ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀

  • 既存の社会の取り決めが不当な格差を生んでおり、集合行為を妨げているという点では、われわれは左派と同じ意見である。しかし左派の欠陥は、政府の官僚的エリートが社会の病理を治すとして、裁量的な力に依存していることだ。左派が思い描くエリートたちは、善良で、イデオロギーが中立で、公共の利益をいちばんに考えているが、現実にはときに恣意的だったり、腐敗していたり、無能だったり、悪いイメージが先行してしまって国民から信頼されていなかったりする。市場にはもともと急進主義が備わっているとわれわれは考えている。
  • われわれが思い描くラディカル・マーケットとは、市場を通した資源の配分(競争による規律が働き、すべての人に開かれた自由交換)という基本原理が十分に働くようになる制度的な取り決めである。オークションはまさしくラディカル・マーケットだ。オークションでは参加者は互いに入札し合うルールになっているので、競売にかかるものは、それをいちばん必要としている人の手に渡ることになる。ただし、入札価格の違いは、それをほしいと思う気持ちの差によるものだけでなく、富の格差によって生まれている場合もあることに注意しなければいけない。
  • オークションは不動産の売却、美術品、ファンドレイザーのためのものだと考えている人がほとんどだ。インターネット上では日常的に行われているとはいえ、それが広く一般に公開されることはない。しかし、以下に述べるように、オークションが私たちの社会に浸透したら、 リオを、そして世界を救うことができるかもしれない。

 

完全競争という幻想

不完全な市場システム

  • 当時、市場は「完全に競争的」であるとの前提に立つ経済学者が増えており、それが分析の基礎になっていた。市場が完全に競争的であるということは、少数の同質な商品があって、どの商品も大量に保有したり購入したりする個人は存在しない、ということである。自分の商品を売り、必要なものを他人から買うために、全員が激しく競争しなければいけない。穀物が完全競争市場の古典的な例である。どの穀物生産者も市場で大きなシェアを持っていないので、1人の生産者
    が価格に大きな影響を与えることはできない。くわえて、非常に多くの製粉業者、牧場主、パン屋が穀物を買うので、1人の買い手が買い控えをして価格を押し下げることもできない。市場が提示する価格がどのようなものであっても、全員がそれを受け入れなければいけない。
  • しかし、ジョーン・ロビンソンら、先駆的な経済理論家が指摘したように、現実の世界ではこのように動く市場はほとんどない。ここで、家を買うプロセスを考えてみよう。住宅市場のうち、完全競争状態にいちばん近いのは、大都市の住宅市場である。大都市の住宅市場は、家が絶えず供給され、たくさんの人が家を買おうとしている。だが、そうしたところで家を買うか売るかしたことがある人なら誰でも知っているように、システムは完全とはほど遠い。立地も、設備も、眺望も、日当たりも、家によってそれぞれ違う。同質とはおよそかけ離れており、穀物とは別物である(穀物が同質なのは、入念なマーケットデザインの結果にほかならない)。取引がまとまらなければ、住宅の購入は何カ月も先送りされることになり、その間に買い手は条件に合いそうな他の家を探す。
  • そうだとすると、買い手にも売り手にも強い交渉力があることになる。どちらも相手がいくらなら支払ってもいいと考えているか、いくらなら受け入れてもいいと考えているかを見きわめて、最も有利な価格を勝ち取ろうと躍起になる。そんな戦略的行動のせいで取引が失敗してしまうこともある。たとえうまくいったとしても、その過程で膨大な時間と労力が浪費されている。複雑なビジネス取引だと、問題が拡大する。 たとえば、土地開発計画では、工場やモールを建てるために隣接する数多くの土地を買い上げなければいけない。デベロッパーのリスクがとても高いので、既存の住宅の所有者は交渉で優位に立つ。多数の住宅所有者が高額の支払いを求めて合意を渋れば、計画が遅れたり、場合によってはストップしたりする。
  • 個人や企業が参加する市場のほとんどは、穀物市場よりも住宅市場に近い。 工場も、知的財産も、企業も、絵画も、どれも非常に特異的で、二つとして同じものが存在しない資産である。このようなケースは他にもたくさんあり、完全競争の前提はほとんど意味をなさない。労働市場もそうである。すべての労働者は才能も性格も違えば、住んでいるところも違う。インターネットサービスや航空会社のフライトなど、相対的に同質な商品の市場は数多くあるが、そこでさえ少数の企業が市場を支配している。しかも、そうした企業がたくさんあるように見えるときでも、所有者が同じであったり、共謀していたりすることが多い。このように、市場支配力(企業や個人が自分たちに有利になるように価格に影響を与えることができる力)は、経済の隅々まで行き渡っている。 市場支配力は、現在の資本主義の組織構造に偏在する固有のものであり、スタグネクオリティと政治対立を生んでいる二つの大きな原因の一つだと、われわれは考えている。

市場が存在しない領域

  • もう一つの大きな問題は、市場支配力がはびこる市場がある一方で、人間の生舌のさまざまな領域では、人々の幸福を大きく高める市場が存在しないことだろう。この問題が特に深刻なのが、ふつうは政府が提供する財やサービスである。警察、 公共公園、道路、社会保険、国防がその例だ。いま必要とされているのは、政治的影響力の市場なのである。
  • 政治的影響力の市場など、荒唐無稽に聞こえる。お金で政治的影響力を買うことが許されるなら、政治は一握りの金権主義者にコントロールされてしまうのではないか。19世紀後半のアメリカで蔓延した政治腐敗の歴史がそれを物語っている。その当時、地方の政治家は宗教組織や鉄道関係者、石油王らに広く買収されていた。
  • だが、これに代わるモデル、 つまり、すべての市民に平等な発言権が与えられて、すべての問題が多数決の原理で決まるというモデルには深刻な欠点がある。多数者が支配するようになると、少数者はどうなってしまうのだろう。トランスジェンダーの人たちがトイレを使う権利や中絶の防止など、少数者が強い関心を持っている問題があっても、その問題の重要性に見合った影響力を行使する方法がない。1人1票制がとられているために異なる集団同士が歩み寄ることができず、イデオロギーのブロックの間で権力が激しく振れている。
  • 現代の生活の中で市場がほとんど存在しない領域は、政治だけではない。移民が厳しく制限されて、国境をまたぐ労働の貿易が止まり、労働市場に穴が空いている。デジタル経済で非常に価値のある商品の一つであるデータは、グーグル、フェイスブックといった企業が収集して収益化しているが、そうしたデータを生み出すユーザーが直接報酬を受け取ることはない。データの市場が強く必要とされているが、そうした市場はまったくない。市場経済は完全に競争的であるとされており、そうであるように見えるかもしれないが、実際には市場の独占と欠落が生じてしまっている。
  • このような状況を見ると、標準的な経済学のレトリックが拠って立つバラ色の前提に疑問がわいてくるが、同時に、見過ごされている機会も浮き彫りになる。市場支配力が市場をむしばんでいるばかりか、市場が存在すらしていないことも多いという現実と向き合えば、左派と右派の二極化を避けることも、偏見と特権に立ち向かう急進主義者の闘いを再開させることもできるだろう。

 

私的所有が効率的な資源の配分を妨げる

  • 地主も独占者と同じように、土地を売るときに、最初に公正な価格を提示した人に売らずに、高額な価格が提示されるまで合意を渋ることで(市場への供給を絞るのと同じことになる)、売却益を増やすことができる。その間、土地は使われないか、有効に活用されない。このため、私的所有は実際には効率的な資源配分を妨げるおそれがある。それは土地の私的所有に限ったことではない。同質な商品を除けば、どの資産でも私的所有が効率的な資源配分を妨げる可能性がある。ビジネス機器、自動車、美術品、家具、航空機、知的財産を考えてみてほしい。どれも金額は小さくない。現代の経済には私有財産がたくさん存在するので、独占やこの後で述べる独占に関連する問題が引き起こす資源配分の失敗によって、生産が25%以上押し下げられている可能性があることが、実証研究で明らかになっている。アメリカだけで1年に何兆ドルも失われている計算だ。
  • このように、急進主義者のラディカルな改革が生み出した資本主義システムは、土地と労働の自由な流れを妨げていた制約を緩め、土地と労働が最も有効に使われるようにしたかのように見えたが、制約がすべて取り払われたわけではなかった。独占力が進歩の道筋に立ちふさがっていたのである。

 

ヘンリー・ジョージの「土地税」と「モノポリー」 ゲーム

  • 先に述べたヘンリー・ジョージは、独占問題を解決する方法を提唱した。そのアイデアはおそらく経済学者の間で最も傑出したものだろう。共同所有を達成するうえで、国有化よりも「もっと単純で、もっと容易で、もっと穏やかな方法」とは、「公共の用途のために地代を租税として徴収することである」と、ジョージは説いた。
  • ジョージの土地税は、今日の固定資産税とは違っていた。固定資産税は一般に税率が1~2%と低いが、土地と家屋を合わせた評価額がベースになり、評価額は政府の鑑定士が査定して決めるのがふつうである。一方、ジョージの土地税は税率がはるかに高い。土地を占有するために支払わなければいけない地代の100%になる。ただし、土地の上に建てられている構造物の価値には課税されない。 鑑定人は、最近売却された近隣の空き地の事例に基づいて、 家屋の価値のうち、家屋の下にある改良されていない土地から生じている部分がどれだけあるか(つまり、家屋が解体された場合にその土地にどれだけの価値があるか)を判定する。この土地の価値はすべて税金で没収されるが、土地の上にある構造物が超過価値を生み出せば、その分は住宅所有者のものになる。
  • そうした「地代」に100%課税されると、所有者は土地の上に建てたものの価値はすべて享受できるが、土地そのものの価値については、その全額を政府に払わなければいけなくなり、土地を借りた人とまったく同じことになる。「土地の独占はもう割に合わなくなる。いまは価格が高くて他の人が締め出されている何百万エーカーもの土地が放棄されるか、わずかな金額で売却されるだろう」。政府が土地の所有に課税すれば、自分の土地を生産的に使うことができる人はそうするので税金を払うことができるが、土地税がなかったら土地を遊ばせて安閑としていたであろう人たちは、土地を売却して、税金を逃れようとする。
  • ジョージの提案はたちまち大衆の心をとらえた(図11参照)。ボードゲームの歴史で最も有名なものといえる「モノポリー」は、「地主ゲーム」と呼ばれたゲームが原型になっている。ジョージのアイデアを大衆に教えるために、エリザベス・マギーが1904年に考案した。いまはおなじみのルールでは、プレイヤーは土地を独占して、他のプレイヤーを破産に追い込み、ゲームから脱落させようとする。ところが、オリジナルはルールが違っていた(イーベイでフォコーポリー・プレス版を買うことができる)。 地代に税金をかけて (土地の上に建てられている家屋には課税されない)、それが公共工事の財源になるので、プレイヤーは公共会社と鉄道
    をタダで利用できるし、いまは「GO」と呼ばれているところを通過すると社会的配当を受け取り、サラリーが増える。こうしたルールがあるため、1人のプレイヤーが独占を達成することはできず、誰かが自分の土地を開発すると、すべてのプレイヤーがその恩恵にあずかれる。
  • 1933年には、アメリカの哲学者、ジョン・デューイが、ジョージの『進歩と貧困」は「政治経済に関して書かれたそれ以外のほぼすべての本を合わせた販売部数を上回った」と推測している。著名な政治家や思想家の中にはジョージ主義者が大勢いた。貴族階級のウィンストン・チャーチル、 ラディカルな進歩主義者のデューイ、シオニズム運動を起こしたテオドール・ヘルツルらがそうである。

ジョージ主義の欠陥

  • だが、ジョージ主義には深刻な欠陥があった。構造物の下にある土地の価値に100%課税されて没収されるなら、所有者は土地に投資することはおろか、手入れをするインセンティブすらなくなってしまう。これは投資非効率という問題だ。当時、土地の投資非効率は問題とされていなかった。 土地を保守管理する必要はない、土地に価値を付け加えることができるのは、家屋のような地上構造物だけだと考えられていたからだ。しかし、こうした前提は環境に与える損害を無視していた。生態学者のギャレット・ハーディンは後年になって、単独の所有者がいない土地は往々にして過放牧に陥り、浸食され、汚染されると考察した。 これはハーディンが「共有地の悲劇」と呼ぶ状況である。鉱山からとれる金属、油井からとれる石油など、枯渇する可能性がある天然資源では、それ以上に大きな問題にぶつかった。土地に100%課税されると、そうした資源の所有者はできるだけ早く石油や鉱石をとりだそうとするので、資源が浪費されてしまう。
  • くわえて、ジョージの提案が実現していたら、行政にとっては悪夢になっていただろう。ジョージは自然の賜物である土地と、土地の上に建っているか、土地を使用しているあらゆるもの(ジョージのいう「人工資本」)とを区別し、前者には課税すべきだが、後者には課税すべきではないとした。この線引きはたぶんに人為的なものだった。工場は鉱山からとられた金属で建てられており、工場は一度建てられると、土地とまったく同じように独占されやすい。また、工場は簡単に動かせないし、工場が地域の発展を後押しするかもしれない。そうなれば土地の価値は上がる。そのため、土地から生まれる価値とその上に建っている構造物の価値を区別するのは至難の業だ。
  • この点を、エンパイア・ステート・ビルを例に考えてみよう。このビルの下にある土地の純粋な価値はどうなのだろう。隣接する土地の価値と比較して推定することもできる。しかし、ビルそのものが周辺地域の土地に価値を与えている。ビルがなくなれば、周囲の土地の価値はほぼ間違いなく変わるはずである。土地と建物、場合によっては周辺地域は互いに強く結びついているので、それぞれの価値を別々に算定するのは難しい。他の地域もそうだろう。純粋に物理的な立地条件よりも、建造物の外観やイメージ、建物や通り、公園、小道との関係性といった、それ以外のさまざまな要素によって決まる部分のほうが大きい。

 

中央計画制の欠点

  • その中で、限界革命の3人目の立役者、カール・メンガーの門下生であるルードヴィヒ・フォン・ミーゼスとフリードリヒ・ハイエクは、中央計画制の欠点を指摘した。中央計画の立案者には、最適な配分を決定するための情報と分析能力がない。人の評価というのは私的な情報である。
  • 市場の真髄は、価格システムを通じてこの情報を消費者から生産者に伝える能力にある。これに対し、中央計画制では大規模な資源配分の失敗が生まれ、誰もほしがらないものが生産される。それがソ連のような現実世界の社会主義経済の特徴だった。さらに、経済が中央集権化したことで、政治的濫用が生まれる道が開かれた。 ハイエクはこれを「隷属への道」という印象的な言葉で表現している。
  • 中央計画制の恐ろしさを目の当たりにした西側の自由主義者は、資本主義は、たとえ限界があるとしても、経済を組織する優れた方法だと考えるようになった。独占を防ぐには、非常に重要な産業で反トラスト法をつくり(第4章を参照)、規制を導入し、国有化を制限することが最も効果的だった。アメリカでは、政府は電力事業などの「自然独占」に価格規制をし、ヨーロッパでは、大規模な公益企業や大企業は政府が所有することが多かった。戦後の好景気にわく中で、私有財産に関する根本的な問題は影が薄くなっていった。

私的な交渉と独占問題

  • 独占問題が深い凍結状態に陥っていたのは、コースが1960年に発表し、いまでは古典になっている論文「社会的費用の問題」が誤って解釈されていたからだった。 コースによれば、取引(つまり交渉) コストが低ければ、所有権がどう配分されようと、効率性には影響を与えない。交渉を通じて、最も価値の低い用途から最も価値の高い用途へと財が譲渡される。あるオフィスビルで、静かな医者のオフィスと、大きな音がする音楽教師のオフィスが、薄い壁をはさんで隣り合わせになっているところを想像してみてほしい。医者は音に悩まされていて、音楽教師には出ていってもらうか、防音壁を設置してほしいと思っている。ある法的なルールの下では、音楽教師には好きなだけ大きな音を出す権利が認められる。別のルールの下では、医者には騒音がない環境で静かに暮らす権利が認められる。
  • コースの議論に照らすと、理想的な条件下では、最終的に両者が合意する騒音の水準は同じになる。一方のシナリオでは、医者は音楽教師にお金を払ってもう少し静かにするようにしてもらい、もう一方のシナリオでは、音楽教師は医者にお金を払って、ある程度の音は受け入れるようにしてもらう。交渉が完全であれば、法律では騒音の水準は決まらず、誰が誰にお金を払うかという点にだけ影響を及ぼす。
  • コースの主張は一般に考えられているよりも複雑なものだったのだが、資本主義の熱烈な擁護者は細かい部分を無視した。 その1人がシカゴ大学ノーベル賞経済学者、ジョージ・スティグラーである。1966年版『価格の理論』で、所有権が強力で明確に定義されていれば、私的な交渉によって、常に効率的な結果がもたらされるという単純すぎる考え方を正当化するものとして「コースの定理」を提唱した。この誤った解釈は、独占問題を想定しておらず、私有財産は投資効率性を高める優れた制度であることを暗に示している。主流派の経済学者の大半は、いまでも交渉によって独占問題はなくなると想定している。

設計によって競争を促進する

ヴィックリーが提示したオークションという制度

  • しかし、すべての思想家がスティグラーに追随したわけではなかった。ヴィックリーは独占問題を認識して、共同所有というジョージのビジョンに敬意を払い、独自の解決策としてオークションという理想の制度を提示した。想像の世界での架空のオークションを「序文」で取り上げた。すべての財産ーあらゆる工場、住宅、自動車が共同で所有されていて、お金を払ってそれを使う権利が絶えずオークションにかけられる。(レンタル料の形で)いちばん高い値をつけた市民は、別の市民がそれよりも高い入札価格をつけるまで、その財を保有する。どの工場、どの住宅、どの自動車も、現時点での最高入札価格が開示され、その金額が、現在の保有者がその資産を使うために政府に支払うことに同意した賃借料になる。これよりも高い価格を入札すれば、誰でもそれを使う権利を主張できる。賃借料として徴収したお金は、公共財の財源に使われ(第2章を参照)、社会的配当として分配される。ヴィックリーはこのユートピア的なビジョンを直接描いてはいないが、彼のアイデアと結びつく部分があまりにも多いので、ヴィックリーが死の直
    前まで実現したいと願っていた壮大なビジョンの一部だったのではないかという気がしている。そこで、本書ではこれを「ヴィックリー・コモンズ」と呼ぶことにする。
  • 斬新な概念のほとんどは、最初は現実離れしているように見えるものだ。いまから10年前には、アパートをオンラインで見知らぬ人にお金を取って貸すなど、考えられないようなことだった。すでにみなさんの頭には、「ヴィックリー・コモンズができると日常生活が混乱してしまう」という反論が浮かんでいるに違いない。この点については、この章の後のほうで取り上げる。だが、心にとめておいてほしいことがある。ヴィックリーのアイデアは、私たちが毎日訪れるウェブやフェイスブックのページに広告枠を割り当てるのにすでに使われている。数秒ごとに、ヴィックリーが提案したオークションデザインを通じて、そのときにいちばん高い値をつけている人に枠が与えられているのだ。
  • 政府もオークションを使っている。コースは連邦通信委員会(FCC)を説得して、放送用電波の周波数帯の利用権を与えたり、政府が決めた価格で売却したりするのではなく、オークションにかけるようにさせた。これに対応して、経済学者のロバート・ウィルソン、ポール・ミルグロム、プレストン・マカフィーがヴィックリーの研究を発展させて、周波数帯を売却するためのオークションを設計した。 しかし、この設計は独占問題を一時的に解消したにすぎなかった。電波オークションは頻繁に行われるわけではなかったので、オークションの勝者は周波数帯を何年も、場合によっては何十年も保有し続けることができた。何年も前に利用権を競り落とした会社は、いまでは利用権を最も高く評価している所有者ではないかもしれない。 新しい会社がその帯域を買いたいと思っても、帯域の保有者がとんでもなく高い金額を要求してくるかもしれない。以下に述べるように、そのとおりのことが実際に起きている。
  • ヴィックリーの後継者の筆頭にあげられるロジャー・マイヤーソン(このトピックに関する自身の研究でノーベル賞を受賞)とマーク・サタースウェイトは、ヴィックリーのアイデアを使って、財産の独占性に関するジェヴォンズワルラスの洞察を深く掘り下げた。2人は、単純すぎるコースの解釈が成り立つのは、買い手が売り手よりも資産を高く評価していることを、買い手と売り手の両方が確信しているという例外的なケースだけであることを数学的に示した。 それ以外の状況では、交渉によって独占問題を克服し、それをいちばんよい形で利用する(いちばん高く評価する)人のところに資産が移動し続けるようにする方法はない。この研究によって、なぜ電波市場では周波数帯が新しい用途になかなか再配分されないのか、そしてなぜ、インターネット広告枠のオークションのほうがはるかにうまくいっているのか、その理由に一部説明がついた。独占問題を解決して、配分効率性を生み出すには、使用のための正当なオークションを継続的に行うしかない。

オークションの問題点とその解決策

  • しかし、オークションを継続的に行うと、問題が起きる可能性もある。それは投資効率性の問題だ。自分が保有しているものがいつ他人に取り上げられてしまうかもしれず、入札の売上金も受け取れないことを保有者がわかっていたら、財産を手入れして改良しようとは思わなくなるだろう。こんな状況では、自宅を荒れるに任せてしまうかもしれない。ジョージの土地税案と同じで、ヴィックリー・コモンズは人々に投資を促すインセンティブをもたらさない。
  • この問題に対応するものとして、投資を促進するインセンティブが配分効率性よりも重要になる私有財産権 (ジョージのいう「人工資本」)と、配分効率性が投資効率性よりも重要になる共有財産(ジョージのいう「土地」であり、使用はオークションを通じて分配される)を使うことが考えられる。実際に、アメリカの現行の所有権制度がそれに似ていなくもない。私有財産制は広く浸透しているが、政府は国土の大部分をはじめとする莫大な資源を所有して、それを賃貸したり、無償で使用させたりしており、電波のようにオークションにかけるときもある。しかし、あらゆる財産をこのような極端な型に押し込めては、資源の無駄遣いになる。投資効率性の面からも、配分効率性の面からも、きまって非常に非効率な結果になってしまうからだ。大半の種類の財産には投資がプラスになる。また、大半の種類の財産は、耐用期間に人の手から人の手に移っていくし、そうなるべきである。
  • もっとよいアプローチは、求められる投資効率性と配分効率性のバランスをとる道を見つけることである。このアプローチを「部分共同所有」と呼ぶことにする。 これは共同所有と伝統的な私的所有の中間にある形態だ。部分共同所有にすれば、一つの財産制度の中で配分効率性と投資効率性が最適化される。共同所有によって独占力が生まれるのを阻止できる一方、私的所有によって投資が促されるからだ。1980年代後半、経済学者のピーター・クラムトン、ロバート・ギボンズ、ポール・クレンペラーが財産権を共有する方法を提示し、イリヤ・シーガルとマイケル・ウィンストンがこれに重要な改良を加えた。

 

  • ジョージ主義に基づく土地税を執行するため、中国の孫文は自己申告制度の導入を提案した。一般には、住宅の所有者は自宅の評価額に一定の税率をかけた金額を固定資産税として支払い、評価額は鑑定評価員と呼ばれる職員が決定する。 孫文のシステムだと、個人が自分の土地の価値を自己申告し、その自己申告額に一定の税率をかけて計算した税額を支払うが、国はいつでもその土地を自己申告額で買い取ることができた。孫文を「建国の父」とする蒋介石政権が台湾に逃れたときに、孫文の仕組みが実行に移された。残念ながら、過少申告された土地を買い取る意思や能力は政府にはほとんどなく、この仕組みはほぼ失敗に終わった。
  • シカゴ大学の経済学者、アーノルド・ハーバーガーは、1962年にチリのサンティアゴで講演したとき、腐敗が蔓延するラテンアメリカで固定資産税を執行するという問題を解決する方法として、孫文の仕組みを精緻化したものを提示した。ヴィックリーはベネズエラの財政システムを懸念していたが、鑑定評価員が住宅の所有者から賄賂を受け取って、税負担を最小限にするために評価を過小にすることは日常茶飯事であり、ハーバーガーもこの現状を憂えていた。本人は前例があったことは知らなかったようだが、ハーバーガーが示した解決策には時代を超えたエレガントさがある。
  • 不動産......の評価額に課税するのであれば、本当の経済的価値を推定する評価手順を取り入れることが重要になる・・・・・・。経済学者としての答えは・・・・・・単純明快である。所有者一人ひとりが・・・・・・自分の不動産の価値を公表するようにさせて、その金額を支払ってもいいという入札者が現れたら、それを売ることを義務づけるのである。このシステムは単純で、自己拘束的であり、腐敗する余地がなく、行政コストがほとんどかからないうえ、すでに市場にいる人たちにも、不動産を経済生産性がいちばん高い用途に使うようにするインセンティブが生まれる。
  • ハーバーガーは政府の歳入を増やす方法としてこの仕組みを設計したが、先に明らかにした独占問題に対するすばらしい解決策を提示している。ハーバーガー税は、後にノーベル賞経済学者のモーリス・アレも提唱しており、評価額を高く申告して資産が購入されないようにするとコストが高くつくので、資産に対して独占力を行使しようとする人を罰するものとなる。申告額を高くすればするほど、支払わなければいけない税金が増えてしまうからだ。

 

「共同所有自己申告税(COST)」によって所有権を社会と保有者で共有する

  • この税金を、富の「共同所有自己申告税 (common ownership self-assessed tax = COST)」と呼ぶことにしよう。富のCOSTは、富を保有すること)のコストでもある。COSTが適用されると、伝統的な私有財産制のあり方が変わる。それが「共同所有」である。私有財産を構成する権利の束の中でも特に重要になる二つの柱」は、「使用する権利」と「排除する権利」だ。COSTでは、この二つの権利がどちらも保有者から社会全般に部分的に移る。
  • 最初に使用権について見ていこう。私有財産の一般的なイメージでは、財産を使って得られる利益はすべて所有者のものになる。しかし、COSTの場合は、この使用価値の一部が明らかになり、税金を通じて公共に移転する。税金が高くなればなるほど、移転される使用価値は大きくなる。次に排除権に話を移そう。こちらのほうがはるかに重要なポイントになる。私有財産制では、所有者がみずから売るか手放すまで、財産を持ち続ける。それはつまり、他の人にはその財産を使わせないようにするということである(わずかな例外を除く)。 COSTだと、「所有者」には、財産を自己申告額で買うことを申し入れた人を排除する権利は認められない。逆に、その金額を支払えば、誰でも現在の所有者を排除することができる。したがって、申告額が低ければ低いほど、公共が保有する排除権は「所有者」よりも大きくなる。 税金が上がると価格は下がるので、COSTを上げると、排除権も公共に徐々に移っていき、申告額を支払える人なら誰でも財産の所有権を主張できる。
  • COSTとは、社会と保有者で所有権を共有することと概念化できる。保有者は社会から賃借する借り手になる。その財産をより高く評価する使用者が現れると、賃貸借契約は終了し、契約は新しい使用者に自動的に移る。だが、これは中央計画ではない。政府は価格を設定しないし、資源を配分することも、国民に仕事を割り当てることもない。それどころか、後で述べるように、政府の役割はいまよりも限られたものになる。土地を収用する、財産を国有化するなど、裁量的な介入をして、高額要求といった独占に関連する問題を解決する必要がないからだ。 歳入を確保するために、歪んだ裁量的な政府税をかける必要もぐっと小さくなる。さらに、あらゆるものの管理がラディカルに分散される。このように、COSTを導入すると、力が徹底的に分散化されると同時に、所有権が部分的に社会に移る。意外かもしれないが、この二つは実はコインの裏表なのである。 COSTは中央計画の一形態を生み出すどころか、柔軟性の高い使用市場という新しい種類の市場をつくり出して、恒久的な所有権に基づく古い市場に取って代わるものとなる。

 

一税二鳥

  • 本書では、私的に所有されている資産が最も有効に活用されるのを阻む問題をどれも「独占問題」と大まかに呼んでいる。ジョージ、ジェヴォンズワルラスはこの言葉をそのような意味で使ったが、現代の経済学では、独占問題はさまざまな要素に分かれている。われわれはマイヤーソンとサタースウェイトが重視した問題に焦点を当てたが、他の経済学者たちは、資産が最も有効に活用されない別の理由を示している。後で見るように、COSTを導入すれば、すべての問題が一度に軽減される。

シグナリング」と「保有効果」が消滅する

  • 問題の一つは、経済学者が「シグナリング」 や 「逆選択」と呼んでいるものだ。この概念に関する研究で、ジョージ・アカロフとA・マイケル・スペンスがノーベル賞を受賞している。中古車などの資産の保有者はたいてい、その資産の品質を潜在的な買い手よりもよくわかっている。そのため、保有者が高い価格を要求するかもしれない。それは、買い手がその金額を支払ってもいいと考えているだろうと踏んでいるだけでなく、高い価格をつければ、保有者が車を手放したくないと考えていることを伝えるシグナルになるからでもある。この車には高い価値があるに違いないと買い手に思わせる策略だ。そうしたシグナリングは、交渉本の定番の一つである。市場で価格交渉をしたことがある人なら誰でも、この品にはこんなに価値があるんですよと、売り手にとうとうと語られたことがあるだろう。COSTはシグナリングに税金をかけるので、シグナリングの害が最小限に抑えられる。
  • もう一つ、取引の障害となるのが、ノーベル賞経済学者のリチャード・セイラーが明らかにした「保有効果」である。セイラーは、あるものを買うために支払ってもいいと考える最大の金額は、それを手放すために受け入れてもいいと考える最小の金額よりも低いことを発見した。実際に触ったことも使ったこともなくてもそうなのだ。抽象的なものでさえ、自分の所有物には高い価値を感じるようである。 最近の研究の結果として得られた証拠によれば、保有効果とは、人間に備わっている根源的な執着心というよりも、交渉で優位に立つために使うヒューリスティック(無意識に使っている経験則)である。あなたが自分の所有するものを心から大切にしているように見えると、相手はそれを価値のあるものと考えて、高い金額を提示するようになりやすい。保有効果は、取引の経験が豊富な人には現れず、交渉や戦略的な取引がめったに見られない社会でも認められない。市場社会で求められる複雑な価格設定をこなす時間と能力がない人の特徴であるようだ。保有効果は取引を阻む壁となり、大きなコストを生んでいる。だが、高い価格をつけることがなくなり、財産が「所有する」ものから「借りる」ものになれば、それもなくなる。

借り入れという問題も解決される

  • 借り入れも、資源を取引して有効に活用するのを妨げる障害になる。住宅から工場まで、数多くの資産は、借りるのではなく(少なくとも部分的に)所有していなければ、有効に活用できない。改変や投資をする必要があっても、賃借人はそれが自由にできないからだ。いまは使用されていなくて、集合住宅に改造できる工場がその例になるだろう。だが、現行の私有財産制では、資産を買い取るには高額の費用がかかるので、準備金を厚く積んでおくか、高い借り入れ能力を持っていなければいけない。借り入れの障壁には、信用の欠如、融資がもたらす間違ったインセンティブ、融資関係がもたらすリスクなどがある。低所得者がお金を借りて住宅を買えるようにするために、政府は膨大な資源を投入しており、大勢の人が返済しきれない債務を背負い込んでしまっている。
  • COSTはこの問題を軽減するものとなる。保有者は将来支払うことになる税金を計算に入れて、将来のCOSTの支払額から割り引くので、資産に設定する価格は劇的に下がる。さらに、資産にかかるCOSTの支払額を最小限にしようとして、価格を引き下げる。われわれが提案する税率だと、資産価格は現在の水準の3分の1から3分の2下がる。サンフランシスコやボストンのように、人気があって人が密集している地域は、ごくふつうの家が60万ドル以上するが、それが20万ドルまで下がる可能性がある。そうなれば借り入れをする必要が減って、必要なお金が手元にない大勢の人たちが、債務を抱え込まなくても事業を立ち上げたり、住宅を(部分) 所有したりできるようになる。この効果は、低所得者にとって特に重要になるだろう。

取引の障害が減少する

  • これ以外にも、怠惰、無能、悪意といった取引を阻む障害があるが、経済学者はこの三つを顧みない傾向がある。私有財産制だと、怠惰な所有者や人嫌いの所有者は、資産を退蔵してしまうものだ。それも、利益を得るためではなく、怠慢によってである。この問題は、封建制度の下で特にはびこっていたように思われる。この時代の地主は、思慮深くもなく、倹約もしないし、勤勉でもなかった。ノーベル賞経済学者のジョン・ヒックスはかつて、「独占の最大の利益は、静かな暮らしを送れることだ」と述べている。COSTの場合、所得を生み出して高い評価額を維持できなければ、もっとうまく使える人に資産を明け渡さなければいけなくなるため、怠惰な独占者は静かな暮らしを送れなくなる。
  • COSTはこうした取引の障害をすべて小さくするだけでない。いまは交渉問題に対処するために面倒な手順を踏んだり、次善策を見つけたりしなければいけないが、それが全部不要になる。新車の価格をカーディーラーと何度も交渉しなくてもすむようになるし、自動車ローンで食い物にされることも、下取りで買いたたかれることもない。住宅の売買はストレスだらけなので、ほとんどの人は不動産仲介業者や弁護士を雇うが、高額の料金を請求されるのがおちだ。COSTなら、資産の交換が透明になって、流動性が高くなり、少ない資本でできるようになるため、こうした諸々の手間がかからなくなる。
  • これらを積み上げていくと、トータルの利益はとても大きくなる。筆者の1人がアンソニー・リー・ジャンとともに行った試算では、COSTを使ってマイヤーソンとサタースウェイトが明らかにした問題を軽減するだけで、経済における資産の価値は4%、生産はおよそ1%増える。しかし、先に述べたようにCOSTには他にもプラスの効果があること、そして後述するように、COSTを財源として使うと他の非効率な税金が減ることをすべて考え合わせると、生産は5%増えると、われわれは見込んでいる。経済における資産配分の失敗から生まれる損失の合計は25%と推定されていることを考えれば、この数字は妥当だろう。

 

  • COSTには私たちがよく知っている一面もある。ほとんどの人はすでに、強制的に売却されるリスクを知らず知らずのうちにとっている。住宅や車のローンを滞納したら、住宅や自動車に起こりうることなのだ。 朝目覚めると、自分の車が差し押さえられて、持っていかれてしまっているかもしれない。何かを借りるときは、レンタル料を滞納したり、地主が地代を引き上げて支払えなくなったりすると、立ち退かされるリスクがつきまとう。保険に入るときは、困難な状況を評価して「自己申告」するものだし、たとえ暗黙のものにすぎないとしても、住宅や車が破壊されたらお金がどれだけ必要になるか判断することが求められる。ジップカー、ウーバー、エアビーアンドビーが体現している共有型経済(シェアリング経済)が広がり、ある商品を「所有」するのではなく、一時的に「保有」すると同時に、その商品を消費して売る(したがって価格を設定する)ことになじむようになっている。しかし、COSTが取り入れられると、生活はラディカルに変わる。だから、まずは限られた公的市場と商業市場でテストしなければいけない。

 

民主主義を根本から改革する

このように、現代民主主義の創造者たちは新しい政治秩序を築いたが、自分たちがつくったものに不安を感じていた。少数者の権利が守られていない。多数者が専制している。 悪しき候補者が逆説的に勝つ。多数決を繰り返すと独裁体制が生まれる。そして、民主主義では見識の高い人の意見が無視される傾向がある。すべては、人々の要求や関心の強さの度合いも、一部の有権者の優れた知見や経験も反映されないという、民主主義の弱点に原因があった。要求も関心もより強い人に資源を割り当て、特別な才能や洞察を示した人に報いるもっとよい方法がある。それが市場である。

公共財に関する集合的決定

政治とは、すべての国民や大規模な集団に影響を与える「財」(経済学者のいう「公共」 財や「集合財)を創造することである。これに対して、「私的財」は伝統的な市場で交換され、個人が自分で消費する。 公共財の例には、きれいな空気、国防、公衆衛生がある。私的財は現時点では市場を通じて配分されている。 公共財は標準的な市場を使うことができないか、少なくともよい結果を生んでいない。伝説の経済学者でノーベル賞受賞者であるポール・サミュエルソンが、1954年に発表した論文 「公共支出の純粋理論」で説明したように、標準的な市場は、私的財がそれをいちばん高く評価する人に配分されるように設計されている。その最たる例がオークションである。 オークションでは、いちばん高い価格を入札した人が、その財をいちばん高く評価しているとされる。そして、価格システム全体が一種の分散型オークションとして機能している。

だが、公共財のロジックは根本から違う。公共財はそれを最も高く評価している1人の個人に配分されるのではなく、社会の全員が得る利益の総計を最大化するように公共財全体の水準が決定されなければいけない。そうした公共財に関する集合的決定が、ベンサムのいう「最大多数の最大幸福」をもたらすようにするには、あらゆる市民の声を、その財がその市民にとってどれだけ重要であるか、その度合いに比例して反映されるようにするべきである。標準的な市場では、これは達成されない。というのも、最も関心が高い人は、他の誰よりも高い価格を支払おうとするものだからだ。

標準的な市場では、どんな財でも、より多く手に入れるためのコストはそのほしい財の量に比例する。食料がその例だ。ハンバーガーを2倍ほしかったら、お金を2倍払うのがふつうである。そのやり方で公共財に関する決定をしたとしよう。どの市民も、量の変化に比例する価格を支払うことで、汚染排出量を増やしたり減らしたりすることができたとする。 もしもこの価格が妥当に高くなければ、大勢の市民がこれに反対し、政策を変更するように要求するだろう。こうした「超過需要」が発生すると、通常の市場では、影響力の価格は競り上がる。その結果、発言力を持てるのは、この問題に(賛成でも、反対でも)最も関心を持っている一握りの市民だけになる。

そうした市場では、多数者の専制が、他の誰よりも高い価格を支払ってもいいと考えている、最も動機の強い市民、あるいは最も裕福な市民の専制に置き換わることになる。現代の政治が生み落とす数多くの病理を説明するものとして、この議論は非常に大きな影響を与えている。経済学者で政治科学者であるマンサー・オルソンは、サミュエルソンのアイデアを基礎として、よく組織化された特殊利益団体という小さな集団は、資金提供、ロビー活動などの政治行動を起こして、公共の利益のためではなく自分たちの利益のために行動するように政府を説き伏せることができると論じた。大衆の大部分は、銀行規制のような複雑な問題を無視する一方で、政府から利益を得ることができる銀行は、問題をコントロールするロビー組織に資金を提供する。集合的意思決定に冷ややかな経済学者が多いのは、それがいとも簡単に操作できるように見えるからだ。

投票が他者に課すコストを支払う

しかし、全員がそう考えているわけではない。ここで再び、われらがヒーロー、ウィリアム・ヴィックリーが登場する。オークションの原理を政治に適用する際の問題は、オークションそのものにあるのではなく、その原理が誤って解釈されていたことにあると、ヴィックリーは気づいた。これまでに見たように、政治的な決定権を1人の最高額入札者に売却すれば、悲惨な結果になる。なぜなら、公共財が私的財のように扱われるからだ。 オークションの背景にある考え方は、対象の財を最高額入札者に配分することではないと、ヴィックリーは説く。そうではなく、自分の行動が他人に課すコストに等しい金額を個々人が支払わなければいけないということだ。私的財の標準的なオークションでは、私が落札すると、この「外部性」によって、別の入札者が財を手に入れられないため、落札した最高額入札者は、落札できなかった第2位の入札者の入札額を支払わなければいけない。しかし、エドワード・クラーク、 セオドア・グローヴスが1970年代、ヴィックリーが論文を発表してから10年後に別個に気づいたように、この原理は、私的財の経済的市場だけでなく、公共財を創出する集合的決定を組織する方法も示唆している。

集合的決定をするときには、検討されている公共財から影響を受ける人は、投票したいだけ投票する権利を持っていなければいけないが、その投票が他者に課すコストは全員が支払わなければいけない。お店からトウモロコシを買うとき、その価格は、トウモロコシの次善の社会的使用価値を表している。したがって、それを買うためには、トウモロコシをあなたに配分することで社会が放棄するものを社会に補償しなければいけない。あなたが自分の車を運転していて誰かにぶつかったら、相手に与えたケガ、痛み、苦痛に対して補償をすることが法律で義務づけられている。それと同じように、投票では、集合的決定が行われる国民投票(あるいは他の種類の選挙)で負けた人にあなたが与えた損害を補償しなければいけない。あなたが支払う金額は、あなたの投票によって負けた市民が選好していた別の結果になっていたら、その人たちが獲得していたであろう価値に等しくなる。

では、この仕組みはいったいどうやって機能するとされていたのだろう。 ある人が自分の投票(場合によっては複数の投票)によって選挙に影響を与えることで他人にどれだけ損害を与えたかを、どうやって計算するのだろう。数年後、グローヴスが経済学者のジョン・レドヤードと行った共同研究や、それに関連するアーヌンド・ヒランドとリチャード・ゼックハウザーの未発表の論文で、一つの手がかりが示された。公共財に影響を与える個人が支払うべき金額は、その人が持つ影響力の強さの度合いに比例するのではなく、その2乗に比例するべきだとされたのだ。

 

評価システムと社会集団システム

評価システムと社会集団システムは、今日のデジタル経済の燃料だ。評価システムはきわめて重要な信頼のメカニズムである。これがあるから、エアビーアンドビー、VRBO、ウーバー、リフトといった「シェア経済」サービスが消費者に受け入れられるし、サービスの提供者は信用を得る。評価システムは、アマゾン、グーグル、アップルのapp store、 イェルプが提供し、広く使われている検索サービスの核となる役割を果たしている。だが、こうしたシステムが大きく崩れていることを示唆する証拠が増えている。先に述べたように、ほとんどすべてのレビューが星五つに集中し、星一つはほとんどないので、そこから生まれるフィードバックにはバイアスがかかり、統計学者のいう「ノイジー」なもの、つまり、あまり正確ではないものになってしまう。フェイスブック、レディット、ツイッター、インスタグラムといった他のオンライン・プラットフォームは、「いいね」など、限られた形でしか反応できないため、参加者は特定のコンテンツについて熱狂や嫌悪感を示すことができず、限られた情報しか集まらない。

QVの場合は、利用者はボイスクレジットを受け取って、(たとえば、宿泊するたび、車に乗るたび、あるいは投稿するたびに一定数を使って)サービスのシステムに参加することになる。その後、そのシステムにいる他の人を評価するのにも、クレジットを使うことができる。賛成票・反対票を投じるコストは二次関数的に増えていく。参加者は自分のクレジットを将来のやりとりのために貯めておいてもいいし、いま使いたいという気持ちのほうが強いことに貯めたクレジットを使ってもいい。これはチップシステムと評価システムのいいとこどりであり、熱狂を表明するのにコストがかかることにはなるが、ただ乗りが減るだけでなく、他の参加者がフィードバックを役立てられるようになる。

このシステムの一種が、存在感を増している暗号通貨のイーサリアムをベースに構築された「アカシャ」と呼ばれるソーシャルネットワークによって実行されている。QVは暗号通貨の枠組みと相性がいい。暗号通貨の枠組みには、運営を支える分散管理を可能にするために、公式のガバナンスルールが必要になる。そのため、そうした文脈で社会集団のために使うのにも向いている。しかし、本書を執筆している時点では、正確な状況はわからないし、一般大衆は利用できない。 暗号通貨の世界の大部分は謎に包まれている。それでも、この文脈でQVが広く使われるようになれば、規範と価値観がQVの使用に適応する社会環境下でQVがどう機能するかをテストするには、政治世論調査よりも強力な手段になるだろう。

QVの応用範囲を広げる
QVの商業利用はここで終わらない。集合的決定は、私たちの社会や経済に浸透している。企業は株主の集団によって統治されているし、従業員の集団の要求に応えなければならない。住宅用・商業用不動産の多くは管理組合に管理されていて、管理組合では、共同所有者が共同の利害を持つことがらを投票で決める。ブックグループ (読書会)、大規模なマルチプレイヤー・オンラインビデオゲームの戦士ギルド、組合、クラブ、レストランを選ぼうとしている友だち、新しい社員を雇おうとしているスタートアップ、研究資金を配分する資金調達者、新商品の開発資金を集めているクラウドファンダー、選挙運動に資金を提供する市民、ミーティングのスケジュールを決めている同僚たち。誰もが頻繁に集合的決定をしなければならず、その決定は全員の行動を拘束する。

ほとんどの人がこのような形で生活を共有している。しかし、集合的決定をする優れたメカニズムがないため、こうした生活の側面は非常にフラストレーションがたまるものであり、多くの人ができることなら避けようとする。今年か来年に建物の屋根を修理するべきかどうかを管理組合の他のメンバーと話し合うのは苦痛であり、そんな思いをしなくてもすむようにするには、簡単ではないが、自分の家を持つしかない。もっとよいメカニズムを発明できて、生活のさまざまな領域で集団で決定をしやすくする既定の方法として使うことができれば、生活の中で共有する部分が広がって、私的な部分が狭くなる。QVは、生活の数多くの領域で集合的な選択に投票できるプラットフォームがベースになっており、その方向へと進む一歩になる。

 

民主主義を民主的手段で実現する

複数候補・単一当選者選挙制

前に述べたように、多くの1人1票システムでは、2人の候補者のうちまだましなほうを選ばなければいけなくなることがあり、他の有力な候補が勝ったら大変なことになるという不安が循環して、全員が嫌っている候補が勝つ可能性が生まれる。最近の例が、2016年のアメリカ大統領選挙だ。二大政党の最終的な立候補者が2人とも幅広い層から嫌われていたが、両党の他の候補者は大衆から広く支持を得ていた。QVが複数候補選挙に正しく適用されれば、その可能性がなくなる。どの候補者にも賛成票・反対票を好きなだけ投じることができるからだ。ボイスクレジットの総費用は、個々の候補者への投票数の2乗の総計になる。つまり、選挙レベルではなく、候補者レベルで、費用が二次関数的に増加する。

QVはなぜ、戦略投票が生み出す落とし穴にはまらないのだろう。自分の票を「死に票」にしないためには、2人の主要な候補者のうちの1人に投票するしかないという投票者の意識が、戦略投票の背景に働いていることを思い出してほしい。そこで、候補者を支持するためにも支持しないためにも票を投じることができて、複数の候補者に好きなだけ支持票(あるいは不支持票)を投じられるシステムを提案する。票の価格は二次関数的に変動するので、自分のクレジットを支持する候補者への投票と対立する候補者への不支持票に分けるほうが、支持する候補者だけにクレジットを使うよりもコストが安くすむ。すると、最悪のB候補が当選しないようにするためだけに最低のA候補を支持しようとしている投票者は、B候補に対する不支持をさらに強く表明したいと考えるようにもなる。こうした戦略投票は打ち消し合い、広く嫌われている2人の候補者が沈んでいくので、2人ほど嫌われていない候補者が浮上する。実際のところ、候補者が差し引きでプラスの票を獲得するには、他の大半の候補者よりも高く評価されていなければいけない。

2016年のアメリカの例では、選挙活動中に候補者への選好の強さについてリッカート調査が行われており、それをもとに、QVが導入されていたらどうなっていたかを推測することができる。QV方式だと、リッカート調査で有力とされていた候補者の中では、穏健派とされていた共和党の候補が勝っていた可能性がいちばん高い。最終的に勝利したドナルド・トランプは全候補者の中で最下位になっていた。

だが、特定の結果でなく、このロジック全体を考えるなら、QVを適用できるのは、二肢選択形式の国民投票や、継続して行われる公共財の決定だけではなくなる。ほとんどすべての集合的決定問題で、社会にとって最適な結果を達成するOVの形態が存在する。そのため、 QVは完全に民主的なシステムを支える一貫した基礎となる。

 

代表制民主主義

代表システムの設計は本書の範囲外だが、ここで少し考察をしてみたい。 QVを使ったシステムの下で代表者を選ぶ投票には、さまざまな形がありえる。考えられるアプローチはたくさんあるが、その一つとして、アメリカの政治システムに限りなく近いが、選挙がQVを使って行われるシステムを考えてみよう。このQVシステムは、職務レベルで運用される。下院議員であれば選挙区レベル、上院議員であれば州レベル、大統領であれば国レベルである。選挙があるごとに、有権者は自分の予算の範囲内で、すべてのレベルのすべての候補者に対して、支持票を投じるか、不支持票を投じるか、あるいは投票しないことを選べる。そのため、自分がいちばん気にしている政府レベルに票を集中させることができる。地域に根差している人なら地方レベルに、若くてよく引っ越す人なら国レベルに比重が置かれるだろう。 QVの背後にある理論は、国民投票と同じように、代表選挙にも当てはまる。QVシステムでは、投票者の幸福の総和を最大化する働き
をすると期待される人が代表として選ばれる。それを踏まえて、候補者は有権者の厚生を最大化する立場を選ぶ。多数決原則の下で無党派層の選好に合わせた立場を選ぶようなものだ。

そうであるなら、QVは代表機関そのものに適用できることになる。議員は選出時に一定数のボイスクレジットを受け取り、それを自分の選挙区民にとって非常に重要な問題に割り振る。国民投票型の投票には選好集約問題が存在するが、代表機関もこれと同じ問題に直面する。個々の代表はそれぞれに利害が異なる選挙区民の集団のために働いている。一つの法案がこうした集団に与える影響はそれぞれ違う。大きな影響を受ける集団もあれば、ほとんど受けない集団もある。そうだとすると、再選をめざす代表は、法案を通過させる利害も違ってくる。

いまのシステムだと、政党のリーダーたちは議員を買収し、懐柔し、脅しをかけなければいけない。2008年金融安定化法は、金融危機に対処するために必要なものだったのだが、最初に下院で否決された。それを受けてさまざまな優遇措置が盛り込まれ、ようやく可決にこぎつけた。レストラン店舗改良投資の減価償却期間を短縮する、太陽光発電設備の税額控除を延長する、映画やテレビ番組の制作会社、プエルトリコヴァージン諸島ラム酒製造所、競馬場、ウール製品とおもちゃの木の矢の製造業者など、数多くの事業主体に税控除や補助金を認める、といった具合である。だが、こうしたブラックな「サクセスストーリー」の裏には、不正な取引がかならずあり、アメリカに損害を与え、膠着状態が何年も続いている。QVであれば、ある法案に対して、自分の選挙区民がほとんど関心がないという議員は将来投票するためにクレジットを貯めておくだろうが、その法案に選挙区民が強い関心を持っている議員は、賛成あるいは反対の意思を
断固として示すだろう。

QVは集合的決定を導くより優れた基盤となるが、1人1票制と同じように、集合的意思決定の基本的なパラダイムであり、単なる投票のシステムという以上に深い意味を持つ。この先、さまざまな制度がQVを軸につくられ、多様な形でQVが組み込まれていくようになるだろう。それがどのようなものになるか、いまは想像もつかないが、QVには大きな可能性があることはわかってもらえると思う。

 

QVの通貨としての性質と取引の範囲

QVを調査に使っても、選好の強さを完全に表明することはできない。すべての項目について他の人よりも高い関心を持っている人がいても、それを明らかにする方法がないからだ。政治にそれほど関心がない人もいれば、強い関心がある人もいる。後者の集団は、前者の集団よりも強い影響力を持つために、関心がある他のこと、たとえばお金のことをあきらめてもいいと考えるかもしれない。しかし、QV調査ではそれができない。

この点を、経済的な私的財に当てはめて考えてみよう。取引がたとえば果物の間でだけ可能であるとしたら、全員が好きな果物を手に入れるが、果物をつくっている人は、それを売って他の生活必需品を手に入れるすべがない。分業ができるかどうか、取引の利益を確保できるかどうかは、取引の範囲が拡大されるかどうかに左右される。QVも同じである。ボイスクレジットの採用が広がれば広がるほど、自分の影響力をどうやって、どこで使うかを選択する自由が広がるので、QVがもたらす恩恵は大きくなる。

もちろん、そのような自由にはリスクが伴う。考えなしに財やサービスに大金をつぎ込んで貯金を使い果たしてしまう人がいるのとまったく同じように、クレジットを貯められて、貯めたクレジット(事と次第によっては借りたクレジット)を使えるようにすると、ボイスクレジットを無駄遣いしてしまう人も出てくるかもしれない。 しかし全体としては、適切に規制されていれば、ボイスクレジットの使用が広がれば広がるほどよいと、われわれは考えている。

合理的な譲歩へと導くラディカル・マーケット

QVがもたらす経済的利益

QVはどれだけの価値を生み出すのだろう。一般に、政治制度が格差と成長に与える効果を推定するのは、経済制度の効果を推定するよりもずっと難しい。われわれが知る限りでは、それを本格的に試みた研究が一つだけあり、民主主義が成長に与える効果を推定している。それによると、民主主義が国に導入されると、平均して国民所得が20%増えるという。QVが1人1票制度に置き換わるとそれと同じ効果が生まれると期待する理由はないが、これがベンチマークとして妥当だと思われる。すでに明らかにしたように、現行の民主主義はいかにも不完全だ。民主主義はそれが取って代わった平均的なシステムと比べて経済の生産性を高めたが、それと同じように、QVを導入すれば、少なくとも経済については、既存の民主主義より生産性が高まっても不思議ではない。

しかし、QVの経済的利益はそれにとどまらない。公共財の市場は、何世紀もの間進歩してきたにもかかわらず、どうしようもなく不完全だ。QVに関するわれわれの考え方が正しければ、QVを導入することで公共財の市場が私的財の市場に肩を並べるようになるはずであり、すべての市民にとって、その恩恵は計り知れない。

QVは社会をどのように変えうるか

だが、共同所有自己申告税(COST)がそうであるように、OVは私たちの社会を大きく変
える強い力を秘めているものの、その効果を計量化するのがきわめて難しいものもある。社会制度と文化的な想像力に与える効果がそうだ。予想外の選挙結果、議会投票の膠着、「司法積極主義」への抗議は、機能不全に陥っている政治を象徴するものとして真っ先に思い浮かぶが、それはいちばん重要なところではないだろう。現在の政治システムにとってそれ以上に重大なのは、二極化であり、キャッチフレーズや陳腐な決まり文句(下手をすればヘイトスピーチ)だらけの政治演説であり、大衆に広がる無力感であり、大衆の認識とずれている厳格な政治的境界であり、政治のエリートに対する怒りであり、国民の信頼の崩壊である。

そうした問題にQVが与える影響は間接的なものになり、予測が難しい。それでも、希望を持てる理由はある。QVは、1人1票制よりも豊かに深く自分の考えを表明する力を市民に授けるものだ。市民や政治家は、知識に乏しい無党派層を取り込もうとしたり、不満を抱いている同胞をたきつけようとしたりするのではなく、さまざまな考え方を持つ人たちとかかわろうとするようになる。そうすれば、市民は自分が強い熱意と十分な知識を持っているトピックだけに投票できるようになり、あまりよくわかっていなくて、ステレオタイプや政党帰属意識に従いがちな問題に無理に投票させられることがなくなる。

QVの場合、極端な意見を表明するコストが高くなるので、意見が穏当になり、歩み寄りが促される。予算制約の下で自由が拡大されることで、市民の責任感が高まり、集合的決定をコントロールできるようになる。抗議行動に参加すると、政策の選択にかかわっているという当事者意識が高まることが多いのと同じで、自分たちの声が届くようになっていることを実感できるようになり、自分たちにとって最も重要な問題で勝利を得やすくなると同時に、自分たちが被る損失を受け入れられるようになる。こうした特徴は、市場経済私的財にもたらす社会的効果によく似ている。計画経済では、市民は配給に反感を持ち、抑圧されていると感じる傾向があるため、計画が放棄されると自由が花開いたものととらえる。1980年代、1990年代に共産主義が崩壊したときがまさにそうだった。自分のお金を何に使うかを選択する自由があると、人は自分が持っているもの、手放すことを選んだものに尊厳と責任を感じるようになる。そうした市場の精神をベースとする政治文化が育まれれば、政治に尊厳と責任を強く感じるようになるだろう。

QVが共有と協力をもたらす

COSTと同じように、QVがもたらすと考えられる最大の恩恵は非常に思弁的なものである。他の市民との関係が大きく変わることがそうだ。ほとんどの人は都市部に住んでいて、通信ネットワークを介して他の人と相互作用する。つまり、人の幸福はまわりの人と密接に結びついており、まわりの人に影響されるということだ。このように人と人がつながっている大規模な社会では、大勢の人に集団として利益を提供するほうが一人ひとりにそれぞれ提供するより簡単なものだ。情報は大勢の人に簡単に共有される。社会的相互作用を促進するアプリは、一握りの人にしか使われなかったらほとんど価値がない。大勢の人が使う公共交通機関はたいてい自家用の移動手段よりも経済的だ。だが、そうした大規模なサービスは、現時点では独占企業か、機能不全に陥っている公的機関が提供している。こうした提供者たちが失敗することを恐れて、私たちは自分の家、ゲーテッド・コミュニティ、専用サーバー、自家用車という壁の中に閉じこもり、その
外側にある公的生活から離れがちになって、無駄が生じている。

1950年代という早い時点で、ジョン・ケネス・ガルブレイスはこれを「私的な豊かさ」と「公共の貧しさ」のパラドックスと呼んだ。子どもたちには「立派なテレビが与えられている」が、「学校は生徒の数があまりにも多すぎることが多いし……供給は足りていない」。「家族でエアコンのきいた・・・・・・自動車に乗って出かけても、どの都市も道路はガタガタなばかりか、ゴミが散乱していて、建物は荒廃しているし、とっくの昔に地下に埋めてしかるべき電柱が並んでいるなど、それはひどいありさまだ」。

QVはそれとは違う道を開き、私的財と公共財の豊かさのバランスがすべてのレベルで整うようになる。 市場が私たちにスマートフォンマットレスを提供するときと同じように、私たち全員が共有する公共財が効率的かつスムーズに提供されるようになる。 地域の共同体で、オンラインのソーシャルネットワークで、国の政府の下で、本当の意味で生活を共有し、協力し合う方向へと進む道が開かれる。すると、豊かな公的生活が形成され、社会的関係が自然に発展していく。そうして、私的生活かさまざまなレベルの公的生活かの選択をするときに、集合的機関は無能で腐敗しているから不安だという理由で決めるのではなく、社会的関係をもとに選ぶ世界が実現する。

 

ビザをオークションにかける?

OECD加盟国への移住の大半は、雇用したいと思っている高技能労働者のビザを申請できる政府の官僚か民間の雇用主にコントロールされている。それとは別に、移住システムにはもう一つ別の部分があり、市民の近親者の移住(特にアメリカ)と自民族系の人の移住(特にヨーロッパ諸国)が認められている。こうしたシステムはかなりの程度までトップダウン的で国家の統制下にあるか、雇用主のような密接な経済的利害関係者がコントロールしている。そのため、最も大きな恩恵を受けるのが雇用主と移民であっても、ほとんど驚かない。つまり、移住システムは現代の経済や民主主義と同じ問題を抱えている。その問題とは、システムが不公正であることと、多くの場合、恣意的な政府の裁量に任されていることである。

オークションをベースとした移住システム

第1章、第2章で、オークションがそうしたシステムに置き換わるシンプルな枠組みになることを見てきたが、実際に運用するときには考慮しなければいけないことも多い。同じことは移住にもいえる。ノーベル賞経済学者のゲーリー・ベッカーは、2010年に示唆に富む講義を行い、オークションをベースとする移住のシンプルなシステムを提案した。 移住に定員を設けて、その国に入る権利をオークションにかけるというのである。このラディカル・マーケットがもたらす歳入は、公共財や、国民に一律に支払われる社会的配当の財源として使うことができる。第1章で見た財産の共同所有制と同じである。

第1章、第2章で最も純粋な形のオークションを使ったアイデアを取り上げたが、それと同様に、この仕組みにはいくつもの限界があり、この点については後述していく。しかし、ここで注目すべきは、現行の移住システムが抱える数々の欠点に直接対処するものであることだ。

第一に、移住がもたらす利益の大部分が、企業ではなく、一般市民に行き渡るようになる。これは平等化につながるだろう。 第二に、その結果として、移住に対する政治的反発が和らぐ。 第三に、政府の官僚が果たす役割が大幅に減り、それに代わって、自分たちに開かれている経済的な可能性をいちばんよく理解している移民の知識が生かされるようになる。最近の一連の経済研究から、移民の個人能力を官僚が判断し、その結果を主な審査基準として採用する移住システム(「ポイント制」と呼ばれるもので、高学歴の移民などが優遇される)は失敗しがちであることが明らかになっている。雇用主がビザを申請するシステムはポイント制よりもうまくいきそうに思えるが、前に述べたように、利益は主に雇用主に配分される。オークション制であれば、この二つの落とし穴を避けられる。

 

機関投資家が価格競争を阻止する

一連のガイドラインの背景にある分析は、企業はそれぞれ独立して所有され競争しているという前提に立っている。しかし、すでに見たように、ほとんどの企業は独立して所有されていない。実際には、ライバル企業の株式を大量に保有している機関投資家に支配されている。どうしてこのことが重要なのかを理解するために、まず、単独の株主がフォードの株式の100%とGMの株式の100%を所有していると想像してみてほしい。フォードが価格を下げるときは、フォードがGMから市場シェアを奪おうとしている。しかし、株主は2社とも所有しているので、フォードがGMに勝っても利益は得られないし、値下げは確実に損失となる。そのため、株主はフォードとGMのCEOに価格競争(あるいはコストがかさむ品質競争やイノベーション競争)はしないように命じ、2社が合併したかのように行動するように指示するだろう。

航空業界と銀行業界の競争のケース

その傍証が、アザール、マーティン・シュマルツらの共同研究によって示されている。一例が航空業界である。航空会社間の競争を路線ベース(ニューヨーク シカゴ間、ロサンゼルスーヒューストン間など)で検証した結果、機関投資家が航空会社の株式を大量に保有しているときは、そうした航空会社が競争している路線のほうが、航空会社が競争していない路線よりも航空券の価格が高いことが明らかになっている。全体として、機関投資家の反競争的な力が働き、航空券の価格は3~5%高くなっている。この調査では、機関投資家2社の合併を巧みに分析して、合併が影響を与えると予想されるまさにその路線で反競争的な傾向がことさら顕著に認められることが突き止められている。これは、機関投資家があまりにも深く関与しているため、個々の路線の価格にまで影響を与えられることを示唆するものだ。

銀行業界を検証したもう一つの研究も、同様の結論に行き着いている。それによると、銀行が提供する金融商品の価格や条件を予測する指標としては、機関投資家が重複している度合いのほうが、標準的な市場集中度の指標よりもはるかに優れているという。地域市場で競争している銀行の株式を機関投資家が大量に保有しているときには、当座預金口座の金利は低くなる。そして、この問題はますます深刻になっている。また別の研究によれば、建設、製造、金融、サービスの分野では、ある基準で見ると、機関投資家の水平的株式保有は1993年から2014年の間に600%増加した。これらの産業では、競争は時間がたつにつれて減少し、価格は競争がもっと激しかったら設定されていたであろう水準よりも高くなると考えるべきである。

 

機関投資家の支配が賃金を下げる

機関投資家の支配が広まると、価格が上昇するだけではない。賃金が下がる可能性もある。企業は消費者をめぐって競争するのとまったく同じように、労働者をめぐって競争する。企業が共謀して価格を上げ、生産を減らすように、労働者をめぐって市場で共謀する企業も、賃金を引き下げ、労働者を解雇して、失業を増やすだろう。そうすれば、賃金を低く抑えられて、労働者を搾取できるからだ。この現象は「買い手独占」(monopsony) と呼ばれる。売り手独占 (monopoly)の逆である。そう聞くと、賃金の停滞がすぐに思い浮かぶ。「序章」で論じたように大半の労働者の賃金は伸び悩んでおり、市場支配力の増大と賃金の伸び悩みとの間には密接な関連があることが、最近の研究で示されている。

さらに、企業が政治的な活動で協調すれば、自己の利益をはかり、公共の利益になる規制や税金を阻止するロビー活動の効果がいっそう高まる。政治科学者のジェイコブ・ハッカー、ポール・ピアソンは、機関投資の増加がこの現象と関連していることを実証している。機関投資と分散投資の論理を突き詰めると、すべての資本が、消費者と労働者から最大限の富を吸い上げるために使われることになる。

 

セイレーンサーバー

コンテンツに報酬を支払わないプラットフォーム

ジャロン・ラニアーはそうしたプラットフォームを「セイレーンサーバー」と呼ぶ(「セイレーン」とは美しい歌声で船員を誘惑し、船を難破させる海の妖精)。セイレーンサーバーは各種の無料サービスを提供しており、規模の大きさと桁違いのデータにアクセスできることが魅力になっているが、そのビジネスモデルが社会と経済に与える影響を、ラニアーは懸念している。ユーザーにデータの対価を支払わないので、いちばん必要とされているデータを供給するインセンティブが正しく働かないのだ。

 

「労働としてのデータ」

これは大きな「もしも」だ。もちろん、テクノロジーの進路を予測するのが難しいことは誰でも知っている。しかし、 ラニアーの洞察では、たとえそうなったとしても、AIは実際には人間の労働力に完全に置き換わるわけではない。AIは人間のデータで訓練され、学習している。だとすれば、作業現場や工場とまったく同じように、AIは一般の人間の労働者に非常に重要な役割を提供する。その役割とはデータの供給者であり、これを「労働としてのデータ」と呼ぶことにする。データを労働として認識しないと、ラニアーのいう「フェイク失業」が発生することになりかねない。これは、人間が役に立たないからではなく、人間が価値のある入力を供給しているのに、社会的に価値のある仕事とみなされず、娯楽の副産物として扱われるせいで、仕事が枯渇してしまう状況である。たとえAIがいま喧伝されているような水準に達しないとしても、労働としてのデータは収入を補完する重要な機会となり、格差の拡大に苦しむ市民に社会に貢献しているという意識をもたらすだろう。しかし、データに対する人々の態度が変わらない限り、そうはならない。

 

データ労働市場における買い手独占力の問題

第一の、最も基本的な理由は、セイレーンサーバーが市場支配力(経済学でいう「買い手独占」力や「寡占」力)を持っているということは、市場が変化して、ユーザーがデータの対価を受け取るようになると、セイレーンサーバーのコストが増大することになるということだ。

データ労働市場において買い手独占力が重要な意味を持つことを最初に明らかにしたのが、グレイ、スーリ、経済学者のサラ・キングスレーによる論文である。それ以降、スーリらによる実証分析が進み、Mタークへのタスクの投稿者はかなりの買い手独占力を持っていることが確認されている。作業を請け負う「ターカー」は好きな時間に好きなタスクを選んで仕事をするので、タスクの投稿者の買い手独占力は、たとえ市場で大きなプレイヤーではなくても、とても大きい。

セイレーンサーバーの買い手独占力は、それとは比べものにならないほど強い。この形態の仕事になりそうなデータのうち、セイレーンサーバーが提供するものは群を抜いて多い。数量化するのは難しいが、すべての価値のあるオンラインデータ、そしてすべてのデジタルデータの大多数が、フェイスブックとグーグルによって収集されている可能性はとても高そうだ。2015年には、インターネット検索(ほとんどのブラウジングは検索で始まる)のグーグルのシェアは50%だったし、フェイスブックの15億人のユーザーは平均で毎日50分間、同社のサイトやアプリを使っていた。市場の非常に大きな部分がこうした巨人に支配されているので、いまは無料のデータであるものの価格が上昇したら、その負担の大部分は巨人たちが背負うことになる。

生産的な仕事のほとんどが、労働者が積極的に探し求めている個別の「クラウドソーシング」ではなく、楽しいオンラインの交流の過程にある仕事である。この点を考えると、ユーザーに価値のあるデータを提供するように求めて、それを生産的に活用できるようにするには、競合する会社は、他社にひけをとらないほど質が高く、ユーザーが入れ込むようなサービスをつくり上げる必要があるだろう。いくつかのスタートアップ企業がこのモデルを採用して、代替的なソーシャルネットワーク (empowrなど) やデータ管理サービス(データクープなど)にユーザーを引き寄せようとしている。しかし、サービスの思想にイデオロギー的な愛着を持っている一握りのユーザーしか呼び込めていない。大半のユーザーは、友だちの大部分が使っていて、より質の高いサービスを提供しているネットワークを選んでいる。

ユーザーからより役に立つデータを引き出すことに成功しているスタートアップが、リキャプチャ(reCAPTCHA)だ。 オンラインサービスにアクセスするときにボットではないことを証明するために解くように求められるパズルとして、ほとんどのインターネットユーザーにはおなじみである。 リキャプチャがユーザーに示すキャプチャはセキュリティ対策だが、テキストをデジタル化するためのデータソースとして設計されているだけでなく、最近では自動文字認識などのMLをベースとするシステムを訓練するためのデータソースとして設計されるようになっている。ただし、リキャプチャが成功したのは、既存のセイレーンサーバーと提携したからであり、セイレーンサーバーが提供する商品に組み込まれたからであり、金銭的な対価をいっさい支払わなかったからにほかならない。グーグルが2009年にリキャプチャを買収した後(報道によると買収額は3000万ドル)、マサチューセッツ州のユーザーが、リキャプチャは無償労働だとしてグーグルを労働法違反で訴えたが、裁判で負けている。

データ労働市場でセイレーンサーバーの競争相手になりそうな企業の大半にとっては、セイレーンサーバーのようにデータを非常に生産的に使うことは難しいだろう。前述したとおり、最高クラスのAIサービスを実現させるには、膨大な計算能力とデータ能力が欠かせない。そんな能力を持っているのは、一握りのデジタル巨人だけだ。もちろん、スタートアップがデータを収集してセイレーンサーバーに売ることもできるだろうが、データに対価を支払うのはこっそりと避けたいという気持ちは、他のルートでデータを集めようという気持ちと同じくらい強いだろう。要するに、セイレーンサーバーは「デジタル・コモンズ」の核となる不動産を占有しているが、そこには一握りのプレイヤーしかいられず、現時点では自発的にこの土地を耕しているテクノロジー農奴に対価を支払うのは、セイレーンサーバーたちの利益に反するのである。

市場の構造、AIテクノロジーの性質はもちろんのこと、ソーシャルメディアの性質も、こうしたサイトの競争耐性がきわめて高い理由になっている。ほとんどのユーザーは、自分の友だちがすべて参加しているソーシャルネットワークにいたいと思っている。このような「ネットワーク効果」があるため、何年もユーザーに補助金を支払えるだけの資金協力を得られない限り、競合企業が市場に参入することが難しくなるおそれがある。それに、金銭の授受を行ってはならないという社会的規範が働いているので、その戦略を成功させるのはいっそう困難になる。また、大勢の社会科学者が、 セイレーンサーバーはカジノと同じようなテクニックを使って、コンテンツに依存性を持たせているとも指摘している。こうした要因が合わさって、セイレーンサーバーの力は増し、ユーザーは長い目で見れば自分たちにとって利益にならないかもしれないパターンにしばりつけられてしまっている。

 

オンラインの娯楽という魔法

第二に、経済学者のローランド・ベナボウと、ノーベル賞受賞者のジャン・ティロールが2003年と2006年にトム・ソーヤー問題のような状況を鋭く分析した結果として明らかになったように、活動に対価を支払うと、内発的な動機付け (娯楽、社会的圧力など) が損なわれやすい。オンラインでのデータ提供に対価が支払われれば、いま自分が娯楽と考えている活動は本当はセイレーンサーバーに利益となる労働であって、その対価を求めるべきだというシグナルをユーザーに送ることになり、娯楽としての価値が下がるだろう。また、ユーザーが社会協働したり社会参加したりする動機が知覚されなくなって、「オンラインコミュニティの一員になる」ことから生まれる社会的な報酬を得られなくなるかもしれない。もっといえば、経済的関係の本質があらわになることでオンラインの娯楽の「魔法がとけて」、コンテンツの粘着度が下がることも考えられる。

中央計画制が失敗した理由

第1章で見たように、市場経済を信奉していた大勢の経済学者は、みずからを「社会主義者」とも考えていた。ところが、20世紀初めになると、社会主義は中央計画制と同一視されるようになった。ソ連が経済政策を着想し、正当化するうえでマルクス主義フランス革命が大きな役割を果たしたことが理由である。第一次世界大戦も中央計画制の追い風となり、軍需生産を拡充するための国の経済統制は、自由放任主義の支持者の想像をはるかに超える大きな成功を収めた。すると、中央計画制を平時にも使うべきかどうかをめぐって激論が起きた。

一般的なイメージでは、中央計画制は働くインセンティブが個人に与えられなかったので成功できなかったとされている。金持ちになれる見通しとはいかなくても、少なくとも賃金が得られる見通しがなければ、誰も朝、ベッドを抜けだそうとはしない。だが、ソ連ではインセンティブが非常に強く、多くの点で、資本主義国よりも強かった。共産主義の下では金持ちになるチャンスは少なかったが、強制収容所(グラーグ)の囚人なら誰でも、「仮病」を使った者がどんな末路をたどるか知っていた。

よく知られている中央計画制反対論には、もう一つ、ノーベル賞受賞者フリードリヒ・ハイエクが1945年に提示したものがある。資源を効率的に配分するには、人々の好みや生産性を把握する必要があるが、中央計画当局はその情報を得ることができないと、ハイエクは主張した。市場の真髄は、政府の中央計画委員会が関与することなく、すべての人からこの情報を個別に収集して、それを知る必要がある人に供給できることにあった。

これに関連する議論がその数十年ほど前に提起されていた。 ハイエクの主張ほど有名ではないが、説得力はこちらのほうが高い。才気あふれる経済学者、ルードヴィヒ・フォン・ミーゼスが、社会主義が直面する根本的な問題は、インセンティブや知識といった抽象的なものではなく、情報と計算だと説いたのだ。

 

経済を数学の問題とみなすという誤り

ミーゼスが論文を書いたのは、コンピューター科学という領域が生まれ、情報理論が構築され何十年も前のことであり、こうした直感的なアイデアを形式化する術がなかった。ミーゼスの議論の多くを主流派の経済学者は無視した。主流派の経済学者たちは、視野の狭い数学的なアプローチに傾斜しており、ミーゼスはそれを批判していた。オスカー・ランゲ、フレッド・テイラー、アバ・ラーナーら、ミーゼスに批判的な学者は、市場メカニズムは経済を組織する数多くある方法の一つにすぎない(そして、最も効率的な方法からはほど遠い)と主張した。こうした学者たちは経済を計算的に把握するのではなく、純粋に数学的にとらえており、理論上では、まざまな財、資源、サービスの需給に関連する(非常に大規模な) 方程式系を解くのは難しいことではないと考えていた。

経済の構図を単純化すると、 一般大衆は生産者(労働者、資本の供給者など)と消費者という二つの機能を果たしている。消費者としては、さまざまな財やサービスに対して選好がある。チョコレートが好きな人もいれば、バニラが好きな人もいる。一方、生産者としては、才能や能力がそれぞれ違う。数学に強い人もいれば、怒っている顧客に対応するのがうまい人もいる。理屈の上では、人々の選好と才能を見きわめて、それをいちばんうまくできる人に仕事を割り当てると同時に、生産が生み出す価値を人々が本当に望んでいる財・サービスという形で分配すればいい。報酬とペナルティは、人々に自分の選好と才能を明らかにして、やるべきことを確実にやるようにするインセンティブを与えるように決定する必要がある。こうしたことはすべて、数学的に表現して解くことができるはずだ。社会主義の経済学者が経済を数学の問題とみなし、コンピューターがあれば解を得られると考えたのはそのためだ。

だが、計算と情報の複雑度に関する理論がその後にたどった展開を見れば、ミーゼスの洞察が正しかったことがわかる。計算科学者たちが気づいたように、経済を管理するのは大規模な方程式系を解くだけの問題であったとしても、そうした解を見つけるのは、社会主義経済学者が考えていたような簡単なタスクとはほど遠い。統計学者でコンピューター科学者のコズマ・シャリジは、中央計画を鋭く分析し、中央計画委員会が現代経済の「解」を求めるのは絶対に不可能であることを明らかにしている。シャリジは小論「ソ連では、最適化問題を解くとあなたの問題が解決する」で、経済配分問題を解くために必要なコンピューターの計算能力は、経済に流通する商品の数の比例以上に増加すると指摘する。平たくいうと、大規模な経済では、1台のコンピューターで中央計画を行うのは不可能だということである。

抽象的な数学的関係を具体的に示すものとして、1950年代のソビエトの計画者による推計が例にあげられている。当時、ソビエトの経済力は最盛期にあり、経済計画制の下で約1200万種類の商品が追跡されていた。しかも、モスクワの熟したバナナはレニングラードの熟したバナナと同じものではなく、それをある場所から別の場所に移すことも計画の一部であるのに、推計にはまったく反映されていない。しかし、たとえ商品が1200万種類しかなかったとしても、最も効率的な既知の最適化アルゴリズムを、最も効率的なコンピューターで走らせても、そうした問題を1回解くだけで、およそ1000年かかってしまう。現代のコンピューターでは妥当な「近似」解すら求められないことさえ証明できるのだ。いうまでもなく、計画問題に組み込まれる財、サービス、輸送の選択肢などの要素は、1950年代のソ連よりもはるかに多い。だが市場は、この計算の悪夢を乗り越えるという奇跡を実現してみせる。

 

市場は資源を最適に分配する強力なコンピューターである

市場は、分散された人間の計算能力をエレガントに活用する。そうすることで、いまあるコンピューターには太刀打ちできないような方法で資源を配分する。専門家集団による中央計画制は、市場システムに取って代わることはできないというフォン・ミーゼスの見立ては正しかった。しかし、ミーゼスの議論は、市場は「自然」なものであって、経済資源を管理するために人間が創造したプログラムではないことを意味するものと、間違って受け止められた。実際には、市場という制度に自然なものは一つもない。人間が市場を創造するのである。裁判官、立法者、行政官、さらには民間の企業家が、市場を創造し管理する組織をつくり続けている。

市場は強力なコンピューターだが、それが最大幸福を生み出すかどうかは、市場がどうプログラムされているかによって変わる。テクノロジーと経済の発展における現段階では、協調が大きくなりすぎて、モラル・エコノミーでは管理できなくなっており、市場は最大多数の最大幸福を達成するのに適したコンピューターになる。われわれが「ラディカル・マーケット」を提唱するのはそのためだ。そう考えるなら、市場のコードにあるバグを修正して、市場がより多くの富を生み、その富がより公正に分配されるようにすることができる。

市場をコンピューターにたとえると、市場の役割と価値をはっきりと理解できるようになり、われわれが提案する解決策は、市場の範囲を拡張することがベースにあるということが明確になる。富に共同所有自己申告税(COST)を適用すると、個人が自分の価値を示す責任が大きくなり、自分が高く評価するものの所有権をもっと強く主張できるようになるため、市場はラディカルに変わる。 二次の投票(QV)は政治の領域でそれと同じことをする。移住に関するアイデアが取り入れられると、どこに住み、どこで働くのがいちばんよいかを個人が決める機会が広がる。反トラストやデータ評価に対する提案が実現すれば、集中化した力が崩れる。すると、個人や小さな企業が競争し、イノベーションを生み出し、合理的な経済選択をして、分散コンピューティングが最適な経済配分を実現できるようになる。しかし、そうであるとしたら、次のような疑問がわく。 市場が人間の知力を活用するコンピュータープログラムにすぎないのだとしたら、コンピューターの能力が高まっても、市場はまだ必要になるのだろうか。

 

さて、ここからは第1章「財産は独占である」の中身と、その評価について述べたい。本書の中でも最もラディカルなこの章で著者たちが改革の矛先を向けるのは、財産の私的所有に関するルールである。私有財産は本質的に独占的であるため廃止されるべきだ、と彼らは主張する。言うまでもなく、財産権や所有権は資本主義を根本から支える制度のひとつだ。財産を排他的に使用する権利が所有者に認められているからこそ、売買や交換を通じた幅広い取引が可能になる。所有者が変わることによって、財産はより低い評価額の持ち主からより高い評価額の買い手へと渡っていくだろう(配分効率性)。さらに、財産を使って得られる利益が所有者のものになるからこそ、財産を有効活用するインセンティブも生まれる(投資効率性)。

著者たちは、現状の私有財産制度は、投資効率性においては優れているものの配分効率性を大きく損なう仕組みであると警告している。私的所有を認められた所有者は、その財産を「使用する権利」だけでなく、他者による所有を「排除する権利」まで持つため、独占者のように振る舞ってしまうからだ。この「独占問題」によって、経済的な価値を高めるような所有権の移転が阻まれてしまう危険性があるという。一部の地主が土地を手放さない、あるいは売却価格をつり上げようとすることによって、 区画整理が必要な新たな事業計画が一向に進まない、といった事態を想定するとわかりやすいだろう。

代案として著者たちが提案するのは、「共同所有自己申告税」(COST)という独創的な課税制度だ。COSTは、1. 資産評価額の自己申告、2.自己申告額に基づく資産課税、3. 財産
の共同所有、という三つの要素からなる。具体的には、次のような仕組みとなっている。

  1. 現在保有している財産の価格を自ら決める。
  2. その価格に対して一定の税率分を課税する。
  3. より高い価格の買い手が現れた場合には、1の金額が現在の所有者に対して支払われ、
  4. その買い手へと所有権が自動的に移転する。

仮に税率が10%だった場合に、COSTがどう機能するのかを想像してみよう。 あなたが現在所有している土地の価格を1000万円と申告すると、毎年政府に支払う税金はその10%の100万円となる。申告額は自分で決めることができるので、たとえば価格を800万円に引き下げれば、税金は2割も安い30万円で済む。こう考えて、土地の評価額を過小申告したくなるかもしれない。しかし、もし800万円よりも高い価格を付ける買い手が現れた場合には、土地を手放さなければならない点に注意が必要だ。しかもその際に受け取ることができるのは、自分自身が設定した金額、つまり800万円に過ぎない。あなたの本当の土地評価額が1000万円だったとすると、差し引き200万円も損をしてしまうのである。このように、COSTにおいて自己申告額を下げると納税額を減らすことができる一方で、望まない売却を強いられるリスクが増える。このトレードオフによって、財産の所有者に正しい評価額を自己申告するようなインセンティブが芽生える、というのがCOSTの肝である。

実は、COSTのような仕組みの発想自体は、著者たちのオリジナルというわけではない。シカゴ大学の経済学者アーノルド・ハーバーガーが、固定資産税の新たな徴税法として同様の税制を1960年代に提唱しており、彼の名前をとって「ハーバーガー税」とも呼ばれている。またその源流は、19世紀のアメリカの政治経済学者ヘンリー・ジョージの土地税にまで遡ることができる。ただし、適切に設計されCOSTを通じて、所有者にきちんと正直申告のインセンティブを与えることができることや、配分効率性の改善がそれによって損なわれる投資効率性と比べて十分に大きいことなどを示している点は、著者たち(特にグレン・ワイル氏と、別論文での彼の共同研究者)の大きな貢献だ。整理すると、大胆な構想と洗練された最先端の学術研究によって、本書はジョージ主義やハーバーガー税を現代によみがえらせ、土地をはじめとする様々な財産に共同所有への道筋を切り拓いた、といえる。

財産の私的所有は、確かに著者たちが主張するように「独占問題」を引き起こし、現在の所有者よりも高い金額でこの財産を評価する潜在的な買い手に所有権が移転しにくくなる、という配分の非効率性を引き起こす。ただし、この非効率性は悪い面ばかりとは限らないのではないだろうか。非効率性の正の側面として、三つの可能性に思い至ったので書き留めておきたい。一つ目は、予算制約である。ある所有者にとって非常に価値がある財産であっても、租税に必要な現金が足りず、高い金額を申告することができないような状況が当てはまる。私有財産が認められていれば、手元に現金がなくても大切な財産を守ることができるが、COSTはこの「守る権利」を所有者から奪ってしまう。経済格差の解消が大幅に進まない限り、この種の「不幸な売却」を無くすことは難しいのではないだろうか。二つ目は、生産財市場の独占化だ。いま、二つの企業が同じビジネスを行っており、事業継続のためにはお互いが所有している財産免許が欠かせないとしよう。ここで、ライバルの免許を獲得すれば自社による一社独占が実現できるため、高い金額で相手の免許を買い占めるインセンティブが生じる。免許の所有権がCOSTを通じて円滑に移転することによって財産市場の独占問題は解消されるものの、その財
産を必要とする生産財市場において独占化が進んでしまう危険性があるのだ。三つ目は単純で、思考コストが挙げられる。COSTにおいて申告額をいくらに設定すれば最適なのかは、税率だけでなく、自分の財産に対する他人の購買意欲に左右される。需要が大きければ価格を上げ、小さければ下げるのが所有者にとっては望ましい。つまり、市場の動向をつぶさに観察して、戦略的・合理的な計算をする必要があるのだ。こうした調査や分析は、市井の人々に大きな負担を強いるかもしれない。

最後に、COSTや本書全体に対する監訳者の評価を述べておきたい。現在の資本主義が抱える問題として特に深刻なのは、経済成長の鈍化と格差の拡大が同時並行で起きていることだろう。著者たちが「スタグネクオリティ」と呼ぶ問題である。こうした中で、一部の富裕層に過剰なまでに富が集中する経済格差の問題を見過ごせない、と考える経済学者も増えてきた。ただし、著者たちのように、私有財産という資本主義のルールそのものに疑いの目を向ける主流派経済学者はまだほとんどいない。 ポピュリズム反知性主義が世界中で台頭する中で、専門家として経済の仕組みを根本から考え抜き、しかも過激な具体案を提示した著者たちの知性と勇気を何よりも称えたい。 COSTを幅広い財産に適用していくのは、少なくとも短期的には難しいかもしれない。しかし、補完的なルールをうまく組み合わせて、前述したような問題点にうまく対処していけば、実現可能な領域は十分に見つかると期待している。ポズナー氏とワイル氏の卓越したアイデアを更に現実的なものとするためにも、本書が多くの読者に恵まれることを願っている。

 

 

ナンバーセンス ビッグデータの嘘を見抜く「統計リテラシー」の身につけ方

ビッグデータは救世主なのか

  • 統計学者にとって、優秀な予測モデルは宝石のように光り輝いて見える。それでも、優秀なモデルが抽出した顧客の大半は「間違った陽性反応」だ。 この残念な結果は、予測可能な結果でもある。企業の経営者は、支離滅裂なマーケティングで気分を害された顧客から厳しく責められること以上に、販売の機会を失うことを恐れるからだ。 ビッグデータの到来がこの危機から救ってくれるのだろうか。
  • たとえば、あなたはこの本をどうして買おうと思ったのだろう。書店で表紙のデザインに惹かれた。前著『ヤバい統計学』の統計的思考の話がおもしろかった。自分の誕生日に自分でプレゼントした。毎月1日に地元の書店で本を1冊買うことにしている。同僚が絶賛していたから帰りに買った。ビジネス書はほとんど読まないが、気まぐれで買ってみた。私のブログを愛読している。パートナーが数学教師だ······。好奇心、期待、友情、同僚の言葉、習慣、だまされやすい、気まぐれ。『ナンバーセンス』を買う理由として、いずれもそれなりに納得できる。
  • では、次に挙げる項目のなかに、あなたがこの本を買った理由があるだろうか。
    • あなたは中年だ
    • あなたは大学を卒業している
    • あなたは管理職だ
    • あなたは都会に住んでいる
  • どれも『ナンバーセンス』を買う理由にはなりえないと思うかもしれない。統計上は購入者の大半が都会に住んでいても、都会の暮らしを楽しんでいるからこの本を買った、という人はいないだろう。反事実的な考え方をすると、郊外で子育てをしている人のなかにも、この本を買う人はきっといる。それでも一般的なターゲティングのモデルは、年齢や学歴、職業、地理的条件などのデータを貪るように取り込む。 小売り大手ターゲットのアルゴリズムは過去の購買パターンを、未来の購買行動の原因ではなく指標として参照する。一方で、信頼や同僚の影響、習慣など、人間の行動に直接的な影響を及ぼすが、漠然として形のない要因は気にもとめない。
  • あるものをどうして買ったのか、本当の理由は残念ながら簡単には計測できない。そもそも計測などできるのだろうか。 一般に社会科学の統計モデルは、人間の行動の理由ではなく相関関係をもとにしている。そのようなモデルが描く現実は、当然ながら現実を十分に捉えきれず、間違った陽性反応と間違った陰性反応が多すぎる。
  • 統計モデルは、ニュートンの重力のモデルとは違う。リンゴを木から落とす下向きの力は、昨日も、きょうも、明日も働く。しかし現実世界の相関関係は、一貫性とはほど遠い。 あなたがきょう緑色の傘を持っているからと言って、次に買う傘も緑色とはかぎらない。因果関係を無視するモデルは、物理科学の世界ではモデルとして認められることはない。この構造的な限界は、データがどれだけ大量にあってもビッグデータでも乗り越えることはできないのだ。
  • それどころか、大量のデータは、相関関係に対して不相応で誤った信頼を生みやすい。エコノミストナシーム・ニコラス・タレブはベストセラーの『ブラック・スワン』で、目の前にいるのが白い白鳥ばかりでも、黒い白鳥がいる可能性を切り捨ててはいけないと警告する。ビッグデータと黒い白鳥が対決したら、勝つのは黒い白鳥だ。
  • 統計学者は、より現実に近い因果関係の枠組みを社会科学のモデルに組み入れようと苦心している。簡潔に表すと、図表5-3のbに似た構造になるだろう。もっとも、人間にできないことがアルゴリズムにできるというのは過大評価だ。流行や衝動など、人間の行動の本当の理由を統計モデルが導き出せるとは考えにくい。これらの要因は、直接は計測できない「潜在因子」と呼ばれる。モデルを構築する際は、計測する方法がわからない隠れた要因に推測や解釈を加えるが、その推測や解釈を証明することはできない。潜在因子を説明しないままにする場合もある。こうした小手先では構造的な問題を解決できないが、統計モデルの場合、謎に満ちた世界に新しい洞察をもたらすかぎり構造が不完全でも許される。
  • このような相関関係の構造は、いずれにせよ不安定だと考えられる。 行動心理学者は創意に富んだ実験をとおして、私たちの判断が「プライミング効果」 〔訳注:先に受けた刺激が後からの刺激に影響を与える〕に左右されやすいことを証明している。たとえば、経営学教授のチェンボ・チョンとケイティ・リルイェンキストは、被験者にあるストーリーを筆写させる実験を行った。ひとつのグループは同僚の邪魔をするストーリーを、もうひとつのグループは同僚の手助けをするストーリーをそれぞれ書き写した。その後、全員がさまざまな家庭用品について、どのくらい欲しいかを評価した。退屈な筆写は買い物という行為とは無関係なので、どちらのグループも似たような評価をするはずだ。
  • はたして、驚きの結果になった。ポストイットの付箋やエナジャイザーの電池など、一部の商品の評価はほぼ同じだった。一方で、洗浄剤には特徴的な傾向が見られた。 クレストの歯磨き粉やタイドの洗剤などは、同僚の邪魔をするストーリーを筆写したグループが、同僚を助けるストーリーを筆写したグループよりはるかに強く欲しがったのだ。このような実験の後に、プライマーとなる行動(この場合はストーリーの書き写し)の影響を受けた可能性について質問すると、ほぼすべての被験者が影響を否定する。つまり、関係のない行動であらかじめ潜在意識に刺激を与えることによって、洗剤が欲しいと思わせたとも考えられる。
  • 認知心理学行動経済学の権威でプリンストン大学名誉教授のダニエル・カーネマンは近著『ファスト&スロー』で、プライミング効果などの予期せぬ認知バイアスが意思決定に与える影響について、画期的な洞察をしている。私たちのまわりには、私たちの行動を誘引するものがたくさんある。複数のプライマーが同時に影響を与える場合もあるだろう。プライミング効果の存在が明らかになっても、たいていの人は自分が影響を受けたとは思わない。さまざまな実験の結果を踏まえると、人間の意思決定を、確固たる論理的な因果関係によって説明できるとは考えにくい。 統計学者は説明がない部分を因果関係のモデルに託そうとするが、そのような行為は本質的に誤りを生みやすく、大量のデータでもその誤りは直せない。
  • カリフォルニア在住のクリス・アンダーソンの理論は、ハイテク業界の人々との会話をつうじてかたちづくられてきた部分もあるだろう。ハイテク業界では、モデルの間違いが重大な結果を招くことはまずない。グーグルのページランクがあなたの検索内容に最も関連するサイトを見つけられなくても、グーグルに実害はない。あなたもページランクの間違いに気がつかないだろう。ネットフリックスがあなた宛てにおすすめする映画がくだらなければ、無視すればいいだけだ。グルーポンオーガスティン・フォーに無関係なクーポンの勧誘を次々に送りつけるが、無料で届いたものにそこまで不満は感じないだろう。クリス・アンダーソンは2008年に、「十分な量のデータがあれば、数字がおのずと語りだす」と言った。誰もあえて口にしないが、相関関係のモデルが導き出した予測の大半は間違っている。頭脳やスキルの問題ではない。人間の行動という万華鏡を、公式に押し込もうとしても無駄なだけだ。ビッグデータの到来は、理論の終焉ではない。あらゆる統計モデルに仮説が含まれていることは、次の二つの章で詳しく説明する。

 

  • 2006年に、ジェイはティファニー・ビクトリア・メモリアル・ファンタジーフットボールリーグ(FFL)に参戦した。 チーム名は「タフ・トウズ」。賞金もない小さなリーグで順位を上げると、「ビッグなところで」力試しをしたくなった。
  • ファンタジーフットボールは1990年代半ばから全米で流行している。NFLの現役選手を選んで仮想チームを編成して戦う、いわば「バーチャルNFL」だ。 NFLのシーズンとともにFFLも開幕。選んだ選手の実際の試合でのプレーに応じてポイントが加算され、バーチャルの勝敗が決まる。CBSやFOXなどが専門サイトを開設してリーグを主催し、対戦スケジュールや統計、スコアなどの情報やさまざまなツールを提供するようになると、人気に火がついた。市場調査会社イプソスによれば2011年の時点で参加者は2400万人。そのうち20%が女性だ。
  • NFLの2011~12年シーズン半ばに、ジェイはデータを解析して自分の強みと弱みを検討した。時間をかけて(つまり、策を弄して)登録選手の顔ぶれを最適化するべきか、それとも今いる選手から先発メンバーをうまく組み合わせるべきだろうか。
  • ジェイはNFLの伝説のコーチ、ビル・パーセルズの言葉に感銘を受けていた。弱小チームだったニューヨーク・ジャイアンツを率いてスーパーボウルを2回制した(1986年、90年)名将だ。1993年からニューイングランド・ペイトリオッツを指揮していたパーセルズは、96年にオーナーのロバート・クラフトと衝突。 「人に料理をさせたいなら、食材の少なくとも一部は自由に買わせるべきだ」と嘆いた。 この秀逸なたとえは、フットボールチームのゼネラル・マネジャー (GM)とヘッドコーチの繊細な関係を言い当てている。クラフトは昔ながらの責任分担を望んだ。
    • GMはドラフトやトレード、ウェーバー制度を使って選手を揃え、サラリー・キャップ(チームが所属選手に支払う年俸総額の上限)に目を光らせる
    • コーチは試合ごとに先発選手を選び、対戦相手に合わせて戦略を立て、フィールドで戦術的な判断を下す
  • 当時、パーセルズのコーチとしての能力は文句のつけようがなかった。しかし本人は、自分に与えられた選手の顔ぶれに満足していなかった。クラフトが自分の長年の右腕でもあるGMからチーム編成の権限を奪うことを拒否すると、パーセルズはニューヨーク・ジェッツに移籍した。
  • ファンタジーフットボールは、投資ゲームとして考えるとわかりやすい。投資ゲームのプレーヤーは、一定期間内に最も利益を上げるポートフォリオの構成を競い合う。ファンタジーフットボールの「株」はNFLの選手だ。毎週日曜日の試合が終わると、選手のプレーから「株価」を計算する。 「ポートフォリオ」は、1人の登録選手から試合前に選ぶ9人の先発リスト。交代要員の5人はポイントを稼がないが、関心のある銘柄を注目リストに入れておくようなものだ。

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なぜ在宅勤務を喜んでいる場合ではないのか

  • 理由の一つは、会社の業務を代替するアウトソーシング(外部委託)が非常に充実してきたことだ。アメリカのオーデスクや日本のクラウドワークスのようなクラウドソーシング企業を活用すれば、必要とする業務や職務に適った人材を世界中からマッチングすることができる。

  • アメリカ企業はシステム開発のほとんどを、インドをはじめベラルーシウクライナ、フィリピンなどの安価で優秀なプログラマーに委託しているし、研究開発職さえ、ナインシグマなど技術者のプラットフォームを経由してアウトソーシングしている。日本でも、リモートワーク専任の人材派遣業を営むキャスター(中川祥太社長)などの会社を活用する企業が増えてきている。

  • 自社に社員を抱え込んで、人事異動を頻繁にやりながら、5年、10年かけて、自社にだけ精通した会社員を養成していくよりも、その分野のエキスパートを一定期間派遣してもらったほうが合理的であることに、多くの日本企業が気づきはじめたのだ。技術の発達によって外部に業務委託をしても何ら矛盾や支障が生じないほど仕事が平準化され、アウトソーシングを厭わない職場環境になっている。
  • 「ズーム」などのオンライン会議システムの活用が進んでいるが、社員にフルタイムで在宅勤務をさせるくらいなら、もっと能力のあるエキスパートに時間単位で業務を委託したほうがずっと仕事のパフォーマンスは高くなる。テレワークに加えて、AI(人工知能)やRPA(ソフトウェア型ロボットによる業務の自動化)が普及し始めているので、今後は正社員の採用を減らしてアウトソーシングを進める企業が増加していくに違いない。
  • 会社に出社しなくてもできる仕事というのは、大抵は能力とスキルのある人なら誰でもできる仕事だということだからだ。テレワークが普及すればするほど、「誰にも負けないスキルがないか」「実績を残しているのか」といった点がますます求められるのだ。

  • 新卒採用の場面でも、「自分はこれができます」という売り込みがさらに必要になってくる。しかし、日本の大学はすぐに使える実用的な知識とスキルを教えていないので、大卒人材は「使えない人材」だと評価され、採用を見送られ始めるだろう。もっと言えば、大卒よりも、高専や専門学校で使えるスキルを身につけた人のほうが、企業から声がかかりやすくなっていくだろう。

  • マッキンゼー人材がなぜここまで伸びるのかといえば、「新卒採用の場合は32歳、中途採用の場合は35歳までに社長になれないやつはダメだ」と言って、ガンガン鍛えたからだ。日本の大企業とは違って、1年目から経営的な視点を持つようにさせ、徹底的に仕事を任せた。
  • 「日本人はアメリカ人や中国人のようにうまくビジネスができない」という意見もあるが、そんなことはない。単に年功序列などの日本特有の人事システムが、日本企業の経営力の低迷を引き起こしているにすぎない。入社して10年以上見習いみたいな仕事をさせれば、そういう染色体を持った人間が生き残ってしまうのだ。大卒の約3割は3年以内に退職してしまうという統計もあるくらいだ。
  • とはいえ、今のマッキンゼーは様変わりしてしまっている。他のコンサルティングファームもそうだが、クライアント企業が優秀な人材を採用できないからと、コンサルティングファームが頭脳人材の集団派遣をしているというのが実態だ。企画部隊に企画をさせ、企画部隊とは違った実行部隊が実行の面倒を見るというような、いわば「高級人材一時貸し出し会社」のようになってしまった。
  • 最近で言えば「新入社員に社長をやらせる」仕組みがある、藤田晋氏が創業したサイバーエージェントもユニークだ。1年目から社長になれば、戦略だけでなく人事の問題、財務の問題など、経営に必要な幅広いノウハウが実践的に身についていく。

  • 日本の伝統的な企業では、若手・中堅社員は上司の資料づくりばかりで、経営に初めて触れるのは入社してから20~30年後。そんなトップが経営する日本企業の業績が伸び悩んでいるのは至極当然だろう。

  • 日本企業は人事制度を抜本的に見直し、優秀な人材を世界中からサイバー採用したり、加速インキュベート(育成)したりするシステムの構築を、果敢に実行に移していかなければならない。

 

 

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AI現場力 「和ノベーション」で圧倒的に強くなる

AIについてあまり分かっていない方による無知と誤解に基づくAI論が2割、残り8割はAIと関係ない筆者の経験談だが、いまいち議論の焦点が見えにくい。

 

米軍も活用する「シミュレーションによる学習」

  • ロールプレイングやケーススタディバーチャルリアリティの戦争ゲームなど、シミュレーションを行って経験の幅を広げることがこれまでも多く行われてきた。新たな能力をより効率的・効果的に「加速学習」することができるからだ。米軍では実際に、コンピュータゲームをはじめとしたさまざまなシミュレーションを用いて、兵士の訓練も実施している。 メリットは大きく3つだ。
  • レセプター(受容体)を効率的に育成できる。
    • レセプターとは、その人の持っている基本的な考え方や知識、それに過去の経験を反映した神経構造をいう。レセプターがなければ、新しいメッセージや情報は脳の構造に取り込まれず、理解不能ないし意味不明のままになってしまう。無意識に自らに設置しているアンテナのようなものだ。
    • 辣腕経営者は長年のビジネス経験を通して、正確なパターン認識と効果的な意思決定をするためのレセプターを身に付けていく。 しかし、現実世界で行き当たりばったりで経験を積むよりも、現時点で欠落している特定の経験に焦点を絞って、集中的に訓練すれば、必要なレセプターを、より迅速かつ効率的につくることができる。ハーバード・ビジネス・スクールなどで、ケースメソッドという手法を取り入れているのも、そうした意図があるからだ。
  • 現実世界で体験するのが困難あるいは不可能な状況、危険な状況やまれにしか起こらない状況についても練習できる。
    • ジャンボ機が操縦不能になった状況でどう行動すべきかを学ぶときには、実際の状況を再現して訓練するのは危険すぎる。米軍がさまざまなシミュレーションを用いる理由の1つは、リアルでは再現しにくい状況での訓練ができることにある。こうした能力を育成するには、シミュレーションのほうが効果的だ。
  • 実際に悪い結果をもたらすことなしに、失敗から学ぶことができる。
    • ビジネスゲームで大赤字を出したり、戦闘ゲームで敵に狙撃されたりしても、実害はない。 成功するよりも、失敗したほうが、その経験は深く心に刻み付けられ、なぜそのような結果になったのかという振り返りや学習が進むものだ。シミュレーションであれば、安全に失敗を体験できる。
  • それぞれの組織や個人の目的を踏まえたレセプターを持った上で、たくさんの経験をどんどん積み重ねていく。そのスピードをAIやVR、ARといったデジタルの力を使って高めていけば、これまでにない速さで人の能力向上が実現できるはずだ。

 

標準化をテコにした戦い方

  • 日本企業には自前主義にこだわり、高性能な独自規格をつくり、それをブラックボックス化していくというアプローチがよく見られるが、これがイノベーションのスピードを低下させる要因だ。もちろん、日本でも標準化を狙う取り組みもあるが、その多くは自らの規格をデファクト・スタンダード (事実上の標準) にしていこうとするものだ。デファクトを取るとその後の事業運営が有利に進められると考えている。
  • 確かに、デファクトは有効だが、世界の標準化をめぐる戦い方はそれだけではない。特に欧州では、標準化団体などの公的機関によって規定されるデジュール・スタンダードという標準が主流だ。こうした標準化をうまく使うことができれば、標準に乗り遅れることがないばかりか、リソースが捻出できる。そして、空いたリソースは圧倒的な強みをもつモジュールの構築や活用に使える。
  • また、標準化団体での議論を通じてイノベーションを生んでいく仲間の輪を広げることもできる。デジュールにおける標準化とは限りなくオープンな議論で生み出す、オープンなモジュール、プラットフォームを意味するのだ。
  • たとえば、ドイツの中小企業で計測制御用コントローラを手がけるベッコフオートメーションは、デジュールの議論を主導しつつ、デジュール化した規格を使った制御装置を開発・販売するというオープン戦略をとっている。どんな装置にもすぐにつなげるというオープンさを評価する企業での採用が進み、市場でのプレゼンスを上げている。
  • 実際に、同社が開発した工場の生産設備をつなぐフィールドネットワーク規格「イーサキャット」は、トヨタに採用され大きな反響を呼んだ。自社や系列内にある装置を相互につなぐという大きな目的を、オープンなありものの規格を活用して、なるべく早く実現する。こんなことを考えたのではないだろうか。そして、これはもちろん新たな価値の創出により多くの時間が使えるようになることを意味する。
  • 「標準を握られることがまずい」ではなく、「これで標準の部分をつくるのに時間を使わなくていい。標準を使って生み出す新たな価値に時間が割ける」というマインドセットが必要なのだ。

後発企業でも参入可能

  • 標準化には必ず更新のタイミングが訪れる。後発でもそれを見据えてはるかに性能を高めた要素技術を開発し、そのタイミングで投入すれば、標準化においても存在感を発揮できる可能性がある。というのは、すでに活用している一定のルールを守りながら、大きな性能向上が果たせる場合、大多数の参加企業にはその合理性がすぐにわかり、支持をとりつけることができるはずだからである。

 

 

コンサルを超える 問題解決と価値創造の全技法

  • マッキンゼーの特徴は、ファクトベース。 決められた形どおりにファクトを集め、新人でも、正しい分析とそこから導き出される答えを得ることができるよう、優れたプログラムを持っていて、それによって、原則として、一プロジェクト三カ月で答えを出す。
  • シニアマネージャーと複数の若手コンサルタントによるチームでおこない、人による質のばらつきも少ない。「ファクトベース、一プロジェクト三カ月、調査し、分析し、戦略を立てて終了」が、マッキンゼーの定番メニューである。
  • 問題は、本来、総合芸術である問題解決がただの分析にとどまりがちだということだ。新人だけでなくシニアマネージャークラスも、経営や実学の知識が乏しいために、分析に頼りがちになる。これでは近い将来、AIに負ける。

 

  • マッキンゼーは、最初に答えを言う。 解決までの遠く複雑な道のりについても、すべて種明かししてしまう。
  • これに対してボスコンは、最初から答えを示すのではなく、 相手が自分で気づくように上手に導く。なにしろ、三年かけていっしょにその道のりを歩くわけだから、時間はある。だから、 分析の結果の報告・提案も、相手が受け入れやすいような言い方をする。そうやって相手をその気にさせるのである。
  • 相手がその気にならなければ、決して実行されることはないのを熟知しているからだ。 実際、相手が、 どんどんやる気になっていくことによって、結果的に正しい方向に導くことができる。
  • ただし、クライアントは自分で気づいたと思っているわけなので、コンサルタントの切れ味に対し、不信感を持つこともある。また、人によっては、そのややまわりくどい謎解きのような言い回しに、「結論は何だ」といらつくこともあるだろう。

 

  • ファクトベースのマッキンゼー流と心理学重視のボスコン。導入する企業にとっては、三ヶ月で一割を取るか、三年で七割を取るかの選択とも言える。

 

  • マッキンゼーをはじめ、問題解決は、たいてい次の順に行われる。
  1. ステップ1 問題を定義する
  2. ステップ2 問題を構造化する
  3. ステップ 3優先度をつける
  4. ステップ4分析方法を設定する
  5. ステップ5 分析を実施する
  6. ステップ6 発見内容を統合する
  7. ステップ7 問題解決法を提言する
  • このうち、もっとも重要なのは、
    ステップ1 問題を定義する
    ステップ2 問題を構造化する
    という最初の二つのステップだ。
  • まり、結局、何が本質的な問題なのかをきっちりと見極める 「課題設定」であ。 これがうまくいくと、問題解決全体の五〇%はできたことになるとされる。
  • 当たり前のことのようだが、受験生メンタリティのままの人にとっては、案外、これが難しいようだ。提示された問題を解くことには慣れていないのである。
  • しかし、最初の課題設定が悪いと、その後、何をやってもピンボケで、問題の本質には迫れない。最初の五〇%はうまくいかなかったから、残りの五〇%でカバーしよう、というわけにはいかないのだ。 そのくらい大切なところなのである。

 

  • 「科学者は先入観を捨て、リアルな現象から、発見するものだ。それが科学的アプローチではないですか?」と。
  • しかし、それは正しくない。 虚心坦懐にものを見る、というのは聞こえはいいが、実際には、いろいろなものが見えすぎてしまって、何が本質だかわからなくなるのがオチだ。
  • そもそも科学者は、必ず仮説を持ったうえで、現象を観察するものだ。いったん、これが本質だ、と決め打ちして、その「色眼鏡」で現象を見てみる。
  • このとき、たまたま一発で、ぴったりはまることもあるにはあるが、たいていはそこに当てはまらないものが出てきてしまう。そこで、無理矢理現象をねじ曲げるのは政治家か官僚で(?)、科学者は、「仮説」を作り直す。そうやって、正しい仮説に近づいていくわけだ。 実際、科学者たちは、そのようにして、世紀の大発見をしてきた。

 

  • 「イシュー度」とは、問題の本質度
  • 「解の質」とは、ぼんやりとしたものにピントが合っていく(レゾリューション)度合い

 

 

  • 混乱している状況に入っていくことが問題解決ではないのだ。混乱を解決しようと思ったら、混乱していないスペースにものを振らなければならない。
  • そもそもいまの困った現象を引き起こしている原因に突き当たると、その現象そのものがなくなることも少なくない。

 

問題解決は四段論法で

  • コンサルは、四つの問いを立てて、問題を解決していく。まず、WHAT? 何が問題なのか? という問いだ。次に、WHY? なぜ、それが問題なのか? という問い。ここで、いきなりHOW? いかに問題を取り除くか? にいくのではなく、WHY NOT YET? つまり、なぜまだそれができていないのか?を考える。そのうえで、HOW? それができるようになるためには、どうすればいいか?を問う。
  • なぜ、本来やるべきことができないのか? これこそが、問題の本質なのだ。そこが見えてくると、そこに対するHOWが答えになる。
  • 私がいろいろな企業で問題解決のお手伝いをさせていただくときも、この四つを解いてもらう。 その際に、一番の掘りどころが、やはりWHY NOT YET? の部分だ。
  • なぜ、いまそれができていないかに、その会社の固有の病気が出てくる。 それがないと、ありきたりのべき論、教科書的な回答が出てきてしまう。これが、 WHY NOH YET? の力だ。

 

  • 「はじめに」でも述べたように、コンサルが呼ばれるのは、問題があるからだ。 何の問題もない企業は、そもそもコンサルを雇おうなどとは考えない。したがって、問題解決がコンサルの仕事になるわけだが、じつは、企業は問題を解くだけでは元気にはならない。 病巣を摘出してとりあえず生き延びたというのでは、緊急避難でしかないからだ。 いかにこれまで以上に元気に活躍できるようになるかが、本質的な問題解決だ。
  • つまり、重要なのは、問題を成長機会に変えることである。
  • タイタニック号に突き刺さった氷山を生還の通路とする。みなが、 これが問題だと言っていることこそを取り込んで、そこから新たにできることを考えるのだ。
  • コンサルの全員がこの手法をとるわけではない。マッキンゼーではむしろ、 企業再生のプロとして、病気になった企業をなんとか持ち直させるまでを得意する人たちが主流派だ。
  • しかし、私は、問題を摘出するより、未来につながる新しい道を示すほうが健全だと思っている。だから、マッキンゼーの採用担当になったときには、問題解決型の人ではなく、機会創出型の人を採るようにした。

 

SO WHAT?と、空、雨、傘

  • われわれコンサルが使う「空、 雨傘」もすっかり有名になってしまったので、 ご存じの方も多いと思う。
  • いまの空を見ると曇り空である、という事実があったとする。
  • これは事実(ファクト)だ。しかし、「空」の観察結果を語ったところで、SO WHAT? 「だから何?」となる。ここに少し推論を加えて、「これから雨が降るかも」となると、予測になる。つまり、いまの現象からもう一段踏み込んだものが「雨」だ。それでもまだ、 SO WHAT? 「だから何?」に答えたことにはならない。
  • では、このような観察や予想を踏まえて、どのような行動を喚起すればいいのか。 これにはいくつかの選択肢がある。 「外に出るな」というのもそのひとつだろう。 「外に出るのだったら、傘を持て」もそのひとつ。 で、「空、雨、傘」である。
  • よくありがちなのは、さんざん分析して、「空は曇りである」といういわば当たり前の事実を述べるにとどまる報告書である。余計な推察を加えず、事実をそのまま伝えることが仕事だとされている官庁系や大会社にありがちだ。しかし、それだけでは何の行動にも結びつかない。 推論を加え、推論のあとにレコメンデーションがあってはじめて提案としての価値が生まれる。
  • 気象予報士であれば、「いまは曇り、午後は雨になるでしょう」と「予想」までが仕事だ。しかし、最近の気象予報士は、「今日は傘を忘れずに」というレコメンデーションまで忘れない。 しっかり、 「空、雨、傘」を実践しているのだ。
  • 実践に結びつけるためには、空や雨だけでなく、 「傘」まで言い切る必要がある。だからコンサルはつねに、SO WHAT?と尋ねる癖がついている。

 

  • まず仮説を立て、それに基づいてファクト(事実)を見ていきながら、ファクトに基づいて仮説をつくり直していく、という一連の作業は、最近シリコンバレーで流行のリーン・スタートアップに通じるところがある。
  • 最初から完璧なものをつくるのではなく、まずMVP(ミニマム・バイアブル・プロダクト=最低限役に立つ商品)を市場に出す。そしてマーケットの反応を見ながら、つくり直していく、という方法だ。

 

  • グーグルでは90%以上失敗しないと、ちゃんとリスクをとったことにはならない、とされる。なぜなら、失敗するというのは、いろいろな可能性にチャレンジしている、ということだからだ。
  • ラインを止めても、クビにならないどころか、ボスからありがとうと感謝される。これがアンドン方式の本質である。 そうすることで、現場は、失敗を隠さず、それを貴重な学習機会にしていく。これこそ、考える現場を基軸としたトヨタ流の進化の神髄なのである。
  • 学習するためには、失敗を認める勇気、いったんは行けると思ったものを壊す勇気が必要なのだ。だからこそ、グーグルは、トヨタ同様、失敗を祝うのである。

 

  • 負け犬だからといって、本当に即座に捨てるべきかどうかは、よく考えた方がいい。もっと言うと、採算が取れているなら、投資をやめることで利益は増える。そこを見ずに早すぎる諦めという過ちをおかさないよう気をつけた方がいい。

 

マッキンゼーの問題解決10則

  1. 「問題」とされていることが、本質的な問題とは限らない
    問題解決のスタートである課題設定において重要なのは、当事者が問題だと思っていることの多くは、本質的な問題ではないということだ。なぜなら、もし、当事者が問題だとわかっているのなら、すでに解けているはずだから。
  2. 大きな視野 (Big Picture) でとらえ直す
    当事者がそもそもなぜそういう状況に陥っているのか、なぜほかに選択肢がないと思っているのか。それを、いったん引いて、全体像の中でとらえ直す。すると、問題だ、問題だ、と言っていることの多くが、表面的な現象にすぎないことがわかってくる。
  3. 仮説から始める
    ビッグデータ分析のように、やみくもにファクトを集めて分析しようとしても、真の答えは見えてこない。 まず、仮説から始める。 ファクトがそれに合わなければ、仮説をつくり直す。 その繰り返しによって、本質に迫っていく。
  4. 漏れなくダブりなく(MECE) 問題を構造化する
    問題を、漏れなくダブりなく構造化する。 このときのポイントは、全体を見たうえでここが大事だと思っている以外のところに見落としがないか、チェックすることだ。というのも、見えていない部分に問題が隠されていることが多いからである。 その意味でも、MECEのうち、ダブりはあってもいいが、 漏れはあってはならない。
  5. カギとなる変数 (Key Driver) にフォーカスする
    チョークポイント、すなわち、首を絞めているポイントを探す。
  6. できるだけ簡素(シンプル) 化する
    状況をできるだけシンプルに公式化しようと試みることだ。 何が変数で何が定数かを見極めて、公式化する。
  7. 正しい答えはひとつではない
    自然科学とは異なり、問題解決においては、正しい答えはいくつもある。山に登るのにいくつもルートがあるのと同様だ。速いと思っていたルートが、結構険しかったりすることもある。いずれにしても答えは幾通りもあるから、ひとつだけで考えないことが大事だ。
  8. 壊して、再構築する
    仮説が一発でうまくいくことはほとんどない。 崩しては再構築を繰り返すのが普通。 自己否定したり、膨らましたり、ひねったりしていく。
  9. ときに答えがふっと湧いてくる瞬間を大切にする
    ⑥を繰り返しているうちに、ふと何か啓示のように、答えが湧いてくる瞬間というのはたしかにある。 それも、行き詰まっている最中、というより、そこから離れているとき。 お風呂の中で気づいたアルキメデスのようにとらわれすぎると見えてこないものが、そこからちょっと視点を移したときに見えてくるのだ。 その瞬間を大切にする。ただし、そうした瞬間が訪れるのにも幾つかの条件がある。 ひとつはそこまで考え抜いているということだ。そうでなければ出てこない。すぐ気晴らしをしたがる人がいるが、それではダメ。 もっと苦しまないと出てこない。
    「暁のソリューション」というフレーズがマッキンゼー内で流行っていたことがあった。 一晩中考えに考え、悩んだ末、夜が明ける頃に答えが見えてくるというわけだ。 ただし、 暁になると頭がぼんやりするので、答えが見えた気になっただけで、結局、 錯覚だったりするわけだが(笑)。いずれにしろ、 ワーク・ライフ・バランス的に考えると、昨今では流行らないだろう。
  10. 問題がないことが最大の問題
    問題がないことが最大の問題である。 当社は問題ないとか、当部は問題ありません、などと言う人がいるが、それは相当深刻な問題だ。

 

  • マッキンゼーの得意技は、危機感で相手を追い詰めることだ。
  • 一方、ボスコンは、「あなたは本当はこういうことがやりたかったんでしょう」と使命感に火をつける。
  • 最後にアクションに結びつかないものには何の意味もない。

 

  • 学習優位というのは、先程述べたトライ・アンド・ラーンに近い。失敗するかもしれないが、とにかく試してみた。そのような思考からどれだけ多くを学び、どれだけ深められるかが勝負の分かれ道となる。そして、そのような学習能力こそが、優位性につながる、という発想だ。
  • 学習能力のある個人や企業も、同じところに踏みとどまっていては、だんだん学習効果が頭打ちになり、学習能力そのものまで劣化してしまう。成長し続けるためには、新しい分野で新たな学習を始動し続ける必要がある。 しかも、誰にとってもアンファミリア (未踏の地であればあるほど、先に行ってファミリアになった者が勝つのだ。
  • そのためには継続的な学習ではなく、 「脱学習」が求められる。といっても、何も学習しない、ということではない。 それでは単に「トライ・アンド・エラー」を繰り返す 「懲りないやつ」になってしまう。
  • 同じところで踏みとどまって学習するのではなく、学習の場所を 「ずらし」 ていく。 この「ずらし」こそが、ここでもキーワードなのである。学習の場をずらせば、また新しい学習曲線を描き始めることができる。 このように、次から次へ新しいものを獲得していく能力こそが、次世代成長を実現するための学習能力なのである。
  • そして、このようにして、新しいものにつねにチャレンジしていくことが、 非線形の時代のいま、もっとも求められる優位性なのだ。

 

  • 変身資産とあるように、自分を変える力がないと、人はどうしても同じところに定着してしまいがちだが、将来を考えれば、労働市場の流動化は確実に起こる。その時、重要になってくるのが、ノマドの生き方となるはずだからだ。
  • 自分が次に何をしたいかを考えて、自分の次の人生をつくるということ、投資をするということだ。
  • 自分を型にはめずに、あえて宙ぶらりんにしておく。その場に貢献しつつ、自分もその場から吸収しつつ、次の展開を考える。
  • 自分の軸を持ちながら、相手の優れたところを新たに取り込んで、ハイブリッドに生み落とす。そうした力がある限り、新しい場所に行っても常に価値を生み出すことができる。
  • 見てから跳ぶのではなく、跳ぶことによって見えてくる、新しいことが発見できる。実存主義の概念で言えば「投企」だ。私達人間は、常に現実の中に飛び込んで、事故の可能性を追求し続ける存在なのだ。
  • 自分の軸を持ちながら新しい経験をすることによって、さらなる高みにつながる。弁証法で言うところのアウフヘーベンする。LEAPすることこそが、非連続な時代における自己生成を駆動するのである。

 

  • インプット時間の規定:仕事に対して使える時間を規定してしまうこと。予め自分の時間をギリギリまで使わないですむように計画するのがポイントだ。
  • 次に重要なのが、処理すべきタスクの優先順位決め。仕事を来た順番に行うのではなく、インパクトがあって、かつ自分らしい能力が生かせるものを優先させる。横軸に業務のインパクト、縦軸にスキルの独自性をとる。フォーカスすべきは北東すなわち右上だ。切るべきところは、明らかに左下ボックスである。

  • 独自性があるからといって、自前だけで全部やり切らないで、他力を活用することも大切だ。
  • レバレッジをかけるためには、業務の標準化が必須だ。

 

  • 五年に一回来る非連続のときはマッキンゼー。それを組織の力に落とし込むときはボスコン
  • 長期を見るときにはマッキンゼー、短期に実践する際にはボスコン

 

  • 新しいことを行うためには、一度ゼロベースに立ち返ることが重要だ。これは、企業だけではなく、個人にも当てはまる。自分をもう一回、ゼロベースにして、新しいものに対してチャレンジできる状況にしておくことが大切だ。
  • 自分だけが本当に生み出せる価値は何かということにこだわり続ける必要がある。
  • 重要なのは考え続けることだ。

 

  • 青春とは心の若さである。
  • 信念と希望にあふれ、勇気に満ちて日に新たな活動を続けるかぎり
  • 青春は永遠にその人のものである

 

 

論点思考 内田和成の思考

  • どうしたら正しい問題、あるいは解くべき問題に突き当たることができるのか。ボストンコンサルティンググループ (BCG)では、この解くべき問題(課題)のことを論点と呼んでいる。社内では毎日のように「このプロジェクトの論点はなにか」「ここで答えておくべき論点はこれとこれだ」といった議論を繰り広げている。
  • 論点とは「解くべき問題」のことだが、その解くべき問題を定義するプロセスを論点思考と呼ぶ。 そして、問題解決のプロセスはいくつもの論点候補の中から本当の論点を設定し、その論点に対するいくつかの解決策を考えだし、そこから最もよい解決策を選び、実行していくという流れで進む。つまり、論点思考は問題解決プロセスの最上流にある。
  • 最初に論点設定を間違えると、間違った問題に取り組むことになるので、その後の問題解決の作業をいくら正しくやったところで意味のある結果は生まれない。論点設定に戻ってやり直すことになる。したがって、短期間で答えを出すためには最初の論点設定がきわめて重要になる。

 

  • ピーター・ドラッカーは次のように述べている。
  • 「経営における最も重大なあやまちは、間違った答えを出すことではなく、間違った問いに答えることだ」 “The most serious mistakes are not being made as a result of wrong answers. The truly dangerous thing is asking the wrong questions." (Men, Ideas and Politics)
  • 「分析の技術的な完全さを求めるのではなく、意見の対立や判断に関わる問題を明確にすることが重要である。正しい答えではなく、正しい問いが必要である」(『新訳 創造する経営者』ダイヤモンド社)
  • まさしくそのとおりで、真の問題に気づく力こそ、現在のビジネスパーソンに最も必要なものだ。 

 

  • コンサルティング会社のプロジェクトを例にとると、目的や論点を正しくとらえたよい提案書(プロポーザル)ができれば、期待された成果を出してプロジェクトが成功する確率はかなり高くなる。だからこそ、コンサルティング会社のパートナーは他の調査・分析作業は部下に任せることはあっても、ここに自分の経験と能力をフルに投入し、徹底的に考え抜き、最良のプロポーザルをつくりだそうと努力する。
  • これはビジネスにおいても同じだ。なにを問題とするか、いかに論点を設定するかによって、その後の成否が決まるのである。

 

論点思考の四つのステップ

  • 論点思考を行なう際、覚えておきたいのが、以下のステップだ。
  1. 論点候補を拾いだす(→第2章)
  2. 論点を絞り込む (→第3章)
  3. 論点を確定する(→第4章)
  4. 全体像で確認する(→第4章)
  • 論点設定とは大論点を定義することである。前述したように、大論点とはいく
    つかある論点の中で、ゴールを規定する最上位の論点であり、戦略思考の出発点
    となる。自分の仕事の依頼主 (社長のこともあれば、部門長、上司、場合によっ
    ては自分自身のこともあるだろう)が問題解決を求めている高次元の悩み・課題
    を、自分にとっての問い、自分に課せられている任務そのものの目的として翻訳
    したものといってよい。
  • 論点の整理・確認とは、大論点に答えるために、「掘るべき筋と単位」を中論
    点、小論点として因数分解し、構造化することだ。言い換えると、答えを導きだ
    すために、仮説を立て、検証・反証していく道筋であり、横方向の因数分解と縦方向の上下関係の構造で全体像が定義される。この論点を縦横に展開した構造全体を、「イシュー・ツリー」と呼んでいる。
  • このうち論点思考の肝となるのが、論点を設定する部分だ。要するになにが一番の問題なのかを発見することである。
  • 論点を設定する際に、どうしても省略できないステップがある。それが「論点候補を拾いだす」だ。「本当の論点がなにか」を探るためには、まずどんな論点がありそうかをリストアップする必要がある。 それが、論点思考の出発点である。
  • もちろんコンサルタントであれば顧客から教えられた問題点がそのまま論点の場合もある。ビジネスパーソンであれば、上司からいわれた課題がそのまま論点の場合もあるだろう。しかし、世の中、そうでないことが多いというふうに思っておけば間違いない。顧客の論点や上司の論点は疑ってかかったほうが、早く答えにたどり着く。
  • 問題解決が速い人は、本当に解決すべき問題すなわち「真の論点はなにか」とつねに考えている。もう少し具体的にいえば、「なにが問題なのか」「それは解けるのか」「解けるとどんないいことがあるのか」を考える。
  • そのためには思いついた論点候補のうち、どれが真の論点かの「当たりをつける」あるいは「筋の善し悪しを考える」。さらにそれが本当に問題解決になるかを顧客・上司にぶつけたり、インタビューしたり、自分の頭の中のデータベースを参照したりして、補強していく。これさえできればまだなにも解決策を考えていなくても、問題解決の九割方は終わっている。
  • 私の感覚では、「②論点を絞り込む」と「③論点を確定する」は行ったり来たりすることが多いが、②で絞り込んだ瞬間に自動的に論点が確定される場合もある。当たりをつけてしっくりいかない場合に、相手に探り針を入れたり、真意の確認をして論点が間違いないかたしかめ直すこともある。それでも①~④すべてのステップを順番に行なうことは滅多にない。
  • 論点設定に不慣れな人はいきなり③の手法の一つである「顧客・上司へのヒアリング」から取りかかる。そして聞き取ったものを「構造化」しようとする。 要するに与えられた課題について、それが解くべき論点であるとなんの疑いもなく作業を始めて、結果としては顧客・上司の満足する解決策を見極めることができずに失敗することが多い。
  • ベテランは「本当の論点はなにか」を考える。初心者はインプットと構造化を繰り返す。ここがベテランと初心者の大きな違いだろう。

 

  • 誰の論点を解くかによってアプローチも違えば答えも違ってくる。さらには誰を満足させるかも違ってくる。誰の論点を解くかを間違えると、まったく違う答えを出してしまう。これは試験官が複数いて、試験官ごとに出題内容が違っているようなものだ。解答する前に、どの試験官の問題を解くかを判断しなくてはならない。

 

論点は環境とともに変化する

  • 論点は、実はさまざまな外的要因や内的要因の影響を受けたり、トップの問題意識が変わったり、優先順位に変更があったりして、動くことが多い。
  • 論点は「点」と表現されるから静的なイメージがある。だが、これはつねにダイナミックに動く。非常に動的なものだ。

論点は進化する

  • 仕事を進めるにつれて論点が動くケースもある。作業を進めるにつれて、当初考えていなかった論点が浮かび上がってきて、そちらのほうがより本質的な課題であることに気づくことを意味する。

 

  • 論点らしきものが目の前に現れたとき、私は次の三つのポイントで問題を検討する。
  1. 解決できるか、できないか。
  2. 解決できるとして実行可能 (容易)か
  3. 解決したらどれだけの効果があるか。
  • まず、「解決できるか、できないか」を見極める。 解けない問題にチャレンジしても成果はあがらず、時間と手間がムダになるだけだ。解けないとわかったら、その論点はすぐに捨て、論点設定をやり直す。
  • 解けない問題にチャレンジするのは無意味である。
  • 学者が研究の場面で、解けない問題にチャレンジするのはいい。未知の領域の研究、難間にチャレンジすることは人類の進歩につながる可能性がある。 例えば数学の世界には、ミレニアム懸賞問題というものがある。 クレイ数学研究所によって一〇〇万ドルの懸賞金がかけられている七つの問題だ。すでに解決されたのはポアンカレ予想だけだが、他も難問ばかりである。
  • それぞれ学問的には重要な問題だが、こうした問題に向き合うことはビジネスにおいては最悪だ。大事なことは、難問をクリアすることではない。仕事で成果を出すことが大事だ。
  • 解けない問題にチャレンジするのは無意味。私たちコンサルタントは「解決できるか、できないか」にすごくこだわる。

なにかこの人は勘違いしているようだが、研究者も研究課題を設定する際に一番重視するのはfeasibilityである。解けない問題と思っているにもかかわらず、やけくそで挑戦するような研究者は存在しない。解けない(と考えられる)問題にチャレンジするのは無意味であり、その見定めに係る厳しさはコンサルタントの比ではない。なんでもかんでも研究者(学者という名称を使うのもどうかと思う、研究者は自分のことを学者とは言わない)をディスるのは止めてほしい。ましてや、誤解や理解不足に基づく誹謗中傷は尚更だ。

 

上位概念の論点を考える

  • 構造化の際、ある論点を起点に上位概念の論点を考えることで、横にある論点を浮かび上がらせる手法もある(図表4-3)。論点aの上位論点Aを考えることによって、論点aと同じ階層にある論点b、論点が見えてくる。
  • 例えば、上司から新規顧客開拓を考えるよう命令されたとする。そのとき普通は、新規顧客開拓を構成する下位の論点x、y、zを考えてしまう。ところができるビジネスパーソンは、そのとき、なぜ新規顧客開拓を行なう必要があるのかという上位概念の論点を考える。
  • もし上司が売上げアップのために新規顧客開拓を考えていたとすれば、bやcには新製品開発や既存顧客の深掘りといった論点が並ぶはずだ。それらの横に並ぶ論点と比較検討した上で、新規顧客開拓策を提言したほうが上司の満足度は高いはずだ。
  • 一方で、上司のねらいが売上げアップではなく、業績不振から来る利益減少を補うための手段として新規顧客開拓を考えているとしたら、(論点a)新規顧客開拓に並ぶ論点は、(論点b) コスト削減、(論点c) 販売促進・広告宣伝費の効率化・・・

 

  • シャチについての四つの問いがある。
  1. 「シャチは魚か」(=仮説に基づいた質問)
  2.  「シャチは魚かほ乳類か」(=白か黒かをはっきりさせる論点)
  3.  「シャチは何類か」(=オープンな論点)
  4. 「シャチはどんな生物か」(=ただの質問)
  • ①の「シャチは魚か」というのは、「シャチは魚である」という仮説に基づく問いだ。② 「シャチは魚かほ乳類か」というのは、二者択一で白黒つける論点だ。 これに答えることで、半分の可能性を捨てることができる。 ③「シャチは何類か」という問いはオープンな論点である。 ④「シャチはどんな生物か」というのは、どんな答えが返ってくるか予想がつかない曖昧な質問だ。
  • あなたがチームリーダーだとして、こうした問いをメンバーに投げ掛けたとしたらどんな反応があるだろうか。
  • 「シャチはどんな生物か」という問いを設定すると、メンバーの答えは、「大きい」「海に住んでいる」「獰猛である」など、とめどなく広がり、収拾がつかなくなる。 したがって④の質問は避けたほうがいい。
  • だが、そのときに「シャチは何類か」と問いかければ迷わない。 「シャチは魚かほ乳類か」と聞けばより迷いは少なくなる。
  • コンサルティング・プロジェクトでリーダーがメンバーに仕事を頼むときに、メンバーには「シャチは何類か」というオープンな論点を背景として説明し、「ほ乳類か魚かを調べてほしい」と白黒論点レベルで仕事を依頼するとうまくいくと森さんは語る。すなわち、②と③を使う。
  • では、なぜ①の「シャチは魚か」と仮説を提示しないのか。実は仮説をストレートにメンバーに提示するのはリスクがある。これは私のほうで説明しよう。
  • まず一つ目は論点を絞り込みすぎて、もしかしたら他にもあるかもしれない論点を見落とす、あるいは考えてもみようとしなくなるリスクだ。例えばシャチは魚かどうかを検証しろといわれたら、本当はほ乳類かもしれないしあるいは両生類かもしれないのを考慮しない可能性が高い。しかも、仮説が検証できなかったとき、すなわちシャチが魚ではないと判明した場合、もう一度頭に戻って仮説構築から始めないとならない。もちろん、やり直せばよいのであるが、少し時間がかかる。
  • 次いで、一つ目とも絡むが自分で論点を考える癖がつかない。いつも論点は上司から降ってきて、自分はそれを検証すればよいと思い込んでしまうと、いつまでも論点思考力が身につかない。仮説の検証が得意な分析屋、作業屋のままで終わってしまう。部門を任されるとからっきしダメな人間になりかねない。逆にいえば②のように複数の論点を与えるか、あるいは③のようにややオープンな論点を与えられれば、自分で比較対象を調べたり、異なる論点を見つけたりする可能性が高い。何度も繰り返すようだが、論点は対立軸があったほうが、より鮮明に浮かび上がる可能性が高い。
  • 最後のリスクは、自分の思い込みで自分の都合のよい情報だけを拾って、ロジックを組み立ててしまうことだ。通常私たちは自分がどのような事実を見て、それをどう解釈したのか、というような「思考のプロセス」を意識しない。そのため自分の思考の筋道を相手に開示して、それが正しいかどうかを検証したり、またそのプロセスに疑問を抱いたりすることもなく、あたかも自分の考えたことが真実であるかのように思う。これを避けるためにも白か黒かと考えることは極めて重要だ。
  • メンバーに「シャチは魚か」という問いを設定すると、「海を泳いでいます。サメと同じように魚を食べる肉食です。どう見ても魚です」としかいわなくなる。 「魚かほ乳類か」という問いを設定すると、魚とほ乳類の違いをきちんと見極める。その違いは子どもを産むか卵を産むかで、一見シャチは魚に見えるけれどほ乳類だと答えられる。