強い影響力を持っているのは、社会通念を通して植えつけられた常識だ。しかし、常識を心の中から一層したとしても、家族や教師や友人から得た否定的な思い込みがしつこくつきまとい、放っておけば、やはり足元をすくわれてしまうだろう。ここで私たちがしなければならないのは、それらに直面することなのだ。
創造性を阻まれている私たちは、脚光を浴びている偽のアーティストに敵愾心をいだきやすい。本当に才能があるアーティストには一目置くかもしれないが、自己宣伝の天才には憤りを感じてしまうのだ。
それは単なる妬みではない。停滞した自分自身を正当化するための口実なのだ。
確かに、自分で一歩を踏み出しさえすれば、あなたはもっとうまくできたかもしれない。しかし、恐れのためにその一歩を踏み出せなかったのは自分自身なのだ。
一歩を踏み出すには、自分を肯定することからはじめなければならない。自分を批判する十分の一でも自分をうまく肯定できるようになれば、大きな変化が起こるだろう。
クレイジーメーカーがそれほどまでにわずらわしい存在なら、なぜ私たちは彼らに巻き込まれたりするのだろう?厳しいかもしれないが、答えは簡単だ。私達自身もまた、正気を失っており、自己破壊的になっているからである。
創造性を阻止されている私たちは、ずっと今のままでいることを願っている。というのも、他人に酷使されることに甘んじている方が、創造的な人生に挑戦するよりはるかにリスクが少ないからだ。ただ、それを素直に認めたくないばかりに私たちは、創造的になったら自分もクレイジーメーカーのような存在になり、周囲の人をわずらわせるのではないかと恐れるのだ。
善人の罠
アーティストは何もしないでいる時間をもたなければならない。こうした時間をもつ権利を守るには、勇気や信念、さらには切り替えの能力がいる。
創造のための孤独が確保されないと、私たちの中のアーティストはイライラして怒りをつのらせ、不機嫌になる。
本来の自分を育もうとせず、一つのところに停滞することには、大きな代償が伴う。なのに多くのアーティストは、もし自分たちが、今本当にしたいことや、ずっとやりたかったことをしたら、友人や家族、配偶者に何が起こるかわからないと気づかい、行動を差し控えているのだ。
創造性を回復する道の途上にいる多くの人たちは、善人を演じることによって自分自身を妨害するケースがひじょうに多い。だが、作り物の美徳には法外な代償が伴う。
誰でも、いい人だと思われたい、人の役に立つ人間でありたい、利他的な人間でありたい、と考える。また、寛大な心を持ち、世の中に尽くしたいと願う。だが、心の底から本当に求めているのは、「放っておかれること」である。それが実現できないと、最後には自分自身を捨ててしまう。
人はみな、自分勝手だと思われたくないばかりに、自分を見失い、自己破壊的になる。この事故殺人は意識的ではなく、潜在的に進行するものなので、私たちはそれになかなか気づけない。
アートとは、心の中の創造の源にチューニングを合わせ、そこで聞いたものを「降ろす」行為である。
ほとんどの作家は、詩や文章がインスピレーションによって生まれる瞬間を知っている。私たちはそれを小さな奇跡と考えるが、実際には、それが創造の原点だということに気づいていない。私たちは自分の作品の著者と言うよりも媒介者なのだ。
ミケランジェロは、大理石のかたまりの中にダビデを見出し、開放したと述べたと伝えられている。
「絵画は独自の生命をもっています。私の仕事はそれを引き出すことなのです」とジャクソン・ポロックは語った。
私たちは訓練を積むことによって、好みの周波数にチューニングを合わせ、自分のアーティスト・チャイルドの声を親のように聞き分ける方法を学ぶのだ。
想像することは決して自然に背く行為でも、わがままな行為でもない。宇宙は創造を歓迎し、手を貸そうと待っている。
ティリー・オルセンは、創作者が完璧主義を貫こうとすることを、「鋭利なナイフを振り回す」ような危険なこととみなした。
完璧主義とは、自分を前進させることへの拒絶なのだ。・・・完璧主義にとらわれた人は、過ちを恐れるあまり作品の細部にこだわり、全体を見失う。こうして自分の独創性を、面白みのない不自然な画一性に変えてしまうのだ。
プロセスを楽しもうとせず、絶えず結果を気にしている。
完璧主義者は論理脳と結婚してしまったのだ。完璧主義者の家庭に君臨するのは批評家である。
「絵画は決して終わらない。それは興味深いところで止まるだけだ。」とポール・ガードナーは語った。・・・手放す・・・それが普通の創造のやり方である。
リスクを負うには、自分で自分に押し付けている限界をきっぱり捨てなければならない。・・・言い訳は単なる自己防衛であることが多い。あるいは、臆病ゆえに、そうした言い訳に終止している場合もある。ふつう「自分にはできない」というとき、私たちはじつは、「完璧にできるという保証がない限り、やりたくない」と言っているのである。
創造性を阻まれているアーティストは、無謀にも自分が成功することを期待し、他人からその成功を認められたいと思う。この暗黙の欲求を持っているかぎり、多くのことが私たちの手からすり抜けていく。
やる価値があるものは下手でもやる価値がある、ということを受け入れてしまえば、選択の幅が広がる。完璧にやる必要がないなら、こんなことをやってみたい、というもののリストを掲げてみよう。
リスクを負うこと自体に価値があると言い換えてもいい。リスクを恐れずに未知のものに立ち向かっていけば、全身に力がみなぎり、新たな挑戦に立ち向かう勇気がわいてくる。そうやって自分の枠を広げていくことが、創造の舞台を広げる原動力になるのだ。
嫉妬はつねに恐怖を覆い隠す仮面である。自分が欲するものを手に入れられないのではという恐れ、自分にあっていると思いながら怖くて手を伸ばせないものを、他人がやすやすと手に入れていることへのいらだち。そういった感情を覆い隠す仮面なのだ。
さまざまな喪失を乗り越えて生き抜いていくことである。希望の喪失、面目の喪失、お金の喪失、自身の喪失・・・。あらゆる種類の喪失を乗り越えて、生きるすべを身につける必要がある。
喪失の苦しみを乗り越えるには、それを受け入れ、分かち合わなければならない。
アーティストを痛めつける批評は、悪意であれ善意であれ、要点を突いていないのにもっともらしく、論理的に反論できない総括的な判断を下そうとするものである。
大学・・・彼らは知的な会話には長けているが、それに頼るあまり、自分自身の創造的な衝動から切り離されている。・・・創造性とは勉強するものではなく、実践するものだということがわかっていないのだ。
大学は、想像する精神を妨げる、はるかに微妙な恐るべき障害を抱えている。・・・明確な敵意なら対処の仕方もあるだろう。しかし、さらに危険でぞっとするのは、教師が学生たちの創造性に関心を示さず、無視していたことだ。
彼らは創造性を伸ばすもっとも基本的な栄養素である「励まし」を与えるのを怠っていたのだ。
才能を開花させようとしているアーティストたちは、知性偏重主義が創造意欲を失わせることを知っていると言いたいのだ。
アーティストと知識人は、種類の違う人間だ。・・・残念なのは、批評する力を磨くのと同じ技術が、アーティストの卵の努力に対して、誤って採用されていたことだった。
豊かな才能を内に秘めている人たちでも、ずうずうしさにかけていると、批評による虐待や無視による栄養不良によって簡単に才能を摘み取られ、才能を発揮できずに終わってしまう。
言い訳を並べることによって、私たちは初心者になる面倒臭さから逃れようとするのだ。
「年を取りすぎている」は、恐怖に直面するのを避けようとするとき、必ず使われる逃げ口上である。
私たちが本当に気にしているのは年齢ではない。人のやらないことをして、他人に白い目で見られたくないだけなのだ。
子どもたちは自意識にしばられていない。創造性の流れに入り込めば、私たちも自意識から解放される。
創作意欲の減退を感じている人は、プロセスを楽しめなくなっている場合が多い。私たちはもっぱら技術を習得することや、作品を作ることに注目したがる。このような最終結果への執着は、創造性とは、「してしまったこと」ではなく「していること」の内にある事実をないがしろにする。
作品を作ることは、さらに完成度の高い作品を作るためのステップになると言いたいのだ。
自分が言い訳を言っていないかどうか振り返ってみよう。そして、自分がエゴのためらいを押し切って、新しいことを始める勇気と謙虚さをもてるかどうか自問してみよう。
手順を踏むことは、持っていないものに不平をこぼすのではなく、持っているものに取り組むことを意味する。
創造的な人生においては、小さな行動が大きな動きを生み出すのである。
詩人のセオドア・ローザックが書いているように、「私たちはどこに行かなければならないかを、行くことによって知る」。こつこつと手順を踏んでいくと、わざわざ大きな変化を生み出そうとする必要はないことがわかってくる。大きな変化は、小さな変化の積み重ねによって自然に生じるからだ。
創造したいのに創造できないことを、私たちはずっと怠惰と呼んできた。これでは、正確さを書くどころか、自分を不当に貶める(おとしめる)ことになるだろう。物事を正確に表現することは、自分への思いやりにもつながるのだ。
創造性を阻まれている人たちは、はた目にはわからないが、大量のエネルギーを使っている。それらのエネルギーは自己嫌悪や公開、嘆き、悲しみ、嫉妬、さらには自分を疑うことに使われる。
自己鍛錬はそもそもナルシズムに根ざしている。自分はこんなにも素晴らしいことができるんだと、自分で自分を称賛するのだ。このタイプの人にとっての目的は、何かを作り出したり、成し遂げたりすることではなく、鍛錬すること自体にある。
長時間、創作活動に打ち込むために必要なのは、鍛錬ではなく、熱意である。熱意とは感情の高ぶりではない。創造のプロセスに進んで身を任せ、周囲のすべてのものに創造性が働いていることを受け入れる姿勢を表している。
アートの楽しみが、創作すること自体にあることを思い出そう。旅をすること自体が目的だと言ってもいい。それは、創作に打ち込むとき、時間という場で創造性が働いていることを意味している。その核心にあるのは、遊ぶ楽しさである。
多くの人が健康なアーティストになろうとしないのは、傷ついたアーティストでいるほうが同情を集められるからだ。想像することではなく、同情を支えにしているアーティストは、自由に創作できるようになると、恐怖を覚えることさえある。・・・成功者でいるためには、精力的に作品を生み出し続けるリスクを追わなければならず、それよりも、創造性を阻まれた犠牲者でいるほうが楽なのだ。
障害物競走の馬が、障害物の前で怖じ気づき、何回か馬場を回った後に、また跳躍に挑戦するように、少し時間をおいてみるのだ。
アーティストたちの成功は、つねに挫折の上に成り立っている。大切なのは、挫折を避けて通ることではなく、挫折したときに、それを乗り越えて生き残る力なのだ。苦しくなったら、どんなにすぐれたアーティストも苦難のときを乗り越えてきたことを思い出そう。
アーティストしての信用が、自分と創造主と作品とにあることを心に刻んでおこう。言い換えれば、私たちは書きたい詩があるから書くのである。それが売れるかどうかは、また別の問題だ。
私たちは、創造せずにいられないものがあるから創造する。アーティストは経済的な利益だけを考えて、自らの方向性を決めることはできない。それが悪いと言っているのではない。けれども、お金の流れに心を奪われすぎると、内なるアーティストは窒息し、傷ついてしまうかもしれない。
自らの創造性を高めたければ、つきあう人を慎重に選ぶことが大切である。あなたの中のアーティストを「あなたのためよ」と称して抑えつけてしまうような人とはつきあわないほうが賢明だろう。友達には、あなたがより創造的になるのを助けてくれる人もいれば、逆に、邪魔をする人もいるのだ。
生き方とアートは切っても切れない関係にある。つまらない人生を送っていると、それが否応なく作品にも反映されるのだ。
アーティストとしての私の自尊心は、作品を作ることによってしか育めない。
アーティストである私は金持ちになる必要はないが、作品を作るための豊かな資金源は必要である。作品を作れないと、私は精神的にも情緒的にも行き詰まり、次第に気分がすさんでいき、落ち込んでしまう。
自身がないからという理由で、自分の夢を捨ててしまうのは、自分自身に責任を持たないということである。創造的に生きるかどうかを決めるのはあなた自身であって、まわりのひとや友人ではないのだ。
アートからビジネスが派生することは少なくない。だが、創造という行為はビジネスのためにやるものではない。・・・どんなに独創的な作品でも、同様なものを作り続ければ、やがて飽きられてしまうのは目に見えている。
いったん成功をおさめると、売らんがために、同じ表現の繰り返しを求められるのだ。しかし、それを受け入れるかどうかは、アーティストの選択にかかっている。
成功したアーティストにとって重要なのは、未来を抵当に入れないことである。
アーティストが創造的であり続けるには、売れ筋だけを手がかけるのではなく、創作する人間として満足のいく仕事も手がけていかなければならないと言っているのである。
重要なのは、自分自身の創造性を磨くための内的な欲求に、どうやってこたえつづけるかなのだ。
創造性を回復しつつある人は、良い仕事に恵まれたとき、「人の楽しみにケチをつける」身近な人にそのことを伝えずにはいられなくなる傾向がある。もっとも疑り深い友人に自分の熱意を語ってしまうのだ。
不幸にも、多くの母親は子供の熱意に水を差す役割を果たす。しかも、私たちの周囲には、母親に代わって、足を引っ張ろうとする人が手ぐすねを引いて待ち構えている。要は、彼らに、そんなことをさせないことだ。
口を滑らせないこと。自分の望みを胸のうちに閉まっておき、大切に育てることが必要なのだ。
自分の道をふさぐ障害から逃れたければ、自分の意見を軽々しく明かさず、疑り深い人達の間では沈黙を守り、自分を理解してくれる人を正確に見抜き、その人達だけに自分の考えを述べる術を学ばなければならない。
リストを作ってみたらどうだろう。自分を応援してくれる友人のリストと、自分の足を引っ張ろうとする友人のリストである。後者の友人たちを濡れた毛布と名づけよう。あなたは自分自身を乾いた毛布で包まなければならない。ふわふわした暖かい毛布が必要なのだ。
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