Ep1.
Ep2.
Ep3.
Ep4.
Ep5.
Ep6.
Ep7.
Ep8.
ラスト
Ep1.
Ep2.
Ep3.
Ep4.
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Ep6.
Ep7.
Ep8.
ラスト
完全競争という幻想
不完全な市場システム
市場が存在しない領域
私的所有が効率的な資源の配分を妨げる
ヘンリー・ジョージの「土地税」と「モノポリー」 ゲーム
ジョージ主義の欠陥
中央計画制の欠点
私的な交渉と独占問題
設計によって競争を促進する
ヴィックリーが提示したオークションという制度
オークションの問題点とその解決策
「共同所有自己申告税(COST)」によって所有権を社会と保有者で共有する
一税二鳥
借り入れという問題も解決される
取引の障害が減少する
民主主義を根本から改革する
このように、現代民主主義の創造者たちは新しい政治秩序を築いたが、自分たちがつくったものに不安を感じていた。少数者の権利が守られていない。多数者が専制している。 悪しき候補者が逆説的に勝つ。多数決を繰り返すと独裁体制が生まれる。そして、民主主義では見識の高い人の意見が無視される傾向がある。すべては、人々の要求や関心の強さの度合いも、一部の有権者の優れた知見や経験も反映されないという、民主主義の弱点に原因があった。要求も関心もより強い人に資源を割り当て、特別な才能や洞察を示した人に報いるもっとよい方法がある。それが市場である。
公共財に関する集合的決定
政治とは、すべての国民や大規模な集団に影響を与える「財」(経済学者のいう「公共」 財や「集合財)を創造することである。これに対して、「私的財」は伝統的な市場で交換され、個人が自分で消費する。 公共財の例には、きれいな空気、国防、公衆衛生がある。私的財は現時点では市場を通じて配分されている。 公共財は標準的な市場を使うことができないか、少なくともよい結果を生んでいない。伝説の経済学者でノーベル賞受賞者であるポール・サミュエルソンが、1954年に発表した論文 「公共支出の純粋理論」で説明したように、標準的な市場は、私的財がそれをいちばん高く評価する人に配分されるように設計されている。その最たる例がオークションである。 オークションでは、いちばん高い価格を入札した人が、その財をいちばん高く評価しているとされる。そして、価格システム全体が一種の分散型オークションとして機能している。
だが、公共財のロジックは根本から違う。公共財はそれを最も高く評価している1人の個人に配分されるのではなく、社会の全員が得る利益の総計を最大化するように公共財全体の水準が決定されなければいけない。そうした公共財に関する集合的決定が、ベンサムのいう「最大多数の最大幸福」をもたらすようにするには、あらゆる市民の声を、その財がその市民にとってどれだけ重要であるか、その度合いに比例して反映されるようにするべきである。標準的な市場では、これは達成されない。というのも、最も関心が高い人は、他の誰よりも高い価格を支払おうとするものだからだ。
標準的な市場では、どんな財でも、より多く手に入れるためのコストはそのほしい財の量に比例する。食料がその例だ。ハンバーガーを2倍ほしかったら、お金を2倍払うのがふつうである。そのやり方で公共財に関する決定をしたとしよう。どの市民も、量の変化に比例する価格を支払うことで、汚染排出量を増やしたり減らしたりすることができたとする。 もしもこの価格が妥当に高くなければ、大勢の市民がこれに反対し、政策を変更するように要求するだろう。こうした「超過需要」が発生すると、通常の市場では、影響力の価格は競り上がる。その結果、発言力を持てるのは、この問題に(賛成でも、反対でも)最も関心を持っている一握りの市民だけになる。
そうした市場では、多数者の専制が、他の誰よりも高い価格を支払ってもいいと考えている、最も動機の強い市民、あるいは最も裕福な市民の専制に置き換わることになる。現代の政治が生み落とす数多くの病理を説明するものとして、この議論は非常に大きな影響を与えている。経済学者で政治科学者であるマンサー・オルソンは、サミュエルソンのアイデアを基礎として、よく組織化された特殊利益団体という小さな集団は、資金提供、ロビー活動などの政治行動を起こして、公共の利益のためではなく自分たちの利益のために行動するように政府を説き伏せることができると論じた。大衆の大部分は、銀行規制のような複雑な問題を無視する一方で、政府から利益を得ることができる銀行は、問題をコントロールするロビー組織に資金を提供する。集合的意思決定に冷ややかな経済学者が多いのは、それがいとも簡単に操作できるように見えるからだ。
投票が他者に課すコストを支払う
しかし、全員がそう考えているわけではない。ここで再び、われらがヒーロー、ウィリアム・ヴィックリーが登場する。オークションの原理を政治に適用する際の問題は、オークションそのものにあるのではなく、その原理が誤って解釈されていたことにあると、ヴィックリーは気づいた。これまでに見たように、政治的な決定権を1人の最高額入札者に売却すれば、悲惨な結果になる。なぜなら、公共財が私的財のように扱われるからだ。 オークションの背景にある考え方は、対象の財を最高額入札者に配分することではないと、ヴィックリーは説く。そうではなく、自分の行動が他人に課すコストに等しい金額を個々人が支払わなければいけないということだ。私的財の標準的なオークションでは、私が落札すると、この「外部性」によって、別の入札者が財を手に入れられないため、落札した最高額入札者は、落札できなかった第2位の入札者の入札額を支払わなければいけない。しかし、エドワード・クラーク、 セオドア・グローヴスが1970年代、ヴィックリーが論文を発表してから10年後に別個に気づいたように、この原理は、私的財の経済的市場だけでなく、公共財を創出する集合的決定を組織する方法も示唆している。
集合的決定をするときには、検討されている公共財から影響を受ける人は、投票したいだけ投票する権利を持っていなければいけないが、その投票が他者に課すコストは全員が支払わなければいけない。お店からトウモロコシを買うとき、その価格は、トウモロコシの次善の社会的使用価値を表している。したがって、それを買うためには、トウモロコシをあなたに配分することで社会が放棄するものを社会に補償しなければいけない。あなたが自分の車を運転していて誰かにぶつかったら、相手に与えたケガ、痛み、苦痛に対して補償をすることが法律で義務づけられている。それと同じように、投票では、集合的決定が行われる国民投票(あるいは他の種類の選挙)で負けた人にあなたが与えた損害を補償しなければいけない。あなたが支払う金額は、あなたの投票によって負けた市民が選好していた別の結果になっていたら、その人たちが獲得していたであろう価値に等しくなる。
では、この仕組みはいったいどうやって機能するとされていたのだろう。 ある人が自分の投票(場合によっては複数の投票)によって選挙に影響を与えることで他人にどれだけ損害を与えたかを、どうやって計算するのだろう。数年後、グローヴスが経済学者のジョン・レドヤードと行った共同研究や、それに関連するアーヌンド・ヒランドとリチャード・ゼックハウザーの未発表の論文で、一つの手がかりが示された。公共財に影響を与える個人が支払うべき金額は、その人が持つ影響力の強さの度合いに比例するのではなく、その2乗に比例するべきだとされたのだ。
評価システムと社会集団システム
評価システムと社会集団システムは、今日のデジタル経済の燃料だ。評価システムはきわめて重要な信頼のメカニズムである。これがあるから、エアビーアンドビー、VRBO、ウーバー、リフトといった「シェア経済」サービスが消費者に受け入れられるし、サービスの提供者は信用を得る。評価システムは、アマゾン、グーグル、アップルのapp store、 イェルプが提供し、広く使われている検索サービスの核となる役割を果たしている。だが、こうしたシステムが大きく崩れていることを示唆する証拠が増えている。先に述べたように、ほとんどすべてのレビューが星五つに集中し、星一つはほとんどないので、そこから生まれるフィードバックにはバイアスがかかり、統計学者のいう「ノイジー」なもの、つまり、あまり正確ではないものになってしまう。フェイスブック、レディット、ツイッター、インスタグラムといった他のオンライン・プラットフォームは、「いいね」など、限られた形でしか反応できないため、参加者は特定のコンテンツについて熱狂や嫌悪感を示すことができず、限られた情報しか集まらない。
QVの場合は、利用者はボイスクレジットを受け取って、(たとえば、宿泊するたび、車に乗るたび、あるいは投稿するたびに一定数を使って)サービスのシステムに参加することになる。その後、そのシステムにいる他の人を評価するのにも、クレジットを使うことができる。賛成票・反対票を投じるコストは二次関数的に増えていく。参加者は自分のクレジットを将来のやりとりのために貯めておいてもいいし、いま使いたいという気持ちのほうが強いことに貯めたクレジットを使ってもいい。これはチップシステムと評価システムのいいとこどりであり、熱狂を表明するのにコストがかかることにはなるが、ただ乗りが減るだけでなく、他の参加者がフィードバックを役立てられるようになる。
このシステムの一種が、存在感を増している暗号通貨のイーサリアムをベースに構築された「アカシャ」と呼ばれるソーシャルネットワークによって実行されている。QVは暗号通貨の枠組みと相性がいい。暗号通貨の枠組みには、運営を支える分散管理を可能にするために、公式のガバナンスルールが必要になる。そのため、そうした文脈で社会集団のために使うのにも向いている。しかし、本書を執筆している時点では、正確な状況はわからないし、一般大衆は利用できない。 暗号通貨の世界の大部分は謎に包まれている。それでも、この文脈でQVが広く使われるようになれば、規範と価値観がQVの使用に適応する社会環境下でQVがどう機能するかをテストするには、政治世論調査よりも強力な手段になるだろう。
QVの応用範囲を広げる
QVの商業利用はここで終わらない。集合的決定は、私たちの社会や経済に浸透している。企業は株主の集団によって統治されているし、従業員の集団の要求に応えなければならない。住宅用・商業用不動産の多くは管理組合に管理されていて、管理組合では、共同所有者が共同の利害を持つことがらを投票で決める。ブックグループ (読書会)、大規模なマルチプレイヤー・オンラインビデオゲームの戦士ギルド、組合、クラブ、レストランを選ぼうとしている友だち、新しい社員を雇おうとしているスタートアップ、研究資金を配分する資金調達者、新商品の開発資金を集めているクラウドファンダー、選挙運動に資金を提供する市民、ミーティングのスケジュールを決めている同僚たち。誰もが頻繁に集合的決定をしなければならず、その決定は全員の行動を拘束する。
ほとんどの人がこのような形で生活を共有している。しかし、集合的決定をする優れたメカニズムがないため、こうした生活の側面は非常にフラストレーションがたまるものであり、多くの人ができることなら避けようとする。今年か来年に建物の屋根を修理するべきかどうかを管理組合の他のメンバーと話し合うのは苦痛であり、そんな思いをしなくてもすむようにするには、簡単ではないが、自分の家を持つしかない。もっとよいメカニズムを発明できて、生活のさまざまな領域で集団で決定をしやすくする既定の方法として使うことができれば、生活の中で共有する部分が広がって、私的な部分が狭くなる。QVは、生活の数多くの領域で集合的な選択に投票できるプラットフォームがベースになっており、その方向へと進む一歩になる。
民主主義を民主的手段で実現する
複数候補・単一当選者選挙制
前に述べたように、多くの1人1票システムでは、2人の候補者のうちまだましなほうを選ばなければいけなくなることがあり、他の有力な候補が勝ったら大変なことになるという不安が循環して、全員が嫌っている候補が勝つ可能性が生まれる。最近の例が、2016年のアメリカ大統領選挙だ。二大政党の最終的な立候補者が2人とも幅広い層から嫌われていたが、両党の他の候補者は大衆から広く支持を得ていた。QVが複数候補選挙に正しく適用されれば、その可能性がなくなる。どの候補者にも賛成票・反対票を好きなだけ投じることができるからだ。ボイスクレジットの総費用は、個々の候補者への投票数の2乗の総計になる。つまり、選挙レベルではなく、候補者レベルで、費用が二次関数的に増加する。
QVはなぜ、戦略投票が生み出す落とし穴にはまらないのだろう。自分の票を「死に票」にしないためには、2人の主要な候補者のうちの1人に投票するしかないという投票者の意識が、戦略投票の背景に働いていることを思い出してほしい。そこで、候補者を支持するためにも支持しないためにも票を投じることができて、複数の候補者に好きなだけ支持票(あるいは不支持票)を投じられるシステムを提案する。票の価格は二次関数的に変動するので、自分のクレジットを支持する候補者への投票と対立する候補者への不支持票に分けるほうが、支持する候補者だけにクレジットを使うよりもコストが安くすむ。すると、最悪のB候補が当選しないようにするためだけに最低のA候補を支持しようとしている投票者は、B候補に対する不支持をさらに強く表明したいと考えるようにもなる。こうした戦略投票は打ち消し合い、広く嫌われている2人の候補者が沈んでいくので、2人ほど嫌われていない候補者が浮上する。実際のところ、候補者が差し引きでプラスの票を獲得するには、他の大半の候補者よりも高く評価されていなければいけない。
2016年のアメリカの例では、選挙活動中に候補者への選好の強さについてリッカート調査が行われており、それをもとに、QVが導入されていたらどうなっていたかを推測することができる。QV方式だと、リッカート調査で有力とされていた候補者の中では、穏健派とされていた共和党の候補が勝っていた可能性がいちばん高い。最終的に勝利したドナルド・トランプは全候補者の中で最下位になっていた。
だが、特定の結果でなく、このロジック全体を考えるなら、QVを適用できるのは、二肢選択形式の国民投票や、継続して行われる公共財の決定だけではなくなる。ほとんどすべての集合的決定問題で、社会にとって最適な結果を達成するOVの形態が存在する。そのため、 QVは完全に民主的なシステムを支える一貫した基礎となる。
代表制民主主義
代表システムの設計は本書の範囲外だが、ここで少し考察をしてみたい。 QVを使ったシステムの下で代表者を選ぶ投票には、さまざまな形がありえる。考えられるアプローチはたくさんあるが、その一つとして、アメリカの政治システムに限りなく近いが、選挙がQVを使って行われるシステムを考えてみよう。このQVシステムは、職務レベルで運用される。下院議員であれば選挙区レベル、上院議員であれば州レベル、大統領であれば国レベルである。選挙があるごとに、有権者は自分の予算の範囲内で、すべてのレベルのすべての候補者に対して、支持票を投じるか、不支持票を投じるか、あるいは投票しないことを選べる。そのため、自分がいちばん気にしている政府レベルに票を集中させることができる。地域に根差している人なら地方レベルに、若くてよく引っ越す人なら国レベルに比重が置かれるだろう。 QVの背後にある理論は、国民投票と同じように、代表選挙にも当てはまる。QVシステムでは、投票者の幸福の総和を最大化する働き
をすると期待される人が代表として選ばれる。それを踏まえて、候補者は有権者の厚生を最大化する立場を選ぶ。多数決原則の下で無党派層の選好に合わせた立場を選ぶようなものだ。
そうであるなら、QVは代表機関そのものに適用できることになる。議員は選出時に一定数のボイスクレジットを受け取り、それを自分の選挙区民にとって非常に重要な問題に割り振る。国民投票型の投票には選好集約問題が存在するが、代表機関もこれと同じ問題に直面する。個々の代表はそれぞれに利害が異なる選挙区民の集団のために働いている。一つの法案がこうした集団に与える影響はそれぞれ違う。大きな影響を受ける集団もあれば、ほとんど受けない集団もある。そうだとすると、再選をめざす代表は、法案を通過させる利害も違ってくる。
いまのシステムだと、政党のリーダーたちは議員を買収し、懐柔し、脅しをかけなければいけない。2008年金融安定化法は、金融危機に対処するために必要なものだったのだが、最初に下院で否決された。それを受けてさまざまな優遇措置が盛り込まれ、ようやく可決にこぎつけた。レストラン店舗改良投資の減価償却期間を短縮する、太陽光発電設備の税額控除を延長する、映画やテレビ番組の制作会社、プエルトリコとヴァージン諸島のラム酒製造所、競馬場、ウール製品とおもちゃの木の矢の製造業者など、数多くの事業主体に税控除や補助金を認める、といった具合である。だが、こうしたブラックな「サクセスストーリー」の裏には、不正な取引がかならずあり、アメリカに損害を与え、膠着状態が何年も続いている。QVであれば、ある法案に対して、自分の選挙区民がほとんど関心がないという議員は将来投票するためにクレジットを貯めておくだろうが、その法案に選挙区民が強い関心を持っている議員は、賛成あるいは反対の意思を
断固として示すだろう。
QVは集合的決定を導くより優れた基盤となるが、1人1票制と同じように、集合的意思決定の基本的なパラダイムであり、単なる投票のシステムという以上に深い意味を持つ。この先、さまざまな制度がQVを軸につくられ、多様な形でQVが組み込まれていくようになるだろう。それがどのようなものになるか、いまは想像もつかないが、QVには大きな可能性があることはわかってもらえると思う。
QVの通貨としての性質と取引の範囲
QVを調査に使っても、選好の強さを完全に表明することはできない。すべての項目について他の人よりも高い関心を持っている人がいても、それを明らかにする方法がないからだ。政治にそれほど関心がない人もいれば、強い関心がある人もいる。後者の集団は、前者の集団よりも強い影響力を持つために、関心がある他のこと、たとえばお金のことをあきらめてもいいと考えるかもしれない。しかし、QV調査ではそれができない。
この点を、経済的な私的財に当てはめて考えてみよう。取引がたとえば果物の間でだけ可能であるとしたら、全員が好きな果物を手に入れるが、果物をつくっている人は、それを売って他の生活必需品を手に入れるすべがない。分業ができるかどうか、取引の利益を確保できるかどうかは、取引の範囲が拡大されるかどうかに左右される。QVも同じである。ボイスクレジットの採用が広がれば広がるほど、自分の影響力をどうやって、どこで使うかを選択する自由が広がるので、QVがもたらす恩恵は大きくなる。
もちろん、そのような自由にはリスクが伴う。考えなしに財やサービスに大金をつぎ込んで貯金を使い果たしてしまう人がいるのとまったく同じように、クレジットを貯められて、貯めたクレジット(事と次第によっては借りたクレジット)を使えるようにすると、ボイスクレジットを無駄遣いしてしまう人も出てくるかもしれない。 しかし全体としては、適切に規制されていれば、ボイスクレジットの使用が広がれば広がるほどよいと、われわれは考えている。
合理的な譲歩へと導くラディカル・マーケット
QVがもたらす経済的利益
QVはどれだけの価値を生み出すのだろう。一般に、政治制度が格差と成長に与える効果を推定するのは、経済制度の効果を推定するよりもずっと難しい。われわれが知る限りでは、それを本格的に試みた研究が一つだけあり、民主主義が成長に与える効果を推定している。それによると、民主主義が国に導入されると、平均して国民所得が20%増えるという。QVが1人1票制度に置き換わるとそれと同じ効果が生まれると期待する理由はないが、これがベンチマークとして妥当だと思われる。すでに明らかにしたように、現行の民主主義はいかにも不完全だ。民主主義はそれが取って代わった平均的なシステムと比べて経済の生産性を高めたが、それと同じように、QVを導入すれば、少なくとも経済については、既存の民主主義より生産性が高まっても不思議ではない。
しかし、QVの経済的利益はそれにとどまらない。公共財の市場は、何世紀もの間進歩してきたにもかかわらず、どうしようもなく不完全だ。QVに関するわれわれの考え方が正しければ、QVを導入することで公共財の市場が私的財の市場に肩を並べるようになるはずであり、すべての市民にとって、その恩恵は計り知れない。
QVは社会をどのように変えうるか
だが、共同所有自己申告税(COST)がそうであるように、OVは私たちの社会を大きく変
える強い力を秘めているものの、その効果を計量化するのがきわめて難しいものもある。社会制度と文化的な想像力に与える効果がそうだ。予想外の選挙結果、議会投票の膠着、「司法積極主義」への抗議は、機能不全に陥っている政治を象徴するものとして真っ先に思い浮かぶが、それはいちばん重要なところではないだろう。現在の政治システムにとってそれ以上に重大なのは、二極化であり、キャッチフレーズや陳腐な決まり文句(下手をすればヘイトスピーチ)だらけの政治演説であり、大衆に広がる無力感であり、大衆の認識とずれている厳格な政治的境界であり、政治のエリートに対する怒りであり、国民の信頼の崩壊である。
そうした問題にQVが与える影響は間接的なものになり、予測が難しい。それでも、希望を持てる理由はある。QVは、1人1票制よりも豊かに深く自分の考えを表明する力を市民に授けるものだ。市民や政治家は、知識に乏しい無党派層を取り込もうとしたり、不満を抱いている同胞をたきつけようとしたりするのではなく、さまざまな考え方を持つ人たちとかかわろうとするようになる。そうすれば、市民は自分が強い熱意と十分な知識を持っているトピックだけに投票できるようになり、あまりよくわかっていなくて、ステレオタイプや政党帰属意識に従いがちな問題に無理に投票させられることがなくなる。
QVの場合、極端な意見を表明するコストが高くなるので、意見が穏当になり、歩み寄りが促される。予算制約の下で自由が拡大されることで、市民の責任感が高まり、集合的決定をコントロールできるようになる。抗議行動に参加すると、政策の選択にかかわっているという当事者意識が高まることが多いのと同じで、自分たちの声が届くようになっていることを実感できるようになり、自分たちにとって最も重要な問題で勝利を得やすくなると同時に、自分たちが被る損失を受け入れられるようになる。こうした特徴は、市場経済が私的財にもたらす社会的効果によく似ている。計画経済では、市民は配給に反感を持ち、抑圧されていると感じる傾向があるため、計画が放棄されると自由が花開いたものととらえる。1980年代、1990年代に共産主義が崩壊したときがまさにそうだった。自分のお金を何に使うかを選択する自由があると、人は自分が持っているもの、手放すことを選んだものに尊厳と責任を感じるようになる。そうした市場の精神をベースとする政治文化が育まれれば、政治に尊厳と責任を強く感じるようになるだろう。
QVが共有と協力をもたらす
COSTと同じように、QVがもたらすと考えられる最大の恩恵は非常に思弁的なものである。他の市民との関係が大きく変わることがそうだ。ほとんどの人は都市部に住んでいて、通信ネットワークを介して他の人と相互作用する。つまり、人の幸福はまわりの人と密接に結びついており、まわりの人に影響されるということだ。このように人と人がつながっている大規模な社会では、大勢の人に集団として利益を提供するほうが一人ひとりにそれぞれ提供するより簡単なものだ。情報は大勢の人に簡単に共有される。社会的相互作用を促進するアプリは、一握りの人にしか使われなかったらほとんど価値がない。大勢の人が使う公共交通機関はたいてい自家用の移動手段よりも経済的だ。だが、そうした大規模なサービスは、現時点では独占企業か、機能不全に陥っている公的機関が提供している。こうした提供者たちが失敗することを恐れて、私たちは自分の家、ゲーテッド・コミュニティ、専用サーバー、自家用車という壁の中に閉じこもり、その
外側にある公的生活から離れがちになって、無駄が生じている。
1950年代という早い時点で、ジョン・ケネス・ガルブレイスはこれを「私的な豊かさ」と「公共の貧しさ」のパラドックスと呼んだ。子どもたちには「立派なテレビが与えられている」が、「学校は生徒の数があまりにも多すぎることが多いし……供給は足りていない」。「家族でエアコンのきいた・・・・・・自動車に乗って出かけても、どの都市も道路はガタガタなばかりか、ゴミが散乱していて、建物は荒廃しているし、とっくの昔に地下に埋めてしかるべき電柱が並んでいるなど、それはひどいありさまだ」。
QVはそれとは違う道を開き、私的財と公共財の豊かさのバランスがすべてのレベルで整うようになる。 市場が私たちにスマートフォンやマットレスを提供するときと同じように、私たち全員が共有する公共財が効率的かつスムーズに提供されるようになる。 地域の共同体で、オンラインのソーシャルネットワークで、国の政府の下で、本当の意味で生活を共有し、協力し合う方向へと進む道が開かれる。すると、豊かな公的生活が形成され、社会的関係が自然に発展していく。そうして、私的生活かさまざまなレベルの公的生活かの選択をするときに、集合的機関は無能で腐敗しているから不安だという理由で決めるのではなく、社会的関係をもとに選ぶ世界が実現する。
ビザをオークションにかける?
OECD加盟国への移住の大半は、雇用したいと思っている高技能労働者のビザを申請できる政府の官僚か民間の雇用主にコントロールされている。それとは別に、移住システムにはもう一つ別の部分があり、市民の近親者の移住(特にアメリカ)と自民族系の人の移住(特にヨーロッパ諸国)が認められている。こうしたシステムはかなりの程度までトップダウン的で国家の統制下にあるか、雇用主のような密接な経済的利害関係者がコントロールしている。そのため、最も大きな恩恵を受けるのが雇用主と移民であっても、ほとんど驚かない。つまり、移住システムは現代の経済や民主主義と同じ問題を抱えている。その問題とは、システムが不公正であることと、多くの場合、恣意的な政府の裁量に任されていることである。
オークションをベースとした移住システム
第1章、第2章で、オークションがそうしたシステムに置き換わるシンプルな枠組みになることを見てきたが、実際に運用するときには考慮しなければいけないことも多い。同じことは移住にもいえる。ノーベル賞経済学者のゲーリー・ベッカーは、2010年に示唆に富む講義を行い、オークションをベースとする移住のシンプルなシステムを提案した。 移住に定員を設けて、その国に入る権利をオークションにかけるというのである。このラディカル・マーケットがもたらす歳入は、公共財や、国民に一律に支払われる社会的配当の財源として使うことができる。第1章で見た財産の共同所有制と同じである。
第1章、第2章で最も純粋な形のオークションを使ったアイデアを取り上げたが、それと同様に、この仕組みにはいくつもの限界があり、この点については後述していく。しかし、ここで注目すべきは、現行の移住システムが抱える数々の欠点に直接対処するものであることだ。
第一に、移住がもたらす利益の大部分が、企業ではなく、一般市民に行き渡るようになる。これは平等化につながるだろう。 第二に、その結果として、移住に対する政治的反発が和らぐ。 第三に、政府の官僚が果たす役割が大幅に減り、それに代わって、自分たちに開かれている経済的な可能性をいちばんよく理解している移民の知識が生かされるようになる。最近の一連の経済研究から、移民の個人能力を官僚が判断し、その結果を主な審査基準として採用する移住システム(「ポイント制」と呼ばれるもので、高学歴の移民などが優遇される)は失敗しがちであることが明らかになっている。雇用主がビザを申請するシステムはポイント制よりもうまくいきそうに思えるが、前に述べたように、利益は主に雇用主に配分される。オークション制であれば、この二つの落とし穴を避けられる。
機関投資家が価格競争を阻止する
一連のガイドラインの背景にある分析は、企業はそれぞれ独立して所有され競争しているという前提に立っている。しかし、すでに見たように、ほとんどの企業は独立して所有されていない。実際には、ライバル企業の株式を大量に保有している機関投資家に支配されている。どうしてこのことが重要なのかを理解するために、まず、単独の株主がフォードの株式の100%とGMの株式の100%を所有していると想像してみてほしい。フォードが価格を下げるときは、フォードがGMから市場シェアを奪おうとしている。しかし、株主は2社とも所有しているので、フォードがGMに勝っても利益は得られないし、値下げは確実に損失となる。そのため、株主はフォードとGMのCEOに価格競争(あるいはコストがかさむ品質競争やイノベーション競争)はしないように命じ、2社が合併したかのように行動するように指示するだろう。
航空業界と銀行業界の競争のケース
その傍証が、アザール、マーティン・シュマルツらの共同研究によって示されている。一例が航空業界である。航空会社間の競争を路線ベース(ニューヨーク シカゴ間、ロサンゼルスーヒューストン間など)で検証した結果、機関投資家が航空会社の株式を大量に保有しているときは、そうした航空会社が競争している路線のほうが、航空会社が競争していない路線よりも航空券の価格が高いことが明らかになっている。全体として、機関投資家の反競争的な力が働き、航空券の価格は3~5%高くなっている。この調査では、機関投資家2社の合併を巧みに分析して、合併が影響を与えると予想されるまさにその路線で反競争的な傾向がことさら顕著に認められることが突き止められている。これは、機関投資家があまりにも深く関与しているため、個々の路線の価格にまで影響を与えられることを示唆するものだ。
銀行業界を検証したもう一つの研究も、同様の結論に行き着いている。それによると、銀行が提供する金融商品の価格や条件を予測する指標としては、機関投資家が重複している度合いのほうが、標準的な市場集中度の指標よりもはるかに優れているという。地域市場で競争している銀行の株式を機関投資家が大量に保有しているときには、当座預金口座の金利は低くなる。そして、この問題はますます深刻になっている。また別の研究によれば、建設、製造、金融、サービスの分野では、ある基準で見ると、機関投資家の水平的株式保有は1993年から2014年の間に600%増加した。これらの産業では、競争は時間がたつにつれて減少し、価格は競争がもっと激しかったら設定されていたであろう水準よりも高くなると考えるべきである。
機関投資家の支配が賃金を下げる
機関投資家の支配が広まると、価格が上昇するだけではない。賃金が下がる可能性もある。企業は消費者をめぐって競争するのとまったく同じように、労働者をめぐって競争する。企業が共謀して価格を上げ、生産を減らすように、労働者をめぐって市場で共謀する企業も、賃金を引き下げ、労働者を解雇して、失業を増やすだろう。そうすれば、賃金を低く抑えられて、労働者を搾取できるからだ。この現象は「買い手独占」(monopsony) と呼ばれる。売り手独占 (monopoly)の逆である。そう聞くと、賃金の停滞がすぐに思い浮かぶ。「序章」で論じたように大半の労働者の賃金は伸び悩んでおり、市場支配力の増大と賃金の伸び悩みとの間には密接な関連があることが、最近の研究で示されている。
さらに、企業が政治的な活動で協調すれば、自己の利益をはかり、公共の利益になる規制や税金を阻止するロビー活動の効果がいっそう高まる。政治科学者のジェイコブ・ハッカー、ポール・ピアソンは、機関投資の増加がこの現象と関連していることを実証している。機関投資と分散投資の論理を突き詰めると、すべての資本が、消費者と労働者から最大限の富を吸い上げるために使われることになる。
セイレーンサーバー
コンテンツに報酬を支払わないプラットフォーム
ジャロン・ラニアーはそうしたプラットフォームを「セイレーンサーバー」と呼ぶ(「セイレーン」とは美しい歌声で船員を誘惑し、船を難破させる海の妖精)。セイレーンサーバーは各種の無料サービスを提供しており、規模の大きさと桁違いのデータにアクセスできることが魅力になっているが、そのビジネスモデルが社会と経済に与える影響を、ラニアーは懸念している。ユーザーにデータの対価を支払わないので、いちばん必要とされているデータを供給するインセンティブが正しく働かないのだ。
「労働としてのデータ」
これは大きな「もしも」だ。もちろん、テクノロジーの進路を予測するのが難しいことは誰でも知っている。しかし、 ラニアーの洞察では、たとえそうなったとしても、AIは実際には人間の労働力に完全に置き換わるわけではない。AIは人間のデータで訓練され、学習している。だとすれば、作業現場や工場とまったく同じように、AIは一般の人間の労働者に非常に重要な役割を提供する。その役割とはデータの供給者であり、これを「労働としてのデータ」と呼ぶことにする。データを労働として認識しないと、ラニアーのいう「フェイク失業」が発生することになりかねない。これは、人間が役に立たないからではなく、人間が価値のある入力を供給しているのに、社会的に価値のある仕事とみなされず、娯楽の副産物として扱われるせいで、仕事が枯渇してしまう状況である。たとえAIがいま喧伝されているような水準に達しないとしても、労働としてのデータは収入を補完する重要な機会となり、格差の拡大に苦しむ市民に社会に貢献しているという意識をもたらすだろう。しかし、データに対する人々の態度が変わらない限り、そうはならない。
データ労働市場における買い手独占力の問題
第一の、最も基本的な理由は、セイレーンサーバーが市場支配力(経済学でいう「買い手独占」力や「寡占」力)を持っているということは、市場が変化して、ユーザーがデータの対価を受け取るようになると、セイレーンサーバーのコストが増大することになるということだ。
データ労働市場において買い手独占力が重要な意味を持つことを最初に明らかにしたのが、グレイ、スーリ、経済学者のサラ・キングスレーによる論文である。それ以降、スーリらによる実証分析が進み、Mタークへのタスクの投稿者はかなりの買い手独占力を持っていることが確認されている。作業を請け負う「ターカー」は好きな時間に好きなタスクを選んで仕事をするので、タスクの投稿者の買い手独占力は、たとえ市場で大きなプレイヤーではなくても、とても大きい。
セイレーンサーバーの買い手独占力は、それとは比べものにならないほど強い。この形態の仕事になりそうなデータのうち、セイレーンサーバーが提供するものは群を抜いて多い。数量化するのは難しいが、すべての価値のあるオンラインデータ、そしてすべてのデジタルデータの大多数が、フェイスブックとグーグルによって収集されている可能性はとても高そうだ。2015年には、インターネット検索(ほとんどのブラウジングは検索で始まる)のグーグルのシェアは50%だったし、フェイスブックの15億人のユーザーは平均で毎日50分間、同社のサイトやアプリを使っていた。市場の非常に大きな部分がこうした巨人に支配されているので、いまは無料のデータであるものの価格が上昇したら、その負担の大部分は巨人たちが背負うことになる。
生産的な仕事のほとんどが、労働者が積極的に探し求めている個別の「クラウドソーシング」ではなく、楽しいオンラインの交流の過程にある仕事である。この点を考えると、ユーザーに価値のあるデータを提供するように求めて、それを生産的に活用できるようにするには、競合する会社は、他社にひけをとらないほど質が高く、ユーザーが入れ込むようなサービスをつくり上げる必要があるだろう。いくつかのスタートアップ企業がこのモデルを採用して、代替的なソーシャルネットワーク (empowrなど) やデータ管理サービス(データクープなど)にユーザーを引き寄せようとしている。しかし、サービスの思想にイデオロギー的な愛着を持っている一握りのユーザーしか呼び込めていない。大半のユーザーは、友だちの大部分が使っていて、より質の高いサービスを提供しているネットワークを選んでいる。
ユーザーからより役に立つデータを引き出すことに成功しているスタートアップが、リキャプチャ(reCAPTCHA)だ。 オンラインサービスにアクセスするときにボットではないことを証明するために解くように求められるパズルとして、ほとんどのインターネットユーザーにはおなじみである。 リキャプチャがユーザーに示すキャプチャはセキュリティ対策だが、テキストをデジタル化するためのデータソースとして設計されているだけでなく、最近では自動文字認識などのMLをベースとするシステムを訓練するためのデータソースとして設計されるようになっている。ただし、リキャプチャが成功したのは、既存のセイレーンサーバーと提携したからであり、セイレーンサーバーが提供する商品に組み込まれたからであり、金銭的な対価をいっさい支払わなかったからにほかならない。グーグルが2009年にリキャプチャを買収した後(報道によると買収額は3000万ドル)、マサチューセッツ州のユーザーが、リキャプチャは無償労働だとしてグーグルを労働法違反で訴えたが、裁判で負けている。
データ労働市場でセイレーンサーバーの競争相手になりそうな企業の大半にとっては、セイレーンサーバーのようにデータを非常に生産的に使うことは難しいだろう。前述したとおり、最高クラスのAIサービスを実現させるには、膨大な計算能力とデータ能力が欠かせない。そんな能力を持っているのは、一握りのデジタル巨人だけだ。もちろん、スタートアップがデータを収集してセイレーンサーバーに売ることもできるだろうが、データに対価を支払うのはこっそりと避けたいという気持ちは、他のルートでデータを集めようという気持ちと同じくらい強いだろう。要するに、セイレーンサーバーは「デジタル・コモンズ」の核となる不動産を占有しているが、そこには一握りのプレイヤーしかいられず、現時点では自発的にこの土地を耕しているテクノロジー農奴に対価を支払うのは、セイレーンサーバーたちの利益に反するのである。
市場の構造、AIテクノロジーの性質はもちろんのこと、ソーシャルメディアの性質も、こうしたサイトの競争耐性がきわめて高い理由になっている。ほとんどのユーザーは、自分の友だちがすべて参加しているソーシャルネットワークにいたいと思っている。このような「ネットワーク効果」があるため、何年もユーザーに補助金を支払えるだけの資金協力を得られない限り、競合企業が市場に参入することが難しくなるおそれがある。それに、金銭の授受を行ってはならないという社会的規範が働いているので、その戦略を成功させるのはいっそう困難になる。また、大勢の社会科学者が、 セイレーンサーバーはカジノと同じようなテクニックを使って、コンテンツに依存性を持たせているとも指摘している。こうした要因が合わさって、セイレーンサーバーの力は増し、ユーザーは長い目で見れば自分たちにとって利益にならないかもしれないパターンにしばりつけられてしまっている。
オンラインの娯楽という魔法
第二に、経済学者のローランド・ベナボウと、ノーベル賞受賞者のジャン・ティロールが2003年と2006年にトム・ソーヤー問題のような状況を鋭く分析した結果として明らかになったように、活動に対価を支払うと、内発的な動機付け (娯楽、社会的圧力など) が損なわれやすい。オンラインでのデータ提供に対価が支払われれば、いま自分が娯楽と考えている活動は本当はセイレーンサーバーに利益となる労働であって、その対価を求めるべきだというシグナルをユーザーに送ることになり、娯楽としての価値が下がるだろう。また、ユーザーが社会協働したり社会参加したりする動機が知覚されなくなって、「オンラインコミュニティの一員になる」ことから生まれる社会的な報酬を得られなくなるかもしれない。もっといえば、経済的関係の本質があらわになることでオンラインの娯楽の「魔法がとけて」、コンテンツの粘着度が下がることも考えられる。
中央計画制が失敗した理由
第1章で見たように、市場経済を信奉していた大勢の経済学者は、みずからを「社会主義者」とも考えていた。ところが、20世紀初めになると、社会主義は中央計画制と同一視されるようになった。ソ連が経済政策を着想し、正当化するうえでマルクス主義とフランス革命が大きな役割を果たしたことが理由である。第一次世界大戦も中央計画制の追い風となり、軍需生産を拡充するための国の経済統制は、自由放任主義の支持者の想像をはるかに超える大きな成功を収めた。すると、中央計画制を平時にも使うべきかどうかをめぐって激論が起きた。
一般的なイメージでは、中央計画制は働くインセンティブが個人に与えられなかったので成功できなかったとされている。金持ちになれる見通しとはいかなくても、少なくとも賃金が得られる見通しがなければ、誰も朝、ベッドを抜けだそうとはしない。だが、ソ連ではインセンティブが非常に強く、多くの点で、資本主義国よりも強かった。共産主義の下では金持ちになるチャンスは少なかったが、強制収容所(グラーグ)の囚人なら誰でも、「仮病」を使った者がどんな末路をたどるか知っていた。
よく知られている中央計画制反対論には、もう一つ、ノーベル賞受賞者のフリードリヒ・ハイエクが1945年に提示したものがある。資源を効率的に配分するには、人々の好みや生産性を把握する必要があるが、中央計画当局はその情報を得ることができないと、ハイエクは主張した。市場の真髄は、政府の中央計画委員会が関与することなく、すべての人からこの情報を個別に収集して、それを知る必要がある人に供給できることにあった。
これに関連する議論がその数十年ほど前に提起されていた。 ハイエクの主張ほど有名ではないが、説得力はこちらのほうが高い。才気あふれる経済学者、ルードヴィヒ・フォン・ミーゼスが、社会主義が直面する根本的な問題は、インセンティブや知識といった抽象的なものではなく、情報と計算だと説いたのだ。
経済を数学の問題とみなすという誤り
ミーゼスが論文を書いたのは、コンピューター科学という領域が生まれ、情報理論が構築され何十年も前のことであり、こうした直感的なアイデアを形式化する術がなかった。ミーゼスの議論の多くを主流派の経済学者は無視した。主流派の経済学者たちは、視野の狭い数学的なアプローチに傾斜しており、ミーゼスはそれを批判していた。オスカー・ランゲ、フレッド・テイラー、アバ・ラーナーら、ミーゼスに批判的な学者は、市場メカニズムは経済を組織する数多くある方法の一つにすぎない(そして、最も効率的な方法からはほど遠い)と主張した。こうした学者たちは経済を計算的に把握するのではなく、純粋に数学的にとらえており、理論上では、まざまな財、資源、サービスの需給に関連する(非常に大規模な) 方程式系を解くのは難しいことではないと考えていた。
経済の構図を単純化すると、 一般大衆は生産者(労働者、資本の供給者など)と消費者という二つの機能を果たしている。消費者としては、さまざまな財やサービスに対して選好がある。チョコレートが好きな人もいれば、バニラが好きな人もいる。一方、生産者としては、才能や能力がそれぞれ違う。数学に強い人もいれば、怒っている顧客に対応するのがうまい人もいる。理屈の上では、人々の選好と才能を見きわめて、それをいちばんうまくできる人に仕事を割り当てると同時に、生産が生み出す価値を人々が本当に望んでいる財・サービスという形で分配すればいい。報酬とペナルティは、人々に自分の選好と才能を明らかにして、やるべきことを確実にやるようにするインセンティブを与えるように決定する必要がある。こうしたことはすべて、数学的に表現して解くことができるはずだ。社会主義の経済学者が経済を数学の問題とみなし、コンピューターがあれば解を得られると考えたのはそのためだ。
だが、計算と情報の複雑度に関する理論がその後にたどった展開を見れば、ミーゼスの洞察が正しかったことがわかる。計算科学者たちが気づいたように、経済を管理するのは大規模な方程式系を解くだけの問題であったとしても、そうした解を見つけるのは、社会主義経済学者が考えていたような簡単なタスクとはほど遠い。統計学者でコンピューター科学者のコズマ・シャリジは、中央計画を鋭く分析し、中央計画委員会が現代経済の「解」を求めるのは絶対に不可能であることを明らかにしている。シャリジは小論「ソ連では、最適化問題を解くとあなたの問題が解決する」で、経済配分問題を解くために必要なコンピューターの計算能力は、経済に流通する商品の数の比例以上に増加すると指摘する。平たくいうと、大規模な経済では、1台のコンピューターで中央計画を行うのは不可能だということである。
抽象的な数学的関係を具体的に示すものとして、1950年代のソビエトの計画者による推計が例にあげられている。当時、ソビエトの経済力は最盛期にあり、経済計画制の下で約1200万種類の商品が追跡されていた。しかも、モスクワの熟したバナナはレニングラードの熟したバナナと同じものではなく、それをある場所から別の場所に移すことも計画の一部であるのに、推計にはまったく反映されていない。しかし、たとえ商品が1200万種類しかなかったとしても、最も効率的な既知の最適化アルゴリズムを、最も効率的なコンピューターで走らせても、そうした問題を1回解くだけで、およそ1000年かかってしまう。現代のコンピューターでは妥当な「近似」解すら求められないことさえ証明できるのだ。いうまでもなく、計画問題に組み込まれる財、サービス、輸送の選択肢などの要素は、1950年代のソ連よりもはるかに多い。だが市場は、この計算の悪夢を乗り越えるという奇跡を実現してみせる。
市場は資源を最適に分配する強力なコンピューターである
市場は、分散された人間の計算能力をエレガントに活用する。そうすることで、いまあるコンピューターには太刀打ちできないような方法で資源を配分する。専門家集団による中央計画制は、市場システムに取って代わることはできないというフォン・ミーゼスの見立ては正しかった。しかし、ミーゼスの議論は、市場は「自然」なものであって、経済資源を管理するために人間が創造したプログラムではないことを意味するものと、間違って受け止められた。実際には、市場という制度に自然なものは一つもない。人間が市場を創造するのである。裁判官、立法者、行政官、さらには民間の企業家が、市場を創造し管理する組織をつくり続けている。
市場は強力なコンピューターだが、それが最大幸福を生み出すかどうかは、市場がどうプログラムされているかによって変わる。テクノロジーと経済の発展における現段階では、協調が大きくなりすぎて、モラル・エコノミーでは管理できなくなっており、市場は最大多数の最大幸福を達成するのに適したコンピューターになる。われわれが「ラディカル・マーケット」を提唱するのはそのためだ。そう考えるなら、市場のコードにあるバグを修正して、市場がより多くの富を生み、その富がより公正に分配されるようにすることができる。
市場をコンピューターにたとえると、市場の役割と価値をはっきりと理解できるようになり、われわれが提案する解決策は、市場の範囲を拡張することがベースにあるということが明確になる。富に共同所有自己申告税(COST)を適用すると、個人が自分の価値を示す責任が大きくなり、自分が高く評価するものの所有権をもっと強く主張できるようになるため、市場はラディカルに変わる。 二次の投票(QV)は政治の領域でそれと同じことをする。移住に関するアイデアが取り入れられると、どこに住み、どこで働くのがいちばんよいかを個人が決める機会が広がる。反トラストやデータ評価に対する提案が実現すれば、集中化した力が崩れる。すると、個人や小さな企業が競争し、イノベーションを生み出し、合理的な経済選択をして、分散コンピューティングが最適な経済配分を実現できるようになる。しかし、そうであるとしたら、次のような疑問がわく。 市場が人間の知力を活用するコンピュータープログラムにすぎないのだとしたら、コンピューターの能力が高まっても、市場はまだ必要になるのだろうか。
さて、ここからは第1章「財産は独占である」の中身と、その評価について述べたい。本書の中でも最もラディカルなこの章で著者たちが改革の矛先を向けるのは、財産の私的所有に関するルールである。私有財産は本質的に独占的であるため廃止されるべきだ、と彼らは主張する。言うまでもなく、財産権や所有権は資本主義を根本から支える制度のひとつだ。財産を排他的に使用する権利が所有者に認められているからこそ、売買や交換を通じた幅広い取引が可能になる。所有者が変わることによって、財産はより低い評価額の持ち主からより高い評価額の買い手へと渡っていくだろう(配分効率性)。さらに、財産を使って得られる利益が所有者のものになるからこそ、財産を有効活用するインセンティブも生まれる(投資効率性)。
著者たちは、現状の私有財産制度は、投資効率性においては優れているものの配分効率性を大きく損なう仕組みであると警告している。私的所有を認められた所有者は、その財産を「使用する権利」だけでなく、他者による所有を「排除する権利」まで持つため、独占者のように振る舞ってしまうからだ。この「独占問題」によって、経済的な価値を高めるような所有権の移転が阻まれてしまう危険性があるという。一部の地主が土地を手放さない、あるいは売却価格をつり上げようとすることによって、 区画整理が必要な新たな事業計画が一向に進まない、といった事態を想定するとわかりやすいだろう。
代案として著者たちが提案するのは、「共同所有自己申告税」(COST)という独創的な課税制度だ。COSTは、1. 資産評価額の自己申告、2.自己申告額に基づく資産課税、3. 財産
の共同所有、という三つの要素からなる。具体的には、次のような仕組みとなっている。
仮に税率が10%だった場合に、COSTがどう機能するのかを想像してみよう。 あなたが現在所有している土地の価格を1000万円と申告すると、毎年政府に支払う税金はその10%の100万円となる。申告額は自分で決めることができるので、たとえば価格を800万円に引き下げれば、税金は2割も安い30万円で済む。こう考えて、土地の評価額を過小申告したくなるかもしれない。しかし、もし800万円よりも高い価格を付ける買い手が現れた場合には、土地を手放さなければならない点に注意が必要だ。しかもその際に受け取ることができるのは、自分自身が設定した金額、つまり800万円に過ぎない。あなたの本当の土地評価額が1000万円だったとすると、差し引き200万円も損をしてしまうのである。このように、COSTにおいて自己申告額を下げると納税額を減らすことができる一方で、望まない売却を強いられるリスクが増える。このトレードオフによって、財産の所有者に正しい評価額を自己申告するようなインセンティブが芽生える、というのがCOSTの肝である。
実は、COSTのような仕組みの発想自体は、著者たちのオリジナルというわけではない。シカゴ大学の経済学者アーノルド・ハーバーガーが、固定資産税の新たな徴税法として同様の税制を1960年代に提唱しており、彼の名前をとって「ハーバーガー税」とも呼ばれている。またその源流は、19世紀のアメリカの政治経済学者ヘンリー・ジョージの土地税にまで遡ることができる。ただし、適切に設計されCOSTを通じて、所有者にきちんと正直申告のインセンティブを与えることができることや、配分効率性の改善がそれによって損なわれる投資効率性と比べて十分に大きいことなどを示している点は、著者たち(特にグレン・ワイル氏と、別論文での彼の共同研究者)の大きな貢献だ。整理すると、大胆な構想と洗練された最先端の学術研究によって、本書はジョージ主義やハーバーガー税を現代によみがえらせ、土地をはじめとする様々な財産に共同所有への道筋を切り拓いた、といえる。
財産の私的所有は、確かに著者たちが主張するように「独占問題」を引き起こし、現在の所有者よりも高い金額でこの財産を評価する潜在的な買い手に所有権が移転しにくくなる、という配分の非効率性を引き起こす。ただし、この非効率性は悪い面ばかりとは限らないのではないだろうか。非効率性の正の側面として、三つの可能性に思い至ったので書き留めておきたい。一つ目は、予算制約である。ある所有者にとって非常に価値がある財産であっても、租税に必要な現金が足りず、高い金額を申告することができないような状況が当てはまる。私有財産が認められていれば、手元に現金がなくても大切な財産を守ることができるが、COSTはこの「守る権利」を所有者から奪ってしまう。経済格差の解消が大幅に進まない限り、この種の「不幸な売却」を無くすことは難しいのではないだろうか。二つ目は、生産財市場の独占化だ。いま、二つの企業が同じビジネスを行っており、事業継続のためにはお互いが所有している財産免許が欠かせないとしよう。ここで、ライバルの免許を獲得すれば自社による一社独占が実現できるため、高い金額で相手の免許を買い占めるインセンティブが生じる。免許の所有権がCOSTを通じて円滑に移転することによって財産市場の独占問題は解消されるものの、その財
産を必要とする生産財市場において独占化が進んでしまう危険性があるのだ。三つ目は単純で、思考コストが挙げられる。COSTにおいて申告額をいくらに設定すれば最適なのかは、税率だけでなく、自分の財産に対する他人の購買意欲に左右される。需要が大きければ価格を上げ、小さければ下げるのが所有者にとっては望ましい。つまり、市場の動向をつぶさに観察して、戦略的・合理的な計算をする必要があるのだ。こうした調査や分析は、市井の人々に大きな負担を強いるかもしれない。
最後に、COSTや本書全体に対する監訳者の評価を述べておきたい。現在の資本主義が抱える問題として特に深刻なのは、経済成長の鈍化と格差の拡大が同時並行で起きていることだろう。著者たちが「スタグネクオリティ」と呼ぶ問題である。こうした中で、一部の富裕層に過剰なまでに富が集中する経済格差の問題を見過ごせない、と考える経済学者も増えてきた。ただし、著者たちのように、私有財産という資本主義のルールそのものに疑いの目を向ける主流派経済学者はまだほとんどいない。 ポピュリズムや反知性主義が世界中で台頭する中で、専門家として経済の仕組みを根本から考え抜き、しかも過激な具体案を提示した著者たちの知性と勇気を何よりも称えたい。 COSTを幅広い財産に適用していくのは、少なくとも短期的には難しいかもしれない。しかし、補完的なルールをうまく組み合わせて、前述したような問題点にうまく対処していけば、実現可能な領域は十分に見つかると期待している。ポズナー氏とワイル氏の卓越したアイデアを更に現実的なものとするためにも、本書が多くの読者に恵まれることを願っている。
ビッグデータは救世主なのか
理由の一つは、会社の業務を代替するアウトソーシング(外部委託)が非常に充実してきたことだ。アメリカのオーデスクや日本のクラウドワークスのようなクラウドソーシング企業を活用すれば、必要とする業務や職務に適った人材を世界中からマッチングすることができる。
アメリカ企業はシステム開発のほとんどを、インドをはじめベラルーシ、ウクライナ、フィリピンなどの安価で優秀なプログラマーに委託しているし、研究開発職さえ、ナインシグマなど技術者のプラットフォームを経由してアウトソーシングしている。日本でも、リモートワーク専任の人材派遣業を営むキャスター(中川祥太社長)などの会社を活用する企業が増えてきている。
会社に出社しなくてもできる仕事というのは、大抵は能力とスキルのある人なら誰でもできる仕事だということだからだ。テレワークが普及すればするほど、「誰にも負けないスキルがないか」「実績を残しているのか」といった点がますます求められるのだ。
新卒採用の場面でも、「自分はこれができます」という売り込みがさらに必要になってくる。しかし、日本の大学はすぐに使える実用的な知識とスキルを教えていないので、大卒人材は「使えない人材」だと評価され、採用を見送られ始めるだろう。もっと言えば、大卒よりも、高専や専門学校で使えるスキルを身につけた人のほうが、企業から声がかかりやすくなっていくだろう。
最近で言えば「新入社員に社長をやらせる」仕組みがある、藤田晋氏が創業したサイバーエージェントもユニークだ。1年目から社長になれば、戦略だけでなく人事の問題、財務の問題など、経営に必要な幅広いノウハウが実践的に身についていく。
日本の伝統的な企業では、若手・中堅社員は上司の資料づくりばかりで、経営に初めて触れるのは入社してから20~30年後。そんなトップが経営する日本企業の業績が伸び悩んでいるのは至極当然だろう。
日本企業は人事制度を抜本的に見直し、優秀な人材を世界中からサイバー採用したり、加速インキュベート(育成)したりするシステムの構築を、果敢に実行に移していかなければならない。
AIについてあまり分かっていない方による無知と誤解に基づくAI論が2割、残り8割はAIと関係ない筆者の経験談だが、いまいち議論の焦点が見えにくい。
米軍も活用する「シミュレーションによる学習」
標準化をテコにした戦い方
後発企業でも参入可能
問題解決は四段論法で
SO WHAT?と、空、雨、傘
マッキンゼーの問題解決10則
論点思考の四つのステップ
論点は環境とともに変化する
論点は進化する
なにかこの人は勘違いしているようだが、研究者も研究課題を設定する際に一番重視するのはfeasibilityである。解けない問題と思っているにもかかわらず、やけくそで挑戦するような研究者は存在しない。解けない(と考えられる)問題にチャレンジするのは無意味であり、その見定めに係る厳しさはコンサルタントの比ではない。なんでもかんでも研究者(学者という名称を使うのもどうかと思う、研究者は自分のことを学者とは言わない)をディスるのは止めてほしい。ましてや、誤解や理解不足に基づく誹謗中傷は尚更だ。
上位概念の論点を考える