競争社会の歩き方 - 自分の「強み」を見つけるには

競争のそれほど激しくないアマチュアレベルなら、一人の強者が全てにおいてトップを独占することができる。しかし、プロレベルの熾烈な競争のもとでは、自分のもっとも得意なものに特化し集中しないかぎりトップを取ることはできない。

競争の促進は、それぞれの長所を見出し、それを活かす方向へと人々を導き、結果として独占を阻止する契機となるということだ。

 

競争のメリットを享受するのは、競争している本人ではなく、競争の結果より良いサービスや商品を手にできる消費者である。競争している当事者には直接的なメリットは少ない。関税撤廃による生産物の品質向上と価格低下というメリットを受けるのは、日本の消費者一人一人である。メリットの総額は、競争のデメリットの総額を上回るので、損をした人に所得補償をしてもお釣りがでる。これが経済学の常識である。

 

激しい競争に身を置けば、自らの強みを発見できる可能性が高まることだ。競争は勝者と敗者を生み、厳しく辛い面もあるが、競争が繰り返された結果、自分が真に活躍できる場を見つけられる確率が高まるのであればそれは喜びとなるはずだ。誰でにでも得手不得手がある。不得意な分野で消耗戦を続けるのは、本人にとっても社会全体にとっても不利益でしかない。

誰が一番優れているか、誰が一番私たちの要求に答えてくれるかあらかじめわからない場合、それを見つけ出すための装置としての役割が競争にはある。・・・ハイエクは競争をそのようにとらえた。

日本の労働市場では、大学卒の高学歴者も競争を避けて保身に回るという傾向がますます強まっている。・・・IT化の進展で、中間層のホワイトカラーの仕事はどんどん少なくなっている。二重の意味で日本人の従来型ホワイトカラーは供給過剰である。人口減少の進む日本の国内市場で、国際競争力の薄れた日本人高学歴層の雇用を支え続けられなくなるのは、時間の問題であろう。

個人も企業も、競争のプレッシャーから自分だけが逃げ切ろうとしていては、社会は衰退するばかりである。

 

チケット転売は、価値を生み出す正当な行為だからだ。チケットが高額であっても、売り買いする人は、その取引でどちらも便益を受けている。

チケットがどのくらいほしいのか、的確に表す一つの指標は、そのチケットを手に入れるために、最大いくらの金額を払ってもいいか、という数字だと経済学者は考える。

本当にチケットがほしいファンに、チケットが行き渡らないのは、チケット転売がない抽選制なのである。

行動経済学・・・多くの人は売り手が需要超過であることを理由に価格を引き上げることをフェアだと考えないのだ。

転売市場での価格は、所有効果のために、供給過小になって価格が高くなりすぎる可能性がある。

抽選によるチケット配分は非効率であることは間違いない。

 

他店価格対抗広告・・・暗黙の共謀

広告の狙いは、ライバル店の価格戦略を変更させることにある。

顧客に対して必要以上に値下げせずに済むよう、ライバル店に対して価格競争をするなというものであり、もし価格競争をしかけたら、お互い損をするように罰を与えるというものなのだ。

 

くまモンの戦略は、キャラクターの使用料を無料にしたという点である。

熊本県の関連商品や宣伝にしか使えないという制限を加えたのである。

二部料金制に近いものである。・・・固定料金と従量料金で成り立っているような価格体系

熊本県の戦略は、熊本の宣伝をするという固定費用を企業に払ってもらって、くまモンのキャラクター使用料という従量料金を無料にしているというものだと解釈できる。

キャラクターを普及させるということと、、熊本県の宣伝をするということを両立させる戦略だ。

現状維持バイアス・・・一度利用すると、そのキャラクターの利用を中止することは案外難しかったりする。

 

 アメリカ、ドイツ、フランスの憲法には、納税が国民の義務だとは書かれていない。

アメリカ合衆国憲法・・・国債の返済、防衛、福祉のために国が徴税する権限をもっていると税の存在理由が明記されている。・・・防衛に代表されるものはいわゆる公共財と呼ばれるものだ。公共財とは、誰かがその費用を負担すれば他の人はそれにタダノリできるので、強制的に税金で費用を徴収しないと過小にしか供給されないタイプの財でである。福祉は所得再分配であり、民間ではうまく機能しない。

民間では成り立たないサービスなので、国が税金をもとに提供する必要があるのだ。

 国が全員加入の貧困保険を強制保険として行っているのが、福祉制度だと解釈することができる。その国営保険料が、税金である。国民の全員加入でないとこうした保険は成り立たないので、支払い義務がある税金を原資として保険制度を組み立てているのである。

 

日本では、土地公有は失敗し、荘園という私有地が発生した。武士という名の開梱地主も発生した。「要するに、競争の原理が、日本の仮想ではつねに作動し続けていたということであり、いかに中国・朝鮮式の先生を輸入してもその原理を圧殺することはできなかったということである」と指摘している。

競争を全て悪として停止せしめた江戸体制時代にあっても、開梱と干拓ばかりは諸藩が競争してそれをやった。たとえば長州藩のごときは三六万九千石高でありながら、江戸初期以来瀬戸内海岸の干拓を続けてきたために幕末にあっては実収百万石といわれた。

 

独占というのは、独占されると価格が高くなること(だけ)が問題なのではなく、独占された市場では財やサービスの質が低下したり、供給量が低下したりすることが問題なのだ。「一組だけしかおらんかったら、絶対にそんな面白くなってない」という一言で独占の弊害を説明するのは流石だ。

 

 経済学的には、金銭的・非金銭的な負担をともなわない謝罪はチープトークと言われ、関係者にもともと利害が一致する部分があるような場合を除いて、相手に信頼されないと考えられている。言葉だけの謝罪そのものが有効ではないはずなのに、有効な場合があるのはどうしてだろうか。

丁寧な謝罪文のほうが、少ない金額でまともな謝罪がないよりも人々は許してくれるのだ。

 

謝罪法(sorry law)

医療事故が起きた場合、ごめんなさいと謝ってもそれが訴訟における証拠とはならない、後で訴訟となっても誤ったことから不利にはならない、という法律だ。

アイムソーリー法が通った州では、医療過誤の訴訟は、19-20%早く和解して、訴訟数自体も16-18%も低下したとのことだ。従って、謝罪するということは、社会的なコストを下げることにつながっているので、経済学的に見ても合理的だといえそうだ。

  

ストレスが高くなり、ストレスホルモンが高い状況が続くと、私たちのリスク回避度が高くなることによって、新しいことに挑戦したり、リスクの大きな投資が抑制されたりする可能性がある。そうであれば、自然災害や経済変動リスクにさらされるということは、技術革新を抑制し、生産性の伸びを小さくしてしまうということだ。

日本人がリスクを取らない傾向があるとすれば、こうした自然環境にも一因があるのかもしれない。

 

 ゴルフで損失といえば、パーを取れなかったことが当てはまる。プロゴルファーは、パーを取れなくなることを極端に嫌うため、パーパットに集中する度合いが、バーディパットに集中する度合いよりも高い。・・・バーディパットの成功率はパーパットの成功率よりも低いことが統計分析で明らかにされているのだ。

 バーディパットでは、パーパットに比べて、ホールまでの距離より長いパットではなく、短いパット(ショート)を打ってしまうというミスをしがちであるということだ。通常、短めのパットを打つというのは、安全策だと考えられている。・・・利得局面ではギャンブルをしたくないけれど、損失局面ではギャンブルをしがちになるという損失回避行動と整合的である。

損失回避傾向は賞金ランクの上位の選手にも下位の選手にも同じように観察されるということだ。

 

自分たちのほうが中高年よりも技術革新に対応できるのに、どうして就職できないのか。

MITのオーターらの研究によれば、米国で増えている仕事は、対人能力、非定型的な分析的能力といったコンピューターが苦手とするものである。中でも、新しいビジネスのアイデアを考えたり、データを解析してビジネスに活かしたりする非定型的で分析的な仕事が増えている。 日本でも同様の傾向が観察されているが、アメリカほどではない。これは、新しい技術に対応するように日本では組織や仕事を変えていないことが一因だろう。

 

法学はすでに存在する法律をどう解釈するか、それをどう世の中に合わせるかという問いに解を見つける学問だ。ただ、法や制度を解釈するだけでなく、新たに設計する場合には、経済学の思考法、発想が必要になる。法律を作るというと、一般の人にはあまり縁がないように思われるかもしれないが、会社の中で新しいルールを作るということなら身近な話だ。

作られたルールが意図したことと違う結果を生んでしまうことはよくあることだ。・・・経済学は一つの制度を作ることによってそれがどういう影響を及ぼすか、を考える学問であり、あらゆる側面でそればかりを考えている。

 

明治25年(1892)以前の東京の地図には、国分寺から西が東京に入ってない。現在、東京都に含まれている三多摩地域は、明治25年以前は神奈川県に属していたのだ。もし、当時のままなら国立市にある一橋大学は、神奈川県の大学になる。一橋大学の全身である東京商科大学はもともと神田の一橋にあったものが関東大震災で被災し、くにたちに移転した。もし国立市が神奈川県の所属だったとすれば、別の場所に移転していたかもしれない。

三多摩地域が東京府に編入された経緯・・・外部性

明治19年に関東地方でこれらが大流行したこと

横浜で発生したこれらは、東京でも大流行した。東京府内だけで死者数は9879人のも上ったという。この時、これら罹患者が出ていた多摩川上流の神奈川県西多摩郡長淵村(現東京都青梅市)で、住民が多摩川に流したというニュースが流れた。それに花瓶に反応したのが宮内省だった。

多摩川の水は、玉川上水を通じて不眠や、当時の御所(赤坂仮御所)の水道として使われていたからだ。宮内省は直ちに内務省に申し入れをし、内務省の指揮命令系統にあった東京府と警視庁に厳重な取締りを指示した。ところが、水源部の三多摩地域は神奈川県に属していたので、東京府の行政権や警察犬は三多摩地域には直接及ばなかった。大事な東京の水源で不衛生なことが生じても、どうにもできなかったのである。

この出来事をきっかけに、明治26年、三多摩地域は東京に編入された。・・・東京府の面積は倍増したそうだ。つまり、環境汚染という外部不経済を、三多摩地域を東京に編入して管轄下に置くことで解決したのだ。

外部性の肝は、金銭的なやり取りがないという点だ。

 

教育にも外部性はある。しかし、教育を受けた人は、そうでない人よりも、所得が高くなることが多いため、教育を受けることは私的利益のためだと多くの人は思っているのではないだろうか。また、教育を受ける理由は、所得を高くするだけではなく、人生をよくするからだ、と言われることが多い。

教育が私的利益だけを高めるためのものなら、税金から個人の教育費を賄う必要はない。教区が義務化されていたり、公的な支援が行われたりするのは、教育に外部性が存在する体。ある人が教育を受けると、その効果は教育を受けていない人にもプラスの効果を与える。例えば、文字を読める人が多くなると、経済取引が効率的になるだけではなく、企業は従業員の訓練も簡単にできる。高度な教育を受けている人なら、新しい技術を導入することも容易で、自らの創意工夫も業務改善のアイデアも、書類にして全社的に広めていくこともできる。さらに専門的な教育を植えている人達が多いと、全く新しい技術開発をすることもできる。そうしたことの恩恵は、教育を受けた本人だけではなく、社会全体の所得を上げることになるので、本人以外の人たちも便益を受けるのだ。

製の外部性に相当するだけ税金で教育費が賄われれば、教育の投資収益率は高くなり、教育投資は社会的に望ましい水準になる。税金から教育費が賄われる理由は、教育の外部性の内部化によって、教育投資を増やすことにある。

 

日本だと、2012年では上位10%は年収580万円以上、上位5%が年収750万円以上、上位1%が年収1270万円以上になる。

格差が拡大しているから金持ちからもっと税金を取るべきだと思っていた人でも、トップ10%で580万円以上だと聞くと、にわかには信じられないかもしれない。

 

日本の具体的な例を挙げると、医師では、一般の名前の出現率と比べ、旧士族の出現率は5倍、旧華族の出現率は3倍ぐらいとなっている。また、出現率の推移を見ても、医師の場合は1965年から66年で5.9倍だったものが、1989年から90年でも4.69倍で、人世代ほど経過してもほとんど下がっていない。この数値を基にどのくらいの確率で親子の相関が残っているかを計算すると、旧士族で0.8、旧華族で0.6と高い相関が残っているのだ。流動性が高く、平等社会であると思われてきた日本は、意外にも明治時代の格差をいまだに残している。私たちは再分配政策の重要性を再認識すべきではないだろうか。