身銭を切れ

  • あなたの考えではなく、ポートフォリオの中身を教えろ。
  • カモを見分ける最大のコツがある。出口ではなく映画館の大きさに目が行っているヤツは間違いなくカモだ。映画館で、たとえば誰かが「火事だ」と叫べば、人々は出口に殺到する。なぜなら、映画館から逃げ出したい人たちは、絶対に館内に残ろうとはしないから。これは、コーシャの戒律の順守や株式のパニック売りに見られるのとまったく同じ無条件性だ。
  • 科学もしかり。先ほど見たとおり、カール・ポパーの考えの背景には少数決原理がある。しかし、ポパーは少しばかり厳密すぎるきらいがあるので、彼の話は後回しにして、ここではもう少し愉快で陽気なリチャード・ファインマンについて話をしよう。
  • 彼は当時のもっとも頑固で遊び心にあふれる科学者だ。彼のエピソード集『困ります、ファインマンさん』は、コーシャの非対称性と似たようなメカニズムを通じて進歩していく科学の根本的な頑固さをうまく伝えている。どういうことか? 科学とは科学者の意見の総和ではなく、市場と同じように、かなり歪んだプロセスだ。いったん誤りだと証明された命題は、未来永劫ずっと誤りのままだ。科学が多数決で進められるとしたら、私たちはいまだに中世で足踏みをしているだろうし、アインシュタインは報われない趣味に没頭する特許庁職員のまま生涯を終えていただろう。

 

  • 人生とは犠牲とリスク・テイクだからだ。リスクを引き受けるという条件のも
    と、一定の犠牲を払わないかぎり、それを人生とは呼べない。取り返しが利くかどうかにかかわらず、実害をこうむるリスクを背負わない冒険は、冒険とは呼べない

 

  • 自称「知識人」たちは、ココナッツ島に行ってもココナッツを見つけられやしない。ヤツらは知性を定義できるほどの知性もないので、とたんに循環論に陥ってしまう。ヤツらの主なスキルといえば、自分と似たような連中が作った試験に合格し、自分と似たような連中が読む論文を書くことに尽きる。

 

科学と科学主義
  • 実際、私たちの生活を操る資格があると勘違いしている学者官僚たちは、医療統計であれ政策立案であれ、厳密性というものをまったくわきまえていない。ヤツらは科学と科学主義の区別がつかない。いやむしろ、ヤツらの目には、科学主義のほうが本物の科学よりも科学らしく映っているのだ。
  • たとえば、次のことは自明だ。キャス・サンスティーンやリチャード・セイラーのように、私たちをある行動へと誘導したがる連中は、すぐに物事を合理的、とか。非合理的 (または、望ましい手順やあらかじめ決められた手順と食い違うことを指す似たような言葉)と分類する。だが、そうした分類の大部分は、確率論への誤解や一次モデルの薄っぺらい利用に由来している。また、彼らは全体をその要
    素の線形的な総和と誤解する傾向がある。要するに、一人ひとりの個人を理解すれば集団全体や市場全体が理解できる、個々のアリを理解すればアリのコロニー全体が理解できる、と考えているわけだ。
  • この「知的バカ」は現代性の産物であり、少なくとも20世紀中盤から増殖を続け、今や局所的な上限にまで達している。私たちの社会は身銭を切らない連中に乗っ取られてしまっているのだ。大半の国々では、政府の役割は1世紀前と比べて5~10倍も大きくなった(GDPに対する割合で表現した場合)。知的バカは私たちの生活のあらゆる場所にいるが、いまだ少数派だ。シンクタンク、メディア、大学の社会科学系の学部といった専門化された場所以外では、めったにお目にかかれない。ほとんどの人はまともな仕事に就いているし、知的バカの枠はそう空きが多いわけでもない。だからこそ、知的バカは数が少ない割に大きな影響力を握っているのだ。
  • 知的バカは自分の理解が狭いのかもしれないとは思いもせず、自分の理解できない行動を取る人々を病気に仕立て上げる。ヤツらは人々が自分の最大の利益のために行動するべきだと考えていて、なおかつ自分が人々の利益をわかっていると思いこんでいる。とりわけ、相手が貧乏白人、だったり、イギリスの欧州連合脱退に賛成票を入れた母音の聞き取りづらい階級の人々だったりすれば、なおさらそうだ。
  • 知的バカは、庶民がその人自身にとって合理的な行動を取ったとしても、自分にとって合理的に見えなければ、「無教養」呼ばわりする。そして、私たちがふつう政治参加と呼んでいるものを、2種類の言葉で呼び分ける。ヤツらの好みに合えば「民主主義」、ヤツらの好みと食い違う投票行動を取れば「ポピュリズム」と。金持ちは納税1ドルにつき1票、もう少し人道的な人間はひとりにつき1票、モンサントロビイストひとりにつき1票と考えるが、知的バカはアイビー・リーグの学位、または外国のエリート学校や博士号ひとつにつき1票と信じている。ヤツらにとっては、それがクラブへの加入条件なのだ。
  • ニーチェはそういうヤツらを「教養俗物」と呼んだ。自分が博識だと思っている中途半端な博識家には、脳手術ができると思っている床屋と同じくらい、気をつけたほうがいい。そして、知的バカには詭弁を本能的に嗅ぎ分ける能力もない。
知的俗物
  • 知的バカは、俗物たちが進化、神経なんちゃら、認知バイアス量子力学についてもっともらしいことを語るためにある雑誌『ザ・ニューヨーカー』を購読している。ソーシャル・メディアでは絶対に罵らない。「人種の平等」や「経済的平等」について語るくせに、マイノリティのタクシー運転手とは決して飲みにいかない(ヤツらは決して真の身銭を切らない。声がれるまで繰り返すが、知的バカ
    は身銭を切るという概念にまったく無頓着だからだ)。
  • 現代の知的バカは、2回以上TEDトークに出演した経験があるか、ユーチューブで3回以上TEDトークを観たことがある。「当選するに値する」とかなんとかいう循環論法に基づいてヒラリーモンサント=マルメゾンに投票しただけじゃなく、彼女に投票しなかった者はみんな精神的に病んでいると思っている。
2種類の格差
  • 世の中には2種類の格差がある。
  • ひとつ目は、許容できる格差。たとえば、アインシュタインミケランジェロ、引きこもり数学者のグリゴリー・ペレルマンのように、社会に大きな利益をもたらすことがすんなりと理解できる英雄たちと一般人とのあいだの格差だ。この部類には、起業家、芸術家、軍人、英雄、歌手のボブ・ディランソクラテス、地元の現役の有名シェフ、マルクス・アウレリウスのような古代ローマの賢帝な
    ど、自然とファン」になってしまうような人たちが含まれる。まねをしたい、自分もああなりたいとは思っても、腹が立ったりはしない。
  • ふたつ目は、許容できない格差。一見すると自分と変わらない人間なのに、システムを操り、レントシーキングに勤しみ、不当な特権を得ている。うらやましくなくもないものも持っているのだが(ロシア人のガールフレンドなど)、とうていファンになる気はしない。一例を挙げると、銀行家、金持ちの官僚、悪徳企業モンサントの肩を持つ元上院議員、きれいに髭を剃り、ネクタイを締め、テレビで好き勝手なことをしゃべって、巨額のボーナスを受け取っている最高経営責任者など。人はそういうヤツらに妬みを覚えるだけでなく、ヤツらの名声に怒りを覚える。ヤツらが乗っている(中途半端な)高級車を見ただけで、苦々しい気持ちになる。自分がちっぽけな人間のように思えてくる。
  • 奴隷のくせに金を持っているというのは、どこかちぐはぐな印象を与えるのかもしれない。
  • 静的な格差とは、格差をスナップショットとして切り取ったもの。その後の人生で起こる出来事は反映されていない。
  • たとえば、アメリカ人のおよそ10パーセントは所得分布の上位1パーセントで最低1年間を過ごし、全アメリカ人の半数以上が上位10パーセントで1年間を過ごす。
    この状況は、より静的な(でも平等とされている)ヨーロッパとは目に見えて異なる。たとえば、アメリカのもっとも裕福な500人の国民や支配者層のうち、30年前もそうだったのは10パーセントにすぎない。一方、フランスでもっとも裕福な人々は、その3パーセント以上が相続人であり、ヨーロッパでもっとも裕福な家系の3分の1は、数世紀前も裕福だった。フィレンツェはもっとひどい。5世紀ものあいだ、まったく同じ一握りの家系が富を独占してきたのだ。
  • 動的(エルゴード的)な格差とは、将来や過去の人生すべてを考慮した格差。
  • 動的な平等を実現するには、単純に底辺の人々の生活水準を引き上げるのではなく、むしろ富裕層を入れ替わらせる必要がある。つまり、すべての人々にその地位を失う可能性を負わせることが必要だ。
  • 社会をより平等にするには、富裕層に身銭を切らせ、所得上位1パーセントから脱落するリスクを背負わせなければならない。
  • この条件は、単なる所得の流動性よりも強い。流動性とは、誰でも金持ちになれる可能性があるということだ。一方で、吸収壁がないというのは、いったん金持ちになってもずっと金持ちでいつづけられる保証はないという意味だ。
  • 動的な平等とは、エルゴード性を回復するもの。つまり、時間確率とアンサンブル確率が交換可能。
  • ここで、先ほど知識人が理解できていないと述べた「エルゴード性」について説明させてほしい。本書の最後にある第3章で詳しく説明するが、エルゴード性は確率や合理性に関連する重要な心理学実験のほとんどを無効にしてしまう。
  • 今のところは、直感的に説明すると次のようになる。まず、アメリカ総人口の断面写真を撮ろう。たとえば、上位1パーセントに属する少数派の富豪がいる。太っている人、背の高い人、面白い人、さまざまだ。そして、中の下の階級に属する多数派の人々がいる。ヨガの講師、パン職人、ガーデニングコンサルタントスプレッドシートの理論家、ダンスの講師、ピアノの修理師、そしてもちろ
    ん、スペイン語文法の専門家など。
  • ここで、それぞれの所得階層または資産階層の割合を考えよう(ふつうは所得格差のほうが資産格差よりも穏やかな点に注意)。完全なエルゴード性とは、一人ひとりが永久に生きると仮定した場合に、先ほどの断面図全体の経済的状況のもとで一定割合の時間を過ごすことを意味する。たとえば、10年間のうち、平均8年間を中の下の階級、10年間を中の上の階級、20年間を労働者階級、そして1年間を上位1パーセントの階級で過ごす、という具合だ。
  • 完全なエルゴード性の正反対は吸収状態だ。「吸収」という単語は、障害物に当たると吸収されたりくっついたりする粒子に由来する。吸収壁とは罠のようなもので、いったんなかに入ると、善悪は別として外には出られない。たとえば、ある人が何らかのプロセスを経て金持ちになると、それ以降は金持ちでありつづける。また、ある人がいったん中の下の階級に(上から)転落すると、どれだけ望んでかそこから這い上がって金持ちになるチャンスはない。金持ちを恨むのも当然だ。巨大な国家のトップに立つ人々には、ほとんど下方向への流動性がない。フランスのような国々では、国が大企業と手をつなぎ、経営幹部や株主たちが転落しなくてすむよう守っている。いやむしろ、彼らが上昇できるよう背中を押している。
  • そして、一部の人々にダウンサイドがないということは、残りの人々にアップサイドがないということなのだ。

 

  •  彼らは、お仲間どうしの査読によって成り立っている一流の学術誌とやらが、リンディ対応でないという事実に気づいていない。要するに、(現在の)一部の有力者が、ある人の研究を認めたにすぎないのだ。
  • それでも、自然科学はこの種の病理に対してまだ強いかもしれない。そこで、社会科学に目を向けてみよう。ある論文寄稿者を評価するのがその人の同僚、だけだとしたら、そこには相互引用の輪が存在することになる。これはあらゆる腐敗へとつながるだろう。たとえば、ミクロなたわごとよりもマクロなたわごとを言うほうが易しいので、マクロ経済学などはまるっきりでたらめな可能性もある。ある理論が本当に有効かどうかなんて知る由もないからだ。
  • ふつうは、バカなことを言えばバカだと思われる。でも、たとえば、人を集めて学術団体を作り、その3人が認めるバカなことを言えば、同僚の評価、に合格し、めでたく大学の学部を立ち上げられる。
  • 学問の世界は、(身銭を切らない人々のせいで)抑制を失うと、自己参照を繰り返す儀式的な論文発表ゲームへと変わっていく。
    現在、学問の世界はある種のスポーツ競技へと変わってしまったが、ウィトゲンシュクインにとっては、知識はスポーツ競技とは真逆のものだった。哲学の世界では、最後にゴールした者が勝者なのだと彼は言った。さらに、競争じみたものは何でも知識を破壊する。
  • ジェンダー研究や心理学といった一部の分野では、エージェンシー問題の性質そのものによって、儀式的な論文発表ゲームは少しずつ真の研究と無縁なものになっていき、やがてはマフィアばりの利害の食い違いへとつながる。研究者には研究者のやりたいことがあって、それは彼らのお給料を払っている顧客、つまり社会や学生たちが求めるものと乖離している。しかし、彼らの学問分野は外部の
    人にとっては不透明なので、彼ら自身が門番になれてしまう。経済を知っているというのは、実体経済という意味での経済ではなく、経済理論を知っているということなのだが、その経済理論のほとんとは、経済学者の作り出したたわごとにすぎない。
  • こうなると、勤勉な親たちが何十年もお金を貯めて子どもを通わせる大学の教育課程は、たちまち一種のファッションへと劣化してしまう。親が必死に働いて貯蓄したお金で、ポストコロニアル研究に基づく量子力学批評とか何とかいう訳のわからない学問を子どもに学ばせるはめになる。
  • しかし、一筋の希望はある。近年、こうしたシステムの行く末を暗示するような出来事が起きている。実世界で働いている卒業生たちが、笑止千万ないんちき学問分野への寄付を次々と打ち切りはじめているのだ(伝統的な学問分野のなかの笑止千万な研究のほうは、まだ首がつながっているが)。
  • 結局のところ、誰かがマクロ経済学者やポストコロニアルジェンダー研究の"専門家のお給料を支払わなくちゃならない。そして、大学教育は職業訓練施設と競争する必要もある。昔は、ポストコロニアル理論を学べば、フライドポテトを客席へ運ぶ以外の仕事にありつけた。今では、そうはいかない。
  • 自己の利益に反して
    いちばん説得力のある発言とは、本人が何かを失うリスクのある発言、最大限に身銭を切っている発言である。対して、いちばん説得力に欠ける発言とは、本人が目に見える貢献をすることもなく、明らかに(とはいえ無自覚に)自分の地位を高めようとしている発言である(たとえば、実質的に何も言っておらず、リスクも目していない大部分の学術論文はその典型例)。
  • でも、そこまで極端な考え方をする必要はない。見栄を張るのは自然なことだ。人間だもの。中味が見栄を上回っているかぎり、問題はない。人間らしく、もらえるだけもらえばいい。ただし、もらう以上に与えるという条件つきで。
  • 厳密な研究ではあるが同僚たちの意見と食い違う研究、とりわけ、研究者自身が名声への被害や何らかの代償をこうむるリスクのある研究こそ、より重要視するべきだ。
  • リスクを冒して、物議を醸すような意見を述べる著名人は、たわごとの押し売りである可能性が低い。

 

  • 研究活動の脱売春化は、最終的に次のようにして行われるだろう。
  • 研究を行いたい人には、ほかの場所から収入を得て、自分の時間で行っていただく。犠牲は必要だ。洗脳を受けた現代人からすれば暴論に聞こえるかもしれないが、『反脆弱性』を読んでいただければわかるとおり、プロフェッショナルでない人々、見せかけだけでない人々は、歴史的に巨大な貢献をしてきた。真の研究を行うには、まず実世界で本業を持つべきだ。最低でも10年間、レンズ製作者、特許審査官、マフィアの仕切り手、プロのギャンブラー、郵便配達員、看守、医者、リムジン運転手、民兵組織の構成員、社会保障局の職員、法廷弁護士、農家、レストランのシェフ、大型レストランのウェイター、消防士(私のオススメ)、灯台守などとして働き、そのあいだに独自のアイデアを練っていくのだ。
  • ある種、これはでたらめを排除するふるい分けのメカニズムだ。仕事がないと嘆くプロの研究者には、ちっとも同情しない。私は3年間、超多忙でストレスの溜まる仕事をフルタイムでこなしながら、研究や調査を行い、夜に最初の3冊の本を書き上げた。そんなわけで、キャリア作りのための研究活動というものが(いっさい)許せなくなった。
  • (ビジネスマンにとって利益が動機や報酬になるように、科学者にとっては名誉や名声が動機や報酬になるはずだという幻想がある。それは違う。科学の世界は少数決原理で成り立っている。ほんの一握りの人々が取り仕切り、その他大勢はバックオフィスの事務員に過ぎない。

 

  •  先ほど、身銭を切らなければ、生存のメカニズムは著しく阻害されると述べた。同じことは思想にも当てはまる。
  • カール・ポパーにとっての科学とは、一連の実証可能な主張ではなく、やがて観測によって否定されうる主張を行う活動である。つまり、科学は基本的に立証的ではなく反証的な性質のものだということだ。この反証のメカニズムは、完全にリンディ対応といえる。むしろ、反証にはリンディ効果(と少数決原理)の作用が必須なのだ。ポパーは静的な面は見ていたが、動的な面は研究しなかったし、物事のリスク面を見ていなかった。
  • 科学が機能するのは、どこかのオタクがひとりきりで導き出した正式な科学的方法, が存在するからでも、運転免許センターの視力検査みたいな試験に合格した何らかの"基準" があるからでもない。むしろ、科学的思想が耐リンディであり、それ自身の持つ内在的な脆さにさらされているからなのだ。思想は身銭を切らなければならない。ある思想が何の役にも立たなければ、その思想は不合格の烙印を押され、「時」による反証を受けることになるだろう(薄っぺらい反証主義、つまり政府の発行する白黒のガイドラインによって、ではなく)。ある思想が反証されないまま残りつづければつづけるほど、その思想の余命は長くなっていく。

 

  • ここで話は社会科学へと戻る。私はよく、思いついたことを数学的証明とともにササッと紙に書き留め、あとで論文として発表できるようどこかに投稿しておく。社会科学の論文のような薄っぺらい内容や、冗長で中味のない循環論法はいっさいない。経済学のように、内輪の引用ばかりで占められる儀式的ででたらめな分野では、体裁がすべてなのだということを発見した。私が今までに受け取
    った批判は、すべて内容ではなく見た目に関するものだった。論文の世界には、長い時間を費やして学ばなければならない一定の言語がある。そして、論文の執筆はその言語に基づく反復的作業にすぎない。したがって、
  • 論文の執筆や受験という儀式に参加してもらうことが目的でもないかぎり、決して学者を雇ってはいけない。

 

  • ここで紹介するヒューリスティックは、教育を逆向きに用いるという方法だ。つまり、実力がまったく同じだと仮定した場合、いちばん学歴の見劣りする人間を雇うのがいい。なぜなら、その人は自分よりも高学歴なライバルたちに混じって成功し、人よりもずっと高いハードルを乗り越えてきたという証拠だから。おまけに、ハーバード大卒でない人たちのほうが、実世界ではつきあいやすい。
  • ある学問分野がいんちきかどうかを見分けるお手軽な方法がある。その学問分野の学位の価値が、学校名に大きく依存しているかどうかを見ればよい。私はMBA課程に申しこんだとき、上位10校とかの校以外の学校に通うのは時間のムダだと言われたのを覚えている。一方、数学の学位の価値は、それと比べると学校名にあまり依存しない(ただし、一定のレベルを満たしていればの話だが。なので、
    このヒューリスティックは上位10校と上位2000校の違いに対しては成り立つだろう)。
  • 同じことは、研究論文についてもいえる。数学や物理学では、(投稿のハードルがもっとも低い)論文保存サイトarXivに投稿された研究成果でも十分に価値がある。しかし、学問としての金融論のような質の低い分野では(論文は複雑な物語形式を取っていることが多い)、論文の掲載された学術誌の名前だけが唯一の基準なのだ。

 

会話の成立条件

  • それどころか、私の意味する「友だち」を作りたいなら、金持ちは金を持っていることを隠したほうがいい。この話は割と知られているかもしれないが、実は学識や学歴も隠したほうがいい。人間は、地位や知識で相手の上に立とうとしない人としか、本当の友だちにはなれない。事実、バルダッサーレ・カスティリオーネの著書『宮廷人』にもあるように、相手と対等な目線に立つのは、古典的な話術だ。少なくとも会話をするうえでは、人間は平等でなければならない。相手と上下関係がなく、同じくらい会話に参加しないかぎり、会話は成り立たない。夕食をとるなら、教授ではなく友だちととるほうがいい。もちろん、その教授が会話術、を心得ているなら話は別だが。
  • これを一般化すれば、コミュニティとは、競争や階級に関するルールの多くが棚上げされ、集団の利益が個人の利益よりも優先される空間、と定義できるだろう。もちろん、外部との摩擦はあるだろうが、それはまた別の話。ある集団や部族の内部で競争が棚上げされるという考えもまた、エリノア・オストロムの研究した集団の概念のなかに存在していた。