宇沢先生が最初に持たれた講義の題目は「経済変動論」でした。黒板の前に立ち現れると、いきなり消費者選好に関する新古典派の公理系について解説を始められたのには面食らいました。苦笑交じりのどよめきが教室に起こりました。幸い、消費者選好の遷移率や連続性は第一回の講義で無事に卒業できましたが、その後、動学的な時間選好、資本の計測問題、投資の調整費用、動学的市場均衡、最適成長理論と、先生の講義が佳境に入っていくに連れて、教室の中の学生の数は放射性物質の半減期の法則に従うように減っていき、学期の最後には数えるほどしか残っていませんでした。
アメリカの大学院に入るにはTOEFLでの高得点が必要ですが、私の成績は本当にひどく、MITに入った後に入試担当のエッカウス教授から、お前の英語の成績は乱数解答と統計的には変わらなかったよと、からかわれました。
(サミュエルソンの)研究助手の前任者はロバート・マートンでしたが、彼がMITのビジネス・スクールの助教授になったので、私に職が回ってきたのです。
スティグリッツがエールに来年来ないかと誘うのです。・・・エール大学の経済学部は今、学生の要求でマルクス経済学の講座を作らなければならない。宇沢から日本ではマルクス経済学が盛んだということを聞いている。お前は日本人だから、マルクス経済学を教えられるはずだ。どうだ、この講座の助教授にならないか。マルクス経済学に関する講義を一つすれば、あとは自分の好きなことを教えればいい。イエスなら、すぐ手配を始めるというのです。同乗していたマートンは、「エールからのおファーだぜ、カツ、こんないいチャンスはあまりない。なんでもいいから、イエスと言え」と囃し立てるのです。・・・信じていないマルクス経済学を教えるのは、いくら就職のためとはいえ、嫌でした。
(バークレーで)研究室をスペイン人の数理経済学者アンドレウ・マスコレルと共有したことは、幸運でした。・・・バルセロナ大学では経済学を専攻していたが、フランコ政権がリベラルな教育を抑圧しており、何しろまだスコラ哲学が幅を利かせていた、だから、大学では何も学ばなかった、アメリカについた時には、微積分も知らなかった、というのです。それが、大学院にいる間に高等数学を習得し、最先端の数学を駆使できる数理経済学者になったのだから、驚きです。
アメリカ社会の競争の本当の厳しさをよく知らなかったのです。一度、学界において没落が始まると、没落の速度は不均衡累積過程的に加速していくのです。それまでいろいろな大学から受けていたセミナーの招待も、いつの間にか来なくなっていました。
アメリカから日本の国土に足を踏み入れた時、学界の中心から離れてしまったという没落感と同時に、大きな解放感も味わいました。それは、自分の母語である日本語で、まさに四六時中思考できるという解放感でした。
私がセミナーをしている時、最前列に、同じく招待されたミネソタ大学のエドワード・プレスコット教授が陣取っていました。新古典派マクロ経済理論の最も過激なヴァージョンであるリアルビジネスサイクル(実物景気循環)論を創始したことで有名です。セミナーの途中で、その彼が、突然「お前のモデルはパレート最適性を満たしているのか」という質問をしました。私は「いや、そうではない。企業間の模倣を明示的に組み入れているので、パレート最適ではあり得ない」と答えました。するとプイと横を向き、それ以降、私の話を聞かずに、他の人の論文に目を通し始めました。そして、しばらくすると部屋から出て行ってしまいました。