ウォーレン・バフェット成功の名語録

秘訣は、次の二つにまとめられるだろう。

  1. 原則を立て、それを貫く
  2. 自分に投資し、自分を貫く

「本当の投資家であれば、自分が群衆とはまったく逆の売買をしていると考えることに充足感を覚えるものなのである」とは、ベン·グレアムの言葉だ。賢明なる投資家は、群衆とは反対の行動をとることで勝つ。これは、バフェットも同じ考え方である。
「他人が貪欲になっている時は恐る恐る、周りが怖がっている時は貪欲に」

胴元にとってよいことは、顧客にとってよいことではないことを投資家は理解すべきです。あなたの懐を満たすことのできない人間に限って、確信を持ってあなたに何かを吹き込もうとするのです」

株価が下がると、「今、株に手を出すのは危ない」などとリスクの大きさを警告する人
がいるが、バフェットはリスクをそんな一般論ではとらえない。最大のリスクは、やっていることを当人が理解していないことだと考える。

バフェットが「ノー」を相手が説明途中でも言い渡すのは、相手の時間を大切にするからでもある。さんざん話を引っ張って期待を持たせたあげくに「ノー」を告げるのは相手の時間を浪費することであり、バフェットの流儀ではなかった。

バフェットは、自信があるときにしか投資をしない。だから、自分のお金だけを動かすときは、こういう集中投資を何度かしている。「分散投資でリスクを減らす」は、グレアムに限らず、世間一般の常識だ。しかし、バフェットが「常識」で動くわけもなかった。「場合によっては、注ぎ込む金額が少ないことが、かえって失敗になることがあります。」

大事なのは、自分が好きなことをとびきり上手にやることです

これまでバフェットからゲイツが受けた最良のアドバイスの一つが次の言葉だという。「本当に重要な事だけを選んで、それ以外は上手に『ノー』と断ることも大切だよ

企業の成功には、情熱的で優れた経営者が欠かせないからだ。だが一方で、とびきり優秀な経営者でも、事業に優位性がなければ成功させることが出来ないことも、よく知っている。

ゼロからマイクロソフトを立ち上げたビル・ゲイツは、コカ・コーラが事業として優秀なことを皮肉って、「この会社は、経営者が人間ではなくハムサンドイッチだったとしてもオーケーだ」と言ったが、それはバフェットにとって最大の賛辞だった。

「株を買うなら、どんな愚か者にも経営を任せられる優れた会社の株を買いたいと思うでしょう。なぜならいつかは愚かな経営者が現れるからです」

「人は習慣で行動するので、正しい思考とふるまいを早いうちに習慣化させるべきだ」

自分にとっていちばん大事な顧客は自分自身だと考えて努力するマンガーを、バフェットは高く評価している。・・・マンガーは・・・毎日一時間、自分のために働くことにした。早朝にそのための時間を設け、建設や不動産開発の仕事をしたんだ。

読む人によっては、年次報告書が思うように理解できず、自分の理解能力の低さを嘆くこともある。だが、バフェットはちょっと違う見方をしている。もし理解できないとしたら書き方が悪いのかもしれないと言うのだ。そして、そんな年次報告書を出す会社には投資しないと言う。なぜなら、会社側の、できれば理解してほしくないという姿勢が、行間から透けて見えるからだ。

 私は、どこかの会社が経費削減に乗り出したというニュースを耳にするたびに、この会社はコストというものをちゃんと理解していないと思ってしまいます。経費の削減は、一気にやるものではないからです。

売上や利益を少し増やすために、気の置けない仲間や尊敬する人たち、面白いと思える人達とのつながりを次々に切り捨てていく人たちが行く人たちがいるようですが、そんな風にして金も後になる意味がどこにあるのでしょうか。私たちも業績はいいに越したことはないと考えていますが、決してそれを至上命題にするつもりはありません。

 「どういうところで働けばいいでしょうか」「一番尊敬している人のところで」

自分よりも勝れた人間とつき合ったほうがいいというのを学んだ。そうすれば、こっちもちょっぴり向上する。自分よりもひどい奴らと付き合えば、そのうちにポールを滑り落ちてゆく。しごく単純な仕組みだよ。

人物はしっかり選びたい。一緒に働く相棒から、会社を任せる人まで、すきになれない人や尊敬できない人は、できれば「ノー」を言うべきだ。人物を選ぶ時は、結婚相手を探すくらいの気持ちで臨む。なぜなら、自分より小さいものとつき合えば、自分も小さくなるし、自分より大きいものとつき合えば、自分も自然に大きくなるからだ。

知性、エネルギー、そして誠実さ。最後が欠けていると、前の二つはまったく意味のないものになる。

名声は繊細な磁器のようなものだ。買う時は高いが、簡単に壊れる。

私は学生に、人生で一番重要な仕事は、子供を育てることだと言っています。愛情や食べ物を与える仕事です。親のもとで、子どもたちは日々、世界について学んでいきます。

バフェットは熱心に勉強したが、株式ブローカーとしての仕事にはすぐに嫌気がさすようになった。・・・「薬を売った量に応じて報酬をもらう。薬によっては報酬の多いものもある。出す薬の量のみによって報酬が増減する医者のところに、誰が行きたがるだろうか

ベン・グレアムは『賢明なる投資家』の中で、株式ブローカーを「大部分は信用でき、かなりの知識を有し、厳しい規範のもとに業務を遂行している」・・・彼らの仕事は「手数料を得ることなので、投機的な傾向から逃れることは非常に難しい」と指摘している。

 

 

ルービンシュタイン ゲーム理論の力

感想

題名や著者のバックグラウンドから予想される内容とは異なり(現代はEconomic Fablesなので、邦題がミスリーディングなだけのようにも思える:神取先生のミクロ経済学の力との対比なのかもしれないが、ベクトルが違いすぎる)、ルービンシュタイン独特の経済学観が楽しめる一冊。理論を解っているように思えない&数学コンプレックスがバレないように虚勢を張っているだけに見える(誘導系)実証経済学者の浅薄な経済理論批判とは異なり(実証家の主張している「実証」とはデータを使っているという意味に過ぎず、科学的な実証プロセス=実験の要件を満たしているようには思えない。理論を解っている実証家で理論批判をしている人は見たことがない、理論家による理論の批判(批判でないかもしれないが)は非常に建設的。ただ、かくて~の付録の解説でも思ったことだが、主流派経済学が嫌いなだけの愚かな人間が、こうした節制的な研究者が熟慮によって導き出した主張の尻馬に乗ることを誘発してしまう点は、常に意識しておかないといけないように思う。

これまで行動経済学アドホックな観察結果の集積に過ぎないものだと軽視していたが、かくて~と本書を読んだことで、科学的実証プロセスとしての行動経済学の価値に気づくことができたのが個人的な収穫。

yamanatan.hatenablog.com

引用

ここに6面のサイコロが一つある4つの面が緑色(G)で2つが赤色(R)である。GとRからなる3つの文字列から一つを選べ。サイコロは20回振られる。もし選んだ文字列が一連の結果に含まれていれば25ドルを受け取ることが出来るとする。

  1. RGRRR
  2. GRGRRR
  3. GRRRRR

確率と文字列の中のGRの割合が混同されることに起因しています。 サイコロの目の全体でGという結果の出る確率が3分の2になります。すると文字列RGRRRでは全体の5分の1がGなので、全体の3分の1をGが占める文字列GRGRRRよりも起こりにくいと感じられるのです。しかしサイコロの目の組み合わせの中に文字列RGRRRをもつける確率は文字列GRGRRRを見つける確率よりも常に高いのです。

 

一般に、統計的に有意であるという概念を機械的に用いることは危険です。この概念を用いる際の論理は重要な仮定のもとに成立しています。しかし仮定は無視されるか、調べるべきなのに当然成立すると思い込まれているかのいずれかになりがちです。研究者や新聞の読者というのは仕分けをすることが大好きで、仕分けの背後に何があるか自問することはめったにありません。

例えば、経済学でありがちな有意性に関する検定は、計測誤差や書類作成上のミス、分析や報告上のミスと言った結果の信憑性に大きく影響しうる要因を完全に無視しています。そして、もちろん、研究者にも利害や思い込みがあります。すなわち意識的にせよ無意識的にせよ、報告結果が利害や思い込みに影響を受けることもありえます。研究者の信憑性に関する不確実性のほうが統計的検定を行う上で考慮される不確実性よりもはるかに影響が大きいと私は思います

 

何年もの間、経済学における実験というのは研究費の無駄遣い以外のなにものでもないと私は思っていました。未だに定量的結果に強い関心を見出すことはなく、ある発想が納得の行くものかどうかを検証する最も信頼に足る方法は常識だと信じています。

しかし実験に対する尊敬の念も抱くようになりました。ある思考過程を連続して描写する一連の質問を構成することはそれはそれで芸術的なことだと認識するようになったためです。加えて、常識が時に豊富な経験を持った人ですら騙すことがあると理解するようになったためです。

私自身も、最初の段階で結果が好ましいものであると、実験をさらに拡張するのを避けたいという気持ちが強くなります。または、正しいと私が「知っていた」仮設を支持しない場合には結果を何度も調べずにはいられないのです。 結論が他の研究者によって否定された場合に辱めを覚える恐怖というのは経済学においてはほとんど存在していません。データを調べて実験を繰り返すという伝統がないからです。

 

結局私は合理的でありたいのか。

合理的人間が打ち負かされるのを観察して喜びを得ているとだけは言っておきましょう。合理的人間の完全無欠さが私は好きではありません。

血の通った人間として想像しようとすればするほど、私は合理的人間のことを辛抱のない人間であるばかりか非人間的であるとますます気づかされます。このような人間が現実に存在しないという事実、そして単純な引っ掛けてによって自分のことを合理的だと考えている人を誰彼となく笑い者にすることが可能であるという事実。この事実に私は喜びを見出します。

 

私には、誰がナッシュかを特定するのは困難でした。なにせプリンストンでは、とても多くの変人が芝生の上をうろつきまわっていたので。

 

私はゲーム理論家ジョン・マクミランの交渉に関する一章の要約の中にある言葉を思い出しました。『ゲーム理論は交渉者にどんなアドバイスを生み出したか?私たちが学んだもっとも重要な考えとは・・・相手の立場に身を置き、いくつかの行動を前もって考えておくことの価値である。

ゲーム理論とチェスはひょっとして人々を人の立場から状況を考えるようにするものの、それはただ自分にとって最善な行為をするためだけではないのだろうか、と。チェスの先生は戦略的思考と共感とを混同していたのです。

 

 1970年代になって初めて、ゲーム理論は経済学の中核に入り込みました。それまで市場と競争均衡というペアが経済分析の主要なツールだっとするならば、ゲームとナッシュ均衡のペアが主要なツールの仲間入りを果たしたのです。

1980年代以降は、数え切れない人々がゲーム理論はすべての分野で有用だと喜んで宣言してきました。経済学における寡占市場や企業買収、政治学での戦略的投票や国家間交渉、生物学では花と蝶の関係や動物の進化、哲学での倫理的問題、コンピュータ・サイエンスでのコミュニケーション・プロトコルの開発、果てはイサクの燔祭(はんさい)やソロモンの審判と言った聖書の物語まで、何もかもがゲーム理論というツールで分析されるようになったのです。

1994年、ゲーム理論は「全オークションの母」としてメディアから賞賛を浴びました。・・・この出来事をゲーム理論の応用可能性の決定的な証拠だと見なしました。私は疑念を抱いています。

私はこの入札やこれと似た入札を設計した人々を個人的に何人か知っています。彼らは疑いなく明晰で知的な人たちです。彼らはまたしっかりと地に足の着いた人たちでもあります。しかしながら、私の理解できる範囲では、彼らは基本的な直感や人為的なシミュレーションをもとに助言を行っていました。ゲーム理論の洗練されたモデルがもとではなかったのです。入札を設計するのに彼らがゲーム理論を役立てたと主張するどんな根拠も私には見つかりませんでした。彼らはせいぜい私達がゲーム理論でよく研究する固有の戦略的思考に通じていると言うだけでした。

 

勇気を振り絞り、マーティン・オズボーンと書いたゲーム理論の教科書を彼(ナッシュ)に手渡したのです。ナッシュは本を受け取りました。彼が例を言ったかどうかは覚えていません。既に2冊ゲーム理論の本が本棚にあるから、これで「2+1=3冊」持つことになりましたと彼は言いました。それから、彼は本をパラパラとめくり、驚いて言いました。「ここに私の名前が載っているではないですか」。

 

ゲーム理論のコミュニティではその応用可能性についての合意は得られていません。戦略的状況での行動の優れた予想を提供することがゲーム理論の役割だと信じる人もいます。経済学者のハル・ヴァリアンは『ビューティフル・マインド』という映画のレビューで書きました。「ナッシュ氏の貢献は美女をバーで口説くべきかについてのいくらか不自然な分析よりもはるかに重要なものでした。彼が発見したものは事実上あらゆる種類の戦略的関係の結果を予測する方法でした。」NYT2002/4/11

バーの美女は後回しにするとして、ヴァリアンがどのようにナッシュ均衡の予測可能性について結論に至ったか私にはまったくわかりません。ゲームが唯一の均衡を保つときでさえ、ゲーム理論の予想と現実には大きな隔たりが残ります。更に、多くのゲームではナッシュ均衡は複数あり、これは予測可能性を減じてしまいます。そしてこれが以前に述べたように人々が予想を知っていて、それに反応しそうなときに行動を予想する根本的な困難なのです。

 

ゲーム理論は戦略的思考の論理を研究しているのです。しかし、論理によって人々が正直になったり、裁判官たちが公正な判決をするようにはならないのと同じように、ゲーム理論はプレイヤーたちがゲームをプレイするのを助けはしません。

もしゲーム理論に実用的な側面があるとすれば、それは間接的なものです。相互依存的な状況における合理性に関する秩序だった議論ができるようになります。経済学とその他の社会科学の分野との議論を戦略的思考に焦点を当てることで、豊かなものにします。そのような戦略的思考の中には、まだ私達が気づいていないものもあるかもしれません。エンターテイメント的面白さもあります。そして、それ自体は素晴らしいことですが、一般に人々が有用だと思うようなものではありません。ちなみに、ときどき私は、そもそもなぜゲーム理論の有用性について問う必要があるのだろうと考えます。学問的研究は直接的かつ実用的な利益によって判断されなければならないのでしょうか。

ゲーム理論の予測可能性については留保しますが、ゲーム的状況での人々の振る舞いはあるルールやパターンにそっていて、それらは世界中の出来事を観察することや実験の結果から発見されうるという事実は否定しません。しかし、それはゲーム理論的分析とは(もしあるとすれば)ただ弱くつながっているだけなのです。

 

経済学の勉強は通常、実証的な証拠を提示したり、きちんとした議論をしたりせずに、手っ取り早く学生の心をつかむ市場モデルに焦点を当てます。経済学の学生は、市場モデルのエレガンス、明瞭さ、予測能力といったものにー正しかろうが、間違っていようがー魅せられてしまいます

 

概して経済学が他の分野に広まってきた理由は、経済学者であるスティーブン・レヴィットの以下のような見解にあるのではないかと私は思います。「経済学は問題をtくための非常に優れた分析手段を持った科学であるが、興味深い問題自体は極めて少しだけしか持ち合わせていないのである」。

だれかが「経済学の帝国主義」という表現を使うことでその場でくすくす笑いが起こっていても、別の誰かが植民地の先住民すなわちまだ経済学的志向のありがたさを認識していない人々のことを傲慢にも軽蔑したりすると、次第に気まずさが立ち上ってきます。

 

もし経済学者が、経済学の研究活動を描写するモデルを作り、経済学者を意思決定主体としてモデルに取り込むならば、きっと彼らの採用するアプローチは、結論を額面通りに受け取るべきではなく、研究者の利害を考慮に入れるべきだ、というものになるでしょう。研究の結果を集めて分析し、発表する間に研究者が直面する誘因について議論がなされるでしょう。・・・しかし経済学者は経済学者のモデルを作りません。よく知られた論文の中で大発見をしたと発表した同僚が、公表する結果を取捨選択していたとか、発見と相容れないデータを省いていた、と経済学者が不平を言うのを私はめったに聞きません。つまり、私たちは別の落とし穴にかかっているのです。

私たちは専門誌に掲載された論文に過度に気を取られ、書き手である研究者の個人的な利害に関してはほとんど注意を払わない。

 

経済学で自分が扱っているモデルはおとぎ話であるということを私は知っています。・・・経済理論モデルは私が社会問題に関する考えをまとめるのに役立っていません。

ルービンシュタイン ゲーム理論の力

ルービンシュタイン ゲーム理論の力

 

著者は「人々が合理でないこと」の合理的説明を試みているようであり、理性と感情の葛藤が感じられる。

ルービンシュタイン ゲーム理論の力 アリエル・ルービンシュタイ…|エンタメ!|NIKKEI STYLE

 

熊とワルツを

 勝つためにいちいち賭けをしていると、負けた時にとても許容できない重大な影響が出るかもしれない。

ソフトウェア・プロジェクトでは概して、勝つために特別なことをするより、負けの程度を抑えるほうが大事なのだ。

部下に向かって、精一杯力を尽くして(たとえ無茶なスケジュールでも)プロジェクトを期日に間に合わせてみろとたきつけることは、NASCARのレーサーに大事な仕事を任せるのと同じことだと理解する必要がある。その人はあらゆるチャンスに賭け、思いつく限りの悪い可能性を無視し、はかない勝利の望みをできるだけ長くつなごうとするだろう。それを何と呼ぼうと、リスク管理ではないことは確かだ。

「我々は予想することは下手ではない。ほんとうに下手なのは、その予想の裏にある仮定をすべて挙げることである」ポール・ルック

ソフトウェア・プロジェクト・マネジャーのほとんどは、やらなければならない作業についてはほぼ正確に予想できるが、やらなければならないかもしれない作業は正しく予想できない。

この業界は、早く終わるという第三の結果を事実上不当なものとみなすことで、期日どおりに完成する確率をほぼゼロにしているのだ。いい加減なスケジュールを許さないがために、むしろいい加減なスケジュールが例外ではなく当然になっている。

約束した納期への信頼を高めるには、早く完成することの正当性を取り戻さなければならない。そのためにも、企業文化を本気で改革する必要がある。プロジェクトが予定より早く完成することが安全になれば、発注者も、予定どおりに納品されることを期待できるようになってくる。納期とは別に現実的な目標を設定し、約束を守れることを周囲に示すという、長年先延ばしにしてきた仕事を始めることができる。

阻害要因

  1. マイナス思考をするな。
  2. 解決策が見つからない問題を持ち出すな。
  3. 問題だと証明できないことを問題だと言うな。
  4. 水をさすな。
  5. すぐに自分で解決を引き受けるつもりのない問題を口に出すな。

リスクを口に出すことをチームの利益に反すると見るべきではないが、そう見られることが多いのは事実である。これらの不文律は特にめずらしいものではない。責任ある発言と泣き言の区別ができていないのだ。

誰もが「やればできる」聖心で仕事をするよう強いられる。それが問題なのだ。リスクを口にだすことは「だきない」聖心のあらわれである。リスク発見は、組織のこのような基本姿勢とまったく相容れないものである。

阻害要因は強力なので、リスクについて話せるようにするには、明確に定められた理解しやすいプロセスが必要である。全員がプロセスに参加し、なおかつ安全でいられるための儀式が必要である。

我々の経験では、デスマーチ・プロジェクトに共通する性質として、予想される価値が低いことがある。どうしようもなくつまらない製品を世に送り出すためのプロジェクトなのだ。デスマーチになる本当の理由は、あまりにも価値がないので、普通のコストでプロジェクトを進めたらコストが効果を上回ることがあきらかだからだ。英雄的な献身がなければ、奇跡を期待することすらできない。

もっといい方法とは、予想される価値を基準に、どれだけリスクをとるかを決める方法である。今思えば、以前からそうしなかった最大の理由は、発注者に価値の数量化を求める厳しさが欠けていたことだ。特に価値の低いプロジェクトの場合、価値の数量化をかたくなに拒否する相手を黙って見守っていた。拒否する以外に、プロジェクトの体裁を保つ手段がないのだ。価値予想を宣言しなければ、開発コストの削減だけでプロジェクトを正当化できる。・・・「コストをこれだけ抑えれば、得られる価値がいくらだろうと、コストのほうが低くなるにきまっている」

熊とワルツを リスクを愉しむプロジェクト管理

熊とワルツを リスクを愉しむプロジェクト管理

 

 

不道徳な見えざる手

花嫁の生涯でもっとも重要な一日のための準備においては、予算や価格は検討事項としては二の次にしか思えない。

 

2010年のアメリカの勤労年齢世帯は、現金や当座預金貯蓄預金普通預金に1カ月の所得分すら保有していないという。さらに驚くことではないが、株式や債券の直接保有額のメジアン値はずばりゼロだった。イギリスの家計簿を使った支出調査を見ると、多くの世帯は単に次月の支払いをやりくりするので精一杯だという。月給を貰っている世帯の支出を見ると、給料日前の1週間では、給料日直後の1週間に比べて、丸18%も低下する。

 

ソローの計算までは、経済学者は経済成長を二つの要因の間でどう仕分けすべきか分からずにいた。労働生産性の上昇は新しい発明(技術変化)のおかげかもしれない。あるいは資本が増えたせいかもしれない。資本の稼ぎ分が算出への貢献を表すという単純な想定を使って、ソローは資本成長に分配できる生産性成長の割合を計算できた。そしてかれは(1909年から1949年にかけてのアメリカでは)資本成長の分が8分の1でしかないのを発見した。残りの8分の7は、他の容疑者のせいであるはずだ。これは新しいアイデアとなる。ソローは、この残差が技術変化によるものだと述べた。

間違った解釈・・・進歩は新しいアイデアによるというだけでなく、新しいアイデアは全て間違いなく経済進歩につながるというものだ。アイデアというのが技術的なものとしてのみ理解されるのであれば、これは自然な結論となる。でも私達の思考が全てモノについてではないのと同じように、あらゆるアイデアがモノについてではない。・・・こっちの得になるよう人々をおびき寄せるにはどうすればいいかも考案できるということだ。・・・ラスベガスの中毒性スロットマシン・・・ソロー残差が技術進歩を表したものだというのは当時の習慣的な思考パターンの反映でしかない。今や私たちは経済成長をもっと慎重に、もっと広い観点から見る必要がある。選択を広げてくれるあらゆる発明が最善とは限らない。

 

 私たちは自由市場が生み出した豊穣はわかっている。でもあらゆるコインには両面があるのと同じく、自由市場にも裏面がある。豊穣を生み出すのと同じ人間の創意工夫は、セールスマンの技能にも向けられる。自由市場は、お互いに利益があるものを作り出す。でも、相手を犠牲にして自分が儲かるものも作り出すのだ。利潤が得られる限り、どちらもやる。自由市場は人類最強のツールかもしれない。でも、あらゆる強力なツールと同じく、これも諸刃の剣なのだ。

 

2014年にSECは、50兆ドル近い資産を監督したが、その予算はたった14億ドルだ。・・・SECが一部監督しているたった一つの銀行であるバンク・オブ・アメリカは、マーケティングに賭ける費用だけでもSEC予算総額よりもずっと多い。ミューチュアルファンドの費用は、平均で手持ち資産1ドルあたり1.02セント、つまりSECの監督する金額1ドルあたりの予算の400倍だ。

マドフ事件・・・クォンツ分析化ハリー・マーコポロスは(マドフのファンドの資産価値に関する計算書)を追跡し、疑念をSECボストン地方局に提示した。彼は、マドフの高いなめらかな集積はファイナンスの法則から見てありえないと主張したのだった。マドフは、このなめらかな成長を、「カラー」という投資戦略で実現したのだと述べた。過大な損失を切り捨てるためのオプションを購入し、過大な利益を減らすオプションの販売でそれを釣り合わせたのだという。

確かにこうした戦略は収益を滑らかにしたかもしれないけれど、マーコポロスはマドフが投資家に与えている高い収益を稼ぎ出すには、あまりに高くつきすぎることに気がついた。・・・カラーを実施するには、マドフアメリカ市場全体よりもたくさんオプション取引をしなければならないはずだからだ。

説得力にもかかわらず、マーコポロスの疑念はSECで抵抗にあった。・・・標的であるマドフよりも、訴え出たマーコポロスの方をずっと怪しく思っていたようだ。・・・マーコポロスの訴えは理屈でしかないというのだ。・・・そしてやがてこの一件は閉じられた。

捜査チームはマーコポロスの不服申立てや動機についてほとんど理解を示さなかった。この誤解は、そこにファイナンスの知識を持った人物がいればすぐに解けたのかもしれない。・・・業務に見合うだけの給料と業務量が与えられていたら、マーコポロスの不服申立てマドフの弁明が、別の見方をされたかもしれない・もっと予算が豊富なら話が本当に違ったかどうかは、分かるはずもない。

 

 競争的な自由市場は、単に人々が求め欲しがるものを供給するための競技場にとどまらないものとなる。そこはまた、カモ釣りの競技場ともなるのだ。それは釣り均衡につかまることになる。

経済的病理学は、単に外部性や所得分配のせいだけであるかのように描くのはよくないと考えている。私たちは、経済はこの標準的な見方よりもっと複雑だと思っているーそしてもっとおもしろいと思っている。・・・現代経済学が内在的に、欺瞞と詐術を扱うのに失敗するからだ。・・・経済学者たちの市場理解が、系統的にそれ(市場におけるごまかしと詐術の役割)を排除しているからだ。・・・主に「外部性」によるものだと見られている。でもそれは競争市場が、まさにその性質そのものにより詐術とごまかしを生み出すことを見損ねている。それは、繁栄を与えてくれるのとまったく同じ利潤動機の結果として生じるものだ。

 

人々が本当に求めるものと、人々が自分がほしいと思っているもの(肩の上のサルの嗜好)のちがいという私達の概念と真っ向から対立するものだ。行動経済学の特殊性ー個別心理的バイアス(たとえば現在バイアス)の基盤とそうしたバイアスを特殊な市場条件(たとえば独占競争)に埋め込むことーは、人々が欲しがるものと肩の上のサルの嗜好がずれるのは決して一般的なことではないという概念を強化した。

 

これまでの顕示選好はすべて正しいという均衡概念に対して、釣り均衡、つまりは詐欺によって生じる需要と供給という概念を導入し、それが目新しいのだと主張している。ただし、その釣り均衡の中身については、ほとんど記述がない。

不道徳な見えざる手

不道徳な見えざる手

 
  •  原題は Phishing for Phools だ。Fishing for Fools と言いなおしてみればわかりやすい。「カモを釣る」というわけだ。 Phool は造語だが、Phishing はすでに英語でも日本語でも定着している。すなわちフィッシング。ネット詐欺でおなじみの手法だ。

webronza.asahi.com

漫画201802

銀河英雄伝説☆☆☆☆

出ましたね、最新刊。

カストロプ動乱は帝国領侵攻時の同盟軍を暗示しているという意味で非常に示唆的です、と8巻のレビューで書きましたが、オワカリイタダケタダロウカ。オーベルシュタインの面目躍如といったところですね。

7巻で書いたざっくり年表の続き

  1. 第六次イゼルローン(794/485)
  2. 第六次イゼルローン
  3. 第六次イゼルローン、第三次ティアマト(795/486)
  4. 第四次ティアマト(795/486)、アスターテ(796/487)
  5. 第七次イゼルローン(796/487)
  6. カストロプ動乱(796/487)
  7. 帝国領侵攻(796/487)
  8. アムリッツァ星域会戦(796/487)
  9. リップシュタット戦役

おばさん(政治家の)「せめてひとつ何かしらの成果がなければ私たちは支持者たちに責任を追求され辞任に追いやられる!」ってのがまた日本の政治家だか官僚組織だか、はたまた日銀だかの無謬性の論理を想起させる非常に面白い(けど笑えない)発言になっています。

当面はラインハルトのターンが続くことになりますね。独裁者が有能なら愚民主義よりもええんやで、なんてことを改めて感じますね。頑健ではないけども。

犯人たちの事件簿☆☆☆

面白いというかくだらないんだけど、人気作のリメイクや利根川・犯沢さんみたいな人気作のスピンオフが乱発されている現状を見るにつけ、出版不況って本当に深刻なんだなと実感させられますね。

 からかい上手の(元)高木さん☆☆☆☆

 元高木さん子育ても巧い!な1巻からややトーンダウンな2巻。子供がいると、どうしても同じ展開になってしまいがちなのか。ただ、エピソード「からかう」はヲチが秀逸だった。

からかい上手の高木さん☆☆☆☆

高木さんは相変わらず最高に可愛いんだけど、西片のものになると分かっているだけに西片への嫉妬が勝って素直に楽しめない。とか二次元にマジレスしてる時点で、すでにこの作品の虜。アニメも(ちょっとテンポはあれだけど)いい感じ。

hobby.dengeki.com

 あさひなぐ☆☆☆

 スポ根平常運転&真春先輩頑張れなやや読者的に苦しい展開、ラストが唯一の笑いどころ。

悪のボスと猫。☆☆☆

猫好きにはたまらないシュール漫画の第二巻。一番可愛いのはヒットマン

悪のボスと猫。 : 2 (アクションコミックス)

悪のボスと猫。 : 2 (アクションコミックス)

 

マージナル・オペレーション☆☆☆

小休止回。面白いんだけど、この話はどういう方向に向かっていってるんだろうか。救いのない最終回しか思いつかないんだけど。

地方騎士ハンスの受難☆☆

面白くないわけではないけど、 同じような話の繰り返しで飽きが来た。

地方騎士ハンスの受難 4 (アルファポリスCOMICS)

地方騎士ハンスの受難 4 (アルファポリスCOMICS)

 

HUNTER×HUNTER

ちょっと話を作り込みすぎです、冨樫先生w

HUNTER×HUNTER 35 (ジャンプコミックス)

HUNTER×HUNTER 35 (ジャンプコミックス)

 

賢者の孫☆☆

 これといった見どころがありませんでした。

賢者の孫(6) (角川コミックス・エース)

賢者の孫(6) (角川コミックス・エース)

 

Dr.STONE☆☆☆☆

 本巻も満足度が高いですね!科学技術レベルをどこまで引き上げていくのか(いけるのか)含め、今後も注目です。Dr.STONEで科学に興味を持った子供向けに、Dr.STONE絡みの学習書(STEM分野)なども出していってほしいです。内容が難しくなって、読者アンケートが多少悪くなっても続けていってほしい漫画です。

無能なナナ☆☆☆☆

超能力者モノはガキ臭い設定や薄っぺらいバトルものになりがちですが、敢えて主人公を無能力者にすることで、頭脳戦を取り入れた点がユニーク、かつしっかりプロットが練られており、非常に完成度が高い作品です。

キングダム

 テンション持続できるのはすごいですね。次が節目の50巻。

キングダム 49 (ヤングジャンプコミックス)

キングダム 49 (ヤングジャンプコミックス)

 

 異世界で最強の杖に転生した俺☆☆

 変化球異世界もの、設定は凝ってると思うけど、そもそものストーリーがあまり面白くない。好きな人は好きなのか。微エロ。

 バーテンダー6stp

 固定ファンあり、レビューは不要。いつもどおりのバーテンダー

 LV999の村人☆

 様子見でしたが、盛り上がりませんでした。

LV999の村人(2) (角川コミックス・エース)

LV999の村人(2) (角川コミックス・エース)

 

 

求道心

 升田さんがGHQに出向いたとき、出された洋酒のナポレオン (ブランデー) に「こんな冬が来ると負けるようなものが飲めるか」とケチをつけ、当時の将棋界における第一人者である木村義雄さんの話が出ると「木村さんは海軍学校などで講演をしていた。だから日本は戦争に負けたんだ。俺が講演していたら勝っていたぞ。だから木村さんはあんたらにとって恩人だな」などと、まさにいいたい放題。この豪快さが多くの升田ファンを魅了したのですが、それは日本人に限ったことではなかったでしょう。

 

かくて行動経済学は生まれり

 1987年、『スポーツ・イラストレイテッド』誌がひいきの野球チーム、クリーブランド・インディアンスに表紙を飾らせ、ワールドシリーズを制覇するだろうと派手に書き上げた時だった。「ぼくはその通り、インディアンスは長年くさってたけど今年はワールド・シリーズで勝つんだと思ったよ」。だがその年、インディアンスはメジャーリーグ最低の記録でシーズンを終えた。なぜそうなったのか?「活躍すると書かれていた選手の成績がのきなみ悪かった」とモーリーは当時を思い出す。「そのときぼくは専門家なんて実は何もわかっていないんじゃないかと思ったんだ」

モーリーからすると、コンサルタントの仕事の大半は、たとえ確実ではないことでも、絶対確実だというふりをすることである。マッキンゼーの就職面接を受けたとき、彼は自分の意見に自信を持っていないと指摘された。「それは本当に自信がないからだと言ったんだ。しかし彼らに言わせると、『自分たちは顧客に年間50万ドルも支払っている。だから自分の言うことに自信を持たないといけない』となるんだ」

彼を雇ったコンサルティング会社は最初から最後まで、自身を表に出すよう言い続けたが、彼にとってそれは詐欺に近かった。たとえば顧客向けに原油価格を予測しろと言われる。「そして僕らは顧客のところに行って、原油価格を予想できますよと告げるんだ。でも原油価格を予測できるやつなんていない。まったくナンセンスだよ」

「確証バイアスの何がたちが悪いって、それが起きているとは気づかないことだよ」と彼は言う。スカウトはある選手についての意見を固めると、それからその意見の根拠となる証拠を集めてしまう。「いまに始まったことではない」とモーリー。「そして選手についてはいつものことだ。ある選手が気に入らなければ、ポジションがないと言う。もし気に入れば、どこのポジションでもできると言う。気に入った選手は、その身体能力を別の強い選手でたとえる。気に入らない選手は低迷する選手でたとえる」

同じ人種での例えを禁止することだった。『ある選手別の選手にたとえたい時は、人種の違う選手にたとえる』ということだ。たとえばその選手がアフリカ系アメリカ人で、『彼はナントカみたいなんですよ』と言いたいとき、そのナントカはアジア人かヒスパニック、あるいはイヌイットとか、黒人以外の選手でないといけない。頭の中で人種の線を越えなければいけないとなると、おもしろいことが起こる。似ているところを見るのをやめてしまうんだ。彼らの頭が、その線を飛び越えるのを拒否する。きっぱりと見なくなるんだ」

害とはこれだ。非常に有能なNBAプレイヤーが、単に専門家が向いてないとレッテルを貼ったために、本格的に NBA でプレーするチャンスをもらえないのだ。他にいったい何人のジェレミー・リンがいるだろう。

ジェレミー・リン - Wikipedia

それは一つのパターンの始まりだった。気分が盛り上がって、あるアイデアや大きな希望に飛びつくが、結局はがっかりしてやめてしまう。「私はずっと、アイデアというのは一山いくらというものだと感じている」と彼(ダニエル・カーネマン)は言う。「一つがうまくいかなければ、無理してそれを続けることはない。別のものを見つければいいんだ

 ヘブライ大学に心理学部ができるというんだ・・・入学を許可された二十人のうち十九人が博士号を取得した。・・・彼の名はエイモス・トベルスキー。彼が何を言ったか、アムノン(・ラポポート)は正確には思い出せない。ただどう感じたかははっきりと思い出せる。「私はこの男ほど頭は良くない。それだけはすぐ理解した」

 エイモス「あなたの経済モデルはどれも、人々は頭が良くて合理的だという前提で作られている。それなのにあなたのまわりにいる人はみんなばかなんですね」「なあ、マレー(・ゲルマン)、世界には君が自分と同等だと思えるほど頭のいい人間は一人もいないよ」

彼は物理学者ではなくて心理学者だと告げた。「それはありえない」と、その物理学者は言った。「彼はあそこにいた物理学者の中で一番頭がよかったんだ」

ミシガン大学のディック・ニスベット は、エイモスに会ったあと、たった一行の知能テストをつくった。「自分よりエイモスのほうが頭がいいとすぐ分かる人ほど知能が高い。」

エイモスは、人はちょっとした決まりの悪さを避けるために、あまりにも大きな代償を払っていると思っていた。

哲学でぼくらができることはもうない。プラトンが多くの問題を解決しすぎたんだ、この分野では大きな仕事は出来ない。頭のいい連中がたくさん集まっているのに、もうほとんど問題は残っていないし、答えの出ない問題ばかりだ

哲学の厄介なところは、科学の原則で動かないところだと、エイモスは思っていた。哲学覇者は人間の本質についての自らの理論を、標本数一つ、つまり自分自身で検証する。心理学はそれと比べれば科学的だと思えた。心理学者は自分で考えたどんな理論も、人間全体を代表していると思える標本を使って検証する。その理論は他人が検証、再現、反証することもできる。真実を発見すれば、それが定説となることもある。

心理学で扱う大半のことについて、エイモスはほとんど興味を持てなかった。幼児心理学、臨床心理学、社会心理学の授業を受けて、自分が選んだ分野の大部分は無視して差し支えないと判断した。

ウォード・エドワーズが書いた『意思決定の理論』・・・コレなどは経済学者の予測であり、心理学者が検証できそうだとエドワーズが考えた例だ。つまり、現実の人間は推移的なのか。

ミシガン大学では、心理学部博士課程の学生は2つの言語でテストに合格しなければならなかった。・・・エイモスは一つ目の言語として数学を選び、・・・二つ目の言語として、彼はフランス語を選んだ。・・・本は学生が選び、翻訳する部分は試験管が選ぶ。エイモスは図書館に行って、ほぼ数式しか書かれていない、フランスの数学の教科書を見つけ出した。

「エイモスの科学のあり方は、少しずつ積み上げていくというものではなかった」とリッチ・ゴンザレス・・・「一気に飛躍して進む。既存の理論的枠組みを見つけ、その一般命題を見つける。そしてそれをぶち壊すんだ。彼自身も否定的なスタイルで科学をしていると思っていた。実際、彼は否定的という言葉をよく使った。」それがエイモスのやり方だった。他人の間違いを指摘してやり直す。そしてそのうちに、他にも間違いがあったことがわかるのだ。

 ああ、ダニエル・カーネマンと比べたらだめだ。他の教師がかわいそうだ。ダニエル・カーネマンという教師のカテゴリーがあるんだ。普通の教師をカーネマンと比べてはいけない。他の人と比べて、いいとか悪いとかいうのはいい。でもカーネマンとはダメだ。

自分も思考に間違いを見つけたときはいつも、前に進み新たな発見をしているという感覚がある。

教育とは、知らないことにぶつかった時に何をすればいいか知っていることだと、以前誰かが言っていた・・・ダニエルはその考えを信じて、実践していた。

ダニエルのような非数理心理学者たちは、数理心理学は心理学への関心の無さを数学能力でカモフラージュしている意味のない研究だと、腹の中で思っていた。一方、数理心理学者たちは、非数理心理学者は頭が足りないので、自分たちの主張の重要性を理解できないのだと考えていた。

ロバート・オーマンに、エイモスについて覚えていることを尋ねると、・・・「彼は『それは考えもしなかったな』と言ったんだ。それが記憶に残っているのは、エイモスが考えていないことなんて、あまりなかったからだ」

エイモスにとって理論とは、心のポケットやブリーフケースのようなもので、とっておきたいアイデアを置いておく場所だった。もっと良い理論(実際に起きることをより正確に予測できる理論)と交換するまでは放り出したりしない。理論は知識を整理し、より正確な予測を可能にするのだ。

社会科学で信じられていた理論は、人間は合理的であるということだった。それはつまり、少なくともまともな直観的統計学者だということだ。新しい情報の意味を読み解き、確率の判断をうまくできる。もちろん間違えることはあるが、その間違いは感情の産物であり、感情は予想がつかないので、無視しても差し支えない、と。

ダニエルのオフィスはあまりに汚くて何も見つけられません。エイモスのオフィスでも何も見つけられませんでしたが、それは何もなかったからです。

ある年の鉢年生全体のIQの平均は百・・・50人の生徒を無作為に抽出・・・最初にテストした子のIQは百五十でした。この標本全体のIQの平均はいくつと推測できるでしょうか。・・・知識を持つ科学者(実験心理学者)も同じ間違いをしやすい・・・平均は百と推測することが多かった。彼らは最初に見せられた高いIQは外れ値であり、低い方の外れ値で相殺できると考えたのだ。コインの表が出れば、次は裏と考えるのと同じだ。しかし、ベイズの理論で計算すると、正解は百一である。

「無作為抽出に対する人間の直感は、少数の法則を満たしているようだ。それは大数の法則が、少ない数にも当てはまると考えてしまうことである」

例えば、鼻の長い人は嘘をつきやすい。もしこれが一つの標本では正しい、もう一つの標本では誤りという結果が出たら、学生はどうするべきだろうか。ダニエルとエイモスがプロの心理学者に、回答選択方式で質問した。選択肢の内三つは、標本を大きくするか、少なくとももっと理論を練るという要素が含まれていた。しかし心理学者達が圧倒的に支持したのは四つ目の選択肢だった。それは「それら二つの集団で違いが出た理由を見つける」だった。つまり、・・・逆の結果が出たことを正当化するべきだということだ。心理学者は少数の標本を信頼しきっているため、どちらの集団であれ、そこから引き出された結果はほぼ正しいと考える。その2つが互いに矛盾しているとしてもである。・・・「結果が矛盾しているのは、標本にばらつきがあるからだと考えることはめったにない。それはどんな欠陥についても、原因となる説明を見つけるからだ」「そのため標本のばらつきが影響していることに気づくことはほとんどない」

エイモスだけが、こう付け加えている。「エドワーズは、人は確率論的データから十分な情報や確実性を引出すことができないと論じている。彼はこの性質を保守性と呼んだ。しかし人間の反応は、とても保守性という言葉では説明できない。むしろ代表性仮説に合致していて、データに含まれている以上の確実性を、データから読み取っているのだ」

デイブ・クランツ「彼らの論文は天才的だった・・・統計学は確率論的な状況をどう考えるべきかについての学問だが、人がそれを実際にどう行っているかまでは関知しない。彼らの実験の被験者はみんな統計学をよく知っていた。それなのに間違えたんだ!参加者が間違えた問題は、私も間違えそうな気がする」

人の「直感的な予測を支配しているのは、世界についての一貫した間違った見方である」・・・もし一流の社会科学者が考えていることや、経済学的理論が前提としていることを、私達の頭がやっていないとしたら、それはいったい何をやっているというのだろう?

 人間はばかだということではない。可能性を判断する時に使っているあるルール(自分の記憶から簡単に思い出せることほど、起こる可能性が高い)に従えば、たいていはうまくいくのだ。しかし、正確な判断に必要な証拠がすぐに思い出せないような状況では、間違いが起こる。「その結果、利用可能性ヒューリスティックによって、系統的なバイアスが生じる」と、ダニエルとエイモスは書いている。人間の判断を歪めるのは、強い記憶に刻まれることなのだ。

 あれは経済人についての心理学理論だった。わたしは思ったね。これ以上のものがあるかって。どうして人が不合理なことや間違いをするのか、その理由がここにある。みんな人間の頭の内部の働きから来ているんだ。

「科学の進歩はほとんどが、わかった!という瞬間ではなく『うーん、これはおもしろい』と思うところから起こる」

「不確実なことがあるところには、判断しなくてはならないことがある 」「そして判断があるところには、人が間違える余地がある」

レデルマイアーはトロントの三つの大病院の百二十のエレベーターのボタン、九十六のトイレの便座の表面をこすりとり、エレベーターのボタンの方が病気の感染源になる可能性がはるかに高いという証拠を示した。

 レデルマイアーの経験からすると、医者は統計的に考えない。「医者の80%は、自分の患者に確率が当てはまると思っていない」「夫婦の95%は、離婚率50%という数字は自分たちに当てはまらないと思っているし、飲酒運転をするドライバーの95%は、酒を飲んでいないときより飲んでいるときのほうが交通事故を起こしやすいという統計が、自分に当てはまるとは思わない。それと同じだ」

「医学部に入ってすぐの頃は、間違っていることを堂々と話す教授が山ほどいた。それについてはあえて何も言わないけどね」。彼らはよくある迷信じみた話を、永遠の真実のように語っていた(「二度あることは三度ある」のたぐいだ)。

様々な医療分野のスペシャリストが、同じ病気の患者にまったく違う診断をした。・・・どちらも専門医としての自分の経験に、過剰な自信を持っていた。

そもそも医学という職業全体が、その決定の正しさを事後に確かめるようにできていた。例えば患者が回復すると、それは治療のおかげだと考えるのがふつうだが、実際のところ、それを証明する確たる証拠はない。治療したあと患者がよくなったからと言って、その治療のおかげで良くなったとは言えないというのが、レデルマイアーの考えだった。

自然に治るものなんだ。でも、苦しんでいる人は治療を求め、医者は何かしなければと感じるそこでヒルに血を吸わせてみる。すると調子がよくなる。そうなるとヒルが長く使われることになるかもしれない。あるいは抗生物質の過剰処方が続くかもしれない。。。。何か処置をして翌日よくなったら、誰だってその治療が良かったのだと思ってしまう。

証拠に基づく医療・・・私は顧みられていなかった分析をとくに意識するようになった。確率の多くは専門家の意見によって作られていたんだ。

このうえなく優秀な医者でも間違う理由を鮮やかに説明している・・・数学では常に自分の作業を点検する。でも医学ではしない。「もし明確な答えがある代数で間違いやすいなら、明確な答えがない世界ではもっと間違いやすいはずではないか」

誤りは必ずしも恥ずかしいことではない。人間なら避けられないからだ。「彼らは人間が考えている時に出くわす落とし穴について、それを語る言語と理論を提示してくれていた。それがあれば、このような間違いについて伝えることができる。人間がしやすい誤りが認識されたんだ。誤りを否定するわけではない。誤りを悪者扱いするわけでもない。ただそれが人間の性質の一部だと認めただけだ

エイモス・トベルスキーに会うのは、ハル・ソックスに言わせると「アルバート・アインシュタインとブレーン・ストーミングするようなものだ。彼は歴史に名を残す人物だ。彼のような人物はもう現れないだろう」ということだった。

  • 優れた科学はだれにでも見えることを見ながら、誰も言っていないことを考える。
  • とても賢明なことと、とても馬鹿げていることの違いは僅かであることが多い。
  • 多くの問題が起こるのは、従うはずだったのに従わなかった時、そして創造的であるはずだったのに創造的になれなかったときだ。
  • 優れた研究をするための秘訣は、いつもあまりうまく使われていない。何時間かを無駄にすることができなかったために、何年も無駄にすることになる。
  • 自分が世界をよい場所にしたと証明するより、世界をよりよいものにするほうが楽なときもある。

天気によって(関節炎の)痛みが変わるという患者の主張とは裏腹に、それらの間に相関関係はないと、彼とエイモスは断定した。・・・なぜ人は痛みと天気の間に関連を見出すのかを説明したいと考えた。・・・私たちはこの現象の原因は、選択的なマッチングにあると考える。・・・関節炎について言えば、選択的なマッチングによって、人は痛みが強くなると天気の変化に意識を向けるが、痛みが和らいだときは、天気をほとんど気にしない。痛みがひどくて天気が荒れた日がたった一日あれば、これら二つが関連しているという思い込みが一生続くのだ。

 「重大な決定は、現在も何千年前と同じように、権力を持つ立場にある少数の人間の直感と好みで行われている」「社会全体の運命が、指導者が犯した、避けられたはずのいくつもの間違いによって決められている可能性が高い」

 損失とはその人の基準点(参照点)より、結果的に悪くなることだ。

バリュー理論・・・私達が提示しているこの理論は、利益と損失を主体が知覚したものとして用いている

リチャード・セイラー・・・彼には二つの目立つ特徴があり、それが原因で経済学だけでなく学究生活そのものになじめずにいた。一つ目はすぐに飽きてしまい、その退屈から逃れるため新しいことを次々と考える性格だ。 ・・・もう一つの目立った特徴は、自分を無能だと感じていたことだ。・・・「私は変わり者で、数学が得意でもなかった」「得意なのは、おもしろいものを見つけることだった」

彼が自分の観察について同業者である経済学者に話して聞かせても、相手にする人はいなかった。「彼らは開口一番「人が間違えることがあるなんて当たり前だろう。だがその間違いに規則性なんかないし、その影響は市場の中で排除される』と言った」。

「彼には敵がいたけど、その敵を懐柔するのがあまりうまくなかった」と言うのは、ロチェスター大学経済学教授のトム·ラッセルだ。「学者に面と向かって『いまきみが
言ったことは本当にばかげている』と告げたら、大物なら『どうばかげているんだ?』
と返すかもしれない。しかし小物は何も言わず根に持つだけだ

経済学者が連絡を取るのは、常にエイモスだった。エイモスの言うことなら理解することができた。エイモスは経済学者とよく似た論理的な頭脳の持ち主で、しかもその出来はずっと良かった。

ダニエルにとって人間が合理的でないと証明するのは、人間には毛がないと証明することに似ているように思えた。

人間の性質についても考えを世間に理解させるには、それを理論に組み込んでしまうしかない。エイモスはそのことを、ダニエルよりもはっきりと理解していた。そのような理論は、既存の理論よりもうまく人の行動を説明し、予測するものでなければならない。更には、象徴的な論理で表現する必要もあった。「理論を重要なものにすることと、生き残れるものにすることは、まったく違った」・・・「科学は会話であり、それを聞いてもらうう権利をめぐって競争する。その競争にはルールがある。奇妙ではあるが、正式に発表された理論で検証されるというルールだ

エコノメトリカ・・・ダニエルは編集者の反応に当惑させられた。「私は心のどこかで、『損失回避は本当に面白いアイデアだ』と言われると思っていた。ところが彼は『いや、私は数学が好きなんだ』と言った。なんというか、打ち砕かれた気分だった

 ピーター・ダイアモンド「(ダニエルとエイモスの研究)どれもみんな本当のことだ。机上の空論ではない。とてもおもしろい現実で、それらは経済学者にとって重要な事だ。何年も前からどうやって使おうか考えていたが・・・うまくはいっていない」

スティーブン・スローマン「神にかけて本当のことだが、私は自分の持ち時間の四分の三を、経済学者を黙らせることに費やした」

エイミー・カディ「問題は、心理学者は経済学者のことを不道徳だと思い、経済学者は心理学者をばかだと思っていることです」

ジョージ・ローウェンスタイン・・・ジークムント・フロイトの曾孫(ひまご)・・・彼はエイモスに連絡を取って助言を求めた。自分は経済学から心理学に移るべきだろうかと。「エイモスは『経済学にとどまるべきだ。われわれはそこにいるきみを必要としている』と言ってくれた・彼は1982年には既に、自分自身が一大ムーブメントを起こすことを知っていた」

エイモス『人生は本だ。短い本がよくないということはない。私の人生はとてもいい本だった』

 

<本文はよかったが、解説はいただけなかった。マイケル・ルイス行動経済学にかこつけて、(恐らく嫌いなのであろう)主流派経済学を叩く論法は生産的でないし、本文の趣旨にもそぐわない。蛇足以外の何物でもなかった。

かくて行動経済学は生まれり

かくて行動経済学は生まれり