漫画2020下期

トニカクカワイイ、アニメ見れてないんですが、どうせカワイイんでしょう。貴重な癒やし枠。女子高生の導入も正解。メインストーリーはやや重めで、かくしごと的なバランス感。4/5

ふらいんぐうぃっち、天才。キャラ力がすごい。ちょっとしたキャラの自然な掛け合いにセンスを感じる。5/5

深夜のダメ恋図鑑、しばらく非現実な創作エピソードが続いていて食傷気味でしたが、本巻では不自然なエピソードが少ない&諒くんがこれまでの報いを受けていてよかったです。3/5

魔法科高校の優等生、終わらないでくれ、もちろんすべてを優等生サイドで描いてくれなんてわがままは言わない。俺達が求めているのは横浜編のリメイクなんだ。頼むからもう少しだけ続けてくれってマックで女子高生が言ってた夢を見た。4/5

ヒナまつり、不条理漫画が無事完結。ぶっちゃけ最後のほうはさっぱり面白くなかったけど、終わらせるためには仕方ない。ギャグ漫画なのに成長要素を組み込んだことにびっくりしました。最後まで瞳ちゃんのための漫画でした。1/5

ゴブリンスレイヤー、こいついつもゴブリン屠ってるな。3/5

ダーウィンズゲーム、破綻せずに長期連載し、しっかりと完結に向けて進んでいる、ただそれだけで評価できる漫画。アニメ化でもう少し跳ねるかなとも思ったけど、今後も頑張って欲しいです。4/5

異世界のんびり農家、キャラ数はもう十分すぎるので、天使族のエピソードなど、既存キャラの掘り下げをどんどんやってほしいです。今後も期待しています。4/5

ギャグマンガ日和GB、とりあえず4巻まで読みました。5巻は後でポチります。3/5

からかいファミリー、天才。全然飽きません。4/5

七ツ屋志のぶの宝石匣、メインストーリーが面白くないので、11巻で読むのを中断しました。1/5

失格紋の最強賢者、11巻で読むのを中断しました。1/5

スコップ無双、今期のニューカマー、書き込みの凄まじさとストーリーのバカバカしさのアンバランスさがすごいです。4/5

宇宙兄弟、着実に完結に向かっているので、しっかりと見守っていきたいです。2/5

無職転生、テンポが悪いです。辛くなってきました。2/5

異世界迷宮でハーレムを、ちょっとアダルト成分が強めでした。ようやくサリーが登場。今後も期待です。4/5

ガチャを回して、ニューカマー、4巻まで読みました。漫画ってキャラの導入が難しいわけですが、この方法なら脈絡無しで導入できてお手軽ですね。もちろん作品を選ぶわけですが、発明として評価したいと思います。ストーリーはありがちなので、もっと工夫が必要です。3/5

化物語、無印終わったあと何やるのかなと思ったら、タイトル同じでこよみヴァンプ傷物語)に突入は嬉しい誤算でした。お墨付きのある原作の面白さに、週刊連載とは思えない美麗な作画。5/5

公式の時系列はこちら

www.monogatari-series.com

SPYFAMILY、やはりこの作品は短編のほうが向いてますね。キャラの活かし方もうまくなってきていて、よい感じです。想定読者層は割り切ってもう少し引き上げてしまったほうが、書きたいものが書けるのでは?やや中途半端です。3/5

1日外出録ハンチョウ、幽体離脱から筋トレ、科博などなんでもあり、せこいけど面白いけどせこい。これはもうこち亀の後釜と考えるべきなのか。国民的漫画の後釜がスピンオフ漫画なんかでいいのか(しかも地下の強制労働施設の住人で、しかも・・・)、という疑問はあるけれど。4/5

THE NEW GATE、ちゃんとメインストーリーを進めつつ、サブストーリーも進めるというバランスが見事です。最強キャラ設定にすると、仲間育成系にするか、レイドボスにするか、力以外の強さの次元を加えるか(幽遊白書の仙水編序盤とか)くらいしか戦闘のバリエーションがないのが悩みどころでしょうか。なにか新機軸を発明すれば、名作の仲間入り。3/5

 

ブルーピリオド、連載続くと聞いて、「え、芸大受験漫画じゃなかったの!?」と思ったんですが、入学後も面白さが継続していてすごいな、と。芸大ってちゃんと講義受けるんだ!という驚き(かくかくしかじかとアオイホノオ対比)。間違いのない漫画です。4/5

マージナル・オペレーション、この作品のゴールが見えねぇ。3/5

聖☆おにいさん、ここに来てゼウスはせこいよ。ネタの宝庫やんけ。4/5

アオイホノオ、尾東さんは本当にこれで終わりなのだろうか、これまで出てきた女性の中ではホノオに一番合ってそうなのに。3/5

ウィッチクラフトワークス、惰性で買っている。どこかで読み返して、ストーリーを確認しないといけない。キャラが多すぎて対立関係が複雑で意味不明。2/5

蜘蛛ですが、なにか?、テンポが良すぎて読者が焦る。3/5

無職転生ロキシーだって本気です~、あんまりおもしろくない。2/5

キングダム、14巻もやってたのか、この戦い・・・。信の屋敷EPは笑いました。4/5

邪剣さんはすぐブレる、何もかもすべてが茶番の茶番漫画という新たなジャンルを開拓した偉大な漫画。4/5

異世界おじさん、安定の面白さ、隙がない。5/5

大きくなったら結婚する、ニューカマー、高木さんと同じ癒やし枠。仁王兄弟がいい味出してる。「お前との出会いは可能性じゃなくて不幸だよ」5/5

葬送のフリーレン、ニューカマー、ストーリーが面白い。設定もしっかり、アウラの造形が個人的にツボ。末永くよろしくお願いします。5/5

ちはやふる、九頭龍さんのEPの入れかたといい、サブエピソードの組み込み方が複雑技巧の極致。完結に向けて前進あるのみ。3/5

ゴブスレ外伝、外伝も一切の手抜きなし、すべてに驚きの重厚感。3/5

異世界居酒屋のぶ、一時期ストーリーの比重が強めになってやきもきしたけど、居酒屋パートとのいい距離感を掴んだみたいでよかったです。3/5

俺の現実は恋愛ゲーム??、すぐに飽きると思いきや、意外に先が気になっていつの間にやら二桁巻突入。かなり無理のある世界観のたたみ方次第では名作になるかも。こういう系は投げっぱなしで世界観の説明もなく終わる傾向があるので、それだけは心配している。

リモンスター、宮廷編はいまいち素材を活かしきれてないのか面白みに欠けるなぁ。折角の巨大戦力なんだから、派手さのない宮廷政治ちまちまやってないで、キングダム的な大決戦見せてくれないかな。3/5

無能なナナ、アニメの出来も上々で喜ばしい限り。本編はシフトチェンジして、展開次第では一気に駄作になりそうな危うさをはらみながらの進行。双子EPは可もなく不可もなく、これまでの延長線上なので、ここからが構想力問われる段階。3/5

ぐらんぶる、ケバ子の恋模様に興味がある読者はいるのか?2/5

(次に書く)ランウェイを全巻買いに行ったとき、買い忘れてたことに気づいて購入。1月に出てたのね。復活おめでとう。釘宮EPがメイン、多々良の進化はおまけ。読み応え抜群。復活ありがとう。4/5

ランウェイで笑って、アニメが面白かったので最新刊まで一括購入。なんで何の賞も取ってないのかまったく理解できないくらい面白い。アニメよりドラマ化がハマりそう。5/5

現実主義勇者の王国再建記、シナリオアイデアは面白いと思うんだけど、表層的で頭悪い感じの見せ方になっていて残念。原作のせいなのか漫画化の過程でこうなったのかは不明。2/5

ダンまち外伝、前巻より引き続きベートさんの過去を中心にハード目のエピソード。レナちゃんがウザ可愛かっただけに、この結末は悲しい。4/5

終わりのセラフ一瀬グレン、こちらもかなりハードな展開。ついでにXの続き書いてくれないかな。3/5

鬼滅の刃、レビュー開始時から比べるとすっかりと立派になられ、今や日本経済の柱になられた鬼滅の刃様が無事完結、外伝のおまけ付き。ぶっちゃけ最終戦はらしさが感じられず、完成度としては不完全燃焼気味でしたが、作者の熱情が感じられたので、これはこれでよかったです(下手に引き伸ばされるよりは1億倍ましだしね)。3/5

銀河英雄伝説、オリジナル設定のフェザーン回廊が素晴らしいです。このくらい独自色を出してくれても全然だいじょうぶです。原理主義者の人は文句を言うのかもしれませんけど。それにしてもエヴァンゼリンはなんかかなり軽薄でアホな子になってしまいましたね。そしてグリーンヒルの「もっと言って」はフジリュー版最大の見所です。

19巻はコロナ禍にもかかわらず軽薄なパフォーマンスの繰り返しで実行的な解決手段をまったく打たない政治家だらけの国に居住している国民として、同情を禁じえません。いつかアイランズのように惰眠から目覚めてスーパー政治家に覚醒してくれるんでしょうか笑。 5/5

平和な時代の薄汚れた利権政治家は死に燃えて灰となって消えた。そしてその灰の中から彼の内部で死滅していたはずの民主主義政治家としての精神が力強くはばたいて立ち上がったのである!!彼の名は半世紀の惰眠よりも半年間の覚醒によって後世に記憶されることになる

アルスラーン戦記、面白いけど銀河英雄伝説と比べると迫力感が足りないですよね。絵が綺麗すぎるせいなのか、演出の問題なのか。4/5

最果てのパラディン、早く核となるメインストーリーが欲しいです。3/5
 
娘の友だち、Web広告でたまたま読んだら緻密な心理描写にどっぷりと沼にはまってしまい、全巻購入。最新話はWebで追って、12/31に完結したので読了し、今に至る。完結はやや拍子抜けしたものの、中盤の毒毒しさのままで突き抜けられたら胸焼けがすごそうだし、このくらいでいいのだろう。ただ、ぶっちゃけ何も解決しておらず、もやもや感は残る。おざなりだが、次回作に期待せざるを得ない。4/5

 

 

 

 

 

漫画を大量に買うなら、豪邸に住んでいない限りkindle一択です。無印kindleは容量と解像度に問題があるので。Paperwhiteがおすすめです。

 

最も賢い億万長者

上巻

  • シモンズは、才能のある研究者を引き抜いて部署内で管理する独特の方法に目を見張った。ほとんどが博士号を持つ所員たちは、何か特定の専門的技能や知識でなく、知力と創造力と志の高さを理由に雇われていた。研究者に求められていたのは、取り組むべき問題を自分で見つけることと、それを解決できるほどに賢いことだった。熟練した暗号解読者だったレニー・バウムは次のようなフレーズを作り、それが研究所のスローガンとなった。「悪いアイデアは良い。良いアイデアはすごく良い。アイデアがないのはとんでもない」

 

  • シモンズはお金のために必死で働いたが、それは借金を返すためだけではなかった。真の裕福さというものを心から欲していたのだ。高級品を買うのが好きだったが、金遣いが荒いわけではなかった。バーバラもお金のことでとやかく言わず、高校時代の服をそのまま着ていることも多かった。 シモンズを掻き立てたのは、また別の動機だったようだ。世界に何かしらインパクトを与えたいと思っているのではないか、そう友人たちは勘ぐっていた。富があれば独り立ちして影響力を発揮できると、シモンズは思っていたのだ。
  • 「ジムは若い頃から、お金が力になることをわきまえていました。他人の力に従うのは嫌がっていました」とバーバラは言う。
  • ハーバード大学の図書館で腰を掛けると、それまでの人生に対する疑念が再び浮かび上がってきた。シモンズは考えた。何か別の仕事をしたらもっと満足感と刺激が得られて、もしかしたらある程度の富も手に入るかもしれない。少なくとも借金を返せるほどには...。
  • 積もり積もるプレッシャーに、ついにシモンズは耐えきれなくなった。そして新たな道へ進む決心をした。

 

  • 有能な候補者を誘い込むにつれて、シモンズは才能ある人物について独自の見方を取るようになっていった。ストーニーブルック校の教授ハーシェル・ファーカスに話したところによると、一つの事柄に集中して、答えにたどり着くまで数学の問題を解くことをあきらめないような「キラー」を、シモン ズは高く買っていた。別の同僚には、「超優秀」でも独自の考え方をしないような学者はこの大学にはふさわしくないと語った。「学者は大勢いるし、本物も大勢いる」 

 

下巻

  • いかにもウォール街にいそうなタイプは避けた。そのような人たち自体に反感を持っていたわけではなく、もっと優れた才能の持ち主をウォール街以外の場所で見つけられると確信していただけだ。
  • 「お金のことは教えられるけど、賢さを教えることはできない」とパターソンは説明する。
  • さらに、銀行やヘッジファンドを辞めてルネサンスに入社してきた人は、投資の世界に馴染みのない人と比べて、何かのきっかけでライバル会社に移ってしまうことが多いと、パターソンは同僚に語った。 シモンズは社員全員が互いの業務内容を積極的に共有するよう求めていたので、これはきわめて重要な点だった。社員がその情報を持って競争相手のところへ逃げ出してしまわないことを信じるしかなかったのだ。
  • 最後に一つ、パターソンがとくにこだわったことがある。現状の仕事でつらい目に遭っている人材がふさわしいというのだ。「賢いけど不幸せそうな人を選んだのさ」とパターソンは言う。

 

  • 彼らが開発したマシンがチェスの世界チャンピオンを破れば、世間の注目を集められるというのだ。しかもチームのメンバーはIBMの研究の手助けもしてくれ
    るかもしれないと、ブラウンは説いた。
  • IBMのお偉方はこのアイデアを気に入り、スーパーコンピュータ「ディーブ・ソート」計画を進めるそのチームを雇い入れた。だがこのマシンが次々に勝利して関心が集まるにつれ、批判の声が湧き上がってきた。このチェスマシンの名前を聞いた人々は、ポルノ黄金時代の先駆けとなった1972年制作の有名なポルノ映画『ディープ・スロート』を連想したのだ(詳細は差し控えよう)。IBMが重大な問題に直面しているのに気づかされたのは、こんな日のことだった。カトリックの大学で教えていたチェスチームのあるメンバーの妻が、年上の修道女である学長と話をしていた。するとその学長が、「IBMの驚きのディープ・スロート・プログラム」と何度も呼びつづけたのだ。
  • 会社はチェスマシンの新たな名前を決めるコンテストを開き、ブラウン本人が提案したディープ・ブルーが選ばれた。IBMの昔からの愛称ビッグ・ブルーに掛けた呼び名だった。それから数年後の1997年、数百万人がテレビの画面を見つめる中、ディープ・ブルーはチェスの世界チャンピオン、ガルリ・カスパロフを破り、真のコンピュータ時代の到来を人々に気づかせたのだった。

 

  • メグリオンに携わる社員たちは1997年までに、統計的に有意な金儲け戦略、彼らが呼ぶところの「トレーディングシグナル」を発見するための三段階のステップを確立していた。第一ステップは、過去の価格データの中に異常なパターンを見つけること。第二ステップは、そのアノマリーが統計的に有意で、時間経過にかかわらず一貫していて、ランダムでないのを確かめること。第三ステップは、特定されたその価格の挙動を合理的な方法で説明できるかどうかを見極めることである。
  • しばらくのあいだルネサンスは、研究者自身が理解できるようなパターンにもっぱら賭けていた。ほとんどのパターンは、価格や取引規模などの市場データのあいだの関係性におけるもので、投資家の過去の挙動などの要因に基づいていた。

 

  • 「企業どうしは複雑な形で互いに結びついているのだから、そのような関係性は必ず存在する。その相互関連性はモデル化して精確に予測するのが難しいし、刻々と変化する。ルネサンス・テクノロジーズが開発したマシンは、この相互関連性をモデル化して、その振る舞いを時々刻々と追跡し、価格がそれらのモデルから外れたと思われたときに賭ける」
  • 外部の人にはあまり理解されなかったが、本当の成功の鍵は、これらの要因や力をどのようにして残らず自動トレーディングシステムに組み込むかという、工学的な面にあった。ルネサンスは何千行ものソースコードに基づいて、ポジティブなシグナル(多くの場合は散発的な複数のシグナル)を示した株式を一定の数量買い、ネガティブなシグナルを示した株式を空売りした。
  • ある上級社員は次のように語る。「この株が上がるだろうとか下がるだろうとか說明できるような、個別の賭けはしない。どの賭けも、ほかのすべての賭け、わが社のリスクプロファイル、そして、近い将来または遠い将来に予想される行動に基づいて決まる。それは巨大で複雑な最適化計算であって、その前提となっているのは、未来を十分に精確に予測すれば、その予測に基づいて儲けることができるし、リスクやコスト、影響や市場構造を十分に理解すれば、徹底的にてこ入
    れできるという考え方だ」
  • ルネサンスが何に賭けていたかと同じくらい重要なのが、どのように賭けていたかである。何か儲けにつながるシグナル、たとえばドルが午前9時から午前10時までに0.1パーセント値上がりするというシグナルを見つけても、時計の針がちょうど9時を指したときにドルを買ってしまったら、ほかの投資家に、その時刻になったら必ず値が動くということを悟られかねない。そこで、その一時間のあいだに、予測できないような形で買いを分散することで、トレーディング シグナルが失われないようにする。メダリオンは、競争相手に悟られないよう値動きを「キャパシティーする」(内輪での呼び方)ことで、きわめて強いシグナルに基づくトレーディングをおこなう方法を編み出した。それはちょうど、ディスカウントストアのターゲットで売れ筋商品が大幅に値下げされると聞きつけて、開店直
    後にその値下げ商品を残らず買い占め、セールになったことを誰にも悟られないようにするようなものである。
  • 「一つのシグナルに基づいて一年間トレーディングをしていても、わが社の取引のしかたを知らない人にとっては、そのシグナルはまったく違うように見える」とある内部関係者は言う。
  • 機械学習の大規模活用ととらえることもできる。過去を調べた上で、いま何が起こっていて、それが将来に非ランダムな形でどのような影響を与えるかを理解するのだ」

 

  • 「収益報告などの経済ニュースが必ず市場を動かすことは否定しない。問題は、あまりにも多くの投資家がその手のニュースに注目しすぎていて、彼らの運用成績がほぼすべて平均のすぐそばに集まっていることだ」

 

  • 学生がどのプロ投資家を手本にすべきかと質問すると、投資家が市場を予測することなんて不可能だといまだ考えていたクオンツのシモンズは、答えに詰まった。そしてようやく、マンハッタンで自分の近所に住むヘッジファンドマネージャー、ジョージ・ソロスの名前を挙げた。
  • 「あいつの話は聞く価値があると思う。ただ山ほど話してくるがね」
  • シモンズは聴衆にいくつかの人生訓を説いた。「できるだけ賢い人、できれば自分よりも賢い人と仕事をせよ。 簡単にあきらめずにやり通せ」
  • 「美を道しるべにせよ。 ……会社の経営のしかたも、実験の進め方も、定理の導き方もそうだが、何かがうまくいっているとき、そこには美の感覚、美意識のようなものがあるはずだ」

www.bloomberg.co.jp

「バカ」の研究

  • アメリカの社会心理学者、デイヴィッド・ダニングとジャスティン・クルーガーに、「能力が低い人はそのことに気づかない」というタイトルの研究論文がある。わたしはこれは「あなたの仕事についてあなたに説明しようとするバカに関する研究」とすべきだったと思う。そうしなかったのは、おそらくそんな変なタイトルでは科学専門誌に掲載してもらえないと思ったのだろう。だが、ふたりの研究内容はまさにこのとおりだ。能力が低い人ほど自分を過大評価し、他人に平気でその価値観を押しつける。だからこそ、バカは一度も犬を飼ったことがない
    くせに、犬を飼っている人にしつけのしかたをアドバイスしようとするのだ。この〈優劣の錯覚》という認知バイアスは、ある一定の状況において、自らの真の能力を認識できなくなる現象を指す。それだけではない。ダニングとクルーガーによると、能力が低い人は自分を過大評価するだけでなく、能力が高い他人を過小評価する傾向もあるという。
  • ふたりの研究のおかげで、わたしたちは日常のさまざまな出来事に合点がいくようになるはずだ。なぜバカな客はプロの料理人に対して、「料理とは」 と長々とうんちくを傾けるのか。

 

あなたの理論によると、バカとはどういう人を指すのでしょう?

  • ジェームズ わたしがバカと呼んでいるのは、まずもって、自分を非の打ちどころがない、社会生活で特権を与えられるべき人間だと思いこんでいるような人です。男性に多くて、女性には比較的少ないと思います。典型的な例が、郵便局の窓口の列に割りこもうとするバカです。ふつうは緊急時や、立っているのがつらい妊娠中の女性に与えられるべき特権が、どういうわけか自分にも与えられるはずだと信じているのです。なぜかというと、自分はほかの人間より金持ち、イケメン、あるいは頭がいいと考えているから。「おれの時間はおまえたちより貴重なんだ」というわけです。そこでもし誰かが「みんなと同じように列に並んでください」と訴えても知らんぷりをしたり、逆ギレしたり。こういう人は、単に他人を見下しているのではありません。むしろ、相手にするに値しないと思っているのです。「おれの素晴らしさをわからないやつらなど、まるで話にならない」というふうに。

では、「あいつに比べたら自分はまし」と思わせてくれる存在として、バカに感謝
するっていうことはありませんか?

  • ジェームズたとえバカの扱い方がうまくなっても、相手に感謝できるようになるとは思えませんね。まあ、こちらを人間として尊重してくれるなら別ですけど。 バカをより深く理解できるようになったり、うまくあしらえるようになったりすれば、きっと喜びは感じるでしょう。その喜びは、わたしが一冊の本を書き終えた時に感じるのと同じものです。でも、こちらに対してこれっぽっちの敬意もなく、不愉快な理由で不愉快なことをする……そんな相手に感謝などできるはずがありません。不満と困惑を募らせるだけです。バカに会った日の夜、「我ながらうまい対応だった」「なかなかいいリアクションができた」と、ほくそ笑むことはあっても、感謝することはありえません。できることなら会わずに済ませたかった、と思うだけです。

自己奉仕バイアス :わたしが転んだのはヴォルテールのせい

  • このプロジェクトが成功したのはわたしが優秀だったからだ。失敗したのはみんなが協力してくれなかったからだ……。このように、成功した理由は自分にあり、失敗した原因は他人や外的要因にあると考える傾向を自己奉仕バイアス〉という。ちなみにフランスには昔から、失敗やミスをすると「それはヴォルテールのせい」と言う習慣がある。
  • 一方、これと似ていて混同しやすいのが〈根本的な帰属の誤り〉だ。こちらは、他人の言動は本人の気質や性格によるものとみなして、外的要因を軽視する傾向のことだ。たとえば、フィデル・カストロを支持する文章を書いた人は、たとえ他人から命じられて書いたのだと説明しても、カストロを支持していたはずだと思われがちだという(このことは一九六〇年代の実験で証明されている)。

錯誤相関 : コウノトリと赤ちゃん

  • たまたま同時に発生したふたつの出来事に相関があると思いこむことを〈錯誤相関〉という。コウノトリを見かけると、いつもその近所に赤ちゃんが生まれる……だが、これは単なる偶然の一致で、両者は相関関係にない。
  • 〈錯誤相関〉は日常的によく起こるバイアスだが、時に激しい議論の的になることもある。たとえば、ここ20年ほどで自閉症の症例が急増しているが、ちょうどこの時期にインターネット利用者が増えたので、ふたつの現象は相関関係(または因果関係)にあるのではないかと言われている。最初にそう発言したのは神経科学者のスーザン・グリーンフィールドだが、科学的根拠がないので専門家たちから批判の声が上がっている。

 

  • わたしたちは重要な情報をなおざりにして、どうでもよい情報を頼りに予測判断をしてしまうことがある。その時、わたしたちは自らの誤りに気づかない。自分が正しいと信じて間違いをおかしている。このような、予測判断の誤りは「バカ」とかなり似ているように思われる。
  • 一例としてここで、〈弁護士・エンジニア問題〉を紹介しよう。ある心理学者が、70人のエンジニア、30人の弁護士の計100人と面接をし、それぞれの特徴を紙に書きだした。そのうちのひとりの特徴は次のとおりだ。
  • 「ジャンは三九歳の男性。既婚者で、ふたりの子の父親だ。居住地の自治体の執行委員を務めている。趣味は希少本の蒐集。検定試験マニアで、他人と議論をしながら自分の考えをわかりやすく述べて、相手を説得するのが得意だ」
  • さて、ジャンはエンジニアだろうか、それとも弁護士だろうか?その確率は?
    この問いかけに対し、ほとんどの人が「ジャンは90パーセントの確率で弁護士だ」と答える。だが、正解は「ジャンは70パーセントの確率でエンジニア、30パーセントの確率で弁護士」だ。いったいなぜか? まず、ジャンが弁護士である可能性を推測するには、ふたつの情報が必要になる。
  1. 全体における弁護士数の比率(基準率)
  2. シャンの特徴が弁護士であることを示す可能性(個人情報)
  • (1)の情報はすでに提示されている。面接を受けた合計人数は一○○人で、弁護士は三〇人なので、ジャンが弁護士である確率は三〇パーセントだ。だが、(2)の情報は提示されていない。年齢、家族構成、趣味、特技……こうした「人物描写」のいずれも、ジャンが弁護士であることを証明してはいない。理論的に考えると、この「見知らぬ相手」であるジャンに関して、(2)の情報については以下のいずれかの立場をとるべきである。
  1. 情報が提示されていないので、正確な可能性はわからない。
  2. 可能性は不変。ジャンの特徴が弁護士であることを示す可能性と、エンジニアであることを示す可能性は同等である。つまり、(2)の情報を知ろうが知るまいが何も変わらない。
  • だが、このように考える人はほとんどいない。「そりゃそうだよ、ジャンはいかにも弁護士っぽいじゃないか。ちっともエンジニアタイプじゃないよ」と「バカバカしい」と思ってしまうのだ。

 

  •  無知は決して「バカ」ではない。そう主張する人たちは少なくないし、わたしもそれに同意したい。無知は学びの大きな原動力になりうるからだ。ただしそのためには、自分が無知であること、自分が知らないのは何であるかということに、きちんと気づく必要がある。一方、脳の情報処理における「バイアス」や、思考における「傾向」は、気づかずに見すごされてしまいがちだ。しかも問題は(そしてこれは大きな問題なのだが)、たとえわたしたちが自らの「バイアス」や「傾向」に気づけたとしても、なかなかそこから抜けだせないということだ。このこ
    とは、自らの考えに疑いを抱きにくい状況においてより顕著である。
  • 本物の「バカ」とは、自らの知性に過剰な自信を抱き、決して自分の考えに疑いを抱かない人間のことだ。哲学者のハリー・フランクファートが著書『ウンコな議論』(邦訳: 筑摩書房)で述べているように、バカは嘘つきより始末に負えない。嘘つきは真実が何であるかを知っているが、バカは真実には関心がないからだ。バカを撃退するには、相手を告発すること、つまり、相手を「バカ」と命名することが大切だ。自分自身に対しても、「バカ」という形容動詞をどんどん使っていきたい。そのことばが、自らの考えの誤りを認めた上での恥ずかしさの表れであるなら、それは気づきを得た証拠であり、自己修正のスタート地点となるからだ。同時に、他人に対しても「バカ」ということばを積極的に使いたい。冗談っぽく言ったり、皮肉をこめた口調で挑発したりすれば、相手への警告として役立つだろう。さらに相手が誤りに気づくきっかけを与え、自己修正を可能にするかもしれない。

占星術師や占い師による予言がいっこうに当たらない、偶然の一致すらしないのはどうしてなのでしょうか。

  • ゴーヴリ いえ、けっこう当たっているはずですよ。有名な占星術師のエリザベット・テシエは「2011年9月に何かが起こる」と予言していました。まあ、「11日」とも「テロ」とも言ってはいませんでしたが。占い師たちはたいてい「○年×月」「地震」「事件」など、予測しやすいことだけを言います。でも、「9月11日」は無理です。テシエは自らのことばに信憑性を与えるために、「わたしは飛行機事故も予言していた」とつけ加えました。それを聞いたある人が、コンピュータを使ってランダムに「いつ(年月)」と「何(事件)」を組み合わせて予言をしたところ、テシエより当たる確率がわずかに高かったそうです。これも〈誕生日のパラドックス〉と同じです。「いつ」をいくつかリストアップした上で「何」をひとつ予測すれば、ひとつやふたつの偶然の一致は起こりうるものです。

 

つまり、わたしたちは、目的や意図のない偶然も一定のルールにしたがうべきだと
思いがちなのでしょうか?

  • ゴーヴリ 時間だけでなく、空間についてもそうです。ランダムに選んだ日にちはバラつくはずだと思いこむように、ランダムに振り分けられた地点もバラつくのが当然だと思ってしまう。第二次世界大戦中の、ドイツ軍によるロンドン空爆がよい例です。ドイツ空軍の爆撃機は雲の上を飛んでいたので、パイロットたちからは地上がまったく見えませんでした。彼らが爆弾を投下した場所はまったくの当てずっぽうだったのです。ところが、イギリス軍の参謀本部で被弾地点を調べたところ、ほとんどがあるエリアに固まっていて、しかも標的とされるべき場所からことごとくはずれていました。そのため、イギリス軍は「ドイツ軍は間違った地図を使っているに違いない」と結論づけました。ところが、統計学的にデータを分析したところ、実際は被弾地点はとくに偏っていなくて、それなりにバラつきがあることがわかったのです。

 

でもあなたは、「人類がここまで生きのびられたのは、ある意味では認知の錯覚のおかげと言えるだろう」と述べていましたね。偶然の一致をそのままスルーせず、そこに何らかの意味を見いだそうとしたからこそよかったのだ、と。

  • ゴーヴリ 進化心理学者たちによると、どうやらわたしたち人類は、偶然の一致に敏感になりすぎてしまったようです。確かに大昔は、偶然の一致を見逃さないことが生きのびる上で重要でした。木の葉が動いているのを見たら、敵が隠れているかもしれないと思って逃げるほうが、誰もいないと思って動かないより、生きのびる確率は高くなります。偶然の一致に対しては、スルーするより過剰反応するほうがよかったのです。
  • 一方、科学研究とは、偶然の一致や相関関係を見つけて、そこに単なる偶然以外の理由を見いだそうとする行為です。非合理的とは言いませんが、まあ、リスキーなやり方です。必ずしも信頼できる結果にたどり着くとは限らないからです。たとえば、ある研究者が科学的に正しい方法で行なった実験で、「モーツァルトを聴くと頭がよくなる」という〈モーツァルト効果〉は真実だと結論づけました。ところが、別の研究者がこの結果を再現しようとしても、どうしてもうまくいかなかったのです。これはおそらく、単なる偶然の一致を有効だと錯覚した〈偽陽性》だったのでしょう。科学研究においてこうした錯覚はデメリットになります。

 

  • あるアンケート調査によると、自称ベジタリアンの60パーセントから90パーセントが、調査日に先立つ数日間のうちに、何らかの肉を摂取していたという。菜食主義に関する複数の調査でり、自称ベジタリアンの三分の二以上が鶏肉を、80パーセントが魚を、それぞれ時々食べていることが判明している。また同様の調査で、動物が苦しむようすを撮った映像を後で上映すると伝えると、多くの人が無意識のうちに肉摂取量を実際より少なく申告したという。消費者の中には、動物の苦しみを軽減するために、レッドミート(牛肉、豚肉、羊肉)を食べるのをや
    めて、代わりに鶏肉を多く食べるようにしたと言う者がいる。だが実際は、それによって消費される動物の数は逆に増えてしまう。たとえば、ウシ一頭分と同じ量の肉を得るには、ニワトリ一羽が必要になる。つまり、より多くの動物が苦しむはめになるのだ。

 

  • 夢はこうして、未来の不安に備える「バーチャルリアリティーとして役立っているのだが、実はそれ以外にも、現実世界にとって大事な役割を果たしている。わたしたちの記憶の中のネガティブな感情を分析し、その感情を記憶から取り除いて、重要な情報だけを保管する作業を行なっているのだ。カナダの精神科医、トーレ・ニールセンは、夢の役割のひとつとして、不安やトラウマを引き起こすネガティブな記憶の断片を、ニュートラルな状況と組み合わせながら再現することで、その記憶の持つイメージをやわらげることを挙げている。その働きを担う
    のは脳内のふたつの領域で、脳の奥のほうに位置する「扁桃体」と、前側にある「前頭前皮質内側部」だ。過去の記憶の不安要素が夢の中で再現されると、扁桃体が活性化して恐怖の感情を引き起こす。すると今度は、前頭前皮質内側部がこの不安要素を分析し(その不安要素を別のニュートラルな状況と組み合わせて再現させ、それほど恐ろしいものではないと確認させる)、恐怖をやわらげようとする。ところがこの時、その恐怖の感情が強すぎたり、精神状態が弱っていたりす
    ると、本人が目を覚ますことがある。これが「悪夢」だ。悪夢は、睡眠中に脳が感情を分析する作業が失敗したせいで起こるのだ。

 

  • カリエール ええと、そうですね、「愚か」な人の最大の特徴は、傲慢で横柄なところです。堂々と、自信たっぷりに、きっぱりとした口調で、ものすごくバカ
    げたことを言います。でも「バカ」は違います。迷ったりためらったりすることもあります。わたし自身、毎日のように「バカなこと」を言っていますよ。いえ、わたしだけでなくおそらくみんなそうでしょう。でも、なるべく「愚かなこと」は言わないようにしています。まわりに多大な迷惑をかける恐れがありますからね。たとえば、一部の人間を他の人たちと「区別」するような発言をするのは、バカと愚かのどちらでもありえますが、どちらかといえば愚かでしょう。本当はそうではないと知っている場合が多いからです。一方、「太陽は宇宙最大の天体だ」という発言はバカです。無知からそう言っているだけなので。ただし、そうではない証拠を突きつけられてもまだそう言い張っている場合、それは「愚か」です。あるいは「大バカ野郎」とも言います。でも驚くことに、バカがとても知的なことを言うこともあるんです、どういうわけか。

 文化が変われば、バカのタイプも変わるのでしょうか?

  • ナタン 文化は、バカがバカだとバレないための手段として利用されています。哲学を教えるなど、大勢の前で難しい話をするのもそうです。どんなにバカでも、教養さえ身につければ難しい思想を操れる。そうやってバカがバレないようにしているのです。
ある文化圏でバカで通っている人が、他の文化圏ではそうではない場合はあるのでしょうか?
  • ナタン どうでしょうね、それはわたしにはよくわかりません。会話を交わしたり、何かを作ったりすれば(本、道具、音楽など)、 バカはすぐにバレます。知性の欠如は行動に表れますから。でも、その行動が外から見て文化的であれば、バカを隠せる可能性が高くなります。たとえば、大学の哲学教授のほとんどは哲学者ではありません。哲学史を教えているだけです。「プラトンはああ言った、デカルトはこう書いた」としか言えない。「わたしはこう考える」と、自分の意見をきちんと言える者はひとりもいません。そんなことをしたらバカがバレるからです。哲学史は、知性の欠如を隠すのにうってつけの隠れ蓑です。
ところで、バカに打ち勝つ最善の策はなんでしょう?
  • ナタン そんなものはありませんよ。バカと戦うなんてもってのほかです。三十六計逃げるに如かず。わたしも逃げ回ってますよ。大学にはバカの専門用語が飛び交っています。わたしはお人好しで……いや、本当ですって!……まわりから見てもそうだとわかるらしく、すぐに攻撃の対象にされるのです。かつてわたしは、大学は研究と教育のための場だと信じていました。だからこそ、その一員になろうと決めたのです。ところが、ふたを開けたらこのありさまです。ひどいものですよ。それでも大学にいつづけたいと思うなら、とにかく鳴りを潜めているしかない。少しでも目立つことをすれば、すぐにターゲットにされます。出る杭は打たれるのです。バカはバカではない人間を嫌う。もしかしたらわたしもバカかもしれませんが、まわりからバカではないとみなされようものなら必ず攻撃されます。

身銭を切れ

  • あなたの考えではなく、ポートフォリオの中身を教えろ。
  • カモを見分ける最大のコツがある。出口ではなく映画館の大きさに目が行っているヤツは間違いなくカモだ。映画館で、たとえば誰かが「火事だ」と叫べば、人々は出口に殺到する。なぜなら、映画館から逃げ出したい人たちは、絶対に館内に残ろうとはしないから。これは、コーシャの戒律の順守や株式のパニック売りに見られるのとまったく同じ無条件性だ。
  • 科学もしかり。先ほど見たとおり、カール・ポパーの考えの背景には少数決原理がある。しかし、ポパーは少しばかり厳密すぎるきらいがあるので、彼の話は後回しにして、ここではもう少し愉快で陽気なリチャード・ファインマンについて話をしよう。
  • 彼は当時のもっとも頑固で遊び心にあふれる科学者だ。彼のエピソード集『困ります、ファインマンさん』は、コーシャの非対称性と似たようなメカニズムを通じて進歩していく科学の根本的な頑固さをうまく伝えている。どういうことか? 科学とは科学者の意見の総和ではなく、市場と同じように、かなり歪んだプロセスだ。いったん誤りだと証明された命題は、未来永劫ずっと誤りのままだ。科学が多数決で進められるとしたら、私たちはいまだに中世で足踏みをしているだろうし、アインシュタインは報われない趣味に没頭する特許庁職員のまま生涯を終えていただろう。

 

  • 人生とは犠牲とリスク・テイクだからだ。リスクを引き受けるという条件のも
    と、一定の犠牲を払わないかぎり、それを人生とは呼べない。取り返しが利くかどうかにかかわらず、実害をこうむるリスクを背負わない冒険は、冒険とは呼べない

 

  • 自称「知識人」たちは、ココナッツ島に行ってもココナッツを見つけられやしない。ヤツらは知性を定義できるほどの知性もないので、とたんに循環論に陥ってしまう。ヤツらの主なスキルといえば、自分と似たような連中が作った試験に合格し、自分と似たような連中が読む論文を書くことに尽きる。

 

科学と科学主義
  • 実際、私たちの生活を操る資格があると勘違いしている学者官僚たちは、医療統計であれ政策立案であれ、厳密性というものをまったくわきまえていない。ヤツらは科学と科学主義の区別がつかない。いやむしろ、ヤツらの目には、科学主義のほうが本物の科学よりも科学らしく映っているのだ。
  • たとえば、次のことは自明だ。キャス・サンスティーンやリチャード・セイラーのように、私たちをある行動へと誘導したがる連中は、すぐに物事を合理的、とか。非合理的 (または、望ましい手順やあらかじめ決められた手順と食い違うことを指す似たような言葉)と分類する。だが、そうした分類の大部分は、確率論への誤解や一次モデルの薄っぺらい利用に由来している。また、彼らは全体をその要
    素の線形的な総和と誤解する傾向がある。要するに、一人ひとりの個人を理解すれば集団全体や市場全体が理解できる、個々のアリを理解すればアリのコロニー全体が理解できる、と考えているわけだ。
  • この「知的バカ」は現代性の産物であり、少なくとも20世紀中盤から増殖を続け、今や局所的な上限にまで達している。私たちの社会は身銭を切らない連中に乗っ取られてしまっているのだ。大半の国々では、政府の役割は1世紀前と比べて5~10倍も大きくなった(GDPに対する割合で表現した場合)。知的バカは私たちの生活のあらゆる場所にいるが、いまだ少数派だ。シンクタンク、メディア、大学の社会科学系の学部といった専門化された場所以外では、めったにお目にかかれない。ほとんどの人はまともな仕事に就いているし、知的バカの枠はそう空きが多いわけでもない。だからこそ、知的バカは数が少ない割に大きな影響力を握っているのだ。
  • 知的バカは自分の理解が狭いのかもしれないとは思いもせず、自分の理解できない行動を取る人々を病気に仕立て上げる。ヤツらは人々が自分の最大の利益のために行動するべきだと考えていて、なおかつ自分が人々の利益をわかっていると思いこんでいる。とりわけ、相手が貧乏白人、だったり、イギリスの欧州連合脱退に賛成票を入れた母音の聞き取りづらい階級の人々だったりすれば、なおさらそうだ。
  • 知的バカは、庶民がその人自身にとって合理的な行動を取ったとしても、自分にとって合理的に見えなければ、「無教養」呼ばわりする。そして、私たちがふつう政治参加と呼んでいるものを、2種類の言葉で呼び分ける。ヤツらの好みに合えば「民主主義」、ヤツらの好みと食い違う投票行動を取れば「ポピュリズム」と。金持ちは納税1ドルにつき1票、もう少し人道的な人間はひとりにつき1票、モンサントロビイストひとりにつき1票と考えるが、知的バカはアイビー・リーグの学位、または外国のエリート学校や博士号ひとつにつき1票と信じている。ヤツらにとっては、それがクラブへの加入条件なのだ。
  • ニーチェはそういうヤツらを「教養俗物」と呼んだ。自分が博識だと思っている中途半端な博識家には、脳手術ができると思っている床屋と同じくらい、気をつけたほうがいい。そして、知的バカには詭弁を本能的に嗅ぎ分ける能力もない。
知的俗物
  • 知的バカは、俗物たちが進化、神経なんちゃら、認知バイアス量子力学についてもっともらしいことを語るためにある雑誌『ザ・ニューヨーカー』を購読している。ソーシャル・メディアでは絶対に罵らない。「人種の平等」や「経済的平等」について語るくせに、マイノリティのタクシー運転手とは決して飲みにいかない(ヤツらは決して真の身銭を切らない。声がれるまで繰り返すが、知的バカ
    は身銭を切るという概念にまったく無頓着だからだ)。
  • 現代の知的バカは、2回以上TEDトークに出演した経験があるか、ユーチューブで3回以上TEDトークを観たことがある。「当選するに値する」とかなんとかいう循環論法に基づいてヒラリーモンサント=マルメゾンに投票しただけじゃなく、彼女に投票しなかった者はみんな精神的に病んでいると思っている。
2種類の格差
  • 世の中には2種類の格差がある。
  • ひとつ目は、許容できる格差。たとえば、アインシュタインミケランジェロ、引きこもり数学者のグリゴリー・ペレルマンのように、社会に大きな利益をもたらすことがすんなりと理解できる英雄たちと一般人とのあいだの格差だ。この部類には、起業家、芸術家、軍人、英雄、歌手のボブ・ディランソクラテス、地元の現役の有名シェフ、マルクス・アウレリウスのような古代ローマの賢帝な
    ど、自然とファン」になってしまうような人たちが含まれる。まねをしたい、自分もああなりたいとは思っても、腹が立ったりはしない。
  • ふたつ目は、許容できない格差。一見すると自分と変わらない人間なのに、システムを操り、レントシーキングに勤しみ、不当な特権を得ている。うらやましくなくもないものも持っているのだが(ロシア人のガールフレンドなど)、とうていファンになる気はしない。一例を挙げると、銀行家、金持ちの官僚、悪徳企業モンサントの肩を持つ元上院議員、きれいに髭を剃り、ネクタイを締め、テレビで好き勝手なことをしゃべって、巨額のボーナスを受け取っている最高経営責任者など。人はそういうヤツらに妬みを覚えるだけでなく、ヤツらの名声に怒りを覚える。ヤツらが乗っている(中途半端な)高級車を見ただけで、苦々しい気持ちになる。自分がちっぽけな人間のように思えてくる。
  • 奴隷のくせに金を持っているというのは、どこかちぐはぐな印象を与えるのかもしれない。
  • 静的な格差とは、格差をスナップショットとして切り取ったもの。その後の人生で起こる出来事は反映されていない。
  • たとえば、アメリカ人のおよそ10パーセントは所得分布の上位1パーセントで最低1年間を過ごし、全アメリカ人の半数以上が上位10パーセントで1年間を過ごす。
    この状況は、より静的な(でも平等とされている)ヨーロッパとは目に見えて異なる。たとえば、アメリカのもっとも裕福な500人の国民や支配者層のうち、30年前もそうだったのは10パーセントにすぎない。一方、フランスでもっとも裕福な人々は、その3パーセント以上が相続人であり、ヨーロッパでもっとも裕福な家系の3分の1は、数世紀前も裕福だった。フィレンツェはもっとひどい。5世紀ものあいだ、まったく同じ一握りの家系が富を独占してきたのだ。
  • 動的(エルゴード的)な格差とは、将来や過去の人生すべてを考慮した格差。
  • 動的な平等を実現するには、単純に底辺の人々の生活水準を引き上げるのではなく、むしろ富裕層を入れ替わらせる必要がある。つまり、すべての人々にその地位を失う可能性を負わせることが必要だ。
  • 社会をより平等にするには、富裕層に身銭を切らせ、所得上位1パーセントから脱落するリスクを背負わせなければならない。
  • この条件は、単なる所得の流動性よりも強い。流動性とは、誰でも金持ちになれる可能性があるということだ。一方で、吸収壁がないというのは、いったん金持ちになってもずっと金持ちでいつづけられる保証はないという意味だ。
  • 動的な平等とは、エルゴード性を回復するもの。つまり、時間確率とアンサンブル確率が交換可能。
  • ここで、先ほど知識人が理解できていないと述べた「エルゴード性」について説明させてほしい。本書の最後にある第3章で詳しく説明するが、エルゴード性は確率や合理性に関連する重要な心理学実験のほとんどを無効にしてしまう。
  • 今のところは、直感的に説明すると次のようになる。まず、アメリカ総人口の断面写真を撮ろう。たとえば、上位1パーセントに属する少数派の富豪がいる。太っている人、背の高い人、面白い人、さまざまだ。そして、中の下の階級に属する多数派の人々がいる。ヨガの講師、パン職人、ガーデニングコンサルタントスプレッドシートの理論家、ダンスの講師、ピアノの修理師、そしてもちろ
    ん、スペイン語文法の専門家など。
  • ここで、それぞれの所得階層または資産階層の割合を考えよう(ふつうは所得格差のほうが資産格差よりも穏やかな点に注意)。完全なエルゴード性とは、一人ひとりが永久に生きると仮定した場合に、先ほどの断面図全体の経済的状況のもとで一定割合の時間を過ごすことを意味する。たとえば、10年間のうち、平均8年間を中の下の階級、10年間を中の上の階級、20年間を労働者階級、そして1年間を上位1パーセントの階級で過ごす、という具合だ。
  • 完全なエルゴード性の正反対は吸収状態だ。「吸収」という単語は、障害物に当たると吸収されたりくっついたりする粒子に由来する。吸収壁とは罠のようなもので、いったんなかに入ると、善悪は別として外には出られない。たとえば、ある人が何らかのプロセスを経て金持ちになると、それ以降は金持ちでありつづける。また、ある人がいったん中の下の階級に(上から)転落すると、どれだけ望んでかそこから這い上がって金持ちになるチャンスはない。金持ちを恨むのも当然だ。巨大な国家のトップに立つ人々には、ほとんど下方向への流動性がない。フランスのような国々では、国が大企業と手をつなぎ、経営幹部や株主たちが転落しなくてすむよう守っている。いやむしろ、彼らが上昇できるよう背中を押している。
  • そして、一部の人々にダウンサイドがないということは、残りの人々にアップサイドがないということなのだ。

 

  •  彼らは、お仲間どうしの査読によって成り立っている一流の学術誌とやらが、リンディ対応でないという事実に気づいていない。要するに、(現在の)一部の有力者が、ある人の研究を認めたにすぎないのだ。
  • それでも、自然科学はこの種の病理に対してまだ強いかもしれない。そこで、社会科学に目を向けてみよう。ある論文寄稿者を評価するのがその人の同僚、だけだとしたら、そこには相互引用の輪が存在することになる。これはあらゆる腐敗へとつながるだろう。たとえば、ミクロなたわごとよりもマクロなたわごとを言うほうが易しいので、マクロ経済学などはまるっきりでたらめな可能性もある。ある理論が本当に有効かどうかなんて知る由もないからだ。
  • ふつうは、バカなことを言えばバカだと思われる。でも、たとえば、人を集めて学術団体を作り、その3人が認めるバカなことを言えば、同僚の評価、に合格し、めでたく大学の学部を立ち上げられる。
  • 学問の世界は、(身銭を切らない人々のせいで)抑制を失うと、自己参照を繰り返す儀式的な論文発表ゲームへと変わっていく。
    現在、学問の世界はある種のスポーツ競技へと変わってしまったが、ウィトゲンシュクインにとっては、知識はスポーツ競技とは真逆のものだった。哲学の世界では、最後にゴールした者が勝者なのだと彼は言った。さらに、競争じみたものは何でも知識を破壊する。
  • ジェンダー研究や心理学といった一部の分野では、エージェンシー問題の性質そのものによって、儀式的な論文発表ゲームは少しずつ真の研究と無縁なものになっていき、やがてはマフィアばりの利害の食い違いへとつながる。研究者には研究者のやりたいことがあって、それは彼らのお給料を払っている顧客、つまり社会や学生たちが求めるものと乖離している。しかし、彼らの学問分野は外部の
    人にとっては不透明なので、彼ら自身が門番になれてしまう。経済を知っているというのは、実体経済という意味での経済ではなく、経済理論を知っているということなのだが、その経済理論のほとんとは、経済学者の作り出したたわごとにすぎない。
  • こうなると、勤勉な親たちが何十年もお金を貯めて子どもを通わせる大学の教育課程は、たちまち一種のファッションへと劣化してしまう。親が必死に働いて貯蓄したお金で、ポストコロニアル研究に基づく量子力学批評とか何とかいう訳のわからない学問を子どもに学ばせるはめになる。
  • しかし、一筋の希望はある。近年、こうしたシステムの行く末を暗示するような出来事が起きている。実世界で働いている卒業生たちが、笑止千万ないんちき学問分野への寄付を次々と打ち切りはじめているのだ(伝統的な学問分野のなかの笑止千万な研究のほうは、まだ首がつながっているが)。
  • 結局のところ、誰かがマクロ経済学者やポストコロニアルジェンダー研究の"専門家のお給料を支払わなくちゃならない。そして、大学教育は職業訓練施設と競争する必要もある。昔は、ポストコロニアル理論を学べば、フライドポテトを客席へ運ぶ以外の仕事にありつけた。今では、そうはいかない。
  • 自己の利益に反して
    いちばん説得力のある発言とは、本人が何かを失うリスクのある発言、最大限に身銭を切っている発言である。対して、いちばん説得力に欠ける発言とは、本人が目に見える貢献をすることもなく、明らかに(とはいえ無自覚に)自分の地位を高めようとしている発言である(たとえば、実質的に何も言っておらず、リスクも目していない大部分の学術論文はその典型例)。
  • でも、そこまで極端な考え方をする必要はない。見栄を張るのは自然なことだ。人間だもの。中味が見栄を上回っているかぎり、問題はない。人間らしく、もらえるだけもらえばいい。ただし、もらう以上に与えるという条件つきで。
  • 厳密な研究ではあるが同僚たちの意見と食い違う研究、とりわけ、研究者自身が名声への被害や何らかの代償をこうむるリスクのある研究こそ、より重要視するべきだ。
  • リスクを冒して、物議を醸すような意見を述べる著名人は、たわごとの押し売りである可能性が低い。

 

  • 研究活動の脱売春化は、最終的に次のようにして行われるだろう。
  • 研究を行いたい人には、ほかの場所から収入を得て、自分の時間で行っていただく。犠牲は必要だ。洗脳を受けた現代人からすれば暴論に聞こえるかもしれないが、『反脆弱性』を読んでいただければわかるとおり、プロフェッショナルでない人々、見せかけだけでない人々は、歴史的に巨大な貢献をしてきた。真の研究を行うには、まず実世界で本業を持つべきだ。最低でも10年間、レンズ製作者、特許審査官、マフィアの仕切り手、プロのギャンブラー、郵便配達員、看守、医者、リムジン運転手、民兵組織の構成員、社会保障局の職員、法廷弁護士、農家、レストランのシェフ、大型レストランのウェイター、消防士(私のオススメ)、灯台守などとして働き、そのあいだに独自のアイデアを練っていくのだ。
  • ある種、これはでたらめを排除するふるい分けのメカニズムだ。仕事がないと嘆くプロの研究者には、ちっとも同情しない。私は3年間、超多忙でストレスの溜まる仕事をフルタイムでこなしながら、研究や調査を行い、夜に最初の3冊の本を書き上げた。そんなわけで、キャリア作りのための研究活動というものが(いっさい)許せなくなった。
  • (ビジネスマンにとって利益が動機や報酬になるように、科学者にとっては名誉や名声が動機や報酬になるはずだという幻想がある。それは違う。科学の世界は少数決原理で成り立っている。ほんの一握りの人々が取り仕切り、その他大勢はバックオフィスの事務員に過ぎない。

 

  •  先ほど、身銭を切らなければ、生存のメカニズムは著しく阻害されると述べた。同じことは思想にも当てはまる。
  • カール・ポパーにとっての科学とは、一連の実証可能な主張ではなく、やがて観測によって否定されうる主張を行う活動である。つまり、科学は基本的に立証的ではなく反証的な性質のものだということだ。この反証のメカニズムは、完全にリンディ対応といえる。むしろ、反証にはリンディ効果(と少数決原理)の作用が必須なのだ。ポパーは静的な面は見ていたが、動的な面は研究しなかったし、物事のリスク面を見ていなかった。
  • 科学が機能するのは、どこかのオタクがひとりきりで導き出した正式な科学的方法, が存在するからでも、運転免許センターの視力検査みたいな試験に合格した何らかの"基準" があるからでもない。むしろ、科学的思想が耐リンディであり、それ自身の持つ内在的な脆さにさらされているからなのだ。思想は身銭を切らなければならない。ある思想が何の役にも立たなければ、その思想は不合格の烙印を押され、「時」による反証を受けることになるだろう(薄っぺらい反証主義、つまり政府の発行する白黒のガイドラインによって、ではなく)。ある思想が反証されないまま残りつづければつづけるほど、その思想の余命は長くなっていく。

 

  • ここで話は社会科学へと戻る。私はよく、思いついたことを数学的証明とともにササッと紙に書き留め、あとで論文として発表できるようどこかに投稿しておく。社会科学の論文のような薄っぺらい内容や、冗長で中味のない循環論法はいっさいない。経済学のように、内輪の引用ばかりで占められる儀式的ででたらめな分野では、体裁がすべてなのだということを発見した。私が今までに受け取
    った批判は、すべて内容ではなく見た目に関するものだった。論文の世界には、長い時間を費やして学ばなければならない一定の言語がある。そして、論文の執筆はその言語に基づく反復的作業にすぎない。したがって、
  • 論文の執筆や受験という儀式に参加してもらうことが目的でもないかぎり、決して学者を雇ってはいけない。

 

  • ここで紹介するヒューリスティックは、教育を逆向きに用いるという方法だ。つまり、実力がまったく同じだと仮定した場合、いちばん学歴の見劣りする人間を雇うのがいい。なぜなら、その人は自分よりも高学歴なライバルたちに混じって成功し、人よりもずっと高いハードルを乗り越えてきたという証拠だから。おまけに、ハーバード大卒でない人たちのほうが、実世界ではつきあいやすい。
  • ある学問分野がいんちきかどうかを見分けるお手軽な方法がある。その学問分野の学位の価値が、学校名に大きく依存しているかどうかを見ればよい。私はMBA課程に申しこんだとき、上位10校とかの校以外の学校に通うのは時間のムダだと言われたのを覚えている。一方、数学の学位の価値は、それと比べると学校名にあまり依存しない(ただし、一定のレベルを満たしていればの話だが。なので、
    このヒューリスティックは上位10校と上位2000校の違いに対しては成り立つだろう)。
  • 同じことは、研究論文についてもいえる。数学や物理学では、(投稿のハードルがもっとも低い)論文保存サイトarXivに投稿された研究成果でも十分に価値がある。しかし、学問としての金融論のような質の低い分野では(論文は複雑な物語形式を取っていることが多い)、論文の掲載された学術誌の名前だけが唯一の基準なのだ。

 

会話の成立条件

  • それどころか、私の意味する「友だち」を作りたいなら、金持ちは金を持っていることを隠したほうがいい。この話は割と知られているかもしれないが、実は学識や学歴も隠したほうがいい。人間は、地位や知識で相手の上に立とうとしない人としか、本当の友だちにはなれない。事実、バルダッサーレ・カスティリオーネの著書『宮廷人』にもあるように、相手と対等な目線に立つのは、古典的な話術だ。少なくとも会話をするうえでは、人間は平等でなければならない。相手と上下関係がなく、同じくらい会話に参加しないかぎり、会話は成り立たない。夕食をとるなら、教授ではなく友だちととるほうがいい。もちろん、その教授が会話術、を心得ているなら話は別だが。
  • これを一般化すれば、コミュニティとは、競争や階級に関するルールの多くが棚上げされ、集団の利益が個人の利益よりも優先される空間、と定義できるだろう。もちろん、外部との摩擦はあるだろうが、それはまた別の話。ある集団や部族の内部で競争が棚上げされるという考えもまた、エリノア・オストロムの研究した集団の概念のなかに存在していた。

Learn or Die 死ぬ気で学べ プリファードネットワークスの挑戦

  • それまでの私は、どちらかというと、うまく取り繕って、そつなくやるのが良いと思っていた。だが、それでは面白くない。もっとパッションに忠実になりたかった。
  • 自分が「面白い」と思えることに、もっと敏感になるべきだと考えた。人生は有限だ。「面白い」と思えることにフォーカスしないと、最大の成果は出せない。考え方がガラッと変わったような気がする。それまでは組織が安定して、皆が互いにいがみ合うことなく、そこそこ楽しければいいよねと思っていた。今考えると保守的だった。
  • あるとき、ソニーからPFIに参加してくれた長谷川から「西川さんって全然怒らないよね。優しいよね」と言われた。それは良いことなのだろうか。要は「つまんない」ということなのかもしれない。そう思った。

 

  • 自分たちはエキサイティングな仕事ができているだろうか。多分、できていない。一見、それなりに働きやすい環境だったのかもしれない。だけど明らかにモチベーションが低くなっている人もいた。「何となく楽しくない」、そんな感じ
    の部分が、どんどんどんどん増えてしまったんだろうなと思った。
  • それよりも、もっと中長期的に成し遂げたいことをちゃんと作ろう。それを発信していかないと面白くない。結果的に誰もついてこなくなる。そう思い始めた。
  • 同時に、自分自身も変えないといけない、と考えた。そもそも自分が会社を作ったときには、コンピュータで何をやりたかったのか。マイクロソフトみたいな会社を作りたかったはずだったんじゃないか? そうすると、今のままでいいのか……。様々な思いが蓄積していた。

 

  • 岡野原とは、一度だけ、深層学習にシフトするのかどうするのかというところで揉めた。岡野原はニューラルネットワークではない機械学習技術の専門家でもある。だから彼としては、今までの蓄積を捨てて深層学習に行くのはリスクが大きいからやめたほうがいいのではないか、と考えたわけだ。
  • 私は「それもわかるが、つまらないから嫌だ」と言った。「面白いことをやらないなら生きている意味がない」とまで言って、無理やり説得した。最終的には「そこまでの覚悟があるんだったら」ということで、それまでの蓄積はいったん全部捨てて、深層学習に完全シフトすることになった。
  • 結果的には、判断は正しかった。今では、深層学習以前の機械学習でできたことは、だいたいカバーできるようになっているし、従来の機械学習が抱えていた多くの課題を解決できるようになっているからだ。だが、当時は正しいかどうか、全くわからなかった。確証はなかった。だが、岡野原だったら、私が「やりたい」と言ったら最後は絶対に「うん」と言ってくれるだろうな、という思いはあった。

 

  • モチベーションを持つことで、様々な創意工夫が可能だし、顧客が考える以上の成果も出せるはずだ。そもそも創意工夫自体がとても楽しい。熱中して夢中になれるのであれば仕事していても楽しいし、学びも多い。会社はそういう高いモチベーションを持てる環境を作ることを目指している。
  • 仕事の難易度を難しすぎず簡単すぎない程度にすることも重要だ。簡単すぎる「コンフォートゾーン」と、難しすぎる「パニックゾーン」の間に、薄い「ラーニングゾーン」がある。「ラーニングゾーン」は、今よりもちょっと背伸びすればできるタスクだ。ここが一番楽しい。簡単すぎると飽きてしまうし、つまらない。逆に難しすぎて、どう工夫してもなんともならない場合も、それはそれでモチベーションがなくなってしまう。だから難易度としては適度に難しい領域が必要になる。
  • 世の中の問題は、問題設定の仕方次第で難易度が変えられる。研究においても、今の技術だと天才がどう頑張っても100年早いという場合もある。一方、あとちょっと頑張れば3年や5年程度で解けるレベルの問題もある。その見極めが非常に重要だ。

 

  • 「分業しない」ことについては徹底している。多くの研究論文はその結論で「この技術は○○の分野に有用だろう」と結んでいる。だが著者自身、この技術が必要な分野の人に読まれて実用化されることをどれだけ真剣に考えているだろうか。イノベーションは、技術のタネが実際にニーズを持っている人に何らかのかたちで伝わることで初めて実現する。

 

  • ニューラルネットワークにおける学習とは、ネットワークの中のパラメータを調整して、ニューラルネットワーク全体の働き方、つまり、ある入力を与えたら何を出力するのかを微調整することだ。
  • この調整で使われる「確率的勾配降下法」は、完璧にうまく調整するのではなく、ちょっとした間違いが発生して、間違い(ノイズ) を含んだ上でアップデートを行う。わざとノイズを加えてアップデートするのは、もともとは工学的な制約に過ぎず、問題を解くのにはむしろ悪影響があるとされていた。だが、実はその「適当なノイズ」が、汎化を達成するために重要な役割を果たしていることがわかってきたのだ。
  • つまり、工学的に理詰めで作っていったのではない。たまたまうまくいくということが実験的・発見的にわかり、後から説明を探しているのだ。説明が見つかるまでは「たまたまうまくいったのだろう」と思われていたことが、後々になって理論的な裏付けが可能になるということが続いている。深層学習には、そういう事例が多い。

ハーバード・ビジネス・レビュー 2020年 11月号 [雑誌] (ワーク・フロム・ホームの生産性)

ヨーヨー・マのインタビュー

 

さまざまなリスクを取っているのはなぜですか。

  • 私がやっていることが音楽家として珍しいこととは思いません。
  • 一人の声によるオーケストラと即興演奏で有名なボビー・マクファーリンが、ある日「いま、どんな面白いことをやっているのか」と聞いてきました。
  • この質問は、面白くないことも山ほどあり、そういうことをやっている場合もあるという前提を含んでいます。あらゆる偉大な音楽は発明によって生まれるもの。リスクは付き物ですが、喜んで受け入れるべきです。

子ども時代に得た名声とどう付き合いましたか。

  • 注目されるのは素晴らしいことですが、あらゆる人から常に注目されることはよいことではありません。ずば抜けた才能を持つ若者 たちと話す機会があるたびに、私はこう言っています。「何か一つのことに秀でていたら、それをやり続けたくなるものだけど、 しばらくするとうまくいかなくなるよ。7歳の時にすごいとほめられたことが、30歳になるとすごいことではなくなるから」と。

  • 私は子どもの頃、「君はすごい天才だ」といろんな人に言われましたが、できればそう言ってほしくなかったですね。天才だと言われるのは危険です。健全な自信を持ちながらも、自分を見つめて「うまくできること、できないことは何だろう」と自問自答できるような状態がベスト。そうすれば自分の人生を自分で描き、築いていけるようになります。

ステージに上がる前はどのように準備していますか。

  • 年齢によって準備のやり方が変わってきました。たとえば何か決まったルーチンがあり、「静かな環境が必要だ」と言っているとしましょう。そう言っていても、いろいろなことが起きて、静かな環境にいるのが不可能になることがあります。
  • もしそうなったら、パニックを起こしたり、腹を立てたりして、ひどい演奏をしますか。あるいは、「想定外のことが起きたけど、新しいやり方を楽しんでみよう」と気持ちを切り替えますか。

 

教養としてのコンピューターサイエンス講義 今こそ知っておくべき「デジタル世界」の基礎知識

  • グラフの音圧の波の高さ(縦軸)は、音の強度または大きさを表しています。横軸は時間を表し、1秒あたりの波の数がピッチまたは周波数を表しています。
  • ここで私たちが、音の波の高さ(たとえばマイクからの音圧)を、一定時間ごとに測定したとします。これらの測定値は、元の曲線を近似する一連の数値を提供します。より頻繁に、そしてより正確に測定すればするほど、近似値はより正確になります。結果として得られる数値の列は、保存したりコピーしたり、あるいは操作したり他の場所へ送ったりできる、波形のデジタル表現なのです。数値列を、対応する電圧または電流のパターンに変換し、スピーカーまたはイヤフォンを駆動して音に戻す機器を用いて、再生できるのです。波形から数値列への変換はアナログ/デジタル変換と呼ばれ、これを行うデバイスは A/Dコンバーターと呼ばれます。逆向きは、もちろん、デジタル/アナログ変換または D/A と呼ばれます。変換は決して完璧ではなく、それぞれの方向で何かが失われていきます。ほとんどの人にとって、この劣化は知覚できないものですが、オーディオマニアたちはそれができると主張しています。
  • なぜ 10 進数の代わりに2進数を使うのでしょう?その答えは簡単で、2つの状態(たとえばオンとオフ)だけを持つデバイスを作る方が、10 個の状態を持つデバイスを作るよりも、はるかに簡単だからです。この比較的単純な性質は、様々な技術を使って表現することができます。たとえば、電流(流れているか否か)、電圧(高いか低いか)、電荷(存在しているか否か)、磁気(北または南)、光(明暗)、反射率(輝いているか鈍いか)などを使えるのです。フォン・ノイマンはこのことをはっきりと認識していました。1946年に彼は、「私たちの基本的な記憶単位は、もちろん2進数を応用したものになります。なぜならその変化の度合いを測定したくないからです」と述べています。

 

  • 残念なことですが、本格的なプログラムが最初から動くことはありません。人生はとても複雑で、プログラムはその複雑さを反映しているのです。プログラミングは、わずかな人しか持ち合わせていない、細部への完璧な注意を必要とするのです。したがって、あらゆる規模のすべてのプログラムには、エラーが含まれています。つまり、ある状況下において、プログラムは間違ったことをしたり、間違った答えを生み出したりするのです。こうした欠陥は「バグ」と呼ばれています。 
  • プログラマーというものは、詩人と同じように、純粋な思考からわずかに取り出されたものを相手に仕事をしています。
    彼は想像力を行使して創造を行い、空気の中から空中へと、
    自らの城を作り出すのです。これほど柔軟で、洗練とやり直しが容易で、かつ壮大な概念構造を簡単に実現できる創造的メディアは多くありません、フレデリックブルックス、The Mythical Man-Month、人月の神話、1975
  • 文学作品『高慢と偏見』(Pride and Prejudice)は英語で 97,000 ワード、もしくは550,000 バイトをいくらか超える大きさです。最も出現頻度の高い文字は、実は単語間のスペースです。作品には91,000個以上のスペースが含まれています。
    次に最も頻度の高い文字は、e (55,100回)、t (36,900 回)、そしてa (33,200回)です。一方、Zの出現は3回、Xは1回だけです。最も頻度の低い小文字は、jが469 回、qが509 回、そしてzとxがそれぞれ約 700 回です。
  • 明らかにスペース、e、t、そしてaにそれぞれ2ビットを使用すれば、データを大幅に節約できます。そして、X、Z、およびその他の頻度の低い文字に、8ビット以上を使用しなければならなかったとしても問題ではありません。ハフマン符号化(Huffman coding)と呼ばれるアルゴリズムは、これを体系的に行い、個々の文字をエンコードできる可能な限り最適な圧縮を見つけます。このアルゴリズムを使うと『高慢と偏見』は44%圧縮され、その大きさは310,000 バイトになります、つまり平均すると1文字あたり4ビットしか使っていないということになります。
  • たとえば、単語全体やフレーズ全体など、単一の文字よりも大きな塊を圧縮し、ソースドキュメントの特性に適合させることで、さらに圧縮を改善できます。いくつかのアルゴリズムがこれを上手に行います。広く使用されている Zip プログラムは、例題の本を64パーセント圧縮し、202,000 バイトの大きさにします。bzip 2と呼ばれる Unixプログラムは、原文を 145,000 バイトに圧縮します、元のサイズのわずか4分の1ということです。
  • これらの技術はすべてロスレス圧縮を行います。この圧縮では情報が失われないため、圧縮を解除するとオリジナルの情報が正確に復元されます。直観に反するように思えるかもしれませんが、元の入力を正確に再現する必要がない場合もあります、つまり近似バージョンで十分だということです。そして、そうした状況では、ロッシー(非可逆)圧縮技術を使うことでさらに良い圧縮を行うことができます。
  • ロッシー圧縮は、人びとが見たり聞いたりするコンテンツに最もよく使用されます。デジタルカメラの画像を圧縮することを考えてみてください。人間の目は、互いに非常に似通った色を区別できないため、入力の正確な色を保持する必要はありません。より少ない色で十分ですし、より少ないビットでエンコードできます。同様に、細かい部分を捨ててしまうこともできます。結果の画像は元の画像ほど鮮明ではありませんが、人間の目では気が付きません。明るさの細かいグラデーションにも同じことが言えます。
  • 広く使われている、ファイル拡張子が.jpgの画像を生成する
    JPEG アルゴリズムは、この手法を用いて、目に見えるほどの劣化なしに、一般的な画像を10分の1以下の大きさに圧縮します。JPEGを生成するほとんどのプログラムは、圧縮率をある程度制御することができます。そうした場合の「高品質」とは、圧縮率が低いということを意味しています。
  • 同様の考えから、映画やテレビを圧縮するための MPEG ファミリーのアルゴリズムが生まれました。個々のフレームは JPEGのように圧縮されますが、さらに、あるフレームから次のフレームにかけてあまり変化しない一連の部分を圧縮することができるのです。また、動きの結果を予測し、変化のみをエンコードすることも可能です。さらに、動いている前景を静的な背景から分離して、後者のビット数を少なくすることもできます。
  • MP3とその後継の AAC は、MPEG の音声部分です。それらは、音を圧縮するための知覚を利用したコーディングアルゴリズムです。中でも、大きな音は柔らかい音を覆い隠し、人間の耳は約 20KHz を超える周波数を聞くことができない(年をとるにつれてその周波数は低くなっていきます)という事実が利用されています。このエンコードによって、標準の CD オーディオは約10分の1に圧縮されます。
  • 携帯電話は、人間の声に焦点を当てた大幅な圧縮を行っています。人間の声は、任意の音よりも大幅に圧縮できます。なぜなら、声は狭い周波数に収まっていますし、個別の話者ごとにモデル化できる声道から生まれているからです。個人の特徴を使うことによってより良い圧縮が可能になります。
  • あらゆる形式の圧縮における基本的な考え方は、情報内容を完全に伝えていないビットを削減もしくは排除すること、頻度の高い情報をより少ないビットでエンコーディングすること、頻繁に出現するシーケンスの辞書を作ること、そして繰り返しを回数でエンコーディングすることです。ロスレス圧縮では、オリジナルを完全に再構築できます。ロッシー圧縮では、受信者が必要としない一部の情報が破棄されます。これは、品質と圧縮率のトレードオフになります。

 

  •  圧縮が冗長な情報を削除するプロセスだとすると、エラーの検出と修正は、慎重に制御された冗長性を追加するプロセスです。冗長性があることで、エラーの検出や修正さえもが可能になるのです。
  • 一部の「共通番号」は、冗長性を備えていないので、エラーが発生してもそれを検出することができません。たとえば、米国の社会保障番号(SSN: Social Security Number)は9桁の数字ですが、ほとんどすべての9桁の並びが有効な番号になり得ます(これは誰かが、本当は不要なのにあなたの番号を聞いてきたときに役立ちます。適当に答えてしまえばよいからです)。しかし、いくつかの余分な数字が追加されていたり、またはいくつかの可能な値が除外されていた場合には、エラーを検出することが可能になります。
  • クレジットカードとキャッシュカードの番号は 16 桁ですが、16桁のすべての番号が有効なカード番号ではありません。それらの番号では、1954 年にIBM のピーター・ルーンが発明したチェックサムアルゴリズムを使用して、1桁のエラーと、多くの2桁が入れ替わる転置エラーを検出しています。これらは、実際に最もよく発生する種類のエラーなのです。
  • そのアルゴリズムは簡単です。右端の桁から開始し、連続する各桁に交互に1または2を掛け算します。結果が9より大きい場合は、9を引きます。結果の各数字を足していきます。こうして求まった合計は10で割り切れる必要があります。ご自分のカードと、4417 1234 56789112 の両方で確認してみてください。後者は一部の銀行が広告で使用している番号です。後者を計算してみるとその結果は9なので、これは有効な数字ではありません。しかし最後の桁を3に変更すると有効なものになります。
  • 書籍についている10桁または13桁の ISBN もまた、同様のアルゴリズムを利用して、似たような種類のエラーを防ぐチェックサムを持っています。バーコードや米国 POSTNET コード(郵便物の配送を補助するために米国郵便公社が利用しているコード)もチェックサムを使用しています。