升田さんがGHQに出向いたとき、出された洋酒のナポレオン (ブランデー) に「こんな冬が来ると負けるようなものが飲めるか」とケチをつけ、当時の将棋界における第一人者である木村義雄さんの話が出ると「木村さんは海軍学校などで講演をしていた。だから日本は戦争に負けたんだ。俺が講演していたら勝っていたぞ。だから木村さんはあんたらにとって恩人だな」などと、まさにいいたい放題。この豪快さが多くの升田ファンを魅了したのですが、それは日本人に限ったことではなかったでしょう。
1987年、『スポーツ・イラストレイテッド』誌がひいきの野球チーム、クリーブランド・インディアンスに表紙を飾らせ、ワールドシリーズを制覇するだろうと派手に書き上げた時だった。「ぼくはその通り、インディアンスは長年くさってたけど今年はワールド・シリーズで勝つんだと思ったよ」。だがその年、インディアンスはメジャーリーグ最低の記録でシーズンを終えた。なぜそうなったのか?「活躍すると書かれていた選手の成績がのきなみ悪かった」とモーリーは当時を思い出す。「そのときぼくは専門家なんて実は何もわかっていないんじゃないかと思ったんだ」
モーリーからすると、コンサルタントの仕事の大半は、たとえ確実ではないことでも、絶対確実だというふりをすることである。マッキンゼーの就職面接を受けたとき、彼は自分の意見に自信を持っていないと指摘された。「それは本当に自信がないからだと言ったんだ。しかし彼らに言わせると、『自分たちは顧客に年間50万ドルも支払っている。だから自分の言うことに自信を持たないといけない』となるんだ」
彼を雇ったコンサルティング会社は最初から最後まで、自身を表に出すよう言い続けたが、彼にとってそれは詐欺に近かった。たとえば顧客向けに原油価格を予測しろと言われる。「そして僕らは顧客のところに行って、原油価格を予想できますよと告げるんだ。でも原油価格を予測できるやつなんていない。まったくナンセンスだよ」
「確証バイアスの何がたちが悪いって、それが起きているとは気づかないことだよ」と彼は言う。スカウトはある選手についての意見を固めると、それからその意見の根拠となる証拠を集めてしまう。「いまに始まったことではない」とモーリー。「そして選手についてはいつものことだ。ある選手が気に入らなければ、ポジションがないと言う。もし気に入れば、どこのポジションでもできると言う。気に入った選手は、その身体能力を別の強い選手でたとえる。気に入らない選手は低迷する選手でたとえる」
同じ人種での例えを禁止することだった。『ある選手別の選手にたとえたい時は、人種の違う選手にたとえる』ということだ。たとえばその選手がアフリカ系アメリカ人で、『彼はナントカみたいなんですよ』と言いたいとき、そのナントカはアジア人かヒスパニック、あるいはイヌイットとか、黒人以外の選手でないといけない。頭の中で人種の線を越えなければいけないとなると、おもしろいことが起こる。似ているところを見るのをやめてしまうんだ。彼らの頭が、その線を飛び越えるのを拒否する。きっぱりと見なくなるんだ」
害とはこれだ。非常に有能なNBAプレイヤーが、単に専門家が向いてないとレッテルを貼ったために、本格的に NBA でプレーするチャンスをもらえないのだ。他にいったい何人のジェレミー・リンがいるだろう。
それは一つのパターンの始まりだった。気分が盛り上がって、あるアイデアや大きな希望に飛びつくが、結局はがっかりしてやめてしまう。「私はずっと、アイデアというのは一山いくらというものだと感じている」と彼(ダニエル・カーネマン)は言う。「一つがうまくいかなければ、無理してそれを続けることはない。別のものを見つければいいんだ」
ヘブライ大学に心理学部ができるというんだ・・・入学を許可された二十人のうち十九人が博士号を取得した。・・・彼の名はエイモス・トベルスキー。彼が何を言ったか、アムノン(・ラポポート)は正確には思い出せない。ただどう感じたかははっきりと思い出せる。「私はこの男ほど頭は良くない。それだけはすぐ理解した」
エイモス「あなたの経済モデルはどれも、人々は頭が良くて合理的だという前提で作られている。それなのにあなたのまわりにいる人はみんなばかなんですね」「なあ、マレー(・ゲルマン)、世界には君が自分と同等だと思えるほど頭のいい人間は一人もいないよ」
彼は物理学者ではなくて心理学者だと告げた。「それはありえない」と、その物理学者は言った。「彼はあそこにいた物理学者の中で一番頭がよかったんだ」
ミシガン大学のディック・ニスベット は、エイモスに会ったあと、たった一行の知能テストをつくった。「自分よりエイモスのほうが頭がいいとすぐ分かる人ほど知能が高い。」
エイモスは、人はちょっとした決まりの悪さを避けるために、あまりにも大きな代償を払っていると思っていた。
哲学でぼくらができることはもうない。プラトンが多くの問題を解決しすぎたんだ、この分野では大きな仕事は出来ない。頭のいい連中がたくさん集まっているのに、もうほとんど問題は残っていないし、答えの出ない問題ばかりだ
哲学の厄介なところは、科学の原則で動かないところだと、エイモスは思っていた。哲学覇者は人間の本質についての自らの理論を、標本数一つ、つまり自分自身で検証する。心理学はそれと比べれば科学的だと思えた。心理学者は自分で考えたどんな理論も、人間全体を代表していると思える標本を使って検証する。その理論は他人が検証、再現、反証することもできる。真実を発見すれば、それが定説となることもある。
心理学で扱う大半のことについて、エイモスはほとんど興味を持てなかった。幼児心理学、臨床心理学、社会心理学の授業を受けて、自分が選んだ分野の大部分は無視して差し支えないと判断した。
ウォード・エドワーズが書いた『意思決定の理論』・・・コレなどは経済学者の予測であり、心理学者が検証できそうだとエドワーズが考えた例だ。つまり、現実の人間は推移的なのか。
ミシガン大学では、心理学部博士課程の学生は2つの言語でテストに合格しなければならなかった。・・・エイモスは一つ目の言語として数学を選び、・・・二つ目の言語として、彼はフランス語を選んだ。・・・本は学生が選び、翻訳する部分は試験管が選ぶ。エイモスは図書館に行って、ほぼ数式しか書かれていない、フランスの数学の教科書を見つけ出した。
「エイモスの科学のあり方は、少しずつ積み上げていくというものではなかった」とリッチ・ゴンザレス・・・「一気に飛躍して進む。既存の理論的枠組みを見つけ、その一般命題を見つける。そしてそれをぶち壊すんだ。彼自身も否定的なスタイルで科学をしていると思っていた。実際、彼は否定的という言葉をよく使った。」それがエイモスのやり方だった。他人の間違いを指摘してやり直す。そしてそのうちに、他にも間違いがあったことがわかるのだ。
ああ、ダニエル・カーネマンと比べたらだめだ。他の教師がかわいそうだ。ダニエル・カーネマンという教師のカテゴリーがあるんだ。普通の教師をカーネマンと比べてはいけない。他の人と比べて、いいとか悪いとかいうのはいい。でもカーネマンとはダメだ。
自分も思考に間違いを見つけたときはいつも、前に進み新たな発見をしているという感覚がある。
教育とは、知らないことにぶつかった時に何をすればいいか知っていることだと、以前誰かが言っていた・・・ダニエルはその考えを信じて、実践していた。
ダニエルのような非数理心理学者たちは、数理心理学は心理学への関心の無さを数学能力でカモフラージュしている意味のない研究だと、腹の中で思っていた。一方、数理心理学者たちは、非数理心理学者は頭が足りないので、自分たちの主張の重要性を理解できないのだと考えていた。
ロバート・オーマンに、エイモスについて覚えていることを尋ねると、・・・「彼は『それは考えもしなかったな』と言ったんだ。それが記憶に残っているのは、エイモスが考えていないことなんて、あまりなかったからだ」
エイモスにとって理論とは、心のポケットやブリーフケースのようなもので、とっておきたいアイデアを置いておく場所だった。もっと良い理論(実際に起きることをより正確に予測できる理論)と交換するまでは放り出したりしない。理論は知識を整理し、より正確な予測を可能にするのだ。
社会科学で信じられていた理論は、人間は合理的であるということだった。それはつまり、少なくともまともな直観的統計学者だということだ。新しい情報の意味を読み解き、確率の判断をうまくできる。もちろん間違えることはあるが、その間違いは感情の産物であり、感情は予想がつかないので、無視しても差し支えない、と。
ダニエルのオフィスはあまりに汚くて何も見つけられません。エイモスのオフィスでも何も見つけられませんでしたが、それは何もなかったからです。
ある年の鉢年生全体のIQの平均は百・・・50人の生徒を無作為に抽出・・・最初にテストした子のIQは百五十でした。この標本全体のIQの平均はいくつと推測できるでしょうか。・・・知識を持つ科学者(実験心理学者)も同じ間違いをしやすい・・・平均は百と推測することが多かった。彼らは最初に見せられた高いIQは外れ値であり、低い方の外れ値で相殺できると考えたのだ。コインの表が出れば、次は裏と考えるのと同じだ。しかし、ベイズの理論で計算すると、正解は百一である。
「無作為抽出に対する人間の直感は、少数の法則を満たしているようだ。それは大数の法則が、少ない数にも当てはまると考えてしまうことである」
例えば、鼻の長い人は嘘をつきやすい。もしこれが一つの標本では正しい、もう一つの標本では誤りという結果が出たら、学生はどうするべきだろうか。ダニエルとエイモスがプロの心理学者に、回答選択方式で質問した。選択肢の内三つは、標本を大きくするか、少なくとももっと理論を練るという要素が含まれていた。しかし心理学者達が圧倒的に支持したのは四つ目の選択肢だった。それは「それら二つの集団で違いが出た理由を見つける」だった。つまり、・・・逆の結果が出たことを正当化するべきだということだ。心理学者は少数の標本を信頼しきっているため、どちらの集団であれ、そこから引き出された結果はほぼ正しいと考える。その2つが互いに矛盾しているとしてもである。・・・「結果が矛盾しているのは、標本にばらつきがあるからだと考えることはめったにない。それはどんな欠陥についても、原因となる説明を見つけるからだ」「そのため標本のばらつきが影響していることに気づくことはほとんどない」
エイモスだけが、こう付け加えている。「エドワーズは、人は確率論的データから十分な情報や確実性を引出すことができないと論じている。彼はこの性質を保守性と呼んだ。しかし人間の反応は、とても保守性という言葉では説明できない。むしろ代表性仮説に合致していて、データに含まれている以上の確実性を、データから読み取っているのだ」
デイブ・クランツ「彼らの論文は天才的だった・・・統計学は確率論的な状況をどう考えるべきかについての学問だが、人がそれを実際にどう行っているかまでは関知しない。彼らの実験の被験者はみんな統計学をよく知っていた。それなのに間違えたんだ!参加者が間違えた問題は、私も間違えそうな気がする」
人の「直感的な予測を支配しているのは、世界についての一貫した間違った見方である」・・・もし一流の社会科学者が考えていることや、経済学的理論が前提としていることを、私達の頭がやっていないとしたら、それはいったい何をやっているというのだろう?
人間はばかだということではない。可能性を判断する時に使っているあるルール(自分の記憶から簡単に思い出せることほど、起こる可能性が高い)に従えば、たいていはうまくいくのだ。しかし、正確な判断に必要な証拠がすぐに思い出せないような状況では、間違いが起こる。「その結果、利用可能性ヒューリスティックによって、系統的なバイアスが生じる」と、ダニエルとエイモスは書いている。人間の判断を歪めるのは、強い記憶に刻まれることなのだ。
あれは経済人についての心理学理論だった。わたしは思ったね。これ以上のものがあるかって。どうして人が不合理なことや間違いをするのか、その理由がここにある。みんな人間の頭の内部の働きから来ているんだ。
「科学の進歩はほとんどが、わかった!という瞬間ではなく『うーん、これはおもしろい』と思うところから起こる」
「不確実なことがあるところには、判断しなくてはならないことがある 」「そして判断があるところには、人が間違える余地がある」
レデルマイアーはトロントの三つの大病院の百二十のエレベーターのボタン、九十六のトイレの便座の表面をこすりとり、エレベーターのボタンの方が病気の感染源になる可能性がはるかに高いという証拠を示した。
レデルマイアーの経験からすると、医者は統計的に考えない。「医者の80%は、自分の患者に確率が当てはまると思っていない」「夫婦の95%は、離婚率50%という数字は自分たちに当てはまらないと思っているし、飲酒運転をするドライバーの95%は、酒を飲んでいないときより飲んでいるときのほうが交通事故を起こしやすいという統計が、自分に当てはまるとは思わない。それと同じだ」
「医学部に入ってすぐの頃は、間違っていることを堂々と話す教授が山ほどいた。それについてはあえて何も言わないけどね」。彼らはよくある迷信じみた話を、永遠の真実のように語っていた(「二度あることは三度ある」のたぐいだ)。
様々な医療分野のスペシャリストが、同じ病気の患者にまったく違う診断をした。・・・どちらも専門医としての自分の経験に、過剰な自信を持っていた。
そもそも医学という職業全体が、その決定の正しさを事後に確かめるようにできていた。例えば患者が回復すると、それは治療のおかげだと考えるのがふつうだが、実際のところ、それを証明する確たる証拠はない。治療したあと患者がよくなったからと言って、その治療のおかげで良くなったとは言えないというのが、レデルマイアーの考えだった。
自然に治るものなんだ。でも、苦しんでいる人は治療を求め、医者は何かしなければと感じるそこでヒルに血を吸わせてみる。すると調子がよくなる。そうなるとヒルが長く使われることになるかもしれない。あるいは抗生物質の過剰処方が続くかもしれない。。。。何か処置をして翌日よくなったら、誰だってその治療が良かったのだと思ってしまう。
証拠に基づく医療・・・私は顧みられていなかった分析をとくに意識するようになった。確率の多くは専門家の意見によって作られていたんだ。
このうえなく優秀な医者でも間違う理由を鮮やかに説明している・・・数学では常に自分の作業を点検する。でも医学ではしない。「もし明確な答えがある代数で間違いやすいなら、明確な答えがない世界ではもっと間違いやすいはずではないか」
誤りは必ずしも恥ずかしいことではない。人間なら避けられないからだ。「彼らは人間が考えている時に出くわす落とし穴について、それを語る言語と理論を提示してくれていた。それがあれば、このような間違いについて伝えることができる。人間がしやすい誤りが認識されたんだ。誤りを否定するわけではない。誤りを悪者扱いするわけでもない。ただそれが人間の性質の一部だと認めただけだ」
エイモス・トベルスキーに会うのは、ハル・ソックスに言わせると「アルバート・アインシュタインとブレーン・ストーミングするようなものだ。彼は歴史に名を残す人物だ。彼のような人物はもう現れないだろう」ということだった。
天気によって(関節炎の)痛みが変わるという患者の主張とは裏腹に、それらの間に相関関係はないと、彼とエイモスは断定した。・・・なぜ人は痛みと天気の間に関連を見出すのかを説明したいと考えた。・・・私たちはこの現象の原因は、選択的なマッチングにあると考える。・・・関節炎について言えば、選択的なマッチングによって、人は痛みが強くなると天気の変化に意識を向けるが、痛みが和らいだときは、天気をほとんど気にしない。痛みがひどくて天気が荒れた日がたった一日あれば、これら二つが関連しているという思い込みが一生続くのだ。
「重大な決定は、現在も何千年前と同じように、権力を持つ立場にある少数の人間の直感と好みで行われている」「社会全体の運命が、指導者が犯した、避けられたはずのいくつもの間違いによって決められている可能性が高い」
損失とはその人の基準点(参照点)より、結果的に悪くなることだ。
バリュー理論・・・私達が提示しているこの理論は、利益と損失を主体が知覚したものとして用いている
リチャード・セイラー・・・彼には二つの目立つ特徴があり、それが原因で経済学だけでなく学究生活そのものになじめずにいた。一つ目はすぐに飽きてしまい、その退屈から逃れるため新しいことを次々と考える性格だ。 ・・・もう一つの目立った特徴は、自分を無能だと感じていたことだ。・・・「私は変わり者で、数学が得意でもなかった」「得意なのは、おもしろいものを見つけることだった」
彼が自分の観察について同業者である経済学者に話して聞かせても、相手にする人はいなかった。「彼らは開口一番「人が間違えることがあるなんて当たり前だろう。だがその間違いに規則性なんかないし、その影響は市場の中で排除される』と言った」。
「彼には敵がいたけど、その敵を懐柔するのがあまりうまくなかった」と言うのは、ロチェスター大学経済学教授のトム·ラッセルだ。「学者に面と向かって『いまきみが
言ったことは本当にばかげている』と告げたら、大物なら『どうばかげているんだ?』
と返すかもしれない。しかし小物は何も言わず根に持つだけだ」
経済学者が連絡を取るのは、常にエイモスだった。エイモスの言うことなら理解することができた。エイモスは経済学者とよく似た論理的な頭脳の持ち主で、しかもその出来はずっと良かった。
ダニエルにとって人間が合理的でないと証明するのは、人間には毛がないと証明することに似ているように思えた。
人間の性質についても考えを世間に理解させるには、それを理論に組み込んでしまうしかない。エイモスはそのことを、ダニエルよりもはっきりと理解していた。そのような理論は、既存の理論よりもうまく人の行動を説明し、予測するものでなければならない。更には、象徴的な論理で表現する必要もあった。「理論を重要なものにすることと、生き残れるものにすることは、まったく違った」・・・「科学は会話であり、それを聞いてもらうう権利をめぐって競争する。その競争にはルールがある。奇妙ではあるが、正式に発表された理論で検証されるというルールだ」
エコノメトリカ・・・ダニエルは編集者の反応に当惑させられた。「私は心のどこかで、『損失回避は本当に面白いアイデアだ』と言われると思っていた。ところが彼は『いや、私は数学が好きなんだ』と言った。なんというか、打ち砕かれた気分だった」
ピーター・ダイアモンド「(ダニエルとエイモスの研究)どれもみんな本当のことだ。机上の空論ではない。とてもおもしろい現実で、それらは経済学者にとって重要な事だ。何年も前からどうやって使おうか考えていたが・・・うまくはいっていない」
スティーブン・スローマン「神にかけて本当のことだが、私は自分の持ち時間の四分の三を、経済学者を黙らせることに費やした」
エイミー・カディ「問題は、心理学者は経済学者のことを不道徳だと思い、経済学者は心理学者をばかだと思っていることです」
ジョージ・ローウェンスタイン・・・ジークムント・フロイトの曾孫(ひまご)・・・彼はエイモスに連絡を取って助言を求めた。自分は経済学から心理学に移るべきだろうかと。「エイモスは『経済学にとどまるべきだ。われわれはそこにいるきみを必要としている』と言ってくれた・彼は1982年には既に、自分自身が一大ムーブメントを起こすことを知っていた」
エイモス『人生は本だ。短い本がよくないということはない。私の人生はとてもいい本だった』
<本文はよかったが、解説はいただけなかった。マイケル・ルイスと行動経済学にかこつけて、(恐らく嫌いなのであろう)主流派経済学を叩く論法は生産的でないし、本文の趣旨にもそぐわない。蛇足以外の何物でもなかった。
オーストラリアのホスピスで看護師をしていたブロニー・ウェアは、死を迎える患者たちが最後に後悔していることを聞き、記録し続けた。その結果、もっとも多かった答えは「他人の期待に合わせるのではなく自分に正直に生きる勇気が欲しかった」。
自分に正直に生きるというのは、単にわがままになることではない。不要なことを的確に見定め、排除していくことだ。そのためには、無意味な雑用を断るだけでなく、魅力的なチャンスを切り捨てることも必要になる。
やることを減らし人生をシンプルにして本当に重要なことだけに集中するのだ
ピータードラッカーはこう言っている。「できる人は『ノー』と言う。『これは自分の仕事ではない』と言えるのだ」
哲学者のウィリアム・ジェイムズは、「自由意志の最初の一歩は、自由意志を信じることだ」と述べた。エッセンシャル思考の最初の一歩は、「選ぶ」ことを選ぶことだ。自分自身の選択を取り戻したとき、初めてエッセンシャル思考は可能になる。
万物の大半はほとんど価値がなく、ほとんど成果を生まない。少数のものだけが非常に役立ち、大きな影響力を持つ。リチャード・コッチ(起業家・コンサルタント)
世界最高の料理人と言われるフェラン・アドリアは、「より少なく、しかしより良く」の実践者だ。伝統的な料理から余分なものを削ぎ落とし、純粋な本質だけを使って、誰も想像しなかった料理をつくり上げる。
元マイクロソフト社CTOのネイサン・ミアボルドはこう語った。「トップエンジニアの生産性は、平均的なエンジニアの10倍や100倍どころではない。1000倍、いや1万倍だ。」
多数の良いチャンスは、少数のものすごく良いチャンスに遠く及ばない。そのことを理解し、数かぎりないチャンスの中から「これだけは」というものを見つけなくてはならない。本当に重要なことにイエスと言うために、その他全てにノーというのだ。
エッセンシャル思考の人は、自らトレードオフを選びとる。誰かに決められる前に、自分で決める。経済学者のトーマス・ソイルはこう言った。「完璧な答えなど存在しない。あるのはトレードオフだけだ」
ピーター・ドラッカーは、かつて『ヴィジョナリーカンパニー』シリーズの著者ジム・コリンズにこうアドバイスしたと言われている。「偉大な企業をつくるか、偉大な思想を作るか、どちらかだ。両方は選べない」
アインシュタインも次のように語っている。「自分自身や自分の考え方を振り返ってみると、有用な知識を覚える能力よりも、空想する力の方が大きな位置を占めているようだ」
ハーバード・メディカルスクール教授のチャールズ・A・ツァイスラー。彼は睡眠不足を酒の飲み過ぎになぞらえ、1日の徹夜や1週間の4~5時間睡眠によって「血中アルコール濃度0.1%分に相当する機能低下」が起こると説明する。「酔っ払いを見ていつも酔っているなんてさすが働き者だ!と言う人はいないだろう。それなのに、睡眠を削っている人はなぜか働き者だと評価される」
TEDの人気スピーカー、デレク・シヴァーズ。・・・彼は自身のブログで「もっとわがままにノーを言おう」と主張している。中途半端なイエスをやめて、「絶対やりたい!」か「やらない」かの二択にしようと言うのだ。そのためのコツは基準をとことん厳しくすること。「やろうかな」程度のことなら却下する。「イエス」と言うのは、絶対やるしかないと確信したときだけだ。ある経営者は Twitter でこう言った。「絶対にイエスだと言い切れないなら、それはすなわちノーである」
引っ越し先を考えていた時には、「住めたらいいな」と思う程度の街をすべて除外した。やがてニューヨークを訪れたデレクは、この街しかないと即座に確信したそうだ。
絶対にイエスだと言い切れないなら、それはすなわちノーである。
アーロン・レヴィ「たとえばこう質問するんです、この人が創業メンバーだとしても違和感はないか?もしも答えがイエスなら、会社にぴったり合う候補者なのは確実だ。」
思想家のラルフ・ワルド・エマーソンもこう述べている。「人と国を滅ぼすのは、作業としての仕事である。すなわち、自分の主目的を離れ、あちらこちらに手を出すことである。」
うまく依頼を断ることは、自分の時間を安売りしないというメッセージになる。これはプロフェッショナルの証だ。
有名グラフィックデザイナーのポール・ランドは、スティーブ・ジョブズの依頼にノーを言ったことがある。1985年に立ち上げたNeXT社のロゴを探していたジョブズは、数々の有名企業のロゴを手がけているランドに連絡をとり、「いくつか候補を出してほしい」と依頼した。けれどもランドは、いくつも候補など出さない、とジョブズに告げた。
「仕事はしますよ。それで気にならなければ、使わなくてもかまいません。候補がいくつも欲しいなら他を当たればいい。私は自分の知る限り最高の答えを一つだけ出します。使うかどうかの判断は、そちらでしてください」
そしてランドは「これしかない」という答えを出し、ジョブズを感動させた。一度はノーと言われて苛立ったジョブズだが、後にランドについてこう語っている。
「彼は私が知る中で最高にプロフェッショナルな人間だ。プロとしてクライアントとの関係のあり方を徹底的に考え抜いている」
エッセンシャル思考の人はみんなにいい顔をしようとはしない。時には相手の機嫌を損ねても、きちんと上手にノーを言う。長期的に見れば、好印象よりも敬意の方が大切だと知っているのだ。
ポール・ランドに学ぶ驚きの4原則 - 99designs Blog
ハイドリック・アンド・ストラグルズ社のトム・フリールCEOの言葉を引用しよう。「われわれに必要なのは、もっとゆっくりイエスを言い、もっと素早くノーを言うことだ」
自分の失敗を認めたとき、初めて失敗は過去のものになる。失敗した事実を否定する人は、けっしてそこから抜け出せない。失敗を認めるのは恥ずかしいことではない。失敗を認めるということは、自分が以前よりも賢くなったことを意味するのだから。
編集・・・「僕の仕事は、できるだけ読者にラクをさせることです。その本から得られる情報やメッセージを、間違えようがないほど明確にするんです。」
もちろん編集にはトレードオフがつきものだ。すべてのキャラクターやエピソードを残したいと思う気持ちに反して、編集者はこう問いかける。「このキャラクターやエピソードは本当に作品を良くするだろうか?」
本の著者や映画の脚本家は自分が書いたものに強い愛着がある。自分が長い時間をかけて必死で書き上げたものを、少しでも削るのは心が痛む。それでも、削らなければ本質は見えてこない・作家のスティーブン・キングもこう述べている。「大好きなものを殺すんだ・書き手のちっぽけなエゴに満ちた胸がはりさけたとしても、大好きなものを殺すんだ」
決断(decision)という言葉の語源は、ラテン語で「切る」「殺す」という意味だ。余分な選択肢を断ち切れば、すんなりと決断できる。かなり魅力的な選択肢だとしても、混乱のもとになるものはすべて取り除いた方がいい。魅力的なものを捨てるのはつらいけれど、あとになってみればその方が良かったと実感するはずだ。
スティーブン・キング「書くことは人の仕事だが、編集は神の仕事だ」
アラン・D・ウィリアムズ
Alan D. Williams, 72, Editor Of Thrillers and of Literature - The New York Times
編集者が著者にたずねるべき基本的質問が2つある。『言いたいことを言えているか?』と『言いたい事を最大限明確かつ簡潔に言えているか?』
仕事や生き方でも、自分の本質的な目標を明確にしておけば、それに合わせて行動を修正できる。自分の行動はきちんと本質的目標に向かっているだろうか、と振り返って見てほしい。
もしも間違った方向に進んでいたら、正しく編集し直せばいい。
計画錯誤(プランニング・ファラシー)とは、ダニエル・カーネマンが1979年に提唱した言葉で、作業にかかる時間は短く見積もりすぎる傾向のことを言う。以前やったことのある仕事でも、なぜか実際より短く見積もってしまうのだ。
ヘンリー・B・アイリング「人や組織の成長を長年見守ってきましたが、大きな進歩を望むなら、日々何度も繰り返す小さな行動にこそ着目すべきです。小さな改善を地道に繰り返すことが、大きな変化につながるのです」
しくみをつくるためのわずかな努力のおかげで、その後は全てがスムーズにまわっている。
「完璧をめざすよりまず終わらせろ」という言葉がある。シリコンバレーでよく耳にする言葉だが、これは別に品質を無視しろという意味ではない。瑣末なことに気を取られず、本質をやり遂げろという意味だ。・・・実用最小限の進歩
ジョン・ラセター「映画を完成させるわけじゃない。解放(release)するんだ」
重要なことをやり遂げるために、日頃からの習慣にする。正しい習慣を続けていれば、偉大な結果は自然とついてくるのだ。
習慣の力の著者チャールズ・デュヒッグ「脳の活動はどんどん少なくなり、ほぼ停止しているような状態になります。・・・これは実に都合がいい。なぜなら脳の活動をそっくり別のことに使えるからです」
フロー体験の研究で知られるミハイ・チクセントミハイ・・・「創造的な人は、自分に合った生活リズムを早い時期に見つけます」「睡眠、食事、仕事のリズムを守り、それを乱すような誘惑に負けません。心地よい服を身に着け、気の合う仲間とだけ付き合い、余計な行動には手を出しません。もちろん、そうしたやり方はまわりの人間に好まれないでしょう。ですが、自分の行動パターンを遵守すれば、余計な物事に注意を奪われずにすみます。本当に重要なことに全力で集中できるのです」
トネガワ的なスピンオフ、二匹目のドジョウなんて・・・と思いきや、まさかの人選で意表を突かれて笑わせてもらいました。が、似たベクトルの笑いが少し多いので飽きるのも早いかな?という感想です。
名探偵コナン 犯人の犯沢さん(1) (少年サンデーコミックス)
1巻は手探り状態でしたが、2巻でしっかりパターンを掴んだ感じですね、ギャグと小ネタのバランスが絶妙でいいと思います。個人的にはキタキタ親父ネタ、食パン=日本限定、一夫多妻ネタ、コナンネタがお気に入り。政治ネタはありきたりでしたが、ボーナストラックは良かったです。あまり説教じみた方向に走らず(薄っぺらくて鼻につくようになるだけなので)、今の調子で頑張って欲しいです。
積読していたのでお正月に読破。転スラ、ダンまちとともに安定した出来。誰かと思ったらゼニスの若い頃か。
無職転生 ?異世界行ったら本気だす? 7 (コミックフラッパー)
昨年の8月に完結した7SEEDS、今年の1月に外伝が発売されるとのことで改めて読み直していました。後半は少しダレてしまいましたが、足掛け16年で描かれた一大スペクタクルは圧巻、随所随所に既視感のある要素がありつつ、全体として破綻せずにしっかりとまとめ上げられたプロットは読み応え十分です。個人的には新巻=あゆペアが一番好きでした。外伝も楽しみです。
脳天気なプロットにエグい三角関係ぶち込んでくるって、実はすごい発明なんじゃないかしら、と思い始めました。かなりのバランス感覚が試されるので、上級者向けのテクな気はしますけど。
相変わらずヘルミーナちゃん可愛い。アニメも楽しみです。
スピンオフでプロットはやや子供向けだけど、しっかり面白いです。実家のような安心感。
面白くないわけじゃないんだけどなぁ・・・。こういう展開にすると、どうしても焦点ぼやけてきちゃいますね。
約束のネバーランド 7 (ジャンプコミックスDIGITAL)
約束のネバーランド 6 (ジャンプコミックスDIGITAL)
日本人サラリーマンのテンプレみたいな岩清水君の今後に期待。実生活でこういう人間に囲まれているせいか、読んでてすごいムカつくけど笑。
平常運転です。
どうしてこうなった・・・
100万の命の上に俺は立っている(4) (週刊少年マガジンコミックス)
12月に完結したのでまとめ読み。バクマンでも分析されていましたが、論理型の人と直感型の人がいるなぁ。マンガ家に限らず、色んなクリエイターの生存戦略が垣間見えるのは面白いですね。
小鳥ちゃんが主役、あと2,3巻でラストかな?すき焼きと海鮮丼が美味しそうでした。
明らかにプロットに勢いが無くなった。勢いのある内は闇雲に突っ走るのが正解だと思うけど、こうなってくると明確な着地点が欲しい。
響?小説家になる方法?【電子限定 アニマリアル付き】(8) (ビッグコミックス)
面白いけど、特筆すべきエピソードはなし。逆に言えばパターン化出来ていることの証左でもあるわけで、両さんの言うようにあと45年間書けばいいと思うよ(笑)。楽しみの照橋回も今回はヲチが弱かった。
ツイッターで話題になったコミック。子供の信教の自由を実質的に担保しようと思うと色々難しいよね、と二世さんの話を見るたびに思います。この人は片親なので、まだ恵まれている方なのかもしれません。
よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話 (ヤングマガジンコミックス)
もう少しのほほんと続けるかと思ったら、割りと詰め込み気味に急展開。
異世界で『黒の癒し手』って呼ばれています4 (レジーナCOMICS)
1巻だけではどうも乗り切れなかったな、という感想でした。これから面白くなるかも?という予感は少し感じましたので様子見。
あまりグロが得意でなく、積ん読していたのをまとめ読み。それなりにハラハラするものの、やや一本調子な印象。短期速攻で終わらせるか、よほど意表を突いた展開にしないと厳しそう。
非婚化や少子化というのは、日本の社会が「結婚して子どもを産んでもロクなこと がない」という強烈なメッセージを、若い女性に送っているということです。
超高齢社会とは 、高齢者の数が(ものすごく)増えて、若者の数が(ものすごく)少ない社会です。「若くてはたらける」女の子の価値はどんどん上がっていくのです。
専業主婦がカッコ悪いということは、「妻を専業主婦にしている男もカッコ悪い」ということです。こうして欧米では、夫が積極的に家事に参加するようになりました。ここ でのポイントは、彼らはべつにフェミニストではなく、”意識高い”系でもないことです。
女性の高学歴化と社会進出が当たり前になった先進国では、「はたらきながら子育てできる」環境を充実させないかぎり、 女性は子どもを産まないことをはっきりと示して います。せっかく大学まで出たのに、好きなことはなにもできず、子どもの世話をする だけの人生では、「そんなのバカバカしい」と思うのは当然ですよね。
日本はなぜ「男女格差の大きな国」に成り下がってしまったのでしょうか。それは、子どもを産んだとたんに女性を取り巻く環境が大きく変わるからです。
一見男女平等に見えても、「女性が子どもを産むと”差別”を実感する社会」なのです。
対等だったはずの夫との関係も、出産を機に変わってしまいます。日本の会社は長時間労働とサービス残業によって社員を評価するので、子どもができたからといって、夫が育児休暇をとって「イクメン」になるのはかんたんではありません。その結果、「夫は外で働き、妻は家事をしながら子どもの面倒を見る」という古いタイプの夫婦関係にあっという間に戻ってしまうのです。
「幸福とは自由(自己決定権)のことであり、そのためには経済的に独立していなければならない」というのは、いまや〝世界の常識〟です。経済的独立を自分から捨ててしまう専業主婦は、「自由と幸福」からもっとも遠い生き方なのです。
日本はどうか知りませんが、世界のひとたちは、ほんとうの愛情や信頼は対等な関係からしか生まれないと考えているのです。
幸福についての調査では、「お金がない」と意識すると幸福感が大きく下がることがわかっています。貧しいひとが(一般に)不幸なのは、お金のことが気になっているからなのです。
たくさんのひとにお金について聞いてみて、「これ以上収入が増えてもうれしさはそんなに変わらないよ」という金額はいくらでしょうか。アメリカでは、それは7万5000ドル、日本では800万円とされています。・・・ようするに、「ひとなみの幸福」とされていることを、お金を気にせずにできる、ということです。そしていったんこの水準に達すると、近所のビストロをミシュランの星つきレストランに変えても、箱根への家族旅行をハワイにしても、幸福感はそれほど変わらないのです。ちなみに、収入と同じく資産にも慣れていくことがわかっています。日本の場合、その金額は1億円とされていますが、これは「老後の不安がなくなる金額」と考えると理解できます。
専業主婦志向の女子は婚活に必死になります。お金持ちの夫を手に入れるのは、いまや宝くじに当たるようなものなのです。というか、これは宝くじよりずっと確率の低いギャンブルです。高収入の男性はいくらでも若くてかわいい(専業主婦願望の)女の子がやってくるのですから、そもそも一人の女性と結婚する必要などありません。そのことがだんだんわかってきたので、いまや婚活は「当たりくじのない宝くじ」のようなものになってしまいました。
だとしたら、世帯年収1500万円を実現するためにはどうすればいいのでしょうか。じつは、ものすごくかんたんな方法があります。年収800万円の男女がカップルになって、共働きすればいいのです。・・・「お金と幸福の法則」から幸福な家庭をつくろうとすると、夫が一人で1500万円稼ぐ「専業主婦モデル」よりも、夫婦がちからを合わせて世帯収入1500万円を目指す「共働きモデル」のほうが、ずっと成功確率が高い。
就職したばかりで年収300万円だったとします。これを、「人的資本から(はたらくことで)300万円の利益が得られる」と考えます。これと同じことを「金融資本」(預金)でやろうとすると、いくらの元金が必要でしょうか。現在の普通預金の金利0・001%で計算すると3000億円になります。
いまのような超低金利時代では、お金にはたらいてもらう(運用する)よりも、自分ではたらいたほうがはるかに有利です。金融資本を使って稼ぐことがむずかしくなればなるほど、人的資本の価値は大きくなっていきます。
ざっくりいうと、生涯年収2億円の場合、新卒で就職する時点で時価1億円以上の人的資本をもっていることはまちがいありません。
1億円の人的資本と比べれば金融資本(貯金)の額は象とノミくらいのちがいがあります。ノミをいくらはたらかせても、象のようなことはできません。「お金持ちになるのにもっとも重要なのは人的資本」なのです。
金融資本、人的資本のほかに、人生にはもうひとつ大切な「資本」があります。それが「社会資本」で、家族や恋人、友だちとの〝絆〟のことです。社会資本をたくさんもっていると、好きなひとから愛されたり、みんなから必要とされたりします。すなわち、「幸福は社会資本からやってくる」のです。
金融資本は「自由(経済的独立)」、人的資本は「自己実現(やりがい)」、社会資本は「愛情・友情」と結びついています。
金融資本がなく貯金はゼロで、人的資本がないのでパートやバイトなど時給の安い仕事をしていても、「人生には愛情と友情しかいらない!」というひとがいます。こういうひとは「プア充」で、家族や友だちに囲まれているので、プアでもその人生はけっこう充実しています。プア充の典型は、〝ジモティー〟や〝マイルドヤンキー〟と呼ばれる地方の若者たちで、中学・高校の同級生5~6人を「イツメン(いつものメンバー)」として、先輩・後輩などを加えた20~30人くらいの「仲間」で行動しています。
「仕事はできるけれど異性との交際にはあまり興味がない。友だちづきあいも苦手」というひとは「ソロ充」です。
まだ若いソロ充は金融資本(貯金)はそれほどもっておらず、田舎の友だちとは縁が切れて濃い人間関係もありませんが、大きな人的資本をもっているので仕事は充実しています。
「お金はもっているけれど、はたらいてもいないし友だちもいない」というタイプは、高齢者にはたくさんいます。それが、家族や友人のいない「孤独な年金生活者」です。このひとたちは、はたらいてお金を稼ぐことができないので人的資本はゼロで、一日じゅうだれとも会話しないので社会資本もありません。年金という「金融資本」だけをたよりに生活しています。若者だと特殊なケースですが、「裕福な引きこもり」がこのパターンです。
リア充のイメージは、東京生まれで私立の中高一貫校から有名大学に入り、一流企業に勤めているバリキャリの女性でしょうか。彼女たちは、まだ若いので大きな金融資本はもっていませんが、人的資本で仕事が充実すると同時に、学生時代の友だちとも縁が切れていないので、そのネットワークからいろいろな出会いのチャンスが生まれるのです。
大きな人的資本をもっていると高い給料(収入)を得ることができますから、だんだんと貯金(金融資本)もできてきます。こうして、社会資本(恋人や友だち)がないまま人的資本と金融資本の充実したひとが「ソロリッチ」です。
幸福な専業主婦は、夫の稼ぎを金融資本に、「ママ友」を社会資本にして充実した生活をしています。とはいえ、これが「宝くじに当たるような」幸運だというのは、先に説明したとおりです。
「貧困」を定義するならば、「金融資本、人的資本、社会資本のすべてを失った状態」ということになります。
「貧困」とは逆に、「金融資本、人的資本、社会資本のすべてをもっている状態」を考えてみましょう。こういうひとの人生は超充実しているでしょうから、これを「超充」と名づけます。超充はすべてのひとの目標でしょうが、これはものすごくむずかしいので、実現しているケースはあまりありません。でも2人でちからを合わせれば、超充にちかい「ニューリッチ」になれるという話をあとでしましょう。
同じ創造的な仕事に従事するクリエイティブクラスのなかでも、クリエイターとスペシャリストはどこがちがうのでしょうか。それは”拡張性”があるかどうかです。
どれだけ人気のある劇団でも、出演者の収入は、劇場の大きさ、1年間の公演回数、観客が支払える料金などによって決まってきます。こうした要素には明らかな上限があり、それが役者の仕事の富の限界になっています(拡張性がない)。映画は、大ヒットすれば世界じゅうの映画館で上映され、DVDで販売・レンタルされ、テレビで放映されます。映画スターにはそのたびに利益が分配されますから、その仕事には富の限界がありません(拡張性がある)。
成功した映画俳優が大富豪の仲間入りをするのは、テクノロジーの進歩によって、きわめて安価に(ほぼゼロコストで)コンテンツを複製できるようになったからです。いまやいったん映画が大ヒットすれば世界じゅうで販売されて、巨額の富を生み出すようになりました。映画と同様に、本(ハリー・ポッター)や音楽(ジャスティン・ビーバー)、ファッション(シャネル、グッチ)やプログラム(マイクロソフト)も同じです。クリエイターは「拡張性のある仕事」にチャレンジするひとたちで、一攫千金と世界的な名声を目指しているのです。
スペシャリストとマックジョブ(バックオフィス)はどちらも「拡張性のない仕事」ですが、このふたつはなにがちがうのでしょう。それは、責任の所在です。
日本でも海外でも、クリエイターはサラリーマンにならないことです。「拡張性のある仕事」のいちばんの魅力は成功したときに青天井の報酬が支払われることですから、すこしぐらいボーナスを増やしてもらってもぜんぜん割に合いません。会社としても、クリエイターのほとんどは泣かず飛ばずなのですから、全員に給料を払うわけにはいきません。
スペシャリストには、自営業者と会社に所属するひとがいます。医者の場合なら開業医は自営業者で、勤務医は会社(病院)に所属しています。そして、開業医はともかく、勤務医のはたらき方は日本と世界でまったく異なります。欧米では勤務医は病院の設備・看護師・事務などの機能と看板を借りた自営業者で、患者は病院ではなく医者を指名し、病院は医者に支払われた報酬から“家賃(テナント料)”を徴収します。医者が病院のサービスに不満だったり、家賃が高すぎたりすると別の病院に移りますが、そのときは患者もいっしょについていきます。患者は自分が選んだ医師から治療を受けているのですから、これは当然のことです。
ところが日本の病院では、医者は出身大学の医局の都合で病院を変わり、患者はそのまま同じ病院に残るので、患者の意思とは無関係に主治医が変わってしまいます。日本人は「病院にかかる」のを当たり前と思っていますが、欧米の患者がこのことを知ったら腰を抜かすでしょう。自分の病気の治療にベストと考えて医者を選んだのに、なんの相談もなく勝手に治療を放棄するのでは、医療倫理にもとるばかりか人権侵害にもなりかねません。
欧米ではスペシャリストは「会社の看板を借りた自営業者」で、日本では「会社に所属するサラリーマン」なのです。
バックオフィスは「オフィス(会社)」の仕事なのですから、全員が「会社員」のはずです。ところが日本では、ここに「正規(正社員)」と「非正規」という区別が入ってきます。「非正規」のはたらき方は、次の3つのいずれかに該当します。(1)パートタイムではたらいている(2)契約期間が定められている(3)派遣社員のように、会社に直接雇用されていない
日本の正社員はこのどれにも属さない、「フルタイムの無期雇用で、会社に直接雇用された労働者」ということになります。
日本では、「正規」と「非正規」ははたらき方のちがいではなく、「身分」のちがいです。「正社員」というのはその名のとおり、会社という共同体の「正メンバー」で、「非正規」は会社共同体のよそ者(二級社員)なのです。
海外では日本のような「身分」のちがいがないので、パートタイムからフルタイムになったり、出産や親の介護のためにフルタイムからパートタイムに変わったりすることがよくあります。
なぜ「非正規」が日本で大きな社会問題になるかがわかります。「正規」か「非正規」かで人間を区別するのは、世界では日本にしか存在しない〝身分差別〟なのです。
日本の会社のいちばんの問題は、サラリーマン(正社員)のなかにスペシャリストとバックオフィスという異なる種類の仕事をするひとが混在していて、それを無理矢理平等に扱おうとすることにあります。
混乱を収拾するには、「サラリーマン」のなかからスペシャリストを切り離さなくてはなりません。これが「高度プロフェッショナル制度」で、会社に所属するスペシャリストを欧米のように「会社の看板を借りた自営業者」にしようとしていますが、”残業代ゼロ”のレッテルを貼ってこの法案に大反対するひとたちがいます。
その理由は、「高度プロフェッショナル(スペシャリスト)」ではないサラリーマンはバックオフィスになってしまうからです。この制度が導入されると、なにひとつ”スペシャルなもの”がないのに「正社員」というだけで優遇されていたひとたちが、「同一労働同一賃金」の原則で非正規と統合されてしまいます。
バックオフィスの仕事をしていた「正社員」は、この”改革”をぜったいに認めません。自分たちがこれまでバカにしていた「非正規」になってしまうのですから。
現実には、経営者は正社員の既得権に手をつけることを恐れ、バックオフィスの仕事をすこしずつ非正規で代替させようとしています。こうして日本では正社員が減って非正規が増えていくのですが、彼らの労働条件は先進国では考えられないほど劣悪です。日本では正社員は終身雇用で、よほどのことがなければ定年まではたらきつづけることが保証されています。それに対して非正規は有期雇用なので、契約期間が終了すれば問答無用で解雇されてしまいます。それ以外でも、正社員は社宅を提供されたり、家族手当などを受け取れますが、同じ仕事をしていても非正規にはなにもありません。これほどまで極端な〝差別〟は、世界のなかで日本にしか見られません。
正社員と非正規が一体化すれば、正社員の法外な既得権が非正規に分配され、賃金格差もなくなり、フルタイムとパートタイムを自由に行き来できる〝グローバルスタンダード〟のはたらき方が日本でもようやく可能になるでしょう。それとともに、会社のなかで専門的な仕事をしているひとは、「高度プロフェッショナル」として時給仕事から成果報酬に移行していくはずです。
これまで「日本人(男性)は会社が大好き」といわれてきましたが、最近になって、社員の会社への忠誠心を示す「従業員エンゲイジメント」指数が日本は先進国中もっとも低く、「サラリーマンの3人に1人が会社に反感をもっている」とか、「日本人は世界でもっとも自分のはたらく会社を信用していない」などの調査結果が続々と出てきました。仕事にやりがいもなく、安定も期待できないとすれば、そうなるのは当たり前です。それ以外の調査でも、世界的にみても日本のサラリーマンの幸福度が低いことがわかっています。「年功序列・終身雇用」の日本的なはたらき方を「世界でいちばん幸せ」と主張するひとがかつてはたくさんいましたが、それはすべてウソだったのです。
ベストセラーになった『置かれた場所で咲きなさい』という本は、サラリーマン人生を見事に象徴しています。新卒でたまたま入った会社で、たまたま天職に出合って「自己実現」できる可能性は宝くじに当たるようなものです。40代になれば転職もかなわず、ひたすら会社にしがみついて「置かれた場所」で苦行に耐えるのが日本人の労働観なのです。
「クリエイターで成功を目指すのは無理だけど、やりがいのない仕事もイヤだ」というひとは、医者や弁護士などのスペシャリストを目指します。これらの仕事に人気があるのは、高い収入とやりがいを両立できるからです(かならず、というわけではありませんが)。しかしそのためには、むずかしい試験に合格しなければなりません。
女性には、医者や弁護士ほど難易度が高くなく、やりがいと収入、おまけに安定も兼ね備えたスペシャリストの仕事があります。それが看護師です。
転職を繰り返せば自分に向いた仕事に出合う確率が上がり、スペシャリストとしての経験値も高くなっていきます。これもアメリカの調査ですが、15年以上のキャリアがある管理職で、転職2回のひとが役員になる確率は2%ですが、転職が5回以上だと18%に上がるそうです。転職は〝天職〟へとつながっているのです。
日本人の労働生産性(仕事で利益を稼ぐちから)はOECD34カ国中21位、先進7カ国のなかではずっと最下位です。日本のサラリーマンは過労死するほどはたらいていますが、一人あたりの労働者が生み出す富(付加価値)は7万2994ドル(約800万円)で、アメリカの労働者(11万6817ドル/約1280万円)の7割以下しかありません(2014年)。これは、日本人の能力がアメリカ人より3割も劣っているか、そうでなければ「はたらき方」の仕組みがまちがっているのです。
少子化の影響がはっきりしてきたことで、いまや新卒の就職率は98%になりました。大学を出たらほぼ全員が仕事に就けるような国は、先進国のなかでは日本くらいしかありません。15~24歳の失業率はスペインで53・2%、イタリアが35・3%、フランスでも23・8%もあり(2015年)、ドロップアウトしたまま社会復帰できない若者たちが大きな社会問題になっています。そんな国と比べれば、日本の若者はものすごく恵まれています。
「すこししかいない若者は価値が高い」という市場原理です。超高齢社会では、(優秀な)若者の値段が高騰するのです。
いろんな仕事を経験しながら「好き」を見つけたら、あとはそこに全力投球して、できれば20代で、おそくとも30代のうちに”スペシャルなもの”がもてるようにがんばります。そうしたら、あとは転職してもキャリアを切らさず、「生涯現役」で好きな仕事をやりつづける、というのが新しい時代のはたらき方なのです。
「好き」と「できる」を一致させていくのです。「自分のことは自分ではわからない」を前提とすれば、まわりのひとたちからできるだけ多くの評価=フィードバックを集め、自分に向いた仕事を探していくのが(おそらくは)唯一の方法です。
キャリアアップというのは、「好き」のなかから「できる」を絞り込んでいくことです。面接で大事なのは、その過程をきちんと説明できることです。中途採用では必要な人材をスポット的にさがしているのですから、適性と能力をはっきり伝えられる候補者のなかから選ぶしかありません。
「貧乏な女」の多くはじつは主婦だとわかります。夫の収入だけで生活できても、最近は子育てが一段落すればパートや非正規ではたらくことも多いので、彼女たちの世帯年収は高いかもしれません。「非正規の女性は結婚している」というのも原因と結果が逆で、これは「主婦が非正規の仕事ではたらいている」からでしょう。
女性の未婚率は年収1000万円以上でいきなり跳ね上がりますが、ここから「ハイスペック女子は結婚できない」ということもできません。独身のまま仕事をつづけることを選び、がんばったからこそ年収が高くなったと考えるのが自然です。
興味深いのは年収600万円を境に女性の未婚率が下がっていることで、年収900万円代では未婚率16%と、年収200万円代の女性と変わりません。いまの日本では、10世帯に1世帯は世帯年収1000万円以上、100世帯に3~4世帯は1500万円以上です。サラリーマンの給与そのものは上がっていないのですから、これは高収入の共働き家庭が増えているからでしょう。こうしたデータを見ると、「年収の高い女は結婚できない」というのが事実ではないことがわかります。ハイスペック女子の多くは結婚して、経済的にも恵まれた家庭をつくっているのです。
女性が自分より学歴が高く、収入も多い男性を好む「上方婚」志向で、男性は自分より学歴が低く、収入の少ない女性を好む「下方婚」志向なのはさまざまな調査で報告されています。
しかし荒川和久さんは『超ソロ社会』で、「年収の低い男は結婚できない」説は根拠のない都市伝説の類だと述べています。年収200万円以下の男性が結婚しないのは、自分ひとりが食べていくのに精いっぱいだからです。しかし、男性の年代別年収分布で既婚か未婚かを見ると、30代以上では年収300万円を超えると既婚者が一気に増えています。そして既婚者の割合は、年収が増えてもほとんど変わらないのです。荒川さんはこの理由を、「経済的な余裕ができれば結婚したい男は結婚するし、経済的な余裕があっても結婚しない男は結婚しない」からだと説明します。
「年収の低い男は結婚できない」説は、彼女のいない男性の自己正当化らしいことが見えてきます。「モテないのは自分に魅力がないからだ」という現実を直視するよりも、「世の中の女がカネにしか興味がないからだ」と決めつけたほうが、ずっと気が楽でしょうから。
女性にとっての結婚(およびそれにつづく出産)とは、
という「四重の損失」なのです。そしてこの損失は、たんに「家族がもてる」ということだけで埋め合わせることができません。そこで、「経済的余裕」が結婚の条件として浮上してくるのです。これで、高収入でやりがいのある仕事をしている女性が結婚しない理由もわかります。いまの時代は「自由」や「自己実現」がとても大切な価値になったので、経済的な不安のない”ハイスペック女子”にとっては、結婚・出産による損失が大きすぎてとうてい割が合わないのです。
男性にとっての「結婚の利点」は、「社会的な信用や対等な関係が得られる」と「生活上便利になる」の2つが主ですが、これが時代とともに大きく減っているのが目立ちます。・・・これに「精神的安らぎの場が得られる」「性的な充足感が得られる」を加えた4つが、男性が結婚に期待することです。
それに対して、独身男性の利点は「家族扶養の責任がなく気楽」「金銭的に裕福」の2つがダントツで、「金銭的に裕福」は時代とともに大きく伸びています。「異性との交際が自由」というのもありますが、こちらはその重要度が下がっています。ここから、男性がなぜ結婚に躊躇するのか、その理由がわかります。それは、「妻や子どもを扶養する経済的な責任が重く、自分のお金が自由に使えなくなるから」なのです。
なぜ未婚率が急上昇しているか、その理由は明らかでしょう。独身女性は、結婚によって失うもの(自由、キャリア、友だちなど)が大きすぎるため、経済的な安定という代償がなければ割が合わないと考えています。独身男性は、家族を扶養する重い責任を負って、わずかなこづかいで暮らすようになるのなら、このまま独身生活をつづけたほうがいいと思っています。男と女の利害がこれほどまでに食いちがっているのですから、そもそも結婚する男女がいるほうが不思議なくらいです。時代とともに、結婚はますます「コスパ」が悪くなっているのです。
男子と結婚するためには、「共働きでわたしの収入も加えれば、いまよりずっと楽しく暮らせるよ!」と提案しなければなりません。
憧れの女の子と結婚したい男性は、「仕事だってつづけられるし、家事もちゃんと分担するから、結婚や出産で失うものよりも楽しいことのほうがぜったい多いよ!」と提案しなくてはなりません。これからは、こういう賢い男女がカップルになって、幸福な家庭をつくっていくのでしょう。
男性が、自分よりも学歴や収入の低い女性との「下方婚」を好むのはまちがいありません。しかしこれは、「バカでかわいい女がモテる」ということではありません。「賢い」というのは「ずる賢い」ということでもあります(もっともこれは、女性も同じでしょうけど)。「賢い男子」は、自分がはたらいて2億円よぶんに稼ぐよりも、「2億円のお金持ちチケット」をもった女性と結婚したほうが、はるかに手っ取り早く“お金持ち”になれることをちゃんとわかっていますから、「バカでかわいいだけの女」をセフレとして使い倒すことはあっても、結婚しようとは思わないのです。しかし、「おバカな女子」が選ばれない理由はこれだけではありません。いちばんは「話が合わなくてつまらない」ことです。
高学歴で一流企業に勤める〝ハイスペック男子〟は、家に帰って、ワイドショーでやっていた芸能人の不倫騒動について妻と話したいなんてぜんぜん思っていません。政治や経済の高尚な議論をしたいわけではないでしょうが、自分が興味や関心のある話題で、お互いの意見が一致していることを確認したり、「えっ、そんな考え方をするんだ」と驚いたりするやりとりが楽しいのです。──これを「同類婚」といいます。
そんな相手として相応しいのは、自分と同じ学歴か、ちょっと低いくらいの女性です。学歴の高い女性を避けることはあるでしょうが(男はプライドの生き物なのです)、それよりもっと避けるのは、趣味も興味もぜんぜんちがう「おバカな女」です。ついでにいっておくと、「エリートの夫が会社のキャリアウーマンと不倫する」という定番のパターンは、これが理由です。家に帰っても子どもとママ友と芸能人の話ではぜんぜん楽しくありませんが、会社のハイスペック女子とは共通の話題がいろいろあるのでずっと面白いのです(これはエリートの妻と男性の同僚でも同じでしょう)。
大卒の白人男性は高卒の白人女性とは結婚しません(たとえ元チアガールでも)。それよりも、自分と同じくらいの大学を出た、黒人やアジア系の女性と結婚しているのです。これは女性も同じで、人種より学歴を優先するのは、「これからずっといっしょに暮らすことを考えれば、趣味や話が合うのがいちばん」と思っているからです。
脳には右半球と左半球があって、「右脳型」は直感的(感覚的)、「左脳型」は論理的という話は聞いたことがあるでしょう。実際にはそう単純ではありませんが、右脳と左脳に役割のちがいがあるのはたしかです。
脳卒中は脳の血管がつまる病気で、それによって脳の機能の一部が壊れてしまいます。脳の左半球に卒中を起こした男性は言葉がうまくしゃべれなくなりますが、右半球に卒中を起こした場合は言語能力にほとんど変化はありません。これは、左脳が言語能力を担当しているからです。
ここまではよく知られていましたが、脳科学者が女性の脳卒中患者を調べてみると奇妙なことに気づきました。脳の左半球に卒中を起こした女性は、やはり言葉をうまくしゃべることができなくなりますが、その程度は男性よりひどくありません。ところが右半球に卒中を起こしても、(男性の場合はなんの変化もないのに)やはり同じくらいうまく話せなくなってしまうのです。
なぜこんなことになるのでしょうか。それは、男性の場合、言葉を話す能力が左脳に偏っているのに対して、女性は両方の脳に分散しているからです。男と女で脳の仕組みがちがっているのなら、考え方や感じ方がちがっているのは当たり前ですよね。
愛し合うというのは、お互いにわかりあえないという前提で、それでもわかりあおうとすることなのでしょう。
ドラマチックなカップルは、高い確率で破綻していました。だったらどういうカップルがうまくいくかというと、「親や友だちに紹介された」ケースです。これは、適職を探すのと同じ話です。そのポイントは、「自分では自分のことはわからない」でした。適職(天職)というのは、まわりのひとたちが「スゴいね」とか「君がいてくれて助かったよ」とほめてくれる仕事で、だからこそ好きになるのです。恋愛もそれと同じで、あなたひとりが「運命のひとと出会った」と盛り上がっていても、まわりのみんなは「なんであんなダメ男に引っかかったの?」と思っているかもしれません。そしてほとんど場合、友人たちの評価のほうが正しいのです。
アメリカなど欧米の企業では、役職と学歴はリンクしているといいます。移民国家であるアメリカでは、人種や宗教、年齢や性別でひとを差別してはいけないというルールが徹底していますから、会社が採用や昇進・昇給を決める基準は①仕事の成果、②学歴や資格、③仕事の経験、の3つしか認められていません。「能力」というのは、この3つで評価できるものです。
当然、管理職の比率は大卒が多く、高卒が少なくなります。これはアメリカだけでなく、世界じゅうがそうなっています。学歴社会なのだから当たり前だと思うでしょうが、山口さんは世界にひとつだけ、この原則が通用しない国があることを発見しました。それが日本です。
日本の会社の特徴は、次の3つです。
問題なのは、大卒(総合職)の女性よりも、高卒の男性のほうがはるかに早く課長に昇進することです。60歳時点では高卒男性の7割が課長以上になっているのに、大卒女性は2割強と半分にも満たないのです。身分や性別のような生まれもった属性ではなく、学歴や資格、業績など個人の努力によって収入が決まる社会が「近代」です。そして近代的な社会では、このようなことが起こるはずはないと山口さんはいいます。
日本の会社ではずっと長時間の残業やサービス残業が問題になっていますが、一向にあらたまりません。なぜこんなかんたんなことができないのでしょうか。それは、「日本の会社は残業時間で社員の昇進を決めている」からです。
「そんなバカな!」と思うかもしれません。でも就業時間を揃えると、大卒女性は男性社員と同じように昇進しているのです。これは、「日本の会社は社員に〝滅私奉公〟を求めていて、社員は忠誠の証として残業している」ということです。
近代社会では、労働者は会社と契約を結び、労働を提供するのと引き換えに報酬を受け取ります。日本の会社も形式的にはそうなっていますが、実態は江戸時代の「イエ」にちかい組織で、いったん正社員になれば人生のすべてを会社に捧げ、会社はそれにこたえて、生涯にわたって社員と家族の生活の面倒をみる、という関係になっているのです。正社員(イエの一員)はかつては男性だけでしたが、いまでは女性も加わることができるようになりました。これはたしかに進歩ですが、しかし女性がイエの一員として認められるには、無制限の残業によって滅私奉公し、僻地や海外への転勤も喜んで受け入れ、会社への忠誠を示さなければならないのです。そしてこれが、「子どもが生まれてもはたらきたい」と思っていた女性が、出産を機に退職していく理由になっています。
出産を機に会社を辞めた女性に理由を訊くと、第一位は「子育てに専念したいから」ではありません。「仕事への不満」や「行き詰まり感」です。なぜそうなるかというと、日本の会社は、形式的には男女平等でも、滅私奉公できない女性社員を「差別」しているからです。彼女たちは、望んで専業主婦になったわけではないのです。
彼氏とラブホテルに行って、セックスのあとに「これ、プレゼント」といっておしゃれな指輪をもらったらものすごくうれしいでしょう。そのかわりに、「はい」と1万円札を3枚差し出されたら、ものすごく怒りますよね。しかし、よく考えるとこれはヘンです。3万円の指輪と3万円の現金は同じ価値ですし、好きなものをなんでも買える現金のほうが使い勝手がいいともいえます。だとしたら、1万円札3枚差し出されたときも、指輪をもらったのと同じくらい喜ばないとおかしい……。経済学者というのはこういうことばかり考えているひとたちで、それで評判が悪いのですが、この理屈はまちがっているわけではありません。だったらなぜ、指輪はうれしくて、現金はものすごく腹が立つのか?それは、「プライスレス」なものを「プライサブル」にしているからです。値段のわからない指輪は、(あまりに安物でないかぎり)プライスレスな愛情を象徴しています。ところがそれに3万円という値段をつけると、「お金のためにセックスする女」つまりは売春婦になってしまうのです。
家事を「ワーク」としてお金に換算することは、夫婦関係に破壊的な結果をもたらします。「プライスレス」だったはずのものを、「プライサブル」にしてしまうからです。夫の給料の半分が妻の貢献だとして、それを計算したら時給2000円になったとしましょう。こうして、妻のシャドーワークを「見える化」することができました。でもそれを聞いた夫は、これからは妻との関係を平等にしようと思うでしょうか。そんなことはありません。「だったら、時給1000円の家政婦を雇えば自分の取り分が多くなるじゃないか」と考えるのです。シャドーワークは専業主婦を「奴隷」の立場から解放するかもしれませんが、その代わり「家政婦」にしてしまったのです。このようにして欧米では、夫婦が対等になるには妻もはたらくべきだ、ということになりました。妻に収入がないと、プライスレスなはずの関係が、プライサブルになってしまうのです。
世界的にも日本の主婦の幸福度が低いのは、出産にともなって家庭に「プライス」が入り込んでくるからです。
「わたしは子育てをがんばってやっている」というでしょうが、これは「シャドーワーク」の主張なので、夫にますます「プライス」を意識させるだけです。
はたらく主婦は「時間の奪い合い」でも夫を優先しなければならず、ますます自分の時間がなくなっていきます。このようにして、「プライスレス」だったはずの2人の関係は、「プライス」だらけになってしまうのです。
日本の女性の人生を大きく変えるのは「結婚」ではなく、「出産」だということがわかります。妻の役割を放棄してもたんなる笑い話ですみますが、母親の役割を放棄することはぜったいに許されないのです。
日本では、核家族化がすすむなかで、「賢母」への圧力がますます強くなっています。そしてこれが、子どもへの責任を一身に担わされる母親を追い詰めるのです。
子育ては「失敗の許されないプロジェクト」になりました。しかし問題は、がんばったからといって、むくわれるとはかぎらないことにあります。なぜなら、「子どもは親のいうことをきくようになっていない」のですから。これはカナダの発達心理学者ジュディス・リッチ・ハリスの『子育ての大誤解』(ハヤカワ文庫NF)を読んでもらうのがいちばん
子育ての大誤解〔新版〕上――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)
子育ての大誤解〔新版〕下――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)
両親は、母語を話そうが話すまいが、食事や寝る場所などを提供してくれます。子どもにとってほんとうに大事なのは、親との会話ではなく、(自分の面倒を見てくれる)年上の子どもたちとのつき合いなのです。なぜなら、友だちグループからのけ者にされると「死んでしまう」のですから。
ほとんどの場合、両親の言葉と子どもたちの言葉は同じですから問題は起きませんが、移民のような環境では家庭の内と外で言葉が異なるということが生じます。そのとき移民の子どもは、なんの躊躇もなく、生き延びるために、親の言葉を捨てて子ども集団の言葉を選択するのです。
子どものいる家庭には、リセットボタンがないのです。
そもそも、母親と子どもが一対一で、閉鎖された空間に長時間いっしょにいるというのは、人類の子育ての歴史のなかではものすごく「異常」なことです。子どもはそんな子育てに適応するように「プログラム」されていませんから、”愛情たっぷり”に育てても、それにこたえてくれるかどうかはわかりません。
だったらどうすればいいの?この問いに対するもっともシンプルな回答は、「子どもを産まなければいい」でしょう。
この「ソロ充」→「ソロリッチ」が、大きな人的資本をもつ女性にとって(もちろん男性にとっても)日本の社会で幸福になる有力な人生戦略であることはまちがいありません。これから、「ソロ」で「お金持ち」というひとはどんどん増えていくでしょう。欧米や日本のようなゆたかな社会で、ソロリッチが「親友」や「パートナー」という社会資本をもつことができれば、人類の歴史上もっとも幸福な人生が手に入ります。しかしそこには、たったひとつ足りないものがあります。それは「子ども」です。
優等生の回答は、日本を「女性が活躍できる社会」にすればいい、というものでしょう。これはとても大切なことですが、しかし、日本の「男女格差」がアメリカ並み(45位)になったり、アイスランド(1位)、フィンランド(2位)、ノルウェー(3位)といった北欧の国と肩を並べるようになるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。
この問題は「子育てを外注する」ことで解決します。
「ルールどおりやっていてはヒドい目にあうだけ」ということです。だとすれば、自分にとっていちばん都合のいいようにルール(制度)を使うのは当然のことです。
日本の社会では、子どもを育てながらはたらこうすると、女性は「罠」にはまってしまいます。それは日本の会社が、人生すべてを仕事に捧げる「滅私奉公」を社員に求めるからでした。その結果、優秀な女性たちが仕事に行き詰まって、専業主婦というもうひとつの「罠」にはまってしまうのです。
この「罠」から逃れる方法はものすごくかんたんです。問題の根源が「会社」なら、会社ではたらかなければいいのです。これが、「フリーエージェント戦略」です。
人間関係のストレスはうつ病の最大の原因ですが、そうならないためのもっとも効果的な方法は、「人間関係を選択可能にする」ことです。といっても、これは「好きなひととしかつき合わない」ということではありません。「イヤなひととのつき合いを断る」選択ができるだけで、気分はものすごくちがいます。
こうした人間関係では「ハラスメント」は起こりません。いじめっ子は、なにをしても相手が逃げられないと知っているからこそ、いじめるのです。
日本の会社では「伝染病」のようにうつが蔓延しています。その原因が長時間労働だとして、官民あげて「時短」の掛け声をあげていますが、なかなか残業時間は減りません。その理由は残業代が生活給になっているからで、時短で給料が減ると生活が苦しくなるので、サラリーマンの多くが残業代がつくかぎり会社にいようとするからだといいます。これはたしかに歪んだはたらき方ですが、それを無理矢理やめさせれば、うつ病は減るのでしょうか。
多くのサラリーマンを診察してきたメンズヘルスの専門医は、そうは考えていません。サラリーマンが出社拒否になる理由は、長時間労働で燃え尽きるからではなく、仕事が要求するレベルに自分のスキル(専門性)が届かず、行き詰まってしまうからだというのです。
なぜこんなことになるかというと、日本の会社がスペシャリストを養成せず、いろんな部門をそこそこ任せられるゼネラリストばかりを揃えようとしてきたからです。その結果、それぞれの分野が専門化するにつれて、自分のスキルが追いつかなくなってしまったのです。
それに対してフリーエージェントは、ひとつのこと(好きなこと/得意なこと)にすべての時間を投入することができますから、専門化する分野にもついていくことができます。こうしてあちこちで、仕事を発注する会社と、下請けであるフリーエージェントの関係が逆転するという現象が起こるようになりました。
フリーエージェントは、「好きなこと」に人的資本のすべてを投資するクリエイティブクラスです。彼ら/彼女たちは大きな人的資本をもっているので、「ソロ充」からやがて「ソロリッチ」になっていきます。もちろんこのままずっと「ソロ」でもいいのですが、「ソロリッチ」同士がカップルになると「ニューリッチ」になります。ニューリッチは経済的に恵まれていますが、高級ブランドや高級車、豪邸や別荘には興味がありません。アルマーニを着て三ツ星レストランに行くよりも、ユニクロで近所のビストロに行って夫婦でおいしいワインを飲むとか、豪華クルーズよりも子どもたちと山に登って自然に触れるほうがいい、というひとたちです。
ニューリッチのライフスタイルが、アメリカではいまいちばんカッコいいとされています。──ブルジョア(Bourgeois)とボヘミアン(Bohemian)を組み合わせて「BOBOS(ボボズ)」と呼ばれます。〝リベラルでカジュアルなお金持ち〟という感じの言葉です。クリエイターやスペシャリストの仕事は定年がありませんから、ニューリッチはいつまでもはたらこうと思っています。お金が貯まったら悠々自適の生活を楽しむのではなく、好きな仕事を通じてずっと社会にかかわっているほうがカッコいいのです。
人生100年時代の人生戦略は、いかに人的資本を長く維持するかにかかっています。そのためには、「好きを仕事にする」ことが唯一の選択肢なのです。
テクノロジーが進歩すればするほど、共感能力が高く、真面目で優秀な女性の価値はどんどん上がっていくはずです。そんな未来が待っているのに、専業主婦になってせっかくの「人的資本(2億円のお金持ちチケット)」を捨ててしまうのは、あまりにももったいないと思いませんか。
夫が生命保険に加入していれば、死亡によって保険金が支払われます。生命保険金の平均額は2000万円程度です。しかし、妻にとって夫が死ぬことのメリットはこれだけではありません。まず、夫がサラリーマンで18歳以下の子どもがいる場合、遺族基礎年金と遺族厚生年金が支給されます。子どもが2人いる場合は基礎年金で年120万円、厚生年金を加えれば年200万円ちかくになります。それに加えて、住宅ローンを借りてマイホームを購入していた場合、自動的に団体信用保険に加入することになるので、夫が死亡してローンの返済ができなくなったときは、保険会社が代わりにローン残高を全額払ってくれます。これをかんたんにいうと、夫が死ぬことによって①住宅ローンのないマイホームが自分のものになる、②子ども2人なら年200万円の年金が受け取れる、③平均して2000万円程度の生命保険金が下りる、ということになります。
日本の会社は子育て中のシングルマザーを正社員として採用しませんから、パートや非正規といった条件の悪い仕事に就くしかありません。「だったら生活保護を受ければいいじゃないか」と思うでしょうが、日本は生活保護の利用率が人口比で1・6%ときわだって低い国でもあります。ドイツやイギリスの生活保護利用率は約10%、スウェーデンでも4・5%ですから、こうした国では(いいか悪いかは別にして)生活保護で暮らすのは特別なことではありません。ところが日本では、「あそこは生活保護だ」という噂がたつと子どもがいじめられるので、たとえ生活保護の受給資格があってもシングルマザーははたらこうとします。これが、高い就業率と低い収入の理由になっています。
母子家庭になるのは離婚したからで、貧困に陥るのは別れた夫(父親)が養育費を払わないからです。責任は男にありますが、なぜか日本では、養育費の不払いはほとんど問題にならず(収入がないのだからしかたがない、と思われている)、母子家庭の生活保護不正受給だけがバッシングされます。こうした日本社会の現状を見れば、賢い女子が出す結論はひとつです。「結婚して子どもを産むと、なにひとついいことがない」
逆境の経験がもっとも多いひとたちは、うつ状態になることが多く、健康上の問題を抱え、人生に対する満足度も低いことがわかりました。これは当たり前ですが、しかし、同じように幸福度の低いグループがもうひとつありました。それは、「逆境を経験していない」恵まれたひとたちだったのです。うつ病のリスクが低く、健康上の問題が少なく、人生に対する満足度がもっとも高いのは、逆境を経験した数が中程度のひとたちでした。幸福になるには、つらい体験が必要なのです。
http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column04.html
http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column07.html
多くの国の大学がテニュア(終身在職権)制度をとる。例えば米国では、教授(Professor)と相当割合の准教授(Associate Professor)にテニュアが与えられるが、30歳前後の新採用の助教授(Assistant Professor)に、いきなりテニュアが与えられることはほとんどない。独立裁量権をもつPIとしてテニュア・トラックに乗り5~7年後に業績審査を受ける(有能者には途中で外部招聘がかかる)。審査後の処遇は「Up or Out」で、合格すればテニュア付きの准教授、時には一挙に教授に昇格し、不合格ならば転出する。問題先送りの助教授留任はない。もとより外部の評価意見も含め判断は主観であり、不合格は決して失格を意味しない。創造的であれば、他大学に転じて成功する機会は少なくない。また教育重視の小規模大学への転職を望む人も多く、大学も当人の意向を支援する。まことに明快な制度ではないか。
研究社会は基本的に競争的である。わが国でも、若者は自立して自らの活動に責任を取らねばならない。テニュア・トラック制度は、適切な条件のもと評価を経た上で、内部昇格を認めるものである。公正かつ躍動感あるこの制度を全国的に徹底させるべきである。
http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column08.html
http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column14.html
http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column15.html
http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column16.html
http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column17.html
良い論文とは、読者にとって読み応えがあり、腑に落ちるものである。その上で研究の礎のなった先行論文こそが、高く評価されるべきである。被引用数は各分野における発表論文のいわばエコー(反響)の度合いにすぎず、決して科学的創造や進歩への貢献を反映しない。視聴率の高いテレビ番組、入場者の多い催し物、人が溢れる喧騒の都市繁華街が他に比べて質が高いとは限らない。
統計によれば、記録が維持されている5,800万論文のうち、44%が一度も引用されず、32%が9回以下であり、1,000回以上引用されるのは、僅か0.025%の1万4千論文に過ぎないという。しかし、この「民主平等的」研究社会では、この大多数を占める「低評価論文」にもやはり対等の引用権利が与えられ、その反映が被引用総数として現れる。被引用数評価の信奉者たちは、ここに自己矛盾、この増幅の仕組みを負のスパイラルとは認識しないのだろうか。逆にトップ0.1%被引用論文の特別扱いも価値偏向を助長し、好ましくないことは当然である。
http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column18.html
数値偏重が研究評価における問題の原点ともいえるが、その病理の根底には、現世代の多数決民主主義、なぜか意味を問うことなく、一票でも多い方が正しいとの信仰がある。わが国の悪名高い入学試験の呪縛のまん延が、主観を疎み、一点刻み、総点の0.1%程度に過ぎない無効数字であっても、客観比較こそが最も公平とする価値観を醸成している。
18歳時の入試勝者たちは、総じてスコア化を好み、この「厳密かつ公正な」仕分け判定で、人生が決定、安定した地位を得たとの勘違いさえする大学入試が青年たちの将来性を占う仕組みであれば、1、2割の違いがあってもほぼ同等であろう。かつての勝者の集団たる教員組織は後継者の選抜に多大のエネルギーを傾注するが、その分解能はいかほどのものか。もっと人事専門家の力を借りて教科以外の要素を十分勘案すべきであろうが、あるいは「松竹梅」と格付けした上で、「竹」をくじ引きして合否決定してはどうか。悲しいかな、100点満点と0点の間の規格化された、あるいは秀才にとっては100点と80点位の狭い評価空間を右往左往する習性のために、世界の桁違いの存在、ましてや「負の存在」に出合う機会に乏しく、価値の相対化能力を喪失する結果となっている。
この傲慢が、長じて科学社会における他を顧みない「勝者総取り(winner-takes-all)」文化を醸成することにもなる。競争的資金の獲得はたまさか幸運であっても、最高の研究を意味するとは限らない。過去の採択課題を追跡すれば明白である。米国ではトップ20%を選び、あとはくじ引きにする方が合理的との主張もある。
http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column20.html
読者が目にする科学論文は研究者と査読者、出版組織の共同作品である。科学研究は主に公的資金に支えられるが、成果発信の相当部分は民間が担う。伝統を誇る英国Nature誌は、現在ドイツ商業出版社Springerの傘下にある。広い科学分野を取り扱うが、進展する専門分野に特化した多くの姉妹誌をもつ。Cell誌は世界最大のオランダ出版社エルゼビアが発行する生物医学専門誌である。ちなみに、広く社会的影響力をもつScience誌は、2万人の会員を擁する米国の非営利団体AAASが発行するが、相当の収益事業という。
科学技術政策や大学組織の経営方針は、断固として自らの理念に基づく主体性を堅持すべきである。しかし、いまや出版界は研究者の人事、研究費のみならず、いくつかの分野では科学の行方にまでに影響力をもつに至っている。最近の商業誌には、本来の出版使命を超えて自ら科学賞を設置する動きさえある。実際、シドニー・ブレナー(2002年ノーベル生理学医学賞受賞者)は、「学界はすでに科学誌の要求に応える成果を生むよう仕向けられており、制度的に腐敗しきっている」と断罪している。研究者の隷属はあってはならないはずである。
果たしてこの種の有名ブランド誌への掲載が、研究者はさまざまな機会に科学的真価の基準を示す絶対的権威として機能する根拠は何だろうか。まずは、採択障壁の高さであり、それを律する特別の審査基準ではなかろうか。例えばNature誌の現在は採択率が5%以下。採択数が少ないからこそ、研究者はあえて希少性に挑む。
投稿論文は担当編集者の責任のもと、見識あるとされる数名の外部専門家による匿名査読(peer review)に供される。採否の裁断には膨大な時間と労力がかかる。意見を受けて、しばしば修正作業ののち、編集者が最終判断する。通常はアカデミア有力者が編集に責任をもつが、Nature誌やScience誌においては社内の専属編集者を中心とする会議の判断が重要と聞く。この誇り高き編集者たちの広い視点での熟議は高く評価できるが、彼らの主観的判断は商業誌ゆえの基準に則ると推察され、一般学会誌のものとは異なっても不思議はない。
決して霊験あらたかな、総じて水準の高いとされる科学誌を一方的に非難するつもりはない。むしろ、それをあたかも聖断と崇める研究社会の風潮こそを懸念するのである。
高級ブランド誌の平均被引用数指標(英語では大げさにjournal impact factor(JIF)と称する)は大きい。いやJIFが高いからブランド誌とよばれる。しかし、元来Nature、Science両誌ともに高いJIF値を支える論文は全体の25%に過ぎない。
高いJIFを記録する論文の大半が、昨今爆発的な発展を見せる生命科学、医療関連分野から生まれる。残念ながら、ここに虚偽を含む様々な不都合による研究論文の撤回の頻発が話題を呼ぶ結果となっている。有名なEMBOジャーナルによると、すでに公表済みの論文の写真図面の20%に改ざんの跡があるという。
さらに驚くべきことは、不名誉な論文撤回のワースト10にはJournal of Biological Chemistryを筆頭に、Science、PNAS、Nature、Cellなど高いJIF値を誇る最有力誌が軒並み名を連ねていることである。一部の有力研究者たちの倫理の欠如は明白である。すでに地位を確立し、若者を導くはずのこのような研究者たちはいったい論文掲載に何を求めているのだろうか。
http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column21.html
http://www.jst.go.jp/crds/about/director-general-room/column22.html
決して著名誌が全てではない。ノーベル化学賞をもたらす本当の端緒となった発見の多くは、地味な専門誌に、特に飾ることなく誠実かつ謙虚な形で、時には英語でない母国語でさえ発表されてきた。真の科学的価値は論文誌名や、前述の被引用数とは無関係である。
おそらく誠実ではあろうが尊大に見えるブランド誌の編集者の指図や、時間のかかる煩雑な交渉を避けて、あくまで自らの主張を貫くべく地道な専門誌に発表したい研究者は少なくない。これこそがごく自然かつ健全な傾向でないか。より緩やかな時代に研究生活を過ごした私の友人科学者たちにとっても現在の有名誌は決して第一選択肢ではなかった。ちなみに、私自身も化学専門誌への投稿を習慣とした。Science誌には僅か3編、Nature誌には1編しか発表していないので、昨今の生命科学分野なら国立大学教授職に不適格であったかもしれない。
昨年、わが国が初めて元素名命名権を得た113番元素ニホニウムの合成の成果は、森田浩介博士はじめ理化学研究所の研究者たちの思い入れもあり、当初から日本物理学会の英文誌(Journal of the Physical Society of Japan)に発表された。
まず、わが国の出版界は学界と協力して、高等教育にもっと責任を果たすべきである。海外に通じる英語版教科書の出版が望ましいが、まずは日本語版であろう。学生は大学に入ると授業で「将来、教科書に一行でも載るような研究をしろ」と喝を入れられる。ところが、わが国の大学や大学院教科書の製作能力が極めて弱く、少なくとも化学分野では海外依存が甚だしく、一般評価の高い外国製教科書ないしその訳書を使用する傾向にある。記述内容は当然、欧米の歴史観や言い伝えに従い、著者の意図の有無に関わらず、わが国先達の独自性ある科学的貢献の記述を避けがちとなる。もとより高等教育は初等、中等教育とは異なり、また科学に国境はないが、学生が最初に接する知識体系であるがゆえに、訳書依存の授業が引き起こす教育的不都合は明白である。
優れた教科書は大半の論文誌よりは、より広く次世代育成に益するところが多いはずである。かつては先輩諸氏による名著もいくつかあり、私自身も大学院生のための有機化学の教科書づくりに深くかかわった。しかし残念ながら、後継の教員たちの教科書執筆意欲は低い。分野細分化傾向と共に、評価制度が「研究成果」を偏重し、「教育奉仕」を軽んずる結果、彼らの行動規範が変わったのではないかと憂慮している。