エコノミクス・ルール

この本を読むことで多大な恩恵を受けることが予想される読者は、大きく3タイプいるように思う。
  1. 自分は経済学を理解していると錯覚し、的はずれな批判を繰り返す大半の人文学者及び自然科学者、及び「非主流派」経済学者
  2. ミクロ・マクロ経済学の学部経済学コア科目を一通り学んだ学部生(とくに経済学的思考に対して、何らかの気持ち悪さを感じている学生と経済学的思考を盲信している学生)
  3. 誘導系モデルを用いた統計分析を行い、経済学のモデルを「実証」しているつもりになっている実証経済学者

上記に理論経済学者を含めていないのは、さすがに真っ当な理論経済学者は、本書で書かれているような事実を十分に理解していると「仮定」しているためである。

もちろん上記以外の読者にとっても学ぶことが多い本だと思うので、経済学の初学者を除いたすべての人にとって一読の価値はあると思う。初学者は読んでも議論の意味がよくわからないと思うので、他の本から勉強を始めたほうがいい気がする。

 

  • この本は、ハーバード大学でロベルト・マンガベイラ・アンガーと共に数年間教えた政治経済学の授業をきっかけに生まれたものだ。ロベルトは、彼らしい独特なやり方で、私に経済学の強みと弱みについて真剣に考えさせ、経済学の手法で有益だとわかったものを明らかにするよう後押ししてくれた。ロベルトが言うには、経済学はアダム・スミスカール・マルクスのような崇高な社会理論を構築することをあきらめてしまったために、無味乾燥でつまらない学問になってしまったというのだ。
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  • それに対し私は、経済学の強みは規模の小さな理論を立てるところにあると指摘した。物事の因果関係を明らかにしーたとえ部分的なものであったとしてもー社会的現実を解明するための状況に応じた考え方のことだ。そして、資本主義システムがどのように機能しているのかや、世界中の富と繁栄を決定するものは何かといった普遍的理論に関する研究より、謙虚な姿勢で積み上げられた控えめな科学のほうが役に立つ傾向にあると私は論じた。彼を納得させることができたとは決して思わないが、彼との議論が私にある種の衝撃を与えたことをわかってもらえたらと思う。
  • 私の新しい所属先であるプリンストン高等研究所には、経済学の経験に基づく実証主義とは極めて対照的な人文学的ないし解釈的アプローチが息づいていた。研究所にやってきた多くの訪問者ー経済学と並ぶ学問である人類学、社会学歴史学、哲学や政治学の人々ーと出会うと、経済学者に向けられた心の奥底から発する強い疑いの目に驚かされた。彼らにとって経済学者は分かり切ったことを言ったり、単純な枠組を複雑な社会現象に無理に当てはめて失敗を犯したりするような存在だった。周りにいた数少ない経済学者が、社会科学における知識豊富な馬鹿者として扱われていると思えたこともあった。つまり、数学や統計学には優れているが、それ以外のことでは役に立たないというのだ。
  • 皮肉なことに、私はかつてこの種の態度をー反対側から 見たことがあった。たくさんの経済学者たちが集まる場をうろついて、彼らが社会学や人類学について何て言っているのかを見てくればいい!経済学者にとって、他の分野の社会科学者たちは、事実や数字よりも思想を扱っており、節操がなく、冗長で、実証的な裏付けに乏しい(あるいは)誤って実証分析の落とし穴にはまっている存在になっている。経済学者は、どのように考えれば結果を得ることができるのかを知っているが、他の学者たちは堂々巡りを繰り返すだけというのだ。この時に、私は反対側から向けられる疑いの目に対して備えておくべきだったのかもしれない。
  • 経済学の外部から繰り出されてきた批判の多くは的外れだと私は思った。経済学者が実際何を行っているのかについて、あまりにもたくさんの誤解があったのだ。そのため私は、経済学にとって必須の分析に関する議論や実証に目を向けることによって、他の社会科学の実践のあり方もある程度改善できるのではないかと思わずにはいられなくなった。
  • しかし、このような事態を招いた責任は他ならぬ経済学者自身にあることも明らかだった。経済学者がうぬぼれていることや、世界を考察する際に特定の理論に執着することが多いことだけが問題なのではない。経済学者は他人に自分たちの学問内容を説明するのが下手くそでもあるのだ。この本の大半は、世界がどのように動いているのかに対する様々な解釈や、公共政策が引き起こす様々な結果を示すたくさんの、そして今も増え続けている枠組を経済学が持っていると示すことに費やしている。しかし、非経済学者が経済学から決まって耳にするのは、市場、合理性、利己的行動に対するひたむきな賛歌のようなものだ。経済学者は、社会生活について条件付きの説明ー市場(そして市場における政府の介入)がその背後にある固有の条件次第で、いかにして効率性、公平性そして経済成長に対し
    て異なる結果を生み出すのかに対する明白な説明を行うことを得意にしている。しかし、経済学者は状況に関係なくどこでも成立する普遍的な経済の法則について宣告しているように思われることが多い。
  • 私は、このような分断を埋めるための本ーそれは経済学者と非経済学者の両方に向けたものだーの必要性を感じた。経済学者に対する私のメッセージは、自らが実践する科学を説明する優れたストーリーが必要とされているということだ。私は、科学を実践する者たちが陥りがちな罠を明らかにするとともに、経済学の中で次々に生まれている役立つ業績を目立たせる新たなフレームを提示するつもりだ。非経済学者に対する私のメッセージは、この新しいフレームの下では経済学に対する一般的な批判の多くは無効になるということだ。経済学には批判すべき点がたくさんあるが、称賛すべき(そして見習うべき)点もたくさんある。
  • 自然科学を模範としているところにも理由の一端があるのだろうが、経済学者はモデルを誤って用いる傾向がある。あるモデルを唯一のモデルとして、どんな状況にあっても関連づけたり適用したりする間違いを犯しやすいのだ。経済学者はこのような誘惑に打ち勝たなければならない。環境が変化し、一つの前提から別の前提に視点が移るのに合わせて、モデルを慎重に選び直さなければならない。異なるモデルを、もっと柔軟に使い分ける方法を学ばなければならないのだ。
  • 本書は、経済学の称賛と批判の両方を行うものだ。この分野の核にある部分ー知識を生み出す上で経済モデルが果たす役割は擁護するが、経済学者による経済学的手法の扱い方や、モデルの(誤った)使い方については批判をする。本書での私の議論は、経済学者の「党派的な見方」とは無縁である。経済学者の多くは、この分野に対する私の見方、特に経済学がどのような意味で科学と言えるのかについての見方について、同意してくれないと思う。
  • 他の社会科学を専攻する経済学以外の専門家と話していると、経済学が外部からどう見られているかが分かって困惑することがしばしばある。彼らの不満は、よく知られている。経済学は物事を単純化し過ぎていて視野も狭い。文化や歴史、背景や条件を無視して、自分たちが普遍的であるかのような主張をする。市場なるものが、本当に存在するかのように考えている。暗黙の価値判断を持ち込んでいる。そのくせ経済状況の変化について説明も予想もできない。これらの批判は大部分が、経済学とは何かを見誤っているところから来ている。実際の経済学には多様なモデルが存在しており、特定のイデオロギー的志向を持ったり、唯一の結論を導いたりするものではない。もちろん、経済学界でその多様性を反映させることができていないのだから、誤りは経済学者自身にあるとは言える。

モデルの多様性

  • 経済学者は、社会的相互作用の目立った側面を掴まえたモデルを構築する。こうした相互作用は、財やサービスの市場で起きている。市場とは何かについて、経済学者は幅広い合意を持っている。個人、企業、あるいは他の集合体が買い手と売り手になる。対象となる財・サービスには、ほとんどのものが含まれる。官職や地位など、市場価格が存在しないものもだ。市場は局所的、地域的、国家的、あるいは国際的でありうる。バザールのように物理的に構成されている場合もあるし、長距離交易のようにバーチャルな場合もある。伝統的に経済学者は、市場がいかに機能するかという問題に夢中になっている。市場は資源を効率よく使っているか?改善の余地はあるか、改善できるならどうやって?交換から得られた利益はどう分配されるのか?市場以外の制度の機能に光を当てるためにモデルを使うこともあるー学校、労働組合、政府などだ。
  • では、経済学のモデルとは何なのだろう? 要素間の特殊な関係の働きを、交絡要因を隔離して、単純に示したものと理解するのが最も簡単だ。モデルは原因に焦点を当てて、それがシステムを通していかなる結 果をもたらすのかを示そうとする。モデルを作るとは、全体の中のある部分と別の部分のつながりがどのようなものであるかを明らかにする、人工的な世界を作ることであるー要素が複雑に絡み合った現実世界を、漠然と見ているだけでは識別できないつながりだ。経済学のモデルは、医者や建築家が用いる物理モデルと大差ない。病院で見かけるプラスチック製の肺のモデルは、人体の他の部分から切り離された呼吸システムに焦点を当てている。建築家が作るモデルは、家の周辺の風景を示すものもあるし、内部のレイアウトを示すものもある。経済学者のモデルも同じだが、物理的な構築物ではなく、言葉と数式を用いる点で異なっている。
  • よくあるモデルは、経済学の入門科目を取った人にはおなじみの供給ー需要モデルだ。右下がりの需要曲線と、右上がりの供給曲線で構成され、交点で価格と数量が決まる。この人工世界は、経済学者が「完全競争市場」と呼ぶもので、消費者と生産者が無数にいる。全員が経済的利益を追求しており、誰も市場価格に影響を与えることができない。このモデルはたくさんのことを捨象している。人は物質的な動機の他にも、違う動機を持っている。合理性は感情によって曇らされたり、認知的短絡を起こしたりする。生産者は独占的に行動することもある、などだ。しかし、このモデルは現実の市場経済の単純な働きを解明してくれる。

寓話としてのモデル

  • 経済モデルを、寓話のようなものだと考えることもできる。名前のない、どこにでもある場所(ある村、森)に住む2、3人の登場人物が出てくる小話で、彼らの振る舞いや相互の交流から、ある種の教訓となる結末が導かれる。登場人物は人間の時もあるし、擬人化された動物や無生物の場合もある。寓話はシンプルだ。少ない言葉で語られ、登場人物は貪欲や嫉妬のような型どおりの動機で動く。寓話話はリアルである必要はないし、登場人物の人生を精密に描く必要もない。物語の筋を明確にするためにリアリズムを犠牲にし、不明瞭さを少なくする。重要なのは、寓話には誰にでも分かる道徳が含まれているということだ。正直が一番だ、最後に笑う者こそ勝者だ、同病相憐れむ、水に落ちた犬を叩くな、などである。
  • 経済学のモデルも似ている。シンプルで抽象的な環境を前提にしている。仮定の多くが現実的である必要はない。本物の人間や企業が住んでいるように見えても、登場人物は高度に定型化された振る舞いをする。生き物でないもの(「ランダムショック」「外生的パラメータ」「自然」)もしばしば登場し、行動に影響を与える。明確な原因、結果や条件式が、物語の筋となる。そして誰もが分かる道徳ー経済学者が政策的含意と呼ぶものがある。自由市場は効率的だ、戦略的な場面で機会主義的に行動すると全員の厚生が悪化する、インセンティブは重要だ、などである。
  • 寓話は短く、要点は明瞭だ。メッセージに誤解の余地はない。ウサギとカメの物語は、着実に、ゆっくり歩んでいくことの重要性を訴えている。物語の核になる部分を取り出せば、他の多様な環境にも応用できる。経済モデルを寓話と一緒にすると、「科学的」な地位が損なわれると思われるかもしれない。しかし、両者の主張は、全く同じように作用する。競争的な供給ー需要の枠組を学んだ学生は、市場の力に敬意を持ち続ける。囚人のジレンマを乗り越えようとするなら、協調の問題を考えないわけにはいかない。モデルの科学的な細部を忘れてしまった時でも、世界を理解し解釈するテンプレートは残るのだ。
  • この類比は、経済学者の職業的専門性を軽視するものではない。経済学者は、論文に書いた中小モデルが、寓話と本質的に変わらないと認識し始めている。優れた経済理論家のアリエル・ルービンシュタインは次のように述べている。「モデル」という言葉は「寓話」や「おとぎ話」より科学的に聞こえるかもしれないが、私には大きな違いがあるとは思えない。」哲学者のアレン・ギバードと経済学者のハル・ヴァリアンの言葉では、「経済学のモデルはいつもある物語を語っている。」同様に、科学哲学者のナンシー・カートライトは「寓話」という用語を、経済学や物理学のモデルに対して使っているが、経済学のモデルのほうがより比喩的だと考えている。道徳が明快に語られる寓話と違い、経済学のモデルから政策的含意を引き出すにはいっそうの注意と解釈が必要になる、とカートライトは言う。この複雑性は、モデルが一つの文脈的真実のみを取り上げ、あくまで特殊な条件に基づく結論を導いているという事実から来ている。
  • 多少の違いはあるが、寓話との類比は有益だ。寓話は数え切れないほどあり、それぞれの寓話が環境の異なった条件の下で行動する指針を与えている。また、寓話が導く道徳は、しばしば矛盾しあっている。ある寓話は信頼や協力の美徳を称賛しているが、別の寓話は自分をもっと信じるよう促している。あるものは事前の準備を称え、別のものは過剰に準備し過ぎると危ないと警告している。手持ちのお金を使って人生を楽しめというものもあれば、雨の日に備えて貯金すべきだというものもある。友達は持ったほういいが、友達が多すぎるのは良くない。それぞれの寓話が、一つの限られた視点から道徳を語っている。ただし全体を合わせると、疑いと不確実性が助長されるのだ。
  • そのため特定の状況に合う寓話を選ぶには、判断力が必要とされる。経済学のモデルを用いる時にも、同じような洞察力が必要になる。異なったモデルが異なった結論を出すという点は先に見た。自己利益に基づいた行動が双方にとって効率的(完全競争モデル)か、浪費的(囚人のジレンマモデル)かは、背後にある条件をどう見積もるかで変わってくる。寓話と同じように、競合する利用可能なモデルを選択する上で、優れた判断力は不可欠である。幸い、証拠の検証が、モデル選びに有益な導きを与えてくれる。その過程は、科学より技芸と言うべきである。

 

実験としてのモデル
  • モデルを寓話になぞらえるのがお気に召さなければ、研究室の実験になぞらえてもいい。これは、驚くような類比かもしれない。寓話がモデルを単純なおとぎ話にしてしまうとすれば、研究室の実験との比較は、モデルに過剰な科学的装いを与える危険があるからだ。事実、多くの文化圏で、研究室の実験は科学的尊敬の最高峰に位置している。白衣に身を包んだ科学者が行う実験は、世界がどのように動いているのか、ある特殊な仮説が本当に正しいのかをめぐる「真実」に到達するための手段である。経済学のモデルが、それに近づくことなどできるのだろうか?
  • 研究室の実験が本当にそうなのか、考えてみよう。実験室は、人工的な環境を作為的に設定したものだ。実験の対象となる物質は、現実世界の環境から隔絶される。研究者は、仮説上の因果関係のみに光を当て、他の潜在的に重要な影響要因を排除できるよう実験をデザインする。例えば、純粋に重力の影響を見たい場合、研究者は真空で実験を行う。フィンランドの哲学者ウスカリ・ マキが説明しているように、経済学のモデルを構築する場合も、絶縁(insulation)、隔離(isolation)、識別(identification)の同じ方法が用いられる。主な違いは、研究室の実験が、因果関係を観察するのに必要な隔離を物理的環境の操作によって行うのに対して、モデルの場合は因果関係の前提を操作する点にある。モデルは心理的環境を構築して、仮説の検証を行うのだ。
  • 次のような反論があるかもしれない。研究室実験は、環境は人工的かもしれないが、作用はまだ現実の世界で起きている。少なくとも一つの条件下で、何が起きるかは分かる。反対に、経済モデルは心の中でしか展開されない完全な人工的構築物だ。もっと大きな違いもある。実験の結果は、現実の世界に適用する前に何度も外挿(extrapolation)を要求される。実験室で起きたことが、実験室の外で起きるとは限らないからだ。例えば、薬の効果は、実験室の設定ー「実験的制御」ーで考えられたもの以外の現実世界の条件と混じり合うと、得られないかもしれない。一つの例を与えてみよう。コロンビアで、私立学校のバウチャーを無差別に配布したところ、教育効果が大きく改善した。だからと言って、同じプログラムがアメリカや南アフリカなどでも同じ結果をもたらすという保証はない。最終的な結果は、国によって違う多くの要素に依存する。所得水準、親の選好、私立と公立の質的差、教師や学校運営者を駆り立てるインセンティブーそれらの要素すべて、他の多くの潜在的に重要な事柄が結果に関係してくる。「あそこで効いた」ということから「ここでも効く」という結論を導くには、多くの追加的なステップが必要である。
  • 研究室(あるいは野外)のリアルな実験と、われわれが「モデル」と呼ぶ思考実験の間にある隔たりは、一般に考えられているより小さい。どちらも、その結果を必要な時と場所に適用する前に慎重な吟味(extrapolation)を必要とする。適切な吟味を順番に行うには、優れた判断力と他の情報源からの証拠、構造的推論の組み合わせが必要である。実験の価値は、その実験が行われた文脈の外側にある世界について、何を教えてくれるかで決まる。そのためには同一性を識別し、異なった設定でも並行関係を見出す能力が必要となる。
  • リアルな実験と同様、モデルの価値は特殊な因果関係を取り出し、識別する能力に宿る。現実世界の因果関係は、その作用を曖昧にする他の因果関係と並行して現れるので、科学的説明を試みるすべての人にとって複雑である。経済学のモデルは、この点で優位性があると言えるかもしれない。偶有性ー特殊な前提条件への依存ーがモデルには組み込まれているからだ。第三章で見るように、確実性が欠如していることで、われわれは複数の競合モデルから現実をよりよく記述することができるのだ。

 

  • ジョンの脳波論のように重要な仮定が明らかに事実に反する時、モデルの有効性を疑問視するのは完全に正しく、必要でさえある。この例では、モデルは単純化され過ぎるあまり、われわれを惑わせていると言うことができる。この場合の適切な反応は、もっと適合的な仮定を持った別のモデルを作ることであり、モデルを諦めることではない。悪いモデルへの解毒剤は、良いモデルを作ることなのだ。
  • 究極的には、仮定の非現実性を避けることはできない。カートライトが言うように、「非現実的な仮定を用いているからという理由で経済モデルを批判するのは、ガリレオの斜面落下運動の実験が完全に摩擦のない球体を用いたと言って批判するようなものだ。」しかし、われわれが蜂蜜の壺に落ちた大理石にガリレオの加速度の法則を適用しようとしないように、このことが重要な仮定が総じて現実とかけ離れたモデルを用いる言い訳にはならない。

 

  • 物理科学の標準からすると、経済学者の用いる数学はそれほど先進的ではない。多変数微分積分最適化問題の基礎があれば、たいていの経済学理論にとっては十分である。それでも、数学的形式主義は読者にある種の投資を要求する。経済学と他の社会科学の間にわかりにくさの壁を作るのだ。これが、経済学者でない人がこの職業に抱く疑念を高める原因にもなっている。数学のせいで、経済学者は現実世界から引きこもり、抽象の構築物の中で暮らしているように見えてしまう
  • 今日に至るまで経済学は、大学院で必須の修行期間を経ていない人にとって不可解なままの、ほぼ唯一の社会科学分野となっている。経済学者が数学を用いる理由は誤解されている。洗練とか、複雑さとか、高度な真理への要求とはあまり関係ない。経済学で数学は主に明晰さと一貫性の二つの役割を果たすが、どちらもその栄光を求めてのことではない。第一に、数学はモデルの要素ー仮定、行動メカニズム、そして主たる結果ーを確実で透明なものにする。ひとたび数学の形式で記述されると、モデルが言ったり行ったりするととは、読むことのできる人には理解しやすいものになる。この明快さは偉大な美徳に属するが、十分に高く評価されていない。われわれは今もなお、カール・マルクスジョン・メイナード・ケインズヨーゼフ・シュンペーターが本当は何を言おうとしていたのか、議論を戦わせている。三人は経済学分野の巨人だが、自分たちのモデルをほとんど(すべてというわけではないが)言葉で説明した。反対に、ポール・サミュエルソン、ジョセフ・スティグリッツケネス・アローが、ノーベル賞をもらった理論を開発していた時、心の中で何を考えていたのかは誰も気にしない。数学モデルが要求するのは、証明の細部に気を配れということだけだ
  • 数学の第二の価値は、モデルの内的一貫性を保証するというものだー簡単に言うと、結論が仮定から導けるかどうかである。これは平凡だが、不可欠な貢献だ。議論の中には、単純で自明過ぎるものもある。他の議論には、より慎重な扱いを要求するものもある。認知バイアスのせいで、見たい結果だけを導く場合には特にそうだ結果が純粋に間違っている時もある。重要な仮定を取り除くと議論が急に明示的ではなくなることもしばしばだ。こういう時、数学は有益な検証手段となる。ケインズ以前の経済学者の巨頭で、最初の本格的な経済学の教科書の著者、アルフレッド・マーシャルは優れたルールを持っていた。数学を簡略化された言語として用いよ。それを言葉に翻訳し終えたら数学は燃やしてしまえ!私が学生によく言うのは、経済学者が数学を使うのは彼らが賢いからではなく、十分に賢くないからだ。

 

  • こんな冗談がある。ドブリューが1983年にノーベル賞を受賞した時、ジャーナリストが経済の先行きについての彼の見解を知りたいと声をかけてきた。彼はしばらく考えた後、こう続けた。「n種類の製品とm人の消費者からなる経済を考えてみよう。」
  • 第一定理は、見えざる手の仮説を実際に証明している点で偉業といえる。すなわち、ある一定の仮定の下で、市場経済の効率性は、単なる推測や可能性ではなく、前提条件から論理的に導き出されるものであることが示されているのだ。この結果は数学のみを用いて示されているので、実際に正確な計算式を得ることができる。この結果がいかにして生み出されたのか、モデルによってわれわれは正
    確に知ることができるのだ。特に、モデルを用いることによって、効率性の実現を確実にするために必要な具体的な仮定が明らかにされている。 
  • 見えざる手の定理を満たすために必要な仮定は、十分条件であって必要条件ではない。言い換えると、仮定のうちのいくつかが満たされない場合であっても市場は効率的なものとなり得るのだ。このため、アロー=ドブリューの基準が完全に満たされていない場合であっても自由市場は望ましいものだと主張する経済学者もいる。

 科学的進歩、一つの時代に一つのモデル

  •  経済学者に経済学を科学たらしめるものとは何かを尋ねると、次のような答えが返ってくるだろう。「それは科学的手法を用いているからだ。われわれは、仮説を立ててから検証する。ある理論が検証に失敗すれば、その理論を捨てて別の理論に置き換えるか、その理論の改良版を提示する。その結果、世界をよりよく説明する理論が開発されて、経済学は進歩していくのだ。」
  • これは素晴らしい話だが、経済学者が実際に行っていることや、経済学が実際にどのような進歩を遂げているのかとは、ほとんど関係していない。第一に、経済学者の研究の多くは、最初に仮説を構築した後に現実世界の事実に向かい合うという、仮説演繹法とは大きく異なるものだ。より広く行われている方法は、既存のモデルでは説明できていないように思われる特別な規則性や出来事に応答してモデルを構築するというものだー例えば、銀行が企業に貸し出しを行う際に、高金利を課す代わりに、資金供給量を制限するという、一見したところ理に適っていない行動が挙げられる。研究者は、このような「常軌を逸した」出来事について、よりうまく説明することのできる新しいモデルを開発している。
  • モデルを生み出す思考方法には帰納的な要素が多く含まれている。そして、モデルは特定の経験的事実を説明するために具体的に考案されたものであるため、同様な現実に直面した場合にそれを直接検証することができない。言い換えると、信用割当の存在は、それ自身が最初に理論を構築する動機になったものであるため、その理論を検証するために用いることができないのだ。
  • さらに、演繹的な仮説検証アプローチに正しく従ったものでさえ、経済学者が生み出した研究の多くは、厳密に言うと実際に検証可能ではない。これまで見てきたように、経済学の分野は矛盾した結論を生み出すモデルにあふれている。しかし、経済学者の扱うモデルの中で、専門家にきっぱりと否定されて明らかに誤ったものとして捨て去られたものはほとんどない。多くの学術活動が、様々なモデルに対して実証的な支持を与えることを目的として行われている。しかし、これらの作業は概ね当てになるものではなく、結論がその後の実証分析によって弱められる(覆される)ことが多い。その結果、専門家の人気を集めるモデルの変遷は、事実の存在そのものよりも、一時的なブームや流行、あるいは適切なモデル構築のやり方についての嗜好の変化によって起こる傾向にある。
  • 専門家についての社会学は、この後の章で取り上げる。より根本的なのは、社会的現実は移ろいやすいために、経済学のモデルによる検証は本質的に困難であり、不可能でさえあるということだ。第1に、研究者が他の仮説の妥当性について明確な結論を導き出させるようなはっきりとした証拠を現実社会が提供してくれることは滅多にない。最も関心を集める問題ー経済成長を引き起こすものは何か?財政政策によって経済は活性化するのか?現金給付によって貧困は削減されるのか?ーは実験室で研究することはできない。一般的に、得られるデータには相互作用がごちゃごちゃ入り組んでいるため、探し求めている原因をはっきりと見つけることは難しい。計量経済学者が最善を尽くしているにもかかわらず、説得力のある因果関係を示す証拠を得ることはとても困難なのだ。
  • より一層大きな障害は、どんな状況にも有効な経済モデルを求めることは一切できないということだ。物理学においてさえ、不変的法則が多数あるのかどうかについて議論されている。しかし、私が本書で何度も強調してきたように、経済学は別ものだ。経済学では、状況がすべてなのだ。ある状況において正しいことは、別の状況においても正しいものである必要はない。競争的な市場もあれば、
    そうでない市場もある。ある状況においてセカンド・ベストの理論による分析が求められていたとしても、他の状況では違うかもしれない。金融政策における時間非整合の問題に直面している政治制度もあれば、そうでないのもある。その他もろもろだ。例えば国有資産の民営化や輸入自由化について、全く同じ政策介入が異なる社会で実施されたとき、多くの場合その影響が大きく異なっていることが観察されるのは驚くべきことではない。

 

  • 私は、実証的検証がどんなときでも必ずうまく機能すると主張したいわけではない。しかし、決定的な実証データが得られないときでさえ、モデルは見解の相違の原因を明らかにするための筋の通った建設的な議論を可能にする。経済学では、政策論議を行う際には、あるモデルと別のモデルを競わせるのが普通だ。一般的に、モデルによる後ろ盾のない見解や政策的処方が支持を得ることはない。そして、いったんモデルが生み出されれば、両者が現実世界についてどのような仮定を置いているのかが、すべてはっきりするようになる。このことによって意見の不一致が解決することはないかもしれない。実際、それぞれが現実を解釈しようとする方法が違う場合には、両者の見解の相違は解決しないのが一般的だ。しかし、少なくとも、何について意見が合わないのかについて、両者が最終的に
    同意することは期待できるだろう

 

  • 経済学者の特殊なモデル構築のしきたりに対する愛着ー合理的で将来を予想できる個人、よく機能する市場などはしばしば、彼らの周囲にある世界との間の疑う余地のない摩擦を見過ごさせる。イェール大学のゲーム理論家のバリー・ネイルバフは大抵の経済学者よりも鋭い判断力の持ち主だが、そんな彼でさえ面倒を起こしている。ネイルバフや他のゲーム理論家がある日の深夜、イスラエルでタクシーに乗っていた。運転手はメーターを倒さず、本来メーターが示すよりも降りる時には安い料金でいいと約束した。ネイルバフと同僚たちは運転手を信用する理由がなかった。しかし彼らはゲーム理論家で、以下のような推論をした。彼らが目的地に着けば、運転手は交渉力をほとんど持たず、乗客が喜んで払うのとちょうど同じ額を受け入れるはずだ。彼らは、運転手の申し出はよい取引で、うまくいくと踏んだのである。目的地に着くと、運転手は二千五百シケルを要求した。ネイルバフは拒否し、代わりに二千二百シケルを申し出た。ネイルバフが交渉を試みる間、激怒した運転手は車のドアをロックし、乗客を中に閉じ込め、危険なほど速いスピードで彼らが乗車した地点まで車を走らせた。彼らを縁石に叩き出し、こう叫んだのである。「二千二百シケルで行ける距離がどれくらいか分かっただろう。」
  • 結局明らかになったのは、標準的なゲーム理論は、現実に起きたことの貧弱なガイドにしかならないということだ。少しの帰納があれば、ネイルバフと彼の同僚は、最初から、現実世界の人々は理論家のモデルが前提とする合理的なオートマトンのようには振る舞わないと認識できたはずだ!

 

  • MIT 、イェール、UCバークレーは政策を評価しモデルを検証するフィールド実験を運営する主な中心地だ。フィールド実験の明らかな欠点は、それらが経済学の中心問題の多くにほとんど関係していないということにある。例えば財政政策や為替レート政策の役割といったマクロ経済学の大問題を検証するのに、経済実験がどの程度役立つのかを知るのは難しい。そして、例のごとく、実験の結果は注意深く解釈されなければならない。というのも、それらの結果は他の前提条件の下では適用できないかもしれないからだー外的妥当性のいつもの問題である。

モデルと理論

  • 読者の中には、私がこれまで「理論」という言葉を使うことをなるべく避けてきたことに気付いた人がいるかもしれない。「モデル」と「理論」は同じ意味で用いられることがあり、とりわけ経済学者にそのような傾向があるのだが、これら二つの言葉は同じものと考えないほうがよい。「理論」という言葉には野心的な響きがある。一般的な定義では、理論とは、ある事実や現象を説明するために述べられる一連の考えや仮説のことを指す。理論の中には、実験や検証によって推定されたものもあれば、単なる主張に留まっているものもある。例として、物理学における一般相対性理論とひも理論の二つを取り上げよう。アインシュタインの理論は、その後の実験研究によって完全に裏付けられたものと考えられている。その後に発展したひも理論は、すべての力と粒子の統一を目指した物理学の理論だが、それを支持する実験結果はまだ乏しい自然淘汰に基づくダーウィンの進化論は、その正しさを示唆する証拠が数多く存在するが、種が進化するまでにかかる時間の長さを考えると、進化論を直接実験によって証明することは不可能である。
  • 自然科学分野におけるこれらの例のように、理論には全般的かつ普遍的な妥当性があるものと考えられている。北半球でも南半球でもーそして異星人の生命にさ
    えもー同じ進化論が適用されるということだ。しかし、経済学のモデルは違う。経済学のモデルは、状況によって変わるものであり、ほぼ無限の多様性がある。経済学のモデルは、せいぜい部分的な解釈を与えるものであり、特定の相互作用のメカニズムや因果関係の経路を明らかにするために設計された抽象概念を主張するに過ぎない。これらの思考実験では、潜在的に存在しうる他の要因を分析の枠組から外すことによって、限定された要因がもたらす影響を隔離し識別しなければならない。そのため、多くの要因が同時に作用しているような場合は、経済学のモデルでは、現実世界で起こっている現象を完全に解明するにはいたらない。
  • モデルと理論について、両者の違いと重なり合う部分を理解するため、まずは次の三種類の問題を区別しておきたい。
  • 第一に、AがXに及ぼす影響とはどのようなものかという、「何」を問う問題がある。例えば、最低賃金の上昇が雇用に及ぼす影響はどのようなものか?資本流入が一国の経済成長率に及ぼす影響はどのようなものか?政府支出の増加がインフレに対してどのような影響をもたらすのか?などがある。これまで見てきたように、経済学のモデルは、これらの問いに対してもっともらしい因果関係の経路を説明し、それらの経路が特定の状況にいかに依存しているのかを明らかにすることによって、その答えを提示する。たとえ適切なモデルが存在していると十分確信することができたとしても、これらの問いに答えることは将来の予想を行うことではないことに注意しなければならない。現実の世界では、分析している効果と並行して多くの事柄が変化している。最低賃金の上昇が雇用を減少させると予想することは正しいことかもしれないが、現実の世界では、その予想とは関係なく雇用者が従業員への給与支払いを増やすような全般的な需要の増加が混在しているかもしれない。このような分析は、経済学のモデルに適した分野である。

 理論とは実のところ単なるモデルの寄せ集めに過ぎない

  • これまで見てきたように、経済学の理論は、あまりにも一般化されてしまったために現実世界に対して実際にはほとんど役に立たないか、あるいはあまりにも特定化されてしまったために、せいぜい現実の特殊な一面を説明できるに過ぎないかのいずれかになっている。この難問を、私は具体的な理論をとりあげて説明してきたが、これは経済学のいずれの領域でも妥当するものだ。資本主義の普遍的法則を発見したと主張した理論家を、歴史は常に裏切ってきた。自然とは違い、資本主義は人間が生み出したものであり、それゆえ柔軟な構造物なのだ。
  • もっとも、「理論」という用語が使われる頻度から判断すると、経済学は理論で溢れている。ゲーム理論、契約理論、サーチ理論、成長理論、貨幣理論などなどだ。しかし、用語に騙されるべきではない。実際、これらの理論の一つひとつは、状況に応じて注意深く用いられる特殊なモデルの集まりである。それぞれの理論は、研究の対象となる現象について万能の説明を与えるというより、むしろ
    分析道具の一つの組み合わせを提供しているのだ。それ以上のものを要求しない限りは、理論はとても有益であり適切なものになりえる
  • 五十年近く前、最も独創的な精神を持つ経済学者の一人だったアルバート・ハーシュマンは、社会科学者による「強引な理論化」に対して不満を言い、壮大なパラダイムの追求がいかにして「理解の妨げ」になり得るかを語っていた。網羅的な理論を構築しようという衝動によって、偶発的事件が果たす役割や、現実世界で生じうる様々な可能性から学者が目をそらしてしまうことを心配したのだ。経済学の世界で今日起こっていることの多くは、より穏健な目標を目指している。それは、ある時期に生じた一つの因果関係を理解するための研究なのだ。多くの問題は、大それた野心でこの目的を見失ってしまうときに生じる。

ja.wikipedia.org

 

  • 経済学者の理論は適切に検証することができないという批判がある。実証分析は決定的な結果を与えるものではなく、それによって誤った理論が排除されることは滅多にない。経済学は、一連のモデルが好まれたと思えばまた別のモデルが好まれるというようにゆらゆらと揺れ動いており、その原因も実証分析によって示された事実であることは少なく、むしろ好き嫌いやイデオロギーによるものであることが多い。経済学者が自らを社会という世界における物理学者と見なしているのであれば、この批判は意味がある。しかし、前にも述べたように、自然科学との比較は誤解を招く。経済学は社会科学であり、普遍的な理論や結論を探求するのは不毛なことなのだ。モデル(あるいは理論)はせいぜい状況に応じて有効なものでしかない。普遍的な実験検証や反証を期待しても、あまり意味はない。
  • 経済学は、潜在的に適用可能なモデルの集まりに、過去のモデルが見落としていたか、あるいは無視していた社会的現実を捉えた新しいモデルを加えることによって進歩する。新しい状況に遭遇した経済学者の反応は、その状況を説明するモデルを考えることだ。また経済学は、より良いモデルを選択するーモデルと現実世界の状況をより良く適応させるーより優れた手法が見つかることによっても進歩する。・・・これは科学というより技芸に近いものであり、注目されていない経済学の価値なのだ。モデルを扱うことの利点は、モデル選択の際に必要とされる諸要素ー重要な過程、因果関係の経路、直接的・間接的な含意ーがすべて明白で誰の目にもわかることにある。これらの要素があることで、経済学者がモデルと現実の状況が一致しているのかを、たとえ正式な検証や決定的なものでなく、略式で示唆的なものであったとしてもチェックすることが可能になる。
  • 最後に、経済学は予測に失敗していると非難される。神は、占星術師の見栄えをよくするために経済予測の専門家を創り出した。これはジョン・ケネス・ガルブレイス(彼自身も経済学者である)による皮肉だ。近年起こった証拠物件Aは、世界金融危機だ。これは、大多数の経済学者が、マクロ経済と金融は今後ずっと安定すると思い込んでいたときに発生した。前章で説明したように、このような誤った認識は、経済学によくある盲点、すなわち一つのモデルを唯一のモデルと間違えたことによって生じたもう一つの副産物だった。逆説的だが、経済学者が自身のモデルとより真摯に向き合っていれば、金融革命や金融グローバリゼーションがもたらす結末について自信が持てなくなり、その結果金融市場が引き起こす損害に対してもっと懸命に備えていただろう。
  • しかしながら、どのような社会科学も、予測を行ったり、予測の基礎となる判断をしたりするべきではない。社会生活の動向を予測することはできない。社会の推進力として作用しているものが多すぎるのだ。モデルの言葉に置き換えると、これまでにまだ構築されていないものも含めて、未来にはたくさんのモデルがあるのだ!経済学やその他の社会科学に期待できることは、せいぜい条件付きの予測をすることだ。つまり、その他の要因がそのまま一定である状況において、個々の変化から一つを選び、それがもたらすであろう結果をわれわれに教えてくれるということである。優れたモデルとはそのようなものだ。そのようなモデルは、ある程度大規模な変化がもたらす結果や、いくつかの要因が他の要因を圧倒するほど大きくなるときに起こる影響の目安を提供してくれる。大規模な価格操作は欠乏を生み出すだろうということや、凶作によってコーヒー価格が上昇するだろうということ、平時に中央銀行が貨幣を大量に供給するとインフレが生じるだろうということについて、われわれは十分確信できる。ただしこれらの例は、「その他すべてのことが同じ」ということが妥当な場合に成り立つ想定であり、そこで生じる予測は条件付き予測といったほうがふさわしい。問題なのは、妥当と考えられる多くの変化のうち、どれが実際に発生するか推測することや、それらが最終的な結果に対してどれほどの重みを持つのかについて、ほとんど確信を持つことができないということである。そのような場合、経済学には自信よりもむしろ注意深さや謙虚さが求められる。

多様性の欠如

  • 経済学について最もよく聞く不満の一つに、経済学は部外者を避ける同好会のようだというものがある。批判者によると、この排他性によって経済学は狭量なものとなり、経済学に対する新しく代替的な見方に閉鎖的になってしまっているというのだ。彼らが言うには、経済学はより包括的に、より多様に、そして異端の手法もより歓迎するべきなのだ。
  • このような批判は、学生がよく言うものだ。その理由の一つに経済学の教育法がある。例えば、1年秋に、ハーバードの有名な経済学入門コースであるeconomics 10、これは同僚のグレゴリー・マンキューが教えているのだが、その授業を一部の学生がボイコットしたことがある。学生が不満だったのは、コースの内容が経済科学の振りをした保守派のイデオロギーの宣伝であり、永続的な社会格差を助長するものだということだった。マンキューは抗議した学生を「見識が足りない」として退けた。彼は、経済学はイデオロギーを持っておらず、政策に関する結論を理路整然と考えて正しい答えにたどり着けるようにするための単なる道具にすぎないのだと指摘した。

ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ

ストーリー自体は知っていたので、世界有数のグローバル企業の創業者()にどれくらい忖度したプロットになっているか(どのくらいレイを悪く描くか)が個人的な関心でした。一言でいうとバランスよくできていたように思います。

スティーブ・ジョブズが典型例ですが、カリスマ経営者は基本的に自己中のサイコ野郎が少なくなく、中でもレイ・クロックは最終的にマクドナルド兄弟からマクドナルドを奪ったくそ野郎です。もちろん彼がいなければマクドナルドはグローバル企業になれず、片田舎のレストランとして生涯を終えていた可能性も高いため、貢献は認めないといけませんが。

劇中でマック兄が「お前は何も生みだしてないだろ」的なことを言って激昂する場面があります。たしかにマクドが(少なくとも初期に)成功した理由はマック兄弟が発明したスピード生産方式であり、レイの貢献度はゼロです。また、現在のリース+フランチャイズ方式を思いついたのは、ソネンボーンであってやはりレイではありません。レイ以前にもマクドの生産方式に目を付けた人は数多くいたとマック弟が語っていることを考えると、数学者のハーディが「ラマヌジャンを見出したことを数学に対する自分の最大の貢献」&デービーが「私は科学上の発見を随分したが、私の生涯最大の発見は、ファラデーを発見したことだ。」と語っていたように、「マクドナルドを見出したことをレイの最大の貢献」というのもやや厳しいところがあります(そもそもマクドナルドは地域では成功していたわけですし)。

https://en.wikipedia.org/wiki/Harry.J.Sonneborne

結局本人が語っているように、自分が信じているものに全財産(どころか借金してレバレッジまでかけて)ぶっこむ山師の才覚とその判断を信じ続けるpersistence(固執)・・・病的な執念が彼の成功のヒミツだったんだろうな、と感じました。

その問題、経済学で解決できます。

  • 歴史的に見て、経済学は理論中心の学問だった。大きな進歩といえばまず、ありえないほど頭のいい人たちが難しい数理モデルを書き上げ、世界の仕組みに関する抽象的な定理をそこから導き出す。でも、コンピュータの計算能力が爆発的に高まり、膨大なデータが手に入るようになった1980年代から1990年代に、経済学業界は変わった。実証研究、つまり現実のデータの分析に焦点を当てる経済学者がどんどん増えていった。ぼくみたいなの、つまりきらびやかな理論的洞察にたどり着けるほど自分はぜんぜん賢くないのを思い知った若輩者の経済学者にとって、なんか面白いことが見つからないかとデータを漁って過ごすのは、別に恥ずかしいことではなくなっていた。スティーブン・レヴィット

 

  • 最近のはやりといえば「ビッグデータ」だ。データを山ほど集めて積み上げ、パターンを見つけ出す。ビッグデータを使えば面白い結論が導き出せる。ビッグデータはすばらしいけれど、大きな問題を抱えてもいる。ビッグデータを使ったやり方の背後にあるのは、因果ではなく相関に大きく頼った分析だ。デイヴィッド・ブルックスもこう言っている。「億千万のものごとが互いに相関しあい、またデータをどう組み立てるか、何と何を比べるかで、そうした相関が違ってくる。意味のある相関を意味のない相関と区別するためには、何が何を起こしているか、因果を仮定しないといけないことが多い。つまり、結局人間が理屈を考える世界へと逆戻りだ」
  • ビッグデータにはもう1つ問題があって、それはとにかく大きいのでどう掘り進んだらいいのかなかなかわからないことだ。企業はものすごくたくさんのデータを持っていて、そんなデータをもうどうやって見たらいいのかわからなくなっている。企業はなんでもかんでも集めて、そのあげく圧倒されてしまっている。考慮するべき変数のありうる組み合わせがたくさんありすぎて、どこから手をつけていいのかもわからない。ぼくたちの仕事は、実地実験を使って因果関係を推定しようということに焦点を絞っていて、データを作り出す前に、関心のある因果関係についてよくよく考える。だから「ビッグデータ」なんてものでたどり着けるよりもずっと深いところまで手が届くのだ。

 

  • ジョン・リストは、1995年に博士号を取って仕事探しを始めたとき、そういうのとはまた別の種類の差別に直面した。ジョンは数件の実地実験をやり遂げ、150件を超える学界の仕事に応募していたが、採用面接までたどり着いたのはたった1件だけだった。あとになって、ほとんど同じ条件の人たちが、40件ほど応募しただけで30件の採用面接に呼ばれたのを知った。ジョンとそういう他の人たちとの主な違いは、ジョンが博士号を取ったのがワイオミング大学で、他の人たちが博士号を取ったのはハーヴァードとかプリンストンとかの「ブランド」校だったことだった。雇い主は応募者をふるいにかけるのにそういう情報を使うのだ。実質的に「持てる者」と「持たざる者」を差別しているのだった。

 

  • カーシの人たちとの実験で、性差に関する長年の争点についていくつかわかったことがある。もちろんぽくたちがそうやって女性の振る舞いを調べたのは世界のほとんどとは違う社会だ。でもそこがミソなのだ。父系社会の文化的な影響を可能な限り引っぺがせる。カーシ族の場合でいうと、女性は平均で、男性の平均よりずっと高い割合で競争を選んでいる。もっと簡単に言うと、狂言回しは生まれだけじゃないってことだ。カーシ族では育ちは王様ーというかこの場合女王様ーなのである。
  • ぼくたちの調査によると、適当な文化の下では女性は男性と同じぐらい負けず嫌いになるし、女性のほうが男性より競争を好む、そういう状況がたくさんある。それなら、仮に男性が女性より自然と競争を好むのは進化によるものだとしても、競争力があるかないかを決めているのはそんな進化だけではないということになる。文化的なインセンティヴがそうなっていれば、普通の女性のほうが普通の男性より競争を好むだろう。

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  • よくある仮定によると、女性は男性よりも、漁業資源や牧草地といった公共財に配慮ができる。ぼくたちはカーシ族と近くに住むアッサム族の村でこの仮定を検証した。アッサム族の村は父系社会だ。検証には経済学の標準的なゲームである「公共財ゲーム」を使った(この呼び名は、人びとが全体のために、手入れの行き届いた国立公園やきれいな空気といった公共財を提供できるようお金を出し合うときに起きることを模しているところから来ている)。
  • それぞれのグループに次のような同じ指示を与える。「このゲームでは、コミュニティのために投資を行うか、それとも自分に投資を行うかを選択してもらいます」。参加者の一部には次のように伝える。「自分に投資したお金は1ルピーあたり1ルピーの報酬を投資した人にもたらします。グループ交換に投資したお金は1ルピーあたり1.5ルピーの報酬を、投資した人ではなく、グループ全体にもたらします」
  • カーシ族の社会についてここまででわかっていることから推測して、カーシ族の人たちのほうがグループ全体のためによりたくさん投資する傾向があるのではないか、そう思った皆さん、正解です。カーシ族は男性も女性も、アッサム族の人たちより、グループにたくさんお金を投資している。基本的に、カーシ族のほうが男性も女性も、身勝手な人が少ないことがわかった。この結果からこんな疑問が湧く。女性が「仕切る」社会はぼくたちがこんにち生きている社会と大きく違っているのだろうか?

 

  • 対照的に「利得フレイミング」グループの生徒たちには、前回より試験の点が上がったら試験が終わってすぐに20ドル貰えると伝えた。でも20ドルは試験の前に
    は受け取れない。お金は彼らの目の前にないわけだから、彼らは点がよくなれば20ドルを得る立場にある。3つ目のグループの生徒たちには、前回より点が上がった人にはそれぞれ20ドルあげるけれど1カ月後だと伝える。4つ目のグループでは点が上がった人は3ドルのトロフィを授与される。ぼくたちは実験では必ず対照グ
    ループを設定している。このグループにはご褒美はあげない。ただ、がんばって前回よりいい点を取ろうと励ますだけだ。
  • ぼくたちの設定したインセンティヴはものすごい効果を上げた。全体の成績は100点満点で5点から10点の改善を見せ、郊外のお金持ちの子弟に迫るところほで行った。ご褒美が出るなんて、生徒たちは試験が始まる直前まで知らなかった。なのに成績は目に見えてよくなった。ということはつまり、人種間の成績格差は知識や能力の差ではなく、単に、試験を受けるに当たっての生徒のやる気が原因の大きな1つだということになる。
  • この結果から、何が生徒をやる気にさせるかを理解するのがとても大事なのがわかる。彼らは試験なんてあんまり興味がない。でも、お金によるインセンティヴを与えられると成績は跳ね上がった(ああいうインセンティヴだけじゃなく勉強して準備する時間も与えたらどんなことになっていたか考えてみてほしい)。この実験の目的は他の学校でも使えるインセンティヴの仕組みを設計することではなかった。ぼくたちが求めていたのは、成績格差の原因は知識の違いなのか、試験自体を受けるときのがんばりの違いなのかを区別できる分析用具だった。この疑問の答えがわかれば、格差を埋めるために打つべき手を考えられるはずだ。
  • そのうえで、インセンティヴはそれぞれのグループで違った働きをした。具体的には、年上の生徒たちはお金にとてもよく反応したが、年下の子たちはむしろトロフィのほうがお気に召していた。2年生、3年生、そして4年生の子たちは、試験の前に3ドルのトロフィを見せられて、成績が12 %もよくなった。とても大きな反応だ。実のところ、これは学年の人数を3分の1減らすとか、先生の質を大幅に改善するとか、それぐらいのことをやらないと期待できない反応の大きさなのである。・・・インセンティヴはお金の姿を取らなくても構わない。場合によっては、そして人によっては、トロフィ(あるいはお花、あるいはチョコレートーそれこそなんでも)が、大きな力を発揮する。
  • ぼくたちの予想したとおり、生徒に事前にご褒美を渡したほうがーそのうえで成績が上がらなければそれを取り上げると脅したほうがー事後にお金を渡すと約束するよりも、試験の成績はずっと大幅に改善した。実は、1カ月後に20ドルあげるよと約束しても成績はまったく改善しなかった。ここでもやはり、インセンティヴは「負けたら取り上げる」みたいな形のほうが「勝ったらご褒美、後であげる」みたいな形よりうまくいくようだ。それがどうしてだか考えるために生徒の立場に立ってみよう。成績が上がったらお金をあげるよと言われた場合、新しいスケートボードを買おうなんてことを、試験を受ける前から考えていれば成績は大幅に上がるだろう。幼い子やティーンエイジャーだと、この世は今がすべてだ。ぼくたちの実験で、彼らをやる気にさせるのは本当はどんなことかがわかった。
  • ぼくたちが得た結果によると、先生たちがいったん手にした報酬を取り上げられるかもしれない可能性に直面すると、生徒たちの成績は数学で約6%。国語で約2%跳ね上がった。この手のインセンティヴは、先生たちがチームで働くととくにうまくいくようだ。全体として、生徒たちの成績は4%から6%改善した。この結果は驚異的というほかない。

 

  •  『差別の経済学』での研究を講演して世界中を初めて回ったとき、他の経済学者がよく口にする不満は「こんなの経済学じゃないでしょ」だった。煎じ詰めると、彼らのベッカーに対する異論はこんなふうだった。「この研究がどうでもいいとかつまらないとか言ってるんじゃない。言ってるのは、こういうのは心理学とか社会学とか、そういうのをやる連中にやらせとけってこと」。それが変わりだしたのは1960年代に公民権運動が起きたときだった。すぐに世の人たちは差別と経済学という問題にものすごく興味を持ち始め、真剣にこの問題を扱った本といえば、ベッカーが書いたものしかなかった。
  • 「急に、影響力の大きい人たちがぼくの本を読み始めた。それからは雪だるま式だった」とベッカーは言う。1971年に同書は2回目の改訂とともに再版され、
    今では古典的著作に数えられている。この本でぼくたちの差別に関する認識が完全に変わったからだ。1992年にノーベル委員会がベッカーにノーベル記念経済学賞を授与したとき、委員たちは『差別の経済学』をとくに誉めそやしていた。「ゲイリー・ベッカーの分析はおうおうにして物議をかもし、最初は懐疑や不信を持って迎えられた」。ベッカーの受賞を発表するプレス・リリースで、ノーベル委員会はそう述べている。「それでもベッカーはくじけず、自分の研究を貫き通し、経済学者にも彼の考えや手法を受け入れる人がだんだん増えていった」

 

  • 実は、同性愛のカップルがどんな扱いを受けるかは、販売担当者の人種に強く影響されていた。(アフリカ系やヒスパニック系の)少数民族の販売担当者は、多数民族(つまり白人)の販売担当者よりも、同性愛のカップルを差別する割合が高かった。同性愛のカップルが値段を尋ねると、少数民族の販売担当者は多数民族の販売担当者より、平均で1233ドル高い値段を提示している。そればかりか、少数民族の販売担当者は同性愛のお客に接すること自体避けているようで、試乗しませんかとかもっと安い車はいかがですかとか提案することさえ少なかった。つまり少数民族の販売担当者は同性愛の人たちとやりとりするぐらいなら販売手数料を喜んで諦める傾向があることになる(だからって少数民族の販売担当者はどいつもこいつもそんな態度だってことではない。そういう人が多かったというだけだ)。
  • 買い手が同性愛のパートナーだという態度を取ると、少数民族の営業担当者は車を売るインセンィヴをやり過ごしてしまう。そんなことになっている理由として1つ考えられるのは少数民族の人たちは、自分は信心深いと認識していることが多く、そして宗教の多くが同性愛は間違っていると教えていることだ。一部の研究によると、信心深い人たちは、性的指向は選択するもので、生まれつきのものではないと信じていることが多い。ピュー研究所の信仰と国民生活フォーラムが2007年に行ったアンケート調査によると、アメリカの黒人は「さまざまな面でアメリカ国民一般よりも顕著に信心深い」。(そんな可能性を示唆するのは、ぼくたち自身の研究も含め、太りすぎとか同性愛とかといった状態について人間は「選択」できると感じる場合、人はそういう状態の人を差別する傾向がある、との研究結果があるからである。つまり、自分でなんとかできることなのに、ということだ)。

 

  • 「あなたが何が好きで何が嫌いか、企業は膨大な情報を溜め込んでいる。でも彼らがそんなことをするのは、あなたが面白い御仁だからと言うだけではない。彼ら走れば知るほどお金が儲かるのだ。」それでもなお、別にかまわないというのもありうる。情報を集めてそれでお金を儲けて、いったい何がいけないんだろう?いけないのは、企業がそういう情報を使って消費者をひどい目に合わせているからだ。セイラーの解決策は、企業はあなたに、あなた自身に関するデータを開示しなければならない、という法律を議会が作ればいい、というものだった。情報の中身を知れば、どれが自分に不利に働くのかがわかる。あるいは、自分のニーズに合った製品やサービスを見つけられる。あなたに関する情報をあなたと共有しないといけないなら、企業もあなたの利益に反するような使い方はとてもしにくくなるだろう。そういう企業のせいでぼくたちはとても複雑な選択をする羽目になっていて、データがないと賢い消費者として行動できなくなっている、セイラーはそう主張している。
  • セイラーの解決策はいい出発点だ。でも本当にああいう差別をなくしたければ、自分に関するデータを自分で手に入れられるようにならないといけないし、さらに、企業がそういうデータをどんなことに使っているのかわからないといけない。
  • 結局、差別の仕組みをもっと深く理解すればその分だけ世界は必ずよりよい場所になるのだ。1992年のノーベル賞受賞記念の晩餐会で講演したとき、ゲイリー・ベッカーはこう言っている。「経済学の目では、どうやっても人生はロマンティックには見えてきません。でも、世界のあちこちに蔓延する貧困、苦しみ、危機は、ほとんど全部、なくていいはずのものであり、それらに触れるたび、経済や社会の仕組みを理解すれば人びとの幸せに大きな貢献ができるのだとの思いを強くするのです」。あなたが今では差別をより深く理解してくれて、インセンティヴが偏見ある行動と決定的に結びついているのをわかってくれたと思いたい。

 

  • 興味深いことに、宝くじの要素を加えると、寄付を募るだけの場合よりも、寄付の総額はだいたい50 %ほども増えた(ぼくたちはこれを宝くじ効果と名づけた)。宝くじを付け加えると寄付をする人は増えた。寄付を募るだけの場合に比べて、寄付をしてくれた人はだいたい2倍になった。寄付を募る人たちにとって、宝くじは「いいひとリスト」を作る道具になる。つまり将来の募金運動のときにあてになる、積極的に寄付をする人たちの大きなグループだ。その意味で、宝くじは寄付を募る人にとって「2度おいしい」。つまり、そのときの募金がよりたくさん集められる可能性が高くなるし、同時に、将来寄付を集めるときのいいひとリストを広げられる。
  • また、さもありなん、という発見が他にもあった。寄付を頼みに来る人が美しければ美しいほど、集まる寄付は大きくなる。ぼくたちはこれを「美形効果」と名づけた。容姿の魅力を測るために、最初の面接のとき、IDバッジを作ると言って、寄付を集めて回る人たちのデジタル写真を撮った。そうしておいて、勧誘担当者3人分の写真をファイルに収めた。ファイルをカラーで印刷し、152人(メリーランド大学カレッジパーク校の学部生)にそれぞれ別個に容姿を評価してもらった。
  • 評価する人たちはジーンなどの勧誘担当者の容姿を1から10の尺度で評価する。ジーンは8点の高い評価をもらっていて、能力の点では同程度だが容姿の評価は6点である他の女性より50 %ほども多く募金を集めた。まあ当然といえば当然なんだろうが、男性が訪問に応えた場合、勧誘担当者は女性であるほうが募金はたくさん集まる。ジミーはスタンよりずっと魅力的だとの評価を受けていて、スタンより集めたお金は多かった。でも、女性のほうが男性である彼らより、たくさんお金を集めている。
  • ぼくたちにとって興味深かったのは、美形効果が存在するということそのものではなかった。美形効果の大きさだった。美形効果は宝くじ効果に匹敵するぐらいの大きさだったのだ。つまり、勧誘担当者の美しさが6点から8点に上がると、宝くじの話を付け加えるのと同じぐらい寄付が増えているのだ。
  • 美形はともかく、宝くじは長い目で見て本当に寄付に意味のある違いをもたらしてくれるのだろうか?最初の実地実験から何年も経ってから、ぼくたちは別の実地実験を行うべく、同じ地で再び寄付を募った。当時、宝くじに惹かれて寄付をした人たちは、その後も高い割合で寄付をしていることがわかった。でも、以前ジーンの美しさにつられて寄付をした男性たちは、別の同じぐらい美しい人が勧誘にやってこないと寄付をしてはくれなかった。
  • 美形効果が生涯を通じて寄付を呼び込んではいないのはぼくたちにとって驚きではなかった。大昔にカワイコちゃんがやって来たってだけでは、慈善活動を支え続ける理由にはならないのだ。それでも、宝くじに惹かれて寄付をした人たちは、その後何年も寄付を続けていた。これは、慈善団体は結果を出すことに賭けていると参加者に感じさせる設定の実験ととても似ている(その話はこの後すぐ)。最初にシードマネーを投資するのと同じように、宝くじは、その慈善団体が「なにごとかを得るためになにごとかを差し出している」というシグナルの働きをする。加えて、その慈善団体は末永く活動を続けるというシグナルにもなる。

 実験しないと生き残れない

  • ぼくたちはみんな、人が寄付をするのは他の人を助けたいからだと決めつけている。でも実地実験が何度も何度も示したように、本当はだいたいの人が寄付をする理由はもっと自分本位だ。哀しいことに、慈善団体はまだそれがわかってない。人に財布を開けさせようと、慈善団体は脈々と受け継がれてきたノウハウや公式に頼ったいろいろな手口を使ってきた。シードマネーで33 %はすでに調達できていると発表したり、3対1のマッチング・ギフトを実施したり、ダイレクトメールで支援を訴えたり、そんなやり方だ。そんなやり方をすることで、彼らはお金を取りこぼしている。
  • さまざまな実験スマイル・トレインでのキャンペーン、シエラ・クラブ、中央フロリダ大学、国中の街角なんかのさまざまな場所で行われた実験の結果を見ると、慈善活動への寄付について長年用いられてきた仮定の一部は穴がありすぎて、水は漏れっぱなしみたいだ。正直、きれいな女の人が頼めば男どもの寄付する額が増えるなんていうのはあんほり驚くところじゃないけれど、スマイル・トレインに寄付する人たちが封筒を開ける可能性は、封筒の写真でこちらをじっと見つめている子どもが自分と同じ人種であるときのほうが高いというのは驚きだった。カーリー・サイモンの声色で言うと、ぼくたちは(みんな)「うつろだ」。
    つまり見栄っ張りだ。そしてぼくたちは、自分で決心してあえて慈善活動に自分のお金を投じたと感じないと気が済まない。ぼくたちの結論は単純だ。慈善団体は前任者から引き継いだ定石を捨てて、もっと実験をしないといけない。そうしないと競争に勝ち残れない。

 

  • 管理職は変化に伴う不確実性や未知の事柄に腰が引けたりすることもある。新しいことを始めず、これまでのやり方をなぞっていれば、慣れもあるし、うまくいっている間は、その方が安全な気もする(「壊れてないなら直しちゃだめだ」)。また管理職は、会社の業績を高めるために解決策を提供し、難しい判断を下すのが仕事だと思っている。つまり、会社が直面する難題に対して、自分は最初から答えをもっていないといけない、そう思っているのだ。実験なんてやらかせば、自分はわかってないですって言いふらすようなものだし、自分が持っているはずのノウハウに傷がつくかもしれないーそれじゃ仕事ができてないみたいに見えるじゃないか、そういうことだ。
  • そういう壁を乗り越える道は2つある。トップダウンボトムアップだ。まず、会社の経営陣は、よくある「目先の利益を上げろ、話はそれからだ」という脳みそのあり方を変えて、クックやマキャリスターがやったように、会社の業績を改善する実験を奨励し(それこそ報い)ないといけない。このやり方をするなら、実験を計画して実行し、データを分析し、結論を引き出せるよう人を雇い、訓練しないといけない。次にボトムアップのやり方なら、組織のもっと下位の人たちが小規模の実地調査を行って結果を管理職に報告し、管理職の人たちに実験を行うことに伴うコストとメリットをわからせないといけない

プラットフォームの経済学

デジタル時代の基礎教養、教科書です。白眉は11章。クラウドを活用できない(どころか理解できない)日本の古きよき大企業がなぜ今のような苦境に陥り、そして今後どうなっていくのか、一目瞭然です。
 
  • チェスのグランドマスターであるエドワード・ラスカーは、こう語った。「チェスの複雑なルールは人間にしか作ることができない。だが碁のルールは、さらにエレガントで、有機的で、崇高なまでに論理的だ。宇宙に知的生命体が存在するとしたら、まちがいなく彼らは碁を打つだろう」。

 

  • マイケル・レドモンド(日本棋院九段)は、こう語る。「先を読み、こう打つのが正しいと確信する。なぜ正しいと感じたのか、説明することはできない。ただわかったのだ」と。べつに、碁の名手がとりたてて口下手だというわけではない。人間は、自分の知っていることすべてにつねにアクセスできるとは限らないのである。たとえば他人の顔を見分けるとか自転車に乗るときなど、どうやってそれができるのか誰しもうまく説明できないだろう。暗黙の知識を明示するのはむずかしい。このことを、20世紀に活躍したハンガリー出身の物理化学者にして社会科学者のマイケル・ポランニーは、「われわれは語れる以上のことを知っている」とみごとに言い表している。
  • 以来、明示できない暗黙知が存在することを「ポランニーのパラドックス
    と呼ぶようになったが、これがコンピュータに碁を教え込むうえで決定的な障害となってきた。人間が碁の戦略を言葉にできないとしたら、いったいどうやってプログラムを書けばよいのか。いくつかの経験則をプログラムに書くことはできるとしても、それでは名手に勝つことはできまい。

 

あとから見れば当然のことが、なぜそのときは気づかないのか?

  • 後知恵でははっきりわかる技術の進歩が、当事者にとってなかなか理解できないのはなぜだろうか。それも、聡明で経験豊富で、そのうえ当の技術の変化に最も影響を受ける人や企業が、最も理解するのが遅いのはなぜだろう。
  • さまざまな分野で行われた研究は、同じ結論に達している。旧来の技術に習熟し、知識と経験を積み、現状で成功し繁栄しているからこそ、次に来るものが見えないのである。だから、新しい技術の潜在性にも、それがもたらす変化にも気づかなかった。このような現象は、「知識の呪い」とか「現状維持バイアス」などと呼ばれている。現状を大きく転換あるいは転覆させるような何かに対して心の目が閉じてしまう傾向は、現状での成功者に必ずと言っていいほど備わっているものだ。
  • 工場への電気の導入は、まさにその一例である。電気への移行期については多くの研究が行われており、研究者の意見はおおむね一致している。経済学者のアンドリュー・アトクソンとパトリック・J・ケホーは「電気への移行期の始めの頃は、メーカーはそれまで蓄積した膨大な知識を放棄することをいやがった。彼らの目には、電気は蒸気機関をいくらか上回るという程度にしか見えなかったからだ」と指摘する。経済史家のポール・デービッドとギャビン・ライトは、電気の可能性に気づくのがあれほど遅れたのは、「それまでの仕事のやり方や製品のあり方を根本的に変えるような組織の変革、さらには意識改革が必要だったからである」と結論づけている。

 

  • 私たちは、歴史から、また近年の研究、最近の事例や動向、私たち自身の調査から、多くのことを学んだ。そこから導き出したいくつかの結論は、きっと読者にとって価値のあるものだと信じる。本書を読み進むとわかるように、その多くは経済学に根ざしている。なぜ経済学なのか、と読者は思われただろうか。その疑問に対するみごとな答は、オーストリアの経済学者カール・メンガーが1870年にしてくれた。「経済学という学問は・・・人々が自分のニーズを満たすというつつましい行動をとるときの条件に関心がある」。もうすこしくわしく言えば、経済学は、組織や個人が自分たちの置かれた環境をどう理解し、どのように未来を形成していくか、また、人々が自己の目的実現のためにモノやサービスや情報を収集・交換したら何が起きるかを研究する学問である。経済学がこれらについて生み出してきた多くの知識と理論が、マシン、プラットフォーム、クラウドの今後を分析する土台になっている。

 

  • 2106年10月に、Microsftの研究部門が驚くべき発表をする。同社のニューラルネットワークが「会話における音声認識で人間と同等の役割を果たす」ことに成功したというのである。彼らのシステムは、決められたテーマに関する議論でも、家族や友人との会話でも、プロのトランスクリプショニスト(テープ起こし)よりも正確だった。この結果について意見を求められた言語学者のジェフリー・パラムは「生きているうちにこの日が来るとは思っていなかった。1980年代には、連続音声認識を完全に自動で行うのはあまりに困難だと考えていた・・・ところがエンジニアは、統語解析もまったく使わずに、この偉業をやってのけた・・・彼らが使ったのは、純粋な工学と、膨大なデータに基づく統計モデルだけだ・・・それなのに私は、この日が来るとは思いもしなかっただけでなく、絶対に来ないことに自信満々で賭けていたのだ」。
  • 伝説的な計算機科学者フレデリック・ジェリネクは、「言語学者を一人クビにするたびに、音声認識システムの精度が上がる」と語ったとされる。この発言は、人工知能の開発がルールに基づくアプローチから統計的アプローチに移行した理由を端的に説明しているといえよう。2010年代半ば頃には、音声認識システム開発チームの大半から言語学者は姿を消した。時を同じくして、性能の飛躍的向上が世界を驚かせたのである。これからも世界は何度も驚くことになると私たちは確信している。

 

  • 2015年の世界のプラスチック生産量は、2億5000万トンに達した。現代の自動車では、大きさも形もまちまちなプラスチック部品が1台当たり2000個以上使われている。ブラスチック部品を作るには、まず金型を作らなければならない。金型に熱く溶けた樹脂を流し込み、強い圧力をかけて型の隅々まで行き渡らせ、その後に冷却して成形する。
  • 金型が必要だということは、三つのことを意味する。第一に、型から数万数百万個を生産するのだから、非常に精密でなければならない。精密加工ができる材料であることに加え、耐久性も求められる。これらの条件を満たすとなると、高価にならざるを得ない。第二に、型を作る必要上、生産する部品に制約が課される。単純な形状のものなら問題ないが、たとえば噛み合う部品を一つの型から成形することはできないし、内部形状があまりに複雑だと型から外せない。また部品が複雑になるほど型も複雑になるため、溶かした樹脂を型の中に空隙なく均等に流し込むことがむずかしくなる。第三に、型から成形する場合には、加熱と冷却がポイントになる。十分に冷えてないうちに型から外すのはもちろんダメだが、必要以上に冷却するのは非効率だ。ところが型が冷える速度は一様ではない。部品の精度と生産効率との精妙なバランスをとることが要求される。
  • こうした中、30年ほど前から、さまざまな技術者がそもそも型は必要なのか、と考え始めた。そして紫外線硬化樹脂メーカーに勤務していたチャック・ハルが、紫外線硬化樹脂にレーザーを照射して硬化させた層を積み重ねて物体を造型するアイデアを考案し、1980年代に特許を取得する。これが光造形方式と呼ばれる最も古い方式で(現在も主流である)、当時はラピッドプロトタイピングと呼ばれていた。読んで字の如く、模型を短時間で作る技術である。その後、インクジェットプリンターの原理を応用し、ノズルから材料を噴射して造形するインクジェット方式が開発され、3Dプリンターという名前が定着した。方式はどうあれ、一層二層材料を積層して造形する積層造形技術であり、型がいらない点は共通する。
  • 型が不要の造形方式によって、大きな可能性が開けた。まず、GEの3Dプリンター開発プロジェクトに携わったルアナ・イオリオ曰く、「複雑な形状がタダになる」。つまり、単純な形状でも複雑な形状でもコストは変わらない。どちらも非常に薄い層の積み重ねという点では同じだからである。中空構造や複雑な内部形状もお手の物だ。また粉末状の金属にレーザーを照射して焼結することで、金属材料も扱えるようになった(粉末焼結積層方式)。チタンなどの硬い金属は機械加工がむずかしいが、このやり方なら容易に造形できる。つまり硬度もタダになると 言えるだろう。
  • 複雑な形状にも硬度にも余分のコストがかからないとなると、従来の多くの制約が緩和される。たとえば、プラスチック部品を作るための金型には水管が配置され冷却のスピードアップを図っているが、3Dプリンティング技術を使えば、より効率的な形状の水管を最適配置することが可能になる。これは、コンフォーマル冷却ソリューションと呼ばれている。その結果冷却効率が大幅に向上し、部品の製造時間は20~35%短縮されると同時に、品質も向上した。

 

  • 人間の感情や社会的衝動とうまく付き合いながら仕事を進める能力は人間ならではのものであり、この状況はかなり先まで変わらないだろうと私たちは考えている。・・・セカンド・マシン・エイジが進行するにつれ、人間とマシンの新たな組み合わせが考えられそうだ。意思決定や判断、予測、診断といった仕事はマシンに任せる。そして、マシンの下した決定なり判断なりを必要に応じてわかりやすく説明し、受け入れるよう説得するのが人間の仕事になる。
  • たとえば、医療はその代表例となるだろう。病気や症状の診断は基本的にパターンマッチングであり、医療情報のデジタル化と機械学習の進歩などのおかげで、コンピュータは人間を上回る成果を上げるにいたっている。放射線医学、病理学、腫瘍学などきわめて専門化した分野では、診断技術のデジタル化がまだ進んでいないとしても、すぐに進むと断言できる。マシンの診断結果を人間がチェックするのは結構だが、主たる判定者はマシンであるべきだ
  • だが大方の患者は、マシンから診断結果を聞かされるのはいやだろう。患者の置かれた状況に共感し、つらい知らせを受け入れやすくしてくれる専門医から説明を受けたいはずだ。そして診断が確定してからは、医療のプロフェッショナルたちが患者に接し、社会的衝動を受け止め、治療を滞りなく受けられるようによい関係を築くことが大切になる。治療の手順がきちんと守られないと、患者の健康にとってよくないことはもちろん、アメリカでは処方薬だけで年間2890億ドルの無駄になっているという
  • 未来の進化した医療システムにおいても、人間の役割はけっしてなくならず、むしろ重要な価値を持ち続けるだろう。ただし、今日と同じ役割を果たすわけではなさそうだ。有能な診断者やヒッポとしてではなく、感情の機微を理解するケアコーディネーターとして表舞台に登場することになると考えられる。
  • 未来の病院には人工知能と人間と犬が雇われることになりそうだ。AIの仕事は患者の診断である。人間の仕事は診断結果を理解し、患者に伝え、治療に当たることだ。犬の仕事は、AIの診断結果にケチをつける人間に噛み付くことである。

 

  • 1990年代半ば頃のアメリカでは、フィルムの現像を頼んだり、できあがった写真を取りに行ったりするためにショッピングモールに立ち寄る人がかなりいた。1997年の時点で、フィルム、カメラ、現像代を含む写真関連産業は年商100億ドルを誇る一大産業だった。1995年に消費者向けの最初のデジタルカメラであるカシオのQV10が発売されたが、当時はさほどヒットしていない。900ドルという価格は高すぎたし、内蔵メモリに保存できるのは低解像度(0.07メガピクセル)の写真96枚だけだったからである。1世紀の歴史を誇る老舗Kodak (コダック)の株を買っている投資家たちは、カシオなど敵ではない、デジタルカメラなど恐るるに足らない、と考えていた。1997年第1四半期に、Kodak時価総額は3100億ドルと過去最高を記録している。

 

  • インターネットは、無料という概念を二つの方向に押し広げたという点で、とりわけ強力なネットワークだ。第1に、インターネット経由で楽曲なり写真なりのコピーを送るのに追加費用はかからない。というのも、いまでは大方の人が従量制ではなく定額制で契約しているからだ。だから、一度契約してしまえばあとはいくら使おうと料金は変わらない。第二に、すぐそこに送るのも、地球の裏側に送るのも、料金は変わらない。インターネットの構造上、物理的な距離は無関係だからである。ジャーナリストのフランシス・ケイルンクロスは、情報伝達の阻害要因が一つなくなったことを指して「距離の死」と表現した。

 

増殖するプラットフォーム

  • プラットフォームの経済学、ムーアの法則、そして組み合わせ型イノベーションは、多くの産業、とりわけ既存の大手企業を驚愕と混乱に巻き込んでいる。ここでは、eコマースの巨人Amazonによる驚きのイノベーションを紹介しよう Amazonは企業規模が拡大するにつれて、さまざまな新しいニーズに直面するようになった。たとえば、顧客の注文履歴をすべて保管し、以前に購入していた商品をカートに入れたらメッセージでお知らせできるようにしたい、また顧客がほんとうに欲しいものをリコメンドできるようにしたい・・・などである。このほか、アフィリエイトの支払計算を高速化したい、広告費の処理を合理化したい、といった課題もあった。そこでCEOのジェフ・ベゾスは最高情報責任者兼上級副社長リック・ダルゼルに、システム間の「インターフェースの強化」を任せる。強化するとは、ここではどのシステムへのアクセスもつねに一定の手続きで行うようにし、便宜的なショートカットなどはいっさい排除するという意味である。かくしてダルゼルは社内のシステムを総点検することになった。要はすべて標準的なインターフェースで統一する作業で、じつに面倒ではあるが、技術的に目新しいところは何もない。この作業が完了した暁には、Amazonには分散型ITインフラが整備されたことになる。つまり開発チームは、必要なときに必要なだけコンピューテイングリソースやストレージリソースにアクセスして作業し、全体として生産性と俊敏性を高めることが可能になった。
  • そしてAmazonは、自分たちが強力な新しいリソースを手にしたことに気づく。ストレージスペース、データベース、処理能力といったITリソースがモジュール化され、いつでも必要に応じてくっつけたり切り離したりできるのである。しかもAmazonの高速インターネット接続をもってすれば、世界中のどこからでも瞬時にアクセス可能だ。どうだろう、これだけのリソースを使いたがる人がいるのではないか? データベースを構築したいとか、ウェブサイトを立ち上げたいとか、とにかく何かITリソースを制作したいが、そのために必要なハードウェアやソフトウェアを自前で整えるほどの資金はないとか、買ってすぐ陳腐化したりメンテナンスやセキュリティ対策に頭を悩ますのはいやだという人がきっといるのではないだろうか?
  • というわけでAmazonは2006年にAmazon Web Service (AWS)を開始する。AWSクラウドサービスのプラットフォームであり、最初にリリースされたのは、ストレージサービスとコンピューテイングサービスだった。はやくも1年半後には、29万人以上がこのプラットフォームを利用したと同社は発表している。その後、データベースやアプリケーションなど新しいツールやリソースを増やしていき、現在も急成長を続けている。2016年4月には、AWSAmazonの総収入の9%を占め、営業利益のなんと半分以上を上げた。ドイツ銀行のアナリスト、カール・ケアステッドは、エンタープライズIT業界で史上最速ペースで成長した企業としてAWSを挙げている。この発言にAmazonの株主はさぞ喜んだにちがいない。実際、AWSがサービスを開始した2006年7月11日からの10年間で、Amazonの株価は2,114%(一株35.66ドルから753.78ドルへ)も上昇している。
  • プラットフォームの破壊的威力を示す好例として、音楽業界を外すわけにはいかない。音楽業界はプラットフォームの大波に三回も翻弄された。CDなどの売り上げは、2000年から2015年までの15年間で370億ドルから150億ドルへと半減している。この時期に人々が音楽をあまり聴かなくなったわけではない。
  • ふつうの消費者が音楽を入手する主な手段といえば、iTunesが登場するまでは、アルバムな買うことだった。2002年(iTunes登場の前年である)におけるCDの販売量では、アルバムとシングルの比率はじつに179対1だったのである。だが消費者がほんとうに聴きたいのは、アルバムの中の1曲か2曲程度であることが多い。だいたいは、ラジオか何かで耳にしたことのあるヒット曲である。だから、アルバム全体をリスナーに味わってもらいたいアーティスト(およびアルバムを売って収入を増やしたいレコード会社)と、お気に入りの一曲か二曲だけを聴きたい大方の消費者との間には、ミスマッチが存在していた。AppleiTunesは、このミスマッチを消費者が望む方向にすっぱりと逆転させたのだった。消費者は、完全な楽曲を瞬時にiTunesで手に入れることができる。無料ではないが、アルバムを買うことを考えればはるかに安上がりだ。
  • それまでひとまとめになっていて切り売りできなかったものを切り離す、というのはプラットフォームに共通する特徴の一つである。iTunesは、アンバンドリングを当たり前にしたと言えるだろう。消費者がiTunesのやり方を支持したとなれば、著作権者としても無視するわけにはいかない。ネットワークの規模が拡大し高速化するにしたがって、楽曲のアンパンドリングはますます魅力的になった。考えてみてほしい。1曲ずつ録音されたCD10枚を消費者の元に届けるとしたら、1枚だけのときに比べてコストは10倍かかる。となれば、10曲をひとまとめにして1枚のCDに収録するほうがよい。これが、アナログの経済学である。だがネットワーク上では、ビットを送るコストは事実上ゼロである。となれば、楽曲を切り売りするのになんの不都合もない。これが、ネットワークの経済学である。
  • とはいえ、アンバンドリングで話は終わらない。Netscapeネットスケープ)の元CEOジム・バークスデールはかつてこう言った。「金を稼ぐ方法を私は二通りしか知らない。バンドリングとアンバンドリングだ」。そして彼の言うとおり、音楽に関しては両方が当てはまった。渋々ながら楽曲の切り売りに同意した著作権者たちは、今度は音楽プラットフォームの第3の波に脅かされることになる。それが、Spotify (スポティファイ)やPandora (パンドラ)に代表される音楽ストリーミング配信サービスだ。このサービスでは、巨大な音楽ライブラリから1曲ずつ聴くもよし、無限の組み合わせのプレイリストを作るもよし、ユーザーの傾向からサービス側がおすすめしてくれる曲を流すもよし、と言う具合に魅力的な提案をしている。
  • 無料、完全、瞬時の環境に出現したもう一つの予想外の出来事は、モノが従来とはちがう新しいやり方で再びバンドルされるようになったことである。とりわけ音楽サブスクリプション(定額制音楽配信サービス)のような情報財は、売る側にすれば一曲ずつ切り売りするより利益が大きいし、消費者にとっても時間の節約になる。大方の消費者は、次にどの曲を買おうかなどということに頭を悩ますよりも、毎月すこしばかりの料金を払って聴き放題にするほうを好む。この現象は、心理学でも(意思決定をするのは、とくに支出が絡む場合、面倒である)、経済学でも(モノをバラ売りするよりうまくバンドルして売るほうが儲かる)説明がつく。だがモノがデジタルでない場合には、このビジネスモデルは成り立たない。大量のモノをバンドルするとなれば、中には使わないモノも含まれるだろう。使わずに終わるモノの限界費用がほとんどゼロなら(音楽配信がそうだ)、そういうモノが含まれていても問題ではない。だがそのモノがアナログなら(たとえばレコードやCDなら)、全然使いもしないものを大量に送りつけるのはコストがかかり、利益を損なうことになる。
  • 定額制の音楽配信が消費者に支持されることがわかると、ストリーミング配信サービスは爆発的な勢いで伸びていった。2016年前半には、ストリーミング配信がアメリカの音楽関連収入の47%を占めるにいたる。Spotifyは地上波のラジオ音楽番組に倣って著作権者に利益を分配しているが、その金額は、平均するとリスナー1人1曲当たり0.007ドルにすぎない。しかもラジオ聴取者は気に入った曲のCDをあとで買うかもしれないが、Spotifyのリスナーはまずもってそんなことはしない。一カ月100ドル足らずを払えば聴きたいときに聴きたい場所で何度でも聴けるのだから。この意味で、ラジオ局とレコード会社は持ちつ持たれつの関係にあったが、Spotifyは、レコード会社に取って代わるものとなっている。かくしてストリーミング配信サービスは、消費者の購買行動を変えた。聴きたい曲だけをばらして買っていた消費者が、今度はサブスクリプションという新しい形でバンドルされた楽曲を買うようになった。
  • 大物シンガーソングライターのテイラー・スウィフトは2014年11月に、自分の曲をSpotifyから引き揚げると発表し、「ファイル共有とストリーミング配信は、アルバムの売り上げを激減させた。アーティストはこの打撃に立ち向かうべきだ」と述べた。だが大方のアーティストは、大勢に逆らうつもりはないようだ。無料、完全、瞬時のアーキテクチャはあまりに強力で、到底無視できないということだろう。
  • この先、同じパターンがもっと増えるにちがいない。経営学者のジェフリー・パーカー、マーシャル・バン・アルステイン、サンギート・チョーダリーは著書『プラットフォーム革命』の中で「プラットフォームが出現した結果、従来の経営手法のほとんど全部が覆されようとしている。われわれは不安定の時代を迎えており、どの企業、どの経営者もその影響から逃れられない」と書いているが、まったくその通りだと思う。

プラットフォーム戦争

  • プラットフォームで先陣を切ったAppleApp Storeがはなばなしい成功を収めると、当然ながら、負けてはならじと追随する者が現れた。追随した企業の戦略からも、プラットフォームの経済学についてさらにいくつかのヒントを学ぶことができる。
  • 2005年にGoogleは、ほとんど無名のスタートアップAndroid (アンドロイド)を5000万ドルで買収した。ハイテク系著名ブログであるEngadget (エンガジェット)は当時、「GoogleがなぜAndroidを買収したのか、理解に苦しむ Androidは誰も聞いたこともないスタートアップで、携帯電話用のソフトウェアを作っているらしいということしかわかっていない」と書いている。だが数年のうちに、同社がAppleのプラットフォームに対抗できる価値を持っていることがはっきりした。Googleの事業開発担当上席副社長を務めるデービッド・ラウィーは2010年に、あれは我が社の「最高の買い物」だったと述べている。じつはこの買い物は、あやうく成立しないところだった。というのもAndroidの創設者アンディ・ルーピンは、Googleへの売却が決まる数週間前に韓国を訪れ、Samsung (サムスン)に買収を持ちかけていたからだ。

成功するプラットフォームの特徴

  • 本章で取り上げたプラットフォーム戦争の勝者にはどんな特徴があるだろうか。また、これから繰り広げられるバトルではどうだろう。もちろんプラットフォームのタイプによってバトルの内容はちがってくるが、すでに私たちは勝利を収めたプラットフォームがどういうものか、知っている。まず、ハイペースで成長すること、そしてプラットフォームの所有者と参加者の両方に価値を提供できることだ。そのほかに、次のような特徴を備えている。
  1. 早い時期に地位を確立する。一番乗りである必要はない(現にAndroidは二番手だった)。だがあまりに出遅れると、潜在的参加者がすでにプラットフォームの選択を決めてしまい、ネットワーク効果が働いて手も足も出なくなる。
  2. 可能な限り、補完財の優位性を活かす。補完財のペアのうち、一方の価格が下がれば他方の需要が増えるからだ。
  3. プラットフォームをオープン化し、幅広く多様な供給を募る。それによって消費者余剰が拡大する。とくに、無料で供給される場合がそうだ。参加者が無料で利用できるものが増えるほど、ペアの補完財の需要曲線は外側にシフトし、需要が増える。
  4. プラットフォームをオープン化した場合でも、参加者に一貫性のある心地よいエクスペリエンスを提供するために、供給サイドに対して一定の基準を示し、
    審査を行う。
  • さきほどのAppleGoogleの例からわかるように、完全に閉じたシステム(第三者からの補完財の提供をいっさい認めない)と完全にオープンなシステム(プラットフォームがもたらす価値を十分に共有できない)との間でうまくバランスをとる方法は一つではない。だがともかくも、ちょうどよい落とし所を探る努力はしなければならない。
ユーザーエクスペリエンスを高める
  • 先ほど挙げた項目に加えてもう一つ成功するプラットフォームの運営者が必ずやっていることがある。それは、プラットフォーム参加者に提供するユーザーインターフェースとユーザーエクスペリエンスに非常にこだわり、つねに改善に努めることだ。ユーザーインターフェースとは、人間がマシンとの間で情報をやりとりするためのしくみのことである。たとえばiPhoneでは、タッチスクリーン、ホームボタン、マイク、スピーカーといったものがユーザーインターフェースに当たる。インターフェースは、ユーザーが気持ちよく使えて、できるだけ直感的にわかるものがよい。アインシュタインは「すべてのものは、これ以上単純化できないというところまでシンプルに作られるべきだ」と言ったとされるが、最良のインターフェースもまさにそうである。
  • ユーザーエクスペリエンスは、製品やサービスの利用を通じて得られる体験のことで、非常に幅広い概念であるが、ごく単純化して言えば、使ってみて気持ちがよかった、楽しかった、とても便利だった、といったことである。デザイナーのエド・リーは、二枚の写真を使ってユーザーインターフェースとユーザーエクスペリエンスのちがいを明快に説明している。曰く、スプーンはユーザーインターフェースで、シリアルの入ったボウルはユーザーエクスペリエンスだそうだ。
  • すぐれたユーザーインターフェースとユーザーエクスペリエンスが重要な役割を果たした例として、Facebookが挙げられるだろう。大方の人は忘れているかもしれないが、Facebookは世界初のソーシャルネットワークではないし、世界で初めて大人気になったソーシャルネットワークですらない。先行したのはFriendster (フレンドスター)で、2002年からサービスを開始していたし, MySpace (マイスペース)も2003年には発足し、夢中になっているユーザーは大勢いたから、強力なネットワーク効果がすでに生じていたはずだ。その証拠に、News Corporation (ニューズ・コーポレーション)はMySpaceを2005年に5億8000万ドルで買収している。
  • だが時が経つにつれて、どちらのプラットフォームもユーザーの期待に応えられなくなった。Friendsterは、ユーザーが増えるにつれてサイトが遅くなるなどパフォーマンスが低下する。MySpaceのほうは、ユーザーに自分のスペースをデザインする自由裁量の余地を与えすぎた。ウェブデザインを手がけるフェーム・ファウンドリーは、公式ブログに次のように書いている。
  • あなたの知人の中で、自宅の設計のできる人がどれだけいるだろうか。あるいは、玄関に飾っても恥ずかしくない絵を描ける人がどれだけいるだろうか。たぶん、ほとんどいないだろう・・・すぐれたウェブデザインも同じだ。ウェブデザインはアートであって、ふつうの人がそう簡単にできるものではない。ところがMySpaceはそう考えなかったらしい。ユーザーに好きにやらせた結果、まったく見るに耐えないような代物が氾濫することになった・・・対照的にFacebookは、サイトの基本となる枠組みを設けて制限する方式を選択した。このちがいが、成否を分けることになった。MySpaceを買収したNews Corporationは、結局は買収時の1割以下の3500万ドルで2011年に売却している。

 

  • 金融部門でも、既存事業者が規制でもっとプラットフォーム企業に対抗している。2015年6月にエコノミスト誌が「なぜフィンテックは銀行を殺せないのか」という衝撃的なタイトルの記事を掲載したが、そこで取り上げられた金融イノベーションの大半は、決済、為替などのプラットフォームである。記事では、既存の銀行は規模の点でも「自由裁量でお金を貸せる点でも新規参入者よりはるかに有利だが、この優位性の大半は、保護されているからこそだと指摘する。「その代表例が、当座預金口座だ。誰でもただで安全にお金を預けておくことができ、いつでも自由に引き出したり小切手を振り出したりできる。シリコンバレーには、手厚く保護された金融業に手を出したいと考える人間はほとんどいない」。
  • ただし、仮に保護政策が今後もずっと続けられたとしても、銀行はいずれ不安に苛まれることになるという。その不安とは、「いずれ金融サービス業は公益企業の一種になるのではないか、ということだ。言い換えれば、厳しい規制の下で多数の店舗を展開する、地味でほとんど儲からないビジネスに成り下がることだ」という。その可能性は大いにあるだろう。いや金融だけでなく、他の多くの産業にその可能性がありそうだ。おそらく大方の産業分野で、プラットフォームに参加しない事業者は、いくらすぐれた製品を持っていても利幅とシェアの縮小に直面することになるだろう。

 

  • 製造企業がこれだけ奮闘しても、利益の大半はプラットフォーム企業へ行ってしまう。ある推定によると、 2015年に世界のスマートフォン事業が生んだ利益91%はAppleの懐に入ったという。しかも驚いたことに、翌年にはこの偏りはさらに大きくなった。BMOキャピタル・マーケッツのアナリスト、ティム・ロングによると、2016年第3・4四半期には、世界のモバイル機器メーカーの営業利益の103.9%をAppleが上げたという。サムスンが0.9%を上げた。残るメーカーはみな赤字である。
  • スマートフォンに関して唯一Appleに対抗できるプラットフォーム構築に成功したのはGoogleだが、そのGoogleの財務報告によると、Androidおよび関連モバイルサービスは損益分岐点に到達していない。そうは言っても、Androidの収益は巨額だ。2016年1月にOracle (オラクル)の弁護士が法廷で述べたところによるとOracleJava関連の著作権を侵害されたとしてGoogleを訴えていた)、Android事業の収入は310億ドル、利益は220億ドルに達するという。

交差弾力性、乗り換えコスト

  • 二面市場の価格付けには、多くの戦術的・戦略的判断が関わっている。たとえばクレジットカード市場では、なぜ消費者が(キャッシュバックやマイルなどの形で)お金をもらい、小売事業者は(手数料の形で)お金をとられるのだろうか。逆ではいけないのだろうか。ここで重要になるのが、さきほど説明した価格弾力性である。すこしばかり値下げをするだけでどれほど多くの利用者を追加的に獲得できるだろうか、逆にすこしでも値上げをしたらどれほど多くの利用者を失うだろうか。価格弾力性の高い側で値下げをして、低い側で値上げをするのが賢い戦略だが、話はここでは終わらない。次に問題になるのは、「交差弾力性」である。需要の交差弾力性とは、財Aの価格変化により財Bの需要がどれだけ変化するのかを把握する指標のこと(交差弾力性が正の財は代替財、ゼロの財は独立財、負の財は補完財と呼ばれる)だが、二面市場の交差弾力性では、市場の一方の側で値下げをしたら、反対側ではどうなるのかを問題にする。交差弾力性が高いほど、市場のもう一方の側に与える影響は大きくなる。
  • クレジットカードの場合、これらの要素を勘案すると、消費者の側で値下げをして小売事業者の側で値上げをするのが得策になる。あるカードを持つコストが小さいか、ゼロか、それどころかマイナスなら、大勢の消費者がそのカードを持ちたがるだろう。大勢の消費者が持っているなら、市場の反対側にいる小売事業者はそのカードの取り扱いに乗り気になる。たとえ手数料が少々高くても、である。その結果、プラットフォームの持ち主であるカード会社は、シェアを拡大し、利益を増やすことができる。
  • またネットワーク型の産業では、乗り換えコストも価格付けの重要な要素となる。あるネットワークから別のネットワークへの乗り換えが容易なら、集客に投資する意味はあまりない。いろいろと魅力的な特典を用意して勧誘したところで、相手はそれをポケットに入れ、翌日にはあっさり乗り換えてしまう可能性があるからだ。だが乗り換えが高くつくとなれば、最初に大勢を取り込むことによって、バンドワゴン効果が発動する可能性が高くなる。バンドワゴンとは楽隊を乗せてパレードの先頭を走る車のことで、バンドワゴン効果とは「バスに乗り遅れるな」「勝ち馬に乗れ」という心理を煽ることを意味する。そうなると、他の人たちもそれっとばかりに追随する。最初の特典の効果がなくなっても、誰も乗り換えようとはしない。乗り換えコストが嵩む(かさむ)ということもあるが、みんなが乗っているバスから降りたくないからだ。利用者がこのような状況に置かれることを、経済学では「ロックインされた」と言う。
  • ネットワーク効果が強力に働くケースでは、当然ながら大勢が利用しているネットワークのほうが、利用者の少ないネットワークよりも、これから選ぶ人にとっては魅力的になる。したがって、大きいネットワークほど容易に集客でき、ますます優位に立つ。別の 言葉で言えば、ネットワーク効果が強力に働く市場では「勝者総取り」現象が起きやすい。となればネットワーク型のビジネスでは、とにかく最初だけでも価格を下げてできるだけ早く利用者を増やそうというインセンティブが働く。

計画経済はどこがまちがっているのか?

  • 計画経済は、「計画の出発点となるべき社会全体の網羅的な全情報を単一のセンターに集めることは不可能」だから絶対にうまくいかない、とハイエクは主張した。だが今日では、技術の力で精密なモニタリングが行えるのだから、情報の集約は十分に可能ではないだろうか。あらゆる生産装置にセンサーを取り付けると同時に、市場調査やソーシャルメディアのサーチを行なって需要動向を調べ、それを単一のコア、すなわち巨大な分配最適化アルゴリズムに投入すれば、最適な計画が立てられるのではなかろうか。ハイエクは、そうは考えない。仮にそのようなアルゴリズムが存在するとしても、実際に必要な情報のすべては収集できない。ある時ある場所という環境に依存する知識、すなわちそこにいて「そのリソースの最適な利用を熟知している個人」の知識まで集約することはできないからだ。
  • ハイエクは、ポランニーのパラドックス(われわれは語れる以上のことを知っている)に類することが経済全体に当てはまるのだと示唆したように思われる。自分が知っていること、持っているもの、欲しいものをすべて話すことなど誰にもできない。となれば、巨大なアルゴリズムにはほんとうに必要な情報が投入されないことになり、そこからアウトプットされるのはじつに偏った非生産的な計画になるだろう。これは言ってみれぱ、善意の塊だが少々ピントのずれた叔父さんが、あなたが去年ほしかったが今年はもう興味のないものを町中探してクリスマスにプレゼントしてくれるような行動を、国家を挙げてやろうとするようなものだ。中央計画委員会が国民の最善の利益だけを考えて行動したとしても(この仮定を書き出してみただけで、まずもってあり得ないことがわかる)、渦度の一極集中は政府による常時監視と不条理な官僚支配を招くことになるだろう。
  • ではコアのいない自由市場経済は、どうやって運営されるのだろうか。人々が政府からの過度の監視や規制を受けずに自由に取引することによって、かつ価格という指標を使うことによって、である。モノの値段は、需要と供給を均衡させるだけでなく、決定的に重要な情報をまったくコストをかけずに経済全体に伝達する役割を果たす。ハイエクの言葉を引用しよう。
  • ある一つの資源が不足したら、一つも命令を出さず、ほんの一握りの人しかその原因を知らなくても、数万数十万の人々がその資源を節約するようになる。つまりまさにすべきことをするようになる。これはじつに驚嘆すべきことだ……もしこの価格というシステムが意図的に人間が設計したものであって、価格の変動に導かれて行動する人々が自分たちの決定は直接の目的をはるかに超えた意味を持つと理解しているのであれば、このメカニズムは人間の知恵がもたらした最高傑作の一つだと誇ることができただろう。が、残念ながらそうではない。

 検証・取り消し可能性

  • ソフトウェア開発で「来る者は拒まず」という方針が(家を建てる場合よりはるかに) うまくいくのは、ある参加者が付け加えた新しいピースがきちんと動くかどうかが比較的容易に検証でき、だめとなったら比較的容易に削除できるからだ。たとえばプリンタドライバーだったら、指定されたページをちゃんとプリントアウトできなければならない。もしできないようなら、それをオペレーティングシステムから取り除く必要がある。ソフトウェアのクオリティは、コードを点検する、実際に動かしてテストする、などの方法でチェックできる。ここが、ソフトウェアの開発が小説や交響曲の創作と大きくちがうところだ。小説の場合、誰かの付け足した章が作品の出来栄えをよくしたかどうか、判断するのはむずかしい。クラウドの開発したLinuxが世界で最もポピュラーなオペレーティングシステムになったのは、クオリティを判断する客観的な基準が設定可能だったおかげだと言えよう。
  • またソフトウェア開発では、開発中のすべてのバージョンを上書きせずに保存しておく習慣がある(それができるのも、無料、完全、瞬時というビットの世界の経済特性のおかげだ)。だから、もしコードの一部が不具合だったら、その部分を含まないバージョンにかんたんに戻せる。仮に参加者の誰かが悪意をもっていても、あるいは単に無知であっても、ソフトウェア全体に取り返しのつかないようなダメージを与えることはできない。したがって開発プロジェクトをオープンにし、参加者の資格を問わないスタンスをとることが、他のプロジェクトに比べてはるかに容易である。

 

  • 今日のテクノロジー系大手企業は、シュンペーターやクリステンセンやヒッペルの指摘を真剣に受け止めているらしい。彼らは、自分たちを破壊しかねないイノベーションクラウドが生み出していないか、絶えずスキャンしている。では、ほんとうに破壊的イノベーションを発見したらどうするのか。それを潰したり、圧力をかけて倒産に追い込んだりするのは下策だ。買ってしまって取り込むのである。というわけで二2011~16年にAppleは70社を、Facebookは50社を、そしてGoogleは200社近くを買収している。
  • 多くの場合、買収する側はすでに競合する製品やサービスを持っていることが多い。たとえばFacebookはメッセージング機能も写真共有機能を持っていたが、それでもWhatsAppとInstagramを買収した。Facebookほどの大手にしてみれば、ちっぽけなスタートアップなど取るに足らないと見逃すことも十分に可能だ。だが自前の機能よりスタートアップのイノベーションのほうが好まれ急速に浸透している兆候をクラウドの中に見て取ったため、敢えて買収に踏み切った。この種の買収はだいたいにおいて、高い買い物になる FacebookInstagramに10億ドル、 WhatsAppには200億ドル払った。だが破壊されることに比べれば安いものだと言うべきだろう。

クラウドを活用してトレーダーの仕事を変える

  • 私たちは、現在繁栄している既存企業の多くが、ここ数年のうちにクラウドベースの強敵に直面するだろうと予想している。すでにその強敵が現れている分野もある。素人にはわかりづらいが、自動投資がそうだ。
  • 人類の長い歴史において、株であれ、国債であれ、貴金属その他のコモディティや不動産であれ、とにかく資産投資の決定を下すのは必ず人間だった。現実に買い注文を出す操作は自動化されていても、あれを買うとか売るとか決めるのは人間であって、マシンではなかった。この状況は、1980年代に変わり始めた。数学者のジェームズ・シモンズがRenaissance Technologies (ルネッサンス・テクノロジーズ)を、コンピュータ科学者のデービッド・ショーがD. E. Shaw (ディー・イー・ショー)をそれぞれ起業し、コンピュータを使って投資決定をするようになったのである。彼らは膨大なデータを収集し、さまざまな状況で資産価格がどうふるまうか、定量モデルを構築してテストし、いつ何を買い何を売るかという人間の決定をアルゴリズムで置き換えようとした。
  • この狙いは当たった。アルゴリズム取引を行ういわゆるクオンツ投資ファンドは、めざましい運用成績を上げている。D. E. Shawは2016年10月時点で400億ドル以上を運用しており、同社のファンドのリターンは2011年までの10年間で平均12%に達した。ジョン・オーバーデック(AI研究者で、16歳のとき国際数学オリンピックで銀メダルを取った経歴の持ち主)が創設したTwo Sigma (ツーシグマ)は60億ドル規模のファンドを運用しており、10年間の平均リターンは15%を記録した。だがどのファンドのリターンも、Renaissanceの成績の前では霞んでしまう。同社が運用するファンドMedallion(メダリオン)は社員のみを対象とするものだが、なんと1990年代半ばの運用開始から20年以上にわたり、年間平均リターン(手数料差引前)が70%を上回るのである。合計利益が550億ドルに達したとき、Bloomberg Marketsのウェブサイトで「おそらくは世界最大の利益製造機」と紹介された。
  • プログラマーにして起業家のジョン・フォーセットは、金融業界で働いていたとき、クオンツ系ファンドの運用成績に感銘を受けた。そして、コアの投資会社ではこの方式が十分に活用されていないのではないかと憂慮する。フォーセットの推定によれば、2010年の時点で全世界には3000-5000人のプロのクオンツ投資家がいた。彼が言うには、「これでは少なすぎる。クオンツ投資は最先端の投資手法だと私は信じているが、現状ではこの手法が十分に行き渡っていない。人間だけで運用するファンドと、人間+マシンで運用するファンドがあったら、後者のほうがいいに決まっている」。
  • フォーセットはアルゴリズム取引を誰もが活用できるようにすべきだという信念から、ついに2011年にジャン・ブルデシュと一緒に起業し、クオンツ投資プラットフォームQuantoplan (クォントピア)を構築する。Quantoplanにはクラウドベースのアルゴリズム開発環境が用意されており、利用者は自作のアルゴリズム(テンプレートを編集して作成できる)を動かして、さまざまな状況(好況・不況、高金利・低金利など)でどうなるか試すことができる。そのためにQuantoplanでは過去のデータ(15年分のアメリカの株価および先物データ)を使って「バックテスト」ができるようにしてある。フォーセットのチームはたいへんな時間と労力をつぎ込んで、このバックテスターを大手機関投資家の持っているツールに劣らないものに仕上げた。
  • このほかQuantopianには、手数料、スリッページ(注文時の表示価格と実際の約定価格との乖雕)、マーケットインパクト(自分が行う大量売買が価格水準におよぼす影響)を自動計算する機能が備わっている。もちろん、実際の証券取引口座に接続して現実のアルゴリズム取引を実行することも可能だ。価格の推移の追跡、記録の保管、法規順守のチェックなどもできる。さらに定期的にコンテストも開催し、賞金を出している。
  • フォーセットは、必要な機能を備えた信頼性の高いプラットフォームを用意し、「アルゴトレーダー」の卵たちを呼び込むことができれば、自社にとって多大なメリットがあることを承知していた。なぜなら、クラウドが生み出すたくさんのアイデアを活用できるからだ。クラウドソーシングは多くの場合、「ベスト」だけを求める。一番いいナゲットアイスメーカー、一番いいアノテーションアルゴリズムが賞を取り、製品化される、という具合に。二番目や三番目が一番とさほど差がなくても、捨てられてしまう。
  • だが投資アルゴリズムは、そういうものではない。一番と二番が全然ちがう発想に基づくものであれば、一部を一番で、一部を二番で運用することにより、より高いリターンを生むことが可能かもしれない。この分散投資法こそ、かのハリー・マーコウィッツが1990年にノーベル経済学賞を受賞した理由にほかならない。そしてクラウドベースの環境は、まったく毛色の異なる多様なアルゴリズムをもたらすという点で、分散投資の実行に理想的だ。フォーセット自身、「Quantopianを作るときの課題の一つは、互いに相関性の低い投資戦略を見つける確率を最大化することだった」と語っている。
  • そのためにはできるだけ大勢に参加してもらい、クオンツ投資戦略を試してもらうことが望ましい。2016年半ばまでにQuantopianには180カ国から10万人以上が参加し、40万以上のアルゴリズムをテストした。彼らはどんな人たちなのだろうか。フォーセットによると、「共通点としては、モデル構築の訓練を受けるような学位や修士を持っているか、そういう仕事に就いた経験のある人たちだ。宇宙物理学や計算流体力学の専門家もいたし、油田関係もいた。全体としては、金融とは無縁の人が多い。学生もかなりいる。年齢は・・・学部生から定年退職した人までと幅広い」。
  • 参加者の大半は男性で、Quantoplanとしては今後もっと女性を呼び込むことを課題にしているという。「とにかくできるだけ多種多様な戦略が欲しい。いろいろな研究で、男性と女性ではリスクの捉え方が非常にちがうという結果が出ている。たしかに男と女では、投資に対する姿勢が全然ちがうんだ。だから、もっと女性が参加してくれたら……非常に興味深いと思う」。
  • 肝心の参加者の成績は、プロと比べてどうなのだろうか。2016年末までに、Quantoplanは19回のコンテストを主催した。うち4回はクオンツ投資のプロが、1回は従来型投資のプロが優勝した。だが残る14回は、まったくの門外漢が優勝したのである。そして2017年にフォーセットは、真剣勝負をやってみようと考える。何人か優秀な参加者を選んで、独自のアルゴリズムで運用するクオンツ投資ファンドを設立。そのパフォーマンスを既存のクオンツヘッジファンドと比べようというのである。こうすれば、この分野で本物の専門家は誰なのか、決着をつけられるはずだ。
  • 投資業界のコアの中で、すくなくとも大物が一人、Quantopianに絶大な信頼を置いている。著明なヘッジファンドマネジャーのスティーブン・A・コーエンだ。彼は2016年7月、Quantopianに投資するとともに、自己資金2億5000万ドルをクラウドソースのアルゴリズムによる運用に委ねると発表した。コーエンの調査・投資チームを率いるマシュー・グラネードは、「優秀な人材はクオンツ投資における希少資源だが、Quantopianはその人材発掘に革新的なアプローチをとっている」と話す。
  • いまビジネスの世界を大きく変えつつある技術動向は三つあるが、第一に、人間とマシンを新しい形で組み合わせをすべて体現している点で非常に魅力的だ。人間の経験や判断力や直感をデータとアルゴリズムで置き換えることで、投資決定のあり方を変えた。第二に、何かに特化した製品(たとえばバックテスター)を作って売り出すのではなくクオンツ投資のためのプラットフォームを構築した。Quantopianのプラットフォームは、オープンで学歴や資格を問わず、ネットワーク効果が期待でき(よりよい投資アルゴリズムが登場するほど、より多くの資本を呼び込むことができ、多くの資本が投じられるほど、アルゴトレーダーの卵を大勢惹き付けることができる)、便利なユーザーインターフェースとゆたかなユーザーエクスペリエンスを提供するという特徴を備えている。第三に、クラウドをオンラインに結集させ、金融という高度に専門的で重要な産業分野においてコアの専門家に挑戦することを可能にした。
  • さあ、クラウドが運用するファンドは既存のヘッジファンドをアウトパフォームできるのだろうか。結果が待ち遠しい。

www.quantopian.com

11章のまとめ

  • コアの定評ある専門家が、資格も学歴も経験も乏しいクラウドに負けてしまうということが度々起きている。
  • クラウドがコアを打ち負かせる理由の一つは、そもそもコアが問題の解決に適任ではない、つまりミスマッチが起きていることにある。
  • ミスマッチが起きるのは、問題を最も効率的に解くために必要な知識が、じつはその問題とは遠い分野に存在することがあるからだ。新奇な問題の解決に必要な知識がどこにあるのか、あらかじめ見通すのはきわめてむずかしい。
  • コアがクラウド集合知を活用する方法はいくつもある。コアとクラウドは引き離されるべきではない。
  • 今日のクラウドは、コアの助けを借りずとも多くのことを成し遂げられる。技術の進歩のおかげで、建設的な知識共有や意見交換を通じて、クラウドはこれというリーダーがいなくても大きなことをやってのけられる。
  • こうした状況で、既存の大企業はクラウドと協働する新しい方法を模索するようになった。その一方で、クラウドベースのスタートアップは、多くの既存企業に挑戦状を突きつけている。

 

  • だがこの問題を研究してきた経済学者は、おそらく口を揃えて、完備契約は事実上不可能だと言うだろう。世界はきわめて複雑であり、未来はあまりに不確定要素が多く、しかも人間のあらゆる不確定知性も理性も限られている。これらの要素が重なれば、現実の取引において、要素を織り込んだ完備契約の作成は、まずもって不可能と言わねばならない。
  • となると、たとえば長期契約で生産を行なう場合、将来起こりうるすべてのケースを想定した完備契約が結べないため、想定外の事態について事後的な再交渉で契約変更がありうることになる。ここから、一方の当事者が特殊な資産に投資してしまったあとになって、相手方から弱い立場に付け込まれることを恐れ、き投資をしないというホールドアップ問題が起こる。たとえば自動車部品メーカーが、契約相手であるメーカーの車にしか使えない特殊部品を作る機械への設備投資を渋る(機械を据え付けてしまったら、足下を見られて部品の値下げを要求されるかもしれない )、といった事例だ。しかしここで、自動車メーカーがその部品メーカーを買収してしまえば、ホールドアップ問題は生じない。
  • このように、所有権が変わればインセンティブは変わる。別の視点から言えば、
    企業の資産を使って働く社員と、自前の資産を使う独立事業者とではインセンティブはちがう。ここに、企業が資産を持つことの重要な意味がある。資産を誰が持ち、したがってインセンティブがどのように設定されるかということが、企業ひいては経済の効率性にとってキーポイントとなる。
  • 企業が存在する根本的な理由の一つは、市場参加者が必要に応じて都度集まるやり方では完備契約が結べないことにある。完備契約を結べないということは、現実の世界で将来に想定外の事態が起きたとき、誰がどうするかが決まっていないということだ。企業という存在は、この問題に対する解決になる。企業が資産を所有していれば、不完備契約で決まっていないことについて残余コントロール権を行使することになるからだ。これがまさに、企業の所有者(すなわち株主)に代わって経営陣が行う仕事である。
  • 言うまでもなく、このやり方がつねにうまくいくという保証はない。企業の経営陣が優柔不断だったり、無能力だったり、誘惑に負けたり、あるいは単に判断ミスをすることも十分にあり得る。だがまずまずうまくいっているからこそ、企業は現に存在し、存続しているのである。そしてまずまずうまくいっているのは、不完備契約と残余コントロール権の問題が市場の阻害要因となっていたからだ。
完全な分権化には弱点が潜んでいる
  • 以上の点を踏まえると、ビットコインイーサリアム、DAOでなぜ問題が生じたか、理解しやすくなるだろう。ブロックチェーンは、すべてをできる限り分権化すること、つまり、権力から遮断することを目的として設計された。だがそうなると、ものごとが思わしくない方向に進み出したとき、どんな対抗手段があるのか。たとえば中国のファイアウォールの向こう側にマイニング作業が集中するというのは、暗号通貨が当初めざしたこととは逆の方向である。だが、それを軌道修正したり取り消したりすることは、事実上不可能だ。株式市場の大きな潮流を 握りのトレーダーの力で変えることが不可能なのと同じである。
  • 最終決定者がいないままに開発者が仲間割れするのも十分に困った事態だが、重要な作業が独裁的な政府の支配下で行われるというのは、さらに悪い。中国政府には、その気になったら強硬に介入することも辞さないというよからぬ前歴がある。しかしブロックチェーンに関する決まりごとはすべてコードに書かれており、マイニング作業が地理的に集中したらどうする、といった規定は一切ない。このような不完備が重大問題化したときに、乗り出して来て万事を取り仕切る権限を持つ所有権者も存在しない。
  • DAOのトラブルはさらに深刻である。というのもDAOは、権力からの遮断と同時に完備契約を意図して設計されているからだ。大勢の出資者はオンライン環境で参加の意思表示をし、現実の資金を投じた。出資者たちが形成するクラウドがすべてを決定し、それを確認したり評価したりする人は存在しなかった。言い換えれば、管理者もいなければ所有者もいなかった。資金を集め、その出資先に関する提案を受理し、投票数をカウントし、それに従って資金を配分したのは、コードでありブロックチェーンである。と言うよりも、DAOとはコードそのものであり、コードでしかない。完備契約である以上、その決定や結果について事後的に異議を申し立てることはできない。それどころか、集めた資金の三分の一がハッカーに盗まれても、それは正当な結果と言うしかないのである。そして結局
    「ハードフォーク」を行なってハッカーの行為は「なかったこと」にされた。これに対してハードフォークに反対の出資者たちは、このような強硬な決定はまるで所有者がやるようなことだと怒りを爆発させた。しかしイーサリアムの最大の売りは所有者がいないこと、いやもっと根本的には、所有不能だということのはずである。かくしてイーサリアムのコミュニティは分裂した。取引費用理論と不完備契約理論を理解していれば、予測できた結末と言えるだろう。
  • 私たちは二人とも、DAOのように完全に分権化されたクラウドベースの主体が今後の経済において主流になるという見方には懐疑的だ。たとえその主体が技術的にどれほど強固だとしても、そのような主体には不完備契約と残余コントロール権の問題を解決できないからだ。これに対して企業は、契約に明示されていないすべての決定権を経営陣に与えるという形で解決している。スマートコントラクトは興味深いし、有効なツールでもあり、活用できる場はきっとあることだろう。だが、企業が存続する理由となった根本的な問題の答にはなっていない。繰り返しになるが、企業が存在する大きな理由は、完備契約を書くことが不可能だからである。完備契約の実行がむずかしいとかコストがかかりすぎるといったことが理由ではない。
  • では、未来のテクノロジーはどうだろう。技術が進化すれば、完備契約を作成できるようになるだろうか。役に立つ技術はありそうだ。たとえばセンサー技術が進化すれば、契約の進捗状況や当事者の行動を監視することが可能になるかもしれない。またコンピュータの能力が向上すれば、将来起こりうる事態をより精密にシミュレートし、適切な決定を選べるようになるかもしれない。だが一方の当事者にそれができるようになったら、相手方は一段と複雑なことを考え出すだろう。そうなったら、コンピュータはさらに進化しなければならない。このいたちごっこは永遠に続き、結局は契約はつねに不完備ということになるのではないか。

 

  • どんなルートを通ってきたアイデアであれ、マネジャーは真摯に耳を傾け、良し悪しを判断する際にもできるだけバイアスを排除するように努める。新しいアイデアについて、可能な限り実験や試作をしてみることも厭わない。別の言い方をすれば、部下から出されたアイデアをけなして門前払いを食わす従来の役割からは逸脱している。こうした役割転換に居心地の悪い思いをするマネジャーも中にはいることだろう。だが成功しているテクノロジー系企業のマネジャーたちは、
    良いアイデアを捨ててしまうリスクに比べれば、悪いアイデアにも耳を傾けるメリットのほうがはるかに 多いと心得ている。たとえばオンライン学習のUdacity (ユダシティ)では、この方針のおかげでビジネスモデルの転換とコスト効率の大幅改善に成功した。
  • 同社は大手テクノロジー系企業の協力を得て講座を設計しており、プログラミング関連のコースを数多く提供している。すべてプロジェクトベースで筆記試験は行わず、受講生はコードを書いて提出する。提出されたコードはUdacityのスタッフが評価するが、平均して二週間もかかっていた。開発担当のオリバー・キャメロンは、外部に評価を委託したらどうだろうと考える。その顛末について、COOのヴィッシュ ・マキジャニ (のちにCEOに昇格した)が話してくれた。
  • オリバーは手始めに、社内で評価した場合と外部に委託した場合を比べてみようと考えた。一度めに委託したところ、社内評価とほぼ同じような結果が出た。そこで何度か委託してみた。何度やっても、つまりそのたびに外部の評価者がちがっても、社内での評価と遜色ない結果になった。しかも評価に要する期間はだいぶ短くて済む。「これだけあちこちに優秀な評価者がいるなら、なにも社内で評価するにはおよばない」とオリバーが言い出した。そこで私たちは話し合い、外部の評価者への報酬はいくらにすべきかを検討し、何通りかの報酬を試してみることにした。その結果、コストを30%も減らせることがわかったんだ。いや、驚いたよ。そこでわれわれは、評価を外部に委託することにした。
  • 私たちはマキジャニに、外部委託の提案を正式に承認したのか、と訊ねてみた。
    いや。「いいんじゃないか、そのまま続けて」と言っただけだ。それで、オリバーはそうした。創業者のセバスチャン(・スラン)がそういう方針なんだ。

 

  • 新しい市場が次々に出現し繁栄してはいるにしても、だからと言って、企業が過去の遺物に成り下がったとか、テクノロジーを駆使した自律分散型組織の類に取って代わられるにちがいない、といった仮説を裏付けるようなデータはどこにも見当たらない。さらに取引費用理論や不完備契約理論を始めとする経済学の知見は、企業が存続する理由をあきらかにしている。
  • とはいえ、これらの理論に疑う余地はないにしても、これだけに依拠するのはあまりに狭い見方であるとも感じる。たしかに完備契約が不可能で残余コントロール権が重要な役割を果たすという点からだけでも、企業は必要不可欠な存在だということになるかもしれない。だが企業の存在を必要とするもっと重要な理由がある、と私たちは考えている。
  • それは、何か大きなことを成し遂げるのに企業はきわめて適した組織だということである。食料を供給する、健康状態を改善する、エンタテインメントや知識へのアクセスを提供する、物質的な生活条件を向上させる、これらを多くの人に、もっともっと多くの人に、地球全体で実現する……もちろん、こうした壮大な計画にクラウドの革新的なテクノロジーも役に立つだろう。だからといって、コアの基幹技術を支える企業が退場させられることはあるまい。

最新プラットフォーム戦略

原著はいいのだが、翻訳者はあまり信用できないし、訳者はじめにが残念。訳語もあまりこなれていない。ちゃんと研究者に翻訳を頼んでほしかった。
  • B2Bプラットフォームは、サプライヤーに対して何らかの報酬を支払うこともできる。そのためには、買い手に利益をもたらし、そこから得た利益をサプライヤーに還元するのに十分な価値を、フリクションの解消によって創造しなければならない。ところが明らかに、サプライヤーに還元し得るだけの価値は存在しなかったのである。アメリカのほとんどのB2B取引サイトはal.baba.com.cn(後の1688.com.cn)に類似した、オンラインモールであった。
  • 中国と異なっていたのは、アメリカの売り手は、潜在顧客を見つけるためにそれらを利用する必要がなかった、という点である。アメリカのB2Bプラットフォームは総じて、それが低減しようとしたフリクションが十分に大きくなかったために、必要な規模の売り手/買い手の獲得に失敗し、全滅した。価値のパイが小さすぎたのである。初期に参加したバイヤーは、サプライヤーの少なさに失望して去り、初期に参加したサプライヤーは利幅の少なさに失望して、去った。
  • プラットフォームは、参加によって利益を見込めるだけの十分な取引量を確保できないために、売り手\買い手をひきつけることができなかった。プラットフォームは成長せず、間接ネットワークの外部性からのポジティブフィードバック効果を生み出すことができず、風船のようにしぼんでいったのだ。

 

  • シングルサイドビジネスでは、ハーレイ、チェン、カリムの3人が直面した「さて、次の一手は?」という問題は、問題にならない。前途は多難だが、方向は明らかだ。ハムディ・ウルカヤがチョバーニヨーグルトの初回出荷分を売り出そうとした時、彼がやるべきことは、小売店に製品を置いてもらうことだった。そしてロングアイランドの小規模な店3店舗に、彼の製品のすばらしさと消費者の好反応を確信させることで、消費者の需要が生まれた。
  • 一方、マルチサイドビジネスは通常、すぐに「ニワトリと卵」問題に直面する。1998年のオープンテーブルのような、レストランと食事客のマッチメイカーは、その前方にクリアな一本道ではなく、霧深い茂みを見ただろう。まずは登録レストランの確保からはじめよう。レストランオーナーはそのアイデアを気に入ったが、ウェブサイトにはどれくらいのユーザーがいるのか、とたずねる。
  • その返事が「ゼロ」あるいは「少し」であれば、レストランは見向きもしない。マッチメイカーは消費者をウェブサイトに誘導する。消費者はチョバーニヨーグルト同様、そのアイデアを気に入るが、サイトにはレストランがほんの数店舗か、あるいはまったく登録されていないことに気づく。たった1
  • 回の悪印象が、再びサイトを訪れる気をなくさせ、友達にも悪評を振りまく。これが「協調問題」と呼ばれるものだ。どのグループも、別のグループがサービスを利用することに同意するまで、動かないのだ。
  • マルチサイドプラットフォームが協調問題に直面するのは、彼らが売っているものが基本的に、ある顧客グループを別の顧客グループに便利に接続することだからだ。ある顧客グループが棚に並んでいなければ、別の顧客グループに提供するものがない。シングルサイド企業は、この問題にぶつかることはない。通常、洗練されたサプライチェーンから必要なだけ資材を仕入れ、製品をつくり、需要を生み出すことに専念する。チョバーニは、発注した低温殺菌ミルクが届かないかもしれない、といった心配とは無縁である。

 

  • 「出会いを熱望」する顧客グループは、「出会ってもいい」グループへのアクセスを、高く価値づけるだろう。プラットフォームは「出会ってもいい」
    顧客グループの参加に対して補助の支出を惜しまず、アクセスに対してより高く支払うであろう。「出会いを熱望する」顧客グループのメンバーを増加させることで、利益を増大させることができるのだ。これは(やや性差別的かもしれないが)ナイトクラブがしばしば女性を無料で入場させ、無料ドリンクを提供する理由の、シンプルな説明となる。
  • ブエノスアイレスのナイトクラブ・ローズバー(Rosebar)は、この性差を(さらに性差別的かもしれないが)興味深い方法で利用している。クラブは広い座席と無料ドリンクを提供するVIPルームを備える。非常に高い入場料を支払う男性は誰でもVIPルームに入れるが、女性客は非常に魅力的でなければ入れない。この女性たちは一切支払う必要がない。彼らが男性客をひきつけるからだ。女性客は、VIPルーム内の男性客の多くが裕福であることに期待を抱く。たとえそのうち何人かはきわめて不快な人物であっても、だ。
  • ある顧客グループが、プラットフォーム上での取引をコントロールしている場合、プラットフォームはその支配的な顧客グループに各種インセンティブーおそらく助成金ーを提供し、利用を促進する。なぜなら彼らが利用しないかぎり交流がはじまらないからだ。これが、アメリカン・エキスプレスとオープンテーブルが利用者に対して助成金を支出し、WEX Fleet Oneカードが運送会社よりもトラックサービスエリアに対して多く課金する理由なのである。

 

  • 多くのビジネスでは、価格方針を選択する前に、プラットフォームにいくつのグループサイドを載せるのか、あるいはそもそもマッチメイカーとして振る舞うのか否かを選択しなければならない。2007年1月9日、スティーブ·ジョブズがマックワールドコンベンションのステージでiPhoneを発表した時、
    彼はそのビジネスをアプリを含めたすべてをアップルが提供するシングルサイドとして設計していた。この時点では、彼が熟考すべきはiPhone自体の価格をいくらにするかだけだったが、ご存知の通り、ジョブズは後にこの考えを翻したのだ。
  • iPodの成功により、音楽ビジネスでの目覚ましい成功を遂げつつあったスティーブ·ジョブズは、あることを心配していた。「我々のパイを奪うのは携帯電話だろう」。携帯電話メーカーが自身の端末に音楽プレイヤーをインストールすれば、iPodはもはや必要とされなくなる。構築した音楽フランチャイズを守るため、2005年アップルはモトローラと提携してiPodを搭載した端末を開発し、その流通のためにシンギュラー(Cingular=アメリカ最大の携帯キャリア、2007年にAT&Tモビリティとなる)と提携した。そして2005年9月、ロッカー(ROKR)がリリースされるが、評判は芳しくなかった。販売台数も期待に届かなかった。「ジョブズは怒り狂っていた」と評伝で述べられている。

japan.cnet.com

  • アップルは自社で携帯電話をつくることを決断した。6カ月後の2007年1月9日、ジョブズiPhoneを全世界に発表する。アップルはデザインを担当し、製造はアウトソーシングしたが、アップルが販売するすべての端末はiPhoneだった。アップルは端末を完全なコントロール下に置いたのだ。
  • アップルは、自社のマッキントッシュPCに搭載されているMacOSをベースに、新たな携帯端末向けOSであるiOSを開発し、iPhoneで独占的に使用した。他のハンドセットメーカーはiOSを使用できなかった。
  • またiTunesなどデスクトップ向けアプリのいくつかをiOSに移植し、カレンダーなどいくつかの新アプリを開発し、グーグルマップ、ユーチューブなどのアプリをすべてのiPhoneに搭載した。

ゲーム理論入門の入門 (岩波新書)

  • ビューティフル・マインドという映画をご存知だろうか。ゲーム理論の基礎を築いた数学者の一人、ジョン・ナッシュの半生を描いた作品だ。内容はまだ観ていない読者のために書かないでおくが、このナッシュという人が、1950年、ゲーム理論で今でも盛んに使われる概念、その名も「ナッシュ均衡」を発明した。<ビューティフル・マインド>の劇場版ポスターには「彼は誰も想像できなかったやり方で世界を見た(He saw the world in a way no one could have imagined)」と書いてあるのだが、この「誰も想像しなかったやり方」こそがまさに、ナッシュ均衡なのだ。
  • ジレンマがあるというところがゲーム理論らしい、らしい。この点を理解するには、少し経済学の歴史を紐解かなければならない。ゲーム理論が経済学者に盛んに研究されるようになる以前から,「人々がそれぞれにとってベストな選択をすれば、社会全体が幸せになる」ということが知られていた。これを、「厚生経済学の第一基本定理」と呼ぶ。18世紀にアダム・スミスが唱えた「神の見えざるチによって市場が効率的に機能するという理論を、後の経済学者たちが数学的に証明した定理だ。
  • しかし、囚人のジレンマの予測によれば、ルパンと次元は二人ともそれぞれベストな選択をした結果長いこと獄中にいなくてはいけないし、牛飼いたちは草地を荒らしてしまうし、二酸化炭素は過度に排出されてしまう。なぜ予測に違いが起きるかというと、べつに厚生経済学の第一基本定理の証明が間違っているのではない。実はその定理を正しくさせている仮定が、囚人のジレンマでは成り立っていないのだ。具体的には、厚生経済学の第一基本定理では、各消費者が選ぶ購買行動やその結果もたらされる幸福度は市場価格にのみ依存し、他の消費者がどのような購買行動を取るかには一切影響を受けないということが仮定されている。翻って囚人のジレンマでは、ルパンの刑期は次元が白状するかしないかで大幅に変わってくる。つまり囚人のジレンマでは、厚生経済学の第一基本定理の背後にある仮定が満たされていないのだ。これが「囚人のジレンマ」がゲーム理論を語るのに適している第二の理由だ。
  • ちなみにこの第二の点は、ちょっと読者の皆さんには伝わりづらいかもしれない。実は僕も、あまりしっくりきていない。いま書いたような説明がしっくりくるというのは、しばらく経済学を勉強してきて厚生経済学の第一基本定理に慣れ親しんだ人が、初めてゲーム理論に触れて持つ感覚だろう。ちょうど、ゲーム理論が経済学で盛んに使われ始めた1980年代の経済学者にぴったりの説明なのだ。僕の場合は、経済学で厚生経済学の第一基本定理を学ぶ前にゲーム理論を学んだので、どちらかというと厚生経済学の第一基本定理の方が驚きの結果である。皆さんもそう思ったとしたら、それはそれで構わない。
  • 混合戦略ナッシュ均衡の説明:今までナッシュ均衡だと思っていた状態はやはりナッシュ均衡だけれども、他の状態もナッシュ均衡だと思えるようにナッシュ均衡の定義を変えることで、どんな問題が出てきてもナッシュ均衡が存在するようにしよう。
  • この(ゲーム理論を用いたじゃんけんの分析の)結果は結局、我々に何を教えてくれているのだろう。結果だけ見ると「結局二人がどんな手を出してくるか分からないし、どちらが勝つかも分からない」ということになっている。でも、実は我々は、ただ単に「分からない」と言うよりはもう少し高尚な予測をしている。なぜかというと、我々は「分からない」の意味をはっきりさせたからだ。我々の予測は、「どの手も等確率で出てくる」ということと、「勝率は50 %しかありえない」ということだ。
  • 第2章の初めに、映画<ビューティフル・マインド>を紹介した。この2001年に公開された映画は、アカデミー賞およびゴールデングローブ賞を多部門にわたって受賞した。僕も観たが、なかなかいい映画だと思う。しかしゲーム理論家として、この映画については一つ言っておかなければならないことがある。それは、映画中に出てくるナッシュ均衡の説明がちんぷんかんぷんだ、ということだ。

知ってるつもり 無知の科学

帯は気持ち悪いので不要に感じました(誰かも知らないし)。中身は非常に素晴らしかったです。「無知の知」を現代的な認知科学で再定義した、というような位置づけでしょうか。意思決定モデルも個人的にはかなり新鮮でした。よく学歴社会(well-definedではない)の功罪という議論が日本でされますが、学歴社会が(とくに高学歴層の)無知を助長する可能性があるのは明確な問題だな、と読んでいて感じました。

 

  • 学問としての認知科学の歩みは、現代コンピュータのそれと重なる。ジョン・フォン・ノイマンアラン・チューリングといった偉大な数学者が今日のコンピューティングの基礎を構築するなかで、人間の脳も同じような仕組みで動いているのではないか、という問題意識が生じた。コンピュータにはオペレーティングシステムを動かす中央処理装置(CPU)があり、CPUは限られたルールに従ってデジタルメモリからデータを読み取ったり書き込んだりする。認知科学のパイオニアは、脳も同じような仕組みで動くと考えた。コンピュータがメタファー(比喩)となり、認知科学の研究の方向性を決めたのだ。
  • 思考は、人間の脳内で動くコンピュータ·プログラムのようなものと想定された。アラン・チューリングの功績の1つが、こうした発想を論理的に突き詰めたことだ。人間がコンピュータのような仕組みで動くのなら、人間と同じ能力を持つコンピュータをプログラミングすることも可能なはずだ、と。1950年に書かれた古典的論文「計算する機械と知性』は、「機械に思考は可能か」という問いを考察している。
  • ランドアーは1980年代に、コンピュータのメモリサイズを測るのと同じ尺度で人間の記憶量を評価してみることを思い立った。本書執筆の時点で、ノートパソコン1台には長期保存用としておよそ250~500ギガバイトのメモリが付いている。ランドアーはすぐれた方法をいくつか考案して人間の知識量を測定した。たとえば平均的な大人の語彙を評価し、それだけの単語を保存するのに何バイト必要か計算した。それに基づき、平均的な大人の知識ベースを算出したところ、得られた答えが0.5ギガバイトだった。
  • ランドアーは自分の計算結果が精緻であると主張はしなかった。ただ1ケタずれていたとしても、つまり知識ベースが1ギガバイトの10倍あるいは10分の1であったとしても、たいした量でないのに変わりはない。現代のノートパソコンの内蔵メモリと比べれば微々たる量だ。人間はおよそ知識のかたまりではない。
  • これはある意味、ショッキングな結果と言える。世界には知るべきことがたくさんあり、そしてふつうの大人ならばたくさんのことを知っている。テレビニュースを見ながら途方に暮れることもない。幅広い話題について知的な会話もできる。クイズ番組の『ジェパディー』を見れば、何問かは正答できる。少なくとも一カ国語は話せる。そんな私たちの知識が、リュックサックに入れて持ち運べるちっぽけな機械の数分の一ということはないはずだ。
  • しかしこの結果にショックを受けるのは、人間の脳がコンピュータと同じような仕組みで動くと考えるからにすぎない。私たちを取り巻く世界の複雑さを考えると、脳は記憶をコード化して保持する機械である、というモデルは崩壊する。覚えるべきことはあまりに多く、膨大な情報を記憶に保持しておいても意味がない。
  • 認知科学者はすでに、コンピュータを脳のメタファーとしてそれほど重視しなくなった。もちろん、このモデルが有効なケースもある。人間がじっくりと慎重に思考するとき、つまり直観的あるいは思いつきではなく一歩ずつ順を追って熟慮するときのモデルは、コンピュータ・プログラムに近いこともある。ただ今日の認知科学者は主に、人間とコンピュータはどう違うかを示すことに注力している。
  • 熟慮は思考プロセスの1つにすぎない。認知の大部介を占めるのは、意識下の直観的思考だ。そこでは膨大な情報が同時並行で処理される。たとえばある単語を探すときには、候補をひとつひとつ順番に検討するわけではない。自分の語彙、つまり脳内辞書を一括で調べ、たいていは探している言葉がトップに浮上する。これはフォン・ノイマンチューリングがコンピュータ科学と認知科学の草創期に思い描いていた演算モデルとはまったく異なる。
  • 人間とコンピュータの違いをより端的に示すのは、人間は思考するとき、メモリから読み書きする中央処理装置を使わないという点だ。本書の後の章で詳しく見ていくが、人間は自らの身体、自らを取り巻く世界、そして他者を使って思考する。身の回りの環境について知るべきことはあまりに多く、それをすべて自分の頭のなかに入れておくことは、どう考えても不可能だ。

 

  • 1950年代に、ジョン・ガルシアという心理学者が、どんな恣意的な関連性でも学習 できるという主張の問題点を指摘した。ガルシアの行ったある実験では、ネズミに与えるさまざまな刺激の組み合わせを変えてみた。最初に目ざわりな光の点滅を見せるか、甘い水を飲ませた。続いて電気ショックか、腹痛を与えた(水に混ぜ物を入れた)。ネズミたちは光の点滅と電気ショックの関連性と、甘い水と猛烈な腹痛の関連性をやすやすと学習した。しかし別の組み合わせの関連性を学習することはできなかった。つまり光の点滅と腹痛、あるいは甘い水と電気ショックの関連性は学習できなかったのだ。
  • 光を点滅させるメカニズムと電気ショックを引き起こすメカニズムは同じである。同じように添加物の入った水(たとえ甘いものであっても)は腹痛の原因になりうる。どちらの組み合わせも因果関係として筋が通っている。一方、別の組み合わせには合理性がない。なぜ甘い水を飲むと電気ショックが起こるのか、またなぜ光の点滅が腹痛を引き起こすのかは、理解しがたい。ネズミたちは合理的な因果関係のある刺激のあいだの関連性は学習できたが、恣意的な関連性は学習できなかった。ガルシアの研究は、ネズミたちは合理的な因果関係のある刺激の関係性は学習できるが、恣意的な関連性は学習できない傾向があることを示している。ネズミでさえ、苦しさの原因を解明するために、単純な因果的推論をするのである。
  • ネズミに単純な条件反射だけでなく、因果的推論が可能なのであれば、おそらく犬も同様だろう。パブロフの言うような関連づけは、恣意的な刺激の組み合わせのあいだでは起こらない。二つの刺激のあいだに因果関係が成り立ちそうな場合にかぎって成立するのである。
  • 因果的推論は、因果的メカニズムに関する知識を使って、変化を理解しようとする試みである。さまざまなメカニズムを通じて、原因がどのような結果に変わるかを推測することで、未来に何が起こるかを予想するのに役立つ。人間は自然と因果的推論をする・・・
  • 因果モデルは、日常生活のなかでさまざまな機械を操作する方法にも影響する。たとえば寒いと思うと、早く部屋の温度を上げようと、サーモスタット(温度自動調節器)の目盛りを一気に上げる人は多い。これは無駄な努力だ。なぜそんな行動に出るかといえば、特定の温度に到達する速さが設定温度によって変化する暖房システムの因果モデルを適用するからである。サーモスタットにも同じように高い目標を与えれば、もっと頑張って働くだろうという誤った考えを持っている。ある実験に参加した被験者の一人が、自らの誤解を次のように説明している。
  • きわめて単純な話だと思うよ。たぶんレバーの位置と、熱を生み出すシステムの動作状態には、なんらかの相関があるんだろう。車のアクセルを踏み込むのと同じようなものだ。ほら、たしか油圧システムが働いて、強く踏み込むほど多くのガソリンがエンジンに流れ込み、燃焼が激しくなり、車は加速する。だからサーモスタットも同じように、レバーを強くというかたくさん押したりひねったりすると、システムはパワーを上げて、より多くの熱を生み出すんだ。
  • 多くの人がこの因果モデルを直観的に思い浮かべるのは、日常生活でとにかく頻繁に経験するからであるのは間違いない。特定の結果を引き起こすメカニズムを、直接観察できるのは、まれである。
  • カニズムの多くは、小さすぎたり(たとえば水が沸騰して水蒸気となる原因である分子の変化)、抽象的すぎたり(たとえば貧困の経済的要因)、あるいはアクセス不可能(たとえば心臓が体中に血液を送る仕組み)で観察できない。ワクチンがどのように機能するのか、食料の遺伝子組み換えがどのように行われるのかを見ることはできないので、その欠落を自らの経験で補おうとする。それが誤解につながるのだ。
  • 必要十分完璧な因果的推論の能力を持ち合わせていないからといって、自らを責めるのは見当違いだ。あらゆる状況で正確な因果的推論をするためには、何が必要か考えてみよう。宇宙がどうなっているかを尽くすと同時に、物事がどのように変化するかについても完璧な知識がなければならない。世界は複雑であり、また物事の変化のパターンは限りなくあるので、どちらの知識も当然、完璧とはほど遠く、不完全で、不確実で、不正確なはずだ。現実世界についての知識は必然的に、自ら経験した部分に限られたものになる。また関心のないものより、自分にとって重要なものに知識は偏るだろう。

 

脳は知性の中にある

  • 知性はどこにあるだろう?たいていの人は、脳の中だと答える。人間の能力のなかで最もすばらしい「思考」は、きっと人間の器官のなかで最も高度な脳で起こるのだろう、と考えるのだ。この見方が正しければ、単純な作業をどのようにこなすかという解釈にも影響してくる。たとえば、じょうろのようなありふれた物の写真を見て、上下が逆さまか否かを判断するとしよう。写真を見て、 対象物が正しい位置に置かれているか、脳に相談するだけだ。その結果、写真に写った物が正しい位置な「イエス」、逆さまなら「ノー」と答える。
  • これを実験で行ったところ、「イエス」のボタンを左手で押した被験者と、右手で押した被験者がいた。ここまでは問題ない。この作業は簡単なもので、誰もが0.5秒ほどで回答した。しかしこの実験にはある仕掛けがあった。使われた写真には、一つだけ小さな違いがあった。それは判断に影響するはずのない違いだった。対象物が左向きの写真と、右向きの写真が混ざっていたのだ。たとえば被験者の半数は、じょうろの持ち手が右側に置かれている写真を、残りの半分は持ち手が左側に置かれている写真を見た。被験者がじょうろが上下正しい位置に置かれているかを判断するために、脳に保持された正しい上下関係の記憶だけを照会するのなら、持ち手が左と右のどちらに付いているかは影響しないはずだ。だが現実には影響した。「イエス」ボタンを右手で押すときには、持ち手が右側に付いているときのほうが左側のときより反応が速かった。そして左手で回答ボタンを押すときには、持ち手が左側に付いているときのほうが反応は速かった。
  • ここからわかるのは、持ち手が右側に付いている日用品の写真を見ると、右手のほうが使いやすくなる、ということだ。写真を見ると即座に、そして無意識のうちに、身体がそこに写った物を使う準備を始める。持ち手が本物ではなくても、つまり単に写真であっても、左手ではなく右手にサインが送られる。そして右手に行動を起こす準備ができているために、質問が単にじょうろの向きに関するもので、じょうろを使うことには何のかかわりがなくても、右手のほうが速く反応する。身体は、手に対象物を扱う準備をさせることで、質問の回答に要する時間に直接影響を与えている。私たちは質問の答えを脳から引き出すだけではない。体と脳は同調して写真に反応し、答えを引き出すのである。 
 
  • トニ・ジュリアーノとダニエル・ウェグナーが実験室で証明した。交際期間が三カ月以上のカップルに、コンピュータのブランドなど、さまざまな事柄を記憶してもらった。同時にカップルにはそれぞれの事柄について、二人のうちどちらが詳しいか評価してもらった(たとえば一人がコンピュータ・プログラマで、パートナーがシェフなら、前者のほうがコンピュータには詳しい)。その結果、カップルは記憶の任務を分担し、相手に相手の詳しい分野の記憶を任せる傾向があることが明らかになった。二人のうち、どちらかだけが詳しい事柄については、詳しいとされた方が記憶し、パートナーは忘れる傾向が見られた。パートナーの得意分野については、記憶しようという努力がおざなりになった。言葉を換えれば、相手の詳しい分野については、誰もが情報を記憶して思い出す役割を相手に委ねた。人は特定のコミュニティにおいて、自分が覚えるべきことを覚え、認知的分業に最大の貢献をしようとする傾向がある。他のことを記憶するのは、その分野のエキスパートに任せる。言語、記憶、関心をはじめ、すべての知的機能は認知的分業という原則に従い、コミュニティ全体に分散しながら働いていると考えられる

 

  • 科学的知識に関する質問から、一つ例を挙げよう。「抗生物質は細菌とウィルスの両方に効果があるのか」という質問だ。このような問いを使って科学へのリテラシーを評価すると、不正解だった50%のアメリカ人をどう教育すれば残る50%のアメリカ人のようにできるかと考えがちだ。あるいはもっと意地の悪い 言い方をすれば、いったい彼らの頭はどうなっているんだ?と思う。メディアの反応は意地の悪いほうに近い。科学技術指標が毎年発表されると、新聞にはこんな見出しの記事があふれる。「バカの極み。アメリカ人の4人に1人は地球が太陽の周りを回っていることを知らない」
  • しかし、これは重要な点を見落としている。この結果に対する別の視点として、正解した人々は本当にわかっているのかという疑問がある。実際には、抗生物質は細菌にしか効果がないことを知っている人も、たいていはそれを個別の事実として知っているだけであり、それ以上の詳しいことは知らない。細菌とウイルスの具体的な違い、抗生物質の働き、なぜ細菌には効果があるのにウイルスには効果がないかを詳細に説明できる人がどれだけいるだろうか。これは特段意外なことではない。ふつうの市民が何十という科学的トピックについて深い理解を持っていると考えること自体、現実的ではない。だからこそ知識のコミュニティに強く依存するのである。
  • 第三章では、個人の認知システムの働きは、因果関係の推論であることを見てきた。人間は因果モデルを構築し、それに基づいて推論をする。因果モデルは人間が世界の仕組みに対する理解に基づき、自らを取り巻く世界について思考し、推論する手段である。第四章では、個人の持つモデルはたいてい素朴で不正確なものであり、直接的経験によって偏りがあることを見てきた。こうしたモデルは私たちの態度を決定づける要因にもなる。
  • 一般的な因果モデルが誤った考えにつながる例を示そう。消費者調査を専門とするベロニカ・イリューク、ローレン・ブロック、デビッド・ファロは、多くの人が「負担の大きい作業をしていると医薬品の効果は速く薄れる」と考えていることを明らかにした。たとえば強壮剤を飲んだ後頑張って働いていると、そうではないときより効果が持続する時間が短くなると思っているのだ。現実には薬の効果が持続する時間は、服用した人がどれだけ活動しているかとは一切かかわりがない。しかし効果が速く薄れるというのは、直観的には正しいように思える。なぜなら医薬品の効果に対する因果モデルは、負荷が高まるほどリソースの減り具合が激しくなる他の分野のモデルに基づいているからだ。たとえば自動車で上り坂を進むときは平地を運転するときよりガソリン消費が増えるし、自転車では上り坂を行くときのほうが下り坂よりカロリー消費量が増える。誤解の影響は、抽象的なものにとどまらない。この誤った因果モデルのために、規定量以上に薬を服用する人もいる。
  • 本章の前半ですでに見てきたテクノロジー批判の事例に戻ろう。遺伝子組み換え食品は大きな議論を呼んできたテーマだが、米国科学振興協会によると、科学的にははっきりとした結論が出ている。「現代のバイオテクノロジーの分子技術による品種改良は安全である」と。EUでは遺伝子組み換え作物に対する反対はさらに強固だ。しかし欧州委員会ははっきりこう言っている。「過去25年にわたる500以上の独立した団体の調査結果を含む130件以上の調査から導き出される主な結論は、遺伝子組み換え作物を中心とするバイオテクノロジーそのものは、従来の植物交配技術などと比べて危険性は高くないというものだ」。それなのになぜ根強い反対意見があるのか。
  • 実態として、遺伝子組み換え作物への抵抗にはさまざまな理由があるが、組み換え技術の仕組みに対する誤った因果モデルがその一因であるのは明らかだ。あなた自身が遺伝子組み換え技術についてどれだけ理解しているか、しばし考えてみてほしい。たいていの人はあまりよく知らない。しかしこと遺伝子組み換え作物については、多くの人がかなりはっきりとした不安を抱いている。よくある不安の一つが汚染だ。われわれが行った研究では、回答者の25%が「食物に組み込まれた遺伝子は、その食物を摂取した人間の遺伝子コードに入り込む可能性がある」という文章を正しいと答えた。また確信は持てないが、正しい可能性があると回答した人も25%いた。実際には正しくないが、正しいと思っている人には恐ろしい話だろう。研究でこの文章が正しいと回答した人が、遺伝子組み換え作物に最も強い拒否反応を示した理由もここにある。
  • 遺伝子組み換え作物が人間のDNAに入り込むという説を信じない人でさえ、汚染に関する不安を抱いているようだった。別の調査では、登場する可能性のある遺伝子組み換え製品の例をいくつか示し、回答者の意見を尋ねた。それぞれの製品はどの程度容認できるか、また20%割高な遺伝子組み換えではない同等製品が買える場合、どちらを選ぶ可能性が高いかを尋ねた。回答者と製品との接触の度合いには差があった。ヨーグルトや野菜スープの素など口にするもの、ローションなど肌に塗るもの、そして香水など空中に噴霧するもの、さらには電池や断熱材などほとんど接触のないものもあった。回答者は口に入れるものについては遺伝子組み換え製品を容認しなかった。肌に塗るものについてはもう少し寛容で、空中に噴霧するものについてはさらに寛容だった。そしてほとんど接触しないものについては購入意欲がかなり高かった。どうやら遺伝子組み換え製品については、バイ菌と同じような感覚があるようだ。
  • 遺伝子組み換え作物に対する意識を決定づける要因としてもう一つ重要なのは、遺伝子を組み換えられる生物と、組み換えに使われる遺伝子を提供する生物との類似性だ。フロリダ産のオレンジの収穫量に影響を与えるカンキツグリーニング病の解決を目指す取り組みを見てみよう。カンキツグリーニング病は細菌が原因となって柑橘類の木が枯れる病気で、きわめて感染力が高い。感染速度は高く撲滅するのは難しい。フロリダのオレンジ産業の将来を懸念した生産者らは、遺伝子組み換え技術を使って病気への抵抗力を高める実験をしてきた。うまくいった方法の1つは、抵抗力を高めるタンパク質を生成するブタの遺伝子をオレンジに移植することだった。しかし生産者はこの解決法を採用しなかった。ブタの遺伝子を含む果物など、消費者は絶対に買わないと考えたためだ。消費者はきっと、遺伝子組み換え作物は移植された遺伝子が生成するタンパク質の影響を受けるだけでなく、ドナー(提供側)生物の特徴を他にも引き継ぐと思うだろう。つまりこのケースでは、オレンジが少し豚肉っぽい味になると想像するのではないか。
  • オレンジ生産者の懸念は、おそらく正当なものだったのだろう。実験室での研究では、まさにそうした影響が確認された。被験者はレシピエント(受容側)とドナーの類似性が高いときのほうが、類似性の低い組み合わせより遺伝子組み換え作物を受け入れる傾向が高かった。別の研究では回答者のほぼ半数が、ホウレン草の遺伝子を挿入したオレンジはホウレン草のような味がすると答えた(そんな味はしない)。
  • 遺伝子組み換え技術がどのようなものか、少しでも知識があれば、こんな懸念は抱かないはずだ。しかしどれも確かに直観的には正しそうだ。たいていの人は遺伝子組み換え技術がどのようなものかはよく知らないので、知識の空白を他の分野で学習した因果モデルによって埋めようとする。遺伝子組み換え作物に抵抗する理由は他にもある。環境への影響を懸念する人もいれば、巨大企業が強力なテクノロジーを手に入れることを不安視する人もいる。漠然とした不安を抱く人もいる(「こんなに新しいテクノロジーはどんな影響が出てくるかわからない」など)しかし誤った因果モデルはこの問題において重要な役割を果たしている。
  • 物議を醸しているテクノロジーは他にもあり、やはり仕組みに対して誤った因果モデルを当てはめていることが反発の原因となっている可能性がある。たとえば食物に高エネルギー放射線を照射して殺菌する食品照射だ。何十年にもわたる研究によって、食品照射が安全で、食物由来の病気を減らすのに有効であり、保存可能期間を伸ばすのに役立つことが証明されている。しかしこのテクノロジーの普及は進まない。放射と放射能の混同が、抵抗感を強める原因となっている。放射とはエネルギーの放出を意味し、可視光線マイクロ波などの照射も含まれる。一方、放射能とは不安定な原子が崩壊し、生物に対して危険な高エネルギー放射線を発生させる能力を指す。食品照射に反対する理由を聞かれると、放射線が食品に「残留」し、汚染するという不安を口にする人が多い。この不安にはなんの科学的根拠もない。
  • 研究者のヤンメイ・チェン、ジョー・アルバ、リサ・ボルトンは、この不安を和らげる方法を模索した。比較的効果があった方法は、このテクノロジーの名前を放射能を想起しないものに変えることだ。たとえば「低温殺菌」という呼び方をすると、受容度は大幅に高まった。もう一つの方法は、人々の因果モデルを修正するような比喩を使うことだ。たとえば食品照射を、太陽光が窓ガラスを透過するようなものだと説明すると、テクノロジーへの評価は改善した。おそらく太陽光が窓ガラスに残留しないことは明白だからだろう。
  • 仕組みに対する誤った理解が抵抗につながっている可能性があるもう一つの事例がワクチンだ。ワクチン接種に反対する理由として最もよく挙がるのが、ワクチン接種と自閉症に関連があるという説だ。この説が誤っていることは証明されているが、懸念は依然として残っている。反対派が槍玉に挙げるのは、一部のワクチンの材料として使われている水銀を含む化合物「チメロサール」だ。この懸念には一抹の真実はある。水銀がきわめて有害であり、摂取すると恐ろしい影響があることは子供でも知っている。ワクチンに使われる水銀の量は、有害な影響を引き起こすようなものではないが、やはり体内に入れるのは怖い気がする
  • ワクチン反対派からよく聞かれるもう一つの主張は、健康的な生活を送ることがワクチンの代わりになる、というものだ。ここにも一抹の真実はある。生活習慣によって免疫力を高められるというエビデンスは存在する。ただその効果がどのような性質のもので、どれだけ強力なのかはわかっていない。生活習慣がワクチン接種の代わりになるという考えは、免疫システムの仕組みをあまりに単純化しすぎている。免疫システムは、汎用的な防護メカニズムと、特定の感染体を標的とするさまざまな抗体の両方によって成り立っている。ワクチンは特定の感染体に対する免疫を付与するものであり、特定の生活習慣を選ぶことでそうした効果が得られるというエビデンスはない。
  • 知識の欠乏を埋める:人の信念を変えるのは難しい。なぜならそれは価値観やアイデンティティと絡みあっており、コミュニティと共有されているからだ。しかも私たちの頭の中にある因果モデルは限定的で、誤っていることも多い。誤った信念を覆すのがこれほど難しい理由はここにある。コミュニティの科学に対する認識が誤っていることもあり、その背景に誤った認識を裏づけるような因果モデルが存在することもある。そして知識の錯覚は、私たちが自分の理解を頻繁に、あるいはじっくりと検証しないことを示している。こうして反科学的思考が生まれる。
  • 解決の道はあるのだろうか。カリフォルニア大学バークレー校の心理学者、マイケル・ラニーはここ数年、地球温暖化について一般の人々を啓蒙し、また科学的知見を積極的に受け入れるようにする方法を模索してきた。本書の読者はもはや意外に思わないだろうが、ラニーが最初に発見したことの一つは、一般の人々は地球温暖化の仕組みを驚くほどわかっていないということだった。ある研究では、カリフォルニア州サンディエゴの公園で200人ほどに声をかけ、いくつかの質問を通じて気候変動のメカニズムの理解度を探った。大気中の温室効果ガスによって熱がこもるなど、部分的に事実を語れた人はわずか12%にとどまった。メカニズムを、包括的かつ正確に説明できた人は一人もいなかった。
  • 続いてラニーは、情報を伝える方法を模索した。一連の実験では、被験者に温暖化の仕組みについての、400ワードという短い初歩的な説明文を読んでもらった。それによって人間が引き起こす気候変動についての被験者の理解度と受容度は大幅に高まった。こうした結果に基づき、ラニーは短い動画を使って地球温暖化を説明するウェブサイトをつくっている。ビデオの長さは、視聴者が自由に選べる。「詳細版」を選んでも五分以内で終わり、さらに短いものはわずか52秒でこの現象をざっと説明する。初期のテストでは、こうした動画は意図された効果を達成していることが明らかになった。
  • ラニーの研究結果は将来への期待を抱かせる。しかし簡単な働きかけによって、社会がウォルター・ボドマーの思い描いたような科学を愛するユートピアに突如変貌を遂げると信じるほど、われわれもおめでたくはない。それでも欠乏モデルを諦めるのも早計だろう。本章の教訓は、科学への理解や意識を大きく変えたいのであれば、その欠乏の背後要因を理解する必要がある、ということだ。人々にとって、頭の中にある因果モデルと矛盾するような新たな情報は受け入れがたく、否定されやすい。信頼する人の意見と矛盾するような情報であれば、なおさらだ。しかしメカニズムすら理解していない新たな知見については、否定するのは難しい。ラニーの取り組みが大きな成功を収めたのは、気候変動のメカニズムを説明することに注力したためかもしれない。人々の誤った信念を正す第一歩は、自分やコミュニティの科学に対する認識がまちがっている可能性に気づかせることだ。自分が間違っていることを良しとする人はいないのだから。

 

政治について考える

  • 2010年に成立した医療費負担適正化法(通称「オバマケア」)ほど、アメリカ国民(と政治家)を熱くさせたテーマは近年まれである。この法律をめぐっては幾度となく議論が繰り返され、共和党バラク・オバマ政権の失策の一つとして槍玉に挙げた。連邦議会共和党勢力は法律を廃止あるいは変更しようと、何度も投票にかけた。ただこれほどの盛り上がりと対立を生んだにもかかわらず、法律を理解していた人はほとんどいなかった。2013年4月にカイザーファミリー財団が行った調査によると、アメリカ国民の40%以上が医療費負担適正化法が法律であることすら認識していなかった(国民の12%は議会で廃止されたと思っていた。そんな事実はない)。
  • だからといって一般国民が同法に対してはっきりとした立場を表明できないわけではない。2012年、最高裁判所が同法の主要な条項を支持する判断を下した直後、ピュー・リサーチ・センターは判決への賛否を問うアンケートを実施した。当然ながら賛否は真っ二つに分かれた。36%が賛成、40%が反対、24%が意見を表明しなかった。アンケートではさらに最高裁の判決がどのようなものであったかを尋ねた。すると正解したのは、回答者の55%にすぎなかった。15%は最高裁は法律を違法と判断したと回答し、30%がわからないと答えた。つまり回答者の76%が最高裁判決に賛成か反対か明確に答えたにもかかわらず、そもそもの判決の内容をわかっていたのは全体の55%にすぎないということだ。
  • 医療費負担適正化法は、もっと根本的な問題が表面化した一例にすぎない。世論は、問題に対する国民の理解度からは説明できないほど極端になる、というのがそれだ。アメリカ国民のうち、2014年のウクライナに対する軍事介入を最も強く支持したのは、世界地図上でウクライナの位置すら示せない人々であった
  • もう一つ例を挙げよう。オクラホマ州立大学農業経済学部は消費者を対象に、遺伝子組み換え技術を使った製品は表示を義務づけるべきか尋ねた。80%近い回答者が義務化すべきと答えた。この結果は一見、法制化を進めるべきという有力な根拠のように思える。消費者は希望する情報を与えられるべきだし、その権利もある。
  • しかし同調査の回答者の80%は、DNAを含む食品についても法律によって表示を義務化すべきだと答えた。購入する食品にDNAが含まれているか、消費者には知る権利がある、と。首をひねっている人のために改めて言っておくと、あらゆる生物にDNAが含まれているのと同じように、ほとんどの食品にはDNAが含まれている。調査の回答者の意見を踏まえれば、すべての精肉、野菜、穀物に「注慐 DNAが含まれています」と表示しなければならなくなる。しかしDNAが含まれている食品をすべて避けていたら生きていけない。
  • 遺伝子組み換え食品に表示を付けるべきだと主張しているのが、DNAを含むあらゆる食品に表示を付けるべきだと言うような人々だとしたら、その意見はどれほど傾聴に値するのか。主張の信頼性は薄れるような気がする。大多数の人が特定の意見を支持しているからといって、そうした意見がきちんとした理解に基づいているとは限らないようだ。概して、問題に対する強い意見は、深い理解から生じるわけではない。むしろ理解の欠如から生じていることが多い。偉大な哲学者で政治活動家でもあったバートランド・ラッセルはそれを「情熱的に支持される意見には、きまってまともな根拠は存在しないものである」と表現している。クリント・イーストウッドはもっと直截的だ。「過激主義とは簡単なものだ。自分の意見を決めたら、それで終わり。あまり考える必要がない」
  • なぜ人はよく知らない問題について、それほど熱くなるのか。ソクラテスはそれについて、「政治専門家」に対する回答のかたちでこう答えている。
  • しかし私自身はそこを立去りながら独りこう考えた。とにかく俺の方があの男よりは賢明である、なぜといえば、私達は二人とも、善についても美についても何も知っていまいと思われるが、しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていないからである。されば私は、少くとも自ら知らぬことを知っているとは思っていないかぎりにおいて、あの男よりも智慧の上で少しばかり優っているらしく思われる。
  • この男は自らが何も知らないことをわかっていない、とソクラテスは批判している。私たちの多くがそうであるように、この人物も自分が思っているほどは知らなかった。
  • 一般的に私たちは、自分がどれほどモノを知らないかをわかっていない。ほんのちっぽけな知識のかけらを持っているだけで、専門家のような気になっている。専門家のような気になると、専門家のような口をきく。しかも話す相手も、あまり知識がない。このため相手と比べれば、私たちのほうが専門家かということになり、ますます自らの専門知識への自信を深める。
  • これが知識のコミュニティの危険性だ。あなたが話す相手はあなたに影響され、そして実はあなたも相手から影響を受ける。コミュニティのメンバーはそれぞれあまり知識はないのに特定の立場をとり、互いにわかっているという感覚を助長する。その結果、実際には強固な支持を表明するような専門知識がないにもかかわらず、誰もが自分の立場は正当で、進むべき道は明確だと考える。誰もが他のみんなも自分の意見が正しいことを証明していると考える。こうして蜃気楼のような意見ができあがる。コミュニティのメンバーは互いに心理的に支え合うが、コミュニティ自体を支えるものは何もない。
  • 社会心理学者のアービング・ジャニスはこの現象を「グループシンク(集団浅慮)」と名づけた。グループシンクについての研究では、同じような考えを持つ人々が議論をすると、一段と極端化することが明らかになっている。つまり議論をする前に持っていた見解を、議論の後には一段と強固に支持するようになる。ある意味では群れの心理と言えるだろう。
  • 誰もがあらゆるトピックに精通すべきだと 言っているわけではない。そんなことは不可能だ。たった1つのトピックに精通するだけでも大変だ。世界はあまりにも複雑で、個人の理解を超えるものであることはすでに見たとおりだ。私たちは知識のコミュニティに生きており、コミュニティを機能させるには認知的分業が必要だ。コミュニティに共有の知識を確保するには、個々の問題について信憑性のある有識者が専門家の役割を果たす必要がある。誰もがすべてを知っている必要はない。
  • コミュニティが医療のあり方について意思決定をするときには、医療を最も効率的かつ効果的に実践する方法を最もよくわかっている人々が指南役を務めるべきだ。新たな道路を建設すべきかを決めるときには、土木技師の意見を仰ぐべきで、コミュニティはその意見を信頼する必要がある。専門家は自らの願望をコミュニティに押しつけてはならない。それはコミュニティ自体が決めるべきものだ。専門家はどのような選択肢があるのか、それぞれを選んだ場合の結果について、コミュニティが理解するのを助けることができる。
  • これはエリート主義だろうか。専門家が必要だというわれわれの訴えは、独自の利益を持つ知識階層の必要性をうたっているにすぎないのだろうか。たしかに専門家に頼ることも、新たな厄介ごとを引き起こす。専門家が、精通しているトピックについて個人的な利害を抱えていることも多い。医療について最も詳しい人々は、医療産業にかかわっていて、医療のあり方に金銭的利害を持つケースも多い。技師が道路を建設したがるのは、それを生業としているからかもしれない。道路建設が増えれば、自分たちの実入りが増える。
  • もっと表面化しにくい利害もある。学者が提供するアドバイスは、状況に対する客観的で冷静な分析に基づくものではないかもしれない。学者が、自らの理論的立場に固執するのは周知の事実だ。経済学の教授が自由貿易協定に署名するべきだとアドバイスするのは、自由市場の重要性を説く記事を発表しているためかもしれない。心理学者は実際の子育て経験がないのに、最新の学習理論に基づいて育児に関するアドバイスをするかもしれない。二人の認知科学者が、誰もが知識の錯覚のなかで生きていると主張する本を書くのは、自分たちが無知であるという苦痛をやわらげるためかもしれない。
  • 専門知識を持っているのは誰か、またその専門知識に偏りがないかを判断するのは難しい。しかし解決不可能な問題ではない。社会には、それに役立つさまざまな仕組みが備わっている。専門家には、その知識や信頼性を示す他者からの推薦の扉がある。経歴や評判を確認し、評価することもできる。インターネット上の情報に正しいという保証はないが、専門家に対してその顧客が評価を寄せるためのウェブサイトがいくつも存在し、かなりの有効性を発揮している。十分な数の顧客が存在し、また専門家に関する評価を集め、報告するサイト自体の信頼性が確認されれば、この仕組みはうまく機能するかもしれない。専門家の信頼性を確保するほうが、あらゆる人に専門家になることを求めるよりまちがいなく実現性が高く、実際それはこの社会的問題を解決する唯一の方法だ。
  • 判断は専門家に任せるべきである、政府は専門家の意見に耳を傾けるべきであるといった考え方は、アメリカ政界に根強い考え方に逆行する。20世紀初頭のアメリカが直面していた最も重大な問題の一つは、国家の富と権力が少数の企業や利益団体に集中していたことだった。多くの州議会が、こうした強力な利益集団に支配されていた。そうしたなか直接民主主義の手法を使って、州議会に対する企業の政治的影響を排除しようとする動きが沸き起こった。こうして州や自治体の市民が議会の頭越しに直接投票し、政治家の手から権力を奪うような投票方式が生み出された。直接投票方式には、「イニシアティブ(住民発案)」「プロポジション(住民提案)」「レファレンダム(住民投票)」などさまざまな形態があり、それは多くの州で今日も積極的に活用されている。
  • こうした民主的な投票方式は高邁な精神から出発したものだが、皮肉なことにその多くにも問題はある。なぜならそうした直接提案をまとめ、推進するプロセスは、特定の利益団体に支配されることがあるからだ。悪名高い例の一つが、2015年の住民発案「カリフォルニア州男色禁止法案」だ。そこには同性の相手と性的関係を持った人物は「頭部への銃弾によって抹殺する」という規定もあった。幸い、この法案自体が裁判所によって抹殺された。しかしこうした例は、直接民主主義もほかの統治形態と同じように恣意的な意見操作の対象となりうることを示している。
  • 市民の直接投票という仕組みに対して批判的になるべき理由は多い。われわれが最も懸念しているのは、こうした手法は知識の錯覚を考慮していないからだ。個々の市民が、複雑な社会政策に対してしっかりとした情報に基づく判断を下すだけの知識を持っていることはめったにない(たとえ本人たちがそう思っていたとしても)。すべての市民に投票権を与えることで、群衆の英知のよりどころである、優れた判断に役立つ専門家の知識がかき消されてしまう可能性がある。
  • 知識の錯覚を打ち砕くことは人々の好奇心を刺激し、そのトピックについて新たな情報を知りたいと思わせるのではないか、と期待していた。だが実際にはそうではなかった。むしろ自分が間違っていたことがわかると、新たな情報を求めることに消極的になった。因果的説明は錯覚を打ち砕く効果的な方法だが、人は自分の錯覚が打ち砕かれるのを好まない。たしかにヴォルテールもこう言っている。「錯覚にまさる喜びはない」と。錯覚を打ち砕くことは無関心につながりかねない。誰もが自分は有能だと思っていたい。無能だと感じさせられるのはまっぴらだ。
  • 優れたリーダーは、人々に自分は愚かだと感じさせずに、無知を自覚する手助けをする必要がある。容易なことではない。目の前の相手だけでなく、誰もが無知であることを示す、というのが一つのやり方だ。無知というのは純粋に自分がどれだけ知っているかという話である。一方、愚かさというのは他者との比較である。誰もが無知なのであれば、誰も愚かではない。
  • リーダーのもう一つの任務は、自らの無知を自覚し、他の人々の知識や能力を効果的に活用することだ。優れたリーダーは個別の問題について深い知識を有している人々を周囲に配置し、知識のコミュニティを形成する。それ以上に重要なのは、優れたリーダーはこうした専門家の意見に耳を傾けることだ。意思決定 をする前に、時間をかけて情報を集め、他の人々と相談するリーダーは、優柔不断で頼りなく、ビジョンがないと思われることもある。世界は複雑で容易に理解できないものであることを認識しているリーダーを、きちんと見極めようとするのが、成熟した有権者である。

 

  • 個人の知能を測定するのは、個々の自動車部品の品質を調べるようなものだ。
    それぞれの部品を、さまざまな高度な検査手法でチェックする。重量、強度、新しさ、輝きを測り、価格を確認する。そうすると個々の要素のあいだに比較的高い相関性があることがわかる。つまり良い部品は悪い部品と比べて良い材料でできており、また軽く、強度が高く、新しく、輝きがあり、価格も高い。どのテストの結果も、他のテストのそれと相関性がある。知能テストと同じだ。そして測定値には何らかの意味がある。具体的には、自動車部品の品質の優劣だ。
  • しかし、それが私たちの最も知りたいことだろうか。おそらく自動車について一番知りたいのは速度、燃費、信頼性といった車としての特性である。部品の特性そのものにはさほど関心はない。質の高い部品そのものが欲しいのではなく、部品が優れていれば最終製品である車の質が高くなるため、それを求めるのだ。

 

  • 創業初期のハイテクベンチャーを支援する主要なインキュベーターの1つである、
    Yコンビネーターの例を見てみよう。Yコンビネーターの戦略は、ベンチャー企業が当初のアイデアを頼りに成功をつかむことはめったにない、という発想に基づいている。アイデアは変化する。だから一番重要なのは、アイデアではない。アイデアの質よりはるかに重要なのは、チームの質である。優れたチームは、市場の実態を調べて優れたアイデアを見つけ、その実現に必要な作業を遂行することによって、ベンチャー企業を成功に導く。優れたチームは、個人の能力を活かすようなかたちで役割を分担する。Yコンビネーターがたった1人の創業者しかいないベンチャーへの投資を避けるのは、役割を分担するチームが存在しないためだけではない。その理由は、あまり知られていないが、チームワークの根幹にかかわるものだ。一人ぼっちの創業者には、仲間をがっかりさせまいとする「チームスピリット」を発揮する機会がない。チームは物事がうまくいっていないときほど頑張ろうとする。それはお互いが励まし合うからだ。チームのために頑張るのである。
  • 知識のコミュニティに生きているという事実を受け入れると、知能を定義しようとする従来の試みが見当違いなものであったことがはっきりする。知能というのは、個人の性質ではない。チームの性質である。難しい数学問題を解ける人はもちろんチームに貢献できるが、グループ内の人間関係を円滑にできる人、あるいは重要な出来事を詳細に記憶できる人も同じように貢献できる。個人を部屋に座らせてテストをしても、知能を測ることはできない。その個人が所属する集団の成果物を評価することでしか、知能は測れない。

 

  • 学校での学びは、学生にとって大切な目標とは乖離している。学校で習う読み書き、計算を未来の人生でどのように応用していけるのか、学生にはわからないことが多い。行動のための学習ではなく、学習のための学習を余儀なくされているのだ。教育関係者が、学生たちが読んだものを理解しないと嘆くことが多い一因も、ここにあるのだろう。真剣に読んだつもりの資料を理解していない事実を突きつけられ、衝撃を受けるのは学生も同じだ。理解度を確認するテストの出来の悪さに、本人たちも驚く。資料にじっくり目を通し、自分ではよく理解したつもりでいるのに、内容に関する基本的な質問にすら答えられない。この現象はきわめて一般的で、「説明深度の錯覚」を彷彿させる「理解の錯覚」という呼称もあるほどだ。
  • 理解の錯覚が起こるのは、人は「見たことがある」あるいは「知っている」ことを、「理解している」ことと混同するためだ。ある文章をざっと読むと、次にそれを見たときには「見たことがある」と感じる。最後に見たときから、かなり時間が経っていてもそう感じる。極端な例では、心理学者のポール・コラーズが被験者に文字がすべて上下逆さまになっている文章を読ませたところ、一年以上経ってもその文章を見たことのない文章より速く読めたというケースもある。その文章をどのように読むべきかという記憶が、一年以上経っても残っていたのだ。
  • 学生たちにとって・・・この「見たことがある」という感覚は、実際に資料を理解していることと混同しやすい。

 

  • 私たちが知識の錯覚に陥るのは、専門家の知識を自分自身の知識と混同するからでもある。他の誰かの知識にアクセスできるという事実が 自分がその話題について知っているかのような気分にさせる。同じ現象が教室でも起きている。子供たちは必要な知識にアクセスできるため、理解の錯覚に陥る。必要な知識は教科書や教師の頭の中、そして自分より優秀な仲間の頭の中にある人間はすべての科目に秀でるようにはできていない。コミュニティに参加するようにできている(これも偉大なるジョン・デューイが何年も前に指摘していることだ)。
  • 認知的分業のなかで自分にできる貢献をし、知識のコミュニティに参画することが私たちの役割ならば、教育の目的は子供たちに一人でモノを考えるための知識と能力を付与することであるという誤った認識は排除すべきだ。

 

  • 自分が何を知らないかを理解する良い方法は、対象となる分野に関連する仕事をすることを通じてそれを学ぶことだ。科学者は自らの分野の最先端で研究をする。わかっていないことを、わかっていることに変えるのが彼らの仕事だ。このため科学者の行動様式を身につければ、わかっていないことが何かわかるようになる。さまざまな分野の学会が、科学教育にこのアプローチを導入するよう提唱している。米国社会科会議は、歴史家が研究するように、歴史を学習させることを提唱している。米国学術研究会議(NRC)は「科学の本質」教授法と呼ばれる科学教育の理念を推進している。科学教育は実際の科学を再現するものであるべきだ、学生には現実の科学研究の手法と一致する方法で科学を学ばせるべきである、という考え方だ。しかし、言うは易く行う、は難しで、NRCの提言はほとんど無視されている。
  • 主要な科学誌(その名も《サイエンス》という)の編集長によると、大学レベルの初歩的な科学の授業も、科学研究の手法ではなく事実を覚えることに偏重しているという。小学校や高校のレベルでは、問題はさらに深刻だ。教育理論家のデビッド・パーキンスは「科学の教科書は表層的でまとまりのない情報が詰め込まれ、分厚くなっている」と指摘。その一因として、多くの人が自らの思惑を通そうとすることを挙げている。異なる利害を持つ団体や学者が、それぞれ自分の関心分野を教科書に含めるべきだと主張する。何が重要かをめぐり、あらゆる人の意向を満足させようとする結果、教科書は魂(奥深い統合的な原理)を欠いた事実や概念のごった煮になり、最終的には誰も満足しない代物になる。
  • 著者らに多少土地勘のある科学というテーマについて、もう少し詳しく見ていこう。科学の研究は、実際にどのように進められるのだろうか。実は科学者というものは、実験室にこもって自然界の謎を解き明かそうとしているわけではない。科学研究はコミュニティで行われる。認知的分業があり、さまざまな科学者がそれぞれの専門分野のエキスパートとして貢献する。科学的知識は科学者のコミュニティ全体に分散している。この分業とは、個々の科学者には多少の知識があり、知識は全員の貢献の総和であるという事実を指すだけではない。認知的分業は常に進行中だ。科学者のなすことすべてに、コミュニティはかかわっている。科学者が使うあらゆる手法、あらゆる理論、そして科学者が生み出すあらゆる発想は、コミュニティがもたらしている。
  • 科学における結論の大部分は、観察にも推論にも基づいていない。権威、すなわち教科書や学術誌の記事に書かれていること、知り合いの専門家の言葉などに基づいている。直接立証するのに時間やコストがかかりすぎる、あるいはそれが難しすぎる場合に、事実を提供することも知識のコミュニティの役割の一つだ。私たちの知識の詳細な部分は、ほとんどが知識のコミュニティによってまかなわれている。科学者もそうでない人も含めて、あらゆる人の理解は他の人々の知識に依拠している。だから学生にとっては事実や立証を自分で覚えておくこと以上に、わかっていることは何か、立証できることは何かを理解するほうが重要なのだ。
  • 科学者が真実と考えることの大部分は、信じる気持ちに支えられている。神への信仰ではなく、他の人々が真実を語っているという信頼である。ただ宗教と違うのは、科学では「真実」とされるものに疑問が生じたときに、よりどころとすべきものがあることだ。それは立証の力である。科学的主張の真偽は確認することができる。科学者が研究結果を偽ったとき、あるいは間違いを犯したとき、最終的にはそれは露見する。なぜならそれが重要な問題であれば、誰かがその結果を再現しようとし、それが不可能であることに気づくからだ。
  • 科学者は真実を求めるが、その日々の行動を支配するのは真実の探求より、知識のコミュニティに付随する社会生活だ。ある研究者が成功できるか否かは、研究室でどれだけ重要な発見をするかだけで決まるわけではない。そうした結果を重要な学術誌に発表できなければ、ハーバード大学で終身在職権を得て、そこで研究を続けることはできない。つまり重要な発見をすることと同じぐらい、その発見の重要性を他者に納得させることが欠かせない。有名雑誌に論文を載せてもらうには、査読者や編集者にその価値を認めてもらわなければならない。このように科学者は絶えず互いの貢献の質を評価しあっている。そして好むと好まざるとにかかわらず、評価は社会的プロセスだ。

 

  • 商業市場は、説明嫌いの人々は詳細な情報を嫌うという性質を巧みに利用している。たいていの広告は、できるだけ曖昧な宣伝文句を使う。消費者が共感しそうな人物(どこにでもいそうな建設作業員)や、マネしたいと思うような人物(セクシーな目つきの色男)を広告の目玉にして、虚偽の説明を避けつつ製品の利点を曖昧な言葉で表現する。
  • スキンケアも説明嫌いの希望に沿うことで成り立っている業界の顕著な例だ。美容会社はほとんど医学的根拠がないにもかかわらず「DNAを修復する」「20歳若く見せる」などとうたったちっぽけなクリームの瓶にとんでもない値段をつけ、大儲けしている。なぜそんなことができるのか。エセ科学的な専門用語を使い、エビデンスらしきものを示すというのがその手口だ。産業そのものがエセ科学に立脚している。「肌科学クリニック」などともっともらしい名称をつけて、高度な画像装置や「肌質か析ソフトウェア」のような一見すばらしいテクノロジーを採用しているが、そこには医学的価値のあるエビデンスは一つもない。すべてスキンクリームを売るための仕掛けである。
  • 誤解を招くような主張や質の低い説明を私たちが簡単に受け入れてしまうのは、
    避けられない部分もある。意思決定の多くは、世界の仕組みについての推論を必要とする。どのダイエットが一番効果的なのか、どのタイヤが雪道に一番強いのか、退職後に備えるにはどの投資商品が最適なのか、推測しなければならない。世界はあまりにも複雑なので、誰もがあまりにも多様な意思決定と向き合わな
    るければならず、およそ一人でその細部をすべて理解することはできない。バンドエイドを買いに行くたびに細菌の代謝プロセスについて調べなければならないとしたら、痛む傷をそのままにしておこうとする人も多いだろう。だからたいていは良さそうな選択肢をさっさと選ぶ。そしてたいていはそれでうまくいく。

あとがき

  • 本書の前半では、人間の知識や知的活動とは本質的にどのようなものかを探究する。まず私たちの知識がどれほど皮相的なのかを、さまざまな認知科学の研究をもとにあぶり出す。代表例が「説明深度の錯覚」に関する実験だ。トイレやファスナーなど日々目にする当たり前のモノについて、被験者に「その仕組みをどれだけ理解しているか」答えさせる。続いてそれが具体的にどのような仕組みで動くのか説明を求めると、たいていの人はほとんど何も語れない。知っていると思っていたが、実はそれほど知らなかった。著者らはこれを「知識の錯覚」と呼び、さまざまな心理現象のなかでこれほど出現率の高いものはない、という。
  • しかし、だから人間がダメだと言っているわけではない。私たちを取り巻く世界はあまりに複雑ですべてを理解することなどとてもできない。そこで人間の知性は、新たな状況下での意思決定に最も役立つ情報だけを抽出するように進化してきた。頭の中にはごくわずかな情報だけを保持して、必要に応じて他の場所、たとえば自らの身体、環境、とりわけ他の人々のなかに蓄えられた知識を頼る。このような、人間にとってコンピュータの外部記憶装置に相当するものを、著者らは「知識のコミュニティ」と呼ぶ。知識のコミュニティによる認知的分業は文明が誕生した当初から存在し、人類の進歩を支えてきた。
  • これが知識の錯覚の起源である。思考の性質として入手できる知識はそれが自らの脳の内側にあろうが外側にあろうが、シームレスに活用するようにできている。私たちが知識の錯覚のなかに生きているのは、自らの頭の内と外にある知識のあいだに明確な線引きができないためだ。できないというより、そもそも明確な境界線など存在しないのだ。
  • 知らないことを知っていると思い込むからこそ、私たちは世界の複雑さに圧倒されずに日常生活を送ることができる。そして互いの専門知識を組み合わせることで、人間は原子爆弾やロケットのような複雑なものを作りあげてきた。人工知能
    (AI)の進歩によって人間を超える超絶知能(スーパーインテリジェンス)が誕生すると言われるが、著者らは真の超絶知能とは知識のコミュニティだと主張する。クラウドソーシングや協業プラットフォームなどテクノロジーの進化によって、今後その潜在力が発揮されるようになるだろう、と。
  • しかし知識のコミュニティは両刃の剣だ。本書の後半ではその危険性と、それを克服する道筋を考察している。トイレやファスナーの仕組みを理解していなくても、まず実害はない。しかし社会的、政治的問題となると話は違う。著者らは「社会の重要な課題の多くは、知識の錯覚から生じている」と指摘し、それを示す衝撃的な例をいくつか挙げている。
  • なぜ理解もしていない事柄に、明確な賛否を示すことができるのか。それは私たちが自分がどれだけ知っているかを把握しておらず、知識のよりどころとして知識のコミュニティに強く依存しているからだ。「コミュニティのメンバーはそれぞれあまり知識はないのに特定の立場をとり、互いにわかっているという感覚を助長する。(中略)こうして蜃気楼のような意見ができあがる。メンバーは互いに心理的に支え合うが、コミュニティ自体を支えるものは何もない」と著者らは指摘する。これは社会心理学者のアービング・ジャニスが「グループシンク(集団浅慮)」と呼んだ現象で、同じような考えを持つ人々が議論をすると、グループの意見は先鋭化することが示されている。
  • 知識の錯覚の特効薬はないが、一つの手段として著者らが期待を寄せるのは行動経済学である。2017年にシカゴ大学リチャード・セイラー教授がノーベル経済学賞を受賞したことで改めて注目が集まっているが、その特徴は伝統的な経済学とは異なり、「人間は必ずしも合理的判断をするわけではない」という前提に基づいていることだ。だから自然と合理的選択に誘導するように「ナッジ(そっと押す)」すべきであり、それには環境を選択的にデザインする必要があるという考え方をする。
  • 私たちは自分が思っているよりずっと無知である。合理的な個人という今日の民主政治や自由経済の土台となってきた概念自体が誤りであった。そんな身も蓋もない事実を突きつける本書ではあるが読後感は不思議と爽快である。それは本書終盤の、本当の「賢さ」とは何かという議論とかかわっている。これまでは個人の知能指数(IQ)によって賢さを測ろうとしてきた。しかし人間の知的営みが集団的なものなのであれば、「集団にどれだけ貢献できるか」を賢さの基準とすべきではないか、と著者らは言う。記憶容量の大きさや中央処理装置(CPU)の速度といった情報処理能力と並んで、他者の立場や感情的反応を理解する能力、効果的に役割を分担する能力、周囲の意見に耳を傾ける能力なども知能の重要な構成要素とみなすべきである、と。
  • 脳内CPUの性能には、生まれつき個人差があるのかもしれない。ただ私たちの知識のコミュニティが向き合うべき問題の複雑さに比べたら、個人のCPUの性能の違いなど誤差の範囲である。それ以上に重要なのは、身の回りの環境、とりわけ周囲の人々から真摯に学び、知識のコミュニティの恩恵を享受しつつ、そこに貢献しようとする姿勢である。それによって生まれつきのスペックにかかわらず、知性を磨きつづけることができる。