経済と人間の旅

 
 
  • 哲学者の出隆氏が二十六年、東大教授をやめて共産党から東京都知事選挙に立候補したとき、一高から東大に一緒に入った私の仲間の何人かが選挙を応援に行った。数学科にいた二人の友人は占領軍を誹謗した容疑で逮捕され、数カ月間も拘留された。
  • そうした環境にあって、私もいくつかのマルクス主義経済学の勉強会に入っていた。最も活発だったのがその友人を中心にした勉強会だった。しかし、私はどうしてもマルクス主義経済学の本質が理解できず悩んでいた。特にスターリンの『言語学』が難解で何回読んでも分からない。その友人は私にこんな言葉を放った。「宇沢さん程度のマルクス経済学の理解では、とても共産党の入党試験はうかりませんよ」
  • ショックだった。しかし同時に、経済的混乱が続き、国民の多くが飢えと貧困に直面している時に、研究生という身分に安穏として、数学のような、ある意味で貴族的ともいえる学問をやっていて良いのだろうかという疑問がわき上がってきた。たまたま読んだ河上肇の『貧乏物語』 にも感化され、経済学に本気で取り組まなければならないと固く決心した。
  • 私はその時、彌永先生に代数的整数論を学ぶ一方、末綱恕一先生のところで数学基礎論を勉強していた。研究生をやめたいと切り出すと、お二方とも首を縦に振らない。それでとうとう、「日本の社会がこれだけ混乱しているときに、ひとり数学を勉強しているのは人間として苦痛です」と言ってしまった。
  • 彌永先生は肩を落とし、「そこまで思い詰めているのなら、仕方がありません」とやめるのを認めてくださった。
  • そして、文部省の統計数理研究所を紹介してくださった。しかし一年ほどでやめ、ある生命保険会社にアクチュアリー(保険統計数理士)の見習として入社した。アクチュアリーは保険加入者から支払いの請求があった場合、会社全体として最小限どの程度の資金を準備しておけば良いかを計算するのが仕事である。ある意味で、保険会社経営の根幹にかかわる仕事だった。
  • 見習とはいえ、アクチュアリーとして入社したのだから、経営のからくりは分かる。賃上げ問題をめぐって、会社と組合がなれ合っているのがよく分かった。それを糾弾したら、組合執行部は全員が辞任、私が役員に選ばれてしまった。私は会社をやめるしかなくなった。
  • 東大・数学教室の研究生をやめ、一人で経済学の勉強を始めてしばらくたったころ、小田急線の電車の中で、後に大阪大学教授になる稲田献一さんにばったり出会った。私の顔を見るなり、「おめえ、経済学やってんだってな」と声をかけられた。私が経済学を勉強しているのを知っていたのだ。
  • 稲田さんは一高ラグビー部の先輩で、名キャプテンと言われた。一高ではすれ違い私と同じようにラグビー部から東大数学科に進み、卒業後しばらくして経済学に転じた。そのころは都立大の助手をしていた。「おれが良い先生を紹介してやる」と教えてくれたのが東大経済学部の助教授、古谷弘先生だった。
  • 家主はアン・シムズという女性で、物静かな品のいい人だった。十歳くらいの男の子がいた。ある日、シムズさんと雑談をしていて私が大学で経済学を研究していると言うと、「私の父も経済学者だったのよ。 ソースティン・ヴェブレンというんだけど」と言った。私たちはびっくりしてしまった。ヴェブレンは二十世紀を代表する経済学者の一人で、私が以前から尊敬する人物だった。思想的な深さから言えばケインズ以上ではないだろうか。ノルウェー移民の子で苦労して育った。そういう親近感もあって、ヴェブレンが好きであった。その家はヴェブレンがスタンフォードにいた時に住んだ家だったのである。
  • 生たちを呼ぶ費用は全部、「研究費」として認めてもらった。大学の先生たちに
    これはと思う学生を推薦してもらった。最初の年だと思うが応募を締め切ったら、スタンフォードの教え子で当時MIT(マサチューセッツ工科大学)の助教授だった人から、自分のところにいるイタリア人の学生夫妻が参加したがっていると手紙が来た。
  • 手紙の最後に「ヒズ・ワイフ・イズ・ビューティフル」とあったので呼ぶことにした。エヴァという名のソフィア・ローレンそっくりの美女だった。エヴァはイタリアのミラノ生まれでサミュエルソン教授のところで「法と経済」を勉強していた。 お父さんはレジスタンス運動の指導者だったが、エヴァが幼いころ殺されたという。 お母さんは作家で社会主義者だった。 おじさんにハーシュマンというMITの教授がおり、私の知り合いだった。エヴァは優れた才能を持つ経済学者だった。セミナーには毎年、すばらしい学生が来た。やはり最初の年だったが、2001年度のノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツジョージ・アカロフの二人が参加した。MITの学生スティグリッツはそのころから、正義感の強い青年だった。
  • エヴァには後日談がある。エヴァはそのときのイタリア人学生と離婚した。セミナーの仲間が尽力し、ニュー ハンプシャーアカロフの別荘で二人を説得したという。その後、セミナーに来ていた中に好きな人ができた。インド人の経済学者で、MITで学位を取り、デリー大学の教授になった。ところが、彼女は彼とも別れ、デリー大学の同僚と一緒になってしまった。
  • それから十数年して、コロンビアのボゴタで国際計量経済学会が開かれたとき、頼まれて記念講演に行ったが、その時会長を務めていたのが、エヴァの三人目の夫であって、帰りの飛行機でその彼と隣り合わせた。彼は私を見るなり、「エヴァががんで亡くなった」と言った。まだ四十歳にいってなかったはずである。映画の恋多きヒロインのような人生だった。
 
  • 特に60年代の終わりごろから深刻化したインフレーションは、分配は社会的公正という観点から行われると考えていた人々の幻想を無残にも打ち砕いた。そして、自分自身あるいは自分の属している集団の利益を最大化するために、既得権益を声高に主張する風潮が広まった。交渉力を通じて力による分配が政治的に強行されていくようになった。
  • 経済学はこれら最も緊張度の高い現実の問題を回避し、現実とは全く無縁の抽象的な世界で形式論理だけを追うか、特定の産業あるいは政策的な立場を弁護する議論ばかりが横行する世界となった。経済学の第二の危機とはまさに、思想の問題であり経済学者の問題であった。
  • ロビンソンはしばしば日本を訪れた。来ると必ずわが家に泊まった。以前の家には古い離れがあり、 ゼミの学生たちが「迎館」と呼んでいた。彼女はそこが気に入っていた。
  • 彼女はきれいですぐれた頭脳を持ち、威厳もあった。女王のように行動していたからフェミニストの元祖のようなところがあった。男性とは徹底的に戦うが、私の家内や娘にはやさしいおばあさんだった。
 
S・ボウルズー研究会二人で短パン
  • 東大の経済学部長をしている時、米国からサミュエル・ボウルズを呼んで京都で研究会を開いたことがある。1980年代の初めだった。そのころ、私は東京の山手線の中は、自動車はもちろん電車にも乗らず、どこへ行くにも走った。いつもリュックに着替えを入れ、必要があればその場で着替える。
  • その日は夏の暑い日で、仕事を終えていつものように本郷の大学から東京駅まで走り、新幹線に飛び乗った。着替えようと思ってリュックを開けてみたら、背広もシャツも入っていない。短パンにランニングシャツでは新幹線の冷房が我慢できないので、新聞紙を体にかけて京都まで行った。
  • 京都駅からボウルズが宿泊しているホテルまでまた走ったが、ロビーにはボウルズはじめ参加者がすでに集まっていた。 ボウルズは私を見て、「日本では社会主義者はそういう格好をしているのか」と言うなり、自分の音屋に戻って私と同じような格好をして出てきた。そんな格好で三日間の研究集会に参加したが、立派な料亭で食事をした時が一番困った。
  • 実はその時、私はボウルズにすまないという気持ちでいっぱいだった。彼は初志を曲げず、自分の信念を貫いて闘い続けているのに、私は学部長という俗職にあって、自らの信念に反することばかりやっていた。

 

合理的期待形成仮説
  • 1970年代の経済学の流れを一言で表現すれば、ケインズ経済学から新古典派経済学への転進と言うことができる。この流れのなか で経済理論という観点からもっとも重要な役割を果たしたのは、合理的期待形成仮説(Rational Expectations Hypothesis)の経済学である。
  • 合理的期待形成仮説というのはもともと1961年、ジョン・ミュースが導入した考え方である。ミュースは豚肉市場のように、生産者が将来の市場の条件を予想しながら生産計画を立てなければならない状況を、合理的な期待という概念を用いて処理しようとした。ミュースの考え方は1972年、ルーカスによって、その論文「期待と貨幣の中立性」のなかでマクロ経済学の問題に応用され、マネタリズム的な命題を「証明」するために用いられた。これを契機として、70年代を通じて合理的期待形成仮説があたかも悪疫の流行のような勢いで、とくに若い経済学者の間で広まっていった。1980年にはアメリカの大学での経済理論の学位論文のうち、じつに90%がなんらかの形で合理的期待形成仮説とかかわりをもつと推定されている。
  • 合理的期待形成仮説というのは、市場経済を構成する各経済主体が、将来の市場の条件についてくわしくかつ正確な知識をもち、とくに市場価格の客観的確率分布を具体的に熟知し、そのうえで自らにとってもっとも有利な行動を計算し、選択することができるという仮定である。そして市場は常に均衡状態にあり、他の人々の行動もすべて合理的であると各人が考えて行動しているという前提の下で、市場経済における経済循環のメカニズムを解明しようとするものである。ルーカスはこの仮説を前提とした理論モデルをつくって貨幣の中立性を証明した。
  • さらに進んで、たとえばロバート・バローは合理的期待形成仮説を使って、国債の純資産額はゼロとなって、国債残高がどのように大きくなっても、経済循環のプロセスにはなんの影響をも及ぼさないという結論を出した。民間の経済主体がすべて政府のとる政策の結果を読み込んで、合理的な行動選択をするからだというのである。
  • 合理的期待形成仮説の下では、普通の意味でのケインズ的な財政・金融政策も、事前にそれが予想されるものであるかぎり、すべて民間の経済主体の合理的な行動によって相殺されてしまって、なんら影響を及ぼすことがないという結論も導きだされる。合理的期待形成仮説はこのように、マネタリスト的な結論を導きだすためにしばしば用いられたが、この仮説のもつ意味について必ずしも十分な検討がなされなかった。この仮説は、各経済主体が市場の諸条件、経済の構造的要因について正確な知識と情報をもっているということを前提とするが、この前提条件は分権性という、市場制度の存在自体にかかわる基本的な要請と矛盾するものである。
  • 同じような特徴は合理主義経済学にもみられる。犯罪の経済学、結婚の経済学、さらに浮気の経済学という珍種も出現したのが1970年代であった。浮気の経済学というのは、ゲイリー・ベッカーの「時間を通じての時間配分の理論」を適用して、一日のうち何時間浮気のために時間を割いたとき効用が最大になるかということを、特異なモデル設定の下で論じようとするものである。この論文は1978年、『ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー』に発表された。かつてはソー スティン・ヴェブレンも編集に携わっていたことのある由緒ある雑誌にこのような論文がのること自体、70年代におけるアメリカの経済学のあり方を象徴的に表すものはないように思われる。

 

学校教育の経済的意味
  • レオン・ワルラス新古典派経済学の始祖といわれる経済学者だが、彼は若いとき、作家を志していた。今からかれこれ三十年も前になるが、ワルラスが若いときに書いたという短編小説の草稿が発見されたことがある。その小説は、次のような内容のものだ。ある若者(多分、ワルラス自身のことだろう)が一人の女性に恋して、求婚するかどうか迷っていた。その若者はそこで結婚したときに得られるであろう効用を事細かにリスト・アップし、他方、結婚したときに掛かる費用を、心理的なものまで含めてくわしく計算するわけである。そして、結婚したときにかかる費用の方が、結婚したときに得られる効用より大きいことを知って、求婚するのを断念するという筋である。ワルラスは結局、この草稿の出来栄えをみて、作家としての才能のないことを自ら悟って、経済学者への道を志すことになったといわれている。
  • ベッカーの教育経済学は、このような考え方を学校教育の問題にそのまま適用するものである。一人ひとりの子どもが学校教育を受けるかどうか決めるのに、学校を卒業したとしたときに、一生を通じてどれだけ所得が増えるかということと、学校教育を受けるためにどれだけ費用がかかるかを比較して選択するという考え方だ。ベッカーは、学校教育の経済的意味について、詳細な理論的、実証的分析を展開し、また学校教育の経済的費用についても、たんに授業料などの直接的費用だけでなく、学校教育を受けないで働いたときに得られる、いわゆる機会所得も考慮に入れて周到な分析をおこなっているが、その基本的考え方は同じである。
  • フリードマンは、各経済主体は、すべての経済行為について、自らの主観的効用を最大にするように選択するという前提の下に議論を進めている。そして、すべての希少資源に対して、私的所有ないしは私的管理の原則が貫かれ、完全競争的な市場を通じて、希少資源の配分と所得の分配が行なわれるときに、「最適」な状態が実現することを強調した。ベッカーの教育経済学も、経済体制のあり方にかんするフリードマンの考え方をそのまま踏襲し、希少資源の私有制の下における分権的市場経済制度を想定して考えを進めようとするものである。
  • これに対して、学校教育を社会的共通資本の一つの構成要素と考えるとき、教育の本来の目的が達成されるように、教育にかかわる専門家たちが、その職業的規範にしたがって最良の教育を行うように努力することが要請され、そのときに生じる財政的コストは何らかの形で社会的に負担しようということになるわけである。このことは、社会的共通資本一般に適用されるのである。