「バカ」の研究

  • アメリカの社会心理学者、デイヴィッド・ダニングとジャスティン・クルーガーに、「能力が低い人はそのことに気づかない」というタイトルの研究論文がある。わたしはこれは「あなたの仕事についてあなたに説明しようとするバカに関する研究」とすべきだったと思う。そうしなかったのは、おそらくそんな変なタイトルでは科学専門誌に掲載してもらえないと思ったのだろう。だが、ふたりの研究内容はまさにこのとおりだ。能力が低い人ほど自分を過大評価し、他人に平気でその価値観を押しつける。だからこそ、バカは一度も犬を飼ったことがない
    くせに、犬を飼っている人にしつけのしかたをアドバイスしようとするのだ。この〈優劣の錯覚》という認知バイアスは、ある一定の状況において、自らの真の能力を認識できなくなる現象を指す。それだけではない。ダニングとクルーガーによると、能力が低い人は自分を過大評価するだけでなく、能力が高い他人を過小評価する傾向もあるという。
  • ふたりの研究のおかげで、わたしたちは日常のさまざまな出来事に合点がいくようになるはずだ。なぜバカな客はプロの料理人に対して、「料理とは」 と長々とうんちくを傾けるのか。

 

あなたの理論によると、バカとはどういう人を指すのでしょう?

  • ジェームズ わたしがバカと呼んでいるのは、まずもって、自分を非の打ちどころがない、社会生活で特権を与えられるべき人間だと思いこんでいるような人です。男性に多くて、女性には比較的少ないと思います。典型的な例が、郵便局の窓口の列に割りこもうとするバカです。ふつうは緊急時や、立っているのがつらい妊娠中の女性に与えられるべき特権が、どういうわけか自分にも与えられるはずだと信じているのです。なぜかというと、自分はほかの人間より金持ち、イケメン、あるいは頭がいいと考えているから。「おれの時間はおまえたちより貴重なんだ」というわけです。そこでもし誰かが「みんなと同じように列に並んでください」と訴えても知らんぷりをしたり、逆ギレしたり。こういう人は、単に他人を見下しているのではありません。むしろ、相手にするに値しないと思っているのです。「おれの素晴らしさをわからないやつらなど、まるで話にならない」というふうに。

では、「あいつに比べたら自分はまし」と思わせてくれる存在として、バカに感謝
するっていうことはありませんか?

  • ジェームズたとえバカの扱い方がうまくなっても、相手に感謝できるようになるとは思えませんね。まあ、こちらを人間として尊重してくれるなら別ですけど。 バカをより深く理解できるようになったり、うまくあしらえるようになったりすれば、きっと喜びは感じるでしょう。その喜びは、わたしが一冊の本を書き終えた時に感じるのと同じものです。でも、こちらに対してこれっぽっちの敬意もなく、不愉快な理由で不愉快なことをする……そんな相手に感謝などできるはずがありません。不満と困惑を募らせるだけです。バカに会った日の夜、「我ながらうまい対応だった」「なかなかいいリアクションができた」と、ほくそ笑むことはあっても、感謝することはありえません。できることなら会わずに済ませたかった、と思うだけです。

自己奉仕バイアス :わたしが転んだのはヴォルテールのせい

  • このプロジェクトが成功したのはわたしが優秀だったからだ。失敗したのはみんなが協力してくれなかったからだ……。このように、成功した理由は自分にあり、失敗した原因は他人や外的要因にあると考える傾向を自己奉仕バイアス〉という。ちなみにフランスには昔から、失敗やミスをすると「それはヴォルテールのせい」と言う習慣がある。
  • 一方、これと似ていて混同しやすいのが〈根本的な帰属の誤り〉だ。こちらは、他人の言動は本人の気質や性格によるものとみなして、外的要因を軽視する傾向のことだ。たとえば、フィデル・カストロを支持する文章を書いた人は、たとえ他人から命じられて書いたのだと説明しても、カストロを支持していたはずだと思われがちだという(このことは一九六〇年代の実験で証明されている)。

錯誤相関 : コウノトリと赤ちゃん

  • たまたま同時に発生したふたつの出来事に相関があると思いこむことを〈錯誤相関〉という。コウノトリを見かけると、いつもその近所に赤ちゃんが生まれる……だが、これは単なる偶然の一致で、両者は相関関係にない。
  • 〈錯誤相関〉は日常的によく起こるバイアスだが、時に激しい議論の的になることもある。たとえば、ここ20年ほどで自閉症の症例が急増しているが、ちょうどこの時期にインターネット利用者が増えたので、ふたつの現象は相関関係(または因果関係)にあるのではないかと言われている。最初にそう発言したのは神経科学者のスーザン・グリーンフィールドだが、科学的根拠がないので専門家たちから批判の声が上がっている。

 

  • わたしたちは重要な情報をなおざりにして、どうでもよい情報を頼りに予測判断をしてしまうことがある。その時、わたしたちは自らの誤りに気づかない。自分が正しいと信じて間違いをおかしている。このような、予測判断の誤りは「バカ」とかなり似ているように思われる。
  • 一例としてここで、〈弁護士・エンジニア問題〉を紹介しよう。ある心理学者が、70人のエンジニア、30人の弁護士の計100人と面接をし、それぞれの特徴を紙に書きだした。そのうちのひとりの特徴は次のとおりだ。
  • 「ジャンは三九歳の男性。既婚者で、ふたりの子の父親だ。居住地の自治体の執行委員を務めている。趣味は希少本の蒐集。検定試験マニアで、他人と議論をしながら自分の考えをわかりやすく述べて、相手を説得するのが得意だ」
  • さて、ジャンはエンジニアだろうか、それとも弁護士だろうか?その確率は?
    この問いかけに対し、ほとんどの人が「ジャンは90パーセントの確率で弁護士だ」と答える。だが、正解は「ジャンは70パーセントの確率でエンジニア、30パーセントの確率で弁護士」だ。いったいなぜか? まず、ジャンが弁護士である可能性を推測するには、ふたつの情報が必要になる。
  1. 全体における弁護士数の比率(基準率)
  2. シャンの特徴が弁護士であることを示す可能性(個人情報)
  • (1)の情報はすでに提示されている。面接を受けた合計人数は一○○人で、弁護士は三〇人なので、ジャンが弁護士である確率は三〇パーセントだ。だが、(2)の情報は提示されていない。年齢、家族構成、趣味、特技……こうした「人物描写」のいずれも、ジャンが弁護士であることを証明してはいない。理論的に考えると、この「見知らぬ相手」であるジャンに関して、(2)の情報については以下のいずれかの立場をとるべきである。
  1. 情報が提示されていないので、正確な可能性はわからない。
  2. 可能性は不変。ジャンの特徴が弁護士であることを示す可能性と、エンジニアであることを示す可能性は同等である。つまり、(2)の情報を知ろうが知るまいが何も変わらない。
  • だが、このように考える人はほとんどいない。「そりゃそうだよ、ジャンはいかにも弁護士っぽいじゃないか。ちっともエンジニアタイプじゃないよ」と「バカバカしい」と思ってしまうのだ。

 

  •  無知は決して「バカ」ではない。そう主張する人たちは少なくないし、わたしもそれに同意したい。無知は学びの大きな原動力になりうるからだ。ただしそのためには、自分が無知であること、自分が知らないのは何であるかということに、きちんと気づく必要がある。一方、脳の情報処理における「バイアス」や、思考における「傾向」は、気づかずに見すごされてしまいがちだ。しかも問題は(そしてこれは大きな問題なのだが)、たとえわたしたちが自らの「バイアス」や「傾向」に気づけたとしても、なかなかそこから抜けだせないということだ。このこ
    とは、自らの考えに疑いを抱きにくい状況においてより顕著である。
  • 本物の「バカ」とは、自らの知性に過剰な自信を抱き、決して自分の考えに疑いを抱かない人間のことだ。哲学者のハリー・フランクファートが著書『ウンコな議論』(邦訳: 筑摩書房)で述べているように、バカは嘘つきより始末に負えない。嘘つきは真実が何であるかを知っているが、バカは真実には関心がないからだ。バカを撃退するには、相手を告発すること、つまり、相手を「バカ」と命名することが大切だ。自分自身に対しても、「バカ」という形容動詞をどんどん使っていきたい。そのことばが、自らの考えの誤りを認めた上での恥ずかしさの表れであるなら、それは気づきを得た証拠であり、自己修正のスタート地点となるからだ。同時に、他人に対しても「バカ」ということばを積極的に使いたい。冗談っぽく言ったり、皮肉をこめた口調で挑発したりすれば、相手への警告として役立つだろう。さらに相手が誤りに気づくきっかけを与え、自己修正を可能にするかもしれない。

占星術師や占い師による予言がいっこうに当たらない、偶然の一致すらしないのはどうしてなのでしょうか。

  • ゴーヴリ いえ、けっこう当たっているはずですよ。有名な占星術師のエリザベット・テシエは「2011年9月に何かが起こる」と予言していました。まあ、「11日」とも「テロ」とも言ってはいませんでしたが。占い師たちはたいてい「○年×月」「地震」「事件」など、予測しやすいことだけを言います。でも、「9月11日」は無理です。テシエは自らのことばに信憑性を与えるために、「わたしは飛行機事故も予言していた」とつけ加えました。それを聞いたある人が、コンピュータを使ってランダムに「いつ(年月)」と「何(事件)」を組み合わせて予言をしたところ、テシエより当たる確率がわずかに高かったそうです。これも〈誕生日のパラドックス〉と同じです。「いつ」をいくつかリストアップした上で「何」をひとつ予測すれば、ひとつやふたつの偶然の一致は起こりうるものです。

 

つまり、わたしたちは、目的や意図のない偶然も一定のルールにしたがうべきだと
思いがちなのでしょうか?

  • ゴーヴリ 時間だけでなく、空間についてもそうです。ランダムに選んだ日にちはバラつくはずだと思いこむように、ランダムに振り分けられた地点もバラつくのが当然だと思ってしまう。第二次世界大戦中の、ドイツ軍によるロンドン空爆がよい例です。ドイツ空軍の爆撃機は雲の上を飛んでいたので、パイロットたちからは地上がまったく見えませんでした。彼らが爆弾を投下した場所はまったくの当てずっぽうだったのです。ところが、イギリス軍の参謀本部で被弾地点を調べたところ、ほとんどがあるエリアに固まっていて、しかも標的とされるべき場所からことごとくはずれていました。そのため、イギリス軍は「ドイツ軍は間違った地図を使っているに違いない」と結論づけました。ところが、統計学的にデータを分析したところ、実際は被弾地点はとくに偏っていなくて、それなりにバラつきがあることがわかったのです。

 

でもあなたは、「人類がここまで生きのびられたのは、ある意味では認知の錯覚のおかげと言えるだろう」と述べていましたね。偶然の一致をそのままスルーせず、そこに何らかの意味を見いだそうとしたからこそよかったのだ、と。

  • ゴーヴリ 進化心理学者たちによると、どうやらわたしたち人類は、偶然の一致に敏感になりすぎてしまったようです。確かに大昔は、偶然の一致を見逃さないことが生きのびる上で重要でした。木の葉が動いているのを見たら、敵が隠れているかもしれないと思って逃げるほうが、誰もいないと思って動かないより、生きのびる確率は高くなります。偶然の一致に対しては、スルーするより過剰反応するほうがよかったのです。
  • 一方、科学研究とは、偶然の一致や相関関係を見つけて、そこに単なる偶然以外の理由を見いだそうとする行為です。非合理的とは言いませんが、まあ、リスキーなやり方です。必ずしも信頼できる結果にたどり着くとは限らないからです。たとえば、ある研究者が科学的に正しい方法で行なった実験で、「モーツァルトを聴くと頭がよくなる」という〈モーツァルト効果〉は真実だと結論づけました。ところが、別の研究者がこの結果を再現しようとしても、どうしてもうまくいかなかったのです。これはおそらく、単なる偶然の一致を有効だと錯覚した〈偽陽性》だったのでしょう。科学研究においてこうした錯覚はデメリットになります。

 

  • あるアンケート調査によると、自称ベジタリアンの60パーセントから90パーセントが、調査日に先立つ数日間のうちに、何らかの肉を摂取していたという。菜食主義に関する複数の調査でり、自称ベジタリアンの三分の二以上が鶏肉を、80パーセントが魚を、それぞれ時々食べていることが判明している。また同様の調査で、動物が苦しむようすを撮った映像を後で上映すると伝えると、多くの人が無意識のうちに肉摂取量を実際より少なく申告したという。消費者の中には、動物の苦しみを軽減するために、レッドミート(牛肉、豚肉、羊肉)を食べるのをや
    めて、代わりに鶏肉を多く食べるようにしたと言う者がいる。だが実際は、それによって消費される動物の数は逆に増えてしまう。たとえば、ウシ一頭分と同じ量の肉を得るには、ニワトリ一羽が必要になる。つまり、より多くの動物が苦しむはめになるのだ。

 

  • 夢はこうして、未来の不安に備える「バーチャルリアリティーとして役立っているのだが、実はそれ以外にも、現実世界にとって大事な役割を果たしている。わたしたちの記憶の中のネガティブな感情を分析し、その感情を記憶から取り除いて、重要な情報だけを保管する作業を行なっているのだ。カナダの精神科医、トーレ・ニールセンは、夢の役割のひとつとして、不安やトラウマを引き起こすネガティブな記憶の断片を、ニュートラルな状況と組み合わせながら再現することで、その記憶の持つイメージをやわらげることを挙げている。その働きを担う
    のは脳内のふたつの領域で、脳の奥のほうに位置する「扁桃体」と、前側にある「前頭前皮質内側部」だ。過去の記憶の不安要素が夢の中で再現されると、扁桃体が活性化して恐怖の感情を引き起こす。すると今度は、前頭前皮質内側部がこの不安要素を分析し(その不安要素を別のニュートラルな状況と組み合わせて再現させ、それほど恐ろしいものではないと確認させる)、恐怖をやわらげようとする。ところがこの時、その恐怖の感情が強すぎたり、精神状態が弱っていたりす
    ると、本人が目を覚ますことがある。これが「悪夢」だ。悪夢は、睡眠中に脳が感情を分析する作業が失敗したせいで起こるのだ。

 

  • カリエール ええと、そうですね、「愚か」な人の最大の特徴は、傲慢で横柄なところです。堂々と、自信たっぷりに、きっぱりとした口調で、ものすごくバカ
    げたことを言います。でも「バカ」は違います。迷ったりためらったりすることもあります。わたし自身、毎日のように「バカなこと」を言っていますよ。いえ、わたしだけでなくおそらくみんなそうでしょう。でも、なるべく「愚かなこと」は言わないようにしています。まわりに多大な迷惑をかける恐れがありますからね。たとえば、一部の人間を他の人たちと「区別」するような発言をするのは、バカと愚かのどちらでもありえますが、どちらかといえば愚かでしょう。本当はそうではないと知っている場合が多いからです。一方、「太陽は宇宙最大の天体だ」という発言はバカです。無知からそう言っているだけなので。ただし、そうではない証拠を突きつけられてもまだそう言い張っている場合、それは「愚か」です。あるいは「大バカ野郎」とも言います。でも驚くことに、バカがとても知的なことを言うこともあるんです、どういうわけか。

 文化が変われば、バカのタイプも変わるのでしょうか?

  • ナタン 文化は、バカがバカだとバレないための手段として利用されています。哲学を教えるなど、大勢の前で難しい話をするのもそうです。どんなにバカでも、教養さえ身につければ難しい思想を操れる。そうやってバカがバレないようにしているのです。
ある文化圏でバカで通っている人が、他の文化圏ではそうではない場合はあるのでしょうか?
  • ナタン どうでしょうね、それはわたしにはよくわかりません。会話を交わしたり、何かを作ったりすれば(本、道具、音楽など)、 バカはすぐにバレます。知性の欠如は行動に表れますから。でも、その行動が外から見て文化的であれば、バカを隠せる可能性が高くなります。たとえば、大学の哲学教授のほとんどは哲学者ではありません。哲学史を教えているだけです。「プラトンはああ言った、デカルトはこう書いた」としか言えない。「わたしはこう考える」と、自分の意見をきちんと言える者はひとりもいません。そんなことをしたらバカがバレるからです。哲学史は、知性の欠如を隠すのにうってつけの隠れ蓑です。
ところで、バカに打ち勝つ最善の策はなんでしょう?
  • ナタン そんなものはありませんよ。バカと戦うなんてもってのほかです。三十六計逃げるに如かず。わたしも逃げ回ってますよ。大学にはバカの専門用語が飛び交っています。わたしはお人好しで……いや、本当ですって!……まわりから見てもそうだとわかるらしく、すぐに攻撃の対象にされるのです。かつてわたしは、大学は研究と教育のための場だと信じていました。だからこそ、その一員になろうと決めたのです。ところが、ふたを開けたらこのありさまです。ひどいものですよ。それでも大学にいつづけたいと思うなら、とにかく鳴りを潜めているしかない。少しでも目立つことをすれば、すぐにターゲットにされます。出る杭は打たれるのです。バカはバカではない人間を嫌う。もしかしたらわたしもバカかもしれませんが、まわりからバカではないとみなされようものなら必ず攻撃されます。