わたしの知的生産の技術

 小室直樹

社会科学ということになってくると、果たしてそれは科学であるのかどうか、非常に大きな疑問があります。

科学、厳密に言えば、ルネッサンス以後にできた近代科学は学問の中に入りますが、学問には哲学もあれば、神学もあり、文学もあります。しかし、哲学、神学、文学は科学ではありません。更に、人文科学はサイエンスとは言いません。ヒューマニティスと表現されます。

実験や観察、すなわち、実証を伴うことが、科学が科学であることの必要条件です。実証とは実験と観察をひっくるめたもので、この2つの違いは大変大切・・
原因と思われる要素を列挙して、他の条件を同じにして実験しなければ良い実験とは言えません。これを変数の分離、条件の整備といいます。・・特定の条件が与えられたときに必ず特定の結果が起こるということを確定付ける「実証計画法に基づいた実証」、あるいは、どんなに物事を精密に観測しても、「観測する計画に基づいた実証」出なければ、科学的実証とは言えません。
人生経験というのも、これに似たようなものではないかと思います。・・その経験は何らかの計画に基づいてなされたものかというと、そうではない。・・幕末の老中首座・阿部正人は25歳にして老中となりました。人生経験といい、人情の機微を見抜く力といい、幕閣を操縦する政治力といい、まさに天才的な能力を持っていた人ですが・・幕末の難局を乗り切ることが出来なかった。・・計画性に基づかない人生経験や苦労によって得られた知識は、ある場合には有効であっても、ある場合にはナンセンスになるというのは、場合場合に応じた判別条件がないからなのです。

それでは、何を実証するのか、何に基づいて計画するのか。それは「理論」です。・・理論が完全に検証されるということはまずありえません。ある部分までは検証されたけれども、ある部分は検証されないという理論は、「よりよき理論」として、更に検証の鎖をたどっていくことになります。これを科学発展の連鎖(chain of scientific development)といいます。

科学理論の特徴は、哲学、神学、文学の理論とはたいへん違っています。法律学の理論とも若干違っています。それは公理論的理論であるということです。・・公理的理論とは何であるかというと、「すべての定理か公理より導きだされるような理論である」と定義することができます。・・カントは純粋理性批判の書き出しに、数学はユークリッドによって最初に基礎が置かれてから、二千年間にわたって進歩に進歩を重ねることができたが、哲学はそのような方法論を欠いたから、アリストテレス以来、まったく進歩をやめてしまったという意味のことを書いています。・・公理的理論、すなわち完全理論は、続いて物理学の世界にもあらわれました。ニュートン古典力学です。

ニュートンの完全理論の偉大さは、その修正としてのアインシュタインの相対性原理と、量子力学を導き出し、物理学を今日の最先進科学に育て上げるのに計り知れない貢献をしました。と同時に、実験計画法を伴うところの実験によって理論を実証するという科学の方法論を確立し、それが、その後のすべての学問のお手本になるという役割も果たしたのでした。
これによって、科学であることの必要にして十分な条件は、

  • 科学は理論と実証の統合である
  • 理論とは完全理論である
  • 実証とは完全な実証計画法を伴った実証である

の3つであることが明らかになりました。

経済学は理論ばかりが猛烈に進んだが、実証は進んでいない。一方、心理学は実験はすごく進んだが、大した理論は生み出されていない。

自然現象の場合は、原因→結果という因果関係が割合はっきりしています。ところが、社会現象の特徴は、そのような一方から他方への直線的な因果関係が成立しないのが普通です。・・相互連関関係と無限の波及過程を分析する一般均衡論の完成には、ワルラス、パレート・・・約80年間かかって作り上げられたものでした。・・あまりにもリファインされた理論のすべてを実験するのは困難です。例えば物理学でも相対性原理における重力波の法則は、つい最近まで実験できなかったように、一般均衡論も理論の一部、特に素朴な部分しか実験されていません。

一般均衡論はどのような犠牲を支払って最先端理論となったのでしょうか。それは極度の単純化によって償われました。
経済人の仮定
分離可能性の仮定:経済現象をそれと密接な関係にある政治、社会、文化現象から分離して、独立に起こり、推移するものと仮定しました。
変数、数量化の仮定

科学はまた、価値を含みません。科学の功罪などと言われますが、功罪とは倫理的な価値判断で、科学を技術として利用する際の人間の主体性に関わる問題です。
科学であるかどうかの違いは、方法にあります。科学は仮説的なモデルを作り、それを実証します。これが科学の生命です。・・日本人はこのあたりの理解が不徹底です。

サミュエルソンの逸話
彼がアメリカ社会学会の会長に就任した時の演説・・これまでの慣行によれば、会長になったものは就任演説において過去における自分の業績を要約して学会に報告することになっているが、私はそれをしない。なんとなれば、私の業績はあまりにも広くかつ大きいから、短時間にそれをすることは不可能だからである。・・誰も異議をとなえることができないほど、圧倒的な学問的業績の持ち主なのです。

学問間にある方法論的落差を利用するということなんです。・・未開社会というのは、インディアンはいるし、ガラガラヘビはいるし、やたらに出向いていけば皆殺しにあいます。だから、そういうところに行くときは、文明の落差を利用する。ジープに乗り、ライフルを持っていけばよろしい。むこうが鉄砲を持ってくるようなら、こちらは機関銃で行く。サムエルソンにとっての機関銃は何かといえば、数学と物理学です。これと経済学との落差は非常にありましたから、言ってみれば、サムエルソンは機関銃でインディアン狩りをしたのと同じになるわけです。
もう一つの秘訣は、このような方法論を使って、過去の諸大家がやり残した問題をやりました。昔の偉い先生は一生かかって何かをやろうとするわけです。ところが立派な学問の宝を探り当てるまでに、大概力尽きて倒れてしまう。探検家と同じで、みすぼらしいライフルを持ち、馬に乗って出かけたから、ダイヤモンドの山を目の前にして無念やガラガラヘビに噛み殺されたり、インディアンの矢にあたったりしてしまいます。
そこのところを、こちらはヘリコプターに機関銃。サムエルソンはまさにそうなのだ。ワルラス、カッセル、ヘクシャー、オリーン、ケインズ、そういう先人がやろうとして途中でくたばってしまった問題を掘り起こしてあれだけの業績をあげた。

丸山真男氏の方法論は非科学的方法論とでも名付けるべきでしょうか、直感的なものによって生の問題意識を学問の世界に乗せることに成功しました。しかし、丸山氏の天才的名人芸による方法論は伝授ができませんので、後継者によって積み上げられるということが不可能です。丸山氏の活動停止によって、政治学全体も縮小再生産に向かい、消滅しつつあります。

大きなビジョンなどというものは、下手をするとアマチュアリズムになります。これは学問にとって有害無益、学問の敵です。・・ほんとうのインターディシプリナリーというのは、2つ以上も学問で専門家として通用しなければダメです。ところが日本では逆で、・・これはナンセンスと言わなければなりません。

わたしの知的生産の技術〈PART1〉 (講談社文庫)

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わたしの知的生産の技術〈PART2〉 (講談社文庫)

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わたしの知的生産の技術 (1978年)

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