競争社会の歩き方 - 自分の「強み」を見つけるには

競争のそれほど激しくないアマチュアレベルなら、一人の強者が全てにおいてトップを独占することができる。しかし、プロレベルの熾烈な競争のもとでは、自分のもっとも得意なものに特化し集中しないかぎりトップを取ることはできない。

競争の促進は、それぞれの長所を見出し、それを活かす方向へと人々を導き、結果として独占を阻止する契機となるということだ。

 

競争のメリットを享受するのは、競争している本人ではなく、競争の結果より良いサービスや商品を手にできる消費者である。競争している当事者には直接的なメリットは少ない。関税撤廃による生産物の品質向上と価格低下というメリットを受けるのは、日本の消費者一人一人である。メリットの総額は、競争のデメリットの総額を上回るので、損をした人に所得補償をしてもお釣りがでる。これが経済学の常識である。

 

激しい競争に身を置けば、自らの強みを発見できる可能性が高まることだ。競争は勝者と敗者を生み、厳しく辛い面もあるが、競争が繰り返された結果、自分が真に活躍できる場を見つけられる確率が高まるのであればそれは喜びとなるはずだ。誰でにでも得手不得手がある。不得意な分野で消耗戦を続けるのは、本人にとっても社会全体にとっても不利益でしかない。

誰が一番優れているか、誰が一番私たちの要求に答えてくれるかあらかじめわからない場合、それを見つけ出すための装置としての役割が競争にはある。・・・ハイエクは競争をそのようにとらえた。

日本の労働市場では、大学卒の高学歴者も競争を避けて保身に回るという傾向がますます強まっている。・・・IT化の進展で、中間層のホワイトカラーの仕事はどんどん少なくなっている。二重の意味で日本人の従来型ホワイトカラーは供給過剰である。人口減少の進む日本の国内市場で、国際競争力の薄れた日本人高学歴層の雇用を支え続けられなくなるのは、時間の問題であろう。

個人も企業も、競争のプレッシャーから自分だけが逃げ切ろうとしていては、社会は衰退するばかりである。

 

チケット転売は、価値を生み出す正当な行為だからだ。チケットが高額であっても、売り買いする人は、その取引でどちらも便益を受けている。

チケットがどのくらいほしいのか、的確に表す一つの指標は、そのチケットを手に入れるために、最大いくらの金額を払ってもいいか、という数字だと経済学者は考える。

本当にチケットがほしいファンに、チケットが行き渡らないのは、チケット転売がない抽選制なのである。

行動経済学・・・多くの人は売り手が需要超過であることを理由に価格を引き上げることをフェアだと考えないのだ。

転売市場での価格は、所有効果のために、供給過小になって価格が高くなりすぎる可能性がある。

抽選によるチケット配分は非効率であることは間違いない。

 

他店価格対抗広告・・・暗黙の共謀

広告の狙いは、ライバル店の価格戦略を変更させることにある。

顧客に対して必要以上に値下げせずに済むよう、ライバル店に対して価格競争をするなというものであり、もし価格競争をしかけたら、お互い損をするように罰を与えるというものなのだ。

 

くまモンの戦略は、キャラクターの使用料を無料にしたという点である。

熊本県の関連商品や宣伝にしか使えないという制限を加えたのである。

二部料金制に近いものである。・・・固定料金と従量料金で成り立っているような価格体系

熊本県の戦略は、熊本の宣伝をするという固定費用を企業に払ってもらって、くまモンのキャラクター使用料という従量料金を無料にしているというものだと解釈できる。

キャラクターを普及させるということと、、熊本県の宣伝をするということを両立させる戦略だ。

現状維持バイアス・・・一度利用すると、そのキャラクターの利用を中止することは案外難しかったりする。

 

 アメリカ、ドイツ、フランスの憲法には、納税が国民の義務だとは書かれていない。

アメリカ合衆国憲法・・・国債の返済、防衛、福祉のために国が徴税する権限をもっていると税の存在理由が明記されている。・・・防衛に代表されるものはいわゆる公共財と呼ばれるものだ。公共財とは、誰かがその費用を負担すれば他の人はそれにタダノリできるので、強制的に税金で費用を徴収しないと過小にしか供給されないタイプの財でである。福祉は所得再分配であり、民間ではうまく機能しない。

民間では成り立たないサービスなので、国が税金をもとに提供する必要があるのだ。

 国が全員加入の貧困保険を強制保険として行っているのが、福祉制度だと解釈することができる。その国営保険料が、税金である。国民の全員加入でないとこうした保険は成り立たないので、支払い義務がある税金を原資として保険制度を組み立てているのである。

 

日本では、土地公有は失敗し、荘園という私有地が発生した。武士という名の開梱地主も発生した。「要するに、競争の原理が、日本の仮想ではつねに作動し続けていたということであり、いかに中国・朝鮮式の先生を輸入してもその原理を圧殺することはできなかったということである」と指摘している。

競争を全て悪として停止せしめた江戸体制時代にあっても、開梱と干拓ばかりは諸藩が競争してそれをやった。たとえば長州藩のごときは三六万九千石高でありながら、江戸初期以来瀬戸内海岸の干拓を続けてきたために幕末にあっては実収百万石といわれた。

 

独占というのは、独占されると価格が高くなること(だけ)が問題なのではなく、独占された市場では財やサービスの質が低下したり、供給量が低下したりすることが問題なのだ。「一組だけしかおらんかったら、絶対にそんな面白くなってない」という一言で独占の弊害を説明するのは流石だ。

 

 経済学的には、金銭的・非金銭的な負担をともなわない謝罪はチープトークと言われ、関係者にもともと利害が一致する部分があるような場合を除いて、相手に信頼されないと考えられている。言葉だけの謝罪そのものが有効ではないはずなのに、有効な場合があるのはどうしてだろうか。

丁寧な謝罪文のほうが、少ない金額でまともな謝罪がないよりも人々は許してくれるのだ。

 

謝罪法(sorry law)

医療事故が起きた場合、ごめんなさいと謝ってもそれが訴訟における証拠とはならない、後で訴訟となっても誤ったことから不利にはならない、という法律だ。

アイムソーリー法が通った州では、医療過誤の訴訟は、19-20%早く和解して、訴訟数自体も16-18%も低下したとのことだ。従って、謝罪するということは、社会的なコストを下げることにつながっているので、経済学的に見ても合理的だといえそうだ。

  

ストレスが高くなり、ストレスホルモンが高い状況が続くと、私たちのリスク回避度が高くなることによって、新しいことに挑戦したり、リスクの大きな投資が抑制されたりする可能性がある。そうであれば、自然災害や経済変動リスクにさらされるということは、技術革新を抑制し、生産性の伸びを小さくしてしまうということだ。

日本人がリスクを取らない傾向があるとすれば、こうした自然環境にも一因があるのかもしれない。

 

 ゴルフで損失といえば、パーを取れなかったことが当てはまる。プロゴルファーは、パーを取れなくなることを極端に嫌うため、パーパットに集中する度合いが、バーディパットに集中する度合いよりも高い。・・・バーディパットの成功率はパーパットの成功率よりも低いことが統計分析で明らかにされているのだ。

 バーディパットでは、パーパットに比べて、ホールまでの距離より長いパットではなく、短いパット(ショート)を打ってしまうというミスをしがちであるということだ。通常、短めのパットを打つというのは、安全策だと考えられている。・・・利得局面ではギャンブルをしたくないけれど、損失局面ではギャンブルをしがちになるという損失回避行動と整合的である。

損失回避傾向は賞金ランクの上位の選手にも下位の選手にも同じように観察されるということだ。

 

自分たちのほうが中高年よりも技術革新に対応できるのに、どうして就職できないのか。

MITのオーターらの研究によれば、米国で増えている仕事は、対人能力、非定型的な分析的能力といったコンピューターが苦手とするものである。中でも、新しいビジネスのアイデアを考えたり、データを解析してビジネスに活かしたりする非定型的で分析的な仕事が増えている。 日本でも同様の傾向が観察されているが、アメリカほどではない。これは、新しい技術に対応するように日本では組織や仕事を変えていないことが一因だろう。

 

法学はすでに存在する法律をどう解釈するか、それをどう世の中に合わせるかという問いに解を見つける学問だ。ただ、法や制度を解釈するだけでなく、新たに設計する場合には、経済学の思考法、発想が必要になる。法律を作るというと、一般の人にはあまり縁がないように思われるかもしれないが、会社の中で新しいルールを作るということなら身近な話だ。

作られたルールが意図したことと違う結果を生んでしまうことはよくあることだ。・・・経済学は一つの制度を作ることによってそれがどういう影響を及ぼすか、を考える学問であり、あらゆる側面でそればかりを考えている。

 

明治25年(1892)以前の東京の地図には、国分寺から西が東京に入ってない。現在、東京都に含まれている三多摩地域は、明治25年以前は神奈川県に属していたのだ。もし、当時のままなら国立市にある一橋大学は、神奈川県の大学になる。一橋大学の全身である東京商科大学はもともと神田の一橋にあったものが関東大震災で被災し、くにたちに移転した。もし国立市が神奈川県の所属だったとすれば、別の場所に移転していたかもしれない。

三多摩地域が東京府に編入された経緯・・・外部性

明治19年に関東地方でこれらが大流行したこと

横浜で発生したこれらは、東京でも大流行した。東京府内だけで死者数は9879人のも上ったという。この時、これら罹患者が出ていた多摩川上流の神奈川県西多摩郡長淵村(現東京都青梅市)で、住民が多摩川に流したというニュースが流れた。それに花瓶に反応したのが宮内省だった。

多摩川の水は、玉川上水を通じて不眠や、当時の御所(赤坂仮御所)の水道として使われていたからだ。宮内省は直ちに内務省に申し入れをし、内務省の指揮命令系統にあった東京府と警視庁に厳重な取締りを指示した。ところが、水源部の三多摩地域は神奈川県に属していたので、東京府の行政権や警察犬は三多摩地域には直接及ばなかった。大事な東京の水源で不衛生なことが生じても、どうにもできなかったのである。

この出来事をきっかけに、明治26年、三多摩地域は東京に編入された。・・・東京府の面積は倍増したそうだ。つまり、環境汚染という外部不経済を、三多摩地域を東京に編入して管轄下に置くことで解決したのだ。

外部性の肝は、金銭的なやり取りがないという点だ。

 

教育にも外部性はある。しかし、教育を受けた人は、そうでない人よりも、所得が高くなることが多いため、教育を受けることは私的利益のためだと多くの人は思っているのではないだろうか。また、教育を受ける理由は、所得を高くするだけではなく、人生をよくするからだ、と言われることが多い。

教育が私的利益だけを高めるためのものなら、税金から個人の教育費を賄う必要はない。教区が義務化されていたり、公的な支援が行われたりするのは、教育に外部性が存在する体。ある人が教育を受けると、その効果は教育を受けていない人にもプラスの効果を与える。例えば、文字を読める人が多くなると、経済取引が効率的になるだけではなく、企業は従業員の訓練も簡単にできる。高度な教育を受けている人なら、新しい技術を導入することも容易で、自らの創意工夫も業務改善のアイデアも、書類にして全社的に広めていくこともできる。さらに専門的な教育を植えている人達が多いと、全く新しい技術開発をすることもできる。そうしたことの恩恵は、教育を受けた本人だけではなく、社会全体の所得を上げることになるので、本人以外の人たちも便益を受けるのだ。

製の外部性に相当するだけ税金で教育費が賄われれば、教育の投資収益率は高くなり、教育投資は社会的に望ましい水準になる。税金から教育費が賄われる理由は、教育の外部性の内部化によって、教育投資を増やすことにある。

 

日本だと、2012年では上位10%は年収580万円以上、上位5%が年収750万円以上、上位1%が年収1270万円以上になる。

格差が拡大しているから金持ちからもっと税金を取るべきだと思っていた人でも、トップ10%で580万円以上だと聞くと、にわかには信じられないかもしれない。

 

日本の具体的な例を挙げると、医師では、一般の名前の出現率と比べ、旧士族の出現率は5倍、旧華族の出現率は3倍ぐらいとなっている。また、出現率の推移を見ても、医師の場合は1965年から66年で5.9倍だったものが、1989年から90年でも4.69倍で、人世代ほど経過してもほとんど下がっていない。この数値を基にどのくらいの確率で親子の相関が残っているかを計算すると、旧士族で0.8、旧華族で0.6と高い相関が残っているのだ。流動性が高く、平等社会であると思われてきた日本は、意外にも明治時代の格差をいまだに残している。私たちは再分配政策の重要性を再認識すべきではないだろうか。

 

ケトン体が人類を救う 糖質制限でなぜ健康になるのか

ケトン体というのは、先ほども少し触れましたが、ヒトが糖質を摂取しなかったときに、脂肪を分解して栄養にする代謝に代わって、そのときに出てくるものです。

肥満は脂肪が原因、・・・これこそが間違いであって、肥満は糖質過剰摂取で起こる。

 

妊婦のうちの12%が妊娠糖尿病と診断される。妊娠中には、耐糖能(血糖値を正常に保つための、グルコースブドウ糖)の処理能力)が下がるからだ。

ところが、耐糖能が下がっているのに、医師は「胎児にはブドウ糖が必要だ」と思っているから、糖質を60%、摂取させる。

妊娠初期の、卵黄嚢(らんおうのう)という栄養袋での造血の時期には、胎児は巨核で有核の赤血球であることがわかっています。これは、エネルギーとしてブドウ糖を必要としていないということを意味しています。

 

ケトン体(Ketone bodies)とは、脂肪酸ならびにアミノ酸代謝産物です。アセトン、アセト酢酸、βーヒドロキシ酪酸(ケトン基を持っていないが慣習的にケトン体に含まれる)のことを、まとめてケトン体と言います。ケトン体は、脂肪酸の分解により肝臓で作られ、血液中に出されます。

ケトン体は、心筋、骨格筋、腎臓など、様々な臓器で日常的にエネルギー源として利用されています。人体に日常的に存在しているもので、まったく毒性はありません。

血液中の総ケトン体の基準値は、26-122とされていますが、これは飽くまでも、現代人が日常的に「3食以上、糖質を摂取している」条件下の基準値です。

糖質を取らないでいると、ケトン体が血液中に上昇してきます。この値は結構高いので、食事の内容によって基準値が違ってもいいわけなのですが、日本ではまだそういう認識はされていないので、現状では異常値と思われてしまいます。

糖質を取らないで、脂肪を取ると、速やかにケトン体が上昇します。糖質と脂肪の両方を取ると、ケトン体は上昇しません。生理学的には、ただそれだけのことです。

 

ヒトには糖代謝ブドウ糖ーグリコーゲン)エンジンと、ケトン体代謝脂肪酸ーケトン体)エンジンの2つがあるのです。

糖質エンジンの方は、体内に貯蔵しているグリコーゲンは200-300gくらいですから、わずか1000kcalくらいしか持ち合わせがありません。ですから、体の外から補給しなければ、12時間くらいでなくなってしまいます。

それに比べて貯蔵脂肪は圧倒的にたくさんあります。体重60キロで、体脂肪率が20%の場合、12キログラムの脂肪がありますから、108,000kcalにもなります。このくらいの貯蔵量であれば、1日2000kcal消費しても、50日以上生活できることになります。

渡り鳥・・・蓄えた脂肪を燃やして飛んでいるのです。糖質エンジンは、じつは効率が悪くて、長く飛べるようなエンジンではありません。動物の体に蓄えられるエネルギー源は、実は脂肪である場合が多く、糖質は一時しのぎのエネルギーであって、補給を頻繁にしないとすぐに枯渇してしまいます。

卵生の動物は、卵の生育も孵化も、糖質がない条件で行われています。糖質エンジンがない場合が多いのです。

 

朝食のエネルギー論・・・脳の唯一のエネルギー源であるブドウ糖・・・私たちの身体が「ブドウ糖エンジンだけで動いている」かのように理解されている代表的な意見です。

  1. 脳はブドウ糖しか使えない。だから「ブドウ糖=糖質=炭水化物」を必ず取らないといけない。
  2. 人の体には、ブドウ糖を使うエンジンと、脂肪を分解してケトン体にして、これをエネルギーにするケトン体エンジンの2つが存在する。ブドウ糖が枯渇した状態で脂肪酸が燃焼するとき、肝臓ではケトン体という物質ができる。・・・飢餓などの特殊なときにのみ、ケトン体エンジンを使うことができる。
  3. 飢餓ではなくても、日常的にもケトン体エンジンは働いている。・・・脂肪が分解されて代謝される限り、エネルギーは産生される。その主な臓器は、心臓や骨格筋である。また寝ている間などは主にケトン体エンジンが動いている。今までは、脳はブドウ糖しか使えない。だから毎日ブドウ糖が必要と言っている人が多くいたが、実際は、脳はケトン体が大好きで、むしろケトン体のほうがエネルギー源としてふさわしいくらいである。

 

血管にプラークが出来て、狭窄(きょうさく)を起こしていた。そこでその場所を調べたら、コレステロールがたくさんへばりついていた。結構を悪くする、この動脈硬化の原因は、コレステロールに違いない!これを退治すれば、動脈硬化は治るし、予防できる!

ところが、コレステロールは、じつは細胞膜の補修や脂肪の代謝や神経の製作をしながら血管の修理もやっている、宅配便+便利屋さんだったのです。

コレステロール同様に、ケトン対そのものには何の毒性もありませんし、強い酸でもありません。

コレステロール悪玉説が崩れつつあります。

コレステロールというのは、体内の主要成分であって、とくに脳は、水分を除けば脂肪が40%を占め、さらにその30%がコレステロールでできています。

前進の三分の一のコレステロールが脳に存在しているそうですから、脳にとってどんなに重要な物質かがわかるでしょう。

医者に行くと、コレステロール220以上で異常だといってコレステロール降下薬を飲まされる。すると、まずいことに鬱になるんですね。・・・JR中央線で自殺したヒトを調べたんです。その結果、9割が55-65歳で、ほとんどが男だった。それが見事に全員、コレステロール降下薬を飲んでいたという・・・順天堂大学奥村康特任教授

コレステロール降下薬の年間売上は三千ー四千億円ともいわれている。その七割は女性が飲まされている。女性は閉経後に必ずコレステロール上がるからです。・・・捨ててしまうようお勧めします。

1990年頃から、それまで血管に血栓などを作ると考えられていたコレステロールが、実は損傷した血管を修復していることがわかり、コレステロールを善玉(HDL)と悪玉(LDL)の2種類に分けて評価するようになりました。

しかし、最近ではこの区別もおかしいと言われており、LDLが多くても死亡率に変化はなく、逆にLDLが低すぎると死亡率が上がる、ということも分かっています。

東海大学名誉教授の大櫛陽一先生によれば、細胞にコレステロールを運ぶのがLDLで、古くなった細胞からコレステロールを肝臓に戻す役割をしているのがHDLで、その両方が必要だとしています。

莫大な利益を生む構造があるため、コレステロール悪玉説の否定は大きく遅れてしまったのでした。

 

推奨の食事バランスに根拠はない。・・・3大栄養素の最適な栄養摂取比率を決めるエビデンスは乏しいのが現状ですが、日本人の食習慣こそがエビデンスだと私は思います。(宇都宮一典)

 

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米や小麦が人類を飢えから救ったことは間違いなく、人口の爆発的増加にも大いに役立ってきました。寒さや暑さに生身の体でたたかい、移動手段も徒歩しかなかった時代には、それらの穀物もそれほど悪さをしませんでした。生きるためのギリギリの食料だったからです。

日本で糖尿病が多い県は、東京や大坂ではなくて、徳島県香川県福島県青森県です。どちらかと言えば、農業が盛んで、交通機関は車が頼りの、静かな田園地帯のイメージです。

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  • がん細胞は、嫌気性解糖系(酸素を使わないでエネルギーを産生する)が亢進していて、ミトコンドリアを使う酸素を使ったエネルギー代謝ミトコンドリアの酸化的リン酸化)は使いません。・・・1つのグルコースブドウ糖)から、嫌気性解糖系では2分子のATPしか賛成されませんが、酸素を使う酸化的リン酸化では、36分子のATPを産生できます。従って、ミトコンドリアで酸素を使って効率的にエネルギー産生をするほうが、細胞の増殖にもメリットがあると考えられるのに、なぜ、がん細胞は酸化的リン酸化によるエネルギー産生を使わないのか、長い間謎になっています。
  • がん細胞には、ブドウ糖が不可欠ですが、ケトン体は利用できません。
  • 嫌気性代謝ブドウ糖の存在が、がん細胞の生命線になっているのですから、がん細胞がブドウ糖を利用できなくすれば、正常細胞にダメージを与えずに、がん細胞だけを死滅させることができると考えられます。
ケトン体が人類を救う 糖質制限でなぜ健康になるのか (光文社新書)

ケトン体が人類を救う 糖質制限でなぜ健康になるのか (光文社新書)

 
  •  実は、日本人の被験者を対象にした糖質制限食vsカロリー制限食のランダム化比較試験は初。その結果、試験開始6カ月後に糖質制限食群でのみ、HbA1cが有意に改善したのである。しかも、改善幅はカロリー制限食群よりも大きかった。中性脂肪値も糖質制限食群でのみ、有意に改善している。
  • 昨年、米国糖尿病学会は従来の懐疑的な態度から一転、糖質制限食を食事療法の一つとして認めた。糖質=主食制限による高タンパク・高脂質食が、腎機能や脂質代謝の悪化につながるのではという懸念が払拭されたためだ。

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  • 2013年に糖質制限食を糖尿病治療食として無条件で第一選択肢の1つに採用したADAの勧告を紹介(Diabetes Care 2013Nov;36(11):3821-3842)。前回改訂(2008年)より5年が経過し、「糖質制限食に関する様々なエビデンスが蓄積され、全面的に糖質制限食が認められるようになった」と説明した。
  • 山田氏は、ADAの勧告改定につながったシステマティックレビュー(Diabetes Care. 2012 Feb;35(2):434-45. doi: 10.2337/dc11-2216)を解説した。糖質制限食に関する3件の前後比較研究と8件のRCTを分析したもので、前後比較では血糖、脂質ともに全ての文献で改善。RCTでは8件中7件で糖質制限食の方が優れていたという。
  • 山田氏は、ランダム比較試DIRECTを紹介。322人の肥満患者を3つの食事療法で割り付けたところ、糖質制限食群で減量、脂質、HbA1c(糖尿病患者に限定)が最も改善した(N Engl J Med. 2008 Jul 17;359(3):229-41)。その効果は4年間の観察期間を経て計6年維持されたという(N Engl J Med. 2012 Oct 4;367(14):1373-4. doi: 10.1056/NEJMc1204792)。

  • eGFRと尿中アルブミンクレアチニン比を検討した同試験のサブ解析についても言及(Diabetes Care. 2013 Aug;36(8):2225-32. doi: 10.2337/dc12-1846)。CKDステージ3の患者においても糖質制限食でGFRが改善したと説明し、「糖質制限は腎臓が悪くなるという仮説が存在していたが、逆にGFRを改善している。腎症の悪化の可能性はまだ可能性にすぎない」との見解

  • 2006年に発表されたメタ解析(Arch Intern Med. 2006 Feb 13;166(3):285-93.)を紹介した。同解析では、低炭水化物食により6カ月まで有意な体重減少が認められたものの、1年で有意差が消失し、血中LDL-C上昇が確認されている。
  • 「動物性のたんぱく質を多く摂ることが、死亡率を増やすという報告がある中で、低炭水化物食を導入するのであればタンパク質と脂質の質を考えて、有用性と危険性をしっかりと患者さんに説明した上でやってほしい」

www.m3.com

  • 糖尿病医療の権威である日本糖尿病学会が作成した『糖尿病診療ガイドライン2016』に、北里大学北里研究所病院糖尿病センター長の山田悟医師は失望した。診療ガイドラインは、研究によって導かれたエビデンス(科学的根拠)に基づき作成するものだ。最新の研究結果を反映して更新されるにもかかわらず、2012年に山田医師が「糖質制限」の有効性を確認した試験の論文が盛り込まれなかったのである。

  • 学会は長年、食事療法として摂取エネルギー(カロリー)の量を減らす「カロリー制限」を推奨してきた。カロリーを制限しないで糖質のみ減らす糖質制限の食事法は、カロリー制限を否定するものと忌み嫌う学会幹部が少なくない。

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The Use of Structural Models in Econometrics

Further, without the ability to simulate counterfactuals and more generally to make claims of external validity, the role of empirical analysis is limited to analyzing historical past events without being able to use this accumulated knowledge in a constructive and organized way.

Solving structural models, especially dynamic stochastic models, involves numerical methods. These numerical methods are used to simulate outcomes and counterfactuals as well as to generate moments for use in estimation.

We call these models fully specified because they allow a complete solution to the individual's optimization problem as a function of the current information set.

Rust (1992) and Magnac and Thesmar (2002) ... their conclusion is that dynamic discrete choice models need some strong identification assumptions to work.

A structural model that fully specifies behavior can go much faster than simply estimating a parameter of interest or testing a particular theoretical hypothesis. To achieve athis, a number of simplifying assumptions have to be made, to maintain feasibility and some level of transparency.

 

rely on a sufficient statistic that summarizes choices not being modeled explicitly... the sufficient statistic is the amount of consumption allocated to the period. THe econometric model defines a relationship between labor supply and wages, conditional on consumption and looks like a traditional labor supply model. The model is partially specified, in the sense that there is not enough information to solved for the optimal choice as a function of the information set:... but we cannot simulate counterfactuals.

This idea builds on the concept of separability .... Gorman 1995 ... separability is a restriction on preferences. More generally, separability is a way of specifying conditions on preferences and technologies that allow us to focus on some aspect of economic behavior without having to deal explicitly with the broader complications of understanding understanding all aspects of behavior at once.

Partially specified structural models are an important empirical tool... in a way that is robust to different specifications in the parts of the model that remain unspecified,

One of the most analyzed partially specified models is the Euler equation for consumption... It does not require explicit information on the budget constraint because the level of consumption is used as a sufficient statistic for the marginal utility of wealth.

 

A treatment effect model focuses on identifying a specific causal effect of a policy or intervention while attempting to say the least possible about the theoretical context... Heckman and Robb (1985), Heckman, LaLonde,  and Smith (1999),...

To get anything more than that out of the experiment, broadening its external validity, will typically require an explicit model, incorporating behavioral and oftern functional form assumptions... generalizing the results to a scaled-up version of the policy is impossible without a model.

Feldstein (1995)... the external validity of the exercise is limited by the fact that the overall effect of reducing the top tax rate depends on how the entire tax schedule was changed and how people are distributed across it, which reduces the generality of the result to the specific context. 

Not all treatment effect modes are created equal:.. The point of randomized experiments is that results do not depend on strong assumptions about individual behavior, ... However, this clarity is lost with quasi-experimental approaches such as differenc-in-differences, where the validity of the results typically depends on assumptions relating to the underlying economic behavior that are left unspecified. 

Athey and Imbens (2006) ... the assumption underlying difference-in-differences is that the outcome variable in the absence of treatment is generated by a model that is (strictly) monotonic in the unobservables, and the distribution of such unobservables must be invariant over time. These assumptions restrict the class of behaviroal models that are consistent with the causal interpretation of difference in differences. 

Quasi-experimental approaches on the other hand, while not focusing on structural parameters, rely on underlying assumptions about behavior that potentially limit the interpretability of the results as causal. The attraction of these approaches is their simplicity. However thier usefulness is limited by the lack of a framework that can justify external validity, which is general requires a more complete specification of the economic model that will allow the mechanisms to be analyzed and the conclusions to be transferred to a different set of circumstances.... structural models... provide the framework for understanding how a particular policy may translate in different environments.

 

 in most cases, randomized experiments only  offer discrete sources of variation--policy is on or off--which is far from the requirements for identification in dynamic models, which would typically require continuous variation (Heckman and Navarro 2007).

 

The basic gain from using the structural models is that they allow a better understanding of the mechanisms and analysis of counterfactuals... These rich behavioral models offer a deeper insight of just how an intervention can affect the final outcome. Understanding the mechanisms is central to designing policies and avoiding unintended effects as well as for building a better understanding of whether a policy can reasonably be expected to work at all.

Combining randomized experiments and credible quasi-experimental variation with structural models seems to bering together the best of both approaches of empirical economics:.... This approach is growing in influence.

 

computational constrains remain and to some extent will always be with us.

structural models and particularly dynamic stochastic mdels involve nonlinear estimation, and require numerical methods to solve the model to generate moments for estimation.

 

Estimation of dynamic structural modesl involves nonlinear optimization with respect to the unknoen parameters. However, the key difficulty with this estimation is that we cannot express analytically the functional relationship between the dependent variables and the unknown parameters.

constructing the likelihood function is impossible or computationally intractable for many models.

fitting moments.... The downside of this approach is that it does not use all information in the data, and we do not have an easily implementable way of defining which moments need to be used to ensure identification. One must carefully define what are the key features of the data that will identify the parameters.

 

with small samples, Altonji and Segal (1996) emphasize that the identity matrix (that is, equal weighting) may be the best choice because using hard-to-estimate higher-order moments of the data that constitute the weight matrix may actually introduce substantial bias.

Chernozhukov and Hong (2003) have shown how Markov Chain Monte Carlo can provide estimators that are asymptotically equivalent to minimizing the method-of-moments criterion.

 

the idea of combinig randomized experiments or plausible quasi-experimental variation together with structural economic models can strengthen the value of empirical work substantially. Indeed, researchers should think more ambitiously and use theory to define experiments that need to be run to test and estimate important models.

The trade-off between providing the necessary complexity to be economically meaningful and maintaining transparency is at the heart of good structural modeling.

 

https://pubs.aeaweb.org/doi/pdf/10.1257/jep.31.2.33

ダンナ様はFBI

 「ええとね、そうじゃなくて、キーのプロを探すんだ。日本一腕のいいプロの錠前師 でないと、防犯的なセンスで鍵をつけることができないから」

ああ、頭が痛くなってきた。ややこしいことばかり言ってくるから、英語のリスニングがどんどん上手になるわ。私は平和な日本の一般国民だから、そんな情報事件に巻き込まれたりしないのに。わかったことは、ダーリンが納得のいく安全のための設定が終わるまで、このたぐいのミッションはエンドレスだということだった。

真新しい青畳の香りがする新柔道場スイートホームは、あっという間にできあがった。

人の外見は、その人をかなり正確に表現してしまうって。君は買い物自転車に乗っていても、駅に着いたらビジネスウーマンとしてしゃんとすると言ったけど、どこかであの自転車でバタバタ駅に駆けつける生活の印象が染み付いていくんだよ。・・・プロとして生き残ろうとする女性が、生活に追われるように見えていいのか。

最初の1分間で一つか二つ、ごく簡単な質問でいいと言った。本題に入る前の1分間は、その人個人に集中するのだ、と。・・・世間話ではない。その人しか答えられない質問を投げかけるのだと言った。そのためには、本人の何かに着目する目線が必要だ。細やかな関心を持たないと聞けない質問は、必ず、相手に、私はあなたを知りたいというメッセージとして届くとダーリンは言う。

「心地よいものなんだよね、自分のことを聞かれると。子供のときもそうだったけれど大人になってもそれは変わらない。世界中、同じだよ。・・・日本は無関心に向かって走っているのが気がかりだなあ」

娘の磁力は本当に強くて、いくら一緒にいても飽きることがない。世の中の働く母たちは、この強い磁力とも葛藤しているだろうなあ。だがダーリンは断言する。

自分に投資しなければ、子供にも投資できない。投資は自分に7割、子供に3割だ。自分への投資は必ず子供にも反映するよ。そう信じて働け。

僕が見る限り母親としてのマインド・ボルテージが低いと思う。もちろん娘は絶対だよね。だけど育児以外の仕事の魅力も知っている、というか惹かれているだろ。母親になったら仕事も含めて、子供分野にすべての関心が向くはずだというのは幻想だよ。子供を愛して精一杯育てるのは当たり前だけど、それとキャリアの分野を無理に重ね合わせたら、子供が成長した時に何も手がけるものがなくなる。個性を見ろ。状況の罠に落ちるな。

純正日本人の私は、とくに母親幻想が強いんだなあ、とダーリンの言葉で気づいた。

娘と二人で遺骨の箱をなでながら、「これから、どうする?」と気のない質問をする。彼女は「何か、パパとの思い出になるところへ行こうよ。あのさ、サンフランシスコ湾の沖合にある監獄にいかない?アルカトラズ島」。やっぱりFBIの娘である。変だ。

ダンナ様はFBI (幻冬舎文庫)

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ずっとやりたかったことを、やりなさい。

 強い影響力を持っているのは、社会通念を通して植えつけられた常識だ。しかし、常識を心の中から一層したとしても、家族や教師や友人から得た否定的な思い込みがしつこくつきまとい、放っておけば、やはり足元をすくわれてしまうだろう。ここで私たちがしなければならないのは、それらに直面することなのだ。

創造性を阻まれている私たちは、脚光を浴びている偽のアーティストに敵愾心をいだきやすい。本当に才能があるアーティストには一目置くかもしれないが、自己宣伝の天才には憤りを感じてしまうのだ。

それは単なる妬みではない。停滞した自分自身を正当化するための口実なのだ。

確かに、自分で一歩を踏み出しさえすれば、あなたはもっとうまくできたかもしれない。しかし、恐れのためにその一歩を踏み出せなかったのは自分自身なのだ。

一歩を踏み出すには、自分を肯定することからはじめなければならない。自分を批判する十分の一でも自分をうまく肯定できるようになれば、大きな変化が起こるだろう。

クレイジーメーカーがそれほどまでにわずらわしい存在なら、なぜ私たちは彼らに巻き込まれたりするのだろう?厳しいかもしれないが、答えは簡単だ。私達自身もまた、正気を失っており、自己破壊的になっているからである。

 創造性を阻止されている私たちは、ずっと今のままでいることを願っている。というのも、他人に酷使されることに甘んじている方が、創造的な人生に挑戦するよりはるかにリスクが少ないからだ。ただ、それを素直に認めたくないばかりに私たちは、創造的になったら自分もクレイジーメーカーのような存在になり、周囲の人をわずらわせるのではないかと恐れるのだ。

 

善人の罠

アーティストは何もしないでいる時間をもたなければならない。こうした時間をもつ権利を守るには、勇気や信念、さらには切り替えの能力がいる。

創造のための孤独が確保されないと、私たちの中のアーティストはイライラして怒りをつのらせ、不機嫌になる。

 本来の自分を育もうとせず、一つのところに停滞することには、大きな代償が伴う。なのに多くのアーティストは、もし自分たちが、今本当にしたいことや、ずっとやりたかったことをしたら、友人や家族、配偶者に何が起こるかわからないと気づかい、行動を差し控えているのだ。

創造性を回復する道の途上にいる多くの人たちは、善人を演じることによって自分自身を妨害するケースがひじょうに多い。だが、作り物の美徳には法外な代償が伴う。

誰でも、いい人だと思われたい、人の役に立つ人間でありたい、利他的な人間でありたい、と考える。また、寛大な心を持ち、世の中に尽くしたいと願う。だが、心の底から本当に求めているのは、「放っておかれること」である。それが実現できないと、最後には自分自身を捨ててしまう。

人はみな、自分勝手だと思われたくないばかりに、自分を見失い、自己破壊的になる。この事故殺人は意識的ではなく、潜在的に進行するものなので、私たちはそれになかなか気づけない。

 

アートとは、心の中の創造の源にチューニングを合わせ、そこで聞いたものを「降ろす」行為である。

ほとんどの作家は、詩や文章がインスピレーションによって生まれる瞬間を知っている。私たちはそれを小さな奇跡と考えるが、実際には、それが創造の原点だということに気づいていない。私たちは自分の作品の著者と言うよりも媒介者なのだ。

ミケランジェロは、大理石のかたまりの中にダビデを見出し、開放したと述べたと伝えられている。

「絵画は独自の生命をもっています。私の仕事はそれを引き出すことなのです」とジャクソン・ポロックは語った。

ジャクソン・ポロック - Wikipedia

私たちは訓練を積むことによって、好みの周波数にチューニングを合わせ、自分のアーティスト・チャイルドの声を親のように聞き分ける方法を学ぶのだ。

想像することは決して自然に背く行為でも、わがままな行為でもない。宇宙は創造を歓迎し、手を貸そうと待っている。

 

ティリー・オルセンは、創作者が完璧主義を貫こうとすることを、「鋭利なナイフを振り回す」ような危険なこととみなした。

完璧主義とは、自分を前進させることへの拒絶なのだ。・・・完璧主義にとらわれた人は、過ちを恐れるあまり作品の細部にこだわり、全体を見失う。こうして自分の独創性を、面白みのない不自然な画一性に変えてしまうのだ。

プロセスを楽しもうとせず、絶えず結果を気にしている。

完璧主義者は論理脳と結婚してしまったのだ。完璧主義者の家庭に君臨するのは批評家である。

「絵画は決して終わらない。それは興味深いところで止まるだけだ。」とポール・ガードナーは語った。・・・手放す・・・それが普通の創造のやり方である。

リスクを負うには、自分で自分に押し付けている限界をきっぱり捨てなければならない。・・・言い訳は単なる自己防衛であることが多い。あるいは、臆病ゆえに、そうした言い訳に終止している場合もある。ふつう「自分にはできない」というとき、私たちはじつは、「完璧にできるという保証がない限り、やりたくない」と言っているのである。

創造性を阻まれているアーティストは、無謀にも自分が成功することを期待し、他人からその成功を認められたいと思う。この暗黙の欲求を持っているかぎり、多くのことが私たちの手からすり抜けていく。

やる価値があるものは下手でもやる価値がある、ということを受け入れてしまえば、選択の幅が広がる。完璧にやる必要がないなら、こんなことをやってみたい、というもののリストを掲げてみよう。

リスクを負うこと自体に価値があると言い換えてもいい。リスクを恐れずに未知のものに立ち向かっていけば、全身に力がみなぎり、新たな挑戦に立ち向かう勇気がわいてくる。そうやって自分の枠を広げていくことが、創造の舞台を広げる原動力になるのだ。

 

嫉妬はつねに恐怖を覆い隠す仮面である。自分が欲するものを手に入れられないのではという恐れ、自分にあっていると思いながら怖くて手を伸ばせないものを、他人がやすやすと手に入れていることへのいらだち。そういった感情を覆い隠す仮面なのだ。

 

さまざまな喪失を乗り越えて生き抜いていくことである。希望の喪失、面目の喪失、お金の喪失、自身の喪失・・・。あらゆる種類の喪失を乗り越えて、生きるすべを身につける必要がある。

喪失の苦しみを乗り越えるには、それを受け入れ、分かち合わなければならない。

アーティストを痛めつける批評は、悪意であれ善意であれ、要点を突いていないのにもっともらしく、論理的に反論できない総括的な判断を下そうとするものである。

大学・・・彼らは知的な会話には長けているが、それに頼るあまり、自分自身の創造的な衝動から切り離されている。・・・創造性とは勉強するものではなく、実践するものだということがわかっていないのだ。

大学は、想像する精神を妨げる、はるかに微妙な恐るべき障害を抱えている。・・・明確な敵意なら対処の仕方もあるだろう。しかし、さらに危険でぞっとするのは、教師が学生たちの創造性に関心を示さず、無視していたことだ。

彼らは創造性を伸ばすもっとも基本的な栄養素である「励まし」を与えるのを怠っていたのだ。

才能を開花させようとしているアーティストたちは、知性偏重主義が創造意欲を失わせることを知っていると言いたいのだ。

アーティストと知識人は、種類の違う人間だ。・・・残念なのは、批評する力を磨くのと同じ技術が、アーティストの卵の努力に対して、誤って採用されていたことだった。

豊かな才能を内に秘めている人たちでも、ずうずうしさにかけていると、批評による虐待や無視による栄養不良によって簡単に才能を摘み取られ、才能を発揮できずに終わってしまう。

 

言い訳を並べることによって、私たちは初心者になる面倒臭さから逃れようとするのだ。

「年を取りすぎている」は、恐怖に直面するのを避けようとするとき、必ず使われる逃げ口上である。

私たちが本当に気にしているのは年齢ではない。人のやらないことをして、他人に白い目で見られたくないだけなのだ。

子どもたちは自意識にしばられていない。創造性の流れに入り込めば、私たちも自意識から解放される。

創作意欲の減退を感じている人は、プロセスを楽しめなくなっている場合が多い。私たちはもっぱら技術を習得することや、作品を作ることに注目したがる。このような最終結果への執着は、創造性とは、「してしまったこと」ではなく「していること」の内にある事実をないがしろにする。

作品を作ることは、さらに完成度の高い作品を作るためのステップになると言いたいのだ。

自分が言い訳を言っていないかどうか振り返ってみよう。そして、自分がエゴのためらいを押し切って、新しいことを始める勇気と謙虚さをもてるかどうか自問してみよう。

 

手順を踏むことは、持っていないものに不平をこぼすのではなく、持っているものに取り組むことを意味する。

創造的な人生においては、小さな行動が大きな動きを生み出すのである。

詩人のセオドア・ローザックが書いているように、「私たちはどこに行かなければならないかを、行くことによって知る」。こつこつと手順を踏んでいくと、わざわざ大きな変化を生み出そうとする必要はないことがわかってくる。大きな変化は、小さな変化の積み重ねによって自然に生じるからだ。

 

創造したいのに創造できないことを、私たちはずっと怠惰と呼んできた。これでは、正確さを書くどころか、自分を不当に貶める(おとしめる)ことになるだろう。物事を正確に表現することは、自分への思いやりにもつながるのだ。

創造性を阻まれている人たちは、はた目にはわからないが、大量のエネルギーを使っている。それらのエネルギーは自己嫌悪や公開、嘆き、悲しみ、嫉妬、さらには自分を疑うことに使われる。

 

自己鍛錬はそもそもナルシズムに根ざしている。自分はこんなにも素晴らしいことができるんだと、自分で自分を称賛するのだ。このタイプの人にとっての目的は、何かを作り出したり、成し遂げたりすることではなく、鍛錬すること自体にある。

長時間、創作活動に打ち込むために必要なのは、鍛錬ではなく、熱意である。熱意とは感情の高ぶりではない。創造のプロセスに進んで身を任せ、周囲のすべてのものに創造性が働いていることを受け入れる姿勢を表している。

アートの楽しみが、創作すること自体にあることを思い出そう。旅をすること自体が目的だと言ってもいい。それは、創作に打ち込むとき、時間という場で創造性が働いていることを意味している。その核心にあるのは、遊ぶ楽しさである。

 

多くの人が健康なアーティストになろうとしないのは、傷ついたアーティストでいるほうが同情を集められるからだ。想像することではなく、同情を支えにしているアーティストは、自由に創作できるようになると、恐怖を覚えることさえある。・・・成功者でいるためには、精力的に作品を生み出し続けるリスクを追わなければならず、それよりも、創造性を阻まれた犠牲者でいるほうが楽なのだ。

障害物競走の馬が、障害物の前で怖じ気づき、何回か馬場を回った後に、また跳躍に挑戦するように、少し時間をおいてみるのだ。

アーティストたちの成功は、つねに挫折の上に成り立っている。大切なのは、挫折を避けて通ることではなく、挫折したときに、それを乗り越えて生き残る力なのだ。苦しくなったら、どんなにすぐれたアーティストも苦難のときを乗り越えてきたことを思い出そう。

 

アーティストしての信用が、自分と創造主と作品とにあることを心に刻んでおこう。言い換えれば、私たちは書きたい詩があるから書くのである。それが売れるかどうかは、また別の問題だ。

私たちは、創造せずにいられないものがあるから創造する。アーティストは経済的な利益だけを考えて、自らの方向性を決めることはできない。それが悪いと言っているのではない。けれども、お金の流れに心を奪われすぎると、内なるアーティストは窒息し、傷ついてしまうかもしれない。

自らの創造性を高めたければ、つきあう人を慎重に選ぶことが大切である。あなたの中のアーティストを「あなたのためよ」と称して抑えつけてしまうような人とはつきあわないほうが賢明だろう。友達には、あなたがより創造的になるのを助けてくれる人もいれば、逆に、邪魔をする人もいるのだ。

生き方とアートは切っても切れない関係にある。つまらない人生を送っていると、それが否応なく作品にも反映されるのだ。

アーティストとしての私の自尊心は、作品を作ることによってしか育めない。

アーティストである私は金持ちになる必要はないが、作品を作るための豊かな資金源は必要である。作品を作れないと、私は精神的にも情緒的にも行き詰まり、次第に気分がすさんでいき、落ち込んでしまう。

自身がないからという理由で、自分の夢を捨ててしまうのは、自分自身に責任を持たないということである。創造的に生きるかどうかを決めるのはあなた自身であって、まわりのひとや友人ではないのだ。

アートからビジネスが派生することは少なくない。だが、創造という行為はビジネスのためにやるものではない。・・・どんなに独創的な作品でも、同様なものを作り続ければ、やがて飽きられてしまうのは目に見えている。

いったん成功をおさめると、売らんがために、同じ表現の繰り返しを求められるのだ。しかし、それを受け入れるかどうかは、アーティストの選択にかかっている。

成功したアーティストにとって重要なのは、未来を抵当に入れないことである。

アーティストが創造的であり続けるには、売れ筋だけを手がかけるのではなく、創作する人間として満足のいく仕事も手がけていかなければならないと言っているのである。

重要なのは、自分自身の創造性を磨くための内的な欲求に、どうやってこたえつづけるかなのだ。

 

創造性を回復しつつある人は、良い仕事に恵まれたとき、「人の楽しみにケチをつける」身近な人にそのことを伝えずにはいられなくなる傾向がある。もっとも疑り深い友人に自分の熱意を語ってしまうのだ。

不幸にも、多くの母親は子供の熱意に水を差す役割を果たす。しかも、私たちの周囲には、母親に代わって、足を引っ張ろうとする人が手ぐすねを引いて待ち構えている。要は、彼らに、そんなことをさせないことだ。

口を滑らせないこと。自分の望みを胸のうちに閉まっておき、大切に育てることが必要なのだ。

自分の道をふさぐ障害から逃れたければ、自分の意見を軽々しく明かさず、疑り深い人達の間では沈黙を守り、自分を理解してくれる人を正確に見抜き、その人達だけに自分の考えを述べる術を学ばなければならない。

リストを作ってみたらどうだろう。自分を応援してくれる友人のリストと、自分の足を引っ張ろうとする友人のリストである。後者の友人たちを濡れた毛布と名づけよう。あなたは自分自身を乾いた毛布で包まなければならない。ふわふわした暖かい毛布が必要なのだ。

ずっとやりたかったことを、やりなさい。

ずっとやりたかったことを、やりなさい。

新版 ずっとやりたかったことを、やりなさい。

新版 ずっとやりたかったことを、やりなさい。

JPE SPECIAL 125TH ANNIVERSARY ISSUE: THE PAST, PRESENT, AND FUTURE OF ECONOMICS

Nacy L. Stokey

There is some truth in the old adage that in economics the questions never change, only the answers.

Are the formal models of modern economics only an embellishment of older ideas? They are more than that, for two reasons. First, they clarify exactly what is being asserted providing a more solid base from which further theoretical arguments acn proceed. In addition they provide a guide for empirical work,...

The old adage is only partly correct: the questions get sharper and clearer, even if entirely satisfactory answers remain elusive.

 

Greg Kaplan

Hubbard, Skinner, and Zeldes (1995) and Rosenzweig and Wolpin (1993) illustrate two alternative ways in which structural models of consumption can be disciplined by data and turned into quantitative laboratories;...

Attanasio and Weber (1995) ... illustrate the pitfalls of using aggregate data to test models of heterogeneous households. By aggregating microdata in exactly the way prescribed by theory, they show that there can be large differences between the dynamics of the log of mean consumption (the focus of representative agent models and what is measured in aggregate data) and the dynamics of the mean of log consumption (the focus of heterogeneous agent models and that can be constructed only with household-level data). 

Two JPE-published papers represent some of the best early examples of how to utilize a quantitative structural model of consumption for effective policy analysis.

Hubbard et al. (1995) is a classic example of the power of a calibrated structural model.

Imrohoroglu (1989) ... was motivated by Lucas's (1987) famous costs of business cycles calculation. He had shown that in representative agent economies the welfare costs of business cycles are small both because fluctuations in aggregate income are themselves small and because these fluctuations have only a second-order effect on welfare. It was natural to conjecture that in heterogeneous agent economies with incomplete markets this quantitative conclusion might be overtuned, both because fluctuations in individual income can be substantial and because the presence of liquidity constraints means that for some households these fluctuations have a first-order effect on welfare.

She finds that when aggregate shocks change the extent of unemployment risk faced by households, the welfare cost of business cycles can be four to five times larger than in a corresponding representative agent economy.

Krusell and Smith (1998) wanted to understand how the equilibrium business cycle dynamics of macroeconomic variables in this heterogeneous agent economy compare to those in a corresponding representative agent economy ... If the macroeconomic dynamics of the two economies were not too different, it would provide some justification for the common practice of studying macroeconomics through the lens of a single representative agent.

It is important to remember that their finding of indistinguishability between the aggregate dynamics of the heterogeneous angent and representative agent economies is conceptually different from their finding of approximate aggregation... when the model is modified to better match the empirical distribution of welath, the comovement of consumption and income looks very different from the corresponding representative agent economy.

 

Lars Peter Hansen

Slutsky (1927) and Yule (1927) ... Their vision was to view economic time series as linear responses to current and past independent and identically distributed impulses or shocks.

Frisch pioneered the use of impulse response functions in economic dynamics. His ambition was to provide explicit economic interpretations for how current-period shocks alter economic time series in current and future time periods.

Empirical evidence comes into play because econometricians face uncertainty about the underlying parameters of the rational expectations equilibrium and use data to infer their values.

 

James J. Heckman

Chicago economics emphasized the value of economic models in interpreting and guiding collection of data and making forecasts and constructing policy counterfactuals.

The Chicago apprach was in stark contrast with the prevalent methods used in the labor economics of that time .... This was a largely atheoretical institutionalist approach that focused on thick description, not explanation. It made generalizations to summarize data, but the summaries were largely disconnected from analytical economics and often from each other.

The Chicago approach emphasized the value of price theory in interpreting data.... In an essay on Wesley Chair Mitchell, he crystallized the Chicago approach to scientific economics:

The ultimate goal of science in any field is a theory - an integrated "explanation" of observed phenomena that can be used to make valid predictions about phenomena not yet observed. Many kinds of work can contribute to this ultimate goal and are essential for its attainment: the collection of observations about the phenomena in question; the organization and arrangements of observations and the extraction of empirical generalizations from them; the development of improved methods of measuring or analyzing observations; the formulation of partial or complete theories to integrate existing evidence. (Friedman 1950, 465)

 The interplay between data and theory was the hallmark of the Chicago approach. 

Interpretation of data - understanding the problems being studied and the mechanisms generating them - was a crucial part of policy analysis. ALl of these activities were essential for the scientific analysis of counterfactuals that is the basis for rigorous policy analysis. Both data and theory were taken very seriously. Economic theory was viewed as an engine for analysis and empirical discovery, and not as an end itself. .... Models that were discodant with data were revised and tested on the same and new data.

Only when the standard tools failed would the theory be amended. This approach was in stark contrast to that of the institutionalists who often favored ad hoc generalizations to "let the facts speak for themselves." They typically made up new models one empirical finding at a time and lacked a common core of basic principles that applied across multiple domains.

Stigler's (1961) search theory explained price (and wage dispersion) not as a failure of competitive markets - as had the institutionalists - but as a consequence of costly search. 

The three basic ingredients of Chicago economics were central to the field... (a) stable preferences for agents, (b) agents responding to incentives, and  (c) equilibrium.

Theory is used to interpret data. Data are used to test theory. Understanding the mechanisms producing empirically estimated "effects" is essential for principled counterfactual analysis and for explaining phenomena. It was never enough to say an intervention "worked." It was required that analysts understand the mechanisms producing "the facts," their generality across multiple empirical domains, and their relevance for public policy.

 

 John List

In contrast to other sciences, the experimental approach has not progressed to the point of being the cornerstone of the scientific method in economics just yet, but it has progressed sufficiently to find itself in the center of key debates and is well represented in every major economics journal.

 

economics.uchicago.edu

中田ヤスタカが語る「全業界に言える、理想的なプロに必要な力」

  • プロデュースの場合は、作ってみて「ボツにする」のは基本的にNGなので、新しい技を開発する場所が僕には必要なんですよね。「地均し」ではないけれど、ソロやCapsuleで実験したものを「自分の技」にしてから、プロデュースの場で使うって感じです。きゃりーに関しては、初期のCapsuleでやっていたことをもう一回やってみることもありました。
  • 曲を作るときは、自分のことしか考えていない。できなかった技ができるようになったり、新しい発想が生まれると嬉しい。その技って、最初はまぐれだったり、ミラクルみたいなものなんですけれど、練習していくうちにいつでも使える技になる。楽しいです。
  • 僕の曲をまだ一曲も聞いたことがない人ってすごくたくさんいるのと同じで、人間が不老不死にならない限りは、いつも何かが新しい。だからあんまり気にしなくていいと思っています。
  • リスナーの知識量とか年齢で持つ感受性って誰も矯正できないし、不可侵。だから、「今の時代の人はこういうのを求めてる」という、よくわからない他者を想像して作るのってあんまり意味がないと思います。わからないことは作れない。
  • ――普段はあまり音楽を聴かないと聞きました。>そうですね。今の音楽を聴くと、「自分だったらこうするな」と考えるので、純粋に楽しめなくて。聴くのは、古楽とかオーケストラ以前のすごく古いものとか、民族音楽とか。自分が一生作らなさそうな音楽だと何も考えずに聴けますね。

  • ――じゃあ、どこでインプットをしているんですか?>遊んでいるうちに……。フェスやイベントに出ると、他のDJたちもいる。そういった現場体験で充分なので、音に関しては家に帰ってから聴き直そうとは思いません。

    ――なぜでしょう?>「音源」として聴くとギャップがあるからです。実際の音を参考にするよりも、現場の雰囲気や熱量で感じたイメージだけを吸収したほうがずっと良い。だから「音源」ではなくて、現場の「記憶」が大事かな。

  • 僕は、ハマれるものをいつも探していてるんです。ネット上でも実店舗でもいいんですけど。だから、僕の知らない趣味を全力で勧めてるYouTuberは面白いなと。
  • ――かなり長いキャリアですけれど、幼いときから音楽家になると思っていたのですか?>夢っていうか……「なる」って確信していたから、「プロになったら何しよう?」ってずっと考えていましたね。

  • 誰に頼まれなくてもとりあえず作れる。しかもそれが仕事になることもある。だから音楽は自分に向いているなと思います。
  • 僕、記事でよく見る「今回はこういうのに挑戦しました」という表現あまり好きじゃないんです。挑戦は誰でもできるし、僕がリスナーなら「挑戦」ではなくてアーティストからの「提案」を楽しみたい。本来は、突き抜けた「技」とか「パフォーマンス」に対価が支払われるのがプロだと思うんです。 でも「挑戦」が求められるってことは、音楽自体ではなく、ミュージシャンのいろんな面を見たいという欲求が強いのかもしれませんね。ミュージシャン自身も、自分のスキルじゃなくて「人間としての人気」に頼りすぎている部分はある気がしていて。かっこいい人が何かに挑戦して奮闘する姿は美しいので、わかるんですけれど。
  • 僕的にお勧めしたいプロは「プレゼンがうまくて、自分のやりたいことをやってる人」ですね(笑)。全業界に言えることだと思うんですけど。ちなみに僕は「思っていたものとは違ったけど、良かった」と後になって言われることが多いです(笑)。

  • 例えば、作曲コンペがあったとしたら、僕の曲は選ばれない気がします。最終まで残って「これはいいけど、選ばないでおこう」みたいな感じ。「常にギリギリ選ばれない」音楽が、僕は好きだし作りたいんだと思います。みんなが「1位」と評価するものって、自分が飛び抜けて好きなわけじゃないものだったりするから。

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