倍は高性能だ。そこまで性能アップができた主な要因は、トランジスタが信じられないほど小型化できたからだ。
  • トランジスタは20世紀で最大のイノベーションといっていいかもしれない。あらゆる電子機器はトランジスタなしでは作れない。最新のLSIチップには、一つにつき数十億個ものトランジスタが使われている。もちろん一九四七年にトランジスタが発明された時はそんなに小さくはなかった。初期のトランジスタゲルマニウムの単結晶と三角形のプラスチックからなり、長さ一センチ強の金製の接点がついていた。 今のスリムなiPhoneなら数個しか内蔵できないサイズだ。
  • トランジスタの根本原理は一九二五年に物理学者ユリウス・リリエンフェルトが考案したが、きちんとした論文もないまま二〇年ほど埋もれたままだった。それを再発見して改良したのがベル研究所の物理学者ウィリアム・ショックレーと部下のジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテンだ。
  • トランジスタは機械とデジタルをつなぐ架け橋である。 コンピュータが理解できるのは二進法のバイナリ言語(イエスかノー、オンかオフ、1か0)なので、人間はそのどちらかをコンピュータに指示する手段が必要になる。 トランジスタはその伝達役なのだ。電流が増幅されれば「イエス」や「オン」や「1」を示し、増幅されなければ「ノー」や「オフ」や「0」を意味する。
  • トランジスタの発明後は小型化が進み、半導体に直接エッチングできるほど小さくなった。一つの半導体に複数のトランジスタを設置したのが集積回路(IC)、またはマイクロチップである。半導体とはゲルマニウムやシリコンのことで、導体と絶縁体の中間的な性質を持ち、電気の流れをコントロールできる。 シリコンは安価で大量に入手できるため半導体として使われることが多く、「シリコンバレー」という俗称が生まれたほどだ。
  • 基本的には、一つの半導体に設置できるトランジスタが増えるほど、複雑な命令が実行できるようになる。面白いことに、トランジスタの数が増えても消費電力は増えない。それどころか、トランジスタの数が増えるということは個々のトランジスタが小型化されているわけで、消費電力はむしろ減る。要するにコンピュータ・チップが小型化するにつれて、性能は上がり消費電力は下がる。こうして新製品が出るたびに一年前にはできなかったことができる、という消費者を悩ますサイクルが始まった。

 

  • ARMはAcorn RISC Machineの略である。 エイコーンは社名。 RISCは「縮小命
    令セットコンピュータ」の略語で、UCバークレーの研究者が考え出したCPUの設計思想だ。それまでのCPUは、あらかじめ内蔵している命令セットの大半がプログラムに利用されないにもかかわらず、そうした命令セットのためにも処理時間や電力を費やしていた。そこで、簡単に言えば、CPUをそれが実際に走らせるであろうプログラムの種類に合わせて調整し、命令セットを縮小することで、高速化と省電力化を実現しようという設計思想だ。

 

  • iOSエンジニアリング担当バイスプレジデントのアンリ・ラミローは私にこう打ち明ける。「ユーザーの求めるすべてのアプリを自前で用意するなんて不可能です。いつか(外部デベロッパーに)開放しなければならないのは自明のことでした」
  • こうして二〇〇七年一〇月、iPhone発売の四ヶ月後にジョブズは方針を変更し、アップルの公式ウェブサイトで外部デベロッパーのアプリを受け入れると発表した。二〇〇八年夏に発売されたiPhone3Gには初めてソフトウェアの「アップストア」が搭載され、外部デベロッパーの開発したアプリをダウンロードできるようになった。デベロッパーが提出したアプリはアップルが社内で品質・内容・バグを審査する。審査に合格し、そのアプリを有料で販売する場合は、アップルが三〇%の取り分を得る仕組みだ。この瞬間こそ、本格的なスマートフォン時代の幕開けと言っていいだろう。iPhoneの"キラーアプリ"は電話ではなく、多数のアプリそれを使わなを入手できるストアだとアップルが知った瞬間である。
  • 「アプリがダウンロードできるようになると販売台数は急上昇し、iPhoneは突如として社会現象になりました。iPhoneは "iPodプレーヤー〟でもなければ〝インターネット端末〟でも〝携帯電話〟でもなく、何かまったく別のものだったのです」とビルベリー
  • 私は彼に、なぜアプリが販売台数増加の理由だと断言できるのかを聞いた。 「一対一の相関関係があったからです。 外部アプリを受け入れると宣言し、その機能を搭載したとたん、みんなiPhoneを買うようになりました」――それは普通の増え方ではなく、ホッケースティックのような急カーブを描く劇的な販売台数の爆発だったという。

 

  • iPhoneのせいで離婚しました」というのはiPhone担当シニア・エンジニアの一人アンディ・グリグノンだ。 私はiPhone開発の中心となったデザイナーやエンジニアを何十人も取材したが、このセリフを聞いたのは一度ではない。iPhoneが破綻させた夫婦関係は二、三組ではきかない、と証言する社員もいた。
  • 「本当に激務で、私の仕事人生でも最悪の時期だったと言えるでしょう。極めて優秀な人材を大勢集め、どう考えても無謀なミッションと締め切りを与え、圧力鍋に放り込んだのです。 会社全体の命運が我々にかかっている、という声も聞こえてきました。デスクに足をのっけて〝この新製品はマジですごいことになるぞ!"なんて言う余裕はまったくありません。もうめちゃくちゃでした」(グリグノン)

 

  • iPodユーザーは曲のダウンロードやプレイリストの管理にiTunesを使う必要があるが、このソフトウェアはMacでしか動かなかった。 ファデルはiTunesWindowsでも使えるようにすべきだとスティーブ・ジョブズに進言したが、「PC向けを出したいなら俺の死体を乗り越えていけ」とジョブズに言われたという。それでもファデルは内緒で〝WindowsiTunes" の開発チームをつくり準備を進めた。 「二年間、悲惨な数字が続いて、やっとスティーブも目を覚ました。それから売れ始めたんだ」
  • 数億人もの人々がiPodを使うようになった。それまでの全Macユーザーより多い人数だ。しかもiPodはファッションとしても最先端でかっこいいと見なされ、アップル全体にそのクールなイメージが定着した。ファデルは幹部クラスに昇進し、iPod部門全体の責任者になった。iPodは二〇〇一年に発売され、二〇〇三年にヒットしたが、二〇〇四年にはもう先行きが怪しいと見なされるようになった。MP3で音楽を聴ける携帯電話が強力なライバルになると思われたのだ。「もし一つだけデバイスを持ち歩くとしたらどれにするか?モトローラ・ロッカー(Rokr) はその答えとなるべく生まれた」 (ファデル)

 

  • ジョブズのみならず、 ジョニー・アイブやトニー・ファデル、そしてエンジニアやデザイナーやマネジャーに至るまで、アップル社内で誰もが意見の一致する点が一つあった。それは、iphone以前の携帯電話に対する評価だ。既存の携帯電話はいずれも「なってない」し、「最悪」だし、「ゴミ同然」だと全員が思っていた。
  • 「アップルは、みんなが最低だと思っているものをまともにするのがとても上手い」とグレッグ・クリスティーは言う。iPodが現れるまでは誰もデジタル音楽プレーヤーのスマートな使い方を思いつかず、 ポータブルCDプレーヤーを喜んで持ち歩いていた。そもそもアップルⅡが登場するまで、コンピュータとは複雑すぎて素人には扱えないものだと思われていた。
  • iPhoneプロジェクトと呼べるようなものが始まる少なくとも一年以上前から、アップルではみな、世の中の携帯電話がいかにダメかを愚痴っていました」と話すのはeメール・チームのマネジャーをした後でiPhone開発に関わったニティン・ガナトラだ。当時のアップル社内には、iPodでデジタル音楽の世界を一変させたのと同じようなことが携帯電話の世界でもできるのではないか――そんな気持ちが高まっていたことがうかがえる。「この市場にも参入して僕たちがきちんと仕上げるべきだ。なぜアップルは携帯電話を作ろうとしないんだ―――社内はそんな雰囲気でした」(ガナトラ)

 

  • 現在のように一種の「テクノカルチャー」としてハッキングが広まるきっかけとなったのは、おそらく一九六〇年代に登場したフォン・フリーク(電話を改造してタダで通話する人々)だろう。当時、
    AT&Tのコンピュータによる電話交換システムは、決まった周波数の音を長距離電話の合図として使っていた。この音を模倣すれば、長距離電話システムに接続できたのだ。最初のフォン・フリークの一人は、絶対音感を持つ七歳の盲目の少年ジョー・エングレシア(後にジョイバブルズと改名)だ。彼は、自宅の電話で受話器に向けて特定の音程で口笛を吹くと、タダで長距離電話システムに接続できることに気づいた。
  • もう一人の伝説的ハッカー、ジョン・ドレイパーは、シリアル食品キャプテン・クランチ」のオマケについてくるおもちゃの笛で長距離電話システムに接続できると気づいた。ドレイパーは後に「キャプテン・クランチ」の名で知られるようになる。彼は電気的にこの笛と同じ音を出す装置 ブルーボックス"を作りだし、これを若きスティーブ・ウォズニアックとその友人スティーブ・ジョブズに見せた。若き二人が“ブルーボックス〟で一儲けしたエピソードは有名である。
  • 大企業の消費者向けテクノロジーを個人でハッキングし、自分の好きなように改造してしまうという文化は、そうした消費者向けテクノロジーが生まれると同時に発生する。 iPhoneも例外ではない。実際、iPhoneがその最も素晴らしい特徴であるアップストアの採用に踏み切った一因はハッカーたちにあった。

 

ジョブズは「戻るボタン」をつけたかった

  • タッチ操作を原則とするiPhoneは、当初案では前面すべてがスクリーンになるはずだったが、結果的には一つだけ物理ボタンを搭載せざるをえなかった。誰もが知る「ホームボタン」だ。だが実はスティーブ・ジョブズはボタンを二つにしたかった。「戻るボタン」があったほうが利用者が操作しやすいと考えたのである。 チョードリーは反対した。 これはデバイスへの信頼感と予測可能性に関わる大事な問題だと。 ボタンは一つで、いつ押しても必ず同じ結果 (自分のホーム画面)が得られることが大事なのだと主張した。
  • ホームボタンに関しては、二つの操作方法が影響を与えている。一つはMacOSにあった、「エクスポゼ」の機能。 もう一つは映画『マイノリティ・リポート』に登場してみんなの心をつかんだ、あのいかにもSF的なジェスチャー操作である。フィリップ・K・ディック原作、トム・クルーズ主演のこの映画は、ちょうどENRIグループの話し合いが始まった頃の二〇〇二年に公開され、それ以降は〝未来っぽいユーザーインターフェース”の代名詞になった。登場人物たちは目の前の空中に手をかざしては、上下左右に動かすことで仮想オブジェクトを操作し、用が済めばスワイプして消し去る。iPhoneの基本的UIの一部は、この映画からヒントを得ている。「とてもクールな映画で強い影響を受けました」とオーディング。 彼がMac用に作った「エクスポゼ」(訳注:現在は「ミッションコントロール」に統合)という機能は、現在開いているウィンドウをズームアウトして一覧表示する。 「このエクスポゼを思いついたのは、ウィンドウが山ほど重なって開いている自分のMac 画面を見つめながら、”あの映画みたいに、重なったウィンドウに次々と目を通して全部を一瞬で把握する方法があればいいのに〟と考えたのがきっかけでした」――そしてそのエクスポゼが、後にiPhoneの中核機能のヒントとなる。「ホームボタンの初期コンセプトを考えたのはイムランです。それを押せば起動中のアプリが全部一覧表示されるようなボタンを一つ作ろうと。彼はそれをiPhone用エクスポゼ"と呼んでいました。一覧表示されたアプリを一つ選んでタップすれば、そのアプリが前面にズームインされる。ちょうどMacのエクスポゼでウィンドウを一つ選ぶのと同じように」(オーディング)
  • イムラン・チョードリーは言う。「繰り返しますが、最後は信頼感の問題に行き着くのです。このデバイスは必ず自分が要求した動作をしてくれる、という信頼感。それまでの携帯電話の問題として、メニューが複雑すぎて使いたい機能が埋もれてしまうという点がありました」ージョブズの主張した「戻るボタン」は、それと同じように操作を複雑にしかねない。チョードリーはジョブズにそう訴えた。そして「その議論は私が勝ちました」
  • 機能を考え出すのは大きな仕事だが、それで終わりではない。その機能の使い勝手を高めるというまったく別の作業がある。「みんなで議論して、以下の鉄則が明らかになりました。 絶対にこれを破ってはならない鉄則です」(ガナトラ)
  • いつホームボタンを押しても必ずホーム画面に戻る。
  • すべての動作は、ユーザーが指で触れたらすぐに反応を始めなければならない。
  • すべての動作は、最低でも六〇フレーム/秒で動かなければならない。あらゆる操作でそれを徹底する。

 

  • 上記の三つに加え、何より個々の操作ごとにユーザー経験をきめ細かく調整しなければならない。例えば画面をスクロールする時の加速や減速の度合い一つにしても、なすべきことは山ほどあった。ジョブズとフォーストールは「現実のモノを触っているような感じ」に強くこだわったからだ。 「何かを押せば、それが動く。 スティーブとスコットはそのようなリアルな操作感を強く求めました。 例えば本物の紙を触っているのと同じように、指を動かせばその下で紙も一緒に動くというように」(ラミロー)
  • アプリのデザインにも同じように現実世界の物性が要求された。 「ユーザーが使い慣れている現実のモノや身近なモノを模倣するため、多くの労力を割きました」とラミローは振り返る。 ここからiPhoneの悪名高いスキューモーフィズム デジタル世界のものを現実世界の同じものに似せるデザイン―――が始まったのだ。
  • 「そもそもスキューモーフィズムは、初めてiPhoneに触った人でもすぐに使い方がわかるようにするための仕掛けの一つでした。先にMacOSXにも導入されています。例えば私が関わった“メール"は切手のアイコンだし、〝住所録"(アドレスブック:日本語名は〝連絡先")もあるといった具合です。 ユーザーマニュアルのようなものは絶対に作りたくなかったのです。 そんなものが必要になったら我々の負けだと考えていました」(ガナトラ)

 

  • 「初代iPhoneのホーム画面に並んでいるアプリのほとんどは、それぞれの担当者が一人で作っていました。一人で複数のアプリを担当しているケースさえありました」
  • ドールは何でも屋として 「時計」や「メール」、その他追い込みで人手が足りないアプリはなんでも手伝った。もちろん、ちょっとした問題はしょっちゅう起きた。例えば「連絡先」アプリのバグを直していたエンジニアは、自分の書いた修正コードがアプリに反映されているように見えないことにイラつき、住所を記入する欄のタイトルを「住所」から「消え失せろ」に書き換えた。"どうせこれも反映されないんだろ?"とたかをくくっていたのだ。ところがそのエンジニアは間違えてその修正版をレポジトリ (チーム共通のデータ貯蔵庫)に戻してしまう。そのアプリを搭載したバージョンのiPhone試作機がAT&Tのテスト用に貸し出され、ほどなくスコット・フォーストールにAT&TのCEOから電話が入る。「なぜこのiPhoneは私に"消え失せろ"と言うのですか?」――このエンジニアはチーム全員に謝罪のメールを書く羽目になった。
  • 一方、別のセキュリティ・エンジニアは発売前のiPhoneを旅行に持って行き、レストランのソムリエに見せた。ソムリエ氏はその後エンジニアを裏切って、アップルの噂を追いかけるウェブサイトに新しいiPhoneの詳細レポートを投稿する。 このエンジニアはクビになってもおかしくないところだったが、iPhoneの暗号化システムの一部については彼しか専門知識を持つ人間が社内におらず、クビを免れた。ただしチームメンバー宛ての謝罪メールは書かされた。一部の若手エンジニアの中には、そのようにチームのみんなの前で仲間が罰を受けるのを見て、まるで全体主義体制のようだと奇異に感じる人もいた。フォックスコンの工場労働者が同僚たちの前で懺悔させられるのと同類ではないかと。 「確かに気味の悪い類似点がありました」とiPhoneチームの一人は振り返る。