物理学天才列伝

  • のちにプランクは、次のように書いている。「我々が絶対の確信を持って求められるであろう唯一のもの、世界中のどんな権力でも奪い取れない最高の美徳、何にも増して永遠の喜びを与えてくれるもの、それは魂の高潔さだ。そして、精密科学の体系の構築へ参加が許されるという幸運をつかんだ者は、探究できるものを探究し、探究できないものには静かに敬意を払った偉大な詩人ゲーテとともに、満足と内なる喜びを知るだろう。」この中のフレーズ、「探究できるものを探究し、探究できないものには静かに敬意を払った」という言葉が、マックス・
    プランクの墓碑銘だったとも言えよう。
  • アインシュタインが量子の世界の探検へ大胆に踏み出そうとしていた一方、プランクは、自分が編み出した理論を率先して批判するようになっていた。量子論構築の取り組みがアインシュタインや新たな世代の手に渡ったことに、プランクは後悔していなかった――喜んでさえいたかもしれない。プランクは後年、皮肉ではなく次のように書いている。「新たな科学的真理の勝利は、反対する人たちを納得させて理解させることによってではなく、それに慣れ親しんだ新たな世代が成長することによってもたらされる。
  • パウリの助手だったルドルフ・パイエルスは、パウリの批評家としての役割を次のように語っている。「未完成の研究や推測にすぎない新たなアイデアをパウリと議論するのは、素晴らしい経験だった。パウリの知性と、学問に対する誠実さが、杜撰や不自然な論証を決して許さなかったからだ。」パウリの批評が効果的だったのは、同業者の弱点に遠慮しなかったところが大きい。「突かれると痛いところを持っている人がいるが、そうした人とやっていくには、なれるまでそこを突くしかない」とパウリは言っている。重要性も小さく一貫性もない論文を読んだとき、パウリはたいてい「間違ってさえいない」と評した。あまり室が高くない論文ばかり書いていたある同業者には、「君がゆっくり考えるのなら気にしないが、考えるより早く発表するなら文句を言う」と語ったという。
  • ミュンヘンでの学生時代のことだった。あるセミナーでアインシュタインの説明を聞き、人で溢れかえった講堂の後ろのほうから合いの手を入れた。「このとお
    り、アインシュタイン氏の言っていることはそれほどばかげてはいない。」
  • 物理学の問題に対するパウリの理解力は、当時の人々の中でも抜きんでていて、おそらくアインシュタインもかなわなかっただろう。ボルンは次のように振り返っている。「ゲッティンゲンで私の助手だったころから、パウリはアインシュタインにも匹敵する天才だと気づいていた。純粋科学の点から見れば、アインシュタインより偉大だっただろう。」排他原理の体系化をはじめ、原子核物理学や素粒子物理学におけるパウリの数々の重要な貢献は、現代物理学の大物たちによる成果と間違いなく肩を並べる。しかしパウリの全般的な偉大さは、アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルクには及ばない。
  • パウリはその才能ゆえに、かえって自分を抑えつけていたところがあった。ときには物理を理解しすぎることもあった。批判的な感覚があまりに鋭く、またあまりに幅広い範囲に及んだため、その才能を、同時代の人々の想像力や直観力に合わせた形では発揮できなかったのだった。パウリは、やがて古典物理学の原理を無視して大成功を収めるハイゼンベルクに対して次のように言った。「古典物理学の見事な一貫性に明るくなかったら、道を見つけるのはもっとずっと簡単だろう。君はまさにその点が強みだ。」そして好意的に次のように付け加えた。「知識がないからといって成功するとは限らない。」
  • しかし、パウリ本人は自らの鋭い批判的な感覚に邪魔されていたとしても、多くの同業者にとってそれはインスピレーションの源だった。偉大な文学批評家と同じく、パウリの批評は、耳を傾けるだけの知性を持った人にとっては、鋭く、ときには痛いところを突くものの、経験と直観のバランスが取れていた。現代物理学における優れた理論研究の大半に、パウリ本人、あるいはその精神が、「目の前に座っていて冷ややかな笑みを浮かべながら」関わっているのだと言えよう。
  • ハイゼンベルクが構築した理論構造は、原子物理学の世界では見慣れないものだった。形式的にはニュートン運動方程式に似た数学モデルに従った方法だが、その他の点では、古典的なモデルや「描像」といったものとは漠然としか繋がっていない。すぐに量子論を席巻することとなるその基本的姿勢を、ポール・ディラックはのちに単刀直入に評している。「物理科学の主目的は、描像を提供することではなく、現象を支配する法則を定式化し、それらの法則を使って新たな現象を発見することだ。描像があるに越したことはないが、描像があるかどうかという問題は二の次でしかない。」
  • ゲッティンゲンから背負ってきた「数学的重荷」を、無限を垣間見られるヘルゴラントの2階の部屋からすべて投げ捨てたハイゼンベルクは、すぐに新たな力学の形式を考えついた。そしてそれが具体的な姿を現してきて、物理的にも数学的にも一貫性があることが分かると、興奮のあまり取り乱し一「無数の間違いを犯しはじめた」 ――、そして奇妙な不安にも襲われた。「初めは大変怯えていた。原子的現象という外面の奥に奇妙なほど美しい内面が見えたように感じ、自然が惜しみなく見せてくれたこの豊かな数学的構造を調べ尽くさなければと考えると、目もくらむような思いがした。」初めて計算がうまくいったのは、午前3時のことだった。眠ることなどできなかった。「そこで、空が白みはじめると島の南端へ向かった。海へ突き出した岩には前から登ってみたかった。そのとき初めて登り、・・・・・・太陽が上がってくるのを待った。」
  • しかし最初の楽観と興奮が収まると、この新たな力学に不安を感じはじめる。奇妙な形式の代数を使っていたためだった。ハイゼンベルクの方法において正方形の表で表される2つの変数xとyは、奇妙な掛け算の規則に従う。通常の代数とは違い、積xyと、因数を逆転させた積yx が数学的に異なる。「xy と yxが違うという事実はとても不愉快だった。体系全体の中でその点だけが問題で、それがなければ完璧なのにと思った」とハイゼンベルクは書いている。
  • 物理学者たちは、数学的困難をどう処理すればいいかについて、適切な助言には不自由しなかった。ゲッティンゲンには大物数学者ダーフィト・ヒルベルトが住んでいて、物理学者たちが学ばなければならない数学的言語を、世界中の誰よりも流暢にしゃべっていた。そのときゲッティンゲンにいたアメリカ人のエドワード・コンドンは、ヒルベルトの助言について次のように語っている。「ヒルベルトは、ボルンやハイゼンベルク、そしてゲッティンゲンの理論物理学者たちを笑いものにしていた。行列力学を初めて発見した彼らが、無理もないことだが、行列の問題を解き、行列を操って役に立てようとする人たちと同じたぐいの困難を抱えていたからだった。そこで彼らもヒルベルトに助けを求めた。」
  • ヒルベルトは彼らに、もう一つの数学的慣用語法である微分方程式で記された問題の形式的側面を明らかにする上で、行列は便利な道具になると教えた。そして、物理学者は長年にわたり微分方程式を使って別の問題を大きく発展させてきたのだから、行列ももっと使いやすい別の種類の方程式が姿を変えたものかもしれないと提案する。コンドンによれば、ゲッティンンの理論家たちは、「ばかげた考え方で、ヒルベルトは自分が何を言っているのか分かっていないと思った。」しかし、ヒルベルトが間違いを犯すことはめったになかった。わずか6ヶ月後、エルヴィン・シュレーディンガーヒルベルトの予言した方程式を見つけ、行列力学と同じかそれ以上のことを、微分方程式というなじみの方法で成し遂げられることを示す。
  • 20世紀物理学の年代記作家として傑出したアブラハム・パイス曰く、量子力学は、モーツァルトの音楽に対するウラジミール・ホロヴィッツの評価に似ているという。「初心者には簡単すぎて、専門家には難しすぎる。」つまり、量子力学を表面的に理解すれば計算——演奏——はできるが、その計算が何を意味するかを完全に理解する(ホロヴィッツモーツァルトをマスターしたように)のははるかに難しい。シュレーディンガー方程式やその精密化の物理的解釈は、シュレーディンガーの原論文が発表されてから長い年月が経った現在でもなお、活発な論争の的となっている。
  • 分子の世界では、分子がどのようにして統計的性質を生み出すのかを、実際に見ることができる。しかし現代の物理学者のほとんどは、長年にわたって蓄積されてきた理論的実験的証拠から、量子力学による統計的描像はそのようには解釈できないと確信している。量子世界の究極の実在は統計的であって、それ以上のものではないのだ。
  • シュレーディンガーが方程式を導いたのと同じころ、ハイゼンベルクは、量子論の持つ統計的性質を別の方法で明らかにする論文を発表した。ハイゼンベルクの最も重要な業績の一つであるその発見は「不確定性原理」と呼ばれていて、そこからはいくつもの驚くべき結論が導かれる。その一つとして、原子中の電子など粒子の位置を正確に測定すると、どうしてもその電子が影響を受け、その後の振る舞いはほぼ完全に不確定となる。
  • アイルランド理論物理学者のジョン・ベルは、かなり強情で、自分のことを「量子工学者」と呼んでいた。拠点としていたのは、ジュネーヴ近郊、フランスとの国境の上に広がる巨大な素粒子研究所、CERN(欧州原子核研究機構)だ。「工学者」であるベルは、巨大な粒子加速器におけるビームの集束の理論に幅広く貢献した。そしてまた、研究人生の大半にわたり、量子力学の基礎に関する果てしない論争に強い興味を抱いていた。1964年、36歳のベルはある無名の雑誌に、『アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスについて』という、短いが難解な論文を発表した。この論文の中心をなすのが、局所性の仮定を満たすすべての隠された変数理論においては成り立つが、量子力学では予想どおり成り立たないような、ある不等式として表された定理だ。アインシュタインポドルスキー、ローゼンが指摘した矛盾が、再び採り上げられたのだった。
  • ベルの論文は5年間ほとんど無視されていた。しかし突然、実験物理学者たちが、ベルの定理アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンの結論を導く単なる代わりの方法ではないことに気づく。その不等式は実験的にテストできるというのだ。ジェレミー・バーンシュタインは、ベルの人物評の中で次のように書いている。「そのようなテストによって、他ならぬ量子論の意義と有効性が危機に曝された。もしベルの不等式が成り立てば、量子論は本質的に不完全だというアインシュタインの直観が完全に正しかったことになる。もしその不等式が成り立たなければ、少なくともかなりの数の物理学者が信じていたように、ボーアやハイゼンベルクは完全に正しく、古典物理学へ戻るのは不可能だということになる。」
  • 実験は容易ではなかった。まず、絡み合った光子のペアを発生させる適当な方法を開発しなければならない。また、それぞれの光子を何キロメートルも離れた場所へ導き、相関があることを確かめ、一方の影響がもう一方へ及ぶまでの時間を測定できるようにしなければならない。最初の実験は1970代前半に報告され、さらに拡張改良されて細かな欠陥が取り除かれていった。今では、実験データはベルの定理と相容れないことが明らかとなっている。量子力学が勝利し、アインシュタインによる局所的な現実性という概念は敗北したのだった。「局所的な決定論的理論によって量子論を『完全なものにする』というアインシュタインのもくろみが見当違いだったことが、今や圧倒的な証拠から分かっている。局所的な現実性は成り立たないの
  • ベルはバーンシュタインに、ちょっと残念だったと語っている。「私が理にかなっていると思うのは、これらの実験で使われる光子はあらかじめ関連づけられた予定表を携えていて、そこには光子がどのように振る舞うべきかが[アインシュタインの局所的な現実性によって認められるように]記されているという考え方だ。その方が合理的なので、アインシュタインがそのように考え、他の人たち[ボーア、ハイゼンベルク、パウリなど]が否定したとき、筋道が立っているのはアインシュタインのほうだと思った。・・・だから、アインシュタインの考えが上手く行かなかったのは残念だ。合理的なものがうまくいかなかったのだから。」
  • ニュートン、ファラデー、マクスウェル、ギプス、アインシュタイン、ボーアといった本書に登場する英雄たちと同じく、ラザフォードも、困難で厄介な問題に、鋭敏な感覚や情熱を失うことなく長時間集中できた。飽きというものを知らなかったらしい。マンチェスターの卒業生ハロルド・ロビンソンによれば、ラザフォードは、どんなにひどい状況でも研究室での仕事を純粋に楽しんでいたという。
  • 最後にもう一つラザフォードの成功の秘訣を付け加えるとすれば、それは運である。学者人生を歩みはじめたちょうどそのころに放射能が発見され、ラザフォードは自分にぴったりの研究へと導かれていった。もし例えば30年遅く生まれていても、はたして同じように成功していただろうか? 成功していなかったかもしれない。しかし、自分で運をつかむというその驚くべき才能を見くびってはならない。ラザフォードが放射能の研究を始めたとき、母親に語っているように「この研究の道には他にも何人か短距離選手」がいたが、彼らの成果を足し合わせてもラザフォードにはかなわない。あるとき政治家のアーサー・イヴがラザフォードに、「あなたはいつも波に乗っていて幸運です!」と言った。するとラザフォードは、「おい! 私が波を作っているんだろう?」と言い返し、後から「少なくともある程度は」と付け足したという。

 

  • 定理、きわめて洗練された概念、複雑な証明など、すべてのことに私がまだ精通していなかったら申し訳ない。.……そのうち多くは、講義の後のほうでもっとはっきり分かってくると思う。今日はただ、本当にささやかだが、私の考え方や感じ方のすべて、私自身が持っているすべてを提供しよう。同じくあなた方にも、講義の間いくつものことをお願いしたい。集中して耳を傾けること、熱心に勉強すること、意志を失わないことだ。しかしその前に、私にとって一番大切なものを提供していただきたい。あなた方の自信、思いやり、愛情、一言で言えば、あなた方が与えられる最も素晴らしいもの、あなた方自身だ。
  • マイトナーは心奪われた。そしてボルツマンが求めているものをすべて差し出し、その見返りに当時の理論物理学の優れた導と科基礎知識を獲得した。マイトナーが取るボルツマンの講義ノートに、やはりボルツマンの学生でのちに傑出した理論家となるパウル・エーレンフェストの目は釘付けとなる。2人は一緒に勉強し、マイトナーにとっては、エーレンフェストの想像力に富んだ説明もボルツマンの講義と同じくらい役に立った。マイトナーはのちに次のように書いている。「[エーレンフェストは]教え方がとてもうまく、刺激になった。一緒に勉強したことで私の科学の力がとても伸びたのは間違いない。」しかし内気で純真なマイトナーは、愛嬌があってもっと俗っぽいエーレンフェストにときどき嫌気も差した。「正直言って、まったく個人的なことを聞かれて迷惑なこともあった」という。
  • フェルミの飛び抜けた才能の中でも大きかったのが、決して一ヵ所に留まらなかったことだと言えよう。新しい前途有望な研究分野を切り開いても、その先駆けとなる研究を完成させただけで、さらに新たな分野の探究へと移ってしまった。量子統計やB崩壊に関する重要な論文を発表しても、それらの続編は書かなかった。シカゴパイルを実現させてしまうと、原子炉はもはや中心的な研究対象ではなくなった。シカゴでは続いて、固体の研究に中性子線が役に立つことを明らかにし、他の研究者たちがそれに続いた。成熟した研究分野は、フェルミの性に合わなかった。冒険を続ける「イタリア人航海者」は、新たな分野を探し、そして必ず見つけたのだった。
  • フェルミは1945年後半にロスアラモスと爆弾から足を洗い、シカゴへ戻ってきた。翌年、シカゴ大学原子核研究所が設立され、フェルミは、管理業務を伴わず、しかも影響力のあるポストに就いた。今度の実験ツールは、シカゴパイルが誕生したスタジアムの西側スタンドから通りを隔てたところに建設された、新たなサイクロトロンだった。ラウラ・フェルミは次のように書いている。「このサイクロトロンがエンリコの新しいおもちゃだった。1951年の夏じゅう、昼も夜もそのサイクロトロンで遊んでいた。いつもの日課が狂ってもお構いなしだった。」理論的ツールとして中性子に取って代わったのは、当時、核子(陽子と中性子)を仲立ちして原子核の中で繋ぎ止めていると考えられていた、メソン(中間子)だった。フェルミサイクロトロンを使って、メソンと核子との相互作用を実験的に研究した。
  • ファインマンは、物理学者としてもそれ以外の生活の中でも、常に冒険を好んだ。研究上の問題に取り組むときは、その分野全体を自分なりに構成しなおし、本人曰く「ひっくり返さないと」気が済まなかった。カルテックの研究室の黒板には、「作り出せないものは理解できない」と書いていた。博士論文では、ハイゼンベルクシュレーディンガーディラックとは違うまったく新たな量子力学の方法を構築し、それを電子と光子との相互作用の理論に応用して見事な成功を収めた。
  • ファインマンは、未解決なことや不確実なことを恐れなかった。「ものを知らないことや、謎めいた宇宙の中であてどなくさまようことを、怖いとは感じない。恐れはしない」と書いている。未解決問題がファインマンのやる気を刺激し、それが発見、「物事を探り出す楽しみ」へと繋がった。謎が一つ解けるとたいてい別の謎が生まれたが、それでも気にしなかった。
  • 「知識が増えれば、もっと深く不思議な謎が姿を現し、ますますのめり込む。期待はずれの答えかもしれないなどと心配するな。楽しむ心と自信を持って新しい石を一つずつひっくり返していけば、そのたびに想像もしなかったような奇妙なものが見つかり、もっと素晴らしい疑問が出てくる。間違いなく壮大な冒険だ!」
  • ファインマン日く、「人類の手の届かない宇宙に思いを巡らせ、人類がいなければ宇宙にどんな意味があるのかと考えることは、宗教的な経験だ。宇宙の長い歴史のほとんどで人類は存在していなかったし、今でもその大部分がそうなのだが。」
  • 持ち前の創造性に見放される。以前の研究とは違い、数学的な美的感覚が成功への道案内とはならなかった。1940年代後半に登場して最終的に電磁力学の問題を解決した理論を、ディラックは、その特異な性質ゆえ受け入れられなかった。リチャード・ファインマン、ジュリアン・シュウィンガー、朝永振一郎フリーマン・ダイソンが編み出したその理論は、電子の性質を計算し、素粒子間のあらゆる種類の相互作用を取り扱う道具としては、目覚ましい成功を収めた。しかしこの理論の式には無限大の量が隠されていて、その数学的形式には欠陥があった。無限大は加減乗除さえできない。この理論に欠かせないのが、測定パラメータによって無限を吸収してしまうという、「繰り込み」と呼ばれる数学的な妙策だ。電子の質量と電荷はこの方法を使って計算する。結果として、測定される電子の質量mと電荷eが式に入ってきて、不愉快な無限大は、頭から離れないとしても視界からは消えてなくなる。
  • ディラックは、これを数学的に醜いと受け止めた。そして何十年もかけて電磁力学の式に数学的な美を取り戻そうと試みたが、結局成功しなかった。1979年、77歳になったディラックは、次のような暗い見通しを口にした。「私は生涯を賭けて量子電磁力学のより良い式を探してきて、今のところ成功してはいないが、これからも続けていく。一般的な電磁力学理論には美しくない無限大が含まれていて、それを取り除かなければ正しいものにはならないだろう。」同僚たちがかつてないほど正確な繰り込み理論を使う中、ディラックは孤立を深めていった。

 

  • ゲルマンの考えによれば、物理学者を評価するには、その人が発表した正しいアイデアの数から、正しくないアイデアの数の2倍を引き算した値を使うべきだという。クォークに関する最初の論文を発表したときにはまだ、この理論は引き算のほうに入るのではないかと心配していた。理論家が40年以上頼りにしてきた統計的原理、すなわちパウリの排他原理と矛盾しているからだった。クォークは電子と同じく、1/2というスピンを持っている。つまりクォークフェルミオンの一員であり、互いに接近した2個以上の粒子が同じ量子状態を占めることはできないという、排他原理に従わなければならない。しかし、例えばΩ^-1粒子では狭い領域の中に3つのsクォークが含まれていて、いずれも同じ量子状態にあるように思える。
  • 理論家にとって、何十年も役立ってきた原理を捨てることほど不愉快なものはなく、パウリの原理を放棄しようとする人もほとんどいなかった。一方でクォーク理論をあっさり手放そうとする人はいたが、実は良い解決法があった。理論を拡張し、Ω^-1粒子の中に集められた3つのクォークにそれぞれ異なる量子的性質を与えるという方法だ。この種の理論を最初に提案し たのが、ハン・ムー = ヤンと南部陽一郎だった。

 

  • スブラマニヤン・チャンドラセカール――同僚、友人、親戚には「チャンドラ」と呼ばれていたーーは、妻のラリサによく、生涯自分につきまとう生と死のサイクルを嘆いた歌を歌ってもらった。1910年代から20年代にかけてイギリスを代表する天体物理学者だったアーサー・エディントンとの奇妙な出来事以降、頭の中での生と死のサイクルがチャンドラの研究活動のパターンとなっていた。ラリサはこの独特のやり方を次のように振り返っている。「一つの分野、つまりサイクルは……10から15年だった。研究分野を選び、その分野に関して手に入る文献を勉強し、自分の研究を進め、その分野に関する論文を書き、最後に、目の前に並んだ題材をすべて集めて、その分野に関する首尾一貫した一冊の本へまとめ上げた。」
  • 本の完成はチャンドラにとって死を意味し、その分野についてはそれ以上何も語らず、些細な問題が残っていてもそれに時間を割こうとはしなかった。

  • 「あなたの写真で感動したのは、達成しようという内なる感情が、とてつもなく印象的な形で視覚的に表現されていることでした。梯子を途中まで登っていますが、視線を向けてたとり着こうとしているもののおぼろげにしか見えない構造物へは、たとえてっぺんまで登れたとしてもまったく手が届きません。影のせいで自分の位置がさらに低く感じられ、目標に絶対到達できないことがますます強調されています。」
  • チャンドラの伝記作家カメシュワル・ワリが引用しているこの希望に欠けた言葉から、研究に対するチャンドラの意欲は窺い知れない。チャンドラは、最も深遠な意味で学者だった。ヴィクター・ワイスコップはワリに、次のように語っている。「チャンドラは理想的な物理学者で、厚かましいところがなく、ポストや知名度、評価さえも求めようとしなかった。教養の深さ、人間主義的なやり方、……そして世界中の文献、とくにイギリスの文献に関する知識は飛び抜けていた。要するに、あれほど教養の高い物理学者や天文学者は他に見つからないだろう。」 チャンドラは学者でありながら、学ぶことをやめなかった。学生の一人は、「チャンドラは権威を少しも気に掛けなかった。やったことはすべて、好奇心をもとに生産的な形で生み出された」と語っている。
  • チャンドラはノーベル賞受賞記念講演において、「学者に課せられた課題は、選んだそれぞれの分野で全体像を追い求めることだ」と言っている。単に「私見だ」と断りながら、自分が進めたいのは「私の視点を第1原理から、秩序、形式、構造を使って一貫した形で提示することだ」と語る。それをチャンドラはおよそ60年にわたって繰り返しおこなったのだった。