ルービンシュタイン ゲーム理論の力

感想

題名や著者のバックグラウンドから予想される内容とは異なり(現代はEconomic Fablesなので、邦題がミスリーディングなだけのようにも思える:神取先生のミクロ経済学の力との対比なのかもしれないが、ベクトルが違いすぎる)、ルービンシュタイン独特の経済学観が楽しめる一冊。理論を解っているように思えない&数学コンプレックスがバレないように虚勢を張っているだけに見える(誘導系)実証経済学者の浅薄な経済理論批判とは異なり(実証家の主張している「実証」とはデータを使っているという意味に過ぎず、科学的な実証プロセス=実験の要件を満たしているようには思えない。理論を解っている実証家で理論批判をしている人は見たことがない、理論家による理論の批判(批判でないかもしれないが)は非常に建設的。ただ、かくて~の付録の解説でも思ったことだが、主流派経済学が嫌いなだけの愚かな人間が、こうした節制的な研究者が熟慮によって導き出した主張の尻馬に乗ることを誘発してしまう点は、常に意識しておかないといけないように思う。

これまで行動経済学アドホックな観察結果の集積に過ぎないものだと軽視していたが、かくて~と本書を読んだことで、科学的実証プロセスとしての行動経済学の価値に気づくことができたのが個人的な収穫。

yamanatan.hatenablog.com

引用

ここに6面のサイコロが一つある4つの面が緑色(G)で2つが赤色(R)である。GとRからなる3つの文字列から一つを選べ。サイコロは20回振られる。もし選んだ文字列が一連の結果に含まれていれば25ドルを受け取ることが出来るとする。

  1. RGRRR
  2. GRGRRR
  3. GRRRRR

確率と文字列の中のGRの割合が混同されることに起因しています。 サイコロの目の全体でGという結果の出る確率が3分の2になります。すると文字列RGRRRでは全体の5分の1がGなので、全体の3分の1をGが占める文字列GRGRRRよりも起こりにくいと感じられるのです。しかしサイコロの目の組み合わせの中に文字列RGRRRをもつける確率は文字列GRGRRRを見つける確率よりも常に高いのです。

 

一般に、統計的に有意であるという概念を機械的に用いることは危険です。この概念を用いる際の論理は重要な仮定のもとに成立しています。しかし仮定は無視されるか、調べるべきなのに当然成立すると思い込まれているかのいずれかになりがちです。研究者や新聞の読者というのは仕分けをすることが大好きで、仕分けの背後に何があるか自問することはめったにありません。

例えば、経済学でありがちな有意性に関する検定は、計測誤差や書類作成上のミス、分析や報告上のミスと言った結果の信憑性に大きく影響しうる要因を完全に無視しています。そして、もちろん、研究者にも利害や思い込みがあります。すなわち意識的にせよ無意識的にせよ、報告結果が利害や思い込みに影響を受けることもありえます。研究者の信憑性に関する不確実性のほうが統計的検定を行う上で考慮される不確実性よりもはるかに影響が大きいと私は思います

 

何年もの間、経済学における実験というのは研究費の無駄遣い以外のなにものでもないと私は思っていました。未だに定量的結果に強い関心を見出すことはなく、ある発想が納得の行くものかどうかを検証する最も信頼に足る方法は常識だと信じています。

しかし実験に対する尊敬の念も抱くようになりました。ある思考過程を連続して描写する一連の質問を構成することはそれはそれで芸術的なことだと認識するようになったためです。加えて、常識が時に豊富な経験を持った人ですら騙すことがあると理解するようになったためです。

私自身も、最初の段階で結果が好ましいものであると、実験をさらに拡張するのを避けたいという気持ちが強くなります。または、正しいと私が「知っていた」仮設を支持しない場合には結果を何度も調べずにはいられないのです。 結論が他の研究者によって否定された場合に辱めを覚える恐怖というのは経済学においてはほとんど存在していません。データを調べて実験を繰り返すという伝統がないからです。

 

結局私は合理的でありたいのか。

合理的人間が打ち負かされるのを観察して喜びを得ているとだけは言っておきましょう。合理的人間の完全無欠さが私は好きではありません。

血の通った人間として想像しようとすればするほど、私は合理的人間のことを辛抱のない人間であるばかりか非人間的であるとますます気づかされます。このような人間が現実に存在しないという事実、そして単純な引っ掛けてによって自分のことを合理的だと考えている人を誰彼となく笑い者にすることが可能であるという事実。この事実に私は喜びを見出します。

 

私には、誰がナッシュかを特定するのは困難でした。なにせプリンストンでは、とても多くの変人が芝生の上をうろつきまわっていたので。

 

私はゲーム理論家ジョン・マクミランの交渉に関する一章の要約の中にある言葉を思い出しました。『ゲーム理論は交渉者にどんなアドバイスを生み出したか?私たちが学んだもっとも重要な考えとは・・・相手の立場に身を置き、いくつかの行動を前もって考えておくことの価値である。

ゲーム理論とチェスはひょっとして人々を人の立場から状況を考えるようにするものの、それはただ自分にとって最善な行為をするためだけではないのだろうか、と。チェスの先生は戦略的思考と共感とを混同していたのです。

 

 1970年代になって初めて、ゲーム理論は経済学の中核に入り込みました。それまで市場と競争均衡というペアが経済分析の主要なツールだっとするならば、ゲームとナッシュ均衡のペアが主要なツールの仲間入りを果たしたのです。

1980年代以降は、数え切れない人々がゲーム理論はすべての分野で有用だと喜んで宣言してきました。経済学における寡占市場や企業買収、政治学での戦略的投票や国家間交渉、生物学では花と蝶の関係や動物の進化、哲学での倫理的問題、コンピュータ・サイエンスでのコミュニケーション・プロトコルの開発、果てはイサクの燔祭(はんさい)やソロモンの審判と言った聖書の物語まで、何もかもがゲーム理論というツールで分析されるようになったのです。

1994年、ゲーム理論は「全オークションの母」としてメディアから賞賛を浴びました。・・・この出来事をゲーム理論の応用可能性の決定的な証拠だと見なしました。私は疑念を抱いています。

私はこの入札やこれと似た入札を設計した人々を個人的に何人か知っています。彼らは疑いなく明晰で知的な人たちです。彼らはまたしっかりと地に足の着いた人たちでもあります。しかしながら、私の理解できる範囲では、彼らは基本的な直感や人為的なシミュレーションをもとに助言を行っていました。ゲーム理論の洗練されたモデルがもとではなかったのです。入札を設計するのに彼らがゲーム理論を役立てたと主張するどんな根拠も私には見つかりませんでした。彼らはせいぜい私達がゲーム理論でよく研究する固有の戦略的思考に通じていると言うだけでした。

 

勇気を振り絞り、マーティン・オズボーンと書いたゲーム理論の教科書を彼(ナッシュ)に手渡したのです。ナッシュは本を受け取りました。彼が例を言ったかどうかは覚えていません。既に2冊ゲーム理論の本が本棚にあるから、これで「2+1=3冊」持つことになりましたと彼は言いました。それから、彼は本をパラパラとめくり、驚いて言いました。「ここに私の名前が載っているではないですか」。

 

ゲーム理論のコミュニティではその応用可能性についての合意は得られていません。戦略的状況での行動の優れた予想を提供することがゲーム理論の役割だと信じる人もいます。経済学者のハル・ヴァリアンは『ビューティフル・マインド』という映画のレビューで書きました。「ナッシュ氏の貢献は美女をバーで口説くべきかについてのいくらか不自然な分析よりもはるかに重要なものでした。彼が発見したものは事実上あらゆる種類の戦略的関係の結果を予測する方法でした。」NYT2002/4/11

バーの美女は後回しにするとして、ヴァリアンがどのようにナッシュ均衡の予測可能性について結論に至ったか私にはまったくわかりません。ゲームが唯一の均衡を保つときでさえ、ゲーム理論の予想と現実には大きな隔たりが残ります。更に、多くのゲームではナッシュ均衡は複数あり、これは予測可能性を減じてしまいます。そしてこれが以前に述べたように人々が予想を知っていて、それに反応しそうなときに行動を予想する根本的な困難なのです。

 

ゲーム理論は戦略的思考の論理を研究しているのです。しかし、論理によって人々が正直になったり、裁判官たちが公正な判決をするようにはならないのと同じように、ゲーム理論はプレイヤーたちがゲームをプレイするのを助けはしません。

もしゲーム理論に実用的な側面があるとすれば、それは間接的なものです。相互依存的な状況における合理性に関する秩序だった議論ができるようになります。経済学とその他の社会科学の分野との議論を戦略的思考に焦点を当てることで、豊かなものにします。そのような戦略的思考の中には、まだ私達が気づいていないものもあるかもしれません。エンターテイメント的面白さもあります。そして、それ自体は素晴らしいことですが、一般に人々が有用だと思うようなものではありません。ちなみに、ときどき私は、そもそもなぜゲーム理論の有用性について問う必要があるのだろうと考えます。学問的研究は直接的かつ実用的な利益によって判断されなければならないのでしょうか。

ゲーム理論の予測可能性については留保しますが、ゲーム的状況での人々の振る舞いはあるルールやパターンにそっていて、それらは世界中の出来事を観察することや実験の結果から発見されうるという事実は否定しません。しかし、それはゲーム理論的分析とは(もしあるとすれば)ただ弱くつながっているだけなのです。

 

経済学の勉強は通常、実証的な証拠を提示したり、きちんとした議論をしたりせずに、手っ取り早く学生の心をつかむ市場モデルに焦点を当てます。経済学の学生は、市場モデルのエレガンス、明瞭さ、予測能力といったものにー正しかろうが、間違っていようがー魅せられてしまいます

 

概して経済学が他の分野に広まってきた理由は、経済学者であるスティーブン・レヴィットの以下のような見解にあるのではないかと私は思います。「経済学は問題をtくための非常に優れた分析手段を持った科学であるが、興味深い問題自体は極めて少しだけしか持ち合わせていないのである」。

だれかが「経済学の帝国主義」という表現を使うことでその場でくすくす笑いが起こっていても、別の誰かが植民地の先住民すなわちまだ経済学的志向のありがたさを認識していない人々のことを傲慢にも軽蔑したりすると、次第に気まずさが立ち上ってきます。

 

もし経済学者が、経済学の研究活動を描写するモデルを作り、経済学者を意思決定主体としてモデルに取り込むならば、きっと彼らの採用するアプローチは、結論を額面通りに受け取るべきではなく、研究者の利害を考慮に入れるべきだ、というものになるでしょう。研究の結果を集めて分析し、発表する間に研究者が直面する誘因について議論がなされるでしょう。・・・しかし経済学者は経済学者のモデルを作りません。よく知られた論文の中で大発見をしたと発表した同僚が、公表する結果を取捨選択していたとか、発見と相容れないデータを省いていた、と経済学者が不平を言うのを私はめったに聞きません。つまり、私たちは別の落とし穴にかかっているのです。

私たちは専門誌に掲載された論文に過度に気を取られ、書き手である研究者の個人的な利害に関してはほとんど注意を払わない。

 

経済学で自分が扱っているモデルはおとぎ話であるということを私は知っています。・・・経済理論モデルは私が社会問題に関する考えをまとめるのに役立っていません。

ルービンシュタイン ゲーム理論の力

ルービンシュタイン ゲーム理論の力

 

著者は「人々が合理でないこと」の合理的説明を試みているようであり、理性と感情の葛藤が感じられる。

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