数学者の素願から終活まで

  • 僕が尊敬していた小平さんに,色々お世話にもなった,指導も受けた.指導とい
    うのは数学的にもあったんだけど,“人生アメリカでどういう風に暮らすか” につ
    いて色々指導を受けたこともある.それから伊藤清さんも不思議に丁度 MIT の
    教授をしておられて,僕が Harvard の学生になった頃にいろんなこと教えてもら
    いました.「どんな研究をしたらいいだろう」と言ったら,「とにかく何でも良いから自分に出来そうなことと,それからもう一つは人がやっていないことをやりなさい.そうしたら貴方だって何とかなるだろう」と.その通りだと思いました

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僕の専門は代数幾何なんですけど,僕の教授室に Andr´e Weil という人がやっ
てきて,「是非,標数 0 で終わらないで標数 p までやってくれ」.なんでそんなことを言うんだろうと思って,何か色々屁理屈言っていたけれども,何いってやんでえと思ったんですけど,今思い出そうとして,あれを聞いておけば良かったな,もう一寸耳を傾けておれば良かったな,一寸深い意味があったかも知れないと.

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  • それからまたしばらくすると,Gel’fand というロシヤの教授なんだけど,も
    う晩年にアメリカにやってきて,「僕に会って話したい」,「いいですよ」といって話した.僕は特異点解消というのをやっていた訳だから,「標数 p の特異点の解消,あなたやってください」,「実を言うと,それが結構役に立つのです」と言う訳です.その頃の僕はわざわざ訪問して人の話を聞いている暇はなかったんです.それに Abhyankar がやれば良い, 別にも標数 p の問題を熱心にやっている人はいる.僕の出番ではないと思っていました.だけどこっちがお爺んになった頃にやってみると面白いんですよ.Computer Software を作って根の公式を作成する問題.Hilbert の第 5 問題と関連づける問題.等々と空想が広がります.それは後で説明しますけど,だけど彼が何を言おうとしていたかに僕は何で耳を傾けなかったんだろうと思っています.今は亡くなられた二人の大先生の話を聴いていなかったことを残念に思っています.

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  • 偶然と言うのは,いろんな点で出てきていいもんです.悪いときも有るんだけど.京都大学の学生になってから非常に運が良かったと思うのは,秋月先生が居て,覚えている人が居るかもしれないけど,秋月先生というのは怖いような先生で,ドアが開かないと蹴飛ばして入るような先生でした.だけど学問に対して非常な情熱を持った人です.そして,とにかく人材だったら誰でもというようなところが有って,東京大学から井草準一を京大に呼んで助教授にして,それから名古屋大学から永田雅宜を講師に呼んで,そして自分の直弟子も居たんですけど,それはアメリカに送ったりして,そして何か京都に良い雰囲気を作ろうとしてました
  • あの頃,それまで京都大学の数学教室の,数学科の教授は三人しか居なかった
    のです.だから結構秋月さんは苦労して,岡潔を教授にしようと思って頑張った
    りしたらしい.それで態々岡潔の連続講義などをやってました.僕もその講義を
    聞きました.やっぱり,あの先生は一寸普通の人とは違うところがあって,何か
    教授になれなかったらしい.それでも秋月さん苦労して,奈良女子大学の教授に
    なんとかした訳です.色々問題があったらしいんですけど

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一つ僕言いたいことがあるんだけど,アメリカとかヨーロッパの秀才達というのは,早く,しかも非常に奇抜な発想で新しいもの発見して,それをドンドン発展させて,それが終わったら止めて,又新しいものを発見する.それを三つやったんが天才だという考えが有るんです.それで今でもそうなんだけど,アメリカなんかで早くノーベル賞もらいたいなんか言う人が,何か発見したら New York Timesに電話して,出来たと言う.論文発表するのを待ってはいられない,誰よりも先に,と言うところがある訳です.誰よりも先に,人がビックリすることを,要するに先端の先端をという意識があるのです.これはアメリカの,欧米の秀才達の強さでもあるが欠点となるケースも少なからずだと僕は見て来たのです

 

一番右の背の高いのが,ドイツからお父さんの Emile Artin という数学者に連れられてアメリカにやって来た Michael Artin.自宅ではお父さんは厳しくて,英語を一寸でもしゃべろうとすると,“Deutsch!” 言ってたそうです.その次に居るのは Kleiman というのだけれど,彼はアメリカで生まれた人で,またアメリカ並みの良いとこ持っている.それから三番目に居るのが David Mumford というんだけど,彼はイギリスから若い時にやってきた人です.で,一番左のちっこいのが僕なんですが,日本からやってきた.一番ちっこいけど,一番背が高いじゃなくて一番年上なんです.他の連中は皆若いです.だけどあの連中の才能というのはスゲナー,やっぱり.

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神様というのは平均して才能というものを配るものじゃないなと思いました.とにかくメチャクチャに頭が良い連中でした.David Mumford というのは特に凄いです.それから Michael Artin という人は非常に “数覚”のある人でした.のんびりしているようだけど,何が良いかということをさっと気が付く人なんです.要するに小平先生が昔言っておられたけど,“数覚”というものがあると,鼻で数学の問題を嗅ぐというのです.その “数覚” というものを持った人は,遅くても良い仕事をするよ,とそんなこと言っておられたことあるんです.Michael Artin と言う人は非常な “数覚”のある人でした.それから Kleiman というのも元気な人で一番若かった.

David Mumford というのは,頭が良くて,勘が良くて,そして非常に優しい.この三つ揃いというのは中々ないですよ.横綱でもないですよ,三つ揃っているのは(笑い).とにかく大鵬みたいな人です.こういう人がいたということです.僕より 5 歳か,7 歳か,6 歳年下なんですけど.とにかく色んな事を教えられました.

 

Harvard に居た時,Grothendieck という数学者が来て話をしました.その時,僕は大学院の学生だったんですけど,小平邦彦さんが隣に座っていて,左側にはRaoul Bott.その時 Harvard の教授をしていた人です.まあ僕はまだ学生だった.僕はまだ博士号も取ってない時だけど,3 人が一緒に座っていて,小平さんが Bottの方に向かって,「お前分かるか,Grothendieck が言っていること」,「分からない」.スキームの理論といって,非常に抽象的な話をしていたんです.「何のことか分からないよ」,僕の方に向って「広中,お前は分かるだろう」なんて言って.「いや,分からないよ」って言ってたんです

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行ってみるとビックリしたのですけどね,その時 Rond-Point Bijoux No 5 と言うアドレスだった.Etoile ´ 近くの廃墟となったミューゼアムの一階の半分を借りてそれを研究所と呼んでいるんです.それで所長が一人,モチャン(Motchane)という人で,ルノーからやってきたビジネスマンです.それでも数学科を卒業した人です.それが所長.それから,教授が二人いた.Grothendieck,まだ若かったけど.それと Dieudonn´e という人.Dieudonn´e は,Grothendieck に,こいつは凄い才能を持っていると惚れ込んで,Grothendieck のために研究所を作ろう,そしてモチャンというルノーの重役さんをやってたような人を説き伏せて,とにかく研究所を作った訳です.二人教授が居て,所長が一人いて,研究員が一人いたんです,それは僕なんです(笑い).だけど,贅沢言わなければいくらでも生活出来るんです.この時代の普通の国に生まれた以上,贅沢言わなければ生きていけるんです.暫くすると Deligne ていう若い坊やがやってきて,Grothendieck は「こいつは Hilbert 以来の天才だ」と,こう言うのです.「あっ,そうか」と言って見てたんだけど,Deligne というのは凄いなと思ったのは,Grothendieck が何か説明すると,「ハッー,ハッー,ハッアー」という感じで感心して居るんです,何を言っても「ハッー,ハッー」.僕の家内が,家内といっても家内になろうとしていた人がですね,「Deligne というのはお坊さんみたいな人ね」とか言ってました.

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そして,僕,後に Harvard の教授になって,かつて住んでいた Harvard のすぐ近くの,向いが Harvard というくらい近くに一軒家を買って住むことが出来るようになったんです.その時,Deligne なんかも,その時はもう偉い人だったけど,もう立派な教授になって僕の家に住んでたことあるんです.

 

Thurston というPrinceton の教授になってる人が居るんだけど,彼について Raoul Bott が Michigan 大学に居た頃,彼の入学のテストに関して.Thurston を合格させるか,させないか,色々と議論になったらしい.それは,問題を出しても,彼は絵ばかり描いているって言うんだ.式を全然書かないから本当に分かっているのか,分かっていないのか,分からないって.

彼は視覚的な独特の才能を持ってるんですね.だから,それはそれで良いんです.それで Princeton 大学の教授にもなった.そういう人も居る訳です.見てどうしたら良いか分かる人というのは,中々そういう人でないと出来ないです.もっともっと複雑な物は幾らでも有るんです.この絵は,人の絵を借りてるんで,後で怒られるかも知れない.僕にはこんな絵描けない.だけど,幾何は可視的な要素があってヒントを得るにはいいんです.図形とか何かです.

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チャイコフスキーは最後に第 5 番シンフォニー書いた時,あんまりあれやこれや入っていて,技術的にも非常に複雑なところもあるんだけど,物凄く美しいところも,そうでもないところもあるんだけど,当初はあんまり人気がよくなかったという小文を読んだことがあります.だけどチャイコフスキーはその作曲を終わった時に,嬉しくて涙を流したというんです.

こんなこと経験したくないですか,死ぬ前に.これは誰にということではなくて,自分が自分の仕事で嬉しくて涙を出すという経験をしたいと思わないですか.そんなことは詰まらないというんだったらそれもその生き方で結構ですけど,その人の好みですから.僕にどうのこうのは言う資格はないので言いませんけど,僕はその方が良いと思うんです.僕はそうします.棺桶にはいるときに,涙出してほほえむかも知れないです.

 

 

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https://www.math.kyoto-u.ac.jp/alumni/bulletin1/hironaka.pdf

 

 

 

 

ホ・ジュニ教授の人生はハーバード大学広中平祐名誉教授(91)がソウル大学で行った数学の講義を受講したことで変わった。1970年にフィールズ賞を受賞した学者の講義は数学専攻者でさえ放棄するほどその内容は難しかったが、当時物理学を専攻していたホ教授は最後まで聞いた。ホ教授は「専攻は違ったが広中教授が語った例えを幾つか理解するだけで十分と考えた」「後からもし科学分野のジャーナリストになれば広中教授にインタビューしたいとも思った」と語る。

広中平祐教授との出会いで数学に目覚めたホ・ジュニ教授(朝鮮日報日本語版) - Yahoo!ニュース

プリンストン大学のホ・ジュニ教授が、韓国人として初めて「数学界のノーベル賞」と呼ばれるフィールズ賞を受賞した。国際数学連合(IMU)が5日、発表した。

ホ教授は意外にも、幼いころは数学や算数の才能がないと言われて育ったが、大学に入ると数学の世界に飛び込んだ。きっかけは、同じくフィールズ賞の受賞者である日本の広中平祐教授がソウル大で数学の講義を行ったことだった。ホ教授はその講義を聴講すると、広中教授のアドバイスを受けて数学分野で大学院に進学し、米国に留学した。ホ教授は「私のように、好きなことを見つけるのに時間がかかることもある。そのことを皆さんも心に留めておいてほしい」と話した。

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