昔話の戦略思考

より本質的なのは、先の爺さんの成功体験という、たった一つの観測データから、上手な舞がこぶ取りに繋がるという法則が成り立つかのように、欲張り爺さんが思い込んでしまったたことではないだろうか。 

全く同一の前提条件を再現できない限り、ある戦略に対する反応が同一であるとは限らない。また仮に前提上限が同じでも、対応する結果には偶然が入り込む余地が大いにある。

浦島太郎が不幸だと感じるのは、竜宮に行くための機会費用が十分に高かったはずだと私たちが勝手に思うからである。・・・時代背景を考えれば、食事や燃料も満足に得られず、日々の生存に汲々とせねばらないのが庶民の生活と考えるのが妥当であろう。・・・3年間とはいえじっくりと究極の遊びを楽しんだ太郎は、随分と幸運だったことになる。

土産が一種類で婆さんに選択の余地がなかったなら、明らかに雀たちが悪意を持ってひどい目に合わせようとして用意したものであるから、婆さんはただただ雀を呪ったであろう。ところが、婆さんは、こんなことなら小さい方にしておけばよかったのにという、自戒の念で苦しむのである。つまり、雀たちからすれば、自分たちが恨まれることなく、復讐劇を完結することが出来るのだ。

 一匹一匹がバラバラに仕事をしたのでは力不足だが、整然とした役割分担で組織として見事な能力を発揮し、手強い鬼に辛勝するというすじであったならば、「桃太郎」は経済学で言う分業による価値創造の仮定が巧妙に織り込まれた実に味わい深い作品であると、私はここに書いたことであろう。ところが桃太郎の話では、鬼との合戦場面は実に淡白である。経済学的な分業の教訓どころか、軍事戦術的な機略も全く感じられない。私が調べたどの童話でも、きびだんごを食べた桃太郎とその一行は、すぐさま日本一強力な戦闘集団と化す。・・・戦略的な幼稚さに加え、このような倫理的な不備もあるから、話がつまらないのだ。

わらしべ長者・・・自発的な取引によって経済学的な利益が生まれ、さらに取引に参加したすべての人たちは利益を受け取ることができる、すなわち交換による経済学的価値の創造という、教科書の第一章に出てくる経済の基本原則が美しく表現されている。

わらしべを家に変えた男が大いに利益を得たことは言うまでもないが、他の人達も利を得ていることを忘れてはならない。

市場の非完備性・・・わらしべを持った男が大儲けできたのは、これらの人の間では直接に取引できる場が完備しておらず、また取引を媒介できる人物が彼しかいなかったからである。言い換えれば、これらの人たちの間に眠る経済学的価値を引き出すことが出来るのは、わらしべの男しかいなかったからだ。