世にも美しき数学者たちの日常

まぁ、こんな感じになるんだろうね、という予想通りの出来。決して面白くないわけではないけれど、全体的に踏み込みが中途半端だな、という感想(できないのも分かってるけど)。構成的に、数学好きの一般人を紹介するくらいなら、応用数学者(物理学や経済学者など;渕野さんからヒント貰ってるんだし)を紹介したほうがいいってことすら分からないんだろうな、というある種の諦念も。一般人(小中学生)向け書籍って感じですね。

加藤文元

  • 「共同研究も、その人と共同生活をすることなんですね、問題と一緒に。食事に行くときも、旅行中も、遊びに行っても、その問題について話ができる状態にする」
  • 「数学では『共鳴箱』という表現をすることがありまして、いい共鳴箱を持つことは重要なんですね」
  • 共鳴箱自体は音を出さない。しかしオルゴール単体では聞こえづらい演奏の音色を大きく、鮮やかにすることができる。
  • 「聞き手に向かって話すことで、自分のアイデアが育っていくことがあります。二人の共同研究でも、片方がどんどんアイデアを出して、片方はひたすら共鳴するというスタイルもあるでしょう」

 

  • 「そうです。数式は音楽家が使う音符と同じものであって。誰かに伝える時に音符があると便利だけど、でも音符を読めなくても音楽は楽しめるじゃないですか。本質は楽譜じゃなくて、奏でることにある。数学イコール数式というのは、
    全然違うんですよ。数学を味わうのに、必ずしも数字や数式は必要ではない」

 

  •  「いや、文字通り不可能なんですよ。表現できない。でね、じゃあ数値的には計算できると思いますよね。曖昧さは何もないはっきりとした方程式だから、数値計算すればいいはず。ところが数値の誤差が少しでも入ると、エラーがものすごく大きく広がっていくという性質があるんです。だからその解がどうなっていくのか、ほとんど予想がつかないんですよ」
  • 「数字の計算で、エラーが起きるものですか?」
  • 「本来なら無限の精度でやらなきゃいけないところを、有限精度でやるからですね。計算の中で小数点以下何桁、とかで切っちゃうでしょ。計算機で計算するとしても、プログラムの中で何桁目を四捨五入するとか、切り捨てとか、決まっているわけです。結果に大きな影響が出ないのならそれでいいんですが、カオスの場合はそのちょっとした誤差がとてつもなく大きな影響を及ぼして、エラーだらけにしてしまうんです。何が本当の解だったのか、全くわからなくなってしまう」
  • 数学というのはとても論理的で、それが透徹していないとならないけど、意味のない論理展開をしてもしょうがないんです。一つ一つ数学として意味があることをやって、その結果今まで見えていなかったようなことがワーツと見えてくるような、そういうのがいい証明なんです」
  • 「そういえば渕野さんは日記に、数学は才能が占める部分が大きく、努力で補える部分は少ない、と書かれていましたが……」
  • 「そうですね。僕は大学院生の指導もするわけですが、学生のレベルと研究者のレベルとの間にはやはりハードルがあって、それを超えるだけの能力がない人はいるわけなんです。いかに数学に興味を持っていて、数学者になりたいと思っていても」
  • 「それはもう、はっきりわかってしまうものなんですか」
  • 「『この人はこのぐらいのレベルだな』というのは、少し数学的な議論をすればすぐにわかってしまいます。学生とでもそうだし、数学者同士でもそう。だから怖い世界ですよね。他の世界ならもっといろいろな要素があるから、努力でカバーできる部分もあるでしょう。でも数学は閃き、センスみたいなものが占める部分がかなり大きいので、ダメな時は本当にダメ。で、そういう人をどう扱ったらいいかというのは、本当に難しい問題なんです」

 

  • 「江戸時代の数学は他の学問、たとえば物理学や社会科学と影響し合って発展する、という道を取らなかったんですね」神戸大学は数学研究室の談話スペース。ソファに腰かけた渕野さんが言うと、後ろでまとめた長髪が軽く揺れた。
  • 「特に物理と繋がっていなかった。ヨーロッパでは、数学は物理学とか天文学とかと繋がって大きく発展してきているんですよ。一方の日本は、純粋に数学、パズルを解くことを通じて、精神性、人間性を高めるとか、そういった要素が強かった。そういう体質が現代にも一部、引き継がれてしまっているんじゃないかと思います」いろんな人がいるので全員に当てはまるわけではないけれど、と渕野さんは前置きして続ける。
  • 「そういう遊芸としての数学とか、いい点を取って大学に入るための数学、すなわち受験数学が、日本では一人歩きしちゃつているところがあるのかと。点をできるだけ取って、ちょっとでもいい大学に入ろうとする人たちには、問題は解けてもその奥の意味を知る余裕がないんですよね。だから学ぶモチベーションが消えてしまう。せっかく大学に入ってもそのまま、いい点を取るにはどうすればいいのか、という気持ちのまま数学をしてしまうんじゃないか。数学の考え方を踏み台にして何かをより深く理解する、ということを目指すと、違ってくるとは思うんですが・・・」
  • 数学は点を取るだけのものだと思っている人と、宇宙を知るための道具の一つだと思っている人。確かにこの違いは深刻だ。僕は今のところ前者のタイプだが、
    もし後者のタイプだったとしたらどうだろう。
  • 数学が社会で何の役に立つのかと聞かれても、「うーん、そこからか・・・」と頭を抱えてしまいそうだ。全ての基盤になる部分を研究しているつもりなのに、役に立たないことに血道を上げる変人のように見なされてしまうかもしれない。素晴らしさをわかってもらうには、実際にやってもらうのが早いのだが「数学は恐ろしくて、難しい」と言われてしまう。そんなに怖がらなくても、やってみれば意外と簡単だし、楽しいのに・・・。

 

  • 「僕、たぶん今生きている人類の中で一番頭のいい人の助手を、半年間ほどやったことがあるんですよ。シェラハ先生っていうんですけど」サハロン・シェラハ。イスラエルの数学者である。
  • 「その人の論文は2千本くらいにまでなったのかな。ゆうに千は超えているはず。共著者がたくさんいるんですけど、中にはシェラハに問題を持ち込んで、教えてもらった結果をほとんどそのまま論文の形にすることしかできない『共著者』もいます。つまり、本当にすごい先生です。僕が彼の助手になった時にね、助手を長らくやっていた方に言われたんですよ。『サハロンを人間だと思ってはいけない、宇宙人みたいなものだと思わないと、やっていけないよ』と。宇宙人なら何でもありでしょ?それくらいの人なんですよ。彼に比べればもう、他の人は全部同じ、どんぐりの背比べみたいなもので」
  • 「そんなに普通の人と違うんですね」「うん、違う。違いすぎるので、もう比較してもしょうがない」「その先生の助手というのは、どんな仕事をするんですか」「いろいろあるんだけどね、研究のアイデアを聞いて細かいところを埋めるとか。シェラハはかなり細かくノートを書いてくれるんだけど、それを普通の人が読んでも全然わからないんですよ。普通の人が読めるような論文の形に、ノートを解読して落とし込まないとならないんです。だから助手と言っても、普通の人にはできない仕事です。僕がその助手をやっていたというのは、まあちょっと威張れることかもしれない」
  • 「渕野さん。ちなみに今言った『普通の人』というのは・・・」「ん、ああ。だから普通の、専門家。普通の数学者ですね」

 

  •  「一つ象徴的なのが、『岡・カルタンの理論』です。岡先生が作った多変数関数論という数学の分野があります。これはフランスの数学者のアンリ・カルタンと互いに刺激し合うような形で、作り上げられていきました。このカルタンという人は、アンドレ・ヴェイユと共に現代数学を作った人なんですね。ある時フランス数学会の機関誌に、岡先生の連作『多変数解析関数について』の七番目の論文が載ることになります。1950年。巻頭論文でした。で、その次に載っている論文がカルタンの論文なんですけれど、これは岡先生の論文を1年ほどかけて全面的に書き直したものなんです」「え? 同じ論文なんですか?」「論理的には同じですね、でもものすごく大きな乖離がある。岡先生の論文はさっきのたとえで言う鶴亀算で、カルタンの論文は連立方程式なんです。つまり「岡の言っているのはこういうことである』と、カルタンたちが作っていた新しい数学の形に、抽象化して組み込んだわけです。こうしてできたのが岡・カルタンの理論。ホモロジ
    ー代数……層係数コホモロジーという新しい代数です」つまり昔の数学と、今の数学がすれ違った瞬間の一つということなのか。
  • ホモロジー代数は大成功を収めました。多変数関数論だけでなく、様々な分野に応用が利いたんですよ。数学の世界に非常に大きな土台を作りまして、その上に代数幾何学なんかもできた。難問だったフェルマー予想を解くことにも繋がっていったんです。これで岡先生は一挙に有名になった。業績を絶賛された。でもね」高瀬先生は声のトーンを落とした。「岡先生はそのカルタンの論文が、非常に嫌いでした。教科書にはカルタンの論文の方が載って、岡先生の論文は読まれなくなって。有名になった岡先生のもとに、学生たちが訪ねてきたりするわけですよ。カルタンの理論を教科書で読んだ学生がね。でも『あんなのは私の理論じゃない』と。怒られた方はなんで起こられたのかよくわからない、尊敬しているのにね

天才数学者、ラスベガスとウォール街を制す

「お金持ちになる方法」はあるだろうか?標準的な経済学に従えば、大きく3つあるのだろう。1つ目はインサイダー取引を行うこと、2つ目はねずみ講を組成するなど、詐欺を働くこと。言うまでもないことだが、確実に儲かるがゆえに、これら2つは法律で規制されている。合法的にお金持ちになる唯一の方法である3つ目は、裁定機会を見つけてくることだ。本書はこの「お金持ちになる」方法を実践してきた投資家の自伝である。

上巻

  • 私は怒り狂い、2学期には化学の授業を取らず、専攻は物理学に変えた。おかげで私は有機化学の授業は取らなかった。これは生き物すべてにとって主要な構成要素である炭素化合物を研究する分野だ。つまり生物学の土台である。
  • このとき早まったせいで、私は学校も専攻も変えることになり、おかげで人生の道筋がまるごと変わってしまった。振り返ってみると、変わってよかった。私の興味も私の将来も、物理と数学のほうにあったからだ。何十年もあと、人間が健康にもっと長生きするためのアイディアを追求していて有機化学の知見が必要になったときには、必要な分だけ自分で学んだ。 

 

  • 教授は高名な物理学者の息子だったが彼自身は凡庸だった。いつもビクビクしていた。学生から質問されるのが怖いので、講義はカードの束に書いたことを黒板に写すだけだった。学生がものを言いにくいようにずっと背中を向けている。で、私たち学生は板書を自分のノートに写す。彼はもう何年もそんなやり方をしていて、講義の内容は毎年ほとんど変わらない。バカかと思った。先にカードのコピーを配ってくれたら講義の前に読めるから、興味深い質問もできるのに。もちろん彼は、誰かに何か尋ねられて自分が答えられないのが怖いのだ。
  • 退屈した私は、講義中にUCLAの学生紙『デイリー・ブルーイン』を読み始めた。これで教授の自尊心が傷ついた。執念深い敵を作りたくなければそういうのは絶対に避けないといけない。私がそう知ったのはずっとあとになってからだ。とても怒った彼は、私が完全に新聞に没頭していそうなときを狙って、カードを黒板に写すのを何度も急に止め、質問を私に投げつけた。そのたびに私は正しい答えを言ってまた新聞に戻った。
  • 今から思うと、私はいつも、ケチで凝り固まった凡人を見るとイライラしていた。ずっとあとになって、そういう連中と角を突き合わせたってしょうがないのを学んだ。そういう連中は、できるものなら避けて、できないものなら適当にあしらってやるのがいい。
 
  • CBOEが開所する数カ月前、私はオプション評価の公式を使って取引する準備ができていた。この公式のことはほかに誰も知らない、私はそう思っていた。PNPの独壇場だな。そんな矢先、聞いたことない名前の人から手紙が来て、発表前の論文のコピーが入っていた。ブラックという人だ。手紙はこう言っていた。私はあなたの研究に感服している、自分とショールズで『市場をやっつけろ』の核心であるデルタ· ヘッジのアイディアを拝借して1歩進め、オプション評価の公式を導出した。論文を流し読んでみると、私が使っているのとまったく同じ公式が出てきた。グッドニュースは、彼らが厳密な導出をやってくれたおかげで私が直観に頼ってたどり着いた公式が正しいのが証明されたことだ。バッドニュースは、これで公式は広く一般に知れ渡ったことだ。みんなこの公式を使うに違いない。運よく、そうなるにはしばらく時間がかかった。CBOEが開所し、取引が始まってみると、取引に公式を使っているのは私たちだけのようだった。 

 

  • 大きな組織につきまとう1つの問題は、構成員の大部分が他人の邪魔はしないのがいいと決め込んでしまうことだ。そうして道理が通らなくなるのである。私は親しい友だちに副学科長になって私を助けてくれと頼んだ。私が数学科で職を得るのを手伝ってくれた人だった。その頃にはもう終身の正教授になっていたのだけれど、彼は私の申し出を断った。言い分はこうだ。「オレはこのサルどもと一緒のオリで暮らしていかないといかんのだよ」。彼の言うことはよくわかる。対する私はと言うと、そんなオリに縛りつけられてはいない。私にはPNPがある。こんなことを思った。なんで私がここをなんとかしてやらないといけない?誰も私の味方をしてさえくれないのに?私は入りたくて数学科に入ったのだ。入らないといけないから入ったのではない。もういい頃合いだろう。

 

  • 人生最大の望みはカリフォルニア大学で終身教授になることだと誰かが言うのを何度も聞いた。私にとってもそれは夢だった。長い歳月のあいだに、私はUCIの学生や元職員を何人も雇ってきたが、教授陣でこの挑戦に乗って私の会社に加わってくれたのは1人だけで、終身教授ではなかった。ほかの人たちにとってそんなのは考えるだけでも恐ろしかったのだ。
    まあもちろん、そんなほかの人たちには、あとになって後悔した人もけっこういたけれど。
  • 常勤での講義の仕事はだんだん減らしていき、最終的にUCIの正教授を辞任したのは1982年のことだった。教えるのも研究するのも大好きだったから、一生楽しくやっていくんだろうと思っていた仕事を手放して大きな喪失感を味わった。でも結局、そうしてよかった。私は好きなものをちゃんと持って出たのだ。友だちもそのままだったし、共同研究も続けられた。思うがままに好きなことをやれるわけだから子どもの頃の夢がかなった。自分の研究を学会で発表し続けたし、数学や金融、それにギャンブルの学会誌に論文も載せ続けることができた。そうして私は、学界からウォール街へと押し寄せていた数学者に物理学者、金融経済学者との競争にいっそう力を注ぐようになった。

下巻

  • 政府は、当時とそれ以前の両方にわたるメイドフの顧客のリストを公表している。顧客の数は1万3000件を超えていて、大金持ちとは言いがたいフロリダのご隠居さんから、セレブに億万長者、慈善団体や大学といった非営利組織までさまざまだ。この(あるいはほかの)詐欺であれだけの数の投資家が簡単に、それも多くの場合何十年にもわたって騙されるなら、市場は「効率的」だなんて言う学界の理論はどうなんだろう?投資家は素早く合理的にすべての公開情報をポートフォリオ選択に反映させるとかっていう仮説はなんなのだろう?
  • 多数決という・・・やり方は、場合によってはものすごくうまくいく。樽の中に豆がいくつ入っているかとか、かぼちゃの重さとかを当てるなんて場合がそうだ。たくさんの人の当て推量全部の平均は、だいたい個人それぞれの当て推量の大部分より、ずっといい推定になる。この現象は群衆の叡智と呼ばれている。でも、だいたいの単純な話と同じように、この話にも裏がある。メイドフの事件でいうと、答えはたった2つしかない。イカサマ師か投資の天才かのどちらかだ。群衆は投資の天才のほうに手を挙げ、それは間違いだった。この群衆の叡智の裏を、私はレミングの錯乱と呼んでいる。

 

  • たいしたことない価格の変化に説明をつけるのは金融マスコミが四六時中やらかしている間違いだ。記者には目の前の変動が統計的によくあることなのかめったにないことなのかがわからない。でも考えてみると、人はなんにもないところにパターンを見たり説明を思いついたりなんて誤りをよく犯す。ギャンブルの戦略の歴史、役にも立たないのにやたらとある、パターンに基づく取引手法、それにマスコミの記事を本気にした投資法の大部分を見れば、それがよくわかる。

「大きすぎてつぶせない」なら

  • 個別に見ると、金融業界の重鎮の中には、個人として、あるいは会社として、ひどい傷を負ったケースもあった。でも、政治業界にコネのあるお金持ちは世間一般の人の財布から1兆ドルも奪い取り、「大きすぎてつぶせない」会社を救済させた。一部の利益団体にはたっぷりお金をばら撒いて懐柔し、また報いた。スクラップ直前の車を引き渡して別車を買うと4500ドルもらえる「ポンコツ買い替え補助金」なるものができた。環境にやさしい政策なんてネコをかぶっているけれど、新しい車を買うと車の種類によってはガソリン3.7リットルでほんの1.6キ
    ロから6.4キロ余計に走るだけで補助金がもらえた。燃費が気持ちだけよくなっても、新しい車を作ることで排出される追加の公害のほうがずっと大きい。でも車のディーラーたちは買い替えを後押ししてもらい、売り上げは伸びるわ車庫にたまった在庫がはけるわで大喜びだった。
  • 正社員でもパートタイムでも失業率は上がり続けていた。失業手当の給付期間は何度も延長された。必要だという意味ではこれはいいことなのだけれど、手当てを払うより手の空いている人たちをできるだけたくさん雇い、有意義な事業に携わってもらうほうがみんなのためになると思うのだ。公共事業促進局(WPA、Works Progress Administration)や資源保全市民部隊(CCC、Civilian Conservation Corps)なんかの事業が頭に浮かぶ。子どもの頃、1930年代のそうした事業で道路や橋、公共施設ができた。あのときに改善されたインフラは、それから何十年も私たちに恩恵をもたらした。

漫画201908

9巻のカロンが前半の山場、10巻はアラライ変態王子の大虐殺、主人公が出てきたと思ったらまたしても女運に恵まれず(ある意味恵まれてるけど環境に恵まれず)・・・。刊行スピードも相まって、面白いけれど、面白いがゆえに読者をヤキモキさせる作品。

11巻は話が進むのかと思いきや、大西ライオン(勝手に命名)がメインで、またしても主人公は脇役。本編ストーリーはこれといって進まず、生きている間にクオリティを保ちつつ、ちゃんと話を終わらせてほしいと切に願うお祈りモードに突入しました。4点

今流行のスピンオフ作品ですが、原作の資産をうまく活かしきれておらず、あまりおもしろくありませんでした。2点

本編はいよいよ全面対決。正直エマにうんざりしてきた読者も多いのでは笑。20巻くらいで綺麗に着地してほしいところです。個人的には敢えて綺麗に終わらせず、含みをもたせて気持ち悪い終わらせ方をしてほしい作品です。3点

これもう無限に続けられるんじゃね?ただただ西片が羨ましい。5点
不満がありません。5点
いつもの緩いふらいんぐうぃっち、完成度が高い漫画です。フクロウ回最高だった。ふらいんぐうぃっちの真琴ちゃんと魔法科高校の深雪ちゃん、黒髪ロングストレート美少女の両雄が並び立つ。5点
ジャンヌちゃんが完全にニノさんなんですがそれは・・・4点

クライマックスに一歩ずつ、見守りモードです。並べて気づいたけど、遠目には日々人の髪型がブッダと同じですね笑。3点

なんかストーリーが散らかっている気がしますけど、最終盤なのでいいんじゃないでしょうか。2点

定期告知

漫画を大量に買うなら、豪邸に住んでいない限りkindle一択です。無印kindleは容量と解像度に問題があるので。Paperwhiteがおすすめです。

  

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勝間式食事ハック

  • 自分が食べている量の割に痩せない、あるいは太っていくと感じている人は、間違いなく加工食品あるいは非常に糖質や脂質が多い外食の虜になっているはずです。
  • さらに問題なのが 低脂肪や、低糖を謳った加工食品は、実際にはさほどヘルシーではないということです。これらは全てカラクリがありまして、低脂肪の場合は砂糖を増やして、低糖の場合は脂肪を増やしておいしくしたりして、味をごまかしています。まあ、それには理由があって、そうしないと消費者がおいしいと思わないので売れないのです。

 

  • プラントベース・ホールフードには、「プラントベース」「ホールフード」の2つの意味が含まれています。
  • プラントベースとは、食べるものは植物性食品を中心にするという意味です。・・・動物性食品の中に含まれる脂肪、すなわち、飽和脂肪酸が様々な病気の元になるからです。
  • 飽和脂肪酸の問題点は、常温で固体になっていることです。それに私たちは古来、飢餓防止のため、カロリーが高いものが大好きで、脂肪を心の底からおいしいと脳が感じてしまうため、脂肪が手に入るとそれを際限なく食べようとします。
  • ホールフードという概念は何かというと、「むやみやたらに食品を生成や抽出、すなわち、過度な加工をしない」という考え方です。

 

  • やりたいことは何かというと、例えばキャノーラ油や大豆油のように、食物から分離された油を積極的に摂らないということです。油を摂りたければ大豆を食べたり、ゴマを食べたりすればいいのです。
  • 砂糖も同様で、さとうきびから分離されていますから、野菜やお米がもともと持っている甘味を上手に引き出してやって、わざわざ砂糖を加えないのです。野菜や芋類

 

  • 適切に食材を調達する技術
  • 適切に食材を加工する技術

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  • それでは肉の代わりに何を食べればいいのでしょうか?答えは簡単でして、植物
    性食品をしっかり摂っていれば実はその中にタンパク質が結構含まれているので、玄米や全粒粉、青菜やキノコ、豆類などを食べていればタンパク質の量は十分です。
  • もし心配なら、ビタミン群のうち唯一、植物性食品ではなかなか摂りづらいビタミンB12サプリメントを2週間に1粒程度飲めば、不足分は解決できます。

 

  • 私たちが肥満に悩む理由もとても単純でして、カロリーが高くて量が少ない食べ物をお腹いっぱい食べたら必然的に過食になるからです。
  • 加工食品でない植物性の生鮮品、例えば野菜や、豆や、キノコや果物をお腹が膨れるほど食べたとしても大したカロリーにはなりません。
  • 私たちが太ってしまう理由は以下の3つです。
  1. 精製した穀物の摂りすぎ
  2. 精製した砂糖の摂りすぎ
  3. 肉を含む油の摂りすぎ
  • よくベジタリアンで不健康そうな人がいますが、それは単純に食べている量が足らなすぎるのです。野菜で十分にタンパク質を補おうと思えば、3食きっちり食べる必要があります。また前にも書きましたが、野菜だけでは足りないので穀物もしっかり摂りましょう。

 

  • スチームコンベクションオーブンの特徴は、人がそばに張りついていなくても、大量の食材を適温で調理できるということです。
  • このオープンは、効率的にたくさんの料理を均一に仕上げられるため、ホテルやレストラン、学校給食などでは欠かせない調理器となっています。そして、かつてコンピューターが企業などの独占になっていましたが、それがパソコンになったのと同様に、同じ機能で小型のものが今、家庭用に普及し始めています。業務用だと何十万円も何百万円もするものばかりですが、似た機能の家庭用のものが5~10万円ほどの価格で手に入るようになりました。具体的な機種名としてはヘルシオウォータオーブンが一番有名です。
  • せっかく様々な技術革新があるのですから、情報技術だけではなく調理技術も恩恵を受け、私たちのお財布の許す範囲で、徹底的にその技術の進歩を使った調理器具を使いこなすことをお勧めします。
  • 調理というとなぜか手作りを重んじる傾向がありますが、正直私は手作りというものは信じていません。「ばらつきが多いこと」の代名詞だからです。
  • もちろん人間国宝のようなクラスの人や三ツ星レストランのシェフが、自分の経験と勘に基づいて状況判断をしながら、様々なアレンジメントを加えることについては全く反対しません。しかし、しょせん私たち素人が手作りをするのであれば、機械に作ってもらったほうがよほど正確です。
  • 私がオール電化でもIHレンジ台はあまり好きではないのは、明らかにそれはガス代の劣化コピーだからです。ガスであれば遠火の強火など、火加減ができますが、IHレンジですと、そもそも鍋やフライパンそのものを振動させて発熱をさせていますから、使い勝手が非常に悪いのです。
  • もし電気を使いたいのであれば、IH式でもヒーター式でも構いませんが、いずれ
    にしても閉鎖式で温度管理まで一体化しているものでないと、私は意味がないと思っています。
  • ほとんどの食材には熱を加える必要がありますが、熱の加え方として、
  1. 伝導熱
  2. 輻射熱
  3. 対流熱
  • などの方法があります。それぞれの調理器具はどのような熱の伝え方をしているのかということを考えると、食材に一番合った加熱方法を取ることができます。
  • 伝導熱というのはフライパンなどを通じて食材に直接熱が伝わる方法です。食の調理方法では、私は伝導熱は全くお勧めしていません。時間がかかる上にムラがあり、食材をまずくする方法のひとつだと思っています。
  • 伝導熱の最大の難点は、フライパンなどの鉄に直接触れる部分しか加熱されないことです。だからこそ人間がなんらかのかたちで、菜箸やターナーでかき混ぜないけないのです。しかも温度にばらつきがありますし、食材もいじりすぎなので、これでおいしい食事を作るのは至難の技です。
  • 輻射熱の代表はオーブンやグリルです。空気を温めて、その温かい空気が食材を囲むことで調理が行われます。輻射熱の料理の問題は何かというと、空気で温めるので、「食材が酸化しやすくなる」ということです。食材が酸化をするということは、錆びるということですから、基本的にはあまりおいしくなりません。オープンでおいしいのは、中の蒸されている部分であって表面の乾いた部分ではありません。表面に焦げ目ができるとおいしく感じる人も多いと思いますが、これは「メイラード反応」と言って、体に良くない老化物質であるAGE(終末糖化産物)ができあがっている証拠ですから、あまり好ましくありません。
  • 輻射熱で作ったものは酸化が進むので、それで温め直すと大しておいしくないのです。正直、伝導熱で作ったものも、輻射熱で作ったものも、できあがった直後はおいしいのですが、冷めるとおいしくなくなるのはそういう理由です。
  • ではどうするかというと私の食事ハックのお勧めは、「対流熱」を中心に調理を行うことです。滞留熱は主に水または水蒸気を使います。つまり水で煮るか、水蒸気で蒸すということです。
  • 蒸しを使う利点は、食品が酸化しづらく、水分が残り、AGEができにくいということです。しかも茹でたり焼いたりするよりも加熱が均一になり時間も早いのです。
  • 自宅のタオルをいちいちクリーニング屋さんに持って行く人はほとんどいないと思います。なぜかというと全自動洗濯機で自宅で洗ったほうがよほど簡単で早くて安いからです。全く同じような環境を自炊でも整えればいいだけなのです。洗濯乾燥機なら買えるけれども、自炊に対する器具を揃えないというのは頻度からいうと本末転倒です。なぜなら洗濯の回数よりも炊事の回数のほうが多いからです。
  • 私たちが食事を工業製品にしてしまったことで失われた最も大きなものは、「食物繊維と微量栄養素」でした。
  • いわゆるカロリーと、三大栄養素と言われているような、糖質、タンパク質、脂肪に関しては加工食品で十分取れるものの、食物繊維やビタミン、ミネラルが失われてしまいました。
  • なぜプロの料理が美味しくて、アマチュアの料理はばらつきが大きいかと言うと、加熱の部分が安定しないからです。
 
  • ビストロとヘルシオの大きな違いがわかりました。それは何かというと、「ビストロのような一般的なオーブンレンジは空気で調理をするが、ヘルシオのようなウォーターオーブンは水蒸気で調理をするので、食品が空気に触れづらく、酸化がしづらいため、よりおいしい」ということなのです。
 
  • 糖質制限については近年、一時期よりも旗色が悪くなってきています。糖質制限をすると確かに一時的にメタボ体型からすっきりするのですが、だからといって長生きはしないのです。
  • 結局動物性タンパク質や脂肪に頼った食生活になるため、コレステロールの量が多くなり、心臓や腎臓にも負担がかかります。
  • 際限なく砂糖やポテトチップを食べるぐらいであれば肉を食べたほうがまだマシということなのですが、初めからしっかりと野菜や玄米、全粒粉を食べることができれば、肥満とは無縁ですし、血糖値が上がることもありません。
天然酵母の全粒粉パン
  • パンの歴史を繙くと、イーストが出てきたのはつい最近であって、もともとは各地の天然酵母で小麦を発酵させて膨らませるのが基本でした。パンを発酵させる最大の目的は小麦の中に入っている栄養を引き出すためであって、膨らませるためではないのです。
  • なぜ今、天然酵母の茶色いパンがほぼ絶滅してしまったかというと、天然酵母を起こすのに24時間、発酵から焼き上がるまで7時間半かかるからですね。

 

なぜ揚げ物はおいしく感じるのか?
  • 高カロリーの加熱手法の最たるもののひとつに「油で揚げる」があります。私たちが満腹になるか否かはカロリーではなく、胃にどのくらいの食べ物が入ったかによって決まります。ある意味、質ではなく量なのです。
  • とにかく私たちはついついカロリーばかりに目が向いてしまいますが、一定の量、例えば1食当たり500~600グラムを食べるということを前提として、その中でどれだけ的確な栄養素を摂るのかということに着目すると、高カロリーで栄養が少ないものには手が伸びにくくなると思います。ではなぜ油で揚げたものはおいしいのでしょうか?答えは簡単で、「余計な空気に触れて酸化をしたり、あるいは水に茹でられてその旨味成分が水の中に逃げたりしていないから、味が凝縮している」
  • そうならば予め別の方法を使って、「旨味を閉じ込めたまま加熱をできないか」と考えたほうが早いです。つまり、茹でたりする場合、水の中に旨味を逃さずに、かつ油で揚げるような形で余計なカロリーを摂らない加熱方法を考えればいいのです。
  • ホットクックやヘルシオのウォーターオープンは水蒸気を使って旨味を閉じ込めたまよの調理を実現します。「水蒸気を使う」というと、どうしても減塩のイメージが強いのですが、実際には減塩よりは素材の旨味を逃さない加熱方法と考えたほうがわかりやすいと思います。
  • 同じようなコンセプトの調理器具はホットクックだけではなく、バーミキュラやストウブ、ル・クルーゼなどもあります。
  • ただバーミキュラやストウブ、ル・クルーゼなどは、ガスやIH台で使うのが基本
    なので火加減を自分で厳密にコントロールするのが大変なのです。またこうした無水や真空に近い状態にする鍋は、構造がしっかりしているため重いので、一度しまいこんでしまいますと次に使うときに出すのがなかなか大変です。
  • なぜ、これまで油で揚げるという方法が多かったかというと、それが、
  1. 大量に一度に調理ができる
  2. 複雑な調理器具を必要としない
  • というメリットがあったからです。
  • ホットクックは外壁で含めるととても大きくて、それだけ大きいものを用意して
    ようやく2.4リットルだけ鍋が使えるわけです。このような構造のものを業務用に
    全部用意をしたら大変です。
  • つまり玄米や全粒粉のパンなど、業務用では調理に時間がかかりすぎて実現できないような贅沢を自宅でできるようにしたり、油で揚げるといったような簡便な調理方法でなく、高級レストランでしか使えないような水蒸気を使うようにしたりと、贅沢な調理方法を可能にするのが自炊のメリットなのです。
  • そういう意味では、「無水または真空で作った料理はだいたいおいしい」と覚えておけば、加熱の仕方はバッチリです。
  • 皆さんは前に質問した通り、揚げ物がおいしいのは知っていますよね?それが低カロリーで同じぐらいか、もっと美味しかったら何の問題もないと思いませんか?
  • とにかくホットクックを使っても、ヘルシオウォーターオーブンを使ってもいいのですが、水蒸気で蒸すか、食材の水分で蒸し焼きにするという手法を使ってしまえば、誰でも料理の達人です。
 
  • 「体にいい塩は、海水と同じミネラル分の割合を持つ塩で、ナトリウム77.9%、塩化マグネシウム9.6%、硫酸マグネシウム6.1%、硫酸カルシウム4%の構成比で成り立っているが、工業的に作られた精製塩は、成分でいえば99.9%以上が塩化ナトリウムで、ミネラルバランスのいい塩を選ぶべき」
  • つまり、私たちが普段塩だと思ってるのは塩化ナトリウムであって、塩ではないのです。塩というのは塩化ナトリウムだけではなく、マグネシウムやカルシウムを含んでなければ塩とは言えません。そして、塩化ナトリウムばかり食べるから、減塩が必要になるという考え方です。
  • 醤油の塩分の含有量はだいたい16%、味噌はだいたい12%です。なので、0.6%という数字を、それぞれの値で割ってあげれば、食材などの総重量に対して適した醤油や味噌の比率を簡単にもとめることができます。実際に計算してみると、醤油は3.75%、味噌は5%になります。
  • つまり野菜が蒸し上がり、そこに味付けをしたいと思ったら、その野菜の重量に対して、塩だったら0.6%、醤油だったら3.75 %、味噌だったら5%を加えて和え
    ればできあがりです。
  • 水を使って煮物を作るときも同じで、水と入れた野菜や豆などの総量に対して、
    油だったら3.75 %、味噌だったら5%を加えてください。
  • 私の知り合いのミシュランで三ッ星のお寿司屋さんは米の水分量も調味料も、
    全て測るそうです。三ツ星のお寿司屋さんが測っているのに、私たち素人が測ら
    ずにうまくいくわけがありません。
 
  • もし丸ごと食べるのであれば、スムージーでいいのではないかという発想があります。単純な野菜ジュースや果物ジュースを飲むよりは、よほどスムージーのほうが私もマシだと思います。
  • しかし、スムージーの難点は何かというと、自分の口で噛み砕いていないので、まず唾液の中に入っているアミラーゼと食物がうまく混ざり合わないことと、口で食べるよりも大量の野菜や果物を摂りすぎてしまうため、食物繊維、特に不溶性の食物繊維が体に入りすぎて大腸に負担をかけてしまうのです。
  • 口で噛み砕いて食べることは「食べすぎ」のストッパーにもなります。満腹感が得られますし、適量でちゃんととまるのです。

yamanatan.hatenablog.com

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世界の一流企業は「ゲーム理論」で決めている――ビジネスパーソンのための戦略思考の教科書

  • コンサルティング会社マッキンゼーが1800人以上のビジネスリーダーを対象に行った調査では、重要な事業判断を下す際に2つ以上の選択肢を検討するリーダーはほぼ半数であることがわかった。競争相手の反応まで事前に検討するリーダーとなれば、さらに少ない。ゲーム理論をもっと有意義に取り入れていれば、それは当然、組織に優位性をもたらすはずだ。第2に、ゲーム理論は行動を起こすための洞察力をもたらす。私たちの周囲ではさまざまなゲームが繰り広げられているーその多くは私たち自身にはほぼ制御不能だが、ゲーム理論を通じて概要を把握していれば、他者を出し抜いて、その先の展開を理解・予測できる。戦略コンサルティング会社のリーディングカンパニー、モニター社の企業金融部門名誉会長トム・コープランドが指摘している。
  • 「寡占状態が赤字になりやすい理由も、生産能力過剰と供給過剰のサイクルも、最適な選択肢が現れる前に現実的な選択肢に走る傾向も、ゲーム理論で説明がつく」
  • 第3に、これがもっとも重要な点なのだが、ゲーム理論には組織文化を変容させる力がある。組織はゲームの「プレイヤー」となるだけでなく、組織自体が、そこでさまざまなゲームが展開される「ゲーム盤」でもあるのだ。部署間、部下・上司間、オーナーと経営陣、さらには株主や債権者においてもゲームが生じる。全員がともに伸びていける文化と構造を、その組織のリーダーがつくり出しているのなら、ゲーム理論はビジネスのポテンシャルを最大限に開花させる後押しになる。
  • もっと生産的なゲームをしていくために、企業はこれまでと異なるタイプのゲームプレイヤー(「柔軟で、知的厳密性を備え、不確実性に正面から対峙できる人材)を採用・育成し、さらには戦略策定プロセスに対する全員の有意な貢献を促す
    (「オープンで率直であると同時に、偏りのない徹底的な議論の追求を通じて、
    変動要素のすべてを真摯かつ政治的圧力なしに検証できる文化」をつくることによって)必要があるのだ。しかも、ゲーム理論が役立つのはビジネス戦略の策定においてだけではない。経営陣にゲーム認識力があれば、従業員の士気向上から、買い手やサプライヤーとの関係性構築まで、あらゆる面で変容を促していくことが可能となる。
  • ゲーム認識力がビジネスにどれだけの功績をもたらすか。そのポテンシャルをもっとも明白に示した人物といえば、おそらく、ゼネラルモーターズ(GM)の伝説的リーダーであったアルフレッド・スローンをおいてほかにいないだろう。現代のマネジメントの頂点にある者の中でも、スローンはゲーム認識力の使い手の鑑と言っていい。
  • 本人の筆による名著『GMとともに』にありありと浮かび上がっているとおり、
    自動車市場のゲームに対する彼の鋭い理解は、GMのみならず業界全体を大きく変容させた。たとえばスローンは、消費者における流行と憧れという要素の重要性を認識し、毎年新しいデザインの車種を発売して中古車から新車への乗り換えを奨励している。同様に、ディーラーにとって何がインセンティブとなるかを理解し、それまでの戦略の詰めの甘さを把握して、自動車メーカーとして初めて売れ残り在庫を買い戻す制度を導入した。統合型会計システムを採用したのもGMがバイオニア的存在だ。
  • 何より重要な点として、スローンは、部下同士の競争というゲームを理解していた。各部署のマネジャーには、自分の管轄の利益だけを追求したいインセンティブがある。スローンはこの競争心というゲームのゲームチェンジを図り、現代企業に見合った新たな組織構造を考案して、部署同士に同盟を組ませた。これはアメリカのビジネスに、今日にも継続する絶大な影響を与えている。

 

  • 成功するビジネス戦略とは、単に見つけたゲームをプレイすることではない。プレイするゲームを主体的に形成していくことだ。ブランデンバーガー・ネイルバフ
  • ゲーム理論が最大の威力を発揮するのは、展開されているゲームを認識し、有利なゲームチェンジの方法を考えていくところにある。本書では、そこまで踏み込んで読者にゲーム理論を紹介するとともに、読者自身がゲームチェンジャーとなるための道を示したい。ビジネスでもプライベートでも、参戦するゲームを自分が主体的に形成していくことで、戦う前に勝利できるようにしたいのだ。

「未来の自分」との戦いをいかに制するか?ーダイエットの本当の敵

  • 敵ではなく、仇でもなく、おのれのやましい心が人を破滅させる。仏陀
  • 私を帆柱の中ほどに縛りつけろ。まっすぐに縛れ。私が逃げ出せないようにしっかりと。私がほどけと懇願したら、なおさらきつく縛れ。ホメロスオデュッセイア
  • 科学雑誌『アペタイト』が先日、パソコン作業中のチョコレート消費量に関する研究を掲載した。被験者の前には、チョコレートを盛ったボウルがでんと置かれる。被験者はパソコン作業の合間に好きなだけチョコレートをつまんでも構わない。ただし作業に入る前に、まず15分きびきびとウォーキングをするか、あるいは15分じっと座って考えごとをするか、どちらかのタスクをこなさなければならない。運動すればカロリーを消費するのはもちろんだが、それ以前に、運動は一般的に美徳とされる行為だ。ウォーキングをした被験者のほうが自分にちょっとしたご褒美を許し、余分にチョコレートをつまむと考えるのが自然である。ところが結果は反対だった。運動をした被験者のチョコレート消費量は平均15.6グラム、静かに考えごとをした被験者のチョコレート消費量は28.8グラム。運動をしたほうが食べる量は少なかったのだ。
  • なぜこうなるのか。先行する理論によれば、運動は脳内の化学物質の組み合わせに影響を与え、食欲を抑制して、チョコレートのような嗜好品への渇望を抑える。そう考えてみると、運動を選ぶというのは「未来の自分」とのゲームだ。運動をすることによって、チョコレートを食べたがる未来の自分の欲望を変えてしまうのである。
  • たとえば私の場合、ランニングの時間がとれるのは基本的に朝しかない。そしてスナック菓子をつまむチャンスは主に午後にやってくる。「朝のデービッド(私)」は別に走りたくなどないのだが、走っておくことによって「午後のデービッド」が頻繁につまみ食いをするのを防ぐというわけだ。ランニングをしたあとはスナック菓子をそれほど食べたがらないのであれば、つまみ食い問題は解決である。「走らなければ午後のデービッドがつまみ食いをする」と先読みして、「朝のデービッド」はランニングシューズに足を入れる。
  • 「未来の自分」が減量の努力をするようなインセンティブを、どうやって与えればいいだろうか。
  • 経済学者イアン・エアーズとバリー・ネイルバフは、2006年に『フォーブス』誌に掲載された論文で、この問題を奇抜な方法で解決する新ビジネスを提案している。その名も「減量債券」。ダイエットをしたい人は1000ドルを払って、エアーズとネイルバフから減量債券を買う。すると、あらかじめ設定した目標体重を維持している限り、一般的な相場を上回る率で配当が得られる。体重が増えるのは購入者側の不履行であり、これをするとエアーズとネイルバフの儲けが増える。
    ダイエットをしたい人にとっては、減量と維持のインセンティブが大きいので、これが助けになるというわけだ。減量債券は、「現在の自分」から「未来の自分」へ、ダイエット継続のインセンティブを与える手段だ。

コミットミントと「先行者になること」との関係

  • コミットメントは、相手の選択に影響を与えられるタイミングでなければ(そして、相手がはっきりとそのコミットメントを認識できなければ効果がない。ゆえに、コミットするなら「先行者」となる、つまり相手が決定する前にコミットしてみせる必要がある。・・・戦略的見地から先行者となることの真の意味・・・

エアビーアンドビーを独り勝ちさせたマーケットの欠陥

  • 個人または法人が所有する別荘や住宅を貸しに出し、個人がそれを予約して宿泊する「バケーション・レンタル・バイ・オーナー(VRBO)という制度がある。このVRBO仲介で市場を大きく押さえているのが、ホームアウェイという企業だ。ホームアウェイ・ドットコム、VRBOドットコム、バケーションレンタルズ・ドットコム、ベッド・アンド・ブレックファースト・ドットコムといった人気サイトを多く運営し、「(全体で)紹介している宿泊先は32.5万軒以上」と謳っている。これほど多くの選択肢があるのだから、すべての出品内容の正確性を把握するのは困難だ。当然と言えば当然ながら、貸し出す住宅について一部のオーナーが虚偽の記載をして、それが審査をすり抜けて掲載されてしまう場合がある。これを表現する「SNAD(significantly not as described 説明と著しく違う)」という用語まで生まれている。
  • viven25というハンドルネームでホームアウェイ・ドットコムを利用するユーザーが、ウェブサイトのコミュニティ掲示板で、SNADに遭遇した体験を萼ている。「書いてあったことは、何もかも、ひどい誇張でした。家からビーチまでは徒歩圏内ではなく(車でも、早くて15分)、大型のシチュー鍋もなく(14人で泊まれると書いてあったのに)、食器洗浄機は壊れているというありさま。まだまだ挙げだしたらきりがないです」
  • とはいえ、少なくともこのユーザーの場合は、泊まる場所が存在していた。消費者の権利を主張する活動家クリストファー·エリオットは、2011年11月に投稿したブログ記事「バケレン詐欺問題の深刻化」で、さらに不幸な目に遭ったタニア・リーベンという、ユーザーの話を紹介している。リーベンはVRBOドットコムを通じて、マウイのコンドミニアムを6週間借りる契約を交わし、オーナーに4,300ドルを送金した。ところが、オーナーのアカウントはハッキングされていて、代金は詐欺の犯人に奪われてしまったのだ。なお悪いことに、コンドミニアムのオーナーもVRBOドットコムも彼女の損失に対して何も責任を負わず、失ったお金、そして休暇も、戻ってはこなかった。
  • ゲーム理論の見地から言えば、これは「手番のタイミング」に問題がある。借り手は、宿泊先が説明どおりかどうか確認する前に、代金を払って予約しなければならない。そのため悪質なオーナーには虚偽の商品を出品するインセンティブがある。幸い、その後登場したエアビーアンドビードットコムというサイトは、抜本的に新しいビジネスモデルで、この問題を解決している。エアビーアンドビーのアプローチでは、支払い義務が発生するのは宿泊開始から24時間後。借り手(エアビーアンドビーではゲスト」と呼ぶ)は家の様子を確かめられるので、虚偽だった場合は支払いをしなくてよい。貸し手(「ホスト」)側はこれを予期して正確に説明しようというインセンティブを抱くし、アカウントをハッキングして詐欺を働いても利益が得られないことになる。
  • こうしたシステムなら、全員が勝者だ。借り手は詐欺やSNADの心配をする必要がない。唯一敗者となる可能性があるのはホームアウェイである。ホームアウェイのシステムではこれと同等の信用性を構築できないので、エアビーアンドビーのモデルが広がれば市場を奪われる可能性が高い。創業まもないエアビーアンドビーに2011年7月の時点で1億ドルの評価額がついたのも、そういう理由なのだろう。ホームアウェイCEOのブライアン・シャープルズは、『ウォールストリート・ジャーナル』紙の取材に対し、心配はしていないと語った(「向こうもなかなかいいサービスだが、うちほどではない」)が、それはおそらく悠長すぎる。心配したほうがいいし、むしろエアビーアンドビーの仕組みを学習したほうがいい。借り手が「先攻」とならないシステム、つまり宿泊先の品質を確認してから代金を払えるシステムをつくるべきだろう。

 

  • 警察が2人の犯罪者を逮捕した。最大で懲役5年となる犯罪だ。だが、彼らはもっと悪い犯罪(武装強盗など)にも手を染めている可能性が高い。こちらは最大で懲役20年。そこで2人を別々の独房に入れ、こう告げる。
  • 「年貢の納め時だぞ。武装強盗の件も自白しろ。お前ら2人のうち、どっちが自白するか、それによってお前が刑務所で過ごす年数も変わってくる。もしお前だけが自白したら、そのまま無罪放免にしてやろう。警察に協力したということだからな。どっちも黙秘したら、両方とも5年間、臭い飯を食ってもらう。2人とも自白したら10年。お前が黙秘して、あっちだけが自白したら、お前は20年だ」

 

  • 現実世界を悩ませている重大なゲームの多くは、囚人のジレンマだ。ビジネスにおいては、競争それ自体が囚人のジレンマとなりうる。・・・競争のインセンティブを少なくする、あるいは撤廃する、信頼性の高い制度を作るなど、様々な方法でビジネス界はジレンマの解消を図っている。
  • 囚人のジレンマの最も重要な特徴は、このように、解決可能なゲームとして戦略的問題を整理できる点ではないだろうか。実際のところ、ゲーム理論は、囚人のジレンマからの「回避ルート」を5種類も提示している。
  1. 規制
  2. カルテル
  3. 報復
  4. 信頼
  5. 関係性
  • たとえば政治問題は「資本主義か、それとも社会主義か」という視点だけで切り取られることが多いが、ゲーム理論に対する深い理解があれば、個人の自由と責任、そして集合的行動といった要素を正しくとらえた実のある話し合いになるだろう。個人のインセンティブがより大きな公共善と衝突し、それゆえに全員が自己利益を追求すると全員が損をするシチュエーションは、まさにゲーム理論で考察すべき領域だ。

タバコ広告の禁止が招いた「真逆の結末」

  • 20世紀半ばのタバコメーカー各社は、膨れ上がる市場で少しでも多くのシェアを確保するべく、あの手この手を尽くして競いあった。マルボロマンなど、タバコブランドの象徴的キャラクターが誕生したのも、そうした手段の一つだ。
  • だが、喫煙がもたらす健康被害の真実が広く知られるようになってからは、公共保健にかかわる各種団体が、こうした広告の影響を懸念するようになる。広告が一般市民を喫煙習慣に誘い込んでいる、と考えたのだ。1967年には連邦通信委員会(FCC)が、タバコのコマーシャルを放送するテレビ局は喫煙の害を強調した公共広告も流さねばならぬ、と義務づけた。
  • 議会はさらに踏み込んで反応し、1970年に「公衆衛生紙巻きタバコ喫煙法」を制定。タバコのパッケージに警告文(「公衆衛生局長官は、喫煙は有害であると判断しています」)の記載を義務づけるとともに、アメリカのラジオおよびテレビ局で流すタバコ広告のいっさいを禁じた。そのかわりとして、禁煙を訴える公共広告も差し止めたほか、連邦裁判所に起こされる将来のタバコ関連訴訟に対し、タバコメーカーは責任を負わぬものとした。
  • この法律の制定は1つの分水嶺だった。だが、多くのアメリカ人が知らない事実がある。パッケージの警告表示を除き、その他の禁止令は基本的にタバコ業界からの提案で制定されたものだったのだ。もちろん、タバコ会社の幹部には今後の免責付与を望む気持ちがあった。訴訟になれば倒産や廃業の可能性があるし、投獄すらされかねない。だが、なぜわざわざテレビ広告とラジオ広告を禁止させたのだろうか。
  • 第一に、明白な理由としては、政府がこれ以上圧迫的な規制へ向かうのを押しとどめるという意図があった。第二の理由として、広告をあきらめればFCCの禁煙キャンペーンもやめさせられる。『ニューヨーク·タイムズ』紙が1970年の記事で指摘したとおりだ。
  • 「タバコ業界は、コマーシャルがビジネスにもたらす効果よりも、禁煙キャンペーンがビジネスにもたらす害のほうが大きいと理解し、それならば両方を捨てたほうが純益になると判断したのである」

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  • つまり、業界全体の広告を一律に禁止させることが、業界全体にとっての勝利の道だったのだ。
  • 特に「一律に」というのがゲームチェンジのカギだった。広告が禁止されるまで、それぞれのタバコ会社には自社商品の広告を出しつづけるインセンティブがあったのだ。この状況を理解するために、タバコ広告のゲームを定型化してペイオフ·マトリクスに整理している。
  • このゲームにおいては、自社ブランドを宣一伝するのが支配戦略だ。自社ブランドを宣伝すれば、市場シェアを獲得するというメリットがある。そのメリットは、広告を出せばもれなくついてくるFCCの禁煙メッセージによって市場全体が受けるダメージよりも優先される。だが、両社が広告を出しつづけていると、市場シェアを奪いあおうとする双方の試みがほぼ相殺され、FCCの禁煙キャンペーンによって双方が弱体化する。
  • 両社が「広告を出す」という支配戦略を選べば、両社が損を被るのだから、タバコ広告ゲームも囚人のジレンマの一例だ。
  • 広告を出さないほうが「純益になる」という発想を奇異に感じる読者もいるだろう。そこでもう少し掘り下げて考えてみたい。1970年のタバコ広告問題が囚人のジレンマであるとすれば、広告禁止という新しい規制によって、タバコ会社にとっての利得とインセンティブは変化した。ゲームが変わったのだ。もはや「広告を出す」ことは支配戦略にならない。むしろ、各社が法を破って広告を出しつづければ、それは最悪の帰結を招くと考えられる。各社とも「出さない」ほうが好ましい帰結になるというわけだ。しかも、広告を出すことによって生じるコストとリスクが消え、結果的に各社とも利益が増える。実際、まさにこのとおりの展開になった。
  • タバコ広告禁止の経緯は、社会科学者がイベント·スタディとして注目するユニークな事例である(イベント·スタディとは、企業活動に関する何らかの情報の発表が、その企業の市場価値にどのような影響を与えるか分析·研究すること)。タバコ業界が投じた広告費と、業界が得た利益の額を、禁止令施行前と施行直後で比べてみれば、明らかに禁止令が原因で生じた変化だけが見えてくる(より長期的なトレンドは多様な要因が組み合わさつている可能性がある)。経済学教授ジェームズ・L・ハミルトンが1972年に発表した論文「タバコ需要について広告、健康への不安、タバコ広告禁止」によれば、1970年と比べて1971年は「広告費が20-30 %減」。そして「1971年上半期の業界収益は前年同期比で30 %増」だった。
  • 免責を確保したうえに、収益が30 %も伸びたのだ。まさに一挙両得となった理由は、タバコ業界がタバコ広告をめぐる真のゲームを、規制当局よりもよく理解していたからだった。FCCの禁煙推進派は、タバコ広告が人々に喫煙を始めさせていると想定していた。そうでなければ、大手タバコ会社が巨額を投じて毎年広告を打つ理由はないだろう、と。しかし、「ビッグ·タバコ」というのは総称だ。そこには熾烈に戦う個々のタバコ会社がいる。彼らにしてみれば、お互いから既存の喫煙者を奪いあうのが広告の第一目的であって、新たに喫煙を始めさせるという狙いは二の次だった。
  • 規制当局が当初のタバコ会社同士のゲームを真に理解していたら、その囚人のジレンマに彼らを縛りながら業界全体を弱体化させていくことができたはずだ。実際のところ、広告禁止令が出るまで、タバコ業界は自分 たちのビジネスを殺す禁煙キャンペーンを金銭的な面で完全にーしかも「自主的」にー支える格好になっていた。

 

  • 経済学も、人間が非最適行動をするという現実をかねて認め、それを意思決定モデルの一部として取り入れている。政治学者ハーバード·サイモンは、「限定合理性」に関する長期的な研究(その始まりは1940, 50年代にさかのぼる)を評価され、1978年にノーベル経済学賞を受賞した。サイモンの経済学的考察の基盤となっていたのは、人間は直面する選択に対してたいてい限定的な情報しかもたない、という見解だ。そして、その限定性ゆえに、発見的な問題解決法(ヒューリスティクス)、すなわち経験則によって「それで事足りる(グッド·イナフ)」の結果を得ていく傾向がある、という観察である。
  • では、何が「グッド·イナフ」か判断するにはどうしたらいいか。方法の1つは実験していくことだ。経済学では、ここで言う実験を「探索(サーチ)」と呼ぶ。探索理論(サーチ理論)は、もっとも重要な経済理論の一分野だ。
  • エドワード・コナード・・・配偶者をを見つける最高かつもっとも合理的な方法を説明している。
  • 「測定(calibration)」の時間をしばらくとること。可能な限り多くの相手とデートをして、結婚市場はどんなものであるか感覚をつかむ。それから選択フェーズに入る。このフェーズの目的は永続的な伴侶を選ぶことだ。測定フェーズで出会ったなかで最高の女性よりも、さらに相性のよい女性に最初にめぐりあったら、その女性が結婚すべき相手だ。

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ダイヤモンドは永遠の輝き

  • デビアスはビジネス競争の一般的な法則には従わない。同社は長らく、その理念のもとで経営を行ってきたのである。オッペンハイマーは、同じく1999年の基調講演で、こうも述べている。
  • 私が会長を務めるデビアスは、世界でもっとも有名で、もっとも長く経営が続いている独占事業である、と喜んで自称したい。シャーマン氏の戒律を破る(シャーマン法、つまり反トラスト法に違反するという意味)ことこそ、我々の方針の目指すところだ。ダイヤモンド市場を制圧し、供給を管理し、価格を制御し、ビジネスのパートナー企業と共同行為を行うつもりはございません、などとうそぶくつもりはない。・・・デビアスの試みはデビアスと、ダイヤモンド生産者のすべてに利するだけでなく、消費者の利益にもなると信じて疑わない。
  • デビアスの選択が「消費者のため」というのは疑わしく聞こえるかもしれない。だが実際には、ダイヤモンド市場に完璧な自由競争が存在しないほうが、消費者にとっては確かに得なのだオッペンハイマーの主張を今一度思い出してみよう。「投資をする(ダイヤモンドの婚約指輪を買う人は(デビアスカルテルを)支持している」という彼の言葉に偽りはない。ダイヤモンドの婚約指輪を所有する人にとっては、それができる限り価値をもったままであってほしい。ダイヤモンドに限らず、あらゆる耐久財にも当てはまることだ。不動産もしかり。住宅を所有している人は、当然ながら、住宅価格を高く維持する方針を支持するに決まっている。
  • 興味深いのは、オッペンハイマーの言葉の奥に暗黙的にこめられた主張のほうだ。デビアスカルテルによってすべての消費者が得をする、という表現には、
    まだダイヤモンドの婚約指輪を買っていない消費者も含まれている。結婚を控えた人たちは、本質的に約束を買うものだからだ。ダイヤモンドの値段は絶対に下がらない、ゆえに彼らの指輪は「永遠に」その象徴的価値を保つ、という約束を買っている。自由市場はそんな約束を守れないが、デビアスは守った。1世紀以上も。
  • しかし、デビアスが約束を守りつづける日々は終わりを迎えた。近年のダイヤモンド市場は、分裂と細分化を始めているからだ。1999年には高級ジュエリー·ブランドのティファニーが、カナダのダイヤモンド鉱山の株式買収を発表。将来的にはデビアスからのダイヤモンド調達を行わない旨を宣言した。2003年には、カナダの採掘グループ「エイバー・ダイヤモンド・コーポレーション」が高級宝石商ハリー・ウィンストンを買収し、アメリカ、日本、スイスに店舗を構えている。つまりは採掘業者が販売業者と手を組み、デビアスによる独占取引の必然性を回避するようになったのだ。
  • デビアス独占体制は崩壊した。もはや、高いコストをかけてまで価格を円滑かつ安定的に維持するインセンティブをもったプレイヤーはいなくなったという意味だ。2001年の『フォーチュン』誌の記事には、デビアス取締役のガイ・レイマリーの発言が掲載されている。
  • 「世界を覆い尽くしてすべてのダイヤモンドを買い押さえようという気はない。売値に近い、もしくは超える価格でダイヤモンドを買っても、我が社にとって何の得があるというのか。馬鹿げている。市場の60%を押さえる今の状態で完全に満足している」
  • 「世界を覆い尽くす」。そして、高い代償を払ってでも、すべてのダイヤモンドを確保する。それはこれまでのデビアスの事業戦略の原則だった。しかし競争のすべてを吸収するには多大なコストがかかる。そのコストを呑む意欲がなければ、独占的な権力、あるいは独占的な利益の維持などかなわない。デビアスが世界のダイヤモンド供給を一手に押さえようとは思わない、と認めたレイマリー氏の発言は、事実上、デビアスが独占体制の維持をあきらめたということを意味している。実際に2000年から2005年にかけて、世界のダイヤモンド供給におけるデビアスのシェアは65 %から45 %にまで縮小した。この市場に起きた潮目の変化を裏づける数字である。
  • デビアスがかつてのデビアスでなくなったのだとすれば、ダイヤモンドの価格は遠からず、かなり変動的になっていく可能性がある。自由競争が主流となっている一般的なコモディティと同じだ。ダイヤモンドの価格が変動すれば、上昇であれ下落であれ、そのたびごとに販売業者にとっては痛手になるーダイヤモンドの価値は「永久不滅」であるという消費者の信頼が損なわれ、永遠の愛のシンボルとしてふさわしいというステイタスを失っていくからだ。
  • こうした変化の波は一夜にして実感するものではない。数十年かかるかもしれないが、いずれダイヤモンドの婚約指輪が完全に地に堕ちるときが来たならば、それは雪崩のように一気に進むと考えられる。

www.paulzimnisky.com

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  • メキシカン・スタンドオフは、「相互確証破壊(MAD)」と言われるゲームの一例である。MADゲームの最大の特徴は、どちらかが激しい先制攻撃をして、相手を苦しめても、そのあとで相手が破壊的な反撃をする力をもっていることだ。このMADゲームのもっとも有名な例が、冷戦中のアメリカとソ連の関係だった。

 

  • (p154)たとえばコカインの売人のほうが、自分の評判を重視しているとしよう。一度の取引で長年の評判をつぶしたくはないので、つねに約束を守っている。つまり売人は信頼性のあるプレイヤーだ。この売人が「先にカネを払ってくれ。そしたらヤクを渡す」と約束してみせる(コミットする)。
  • 買い手はその約束について思案する。代金を払ったとしても、売人が約束を守らなければ、薬物は手に入らない。だが自分が代金を払わなければ、薬物は間違いなく手に入らない。「代金を払わない+薬物が手に入る」という帰結は、この場合成立しえない。売人の実績を考えると、評判を重視していることがわかるので、今回の約束も守ると信頼できる。

 

  • (p160)カーディーラーと自動車メーカーは、複数の理由から、中古車認証という第三者的なシステムを挟むことによって得をしている。第1の理由は、中古車購入者が買った車に満足すれば、同じメーカーで新車を買う可能性が高いこと。
    シカゴ自動車貿易協会(CATA)の元会長、ジェリー・シゼックがカーズ・ドットコムの記事で語っているとおりだ。
  • 「認定中古車を提供する理由の1つは、それが自動車メーカーにとって、購入者を囲い込む手段になるからだ。中古車で興味を引き、満足させることができたなら、その購入者は新車購入の際に同じブランドを選ぶと考えられる。その後さらに新車を購入する際もリピーターになると期待できる」
  • 第2の理由として、品質認定を受けることで、その中古車自体が高く売れるという利点がある。差額が800ドルから1300ドルほどもあれば、たいていは認定検査費用を相殺できる。ディーラーにとっては、ふつうに中古車を売るより認定中古車のほうが儲けが出るというわけだ。
  • しかし、だとすれば、買い手個人が自主的にメカニックを雇って検査をすればいいのではないか。中古車販売業者ADESAの副社長、トム・コントスが、カーズ・ドットコムで説明している。
  • 自分で入念に車を検査するか、メカニックを雇って検査させ、さらに延長保証サービスも加える。そこまでできるなら、擬似的な認定中古車となるだろう。・・・自分で検査する能力と時間がある人にとってはそのほうがいいだろうし、節約にもなる。

 

これは実に稀有な本だ。初めてゲーム理論を知る読者を専門用語なしで導きつつ、同時に、最高の戦略が往々にしてゲームチェンジを伴う様子を斬新な視点から描き出している。あらゆる場面で推薦したい1冊。

 ——アルヴィン・ロス 経済学者 2012年ノーベル経済学賞受賞

ビジネスの戦略を語るなら、多様な競争の状況にあてはめられる総括的な考察を提示しつつ、その考察を深く掘り下げて実用的な戦略形成を披露する具体例も提示することが望ましい。本書には、まさに分析と実践、その両方がふんだんに詰まっている。

 ——R・プレストン・マカフィー 元グーグル・チーフエコノミスト

エコノミクス・ルール

この本を読むことで多大な恩恵を受けることが予想される読者は、大きく3タイプいるように思う。
  1. 自分は経済学を理解していると錯覚し、的はずれな批判を繰り返す大半の人文学者及び自然科学者、及び「非主流派」経済学者
  2. ミクロ・マクロ経済学の学部経済学コア科目を一通り学んだ学部生(とくに経済学的思考に対して、何らかの気持ち悪さを感じている学生と経済学的思考を盲信している学生)
  3. 誘導系モデルを用いた統計分析を行い、経済学のモデルを「実証」しているつもりになっている実証経済学者

上記に理論経済学者を含めていないのは、さすがに真っ当な理論経済学者は、本書で書かれているような事実を十分に理解していると「仮定」しているためである。

もちろん上記以外の読者にとっても学ぶことが多い本だと思うので、経済学の初学者を除いたすべての人にとって一読の価値はあると思う。初学者は読んでも議論の意味がよくわからないと思うので、他の本から勉強を始めたほうがいい気がする。

 

  • この本は、ハーバード大学でロベルト・マンガベイラ・アンガーと共に数年間教えた政治経済学の授業をきっかけに生まれたものだ。ロベルトは、彼らしい独特なやり方で、私に経済学の強みと弱みについて真剣に考えさせ、経済学の手法で有益だとわかったものを明らかにするよう後押ししてくれた。ロベルトが言うには、経済学はアダム・スミスカール・マルクスのような崇高な社会理論を構築することをあきらめてしまったために、無味乾燥でつまらない学問になってしまったというのだ。
ja.wikipedia.org
  • それに対し私は、経済学の強みは規模の小さな理論を立てるところにあると指摘した。物事の因果関係を明らかにしーたとえ部分的なものであったとしてもー社会的現実を解明するための状況に応じた考え方のことだ。そして、資本主義システムがどのように機能しているのかや、世界中の富と繁栄を決定するものは何かといった普遍的理論に関する研究より、謙虚な姿勢で積み上げられた控えめな科学のほうが役に立つ傾向にあると私は論じた。彼を納得させることができたとは決して思わないが、彼との議論が私にある種の衝撃を与えたことをわかってもらえたらと思う。
  • 私の新しい所属先であるプリンストン高等研究所には、経済学の経験に基づく実証主義とは極めて対照的な人文学的ないし解釈的アプローチが息づいていた。研究所にやってきた多くの訪問者ー経済学と並ぶ学問である人類学、社会学歴史学、哲学や政治学の人々ーと出会うと、経済学者に向けられた心の奥底から発する強い疑いの目に驚かされた。彼らにとって経済学者は分かり切ったことを言ったり、単純な枠組を複雑な社会現象に無理に当てはめて失敗を犯したりするような存在だった。周りにいた数少ない経済学者が、社会科学における知識豊富な馬鹿者として扱われていると思えたこともあった。つまり、数学や統計学には優れているが、それ以外のことでは役に立たないというのだ。
  • 皮肉なことに、私はかつてこの種の態度をー反対側から 見たことがあった。たくさんの経済学者たちが集まる場をうろついて、彼らが社会学や人類学について何て言っているのかを見てくればいい!経済学者にとって、他の分野の社会科学者たちは、事実や数字よりも思想を扱っており、節操がなく、冗長で、実証的な裏付けに乏しい(あるいは)誤って実証分析の落とし穴にはまっている存在になっている。経済学者は、どのように考えれば結果を得ることができるのかを知っているが、他の学者たちは堂々巡りを繰り返すだけというのだ。この時に、私は反対側から向けられる疑いの目に対して備えておくべきだったのかもしれない。
  • 経済学の外部から繰り出されてきた批判の多くは的外れだと私は思った。経済学者が実際何を行っているのかについて、あまりにもたくさんの誤解があったのだ。そのため私は、経済学にとって必須の分析に関する議論や実証に目を向けることによって、他の社会科学の実践のあり方もある程度改善できるのではないかと思わずにはいられなくなった。
  • しかし、このような事態を招いた責任は他ならぬ経済学者自身にあることも明らかだった。経済学者がうぬぼれていることや、世界を考察する際に特定の理論に執着することが多いことだけが問題なのではない。経済学者は他人に自分たちの学問内容を説明するのが下手くそでもあるのだ。この本の大半は、世界がどのように動いているのかに対する様々な解釈や、公共政策が引き起こす様々な結果を示すたくさんの、そして今も増え続けている枠組を経済学が持っていると示すことに費やしている。しかし、非経済学者が経済学から決まって耳にするのは、市場、合理性、利己的行動に対するひたむきな賛歌のようなものだ。経済学者は、社会生活について条件付きの説明ー市場(そして市場における政府の介入)がその背後にある固有の条件次第で、いかにして効率性、公平性そして経済成長に対し
    て異なる結果を生み出すのかに対する明白な説明を行うことを得意にしている。しかし、経済学者は状況に関係なくどこでも成立する普遍的な経済の法則について宣告しているように思われることが多い。
  • 私は、このような分断を埋めるための本ーそれは経済学者と非経済学者の両方に向けたものだーの必要性を感じた。経済学者に対する私のメッセージは、自らが実践する科学を説明する優れたストーリーが必要とされているということだ。私は、科学を実践する者たちが陥りがちな罠を明らかにするとともに、経済学の中で次々に生まれている役立つ業績を目立たせる新たなフレームを提示するつもりだ。非経済学者に対する私のメッセージは、この新しいフレームの下では経済学に対する一般的な批判の多くは無効になるということだ。経済学には批判すべき点がたくさんあるが、称賛すべき(そして見習うべき)点もたくさんある。
  • 自然科学を模範としているところにも理由の一端があるのだろうが、経済学者はモデルを誤って用いる傾向がある。あるモデルを唯一のモデルとして、どんな状況にあっても関連づけたり適用したりする間違いを犯しやすいのだ。経済学者はこのような誘惑に打ち勝たなければならない。環境が変化し、一つの前提から別の前提に視点が移るのに合わせて、モデルを慎重に選び直さなければならない。異なるモデルを、もっと柔軟に使い分ける方法を学ばなければならないのだ。
  • 本書は、経済学の称賛と批判の両方を行うものだ。この分野の核にある部分ー知識を生み出す上で経済モデルが果たす役割は擁護するが、経済学者による経済学的手法の扱い方や、モデルの(誤った)使い方については批判をする。本書での私の議論は、経済学者の「党派的な見方」とは無縁である。経済学者の多くは、この分野に対する私の見方、特に経済学がどのような意味で科学と言えるのかについての見方について、同意してくれないと思う。
  • 他の社会科学を専攻する経済学以外の専門家と話していると、経済学が外部からどう見られているかが分かって困惑することがしばしばある。彼らの不満は、よく知られている。経済学は物事を単純化し過ぎていて視野も狭い。文化や歴史、背景や条件を無視して、自分たちが普遍的であるかのような主張をする。市場なるものが、本当に存在するかのように考えている。暗黙の価値判断を持ち込んでいる。そのくせ経済状況の変化について説明も予想もできない。これらの批判は大部分が、経済学とは何かを見誤っているところから来ている。実際の経済学には多様なモデルが存在しており、特定のイデオロギー的志向を持ったり、唯一の結論を導いたりするものではない。もちろん、経済学界でその多様性を反映させることができていないのだから、誤りは経済学者自身にあるとは言える。

モデルの多様性

  • 経済学者は、社会的相互作用の目立った側面を掴まえたモデルを構築する。こうした相互作用は、財やサービスの市場で起きている。市場とは何かについて、経済学者は幅広い合意を持っている。個人、企業、あるいは他の集合体が買い手と売り手になる。対象となる財・サービスには、ほとんどのものが含まれる。官職や地位など、市場価格が存在しないものもだ。市場は局所的、地域的、国家的、あるいは国際的でありうる。バザールのように物理的に構成されている場合もあるし、長距離交易のようにバーチャルな場合もある。伝統的に経済学者は、市場がいかに機能するかという問題に夢中になっている。市場は資源を効率よく使っているか?改善の余地はあるか、改善できるならどうやって?交換から得られた利益はどう分配されるのか?市場以外の制度の機能に光を当てるためにモデルを使うこともあるー学校、労働組合、政府などだ。
  • では、経済学のモデルとは何なのだろう? 要素間の特殊な関係の働きを、交絡要因を隔離して、単純に示したものと理解するのが最も簡単だ。モデルは原因に焦点を当てて、それがシステムを通していかなる結 果をもたらすのかを示そうとする。モデルを作るとは、全体の中のある部分と別の部分のつながりがどのようなものであるかを明らかにする、人工的な世界を作ることであるー要素が複雑に絡み合った現実世界を、漠然と見ているだけでは識別できないつながりだ。経済学のモデルは、医者や建築家が用いる物理モデルと大差ない。病院で見かけるプラスチック製の肺のモデルは、人体の他の部分から切り離された呼吸システムに焦点を当てている。建築家が作るモデルは、家の周辺の風景を示すものもあるし、内部のレイアウトを示すものもある。経済学者のモデルも同じだが、物理的な構築物ではなく、言葉と数式を用いる点で異なっている。
  • よくあるモデルは、経済学の入門科目を取った人にはおなじみの供給ー需要モデルだ。右下がりの需要曲線と、右上がりの供給曲線で構成され、交点で価格と数量が決まる。この人工世界は、経済学者が「完全競争市場」と呼ぶもので、消費者と生産者が無数にいる。全員が経済的利益を追求しており、誰も市場価格に影響を与えることができない。このモデルはたくさんのことを捨象している。人は物質的な動機の他にも、違う動機を持っている。合理性は感情によって曇らされたり、認知的短絡を起こしたりする。生産者は独占的に行動することもある、などだ。しかし、このモデルは現実の市場経済の単純な働きを解明してくれる。

寓話としてのモデル

  • 経済モデルを、寓話のようなものだと考えることもできる。名前のない、どこにでもある場所(ある村、森)に住む2、3人の登場人物が出てくる小話で、彼らの振る舞いや相互の交流から、ある種の教訓となる結末が導かれる。登場人物は人間の時もあるし、擬人化された動物や無生物の場合もある。寓話はシンプルだ。少ない言葉で語られ、登場人物は貪欲や嫉妬のような型どおりの動機で動く。寓話話はリアルである必要はないし、登場人物の人生を精密に描く必要もない。物語の筋を明確にするためにリアリズムを犠牲にし、不明瞭さを少なくする。重要なのは、寓話には誰にでも分かる道徳が含まれているということだ。正直が一番だ、最後に笑う者こそ勝者だ、同病相憐れむ、水に落ちた犬を叩くな、などである。
  • 経済学のモデルも似ている。シンプルで抽象的な環境を前提にしている。仮定の多くが現実的である必要はない。本物の人間や企業が住んでいるように見えても、登場人物は高度に定型化された振る舞いをする。生き物でないもの(「ランダムショック」「外生的パラメータ」「自然」)もしばしば登場し、行動に影響を与える。明確な原因、結果や条件式が、物語の筋となる。そして誰もが分かる道徳ー経済学者が政策的含意と呼ぶものがある。自由市場は効率的だ、戦略的な場面で機会主義的に行動すると全員の厚生が悪化する、インセンティブは重要だ、などである。
  • 寓話は短く、要点は明瞭だ。メッセージに誤解の余地はない。ウサギとカメの物語は、着実に、ゆっくり歩んでいくことの重要性を訴えている。物語の核になる部分を取り出せば、他の多様な環境にも応用できる。経済モデルを寓話と一緒にすると、「科学的」な地位が損なわれると思われるかもしれない。しかし、両者の主張は、全く同じように作用する。競争的な供給ー需要の枠組を学んだ学生は、市場の力に敬意を持ち続ける。囚人のジレンマを乗り越えようとするなら、協調の問題を考えないわけにはいかない。モデルの科学的な細部を忘れてしまった時でも、世界を理解し解釈するテンプレートは残るのだ。
  • この類比は、経済学者の職業的専門性を軽視するものではない。経済学者は、論文に書いた中小モデルが、寓話と本質的に変わらないと認識し始めている。優れた経済理論家のアリエル・ルービンシュタインは次のように述べている。「モデル」という言葉は「寓話」や「おとぎ話」より科学的に聞こえるかもしれないが、私には大きな違いがあるとは思えない。」哲学者のアレン・ギバードと経済学者のハル・ヴァリアンの言葉では、「経済学のモデルはいつもある物語を語っている。」同様に、科学哲学者のナンシー・カートライトは「寓話」という用語を、経済学や物理学のモデルに対して使っているが、経済学のモデルのほうがより比喩的だと考えている。道徳が明快に語られる寓話と違い、経済学のモデルから政策的含意を引き出すにはいっそうの注意と解釈が必要になる、とカートライトは言う。この複雑性は、モデルが一つの文脈的真実のみを取り上げ、あくまで特殊な条件に基づく結論を導いているという事実から来ている。
  • 多少の違いはあるが、寓話との類比は有益だ。寓話は数え切れないほどあり、それぞれの寓話が環境の異なった条件の下で行動する指針を与えている。また、寓話が導く道徳は、しばしば矛盾しあっている。ある寓話は信頼や協力の美徳を称賛しているが、別の寓話は自分をもっと信じるよう促している。あるものは事前の準備を称え、別のものは過剰に準備し過ぎると危ないと警告している。手持ちのお金を使って人生を楽しめというものもあれば、雨の日に備えて貯金すべきだというものもある。友達は持ったほういいが、友達が多すぎるのは良くない。それぞれの寓話が、一つの限られた視点から道徳を語っている。ただし全体を合わせると、疑いと不確実性が助長されるのだ。
  • そのため特定の状況に合う寓話を選ぶには、判断力が必要とされる。経済学のモデルを用いる時にも、同じような洞察力が必要になる。異なったモデルが異なった結論を出すという点は先に見た。自己利益に基づいた行動が双方にとって効率的(完全競争モデル)か、浪費的(囚人のジレンマモデル)かは、背後にある条件をどう見積もるかで変わってくる。寓話と同じように、競合する利用可能なモデルを選択する上で、優れた判断力は不可欠である。幸い、証拠の検証が、モデル選びに有益な導きを与えてくれる。その過程は、科学より技芸と言うべきである。

 

実験としてのモデル
  • モデルを寓話になぞらえるのがお気に召さなければ、研究室の実験になぞらえてもいい。これは、驚くような類比かもしれない。寓話がモデルを単純なおとぎ話にしてしまうとすれば、研究室の実験との比較は、モデルに過剰な科学的装いを与える危険があるからだ。事実、多くの文化圏で、研究室の実験は科学的尊敬の最高峰に位置している。白衣に身を包んだ科学者が行う実験は、世界がどのように動いているのか、ある特殊な仮説が本当に正しいのかをめぐる「真実」に到達するための手段である。経済学のモデルが、それに近づくことなどできるのだろうか?
  • 研究室の実験が本当にそうなのか、考えてみよう。実験室は、人工的な環境を作為的に設定したものだ。実験の対象となる物質は、現実世界の環境から隔絶される。研究者は、仮説上の因果関係のみに光を当て、他の潜在的に重要な影響要因を排除できるよう実験をデザインする。例えば、純粋に重力の影響を見たい場合、研究者は真空で実験を行う。フィンランドの哲学者ウスカリ・ マキが説明しているように、経済学のモデルを構築する場合も、絶縁(insulation)、隔離(isolation)、識別(identification)の同じ方法が用いられる。主な違いは、研究室の実験が、因果関係を観察するのに必要な隔離を物理的環境の操作によって行うのに対して、モデルの場合は因果関係の前提を操作する点にある。モデルは心理的環境を構築して、仮説の検証を行うのだ。
  • 次のような反論があるかもしれない。研究室実験は、環境は人工的かもしれないが、作用はまだ現実の世界で起きている。少なくとも一つの条件下で、何が起きるかは分かる。反対に、経済モデルは心の中でしか展開されない完全な人工的構築物だ。もっと大きな違いもある。実験の結果は、現実の世界に適用する前に何度も外挿(extrapolation)を要求される。実験室で起きたことが、実験室の外で起きるとは限らないからだ。例えば、薬の効果は、実験室の設定ー「実験的制御」ーで考えられたもの以外の現実世界の条件と混じり合うと、得られないかもしれない。一つの例を与えてみよう。コロンビアで、私立学校のバウチャーを無差別に配布したところ、教育効果が大きく改善した。だからと言って、同じプログラムがアメリカや南アフリカなどでも同じ結果をもたらすという保証はない。最終的な結果は、国によって違う多くの要素に依存する。所得水準、親の選好、私立と公立の質的差、教師や学校運営者を駆り立てるインセンティブーそれらの要素すべて、他の多くの潜在的に重要な事柄が結果に関係してくる。「あそこで効いた」ということから「ここでも効く」という結論を導くには、多くの追加的なステップが必要である。
  • 研究室(あるいは野外)のリアルな実験と、われわれが「モデル」と呼ぶ思考実験の間にある隔たりは、一般に考えられているより小さい。どちらも、その結果を必要な時と場所に適用する前に慎重な吟味(extrapolation)を必要とする。適切な吟味を順番に行うには、優れた判断力と他の情報源からの証拠、構造的推論の組み合わせが必要である。実験の価値は、その実験が行われた文脈の外側にある世界について、何を教えてくれるかで決まる。そのためには同一性を識別し、異なった設定でも並行関係を見出す能力が必要となる。
  • リアルな実験と同様、モデルの価値は特殊な因果関係を取り出し、識別する能力に宿る。現実世界の因果関係は、その作用を曖昧にする他の因果関係と並行して現れるので、科学的説明を試みるすべての人にとって複雑である。経済学のモデルは、この点で優位性があると言えるかもしれない。偶有性ー特殊な前提条件への依存ーがモデルには組み込まれているからだ。第三章で見るように、確実性が欠如していることで、われわれは複数の競合モデルから現実をよりよく記述することができるのだ。

 

  • ジョンの脳波論のように重要な仮定が明らかに事実に反する時、モデルの有効性を疑問視するのは完全に正しく、必要でさえある。この例では、モデルは単純化され過ぎるあまり、われわれを惑わせていると言うことができる。この場合の適切な反応は、もっと適合的な仮定を持った別のモデルを作ることであり、モデルを諦めることではない。悪いモデルへの解毒剤は、良いモデルを作ることなのだ。
  • 究極的には、仮定の非現実性を避けることはできない。カートライトが言うように、「非現実的な仮定を用いているからという理由で経済モデルを批判するのは、ガリレオの斜面落下運動の実験が完全に摩擦のない球体を用いたと言って批判するようなものだ。」しかし、われわれが蜂蜜の壺に落ちた大理石にガリレオの加速度の法則を適用しようとしないように、このことが重要な仮定が総じて現実とかけ離れたモデルを用いる言い訳にはならない。

 

  • 物理科学の標準からすると、経済学者の用いる数学はそれほど先進的ではない。多変数微分積分最適化問題の基礎があれば、たいていの経済学理論にとっては十分である。それでも、数学的形式主義は読者にある種の投資を要求する。経済学と他の社会科学の間にわかりにくさの壁を作るのだ。これが、経済学者でない人がこの職業に抱く疑念を高める原因にもなっている。数学のせいで、経済学者は現実世界から引きこもり、抽象の構築物の中で暮らしているように見えてしまう
  • 今日に至るまで経済学は、大学院で必須の修行期間を経ていない人にとって不可解なままの、ほぼ唯一の社会科学分野となっている。経済学者が数学を用いる理由は誤解されている。洗練とか、複雑さとか、高度な真理への要求とはあまり関係ない。経済学で数学は主に明晰さと一貫性の二つの役割を果たすが、どちらもその栄光を求めてのことではない。第一に、数学はモデルの要素ー仮定、行動メカニズム、そして主たる結果ーを確実で透明なものにする。ひとたび数学の形式で記述されると、モデルが言ったり行ったりするととは、読むことのできる人には理解しやすいものになる。この明快さは偉大な美徳に属するが、十分に高く評価されていない。われわれは今もなお、カール・マルクスジョン・メイナード・ケインズヨーゼフ・シュンペーターが本当は何を言おうとしていたのか、議論を戦わせている。三人は経済学分野の巨人だが、自分たちのモデルをほとんど(すべてというわけではないが)言葉で説明した。反対に、ポール・サミュエルソン、ジョセフ・スティグリッツケネス・アローが、ノーベル賞をもらった理論を開発していた時、心の中で何を考えていたのかは誰も気にしない。数学モデルが要求するのは、証明の細部に気を配れということだけだ
  • 数学の第二の価値は、モデルの内的一貫性を保証するというものだー簡単に言うと、結論が仮定から導けるかどうかである。これは平凡だが、不可欠な貢献だ。議論の中には、単純で自明過ぎるものもある。他の議論には、より慎重な扱いを要求するものもある。認知バイアスのせいで、見たい結果だけを導く場合には特にそうだ結果が純粋に間違っている時もある。重要な仮定を取り除くと議論が急に明示的ではなくなることもしばしばだ。こういう時、数学は有益な検証手段となる。ケインズ以前の経済学者の巨頭で、最初の本格的な経済学の教科書の著者、アルフレッド・マーシャルは優れたルールを持っていた。数学を簡略化された言語として用いよ。それを言葉に翻訳し終えたら数学は燃やしてしまえ!私が学生によく言うのは、経済学者が数学を使うのは彼らが賢いからではなく、十分に賢くないからだ。

 

  • こんな冗談がある。ドブリューが1983年にノーベル賞を受賞した時、ジャーナリストが経済の先行きについての彼の見解を知りたいと声をかけてきた。彼はしばらく考えた後、こう続けた。「n種類の製品とm人の消費者からなる経済を考えてみよう。」
  • 第一定理は、見えざる手の仮説を実際に証明している点で偉業といえる。すなわち、ある一定の仮定の下で、市場経済の効率性は、単なる推測や可能性ではなく、前提条件から論理的に導き出されるものであることが示されているのだ。この結果は数学のみを用いて示されているので、実際に正確な計算式を得ることができる。この結果がいかにして生み出されたのか、モデルによってわれわれは正
    確に知ることができるのだ。特に、モデルを用いることによって、効率性の実現を確実にするために必要な具体的な仮定が明らかにされている。 
  • 見えざる手の定理を満たすために必要な仮定は、十分条件であって必要条件ではない。言い換えると、仮定のうちのいくつかが満たされない場合であっても市場は効率的なものとなり得るのだ。このため、アロー=ドブリューの基準が完全に満たされていない場合であっても自由市場は望ましいものだと主張する経済学者もいる。

 科学的進歩、一つの時代に一つのモデル

  •  経済学者に経済学を科学たらしめるものとは何かを尋ねると、次のような答えが返ってくるだろう。「それは科学的手法を用いているからだ。われわれは、仮説を立ててから検証する。ある理論が検証に失敗すれば、その理論を捨てて別の理論に置き換えるか、その理論の改良版を提示する。その結果、世界をよりよく説明する理論が開発されて、経済学は進歩していくのだ。」
  • これは素晴らしい話だが、経済学者が実際に行っていることや、経済学が実際にどのような進歩を遂げているのかとは、ほとんど関係していない。第一に、経済学者の研究の多くは、最初に仮説を構築した後に現実世界の事実に向かい合うという、仮説演繹法とは大きく異なるものだ。より広く行われている方法は、既存のモデルでは説明できていないように思われる特別な規則性や出来事に応答してモデルを構築するというものだー例えば、銀行が企業に貸し出しを行う際に、高金利を課す代わりに、資金供給量を制限するという、一見したところ理に適っていない行動が挙げられる。研究者は、このような「常軌を逸した」出来事について、よりうまく説明することのできる新しいモデルを開発している。
  • モデルを生み出す思考方法には帰納的な要素が多く含まれている。そして、モデルは特定の経験的事実を説明するために具体的に考案されたものであるため、同様な現実に直面した場合にそれを直接検証することができない。言い換えると、信用割当の存在は、それ自身が最初に理論を構築する動機になったものであるため、その理論を検証するために用いることができないのだ。
  • さらに、演繹的な仮説検証アプローチに正しく従ったものでさえ、経済学者が生み出した研究の多くは、厳密に言うと実際に検証可能ではない。これまで見てきたように、経済学の分野は矛盾した結論を生み出すモデルにあふれている。しかし、経済学者の扱うモデルの中で、専門家にきっぱりと否定されて明らかに誤ったものとして捨て去られたものはほとんどない。多くの学術活動が、様々なモデルに対して実証的な支持を与えることを目的として行われている。しかし、これらの作業は概ね当てになるものではなく、結論がその後の実証分析によって弱められる(覆される)ことが多い。その結果、専門家の人気を集めるモデルの変遷は、事実の存在そのものよりも、一時的なブームや流行、あるいは適切なモデル構築のやり方についての嗜好の変化によって起こる傾向にある。
  • 専門家についての社会学は、この後の章で取り上げる。より根本的なのは、社会的現実は移ろいやすいために、経済学のモデルによる検証は本質的に困難であり、不可能でさえあるということだ。第1に、研究者が他の仮説の妥当性について明確な結論を導き出させるようなはっきりとした証拠を現実社会が提供してくれることは滅多にない。最も関心を集める問題ー経済成長を引き起こすものは何か?財政政策によって経済は活性化するのか?現金給付によって貧困は削減されるのか?ーは実験室で研究することはできない。一般的に、得られるデータには相互作用がごちゃごちゃ入り組んでいるため、探し求めている原因をはっきりと見つけることは難しい。計量経済学者が最善を尽くしているにもかかわらず、説得力のある因果関係を示す証拠を得ることはとても困難なのだ。
  • より一層大きな障害は、どんな状況にも有効な経済モデルを求めることは一切できないということだ。物理学においてさえ、不変的法則が多数あるのかどうかについて議論されている。しかし、私が本書で何度も強調してきたように、経済学は別ものだ。経済学では、状況がすべてなのだ。ある状況において正しいことは、別の状況においても正しいものである必要はない。競争的な市場もあれば、
    そうでない市場もある。ある状況においてセカンド・ベストの理論による分析が求められていたとしても、他の状況では違うかもしれない。金融政策における時間非整合の問題に直面している政治制度もあれば、そうでないのもある。その他もろもろだ。例えば国有資産の民営化や輸入自由化について、全く同じ政策介入が異なる社会で実施されたとき、多くの場合その影響が大きく異なっていることが観察されるのは驚くべきことではない。

 

  • 私は、実証的検証がどんなときでも必ずうまく機能すると主張したいわけではない。しかし、決定的な実証データが得られないときでさえ、モデルは見解の相違の原因を明らかにするための筋の通った建設的な議論を可能にする。経済学では、政策論議を行う際には、あるモデルと別のモデルを競わせるのが普通だ。一般的に、モデルによる後ろ盾のない見解や政策的処方が支持を得ることはない。そして、いったんモデルが生み出されれば、両者が現実世界についてどのような仮定を置いているのかが、すべてはっきりするようになる。このことによって意見の不一致が解決することはないかもしれない。実際、それぞれが現実を解釈しようとする方法が違う場合には、両者の見解の相違は解決しないのが一般的だ。しかし、少なくとも、何について意見が合わないのかについて、両者が最終的に
    同意することは期待できるだろう

 

  • 経済学者の特殊なモデル構築のしきたりに対する愛着ー合理的で将来を予想できる個人、よく機能する市場などはしばしば、彼らの周囲にある世界との間の疑う余地のない摩擦を見過ごさせる。イェール大学のゲーム理論家のバリー・ネイルバフは大抵の経済学者よりも鋭い判断力の持ち主だが、そんな彼でさえ面倒を起こしている。ネイルバフや他のゲーム理論家がある日の深夜、イスラエルでタクシーに乗っていた。運転手はメーターを倒さず、本来メーターが示すよりも降りる時には安い料金でいいと約束した。ネイルバフと同僚たちは運転手を信用する理由がなかった。しかし彼らはゲーム理論家で、以下のような推論をした。彼らが目的地に着けば、運転手は交渉力をほとんど持たず、乗客が喜んで払うのとちょうど同じ額を受け入れるはずだ。彼らは、運転手の申し出はよい取引で、うまくいくと踏んだのである。目的地に着くと、運転手は二千五百シケルを要求した。ネイルバフは拒否し、代わりに二千二百シケルを申し出た。ネイルバフが交渉を試みる間、激怒した運転手は車のドアをロックし、乗客を中に閉じ込め、危険なほど速いスピードで彼らが乗車した地点まで車を走らせた。彼らを縁石に叩き出し、こう叫んだのである。「二千二百シケルで行ける距離がどれくらいか分かっただろう。」
  • 結局明らかになったのは、標準的なゲーム理論は、現実に起きたことの貧弱なガイドにしかならないということだ。少しの帰納があれば、ネイルバフと彼の同僚は、最初から、現実世界の人々は理論家のモデルが前提とする合理的なオートマトンのようには振る舞わないと認識できたはずだ!

 

  • MIT 、イェール、UCバークレーは政策を評価しモデルを検証するフィールド実験を運営する主な中心地だ。フィールド実験の明らかな欠点は、それらが経済学の中心問題の多くにほとんど関係していないということにある。例えば財政政策や為替レート政策の役割といったマクロ経済学の大問題を検証するのに、経済実験がどの程度役立つのかを知るのは難しい。そして、例のごとく、実験の結果は注意深く解釈されなければならない。というのも、それらの結果は他の前提条件の下では適用できないかもしれないからだー外的妥当性のいつもの問題である。

モデルと理論

  • 読者の中には、私がこれまで「理論」という言葉を使うことをなるべく避けてきたことに気付いた人がいるかもしれない。「モデル」と「理論」は同じ意味で用いられることがあり、とりわけ経済学者にそのような傾向があるのだが、これら二つの言葉は同じものと考えないほうがよい。「理論」という言葉には野心的な響きがある。一般的な定義では、理論とは、ある事実や現象を説明するために述べられる一連の考えや仮説のことを指す。理論の中には、実験や検証によって推定されたものもあれば、単なる主張に留まっているものもある。例として、物理学における一般相対性理論とひも理論の二つを取り上げよう。アインシュタインの理論は、その後の実験研究によって完全に裏付けられたものと考えられている。その後に発展したひも理論は、すべての力と粒子の統一を目指した物理学の理論だが、それを支持する実験結果はまだ乏しい自然淘汰に基づくダーウィンの進化論は、その正しさを示唆する証拠が数多く存在するが、種が進化するまでにかかる時間の長さを考えると、進化論を直接実験によって証明することは不可能である。
  • 自然科学分野におけるこれらの例のように、理論には全般的かつ普遍的な妥当性があるものと考えられている。北半球でも南半球でもーそして異星人の生命にさ
    えもー同じ進化論が適用されるということだ。しかし、経済学のモデルは違う。経済学のモデルは、状況によって変わるものであり、ほぼ無限の多様性がある。経済学のモデルは、せいぜい部分的な解釈を与えるものであり、特定の相互作用のメカニズムや因果関係の経路を明らかにするために設計された抽象概念を主張するに過ぎない。これらの思考実験では、潜在的に存在しうる他の要因を分析の枠組から外すことによって、限定された要因がもたらす影響を隔離し識別しなければならない。そのため、多くの要因が同時に作用しているような場合は、経済学のモデルでは、現実世界で起こっている現象を完全に解明するにはいたらない。
  • モデルと理論について、両者の違いと重なり合う部分を理解するため、まずは次の三種類の問題を区別しておきたい。
  • 第一に、AがXに及ぼす影響とはどのようなものかという、「何」を問う問題がある。例えば、最低賃金の上昇が雇用に及ぼす影響はどのようなものか?資本流入が一国の経済成長率に及ぼす影響はどのようなものか?政府支出の増加がインフレに対してどのような影響をもたらすのか?などがある。これまで見てきたように、経済学のモデルは、これらの問いに対してもっともらしい因果関係の経路を説明し、それらの経路が特定の状況にいかに依存しているのかを明らかにすることによって、その答えを提示する。たとえ適切なモデルが存在していると十分確信することができたとしても、これらの問いに答えることは将来の予想を行うことではないことに注意しなければならない。現実の世界では、分析している効果と並行して多くの事柄が変化している。最低賃金の上昇が雇用を減少させると予想することは正しいことかもしれないが、現実の世界では、その予想とは関係なく雇用者が従業員への給与支払いを増やすような全般的な需要の増加が混在しているかもしれない。このような分析は、経済学のモデルに適した分野である。

 理論とは実のところ単なるモデルの寄せ集めに過ぎない

  • これまで見てきたように、経済学の理論は、あまりにも一般化されてしまったために現実世界に対して実際にはほとんど役に立たないか、あるいはあまりにも特定化されてしまったために、せいぜい現実の特殊な一面を説明できるに過ぎないかのいずれかになっている。この難問を、私は具体的な理論をとりあげて説明してきたが、これは経済学のいずれの領域でも妥当するものだ。資本主義の普遍的法則を発見したと主張した理論家を、歴史は常に裏切ってきた。自然とは違い、資本主義は人間が生み出したものであり、それゆえ柔軟な構造物なのだ。
  • もっとも、「理論」という用語が使われる頻度から判断すると、経済学は理論で溢れている。ゲーム理論、契約理論、サーチ理論、成長理論、貨幣理論などなどだ。しかし、用語に騙されるべきではない。実際、これらの理論の一つひとつは、状況に応じて注意深く用いられる特殊なモデルの集まりである。それぞれの理論は、研究の対象となる現象について万能の説明を与えるというより、むしろ
    分析道具の一つの組み合わせを提供しているのだ。それ以上のものを要求しない限りは、理論はとても有益であり適切なものになりえる
  • 五十年近く前、最も独創的な精神を持つ経済学者の一人だったアルバート・ハーシュマンは、社会科学者による「強引な理論化」に対して不満を言い、壮大なパラダイムの追求がいかにして「理解の妨げ」になり得るかを語っていた。網羅的な理論を構築しようという衝動によって、偶発的事件が果たす役割や、現実世界で生じうる様々な可能性から学者が目をそらしてしまうことを心配したのだ。経済学の世界で今日起こっていることの多くは、より穏健な目標を目指している。それは、ある時期に生じた一つの因果関係を理解するための研究なのだ。多くの問題は、大それた野心でこの目的を見失ってしまうときに生じる。

ja.wikipedia.org

 

  • 経済学者の理論は適切に検証することができないという批判がある。実証分析は決定的な結果を与えるものではなく、それによって誤った理論が排除されることは滅多にない。経済学は、一連のモデルが好まれたと思えばまた別のモデルが好まれるというようにゆらゆらと揺れ動いており、その原因も実証分析によって示された事実であることは少なく、むしろ好き嫌いやイデオロギーによるものであることが多い。経済学者が自らを社会という世界における物理学者と見なしているのであれば、この批判は意味がある。しかし、前にも述べたように、自然科学との比較は誤解を招く。経済学は社会科学であり、普遍的な理論や結論を探求するのは不毛なことなのだ。モデル(あるいは理論)はせいぜい状況に応じて有効なものでしかない。普遍的な実験検証や反証を期待しても、あまり意味はない。
  • 経済学は、潜在的に適用可能なモデルの集まりに、過去のモデルが見落としていたか、あるいは無視していた社会的現実を捉えた新しいモデルを加えることによって進歩する。新しい状況に遭遇した経済学者の反応は、その状況を説明するモデルを考えることだ。また経済学は、より良いモデルを選択するーモデルと現実世界の状況をより良く適応させるーより優れた手法が見つかることによっても進歩する。・・・これは科学というより技芸に近いものであり、注目されていない経済学の価値なのだ。モデルを扱うことの利点は、モデル選択の際に必要とされる諸要素ー重要な過程、因果関係の経路、直接的・間接的な含意ーがすべて明白で誰の目にもわかることにある。これらの要素があることで、経済学者がモデルと現実の状況が一致しているのかを、たとえ正式な検証や決定的なものでなく、略式で示唆的なものであったとしてもチェックすることが可能になる。
  • 最後に、経済学は予測に失敗していると非難される。神は、占星術師の見栄えをよくするために経済予測の専門家を創り出した。これはジョン・ケネス・ガルブレイス(彼自身も経済学者である)による皮肉だ。近年起こった証拠物件Aは、世界金融危機だ。これは、大多数の経済学者が、マクロ経済と金融は今後ずっと安定すると思い込んでいたときに発生した。前章で説明したように、このような誤った認識は、経済学によくある盲点、すなわち一つのモデルを唯一のモデルと間違えたことによって生じたもう一つの副産物だった。逆説的だが、経済学者が自身のモデルとより真摯に向き合っていれば、金融革命や金融グローバリゼーションがもたらす結末について自信が持てなくなり、その結果金融市場が引き起こす損害に対してもっと懸命に備えていただろう。
  • しかしながら、どのような社会科学も、予測を行ったり、予測の基礎となる判断をしたりするべきではない。社会生活の動向を予測することはできない。社会の推進力として作用しているものが多すぎるのだ。モデルの言葉に置き換えると、これまでにまだ構築されていないものも含めて、未来にはたくさんのモデルがあるのだ!経済学やその他の社会科学に期待できることは、せいぜい条件付きの予測をすることだ。つまり、その他の要因がそのまま一定である状況において、個々の変化から一つを選び、それがもたらすであろう結果をわれわれに教えてくれるということである。優れたモデルとはそのようなものだ。そのようなモデルは、ある程度大規模な変化がもたらす結果や、いくつかの要因が他の要因を圧倒するほど大きくなるときに起こる影響の目安を提供してくれる。大規模な価格操作は欠乏を生み出すだろうということや、凶作によってコーヒー価格が上昇するだろうということ、平時に中央銀行が貨幣を大量に供給するとインフレが生じるだろうということについて、われわれは十分確信できる。ただしこれらの例は、「その他すべてのことが同じ」ということが妥当な場合に成り立つ想定であり、そこで生じる予測は条件付き予測といったほうがふさわしい。問題なのは、妥当と考えられる多くの変化のうち、どれが実際に発生するか推測することや、それらが最終的な結果に対してどれほどの重みを持つのかについて、ほとんど確信を持つことができないということである。そのような場合、経済学には自信よりもむしろ注意深さや謙虚さが求められる。

多様性の欠如

  • 経済学について最もよく聞く不満の一つに、経済学は部外者を避ける同好会のようだというものがある。批判者によると、この排他性によって経済学は狭量なものとなり、経済学に対する新しく代替的な見方に閉鎖的になってしまっているというのだ。彼らが言うには、経済学はより包括的に、より多様に、そして異端の手法もより歓迎するべきなのだ。
  • このような批判は、学生がよく言うものだ。その理由の一つに経済学の教育法がある。例えば、1年秋に、ハーバードの有名な経済学入門コースであるeconomics 10、これは同僚のグレゴリー・マンキューが教えているのだが、その授業を一部の学生がボイコットしたことがある。学生が不満だったのは、コースの内容が経済科学の振りをした保守派のイデオロギーの宣伝であり、永続的な社会格差を助長するものだということだった。マンキューは抗議した学生を「見識が足りない」として退けた。彼は、経済学はイデオロギーを持っておらず、政策に関する結論を理路整然と考えて正しい答えにたどり着けるようにするための単なる道具にすぎないのだと指摘した。

ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ

ストーリー自体は知っていたので、世界有数のグローバル企業の創業者()にどれくらい忖度したプロットになっているか(どのくらいレイを悪く描くか)が個人的な関心でした。一言でいうとバランスよくできていたように思います。

スティーブ・ジョブズが典型例ですが、カリスマ経営者は基本的に自己中のサイコ野郎が少なくなく、中でもレイ・クロックは最終的にマクドナルド兄弟からマクドナルドを奪ったくそ野郎です。もちろん彼がいなければマクドナルドはグローバル企業になれず、片田舎のレストランとして生涯を終えていた可能性も高いため、貢献は認めないといけませんが。

劇中でマック兄が「お前は何も生みだしてないだろ」的なことを言って激昂する場面があります。たしかにマクドが(少なくとも初期に)成功した理由はマック兄弟が発明したスピード生産方式であり、レイの貢献度はゼロです。また、現在のリース+フランチャイズ方式を思いついたのは、ソネンボーンであってやはりレイではありません。レイ以前にもマクドの生産方式に目を付けた人は数多くいたとマック弟が語っていることを考えると、数学者のハーディが「ラマヌジャンを見出したことを数学に対する自分の最大の貢献」&デービーが「私は科学上の発見を随分したが、私の生涯最大の発見は、ファラデーを発見したことだ。」と語っていたように、「マクドナルドを見出したことをレイの最大の貢献」というのもやや厳しいところがあります(そもそもマクドナルドは地域では成功していたわけですし)。

https://en.wikipedia.org/wiki/Harry.J.Sonneborne

結局本人が語っているように、自分が信じているものに全財産(どころか借金してレバレッジまでかけて)ぶっこむ山師の才覚とその判断を信じ続けるpersistence(固執)・・・病的な執念が彼の成功のヒミツだったんだろうな、と感じました。