知ってるつもり 無知の科学

帯は気持ち悪いので不要に感じました(誰かも知らないし)。中身は非常に素晴らしかったです。「無知の知」を現代的な認知科学で再定義した、というような位置づけでしょうか。意思決定モデルも個人的にはかなり新鮮でした。よく学歴社会(well-definedではない)の功罪という議論が日本でされますが、学歴社会が(とくに高学歴層の)無知を助長する可能性があるのは明確な問題だな、と読んでいて感じました。

 

  • 学問としての認知科学の歩みは、現代コンピュータのそれと重なる。ジョン・フォン・ノイマンアラン・チューリングといった偉大な数学者が今日のコンピューティングの基礎を構築するなかで、人間の脳も同じような仕組みで動いているのではないか、という問題意識が生じた。コンピュータにはオペレーティングシステムを動かす中央処理装置(CPU)があり、CPUは限られたルールに従ってデジタルメモリからデータを読み取ったり書き込んだりする。認知科学のパイオニアは、脳も同じような仕組みで動くと考えた。コンピュータがメタファー(比喩)となり、認知科学の研究の方向性を決めたのだ。
  • 思考は、人間の脳内で動くコンピュータ·プログラムのようなものと想定された。アラン・チューリングの功績の1つが、こうした発想を論理的に突き詰めたことだ。人間がコンピュータのような仕組みで動くのなら、人間と同じ能力を持つコンピュータをプログラミングすることも可能なはずだ、と。1950年に書かれた古典的論文「計算する機械と知性』は、「機械に思考は可能か」という問いを考察している。
  • ランドアーは1980年代に、コンピュータのメモリサイズを測るのと同じ尺度で人間の記憶量を評価してみることを思い立った。本書執筆の時点で、ノートパソコン1台には長期保存用としておよそ250~500ギガバイトのメモリが付いている。ランドアーはすぐれた方法をいくつか考案して人間の知識量を測定した。たとえば平均的な大人の語彙を評価し、それだけの単語を保存するのに何バイト必要か計算した。それに基づき、平均的な大人の知識ベースを算出したところ、得られた答えが0.5ギガバイトだった。
  • ランドアーは自分の計算結果が精緻であると主張はしなかった。ただ1ケタずれていたとしても、つまり知識ベースが1ギガバイトの10倍あるいは10分の1であったとしても、たいした量でないのに変わりはない。現代のノートパソコンの内蔵メモリと比べれば微々たる量だ。人間はおよそ知識のかたまりではない。
  • これはある意味、ショッキングな結果と言える。世界には知るべきことがたくさんあり、そしてふつうの大人ならばたくさんのことを知っている。テレビニュースを見ながら途方に暮れることもない。幅広い話題について知的な会話もできる。クイズ番組の『ジェパディー』を見れば、何問かは正答できる。少なくとも一カ国語は話せる。そんな私たちの知識が、リュックサックに入れて持ち運べるちっぽけな機械の数分の一ということはないはずだ。
  • しかしこの結果にショックを受けるのは、人間の脳がコンピュータと同じような仕組みで動くと考えるからにすぎない。私たちを取り巻く世界の複雑さを考えると、脳は記憶をコード化して保持する機械である、というモデルは崩壊する。覚えるべきことはあまりに多く、膨大な情報を記憶に保持しておいても意味がない。
  • 認知科学者はすでに、コンピュータを脳のメタファーとしてそれほど重視しなくなった。もちろん、このモデルが有効なケースもある。人間がじっくりと慎重に思考するとき、つまり直観的あるいは思いつきではなく一歩ずつ順を追って熟慮するときのモデルは、コンピュータ・プログラムに近いこともある。ただ今日の認知科学者は主に、人間とコンピュータはどう違うかを示すことに注力している。
  • 熟慮は思考プロセスの1つにすぎない。認知の大部介を占めるのは、意識下の直観的思考だ。そこでは膨大な情報が同時並行で処理される。たとえばある単語を探すときには、候補をひとつひとつ順番に検討するわけではない。自分の語彙、つまり脳内辞書を一括で調べ、たいていは探している言葉がトップに浮上する。これはフォン・ノイマンチューリングがコンピュータ科学と認知科学の草創期に思い描いていた演算モデルとはまったく異なる。
  • 人間とコンピュータの違いをより端的に示すのは、人間は思考するとき、メモリから読み書きする中央処理装置を使わないという点だ。本書の後の章で詳しく見ていくが、人間は自らの身体、自らを取り巻く世界、そして他者を使って思考する。身の回りの環境について知るべきことはあまりに多く、それをすべて自分の頭のなかに入れておくことは、どう考えても不可能だ。

 

  • 1950年代に、ジョン・ガルシアという心理学者が、どんな恣意的な関連性でも学習 できるという主張の問題点を指摘した。ガルシアの行ったある実験では、ネズミに与えるさまざまな刺激の組み合わせを変えてみた。最初に目ざわりな光の点滅を見せるか、甘い水を飲ませた。続いて電気ショックか、腹痛を与えた(水に混ぜ物を入れた)。ネズミたちは光の点滅と電気ショックの関連性と、甘い水と猛烈な腹痛の関連性をやすやすと学習した。しかし別の組み合わせの関連性を学習することはできなかった。つまり光の点滅と腹痛、あるいは甘い水と電気ショックの関連性は学習できなかったのだ。
  • 光を点滅させるメカニズムと電気ショックを引き起こすメカニズムは同じである。同じように添加物の入った水(たとえ甘いものであっても)は腹痛の原因になりうる。どちらの組み合わせも因果関係として筋が通っている。一方、別の組み合わせには合理性がない。なぜ甘い水を飲むと電気ショックが起こるのか、またなぜ光の点滅が腹痛を引き起こすのかは、理解しがたい。ネズミたちは合理的な因果関係のある刺激のあいだの関連性は学習できたが、恣意的な関連性は学習できなかった。ガルシアの研究は、ネズミたちは合理的な因果関係のある刺激の関係性は学習できるが、恣意的な関連性は学習できない傾向があることを示している。ネズミでさえ、苦しさの原因を解明するために、単純な因果的推論をするのである。
  • ネズミに単純な条件反射だけでなく、因果的推論が可能なのであれば、おそらく犬も同様だろう。パブロフの言うような関連づけは、恣意的な刺激の組み合わせのあいだでは起こらない。二つの刺激のあいだに因果関係が成り立ちそうな場合にかぎって成立するのである。
  • 因果的推論は、因果的メカニズムに関する知識を使って、変化を理解しようとする試みである。さまざまなメカニズムを通じて、原因がどのような結果に変わるかを推測することで、未来に何が起こるかを予想するのに役立つ。人間は自然と因果的推論をする・・・
  • 因果モデルは、日常生活のなかでさまざまな機械を操作する方法にも影響する。たとえば寒いと思うと、早く部屋の温度を上げようと、サーモスタット(温度自動調節器)の目盛りを一気に上げる人は多い。これは無駄な努力だ。なぜそんな行動に出るかといえば、特定の温度に到達する速さが設定温度によって変化する暖房システムの因果モデルを適用するからである。サーモスタットにも同じように高い目標を与えれば、もっと頑張って働くだろうという誤った考えを持っている。ある実験に参加した被験者の一人が、自らの誤解を次のように説明している。
  • きわめて単純な話だと思うよ。たぶんレバーの位置と、熱を生み出すシステムの動作状態には、なんらかの相関があるんだろう。車のアクセルを踏み込むのと同じようなものだ。ほら、たしか油圧システムが働いて、強く踏み込むほど多くのガソリンがエンジンに流れ込み、燃焼が激しくなり、車は加速する。だからサーモスタットも同じように、レバーを強くというかたくさん押したりひねったりすると、システムはパワーを上げて、より多くの熱を生み出すんだ。
  • 多くの人がこの因果モデルを直観的に思い浮かべるのは、日常生活でとにかく頻繁に経験するからであるのは間違いない。特定の結果を引き起こすメカニズムを、直接観察できるのは、まれである。
  • カニズムの多くは、小さすぎたり(たとえば水が沸騰して水蒸気となる原因である分子の変化)、抽象的すぎたり(たとえば貧困の経済的要因)、あるいはアクセス不可能(たとえば心臓が体中に血液を送る仕組み)で観察できない。ワクチンがどのように機能するのか、食料の遺伝子組み換えがどのように行われるのかを見ることはできないので、その欠落を自らの経験で補おうとする。それが誤解につながるのだ。
  • 必要十分完璧な因果的推論の能力を持ち合わせていないからといって、自らを責めるのは見当違いだ。あらゆる状況で正確な因果的推論をするためには、何が必要か考えてみよう。宇宙がどうなっているかを尽くすと同時に、物事がどのように変化するかについても完璧な知識がなければならない。世界は複雑であり、また物事の変化のパターンは限りなくあるので、どちらの知識も当然、完璧とはほど遠く、不完全で、不確実で、不正確なはずだ。現実世界についての知識は必然的に、自ら経験した部分に限られたものになる。また関心のないものより、自分にとって重要なものに知識は偏るだろう。

 

脳は知性の中にある

  • 知性はどこにあるだろう?たいていの人は、脳の中だと答える。人間の能力のなかで最もすばらしい「思考」は、きっと人間の器官のなかで最も高度な脳で起こるのだろう、と考えるのだ。この見方が正しければ、単純な作業をどのようにこなすかという解釈にも影響してくる。たとえば、じょうろのようなありふれた物の写真を見て、上下が逆さまか否かを判断するとしよう。写真を見て、 対象物が正しい位置に置かれているか、脳に相談するだけだ。その結果、写真に写った物が正しい位置な「イエス」、逆さまなら「ノー」と答える。
  • これを実験で行ったところ、「イエス」のボタンを左手で押した被験者と、右手で押した被験者がいた。ここまでは問題ない。この作業は簡単なもので、誰もが0.5秒ほどで回答した。しかしこの実験にはある仕掛けがあった。使われた写真には、一つだけ小さな違いがあった。それは判断に影響するはずのない違いだった。対象物が左向きの写真と、右向きの写真が混ざっていたのだ。たとえば被験者の半数は、じょうろの持ち手が右側に置かれている写真を、残りの半分は持ち手が左側に置かれている写真を見た。被験者がじょうろが上下正しい位置に置かれているかを判断するために、脳に保持された正しい上下関係の記憶だけを照会するのなら、持ち手が左と右のどちらに付いているかは影響しないはずだ。だが現実には影響した。「イエス」ボタンを右手で押すときには、持ち手が右側に付いているときのほうが左側のときより反応が速かった。そして左手で回答ボタンを押すときには、持ち手が左側に付いているときのほうが反応は速かった。
  • ここからわかるのは、持ち手が右側に付いている日用品の写真を見ると、右手のほうが使いやすくなる、ということだ。写真を見ると即座に、そして無意識のうちに、身体がそこに写った物を使う準備を始める。持ち手が本物ではなくても、つまり単に写真であっても、左手ではなく右手にサインが送られる。そして右手に行動を起こす準備ができているために、質問が単にじょうろの向きに関するもので、じょうろを使うことには何のかかわりがなくても、右手のほうが速く反応する。身体は、手に対象物を扱う準備をさせることで、質問の回答に要する時間に直接影響を与えている。私たちは質問の答えを脳から引き出すだけではない。体と脳は同調して写真に反応し、答えを引き出すのである。 
 
  • トニ・ジュリアーノとダニエル・ウェグナーが実験室で証明した。交際期間が三カ月以上のカップルに、コンピュータのブランドなど、さまざまな事柄を記憶してもらった。同時にカップルにはそれぞれの事柄について、二人のうちどちらが詳しいか評価してもらった(たとえば一人がコンピュータ・プログラマで、パートナーがシェフなら、前者のほうがコンピュータには詳しい)。その結果、カップルは記憶の任務を分担し、相手に相手の詳しい分野の記憶を任せる傾向があることが明らかになった。二人のうち、どちらかだけが詳しい事柄については、詳しいとされた方が記憶し、パートナーは忘れる傾向が見られた。パートナーの得意分野については、記憶しようという努力がおざなりになった。言葉を換えれば、相手の詳しい分野については、誰もが情報を記憶して思い出す役割を相手に委ねた。人は特定のコミュニティにおいて、自分が覚えるべきことを覚え、認知的分業に最大の貢献をしようとする傾向がある。他のことを記憶するのは、その分野のエキスパートに任せる。言語、記憶、関心をはじめ、すべての知的機能は認知的分業という原則に従い、コミュニティ全体に分散しながら働いていると考えられる

 

  • 科学的知識に関する質問から、一つ例を挙げよう。「抗生物質は細菌とウィルスの両方に効果があるのか」という質問だ。このような問いを使って科学へのリテラシーを評価すると、不正解だった50%のアメリカ人をどう教育すれば残る50%のアメリカ人のようにできるかと考えがちだ。あるいはもっと意地の悪い 言い方をすれば、いったい彼らの頭はどうなっているんだ?と思う。メディアの反応は意地の悪いほうに近い。科学技術指標が毎年発表されると、新聞にはこんな見出しの記事があふれる。「バカの極み。アメリカ人の4人に1人は地球が太陽の周りを回っていることを知らない」
  • しかし、これは重要な点を見落としている。この結果に対する別の視点として、正解した人々は本当にわかっているのかという疑問がある。実際には、抗生物質は細菌にしか効果がないことを知っている人も、たいていはそれを個別の事実として知っているだけであり、それ以上の詳しいことは知らない。細菌とウイルスの具体的な違い、抗生物質の働き、なぜ細菌には効果があるのにウイルスには効果がないかを詳細に説明できる人がどれだけいるだろうか。これは特段意外なことではない。ふつうの市民が何十という科学的トピックについて深い理解を持っていると考えること自体、現実的ではない。だからこそ知識のコミュニティに強く依存するのである。
  • 第三章では、個人の認知システムの働きは、因果関係の推論であることを見てきた。人間は因果モデルを構築し、それに基づいて推論をする。因果モデルは人間が世界の仕組みに対する理解に基づき、自らを取り巻く世界について思考し、推論する手段である。第四章では、個人の持つモデルはたいてい素朴で不正確なものであり、直接的経験によって偏りがあることを見てきた。こうしたモデルは私たちの態度を決定づける要因にもなる。
  • 一般的な因果モデルが誤った考えにつながる例を示そう。消費者調査を専門とするベロニカ・イリューク、ローレン・ブロック、デビッド・ファロは、多くの人が「負担の大きい作業をしていると医薬品の効果は速く薄れる」と考えていることを明らかにした。たとえば強壮剤を飲んだ後頑張って働いていると、そうではないときより効果が持続する時間が短くなると思っているのだ。現実には薬の効果が持続する時間は、服用した人がどれだけ活動しているかとは一切かかわりがない。しかし効果が速く薄れるというのは、直観的には正しいように思える。なぜなら医薬品の効果に対する因果モデルは、負荷が高まるほどリソースの減り具合が激しくなる他の分野のモデルに基づいているからだ。たとえば自動車で上り坂を進むときは平地を運転するときよりガソリン消費が増えるし、自転車では上り坂を行くときのほうが下り坂よりカロリー消費量が増える。誤解の影響は、抽象的なものにとどまらない。この誤った因果モデルのために、規定量以上に薬を服用する人もいる。
  • 本章の前半ですでに見てきたテクノロジー批判の事例に戻ろう。遺伝子組み換え食品は大きな議論を呼んできたテーマだが、米国科学振興協会によると、科学的にははっきりとした結論が出ている。「現代のバイオテクノロジーの分子技術による品種改良は安全である」と。EUでは遺伝子組み換え作物に対する反対はさらに強固だ。しかし欧州委員会ははっきりこう言っている。「過去25年にわたる500以上の独立した団体の調査結果を含む130件以上の調査から導き出される主な結論は、遺伝子組み換え作物を中心とするバイオテクノロジーそのものは、従来の植物交配技術などと比べて危険性は高くないというものだ」。それなのになぜ根強い反対意見があるのか。
  • 実態として、遺伝子組み換え作物への抵抗にはさまざまな理由があるが、組み換え技術の仕組みに対する誤った因果モデルがその一因であるのは明らかだ。あなた自身が遺伝子組み換え技術についてどれだけ理解しているか、しばし考えてみてほしい。たいていの人はあまりよく知らない。しかしこと遺伝子組み換え作物については、多くの人がかなりはっきりとした不安を抱いている。よくある不安の一つが汚染だ。われわれが行った研究では、回答者の25%が「食物に組み込まれた遺伝子は、その食物を摂取した人間の遺伝子コードに入り込む可能性がある」という文章を正しいと答えた。また確信は持てないが、正しい可能性があると回答した人も25%いた。実際には正しくないが、正しいと思っている人には恐ろしい話だろう。研究でこの文章が正しいと回答した人が、遺伝子組み換え作物に最も強い拒否反応を示した理由もここにある。
  • 遺伝子組み換え作物が人間のDNAに入り込むという説を信じない人でさえ、汚染に関する不安を抱いているようだった。別の調査では、登場する可能性のある遺伝子組み換え製品の例をいくつか示し、回答者の意見を尋ねた。それぞれの製品はどの程度容認できるか、また20%割高な遺伝子組み換えではない同等製品が買える場合、どちらを選ぶ可能性が高いかを尋ねた。回答者と製品との接触の度合いには差があった。ヨーグルトや野菜スープの素など口にするもの、ローションなど肌に塗るもの、そして香水など空中に噴霧するもの、さらには電池や断熱材などほとんど接触のないものもあった。回答者は口に入れるものについては遺伝子組み換え製品を容認しなかった。肌に塗るものについてはもう少し寛容で、空中に噴霧するものについてはさらに寛容だった。そしてほとんど接触しないものについては購入意欲がかなり高かった。どうやら遺伝子組み換え製品については、バイ菌と同じような感覚があるようだ。
  • 遺伝子組み換え作物に対する意識を決定づける要因としてもう一つ重要なのは、遺伝子を組み換えられる生物と、組み換えに使われる遺伝子を提供する生物との類似性だ。フロリダ産のオレンジの収穫量に影響を与えるカンキツグリーニング病の解決を目指す取り組みを見てみよう。カンキツグリーニング病は細菌が原因となって柑橘類の木が枯れる病気で、きわめて感染力が高い。感染速度は高く撲滅するのは難しい。フロリダのオレンジ産業の将来を懸念した生産者らは、遺伝子組み換え技術を使って病気への抵抗力を高める実験をしてきた。うまくいった方法の1つは、抵抗力を高めるタンパク質を生成するブタの遺伝子をオレンジに移植することだった。しかし生産者はこの解決法を採用しなかった。ブタの遺伝子を含む果物など、消費者は絶対に買わないと考えたためだ。消費者はきっと、遺伝子組み換え作物は移植された遺伝子が生成するタンパク質の影響を受けるだけでなく、ドナー(提供側)生物の特徴を他にも引き継ぐと思うだろう。つまりこのケースでは、オレンジが少し豚肉っぽい味になると想像するのではないか。
  • オレンジ生産者の懸念は、おそらく正当なものだったのだろう。実験室での研究では、まさにそうした影響が確認された。被験者はレシピエント(受容側)とドナーの類似性が高いときのほうが、類似性の低い組み合わせより遺伝子組み換え作物を受け入れる傾向が高かった。別の研究では回答者のほぼ半数が、ホウレン草の遺伝子を挿入したオレンジはホウレン草のような味がすると答えた(そんな味はしない)。
  • 遺伝子組み換え技術がどのようなものか、少しでも知識があれば、こんな懸念は抱かないはずだ。しかしどれも確かに直観的には正しそうだ。たいていの人は遺伝子組み換え技術がどのようなものかはよく知らないので、知識の空白を他の分野で学習した因果モデルによって埋めようとする。遺伝子組み換え作物に抵抗する理由は他にもある。環境への影響を懸念する人もいれば、巨大企業が強力なテクノロジーを手に入れることを不安視する人もいる。漠然とした不安を抱く人もいる(「こんなに新しいテクノロジーはどんな影響が出てくるかわからない」など)しかし誤った因果モデルはこの問題において重要な役割を果たしている。
  • 物議を醸しているテクノロジーは他にもあり、やはり仕組みに対して誤った因果モデルを当てはめていることが反発の原因となっている可能性がある。たとえば食物に高エネルギー放射線を照射して殺菌する食品照射だ。何十年にもわたる研究によって、食品照射が安全で、食物由来の病気を減らすのに有効であり、保存可能期間を伸ばすのに役立つことが証明されている。しかしこのテクノロジーの普及は進まない。放射と放射能の混同が、抵抗感を強める原因となっている。放射とはエネルギーの放出を意味し、可視光線マイクロ波などの照射も含まれる。一方、放射能とは不安定な原子が崩壊し、生物に対して危険な高エネルギー放射線を発生させる能力を指す。食品照射に反対する理由を聞かれると、放射線が食品に「残留」し、汚染するという不安を口にする人が多い。この不安にはなんの科学的根拠もない。
  • 研究者のヤンメイ・チェン、ジョー・アルバ、リサ・ボルトンは、この不安を和らげる方法を模索した。比較的効果があった方法は、このテクノロジーの名前を放射能を想起しないものに変えることだ。たとえば「低温殺菌」という呼び方をすると、受容度は大幅に高まった。もう一つの方法は、人々の因果モデルを修正するような比喩を使うことだ。たとえば食品照射を、太陽光が窓ガラスを透過するようなものだと説明すると、テクノロジーへの評価は改善した。おそらく太陽光が窓ガラスに残留しないことは明白だからだろう。
  • 仕組みに対する誤った理解が抵抗につながっている可能性があるもう一つの事例がワクチンだ。ワクチン接種に反対する理由として最もよく挙がるのが、ワクチン接種と自閉症に関連があるという説だ。この説が誤っていることは証明されているが、懸念は依然として残っている。反対派が槍玉に挙げるのは、一部のワクチンの材料として使われている水銀を含む化合物「チメロサール」だ。この懸念には一抹の真実はある。水銀がきわめて有害であり、摂取すると恐ろしい影響があることは子供でも知っている。ワクチンに使われる水銀の量は、有害な影響を引き起こすようなものではないが、やはり体内に入れるのは怖い気がする
  • ワクチン反対派からよく聞かれるもう一つの主張は、健康的な生活を送ることがワクチンの代わりになる、というものだ。ここにも一抹の真実はある。生活習慣によって免疫力を高められるというエビデンスは存在する。ただその効果がどのような性質のもので、どれだけ強力なのかはわかっていない。生活習慣がワクチン接種の代わりになるという考えは、免疫システムの仕組みをあまりに単純化しすぎている。免疫システムは、汎用的な防護メカニズムと、特定の感染体を標的とするさまざまな抗体の両方によって成り立っている。ワクチンは特定の感染体に対する免疫を付与するものであり、特定の生活習慣を選ぶことでそうした効果が得られるというエビデンスはない。
  • 知識の欠乏を埋める:人の信念を変えるのは難しい。なぜならそれは価値観やアイデンティティと絡みあっており、コミュニティと共有されているからだ。しかも私たちの頭の中にある因果モデルは限定的で、誤っていることも多い。誤った信念を覆すのがこれほど難しい理由はここにある。コミュニティの科学に対する認識が誤っていることもあり、その背景に誤った認識を裏づけるような因果モデルが存在することもある。そして知識の錯覚は、私たちが自分の理解を頻繁に、あるいはじっくりと検証しないことを示している。こうして反科学的思考が生まれる。
  • 解決の道はあるのだろうか。カリフォルニア大学バークレー校の心理学者、マイケル・ラニーはここ数年、地球温暖化について一般の人々を啓蒙し、また科学的知見を積極的に受け入れるようにする方法を模索してきた。本書の読者はもはや意外に思わないだろうが、ラニーが最初に発見したことの一つは、一般の人々は地球温暖化の仕組みを驚くほどわかっていないということだった。ある研究では、カリフォルニア州サンディエゴの公園で200人ほどに声をかけ、いくつかの質問を通じて気候変動のメカニズムの理解度を探った。大気中の温室効果ガスによって熱がこもるなど、部分的に事実を語れた人はわずか12%にとどまった。メカニズムを、包括的かつ正確に説明できた人は一人もいなかった。
  • 続いてラニーは、情報を伝える方法を模索した。一連の実験では、被験者に温暖化の仕組みについての、400ワードという短い初歩的な説明文を読んでもらった。それによって人間が引き起こす気候変動についての被験者の理解度と受容度は大幅に高まった。こうした結果に基づき、ラニーは短い動画を使って地球温暖化を説明するウェブサイトをつくっている。ビデオの長さは、視聴者が自由に選べる。「詳細版」を選んでも五分以内で終わり、さらに短いものはわずか52秒でこの現象をざっと説明する。初期のテストでは、こうした動画は意図された効果を達成していることが明らかになった。
  • ラニーの研究結果は将来への期待を抱かせる。しかし簡単な働きかけによって、社会がウォルター・ボドマーの思い描いたような科学を愛するユートピアに突如変貌を遂げると信じるほど、われわれもおめでたくはない。それでも欠乏モデルを諦めるのも早計だろう。本章の教訓は、科学への理解や意識を大きく変えたいのであれば、その欠乏の背後要因を理解する必要がある、ということだ。人々にとって、頭の中にある因果モデルと矛盾するような新たな情報は受け入れがたく、否定されやすい。信頼する人の意見と矛盾するような情報であれば、なおさらだ。しかしメカニズムすら理解していない新たな知見については、否定するのは難しい。ラニーの取り組みが大きな成功を収めたのは、気候変動のメカニズムを説明することに注力したためかもしれない。人々の誤った信念を正す第一歩は、自分やコミュニティの科学に対する認識がまちがっている可能性に気づかせることだ。自分が間違っていることを良しとする人はいないのだから。

 

政治について考える

  • 2010年に成立した医療費負担適正化法(通称「オバマケア」)ほど、アメリカ国民(と政治家)を熱くさせたテーマは近年まれである。この法律をめぐっては幾度となく議論が繰り返され、共和党バラク・オバマ政権の失策の一つとして槍玉に挙げた。連邦議会共和党勢力は法律を廃止あるいは変更しようと、何度も投票にかけた。ただこれほどの盛り上がりと対立を生んだにもかかわらず、法律を理解していた人はほとんどいなかった。2013年4月にカイザーファミリー財団が行った調査によると、アメリカ国民の40%以上が医療費負担適正化法が法律であることすら認識していなかった(国民の12%は議会で廃止されたと思っていた。そんな事実はない)。
  • だからといって一般国民が同法に対してはっきりとした立場を表明できないわけではない。2012年、最高裁判所が同法の主要な条項を支持する判断を下した直後、ピュー・リサーチ・センターは判決への賛否を問うアンケートを実施した。当然ながら賛否は真っ二つに分かれた。36%が賛成、40%が反対、24%が意見を表明しなかった。アンケートではさらに最高裁の判決がどのようなものであったかを尋ねた。すると正解したのは、回答者の55%にすぎなかった。15%は最高裁は法律を違法と判断したと回答し、30%がわからないと答えた。つまり回答者の76%が最高裁判決に賛成か反対か明確に答えたにもかかわらず、そもそもの判決の内容をわかっていたのは全体の55%にすぎないということだ。
  • 医療費負担適正化法は、もっと根本的な問題が表面化した一例にすぎない。世論は、問題に対する国民の理解度からは説明できないほど極端になる、というのがそれだ。アメリカ国民のうち、2014年のウクライナに対する軍事介入を最も強く支持したのは、世界地図上でウクライナの位置すら示せない人々であった
  • もう一つ例を挙げよう。オクラホマ州立大学農業経済学部は消費者を対象に、遺伝子組み換え技術を使った製品は表示を義務づけるべきか尋ねた。80%近い回答者が義務化すべきと答えた。この結果は一見、法制化を進めるべきという有力な根拠のように思える。消費者は希望する情報を与えられるべきだし、その権利もある。
  • しかし同調査の回答者の80%は、DNAを含む食品についても法律によって表示を義務化すべきだと答えた。購入する食品にDNAが含まれているか、消費者には知る権利がある、と。首をひねっている人のために改めて言っておくと、あらゆる生物にDNAが含まれているのと同じように、ほとんどの食品にはDNAが含まれている。調査の回答者の意見を踏まえれば、すべての精肉、野菜、穀物に「注慐 DNAが含まれています」と表示しなければならなくなる。しかしDNAが含まれている食品をすべて避けていたら生きていけない。
  • 遺伝子組み換え食品に表示を付けるべきだと主張しているのが、DNAを含むあらゆる食品に表示を付けるべきだと言うような人々だとしたら、その意見はどれほど傾聴に値するのか。主張の信頼性は薄れるような気がする。大多数の人が特定の意見を支持しているからといって、そうした意見がきちんとした理解に基づいているとは限らないようだ。概して、問題に対する強い意見は、深い理解から生じるわけではない。むしろ理解の欠如から生じていることが多い。偉大な哲学者で政治活動家でもあったバートランド・ラッセルはそれを「情熱的に支持される意見には、きまってまともな根拠は存在しないものである」と表現している。クリント・イーストウッドはもっと直截的だ。「過激主義とは簡単なものだ。自分の意見を決めたら、それで終わり。あまり考える必要がない」
  • なぜ人はよく知らない問題について、それほど熱くなるのか。ソクラテスはそれについて、「政治専門家」に対する回答のかたちでこう答えている。
  • しかし私自身はそこを立去りながら独りこう考えた。とにかく俺の方があの男よりは賢明である、なぜといえば、私達は二人とも、善についても美についても何も知っていまいと思われるが、しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていないからである。されば私は、少くとも自ら知らぬことを知っているとは思っていないかぎりにおいて、あの男よりも智慧の上で少しばかり優っているらしく思われる。
  • この男は自らが何も知らないことをわかっていない、とソクラテスは批判している。私たちの多くがそうであるように、この人物も自分が思っているほどは知らなかった。
  • 一般的に私たちは、自分がどれほどモノを知らないかをわかっていない。ほんのちっぽけな知識のかけらを持っているだけで、専門家のような気になっている。専門家のような気になると、専門家のような口をきく。しかも話す相手も、あまり知識がない。このため相手と比べれば、私たちのほうが専門家かということになり、ますます自らの専門知識への自信を深める。
  • これが知識のコミュニティの危険性だ。あなたが話す相手はあなたに影響され、そして実はあなたも相手から影響を受ける。コミュニティのメンバーはそれぞれあまり知識はないのに特定の立場をとり、互いにわかっているという感覚を助長する。その結果、実際には強固な支持を表明するような専門知識がないにもかかわらず、誰もが自分の立場は正当で、進むべき道は明確だと考える。誰もが他のみんなも自分の意見が正しいことを証明していると考える。こうして蜃気楼のような意見ができあがる。コミュニティのメンバーは互いに心理的に支え合うが、コミュニティ自体を支えるものは何もない。
  • 社会心理学者のアービング・ジャニスはこの現象を「グループシンク(集団浅慮)」と名づけた。グループシンクについての研究では、同じような考えを持つ人々が議論をすると、一段と極端化することが明らかになっている。つまり議論をする前に持っていた見解を、議論の後には一段と強固に支持するようになる。ある意味では群れの心理と言えるだろう。
  • 誰もがあらゆるトピックに精通すべきだと 言っているわけではない。そんなことは不可能だ。たった1つのトピックに精通するだけでも大変だ。世界はあまりにも複雑で、個人の理解を超えるものであることはすでに見たとおりだ。私たちは知識のコミュニティに生きており、コミュニティを機能させるには認知的分業が必要だ。コミュニティに共有の知識を確保するには、個々の問題について信憑性のある有識者が専門家の役割を果たす必要がある。誰もがすべてを知っている必要はない。
  • コミュニティが医療のあり方について意思決定をするときには、医療を最も効率的かつ効果的に実践する方法を最もよくわかっている人々が指南役を務めるべきだ。新たな道路を建設すべきかを決めるときには、土木技師の意見を仰ぐべきで、コミュニティはその意見を信頼する必要がある。専門家は自らの願望をコミュニティに押しつけてはならない。それはコミュニティ自体が決めるべきものだ。専門家はどのような選択肢があるのか、それぞれを選んだ場合の結果について、コミュニティが理解するのを助けることができる。
  • これはエリート主義だろうか。専門家が必要だというわれわれの訴えは、独自の利益を持つ知識階層の必要性をうたっているにすぎないのだろうか。たしかに専門家に頼ることも、新たな厄介ごとを引き起こす。専門家が、精通しているトピックについて個人的な利害を抱えていることも多い。医療について最も詳しい人々は、医療産業にかかわっていて、医療のあり方に金銭的利害を持つケースも多い。技師が道路を建設したがるのは、それを生業としているからかもしれない。道路建設が増えれば、自分たちの実入りが増える。
  • もっと表面化しにくい利害もある。学者が提供するアドバイスは、状況に対する客観的で冷静な分析に基づくものではないかもしれない。学者が、自らの理論的立場に固執するのは周知の事実だ。経済学の教授が自由貿易協定に署名するべきだとアドバイスするのは、自由市場の重要性を説く記事を発表しているためかもしれない。心理学者は実際の子育て経験がないのに、最新の学習理論に基づいて育児に関するアドバイスをするかもしれない。二人の認知科学者が、誰もが知識の錯覚のなかで生きていると主張する本を書くのは、自分たちが無知であるという苦痛をやわらげるためかもしれない。
  • 専門知識を持っているのは誰か、またその専門知識に偏りがないかを判断するのは難しい。しかし解決不可能な問題ではない。社会には、それに役立つさまざまな仕組みが備わっている。専門家には、その知識や信頼性を示す他者からの推薦の扉がある。経歴や評判を確認し、評価することもできる。インターネット上の情報に正しいという保証はないが、専門家に対してその顧客が評価を寄せるためのウェブサイトがいくつも存在し、かなりの有効性を発揮している。十分な数の顧客が存在し、また専門家に関する評価を集め、報告するサイト自体の信頼性が確認されれば、この仕組みはうまく機能するかもしれない。専門家の信頼性を確保するほうが、あらゆる人に専門家になることを求めるよりまちがいなく実現性が高く、実際それはこの社会的問題を解決する唯一の方法だ。
  • 判断は専門家に任せるべきである、政府は専門家の意見に耳を傾けるべきであるといった考え方は、アメリカ政界に根強い考え方に逆行する。20世紀初頭のアメリカが直面していた最も重大な問題の一つは、国家の富と権力が少数の企業や利益団体に集中していたことだった。多くの州議会が、こうした強力な利益集団に支配されていた。そうしたなか直接民主主義の手法を使って、州議会に対する企業の政治的影響を排除しようとする動きが沸き起こった。こうして州や自治体の市民が議会の頭越しに直接投票し、政治家の手から権力を奪うような投票方式が生み出された。直接投票方式には、「イニシアティブ(住民発案)」「プロポジション(住民提案)」「レファレンダム(住民投票)」などさまざまな形態があり、それは多くの州で今日も積極的に活用されている。
  • こうした民主的な投票方式は高邁な精神から出発したものだが、皮肉なことにその多くにも問題はある。なぜならそうした直接提案をまとめ、推進するプロセスは、特定の利益団体に支配されることがあるからだ。悪名高い例の一つが、2015年の住民発案「カリフォルニア州男色禁止法案」だ。そこには同性の相手と性的関係を持った人物は「頭部への銃弾によって抹殺する」という規定もあった。幸い、この法案自体が裁判所によって抹殺された。しかしこうした例は、直接民主主義もほかの統治形態と同じように恣意的な意見操作の対象となりうることを示している。
  • 市民の直接投票という仕組みに対して批判的になるべき理由は多い。われわれが最も懸念しているのは、こうした手法は知識の錯覚を考慮していないからだ。個々の市民が、複雑な社会政策に対してしっかりとした情報に基づく判断を下すだけの知識を持っていることはめったにない(たとえ本人たちがそう思っていたとしても)。すべての市民に投票権を与えることで、群衆の英知のよりどころである、優れた判断に役立つ専門家の知識がかき消されてしまう可能性がある。
  • 知識の錯覚を打ち砕くことは人々の好奇心を刺激し、そのトピックについて新たな情報を知りたいと思わせるのではないか、と期待していた。だが実際にはそうではなかった。むしろ自分が間違っていたことがわかると、新たな情報を求めることに消極的になった。因果的説明は錯覚を打ち砕く効果的な方法だが、人は自分の錯覚が打ち砕かれるのを好まない。たしかにヴォルテールもこう言っている。「錯覚にまさる喜びはない」と。錯覚を打ち砕くことは無関心につながりかねない。誰もが自分は有能だと思っていたい。無能だと感じさせられるのはまっぴらだ。
  • 優れたリーダーは、人々に自分は愚かだと感じさせずに、無知を自覚する手助けをする必要がある。容易なことではない。目の前の相手だけでなく、誰もが無知であることを示す、というのが一つのやり方だ。無知というのは純粋に自分がどれだけ知っているかという話である。一方、愚かさというのは他者との比較である。誰もが無知なのであれば、誰も愚かではない。
  • リーダーのもう一つの任務は、自らの無知を自覚し、他の人々の知識や能力を効果的に活用することだ。優れたリーダーは個別の問題について深い知識を有している人々を周囲に配置し、知識のコミュニティを形成する。それ以上に重要なのは、優れたリーダーはこうした専門家の意見に耳を傾けることだ。意思決定 をする前に、時間をかけて情報を集め、他の人々と相談するリーダーは、優柔不断で頼りなく、ビジョンがないと思われることもある。世界は複雑で容易に理解できないものであることを認識しているリーダーを、きちんと見極めようとするのが、成熟した有権者である。

 

  • 個人の知能を測定するのは、個々の自動車部品の品質を調べるようなものだ。
    それぞれの部品を、さまざまな高度な検査手法でチェックする。重量、強度、新しさ、輝きを測り、価格を確認する。そうすると個々の要素のあいだに比較的高い相関性があることがわかる。つまり良い部品は悪い部品と比べて良い材料でできており、また軽く、強度が高く、新しく、輝きがあり、価格も高い。どのテストの結果も、他のテストのそれと相関性がある。知能テストと同じだ。そして測定値には何らかの意味がある。具体的には、自動車部品の品質の優劣だ。
  • しかし、それが私たちの最も知りたいことだろうか。おそらく自動車について一番知りたいのは速度、燃費、信頼性といった車としての特性である。部品の特性そのものにはさほど関心はない。質の高い部品そのものが欲しいのではなく、部品が優れていれば最終製品である車の質が高くなるため、それを求めるのだ。

 

  • 創業初期のハイテクベンチャーを支援する主要なインキュベーターの1つである、
    Yコンビネーターの例を見てみよう。Yコンビネーターの戦略は、ベンチャー企業が当初のアイデアを頼りに成功をつかむことはめったにない、という発想に基づいている。アイデアは変化する。だから一番重要なのは、アイデアではない。アイデアの質よりはるかに重要なのは、チームの質である。優れたチームは、市場の実態を調べて優れたアイデアを見つけ、その実現に必要な作業を遂行することによって、ベンチャー企業を成功に導く。優れたチームは、個人の能力を活かすようなかたちで役割を分担する。Yコンビネーターがたった1人の創業者しかいないベンチャーへの投資を避けるのは、役割を分担するチームが存在しないためだけではない。その理由は、あまり知られていないが、チームワークの根幹にかかわるものだ。一人ぼっちの創業者には、仲間をがっかりさせまいとする「チームスピリット」を発揮する機会がない。チームは物事がうまくいっていないときほど頑張ろうとする。それはお互いが励まし合うからだ。チームのために頑張るのである。
  • 知識のコミュニティに生きているという事実を受け入れると、知能を定義しようとする従来の試みが見当違いなものであったことがはっきりする。知能というのは、個人の性質ではない。チームの性質である。難しい数学問題を解ける人はもちろんチームに貢献できるが、グループ内の人間関係を円滑にできる人、あるいは重要な出来事を詳細に記憶できる人も同じように貢献できる。個人を部屋に座らせてテストをしても、知能を測ることはできない。その個人が所属する集団の成果物を評価することでしか、知能は測れない。

 

  • 学校での学びは、学生にとって大切な目標とは乖離している。学校で習う読み書き、計算を未来の人生でどのように応用していけるのか、学生にはわからないことが多い。行動のための学習ではなく、学習のための学習を余儀なくされているのだ。教育関係者が、学生たちが読んだものを理解しないと嘆くことが多い一因も、ここにあるのだろう。真剣に読んだつもりの資料を理解していない事実を突きつけられ、衝撃を受けるのは学生も同じだ。理解度を確認するテストの出来の悪さに、本人たちも驚く。資料にじっくり目を通し、自分ではよく理解したつもりでいるのに、内容に関する基本的な質問にすら答えられない。この現象はきわめて一般的で、「説明深度の錯覚」を彷彿させる「理解の錯覚」という呼称もあるほどだ。
  • 理解の錯覚が起こるのは、人は「見たことがある」あるいは「知っている」ことを、「理解している」ことと混同するためだ。ある文章をざっと読むと、次にそれを見たときには「見たことがある」と感じる。最後に見たときから、かなり時間が経っていてもそう感じる。極端な例では、心理学者のポール・コラーズが被験者に文字がすべて上下逆さまになっている文章を読ませたところ、一年以上経ってもその文章を見たことのない文章より速く読めたというケースもある。その文章をどのように読むべきかという記憶が、一年以上経っても残っていたのだ。
  • 学生たちにとって・・・この「見たことがある」という感覚は、実際に資料を理解していることと混同しやすい。

 

  • 私たちが知識の錯覚に陥るのは、専門家の知識を自分自身の知識と混同するからでもある。他の誰かの知識にアクセスできるという事実が 自分がその話題について知っているかのような気分にさせる。同じ現象が教室でも起きている。子供たちは必要な知識にアクセスできるため、理解の錯覚に陥る。必要な知識は教科書や教師の頭の中、そして自分より優秀な仲間の頭の中にある人間はすべての科目に秀でるようにはできていない。コミュニティに参加するようにできている(これも偉大なるジョン・デューイが何年も前に指摘していることだ)。
  • 認知的分業のなかで自分にできる貢献をし、知識のコミュニティに参画することが私たちの役割ならば、教育の目的は子供たちに一人でモノを考えるための知識と能力を付与することであるという誤った認識は排除すべきだ。

 

  • 自分が何を知らないかを理解する良い方法は、対象となる分野に関連する仕事をすることを通じてそれを学ぶことだ。科学者は自らの分野の最先端で研究をする。わかっていないことを、わかっていることに変えるのが彼らの仕事だ。このため科学者の行動様式を身につければ、わかっていないことが何かわかるようになる。さまざまな分野の学会が、科学教育にこのアプローチを導入するよう提唱している。米国社会科会議は、歴史家が研究するように、歴史を学習させることを提唱している。米国学術研究会議(NRC)は「科学の本質」教授法と呼ばれる科学教育の理念を推進している。科学教育は実際の科学を再現するものであるべきだ、学生には現実の科学研究の手法と一致する方法で科学を学ばせるべきである、という考え方だ。しかし、言うは易く行う、は難しで、NRCの提言はほとんど無視されている。
  • 主要な科学誌(その名も《サイエンス》という)の編集長によると、大学レベルの初歩的な科学の授業も、科学研究の手法ではなく事実を覚えることに偏重しているという。小学校や高校のレベルでは、問題はさらに深刻だ。教育理論家のデビッド・パーキンスは「科学の教科書は表層的でまとまりのない情報が詰め込まれ、分厚くなっている」と指摘。その一因として、多くの人が自らの思惑を通そうとすることを挙げている。異なる利害を持つ団体や学者が、それぞれ自分の関心分野を教科書に含めるべきだと主張する。何が重要かをめぐり、あらゆる人の意向を満足させようとする結果、教科書は魂(奥深い統合的な原理)を欠いた事実や概念のごった煮になり、最終的には誰も満足しない代物になる。
  • 著者らに多少土地勘のある科学というテーマについて、もう少し詳しく見ていこう。科学の研究は、実際にどのように進められるのだろうか。実は科学者というものは、実験室にこもって自然界の謎を解き明かそうとしているわけではない。科学研究はコミュニティで行われる。認知的分業があり、さまざまな科学者がそれぞれの専門分野のエキスパートとして貢献する。科学的知識は科学者のコミュニティ全体に分散している。この分業とは、個々の科学者には多少の知識があり、知識は全員の貢献の総和であるという事実を指すだけではない。認知的分業は常に進行中だ。科学者のなすことすべてに、コミュニティはかかわっている。科学者が使うあらゆる手法、あらゆる理論、そして科学者が生み出すあらゆる発想は、コミュニティがもたらしている。
  • 科学における結論の大部分は、観察にも推論にも基づいていない。権威、すなわち教科書や学術誌の記事に書かれていること、知り合いの専門家の言葉などに基づいている。直接立証するのに時間やコストがかかりすぎる、あるいはそれが難しすぎる場合に、事実を提供することも知識のコミュニティの役割の一つだ。私たちの知識の詳細な部分は、ほとんどが知識のコミュニティによってまかなわれている。科学者もそうでない人も含めて、あらゆる人の理解は他の人々の知識に依拠している。だから学生にとっては事実や立証を自分で覚えておくこと以上に、わかっていることは何か、立証できることは何かを理解するほうが重要なのだ。
  • 科学者が真実と考えることの大部分は、信じる気持ちに支えられている。神への信仰ではなく、他の人々が真実を語っているという信頼である。ただ宗教と違うのは、科学では「真実」とされるものに疑問が生じたときに、よりどころとすべきものがあることだ。それは立証の力である。科学的主張の真偽は確認することができる。科学者が研究結果を偽ったとき、あるいは間違いを犯したとき、最終的にはそれは露見する。なぜならそれが重要な問題であれば、誰かがその結果を再現しようとし、それが不可能であることに気づくからだ。
  • 科学者は真実を求めるが、その日々の行動を支配するのは真実の探求より、知識のコミュニティに付随する社会生活だ。ある研究者が成功できるか否かは、研究室でどれだけ重要な発見をするかだけで決まるわけではない。そうした結果を重要な学術誌に発表できなければ、ハーバード大学で終身在職権を得て、そこで研究を続けることはできない。つまり重要な発見をすることと同じぐらい、その発見の重要性を他者に納得させることが欠かせない。有名雑誌に論文を載せてもらうには、査読者や編集者にその価値を認めてもらわなければならない。このように科学者は絶えず互いの貢献の質を評価しあっている。そして好むと好まざるとにかかわらず、評価は社会的プロセスだ。

 

  • 商業市場は、説明嫌いの人々は詳細な情報を嫌うという性質を巧みに利用している。たいていの広告は、できるだけ曖昧な宣伝文句を使う。消費者が共感しそうな人物(どこにでもいそうな建設作業員)や、マネしたいと思うような人物(セクシーな目つきの色男)を広告の目玉にして、虚偽の説明を避けつつ製品の利点を曖昧な言葉で表現する。
  • スキンケアも説明嫌いの希望に沿うことで成り立っている業界の顕著な例だ。美容会社はほとんど医学的根拠がないにもかかわらず「DNAを修復する」「20歳若く見せる」などとうたったちっぽけなクリームの瓶にとんでもない値段をつけ、大儲けしている。なぜそんなことができるのか。エセ科学的な専門用語を使い、エビデンスらしきものを示すというのがその手口だ。産業そのものがエセ科学に立脚している。「肌科学クリニック」などともっともらしい名称をつけて、高度な画像装置や「肌質か析ソフトウェア」のような一見すばらしいテクノロジーを採用しているが、そこには医学的価値のあるエビデンスは一つもない。すべてスキンクリームを売るための仕掛けである。
  • 誤解を招くような主張や質の低い説明を私たちが簡単に受け入れてしまうのは、
    避けられない部分もある。意思決定の多くは、世界の仕組みについての推論を必要とする。どのダイエットが一番効果的なのか、どのタイヤが雪道に一番強いのか、退職後に備えるにはどの投資商品が最適なのか、推測しなければならない。世界はあまりにも複雑なので、誰もがあまりにも多様な意思決定と向き合わな
    るければならず、およそ一人でその細部をすべて理解することはできない。バンドエイドを買いに行くたびに細菌の代謝プロセスについて調べなければならないとしたら、痛む傷をそのままにしておこうとする人も多いだろう。だからたいていは良さそうな選択肢をさっさと選ぶ。そしてたいていはそれでうまくいく。

あとがき

  • 本書の前半では、人間の知識や知的活動とは本質的にどのようなものかを探究する。まず私たちの知識がどれほど皮相的なのかを、さまざまな認知科学の研究をもとにあぶり出す。代表例が「説明深度の錯覚」に関する実験だ。トイレやファスナーなど日々目にする当たり前のモノについて、被験者に「その仕組みをどれだけ理解しているか」答えさせる。続いてそれが具体的にどのような仕組みで動くのか説明を求めると、たいていの人はほとんど何も語れない。知っていると思っていたが、実はそれほど知らなかった。著者らはこれを「知識の錯覚」と呼び、さまざまな心理現象のなかでこれほど出現率の高いものはない、という。
  • しかし、だから人間がダメだと言っているわけではない。私たちを取り巻く世界はあまりに複雑ですべてを理解することなどとてもできない。そこで人間の知性は、新たな状況下での意思決定に最も役立つ情報だけを抽出するように進化してきた。頭の中にはごくわずかな情報だけを保持して、必要に応じて他の場所、たとえば自らの身体、環境、とりわけ他の人々のなかに蓄えられた知識を頼る。このような、人間にとってコンピュータの外部記憶装置に相当するものを、著者らは「知識のコミュニティ」と呼ぶ。知識のコミュニティによる認知的分業は文明が誕生した当初から存在し、人類の進歩を支えてきた。
  • これが知識の錯覚の起源である。思考の性質として入手できる知識はそれが自らの脳の内側にあろうが外側にあろうが、シームレスに活用するようにできている。私たちが知識の錯覚のなかに生きているのは、自らの頭の内と外にある知識のあいだに明確な線引きができないためだ。できないというより、そもそも明確な境界線など存在しないのだ。
  • 知らないことを知っていると思い込むからこそ、私たちは世界の複雑さに圧倒されずに日常生活を送ることができる。そして互いの専門知識を組み合わせることで、人間は原子爆弾やロケットのような複雑なものを作りあげてきた。人工知能
    (AI)の進歩によって人間を超える超絶知能(スーパーインテリジェンス)が誕生すると言われるが、著者らは真の超絶知能とは知識のコミュニティだと主張する。クラウドソーシングや協業プラットフォームなどテクノロジーの進化によって、今後その潜在力が発揮されるようになるだろう、と。
  • しかし知識のコミュニティは両刃の剣だ。本書の後半ではその危険性と、それを克服する道筋を考察している。トイレやファスナーの仕組みを理解していなくても、まず実害はない。しかし社会的、政治的問題となると話は違う。著者らは「社会の重要な課題の多くは、知識の錯覚から生じている」と指摘し、それを示す衝撃的な例をいくつか挙げている。
  • なぜ理解もしていない事柄に、明確な賛否を示すことができるのか。それは私たちが自分がどれだけ知っているかを把握しておらず、知識のよりどころとして知識のコミュニティに強く依存しているからだ。「コミュニティのメンバーはそれぞれあまり知識はないのに特定の立場をとり、互いにわかっているという感覚を助長する。(中略)こうして蜃気楼のような意見ができあがる。メンバーは互いに心理的に支え合うが、コミュニティ自体を支えるものは何もない」と著者らは指摘する。これは社会心理学者のアービング・ジャニスが「グループシンク(集団浅慮)」と呼んだ現象で、同じような考えを持つ人々が議論をすると、グループの意見は先鋭化することが示されている。
  • 知識の錯覚の特効薬はないが、一つの手段として著者らが期待を寄せるのは行動経済学である。2017年にシカゴ大学リチャード・セイラー教授がノーベル経済学賞を受賞したことで改めて注目が集まっているが、その特徴は伝統的な経済学とは異なり、「人間は必ずしも合理的判断をするわけではない」という前提に基づいていることだ。だから自然と合理的選択に誘導するように「ナッジ(そっと押す)」すべきであり、それには環境を選択的にデザインする必要があるという考え方をする。
  • 私たちは自分が思っているよりずっと無知である。合理的な個人という今日の民主政治や自由経済の土台となってきた概念自体が誤りであった。そんな身も蓋もない事実を突きつける本書ではあるが読後感は不思議と爽快である。それは本書終盤の、本当の「賢さ」とは何かという議論とかかわっている。これまでは個人の知能指数(IQ)によって賢さを測ろうとしてきた。しかし人間の知的営みが集団的なものなのであれば、「集団にどれだけ貢献できるか」を賢さの基準とすべきではないか、と著者らは言う。記憶容量の大きさや中央処理装置(CPU)の速度といった情報処理能力と並んで、他者の立場や感情的反応を理解する能力、効果的に役割を分担する能力、周囲の意見に耳を傾ける能力なども知能の重要な構成要素とみなすべきである、と。
  • 脳内CPUの性能には、生まれつき個人差があるのかもしれない。ただ私たちの知識のコミュニティが向き合うべき問題の複雑さに比べたら、個人のCPUの性能の違いなど誤差の範囲である。それ以上に重要なのは、身の回りの環境、とりわけ周囲の人々から真摯に学び、知識のコミュニティの恩恵を享受しつつ、そこに貢献しようとする姿勢である。それによって生まれつきのスペックにかかわらず、知性を磨きつづけることができる。