ゲーム理論入門の入門 (岩波新書)

  • ビューティフル・マインドという映画をご存知だろうか。ゲーム理論の基礎を築いた数学者の一人、ジョン・ナッシュの半生を描いた作品だ。内容はまだ観ていない読者のために書かないでおくが、このナッシュという人が、1950年、ゲーム理論で今でも盛んに使われる概念、その名も「ナッシュ均衡」を発明した。<ビューティフル・マインド>の劇場版ポスターには「彼は誰も想像できなかったやり方で世界を見た(He saw the world in a way no one could have imagined)」と書いてあるのだが、この「誰も想像しなかったやり方」こそがまさに、ナッシュ均衡なのだ。
  • ジレンマがあるというところがゲーム理論らしい、らしい。この点を理解するには、少し経済学の歴史を紐解かなければならない。ゲーム理論が経済学者に盛んに研究されるようになる以前から,「人々がそれぞれにとってベストな選択をすれば、社会全体が幸せになる」ということが知られていた。これを、「厚生経済学の第一基本定理」と呼ぶ。18世紀にアダム・スミスが唱えた「神の見えざるチによって市場が効率的に機能するという理論を、後の経済学者たちが数学的に証明した定理だ。
  • しかし、囚人のジレンマの予測によれば、ルパンと次元は二人ともそれぞれベストな選択をした結果長いこと獄中にいなくてはいけないし、牛飼いたちは草地を荒らしてしまうし、二酸化炭素は過度に排出されてしまう。なぜ予測に違いが起きるかというと、べつに厚生経済学の第一基本定理の証明が間違っているのではない。実はその定理を正しくさせている仮定が、囚人のジレンマでは成り立っていないのだ。具体的には、厚生経済学の第一基本定理では、各消費者が選ぶ購買行動やその結果もたらされる幸福度は市場価格にのみ依存し、他の消費者がどのような購買行動を取るかには一切影響を受けないということが仮定されている。翻って囚人のジレンマでは、ルパンの刑期は次元が白状するかしないかで大幅に変わってくる。つまり囚人のジレンマでは、厚生経済学の第一基本定理の背後にある仮定が満たされていないのだ。これが「囚人のジレンマ」がゲーム理論を語るのに適している第二の理由だ。
  • ちなみにこの第二の点は、ちょっと読者の皆さんには伝わりづらいかもしれない。実は僕も、あまりしっくりきていない。いま書いたような説明がしっくりくるというのは、しばらく経済学を勉強してきて厚生経済学の第一基本定理に慣れ親しんだ人が、初めてゲーム理論に触れて持つ感覚だろう。ちょうど、ゲーム理論が経済学で盛んに使われ始めた1980年代の経済学者にぴったりの説明なのだ。僕の場合は、経済学で厚生経済学の第一基本定理を学ぶ前にゲーム理論を学んだので、どちらかというと厚生経済学の第一基本定理の方が驚きの結果である。皆さんもそう思ったとしたら、それはそれで構わない。
  • 混合戦略ナッシュ均衡の説明:今までナッシュ均衡だと思っていた状態はやはりナッシュ均衡だけれども、他の状態もナッシュ均衡だと思えるようにナッシュ均衡の定義を変えることで、どんな問題が出てきてもナッシュ均衡が存在するようにしよう。
  • この(ゲーム理論を用いたじゃんけんの分析の)結果は結局、我々に何を教えてくれているのだろう。結果だけ見ると「結局二人がどんな手を出してくるか分からないし、どちらが勝つかも分からない」ということになっている。でも、実は我々は、ただ単に「分からない」と言うよりはもう少し高尚な予測をしている。なぜかというと、我々は「分からない」の意味をはっきりさせたからだ。我々の予測は、「どの手も等確率で出てくる」ということと、「勝率は50 %しかありえない」ということだ。
  • 第2章の初めに、映画<ビューティフル・マインド>を紹介した。この2001年に公開された映画は、アカデミー賞およびゴールデングローブ賞を多部門にわたって受賞した。僕も観たが、なかなかいい映画だと思う。しかしゲーム理論家として、この映画については一つ言っておかなければならないことがある。それは、映画中に出てくるナッシュ均衡の説明がちんぷんかんぷんだ、ということだ。

知ってるつもり 無知の科学

帯は気持ち悪いので不要に感じました(誰かも知らないし)。中身は非常に素晴らしかったです。「無知の知」を現代的な認知科学で再定義した、というような位置づけでしょうか。意思決定モデルも個人的にはかなり新鮮でした。よく学歴社会(well-definedではない)の功罪という議論が日本でされますが、学歴社会が(とくに高学歴層の)無知を助長する可能性があるのは明確な問題だな、と読んでいて感じました。

 

  • 学問としての認知科学の歩みは、現代コンピュータのそれと重なる。ジョン・フォン・ノイマンアラン・チューリングといった偉大な数学者が今日のコンピューティングの基礎を構築するなかで、人間の脳も同じような仕組みで動いているのではないか、という問題意識が生じた。コンピュータにはオペレーティングシステムを動かす中央処理装置(CPU)があり、CPUは限られたルールに従ってデジタルメモリからデータを読み取ったり書き込んだりする。認知科学のパイオニアは、脳も同じような仕組みで動くと考えた。コンピュータがメタファー(比喩)となり、認知科学の研究の方向性を決めたのだ。
  • 思考は、人間の脳内で動くコンピュータ·プログラムのようなものと想定された。アラン・チューリングの功績の1つが、こうした発想を論理的に突き詰めたことだ。人間がコンピュータのような仕組みで動くのなら、人間と同じ能力を持つコンピュータをプログラミングすることも可能なはずだ、と。1950年に書かれた古典的論文「計算する機械と知性』は、「機械に思考は可能か」という問いを考察している。
  • ランドアーは1980年代に、コンピュータのメモリサイズを測るのと同じ尺度で人間の記憶量を評価してみることを思い立った。本書執筆の時点で、ノートパソコン1台には長期保存用としておよそ250~500ギガバイトのメモリが付いている。ランドアーはすぐれた方法をいくつか考案して人間の知識量を測定した。たとえば平均的な大人の語彙を評価し、それだけの単語を保存するのに何バイト必要か計算した。それに基づき、平均的な大人の知識ベースを算出したところ、得られた答えが0.5ギガバイトだった。
  • ランドアーは自分の計算結果が精緻であると主張はしなかった。ただ1ケタずれていたとしても、つまり知識ベースが1ギガバイトの10倍あるいは10分の1であったとしても、たいした量でないのに変わりはない。現代のノートパソコンの内蔵メモリと比べれば微々たる量だ。人間はおよそ知識のかたまりではない。
  • これはある意味、ショッキングな結果と言える。世界には知るべきことがたくさんあり、そしてふつうの大人ならばたくさんのことを知っている。テレビニュースを見ながら途方に暮れることもない。幅広い話題について知的な会話もできる。クイズ番組の『ジェパディー』を見れば、何問かは正答できる。少なくとも一カ国語は話せる。そんな私たちの知識が、リュックサックに入れて持ち運べるちっぽけな機械の数分の一ということはないはずだ。
  • しかしこの結果にショックを受けるのは、人間の脳がコンピュータと同じような仕組みで動くと考えるからにすぎない。私たちを取り巻く世界の複雑さを考えると、脳は記憶をコード化して保持する機械である、というモデルは崩壊する。覚えるべきことはあまりに多く、膨大な情報を記憶に保持しておいても意味がない。
  • 認知科学者はすでに、コンピュータを脳のメタファーとしてそれほど重視しなくなった。もちろん、このモデルが有効なケースもある。人間がじっくりと慎重に思考するとき、つまり直観的あるいは思いつきではなく一歩ずつ順を追って熟慮するときのモデルは、コンピュータ・プログラムに近いこともある。ただ今日の認知科学者は主に、人間とコンピュータはどう違うかを示すことに注力している。
  • 熟慮は思考プロセスの1つにすぎない。認知の大部介を占めるのは、意識下の直観的思考だ。そこでは膨大な情報が同時並行で処理される。たとえばある単語を探すときには、候補をひとつひとつ順番に検討するわけではない。自分の語彙、つまり脳内辞書を一括で調べ、たいていは探している言葉がトップに浮上する。これはフォン・ノイマンチューリングがコンピュータ科学と認知科学の草創期に思い描いていた演算モデルとはまったく異なる。
  • 人間とコンピュータの違いをより端的に示すのは、人間は思考するとき、メモリから読み書きする中央処理装置を使わないという点だ。本書の後の章で詳しく見ていくが、人間は自らの身体、自らを取り巻く世界、そして他者を使って思考する。身の回りの環境について知るべきことはあまりに多く、それをすべて自分の頭のなかに入れておくことは、どう考えても不可能だ。

 

  • 1950年代に、ジョン・ガルシアという心理学者が、どんな恣意的な関連性でも学習 できるという主張の問題点を指摘した。ガルシアの行ったある実験では、ネズミに与えるさまざまな刺激の組み合わせを変えてみた。最初に目ざわりな光の点滅を見せるか、甘い水を飲ませた。続いて電気ショックか、腹痛を与えた(水に混ぜ物を入れた)。ネズミたちは光の点滅と電気ショックの関連性と、甘い水と猛烈な腹痛の関連性をやすやすと学習した。しかし別の組み合わせの関連性を学習することはできなかった。つまり光の点滅と腹痛、あるいは甘い水と電気ショックの関連性は学習できなかったのだ。
  • 光を点滅させるメカニズムと電気ショックを引き起こすメカニズムは同じである。同じように添加物の入った水(たとえ甘いものであっても)は腹痛の原因になりうる。どちらの組み合わせも因果関係として筋が通っている。一方、別の組み合わせには合理性がない。なぜ甘い水を飲むと電気ショックが起こるのか、またなぜ光の点滅が腹痛を引き起こすのかは、理解しがたい。ネズミたちは合理的な因果関係のある刺激のあいだの関連性は学習できたが、恣意的な関連性は学習できなかった。ガルシアの研究は、ネズミたちは合理的な因果関係のある刺激の関係性は学習できるが、恣意的な関連性は学習できない傾向があることを示している。ネズミでさえ、苦しさの原因を解明するために、単純な因果的推論をするのである。
  • ネズミに単純な条件反射だけでなく、因果的推論が可能なのであれば、おそらく犬も同様だろう。パブロフの言うような関連づけは、恣意的な刺激の組み合わせのあいだでは起こらない。二つの刺激のあいだに因果関係が成り立ちそうな場合にかぎって成立するのである。
  • 因果的推論は、因果的メカニズムに関する知識を使って、変化を理解しようとする試みである。さまざまなメカニズムを通じて、原因がどのような結果に変わるかを推測することで、未来に何が起こるかを予想するのに役立つ。人間は自然と因果的推論をする・・・
  • 因果モデルは、日常生活のなかでさまざまな機械を操作する方法にも影響する。たとえば寒いと思うと、早く部屋の温度を上げようと、サーモスタット(温度自動調節器)の目盛りを一気に上げる人は多い。これは無駄な努力だ。なぜそんな行動に出るかといえば、特定の温度に到達する速さが設定温度によって変化する暖房システムの因果モデルを適用するからである。サーモスタットにも同じように高い目標を与えれば、もっと頑張って働くだろうという誤った考えを持っている。ある実験に参加した被験者の一人が、自らの誤解を次のように説明している。
  • きわめて単純な話だと思うよ。たぶんレバーの位置と、熱を生み出すシステムの動作状態には、なんらかの相関があるんだろう。車のアクセルを踏み込むのと同じようなものだ。ほら、たしか油圧システムが働いて、強く踏み込むほど多くのガソリンがエンジンに流れ込み、燃焼が激しくなり、車は加速する。だからサーモスタットも同じように、レバーを強くというかたくさん押したりひねったりすると、システムはパワーを上げて、より多くの熱を生み出すんだ。
  • 多くの人がこの因果モデルを直観的に思い浮かべるのは、日常生活でとにかく頻繁に経験するからであるのは間違いない。特定の結果を引き起こすメカニズムを、直接観察できるのは、まれである。
  • カニズムの多くは、小さすぎたり(たとえば水が沸騰して水蒸気となる原因である分子の変化)、抽象的すぎたり(たとえば貧困の経済的要因)、あるいはアクセス不可能(たとえば心臓が体中に血液を送る仕組み)で観察できない。ワクチンがどのように機能するのか、食料の遺伝子組み換えがどのように行われるのかを見ることはできないので、その欠落を自らの経験で補おうとする。それが誤解につながるのだ。
  • 必要十分完璧な因果的推論の能力を持ち合わせていないからといって、自らを責めるのは見当違いだ。あらゆる状況で正確な因果的推論をするためには、何が必要か考えてみよう。宇宙がどうなっているかを尽くすと同時に、物事がどのように変化するかについても完璧な知識がなければならない。世界は複雑であり、また物事の変化のパターンは限りなくあるので、どちらの知識も当然、完璧とはほど遠く、不完全で、不確実で、不正確なはずだ。現実世界についての知識は必然的に、自ら経験した部分に限られたものになる。また関心のないものより、自分にとって重要なものに知識は偏るだろう。

 

脳は知性の中にある

  • 知性はどこにあるだろう?たいていの人は、脳の中だと答える。人間の能力のなかで最もすばらしい「思考」は、きっと人間の器官のなかで最も高度な脳で起こるのだろう、と考えるのだ。この見方が正しければ、単純な作業をどのようにこなすかという解釈にも影響してくる。たとえば、じょうろのようなありふれた物の写真を見て、上下が逆さまか否かを判断するとしよう。写真を見て、 対象物が正しい位置に置かれているか、脳に相談するだけだ。その結果、写真に写った物が正しい位置な「イエス」、逆さまなら「ノー」と答える。
  • これを実験で行ったところ、「イエス」のボタンを左手で押した被験者と、右手で押した被験者がいた。ここまでは問題ない。この作業は簡単なもので、誰もが0.5秒ほどで回答した。しかしこの実験にはある仕掛けがあった。使われた写真には、一つだけ小さな違いがあった。それは判断に影響するはずのない違いだった。対象物が左向きの写真と、右向きの写真が混ざっていたのだ。たとえば被験者の半数は、じょうろの持ち手が右側に置かれている写真を、残りの半分は持ち手が左側に置かれている写真を見た。被験者がじょうろが上下正しい位置に置かれているかを判断するために、脳に保持された正しい上下関係の記憶だけを照会するのなら、持ち手が左と右のどちらに付いているかは影響しないはずだ。だが現実には影響した。「イエス」ボタンを右手で押すときには、持ち手が右側に付いているときのほうが左側のときより反応が速かった。そして左手で回答ボタンを押すときには、持ち手が左側に付いているときのほうが反応は速かった。
  • ここからわかるのは、持ち手が右側に付いている日用品の写真を見ると、右手のほうが使いやすくなる、ということだ。写真を見ると即座に、そして無意識のうちに、身体がそこに写った物を使う準備を始める。持ち手が本物ではなくても、つまり単に写真であっても、左手ではなく右手にサインが送られる。そして右手に行動を起こす準備ができているために、質問が単にじょうろの向きに関するもので、じょうろを使うことには何のかかわりがなくても、右手のほうが速く反応する。身体は、手に対象物を扱う準備をさせることで、質問の回答に要する時間に直接影響を与えている。私たちは質問の答えを脳から引き出すだけではない。体と脳は同調して写真に反応し、答えを引き出すのである。 
 
  • トニ・ジュリアーノとダニエル・ウェグナーが実験室で証明した。交際期間が三カ月以上のカップルに、コンピュータのブランドなど、さまざまな事柄を記憶してもらった。同時にカップルにはそれぞれの事柄について、二人のうちどちらが詳しいか評価してもらった(たとえば一人がコンピュータ・プログラマで、パートナーがシェフなら、前者のほうがコンピュータには詳しい)。その結果、カップルは記憶の任務を分担し、相手に相手の詳しい分野の記憶を任せる傾向があることが明らかになった。二人のうち、どちらかだけが詳しい事柄については、詳しいとされた方が記憶し、パートナーは忘れる傾向が見られた。パートナーの得意分野については、記憶しようという努力がおざなりになった。言葉を換えれば、相手の詳しい分野については、誰もが情報を記憶して思い出す役割を相手に委ねた。人は特定のコミュニティにおいて、自分が覚えるべきことを覚え、認知的分業に最大の貢献をしようとする傾向がある。他のことを記憶するのは、その分野のエキスパートに任せる。言語、記憶、関心をはじめ、すべての知的機能は認知的分業という原則に従い、コミュニティ全体に分散しながら働いていると考えられる

 

  • 科学的知識に関する質問から、一つ例を挙げよう。「抗生物質は細菌とウィルスの両方に効果があるのか」という質問だ。このような問いを使って科学へのリテラシーを評価すると、不正解だった50%のアメリカ人をどう教育すれば残る50%のアメリカ人のようにできるかと考えがちだ。あるいはもっと意地の悪い 言い方をすれば、いったい彼らの頭はどうなっているんだ?と思う。メディアの反応は意地の悪いほうに近い。科学技術指標が毎年発表されると、新聞にはこんな見出しの記事があふれる。「バカの極み。アメリカ人の4人に1人は地球が太陽の周りを回っていることを知らない」
  • しかし、これは重要な点を見落としている。この結果に対する別の視点として、正解した人々は本当にわかっているのかという疑問がある。実際には、抗生物質は細菌にしか効果がないことを知っている人も、たいていはそれを個別の事実として知っているだけであり、それ以上の詳しいことは知らない。細菌とウイルスの具体的な違い、抗生物質の働き、なぜ細菌には効果があるのにウイルスには効果がないかを詳細に説明できる人がどれだけいるだろうか。これは特段意外なことではない。ふつうの市民が何十という科学的トピックについて深い理解を持っていると考えること自体、現実的ではない。だからこそ知識のコミュニティに強く依存するのである。
  • 第三章では、個人の認知システムの働きは、因果関係の推論であることを見てきた。人間は因果モデルを構築し、それに基づいて推論をする。因果モデルは人間が世界の仕組みに対する理解に基づき、自らを取り巻く世界について思考し、推論する手段である。第四章では、個人の持つモデルはたいてい素朴で不正確なものであり、直接的経験によって偏りがあることを見てきた。こうしたモデルは私たちの態度を決定づける要因にもなる。
  • 一般的な因果モデルが誤った考えにつながる例を示そう。消費者調査を専門とするベロニカ・イリューク、ローレン・ブロック、デビッド・ファロは、多くの人が「負担の大きい作業をしていると医薬品の効果は速く薄れる」と考えていることを明らかにした。たとえば強壮剤を飲んだ後頑張って働いていると、そうではないときより効果が持続する時間が短くなると思っているのだ。現実には薬の効果が持続する時間は、服用した人がどれだけ活動しているかとは一切かかわりがない。しかし効果が速く薄れるというのは、直観的には正しいように思える。なぜなら医薬品の効果に対する因果モデルは、負荷が高まるほどリソースの減り具合が激しくなる他の分野のモデルに基づいているからだ。たとえば自動車で上り坂を進むときは平地を運転するときよりガソリン消費が増えるし、自転車では上り坂を行くときのほうが下り坂よりカロリー消費量が増える。誤解の影響は、抽象的なものにとどまらない。この誤った因果モデルのために、規定量以上に薬を服用する人もいる。
  • 本章の前半ですでに見てきたテクノロジー批判の事例に戻ろう。遺伝子組み換え食品は大きな議論を呼んできたテーマだが、米国科学振興協会によると、科学的にははっきりとした結論が出ている。「現代のバイオテクノロジーの分子技術による品種改良は安全である」と。EUでは遺伝子組み換え作物に対する反対はさらに強固だ。しかし欧州委員会ははっきりこう言っている。「過去25年にわたる500以上の独立した団体の調査結果を含む130件以上の調査から導き出される主な結論は、遺伝子組み換え作物を中心とするバイオテクノロジーそのものは、従来の植物交配技術などと比べて危険性は高くないというものだ」。それなのになぜ根強い反対意見があるのか。
  • 実態として、遺伝子組み換え作物への抵抗にはさまざまな理由があるが、組み換え技術の仕組みに対する誤った因果モデルがその一因であるのは明らかだ。あなた自身が遺伝子組み換え技術についてどれだけ理解しているか、しばし考えてみてほしい。たいていの人はあまりよく知らない。しかしこと遺伝子組み換え作物については、多くの人がかなりはっきりとした不安を抱いている。よくある不安の一つが汚染だ。われわれが行った研究では、回答者の25%が「食物に組み込まれた遺伝子は、その食物を摂取した人間の遺伝子コードに入り込む可能性がある」という文章を正しいと答えた。また確信は持てないが、正しい可能性があると回答した人も25%いた。実際には正しくないが、正しいと思っている人には恐ろしい話だろう。研究でこの文章が正しいと回答した人が、遺伝子組み換え作物に最も強い拒否反応を示した理由もここにある。
  • 遺伝子組み換え作物が人間のDNAに入り込むという説を信じない人でさえ、汚染に関する不安を抱いているようだった。別の調査では、登場する可能性のある遺伝子組み換え製品の例をいくつか示し、回答者の意見を尋ねた。それぞれの製品はどの程度容認できるか、また20%割高な遺伝子組み換えではない同等製品が買える場合、どちらを選ぶ可能性が高いかを尋ねた。回答者と製品との接触の度合いには差があった。ヨーグルトや野菜スープの素など口にするもの、ローションなど肌に塗るもの、そして香水など空中に噴霧するもの、さらには電池や断熱材などほとんど接触のないものもあった。回答者は口に入れるものについては遺伝子組み換え製品を容認しなかった。肌に塗るものについてはもう少し寛容で、空中に噴霧するものについてはさらに寛容だった。そしてほとんど接触しないものについては購入意欲がかなり高かった。どうやら遺伝子組み換え製品については、バイ菌と同じような感覚があるようだ。
  • 遺伝子組み換え作物に対する意識を決定づける要因としてもう一つ重要なのは、遺伝子を組み換えられる生物と、組み換えに使われる遺伝子を提供する生物との類似性だ。フロリダ産のオレンジの収穫量に影響を与えるカンキツグリーニング病の解決を目指す取り組みを見てみよう。カンキツグリーニング病は細菌が原因となって柑橘類の木が枯れる病気で、きわめて感染力が高い。感染速度は高く撲滅するのは難しい。フロリダのオレンジ産業の将来を懸念した生産者らは、遺伝子組み換え技術を使って病気への抵抗力を高める実験をしてきた。うまくいった方法の1つは、抵抗力を高めるタンパク質を生成するブタの遺伝子をオレンジに移植することだった。しかし生産者はこの解決法を採用しなかった。ブタの遺伝子を含む果物など、消費者は絶対に買わないと考えたためだ。消費者はきっと、遺伝子組み換え作物は移植された遺伝子が生成するタンパク質の影響を受けるだけでなく、ドナー(提供側)生物の特徴を他にも引き継ぐと思うだろう。つまりこのケースでは、オレンジが少し豚肉っぽい味になると想像するのではないか。
  • オレンジ生産者の懸念は、おそらく正当なものだったのだろう。実験室での研究では、まさにそうした影響が確認された。被験者はレシピエント(受容側)とドナーの類似性が高いときのほうが、類似性の低い組み合わせより遺伝子組み換え作物を受け入れる傾向が高かった。別の研究では回答者のほぼ半数が、ホウレン草の遺伝子を挿入したオレンジはホウレン草のような味がすると答えた(そんな味はしない)。
  • 遺伝子組み換え技術がどのようなものか、少しでも知識があれば、こんな懸念は抱かないはずだ。しかしどれも確かに直観的には正しそうだ。たいていの人は遺伝子組み換え技術がどのようなものかはよく知らないので、知識の空白を他の分野で学習した因果モデルによって埋めようとする。遺伝子組み換え作物に抵抗する理由は他にもある。環境への影響を懸念する人もいれば、巨大企業が強力なテクノロジーを手に入れることを不安視する人もいる。漠然とした不安を抱く人もいる(「こんなに新しいテクノロジーはどんな影響が出てくるかわからない」など)しかし誤った因果モデルはこの問題において重要な役割を果たしている。
  • 物議を醸しているテクノロジーは他にもあり、やはり仕組みに対して誤った因果モデルを当てはめていることが反発の原因となっている可能性がある。たとえば食物に高エネルギー放射線を照射して殺菌する食品照射だ。何十年にもわたる研究によって、食品照射が安全で、食物由来の病気を減らすのに有効であり、保存可能期間を伸ばすのに役立つことが証明されている。しかしこのテクノロジーの普及は進まない。放射と放射能の混同が、抵抗感を強める原因となっている。放射とはエネルギーの放出を意味し、可視光線マイクロ波などの照射も含まれる。一方、放射能とは不安定な原子が崩壊し、生物に対して危険な高エネルギー放射線を発生させる能力を指す。食品照射に反対する理由を聞かれると、放射線が食品に「残留」し、汚染するという不安を口にする人が多い。この不安にはなんの科学的根拠もない。
  • 研究者のヤンメイ・チェン、ジョー・アルバ、リサ・ボルトンは、この不安を和らげる方法を模索した。比較的効果があった方法は、このテクノロジーの名前を放射能を想起しないものに変えることだ。たとえば「低温殺菌」という呼び方をすると、受容度は大幅に高まった。もう一つの方法は、人々の因果モデルを修正するような比喩を使うことだ。たとえば食品照射を、太陽光が窓ガラスを透過するようなものだと説明すると、テクノロジーへの評価は改善した。おそらく太陽光が窓ガラスに残留しないことは明白だからだろう。
  • 仕組みに対する誤った理解が抵抗につながっている可能性があるもう一つの事例がワクチンだ。ワクチン接種に反対する理由として最もよく挙がるのが、ワクチン接種と自閉症に関連があるという説だ。この説が誤っていることは証明されているが、懸念は依然として残っている。反対派が槍玉に挙げるのは、一部のワクチンの材料として使われている水銀を含む化合物「チメロサール」だ。この懸念には一抹の真実はある。水銀がきわめて有害であり、摂取すると恐ろしい影響があることは子供でも知っている。ワクチンに使われる水銀の量は、有害な影響を引き起こすようなものではないが、やはり体内に入れるのは怖い気がする
  • ワクチン反対派からよく聞かれるもう一つの主張は、健康的な生活を送ることがワクチンの代わりになる、というものだ。ここにも一抹の真実はある。生活習慣によって免疫力を高められるというエビデンスは存在する。ただその効果がどのような性質のもので、どれだけ強力なのかはわかっていない。生活習慣がワクチン接種の代わりになるという考えは、免疫システムの仕組みをあまりに単純化しすぎている。免疫システムは、汎用的な防護メカニズムと、特定の感染体を標的とするさまざまな抗体の両方によって成り立っている。ワクチンは特定の感染体に対する免疫を付与するものであり、特定の生活習慣を選ぶことでそうした効果が得られるというエビデンスはない。
  • 知識の欠乏を埋める:人の信念を変えるのは難しい。なぜならそれは価値観やアイデンティティと絡みあっており、コミュニティと共有されているからだ。しかも私たちの頭の中にある因果モデルは限定的で、誤っていることも多い。誤った信念を覆すのがこれほど難しい理由はここにある。コミュニティの科学に対する認識が誤っていることもあり、その背景に誤った認識を裏づけるような因果モデルが存在することもある。そして知識の錯覚は、私たちが自分の理解を頻繁に、あるいはじっくりと検証しないことを示している。こうして反科学的思考が生まれる。
  • 解決の道はあるのだろうか。カリフォルニア大学バークレー校の心理学者、マイケル・ラニーはここ数年、地球温暖化について一般の人々を啓蒙し、また科学的知見を積極的に受け入れるようにする方法を模索してきた。本書の読者はもはや意外に思わないだろうが、ラニーが最初に発見したことの一つは、一般の人々は地球温暖化の仕組みを驚くほどわかっていないということだった。ある研究では、カリフォルニア州サンディエゴの公園で200人ほどに声をかけ、いくつかの質問を通じて気候変動のメカニズムの理解度を探った。大気中の温室効果ガスによって熱がこもるなど、部分的に事実を語れた人はわずか12%にとどまった。メカニズムを、包括的かつ正確に説明できた人は一人もいなかった。
  • 続いてラニーは、情報を伝える方法を模索した。一連の実験では、被験者に温暖化の仕組みについての、400ワードという短い初歩的な説明文を読んでもらった。それによって人間が引き起こす気候変動についての被験者の理解度と受容度は大幅に高まった。こうした結果に基づき、ラニーは短い動画を使って地球温暖化を説明するウェブサイトをつくっている。ビデオの長さは、視聴者が自由に選べる。「詳細版」を選んでも五分以内で終わり、さらに短いものはわずか52秒でこの現象をざっと説明する。初期のテストでは、こうした動画は意図された効果を達成していることが明らかになった。
  • ラニーの研究結果は将来への期待を抱かせる。しかし簡単な働きかけによって、社会がウォルター・ボドマーの思い描いたような科学を愛するユートピアに突如変貌を遂げると信じるほど、われわれもおめでたくはない。それでも欠乏モデルを諦めるのも早計だろう。本章の教訓は、科学への理解や意識を大きく変えたいのであれば、その欠乏の背後要因を理解する必要がある、ということだ。人々にとって、頭の中にある因果モデルと矛盾するような新たな情報は受け入れがたく、否定されやすい。信頼する人の意見と矛盾するような情報であれば、なおさらだ。しかしメカニズムすら理解していない新たな知見については、否定するのは難しい。ラニーの取り組みが大きな成功を収めたのは、気候変動のメカニズムを説明することに注力したためかもしれない。人々の誤った信念を正す第一歩は、自分やコミュニティの科学に対する認識がまちがっている可能性に気づかせることだ。自分が間違っていることを良しとする人はいないのだから。

 

政治について考える

  • 2010年に成立した医療費負担適正化法(通称「オバマケア」)ほど、アメリカ国民(と政治家)を熱くさせたテーマは近年まれである。この法律をめぐっては幾度となく議論が繰り返され、共和党バラク・オバマ政権の失策の一つとして槍玉に挙げた。連邦議会共和党勢力は法律を廃止あるいは変更しようと、何度も投票にかけた。ただこれほどの盛り上がりと対立を生んだにもかかわらず、法律を理解していた人はほとんどいなかった。2013年4月にカイザーファミリー財団が行った調査によると、アメリカ国民の40%以上が医療費負担適正化法が法律であることすら認識していなかった(国民の12%は議会で廃止されたと思っていた。そんな事実はない)。
  • だからといって一般国民が同法に対してはっきりとした立場を表明できないわけではない。2012年、最高裁判所が同法の主要な条項を支持する判断を下した直後、ピュー・リサーチ・センターは判決への賛否を問うアンケートを実施した。当然ながら賛否は真っ二つに分かれた。36%が賛成、40%が反対、24%が意見を表明しなかった。アンケートではさらに最高裁の判決がどのようなものであったかを尋ねた。すると正解したのは、回答者の55%にすぎなかった。15%は最高裁は法律を違法と判断したと回答し、30%がわからないと答えた。つまり回答者の76%が最高裁判決に賛成か反対か明確に答えたにもかかわらず、そもそもの判決の内容をわかっていたのは全体の55%にすぎないということだ。
  • 医療費負担適正化法は、もっと根本的な問題が表面化した一例にすぎない。世論は、問題に対する国民の理解度からは説明できないほど極端になる、というのがそれだ。アメリカ国民のうち、2014年のウクライナに対する軍事介入を最も強く支持したのは、世界地図上でウクライナの位置すら示せない人々であった
  • もう一つ例を挙げよう。オクラホマ州立大学農業経済学部は消費者を対象に、遺伝子組み換え技術を使った製品は表示を義務づけるべきか尋ねた。80%近い回答者が義務化すべきと答えた。この結果は一見、法制化を進めるべきという有力な根拠のように思える。消費者は希望する情報を与えられるべきだし、その権利もある。
  • しかし同調査の回答者の80%は、DNAを含む食品についても法律によって表示を義務化すべきだと答えた。購入する食品にDNAが含まれているか、消費者には知る権利がある、と。首をひねっている人のために改めて言っておくと、あらゆる生物にDNAが含まれているのと同じように、ほとんどの食品にはDNAが含まれている。調査の回答者の意見を踏まえれば、すべての精肉、野菜、穀物に「注慐 DNAが含まれています」と表示しなければならなくなる。しかしDNAが含まれている食品をすべて避けていたら生きていけない。
  • 遺伝子組み換え食品に表示を付けるべきだと主張しているのが、DNAを含むあらゆる食品に表示を付けるべきだと言うような人々だとしたら、その意見はどれほど傾聴に値するのか。主張の信頼性は薄れるような気がする。大多数の人が特定の意見を支持しているからといって、そうした意見がきちんとした理解に基づいているとは限らないようだ。概して、問題に対する強い意見は、深い理解から生じるわけではない。むしろ理解の欠如から生じていることが多い。偉大な哲学者で政治活動家でもあったバートランド・ラッセルはそれを「情熱的に支持される意見には、きまってまともな根拠は存在しないものである」と表現している。クリント・イーストウッドはもっと直截的だ。「過激主義とは簡単なものだ。自分の意見を決めたら、それで終わり。あまり考える必要がない」
  • なぜ人はよく知らない問題について、それほど熱くなるのか。ソクラテスはそれについて、「政治専門家」に対する回答のかたちでこう答えている。
  • しかし私自身はそこを立去りながら独りこう考えた。とにかく俺の方があの男よりは賢明である、なぜといえば、私達は二人とも、善についても美についても何も知っていまいと思われるが、しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていないからである。されば私は、少くとも自ら知らぬことを知っているとは思っていないかぎりにおいて、あの男よりも智慧の上で少しばかり優っているらしく思われる。
  • この男は自らが何も知らないことをわかっていない、とソクラテスは批判している。私たちの多くがそうであるように、この人物も自分が思っているほどは知らなかった。
  • 一般的に私たちは、自分がどれほどモノを知らないかをわかっていない。ほんのちっぽけな知識のかけらを持っているだけで、専門家のような気になっている。専門家のような気になると、専門家のような口をきく。しかも話す相手も、あまり知識がない。このため相手と比べれば、私たちのほうが専門家かということになり、ますます自らの専門知識への自信を深める。
  • これが知識のコミュニティの危険性だ。あなたが話す相手はあなたに影響され、そして実はあなたも相手から影響を受ける。コミュニティのメンバーはそれぞれあまり知識はないのに特定の立場をとり、互いにわかっているという感覚を助長する。その結果、実際には強固な支持を表明するような専門知識がないにもかかわらず、誰もが自分の立場は正当で、進むべき道は明確だと考える。誰もが他のみんなも自分の意見が正しいことを証明していると考える。こうして蜃気楼のような意見ができあがる。コミュニティのメンバーは互いに心理的に支え合うが、コミュニティ自体を支えるものは何もない。
  • 社会心理学者のアービング・ジャニスはこの現象を「グループシンク(集団浅慮)」と名づけた。グループシンクについての研究では、同じような考えを持つ人々が議論をすると、一段と極端化することが明らかになっている。つまり議論をする前に持っていた見解を、議論の後には一段と強固に支持するようになる。ある意味では群れの心理と言えるだろう。
  • 誰もがあらゆるトピックに精通すべきだと 言っているわけではない。そんなことは不可能だ。たった1つのトピックに精通するだけでも大変だ。世界はあまりにも複雑で、個人の理解を超えるものであることはすでに見たとおりだ。私たちは知識のコミュニティに生きており、コミュニティを機能させるには認知的分業が必要だ。コミュニティに共有の知識を確保するには、個々の問題について信憑性のある有識者が専門家の役割を果たす必要がある。誰もがすべてを知っている必要はない。
  • コミュニティが医療のあり方について意思決定をするときには、医療を最も効率的かつ効果的に実践する方法を最もよくわかっている人々が指南役を務めるべきだ。新たな道路を建設すべきかを決めるときには、土木技師の意見を仰ぐべきで、コミュニティはその意見を信頼する必要がある。専門家は自らの願望をコミュニティに押しつけてはならない。それはコミュニティ自体が決めるべきものだ。専門家はどのような選択肢があるのか、それぞれを選んだ場合の結果について、コミュニティが理解するのを助けることができる。
  • これはエリート主義だろうか。専門家が必要だというわれわれの訴えは、独自の利益を持つ知識階層の必要性をうたっているにすぎないのだろうか。たしかに専門家に頼ることも、新たな厄介ごとを引き起こす。専門家が、精通しているトピックについて個人的な利害を抱えていることも多い。医療について最も詳しい人々は、医療産業にかかわっていて、医療のあり方に金銭的利害を持つケースも多い。技師が道路を建設したがるのは、それを生業としているからかもしれない。道路建設が増えれば、自分たちの実入りが増える。
  • もっと表面化しにくい利害もある。学者が提供するアドバイスは、状況に対する客観的で冷静な分析に基づくものではないかもしれない。学者が、自らの理論的立場に固執するのは周知の事実だ。経済学の教授が自由貿易協定に署名するべきだとアドバイスするのは、自由市場の重要性を説く記事を発表しているためかもしれない。心理学者は実際の子育て経験がないのに、最新の学習理論に基づいて育児に関するアドバイスをするかもしれない。二人の認知科学者が、誰もが知識の錯覚のなかで生きていると主張する本を書くのは、自分たちが無知であるという苦痛をやわらげるためかもしれない。
  • 専門知識を持っているのは誰か、またその専門知識に偏りがないかを判断するのは難しい。しかし解決不可能な問題ではない。社会には、それに役立つさまざまな仕組みが備わっている。専門家には、その知識や信頼性を示す他者からの推薦の扉がある。経歴や評判を確認し、評価することもできる。インターネット上の情報に正しいという保証はないが、専門家に対してその顧客が評価を寄せるためのウェブサイトがいくつも存在し、かなりの有効性を発揮している。十分な数の顧客が存在し、また専門家に関する評価を集め、報告するサイト自体の信頼性が確認されれば、この仕組みはうまく機能するかもしれない。専門家の信頼性を確保するほうが、あらゆる人に専門家になることを求めるよりまちがいなく実現性が高く、実際それはこの社会的問題を解決する唯一の方法だ。
  • 判断は専門家に任せるべきである、政府は専門家の意見に耳を傾けるべきであるといった考え方は、アメリカ政界に根強い考え方に逆行する。20世紀初頭のアメリカが直面していた最も重大な問題の一つは、国家の富と権力が少数の企業や利益団体に集中していたことだった。多くの州議会が、こうした強力な利益集団に支配されていた。そうしたなか直接民主主義の手法を使って、州議会に対する企業の政治的影響を排除しようとする動きが沸き起こった。こうして州や自治体の市民が議会の頭越しに直接投票し、政治家の手から権力を奪うような投票方式が生み出された。直接投票方式には、「イニシアティブ(住民発案)」「プロポジション(住民提案)」「レファレンダム(住民投票)」などさまざまな形態があり、それは多くの州で今日も積極的に活用されている。
  • こうした民主的な投票方式は高邁な精神から出発したものだが、皮肉なことにその多くにも問題はある。なぜならそうした直接提案をまとめ、推進するプロセスは、特定の利益団体に支配されることがあるからだ。悪名高い例の一つが、2015年の住民発案「カリフォルニア州男色禁止法案」だ。そこには同性の相手と性的関係を持った人物は「頭部への銃弾によって抹殺する」という規定もあった。幸い、この法案自体が裁判所によって抹殺された。しかしこうした例は、直接民主主義もほかの統治形態と同じように恣意的な意見操作の対象となりうることを示している。
  • 市民の直接投票という仕組みに対して批判的になるべき理由は多い。われわれが最も懸念しているのは、こうした手法は知識の錯覚を考慮していないからだ。個々の市民が、複雑な社会政策に対してしっかりとした情報に基づく判断を下すだけの知識を持っていることはめったにない(たとえ本人たちがそう思っていたとしても)。すべての市民に投票権を与えることで、群衆の英知のよりどころである、優れた判断に役立つ専門家の知識がかき消されてしまう可能性がある。
  • 知識の錯覚を打ち砕くことは人々の好奇心を刺激し、そのトピックについて新たな情報を知りたいと思わせるのではないか、と期待していた。だが実際にはそうではなかった。むしろ自分が間違っていたことがわかると、新たな情報を求めることに消極的になった。因果的説明は錯覚を打ち砕く効果的な方法だが、人は自分の錯覚が打ち砕かれるのを好まない。たしかにヴォルテールもこう言っている。「錯覚にまさる喜びはない」と。錯覚を打ち砕くことは無関心につながりかねない。誰もが自分は有能だと思っていたい。無能だと感じさせられるのはまっぴらだ。
  • 優れたリーダーは、人々に自分は愚かだと感じさせずに、無知を自覚する手助けをする必要がある。容易なことではない。目の前の相手だけでなく、誰もが無知であることを示す、というのが一つのやり方だ。無知というのは純粋に自分がどれだけ知っているかという話である。一方、愚かさというのは他者との比較である。誰もが無知なのであれば、誰も愚かではない。
  • リーダーのもう一つの任務は、自らの無知を自覚し、他の人々の知識や能力を効果的に活用することだ。優れたリーダーは個別の問題について深い知識を有している人々を周囲に配置し、知識のコミュニティを形成する。それ以上に重要なのは、優れたリーダーはこうした専門家の意見に耳を傾けることだ。意思決定 をする前に、時間をかけて情報を集め、他の人々と相談するリーダーは、優柔不断で頼りなく、ビジョンがないと思われることもある。世界は複雑で容易に理解できないものであることを認識しているリーダーを、きちんと見極めようとするのが、成熟した有権者である。

 

  • 個人の知能を測定するのは、個々の自動車部品の品質を調べるようなものだ。
    それぞれの部品を、さまざまな高度な検査手法でチェックする。重量、強度、新しさ、輝きを測り、価格を確認する。そうすると個々の要素のあいだに比較的高い相関性があることがわかる。つまり良い部品は悪い部品と比べて良い材料でできており、また軽く、強度が高く、新しく、輝きがあり、価格も高い。どのテストの結果も、他のテストのそれと相関性がある。知能テストと同じだ。そして測定値には何らかの意味がある。具体的には、自動車部品の品質の優劣だ。
  • しかし、それが私たちの最も知りたいことだろうか。おそらく自動車について一番知りたいのは速度、燃費、信頼性といった車としての特性である。部品の特性そのものにはさほど関心はない。質の高い部品そのものが欲しいのではなく、部品が優れていれば最終製品である車の質が高くなるため、それを求めるのだ。

 

  • 創業初期のハイテクベンチャーを支援する主要なインキュベーターの1つである、
    Yコンビネーターの例を見てみよう。Yコンビネーターの戦略は、ベンチャー企業が当初のアイデアを頼りに成功をつかむことはめったにない、という発想に基づいている。アイデアは変化する。だから一番重要なのは、アイデアではない。アイデアの質よりはるかに重要なのは、チームの質である。優れたチームは、市場の実態を調べて優れたアイデアを見つけ、その実現に必要な作業を遂行することによって、ベンチャー企業を成功に導く。優れたチームは、個人の能力を活かすようなかたちで役割を分担する。Yコンビネーターがたった1人の創業者しかいないベンチャーへの投資を避けるのは、役割を分担するチームが存在しないためだけではない。その理由は、あまり知られていないが、チームワークの根幹にかかわるものだ。一人ぼっちの創業者には、仲間をがっかりさせまいとする「チームスピリット」を発揮する機会がない。チームは物事がうまくいっていないときほど頑張ろうとする。それはお互いが励まし合うからだ。チームのために頑張るのである。
  • 知識のコミュニティに生きているという事実を受け入れると、知能を定義しようとする従来の試みが見当違いなものであったことがはっきりする。知能というのは、個人の性質ではない。チームの性質である。難しい数学問題を解ける人はもちろんチームに貢献できるが、グループ内の人間関係を円滑にできる人、あるいは重要な出来事を詳細に記憶できる人も同じように貢献できる。個人を部屋に座らせてテストをしても、知能を測ることはできない。その個人が所属する集団の成果物を評価することでしか、知能は測れない。

 

  • 学校での学びは、学生にとって大切な目標とは乖離している。学校で習う読み書き、計算を未来の人生でどのように応用していけるのか、学生にはわからないことが多い。行動のための学習ではなく、学習のための学習を余儀なくされているのだ。教育関係者が、学生たちが読んだものを理解しないと嘆くことが多い一因も、ここにあるのだろう。真剣に読んだつもりの資料を理解していない事実を突きつけられ、衝撃を受けるのは学生も同じだ。理解度を確認するテストの出来の悪さに、本人たちも驚く。資料にじっくり目を通し、自分ではよく理解したつもりでいるのに、内容に関する基本的な質問にすら答えられない。この現象はきわめて一般的で、「説明深度の錯覚」を彷彿させる「理解の錯覚」という呼称もあるほどだ。
  • 理解の錯覚が起こるのは、人は「見たことがある」あるいは「知っている」ことを、「理解している」ことと混同するためだ。ある文章をざっと読むと、次にそれを見たときには「見たことがある」と感じる。最後に見たときから、かなり時間が経っていてもそう感じる。極端な例では、心理学者のポール・コラーズが被験者に文字がすべて上下逆さまになっている文章を読ませたところ、一年以上経ってもその文章を見たことのない文章より速く読めたというケースもある。その文章をどのように読むべきかという記憶が、一年以上経っても残っていたのだ。
  • 学生たちにとって・・・この「見たことがある」という感覚は、実際に資料を理解していることと混同しやすい。

 

  • 私たちが知識の錯覚に陥るのは、専門家の知識を自分自身の知識と混同するからでもある。他の誰かの知識にアクセスできるという事実が 自分がその話題について知っているかのような気分にさせる。同じ現象が教室でも起きている。子供たちは必要な知識にアクセスできるため、理解の錯覚に陥る。必要な知識は教科書や教師の頭の中、そして自分より優秀な仲間の頭の中にある人間はすべての科目に秀でるようにはできていない。コミュニティに参加するようにできている(これも偉大なるジョン・デューイが何年も前に指摘していることだ)。
  • 認知的分業のなかで自分にできる貢献をし、知識のコミュニティに参画することが私たちの役割ならば、教育の目的は子供たちに一人でモノを考えるための知識と能力を付与することであるという誤った認識は排除すべきだ。

 

  • 自分が何を知らないかを理解する良い方法は、対象となる分野に関連する仕事をすることを通じてそれを学ぶことだ。科学者は自らの分野の最先端で研究をする。わかっていないことを、わかっていることに変えるのが彼らの仕事だ。このため科学者の行動様式を身につければ、わかっていないことが何かわかるようになる。さまざまな分野の学会が、科学教育にこのアプローチを導入するよう提唱している。米国社会科会議は、歴史家が研究するように、歴史を学習させることを提唱している。米国学術研究会議(NRC)は「科学の本質」教授法と呼ばれる科学教育の理念を推進している。科学教育は実際の科学を再現するものであるべきだ、学生には現実の科学研究の手法と一致する方法で科学を学ばせるべきである、という考え方だ。しかし、言うは易く行う、は難しで、NRCの提言はほとんど無視されている。
  • 主要な科学誌(その名も《サイエンス》という)の編集長によると、大学レベルの初歩的な科学の授業も、科学研究の手法ではなく事実を覚えることに偏重しているという。小学校や高校のレベルでは、問題はさらに深刻だ。教育理論家のデビッド・パーキンスは「科学の教科書は表層的でまとまりのない情報が詰め込まれ、分厚くなっている」と指摘。その一因として、多くの人が自らの思惑を通そうとすることを挙げている。異なる利害を持つ団体や学者が、それぞれ自分の関心分野を教科書に含めるべきだと主張する。何が重要かをめぐり、あらゆる人の意向を満足させようとする結果、教科書は魂(奥深い統合的な原理)を欠いた事実や概念のごった煮になり、最終的には誰も満足しない代物になる。
  • 著者らに多少土地勘のある科学というテーマについて、もう少し詳しく見ていこう。科学の研究は、実際にどのように進められるのだろうか。実は科学者というものは、実験室にこもって自然界の謎を解き明かそうとしているわけではない。科学研究はコミュニティで行われる。認知的分業があり、さまざまな科学者がそれぞれの専門分野のエキスパートとして貢献する。科学的知識は科学者のコミュニティ全体に分散している。この分業とは、個々の科学者には多少の知識があり、知識は全員の貢献の総和であるという事実を指すだけではない。認知的分業は常に進行中だ。科学者のなすことすべてに、コミュニティはかかわっている。科学者が使うあらゆる手法、あらゆる理論、そして科学者が生み出すあらゆる発想は、コミュニティがもたらしている。
  • 科学における結論の大部分は、観察にも推論にも基づいていない。権威、すなわち教科書や学術誌の記事に書かれていること、知り合いの専門家の言葉などに基づいている。直接立証するのに時間やコストがかかりすぎる、あるいはそれが難しすぎる場合に、事実を提供することも知識のコミュニティの役割の一つだ。私たちの知識の詳細な部分は、ほとんどが知識のコミュニティによってまかなわれている。科学者もそうでない人も含めて、あらゆる人の理解は他の人々の知識に依拠している。だから学生にとっては事実や立証を自分で覚えておくこと以上に、わかっていることは何か、立証できることは何かを理解するほうが重要なのだ。
  • 科学者が真実と考えることの大部分は、信じる気持ちに支えられている。神への信仰ではなく、他の人々が真実を語っているという信頼である。ただ宗教と違うのは、科学では「真実」とされるものに疑問が生じたときに、よりどころとすべきものがあることだ。それは立証の力である。科学的主張の真偽は確認することができる。科学者が研究結果を偽ったとき、あるいは間違いを犯したとき、最終的にはそれは露見する。なぜならそれが重要な問題であれば、誰かがその結果を再現しようとし、それが不可能であることに気づくからだ。
  • 科学者は真実を求めるが、その日々の行動を支配するのは真実の探求より、知識のコミュニティに付随する社会生活だ。ある研究者が成功できるか否かは、研究室でどれだけ重要な発見をするかだけで決まるわけではない。そうした結果を重要な学術誌に発表できなければ、ハーバード大学で終身在職権を得て、そこで研究を続けることはできない。つまり重要な発見をすることと同じぐらい、その発見の重要性を他者に納得させることが欠かせない。有名雑誌に論文を載せてもらうには、査読者や編集者にその価値を認めてもらわなければならない。このように科学者は絶えず互いの貢献の質を評価しあっている。そして好むと好まざるとにかかわらず、評価は社会的プロセスだ。

 

  • 商業市場は、説明嫌いの人々は詳細な情報を嫌うという性質を巧みに利用している。たいていの広告は、できるだけ曖昧な宣伝文句を使う。消費者が共感しそうな人物(どこにでもいそうな建設作業員)や、マネしたいと思うような人物(セクシーな目つきの色男)を広告の目玉にして、虚偽の説明を避けつつ製品の利点を曖昧な言葉で表現する。
  • スキンケアも説明嫌いの希望に沿うことで成り立っている業界の顕著な例だ。美容会社はほとんど医学的根拠がないにもかかわらず「DNAを修復する」「20歳若く見せる」などとうたったちっぽけなクリームの瓶にとんでもない値段をつけ、大儲けしている。なぜそんなことができるのか。エセ科学的な専門用語を使い、エビデンスらしきものを示すというのがその手口だ。産業そのものがエセ科学に立脚している。「肌科学クリニック」などともっともらしい名称をつけて、高度な画像装置や「肌質か析ソフトウェア」のような一見すばらしいテクノロジーを採用しているが、そこには医学的価値のあるエビデンスは一つもない。すべてスキンクリームを売るための仕掛けである。
  • 誤解を招くような主張や質の低い説明を私たちが簡単に受け入れてしまうのは、
    避けられない部分もある。意思決定の多くは、世界の仕組みについての推論を必要とする。どのダイエットが一番効果的なのか、どのタイヤが雪道に一番強いのか、退職後に備えるにはどの投資商品が最適なのか、推測しなければならない。世界はあまりにも複雑なので、誰もがあまりにも多様な意思決定と向き合わな
    るければならず、およそ一人でその細部をすべて理解することはできない。バンドエイドを買いに行くたびに細菌の代謝プロセスについて調べなければならないとしたら、痛む傷をそのままにしておこうとする人も多いだろう。だからたいていは良さそうな選択肢をさっさと選ぶ。そしてたいていはそれでうまくいく。

あとがき

  • 本書の前半では、人間の知識や知的活動とは本質的にどのようなものかを探究する。まず私たちの知識がどれほど皮相的なのかを、さまざまな認知科学の研究をもとにあぶり出す。代表例が「説明深度の錯覚」に関する実験だ。トイレやファスナーなど日々目にする当たり前のモノについて、被験者に「その仕組みをどれだけ理解しているか」答えさせる。続いてそれが具体的にどのような仕組みで動くのか説明を求めると、たいていの人はほとんど何も語れない。知っていると思っていたが、実はそれほど知らなかった。著者らはこれを「知識の錯覚」と呼び、さまざまな心理現象のなかでこれほど出現率の高いものはない、という。
  • しかし、だから人間がダメだと言っているわけではない。私たちを取り巻く世界はあまりに複雑ですべてを理解することなどとてもできない。そこで人間の知性は、新たな状況下での意思決定に最も役立つ情報だけを抽出するように進化してきた。頭の中にはごくわずかな情報だけを保持して、必要に応じて他の場所、たとえば自らの身体、環境、とりわけ他の人々のなかに蓄えられた知識を頼る。このような、人間にとってコンピュータの外部記憶装置に相当するものを、著者らは「知識のコミュニティ」と呼ぶ。知識のコミュニティによる認知的分業は文明が誕生した当初から存在し、人類の進歩を支えてきた。
  • これが知識の錯覚の起源である。思考の性質として入手できる知識はそれが自らの脳の内側にあろうが外側にあろうが、シームレスに活用するようにできている。私たちが知識の錯覚のなかに生きているのは、自らの頭の内と外にある知識のあいだに明確な線引きができないためだ。できないというより、そもそも明確な境界線など存在しないのだ。
  • 知らないことを知っていると思い込むからこそ、私たちは世界の複雑さに圧倒されずに日常生活を送ることができる。そして互いの専門知識を組み合わせることで、人間は原子爆弾やロケットのような複雑なものを作りあげてきた。人工知能
    (AI)の進歩によって人間を超える超絶知能(スーパーインテリジェンス)が誕生すると言われるが、著者らは真の超絶知能とは知識のコミュニティだと主張する。クラウドソーシングや協業プラットフォームなどテクノロジーの進化によって、今後その潜在力が発揮されるようになるだろう、と。
  • しかし知識のコミュニティは両刃の剣だ。本書の後半ではその危険性と、それを克服する道筋を考察している。トイレやファスナーの仕組みを理解していなくても、まず実害はない。しかし社会的、政治的問題となると話は違う。著者らは「社会の重要な課題の多くは、知識の錯覚から生じている」と指摘し、それを示す衝撃的な例をいくつか挙げている。
  • なぜ理解もしていない事柄に、明確な賛否を示すことができるのか。それは私たちが自分がどれだけ知っているかを把握しておらず、知識のよりどころとして知識のコミュニティに強く依存しているからだ。「コミュニティのメンバーはそれぞれあまり知識はないのに特定の立場をとり、互いにわかっているという感覚を助長する。(中略)こうして蜃気楼のような意見ができあがる。メンバーは互いに心理的に支え合うが、コミュニティ自体を支えるものは何もない」と著者らは指摘する。これは社会心理学者のアービング・ジャニスが「グループシンク(集団浅慮)」と呼んだ現象で、同じような考えを持つ人々が議論をすると、グループの意見は先鋭化することが示されている。
  • 知識の錯覚の特効薬はないが、一つの手段として著者らが期待を寄せるのは行動経済学である。2017年にシカゴ大学リチャード・セイラー教授がノーベル経済学賞を受賞したことで改めて注目が集まっているが、その特徴は伝統的な経済学とは異なり、「人間は必ずしも合理的判断をするわけではない」という前提に基づいていることだ。だから自然と合理的選択に誘導するように「ナッジ(そっと押す)」すべきであり、それには環境を選択的にデザインする必要があるという考え方をする。
  • 私たちは自分が思っているよりずっと無知である。合理的な個人という今日の民主政治や自由経済の土台となってきた概念自体が誤りであった。そんな身も蓋もない事実を突きつける本書ではあるが読後感は不思議と爽快である。それは本書終盤の、本当の「賢さ」とは何かという議論とかかわっている。これまでは個人の知能指数(IQ)によって賢さを測ろうとしてきた。しかし人間の知的営みが集団的なものなのであれば、「集団にどれだけ貢献できるか」を賢さの基準とすべきではないか、と著者らは言う。記憶容量の大きさや中央処理装置(CPU)の速度といった情報処理能力と並んで、他者の立場や感情的反応を理解する能力、効果的に役割を分担する能力、周囲の意見に耳を傾ける能力なども知能の重要な構成要素とみなすべきである、と。
  • 脳内CPUの性能には、生まれつき個人差があるのかもしれない。ただ私たちの知識のコミュニティが向き合うべき問題の複雑さに比べたら、個人のCPUの性能の違いなど誤差の範囲である。それ以上に重要なのは、身の回りの環境、とりわけ周囲の人々から真摯に学び、知識のコミュニティの恩恵を享受しつつ、そこに貢献しようとする姿勢である。それによって生まれつきのスペックにかかわらず、知性を磨きつづけることができる。

誰もが嘘をついている ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性

著者も述べているように、強化版『ヤバい経済学』だ。
  • たとえばセックスを例に考えてみよう。性生活についてのサーベイは当てにならない。私は総合的社会調査(GSS)を分析したことがある。これは米国人の行動をめぐる最も権威的で影響力のある調査の一つと考えられている。この調査によると、異性愛者の女性は、年間に平均して55回性交し、その16 %においてコンドームを使用している。となると、年間に消費されるコンドームは11億個になる。
    だが異性愛者の男性は、年間に16億個のコンドームを用いていると述べている。
    両数値は論理上、一致するはずである。では男性と女性のどちらが真実を述べているのか?
  • 実はいずれでもない。世界的に消費者行動を追跡している情報、調査会社ニールセンによれば、コンドームの年間販売数量は6億個に満たない。つまり男女とも嘘をついており、違いはその程度だけなのだ。実際、嘘だらけである。結婚歴のない男性は、年間に平均29個のコンドームを使っていると述べている。となると、累計では独身者はおろかすべての米国人男性が使用するコンドームの数を超えてしまう。 既婚者もやはり性交回数を過剰に申告しているようだ。65歳未満の既婚男性は、平均して週に1度性交していると回答している。
  • ビッグデータ分析を相手にしない懐疑派も多い。「ビッグデータに情報など
    ないとは言わない」と著述家で統計学者のナシーム・タレブは記している。「確かに情報は含まれているだろう。問題の核心は、どんどん大きくなる干し草の山から針を探し出すのが困難であることだ」

 

  • ポーンハブ上における男性による検索上位100フレーズのうち16は近親相姦絡みだった。生々しくなるが、「兄と妹」とか「継母が息子とやる」とか「母と子」とか「母が息子とやる」とか「本物の兄妹」などだ。男性ユーザーによる近親相姦フレーズ検索の過半数は母と息子の絡みのある動画を探すものだった。利用者が女性の場合、ポーンハブ上での検索上位100のうち近親相姦に関わるものは9つで、それらは男性の場合と同様の傾向にあったが、親と子供の性別がたいてい逆になっていた。つまり女性による近親相姦動画の検索の過半数は、父親と娘をめぐるものなのだ。

 

  • わかったのは、豊かな地域に生まれたほうがNBA入りするチャンスがはるかに高いというものだった。たとえば最富裕地域に生まれた黒人の子供は、最貧地域に生まれた黒人の子供よりも、2倍もNBA入りする可能性が高い。白人の子供の場合、最富裕地域の子は最貧地域の子より1.6倍有利だ。
  • この結果は、一般通念に反して、現実にはNBAでは貧困層出身者は少数派ということを示している。だがこのデータは完璧ではない。なぜなら、たとえば米国で最も豊かな郡であるニューヨーク郡(マンハッタン)はハーレムのような貧困地域も含んでいるからだ。だから困難な成育歴を持つ人こそNBA入りするという仮説にもまだ成立する余地がある。検証するには、これではデータや手がかりが足りない。
  • そこでNBA選手の家族構成を、報道やソーシャル・ネットワーク類から調べてみた。この調査は非常に手間がかかるので、対象を1980年代に最も多くの得点をあげたトップ100人の黒人NBA選手に限った。するとNBAの優秀な黒人選手がシングルマザーの家庭で育った率は、米国黒人の平均よりも30%少なかった。つまりトップ黒人NBA選手の出身家庭環境を調べた限り、恵まれた環境であることは成功の強い追い風であることがわかる。
  • とはいうものの、郡ごとの出生率も一部選手に限った背景調査も、全NBA選手の幼少時代を知るうえでは完璧なデータとはいえない。だから両親揃った中流家庭出身であることが、貧困家庭のシングルマザー育ちであることに比べてNBAのスターになりやすい条件であるとは、まだ言い切れない。
  • そこで私は、ある人物の出自についてより強力な手がかりとなるかもしれない研究を思い出した。それはローランド・フライアとスティーヴン・レヴィットのエコノミストコンビによる共同研究で示されたもので、黒人のファーストネームは社会経済学的出自の手がかりになる、というものだ。この研究では、1980年代のカリフォルニアの出生証明を調べて、アフリカ系アメリカ人の貧しく低学歴なシングルマザーは、中流で高学歴で結婚している母親とは違うタイプの名前を子供に授けていることがわかったのだ。
  • その研究によると、裕福な出自を持つ子供たちは、ケヴィン、クリス、ジョンなどの一般的な名前であることが多い。一方、困難な家庭出身の子供たちは、シーショーン、ウニーク、ブレオ、ンシャイなどの独特な名前だった。貧困家庭に生まれたアフリカ系アメリカ人の子供が、同年に生まれた子供の中で唯一無二の名前を持つ率は中流以上の家庭の子の2倍に達していた。では黒人のNBA選手の名についてはどうか?中流風の名か、それとも貧困黒人風か?この研究と同じ期間で見ると、カリフォルニア生まれのNBA選手が平均的な黒人に比べて独特の名前を持っている率は半分程度だった。これは統計学的には有意な差だ。
  • さて、3種類の証拠がそろった。郡別生誕地、トップ選手の母親の婚姻状況、そして選手たちの名前だ。どの情報源も完璧ではない。だがいずれとも、同じ物語を裏付けている。社会経済学的背景が良いほど、NBA選手として成功しやすいのだ。つまり一般通念は偽である。
  • 1980年代生まれのすべてのアフリカ系アメリカ人のおよそ60 %は、未婚の親から生まれている。だがこの10年間のアフリカ系アメリカ人のうちNBA選手になった者の大半は、結婚している親から生まれていると私は推測する。要するにNBAは、レブロン・ジェームズのような背景の男たちが多勢を占める世界ではないのだ。むしろテキサスの両親のもとで電子機器に夢中だったクリス・ポッシュや、ノースカロライナ州ルイヴィルの中流家庭の次男だったクリス・ポール(彼の両親は2011年に息子と一緒にクイズ番組に出演している)のような者のほうが多いのだ。
  • インフルエンザや住宅価格に対するのと同じように、失業率の趨勢を知るためにグーグル検索を活用できるのだろうか?人々の検索内容から、どれだけの人々が失業しているかを、政府統計のまとめよりもはるかに早く知ることができるのか?
  • 私は2004年から2011年までの米国失業率をグーグル・コリレイトに入力してみた。その間に行われた兆単位の検索の中で、最も失業と相関性の高かった検索語句は何だっただろう?「職業斡旋所」などの類と思う人が多いのではないか。それらの検索は多いがトップではなかった。では「新しい仕事」かって?それも上位だがトップではない。
  • 私が調べた期間で最も多かった検索ワードはーそしてこうした単語は移り変わるのだが「スラットロード(Slutload)」だった。そう、最も検索された語句は有名ポルノサイトの名前だったのだ。意外かもしれないが、失業者はおそらく暇を持て余している。多くは家に閉じこもり、一人で退屈しているのだ。他に失業率と相関性が高かった検索語句は「スパイダーソリティア」だった。これも暇つぶしを求めている人を思えば不思議ではない。
  • これほど難しい状況で、馬主はどうやって稼げる1頭を選べるのか?伝統的に馬の成功を予測する最善の方法は、血統を調べることとされてきた。馬の専門家になるとは、ある馬について聞かれたことは何でも立て板に水で語れることを意味する。父親、母親、祖父母、兄弟や姉妹はどの馬なのか……。たとえば母親方に大型の馬が連なる大きな馬を見たエージェントは、「血筋にそう体格だ」という。
  • だがこのやり方には一つ問題がある。血統は重要だが、それでも競走馬の成功の説明の一端にしかならないのだ。競馬界で最高の栄誉とされる「年度代表馬」を勝ち取った馬の血筋を引く競走馬を総覧してみるといい。こうした子孫は世界最良の血を引くものばかりだ。それでもその4分の3以上が、メジャーレースで一度も勝てないのである。データによれば、勝ち馬を予測する伝統的な方法には改良の余地がたっぷりとある。

 

  • セダーの孤軍奮闘は長らく続いた。馬の鼻孔の長さを測り、世界初かつ最大の馬の鼻孔サイズと後の獲得賞金のデータベースを完成させた。だが鼻孔のサイズは成績に関係していなかった。馬の心電図データも取り、死んだ馬を解剖して脚の速攣縮(全力疾走に使う速筋)(そくれんしゅく)の量も測定した。あるときには厩舎から糞を掻き出して量を測りさえした。レース前に体重を落とし過ぎるとスピードが落ちるのではないかという仮説を検証するためだった。いずれも戦績には関わっていなかった。
  • そして12年前、ついに突破口が開いた。内臓の大きさを測定することにしたのだ。既存の技術では不可能なことだったので、携帯式の超音波測定装置を自作した。成果は目覚ましかった。心臓とりわけ左心室の大きさが馬の戦績を最も左右する変数であることを突き止めたのだ。他に脾臓も大切だった。脾臓が小さい馬はろくに賞金を稼げなかった。
  • セダーは他にもいくつか発見をした。膨大な数のギャロッピング動画をデジタル化して、ある種の足並みが戦績に関わっていることを見出した。
  • また2歳馬の中には、最初の200mほどを走ったところで息を切らすものがいることに気づいた。そうした馬が100万ドル単位で取引されることもあるが、セダーのデータはそんな馬が金の生る木になることは決してないことを示していた。そのためアシスタントを決勝線そばに陣取らせて息を切らしている馬を候補から除外させた。

 

  • たとえばウォルマートは全店でのデーータを用いて棚に並べる商品を決めている。2004年に南東部にひどい被害をもたらしたハリケーン・フランシスの到来直前、彼らは嵐に見舞われる直前の購買行動は変わるのではと賢明な予測を立て、過去のハリケーン到来時の購買データを調べた。売り上げが大きく伸びていたものは何かって?ストロベリー・ポップ・タルト(タルト生地にジャム様の具を挟んだケロッグの加工食品)だった。ハリケーン到来直前、この商品は普段の7倍も売れていた。
  • この分析に基づいて、ウォルマートはストロベリー・ポップ・タルトを満載したトラックをハリケーンの予想進路である州間高速95号沿いの店舗に差し向けた。そして実際、この商品はよく売れた。どうしてポップ・タルトかって?おそらく冷蔵庫もレンジも要らないからだろう。どうしてストロベリーなのかって?さあ、わからない。だがハリケーンが来ると、人々はどうやらストロベリー・ポップ・タルトに手を伸ばすようなのだ。だからウォルマートでは、いまではハリケーンが来るとこれを店に大量在庫することを習いにしている。理由はどうでもいいのだ。大切なことは相関性そのものだ。

 

  • 「大気圏外から経済成長を測定する」ーそんな大胆不敵な題名の学術論文がある。J・パーノン・ヘンダーソン、アダム・ストーレイガード、デイヴィット・N・ウェイルは、多くの発展途上国では既存の国内総生産(GDP)の測定法に欠陥があると気づいた。これは経済活動の大半が地下に潜り把握されていないためだ。政府機関にも経済生産を測定する術がない。
  • そこで彼らは、型破りな方法を考えた。夜中にどれだけの明かりがついているかでGDPを測定しようとしたのだ。そしてこの情報を、1日に14回地球を周回する米国空軍の衛星からの写真で得ることを思いついた。
  • 夜間の明かりがどうしてGDPの良き指標になるのかって?非常に貧しい地域では、電気代の支払いにさえ事欠く。だから経済状態の悪い地域では、夜間の電灯使用が激減する。アジア金融危機に直撃された1998年のインドネシアでは、夜間の電灯使用が急減した。韓国では1992年から2008年にかけて、この間の目覚ましい経済発展と歩調を合わせて、夜間の電灯利用が72 %も増えた。同時期に北朝鮮では、その間の経済不振を反映して電灯使用はむしろ減っている。

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  • グーグル検索からは、こうしたセックスレスについて意外なこともわかる。彼女がセックスに応じてくれないという文句より、彼氏が応じてくれないという文句のほうが、2倍も多いのだ。彼氏についての文句検索のダントツの1位は「彼氏がセックスしてくれない」である(この検索はユーザーの性別まで分析していないが、既述の分析から95 %の男性は異性愛者なので、男性による「彼氏」についての検索はあまり多くないと推測できる)。
  • これをどう解釈すべきか?実際に彼女よりも彼氏のほうがセックスを拒むことが多いのか?そうとは限らない。前述のとおり、グーグル検索は人が腹立ちまぎれに行いがちだ。男は妻や彼女がセックスに応じてくれないときに友人にこぼしやすいが、代わりにグーグルにこぼしている)のかもしれない。だからグーグルのデータだけでは女性より男性のほうがパートナーのセックスの求めを拒むことが2倍も多いとはいえないとしても、彼氏が応じてくれないことが女性にとって捨て置けないほど多いことはわかる。

  • 女性は相手のペニスのサイズを気にしているだろうか?グーグル検索によれば、めったに気にしない。女性がペニスのサイズについて検索する頻度は、男が自分のそれについて検索する場合の170分の1である。そんな稀な機会は確かにサイズに関わる検索だが、必ずしも小さいことについてではない。その40 %は大きすぎることへの不満だ。「セックス中の……」に伴う検索語のトップは「痛み」である(出血、おしっこ、声が出る、おならなどで上位5位を構成する)。だが男性によるペニスの大きさ関連の検索のうち縮小術の検索は、わずか1%に過ぎない。
  • 男性の性関連検索で2番目に多いのは、どうやって交接時間を延ばすかである。
    これまた男女の不安は合致していない。女性は、彼氏をどうやってもっと早くイカせるかと、もっと長く保たせるかを、同程度に検索している。女性が彼氏のオーガズム関係で抱く最大の心配事は、イかせるまでの時間ではなく、どうしてイかずじまいなのかである。
  • 男の身体については普段あまり話題にならない。そして確かに容姿を気にするのは主に女性だが、その偏りは思ったほどでもない。人々がどんなウェブサイトを見ているかを計測できるグーグル·アドワーズを分析したところ、美容関連の42 %、減量関連の33 %、美容整形関連の39 %は男性が検索していた。胸に関する「ハウ・ツー」関連検索の20 %はどうやって男の胸を小さくするかについてのものだった。
  • 男が自らの容姿に対して抱えている不安は案外大きいとはいえ、やはりこの点では女性のほうが悩みは深い。デジタル自白薬で真相に迫ってみよう。米国では豊胸手術についての検索が年に700万件以上に上る。公式統計によれば、年に30万人が実際に手術を受けている。

 

  • 男女のどちらが多く異性に対するオーラル・セックス技術を検索しているのか?どちらがより奉仕しているのか?どちらが性的にサービス精神が豊かか?女性である。私の苦心の推計によれば、女性はオーラル・セックスのテクニックについて男より2倍も多く調べている。そして男がオーラル・セックスについて調べるときには、それはえてして相手をどうやって悦ばせてやるかではない。男は女性をイかせる方法と同じほど自分にフェラする方法を調べている(これはグーグル検索データをめぐる私が最も好きな事実だ)。

 

  • グレート・リセッション当時の児童虐待を考えてみよう。
  • 2007年後半にこの大規模景気後退が始まったとき、多くの専門家は当然ながら子供への影響を憂慮した。何しろ多くの親たちに重圧と失意がのしかかったことは、虐待の主要リスク要因となるからだ。児童虐待は急増しそうだった。だが公式データが発表されてみると、それも取り越し苦労のようだった。虐待保護件数はかえって減っていた。さらにこの減少幅は、景気後退に最も手ひどく見舞われた州ほど大きかった。「案ずるには及びませんでした」とペンシルベニア大学の児童福祉の専門家リチャード・ゲレスは2011年にAP通信に語っている。意外かもしれないが、児童虐待は景気後退中に減ったようであったのだ。
  • だが多くの成人が失業に苦しんでいるときに児童虐待が本当に減るのか?私にはにわかに信じられなかった。だからグーグル検索データを 調べることにした。すると子供たちが悲痛な検索ー「ママがぼくをぶつ」、「パパに殴られた」ーをしていたことがわかった。そしてこの検索データは公式統計とは異なる悲惨な実相を浮き彫りにしていた。こうした検索はグレート・リセッションの間に跳ね上がり、失業率データとぴったり一致していたのだ。
  • 思うに児童虐待が減ったのではなく、その報告数が減っただけなのだろう。当局に報告される児童虐待数は氷山の一角と推計されている。そして景気後退期には、児童虐待を報告することが多い人々(教師や警官など)や事例を扱う人々(児童保護当局者など)は手いっぱいだったか失業していた可能性が高い。当時、虐待が疑われる事例を報告しようとしたが、さんざん待たされて結局あきらめたと話は枚挙にいとまがない。

 

  • フェイスブックはデジタル自白剤ではなく、「自分はこんなにいい暮らしをしていると友人にデジタル自慢させる薬」なのだ。フェイスブック上では、平均的なユーザーは幸せな結婚生活を送り、カリブ海に休暇旅行に出かけ、『アトランティック』の記事を追いかけている。現実には多くの人々はいらいらとスーパーのレジ前に並びながら「ナショナル・インクワイアラー(低俗雑誌)』を横目で立ち読みしつつ、もう何年も一緒に寝ていない伴侶からの電話を無視している。フェイスブック上では、家族生活は完璧に見える。現実には悲惨なもので、そのあまり子供を持ったことを後悔する人もいるくらいだ。フェイスブック上では、
    あたかもすべてのヤングアダルトが週末にはいかしたパーティーで楽しんでいるかのようだ。実際には彼らの多くは自宅に引きこもり、ネットフリックスばかり見ている。フェイスブック上では、彼女は彼氏との息抜き旅行での26枚の幸せな写真を投稿する。現実には、この写真を投稿するや否や、彼女は「彼氏がセックスしてくれない」とググる。そして彼氏はおそらくそのとき「グレート・ボディ、グレート・ブロウジョブ(人気のポルノ動画)」を見ているのだ。

  • ネットフリックスも似た教訓を早期に学んだ。人の 言葉を信じるな、かつて同社のサイトでは、ユーザーが今は時間がないがいずれ見たい映画のリストを登録できた。こうすれば、時間ができたときにリマインド通知してやれるからだ。だがデータは意外だった。ユーザーは山ほどこのリストを登録したのに、後日それをリマインドしてもクリック率がほとんど上がらなかったのだ。
  • ユーザーに数日後に見たい映画を登録させると、第二次世界大戦時の白黒の記録映画や堅い内容の外国映画など高尚で向学心あふれる映画がリスト入りする。だが数日後に彼らが実際に見たがるのは、ふだん通り、卑近なコメディや恋愛映画などである。人は常に自分に嘘をついているのだ。
  • この乖離に気づいたネットフリックスは見たい映画登録をやめ、似たような好みのユーザーが実際に見た映画に基づいた推奨モデルを作り出した。ユーザーに、彼らが好きと称する映画ではなく、データから彼らが見たがりそうな映画を提案するようにしたのだ。その結果、サイトへのアクセス数も視聴映画数も伸びた。ネットフリックスのデータサイエンティストだったサピエ・アマトリエインは、「アルゴリズムは本人よりもよくその人をわかっているんだ」と語った。

 

  • 妻たちによる代表的な夫の評価
  • SNSへの投稿:「最高」「親友」「驚異的」「誰よりすごい」「超かわいい」
  • 夫に関する検索語:「ゲイ」「嫌なやつ」「驚異的」「うんざり」「いやらしい」
  • 私たちは人のSNS投稿は目にするが検索しているところは見ないので、夫を「最高」、「誰よりすごい」、「超かわいい」と評する妻たちの数をいつも過大評価している。一方で夫を「嫌なやつ」、「いやらしい」、「うんざり」と検索している妻たちの数は過小評価している。匿名のデータ集合全体を分析することで、結婚生活や人生に困難を覚えているのは自分だけではないと得心がいくかもしれない。そして自分の検索内容と他人のSNS投稿を比べる愚かしさに気づけるかも
    しれない。

 

  • ウィンストン・チャーチル「30歳未満でリベラルではない人物は冷血だ。そして30歳を過ぎて保守ではない者にはおツムがない」
  • 政治的意見もスポーツチームの贔屓も、それが決まる過程はさほど変わらないことだった。人間には障害の刷り込みになる重要な時期があるのだ。多くの米国人は14歳から24歳という重要な時期に、その時の大統領の人気に従って意見を形成する。
  • ビッグデータなら有意義な下位集団に絞り込んでで人の性質について新たな洞察が得られる。
  • ビッグデータは、データ量が多いだけで従前のサーベイと同じことをするためのものであってはならない」とチェッティは説明する。彼らは手にした膨大なデータに対し、それに含まれる部分データをほとんど分析していなかった。「ビッグデータサーベイとはまったく違う分析設計ができるものであるべきです」とチェッティは言う。「たとえば地域に絞り込むなどです」言い換えると、数億規模のデータを手にしたことで、彼らは大小の自治体ごとのパターンを調べられるようになったのだ。

 

  • どうして一部の地域は、米国の重要人物を並外れて輩出しているのか?私はトップ輩出郡を調べてみた。するとそのほぼすべてが、次の2つのカテゴリーのいずれかに属することがわかった。
  • 第1に、これは私にとって意外だったのだが、その多くは大きな大学町を擁していた。たとえばミシガン州ウォシュテナウ郡のように、聞き覚えのない郡名をトップリストに見る都度、それは有名な大学町(この場合はアナーバー。ミシガン大学アナーバー校で有名)を擁する郡だった。他にもウィスコンシン州マディソン (ウィスコンシン大学マディソン校など)、ジョージア州アセンズ(ジョージア大など)、ミズーリ州コロンビア(ミズーリ大学コロンビア校など)、カリフォルニア州バークリー(UCバークリーなど)、ノースカロライナ州チャペルヒル(ノースカ口ライナ大学チャペルヒル校など)、フロリダ州ゲインズビル (フロリダ大学など)、ケンタッキー州レキシントン(ケンタッキー大など)、ニューヨーク州イサカ(コーネル大学など)の大学町を擁する郡はすべてトップ3%以内だ。
  • なぜか?やはり良質な遺伝子が集まるからかもしれない。教授や大学院生の子弟はえてして優秀だ(大きな成功をつかむうえで重要な特質だ)。そして大卒者が地域に多いことは、そこに生まれた人々の成功の予測変数である。
  • だがおそらく、それ以上の理由もあるのだろう。早期にイノベーションに接するためだ。大学町が優秀な人物を輩出することの多い分野は音楽だ。大学町の子どもたちは珍しいコンサート、個性的なラジオ局、独立系レコード店などに接する可能性が高い。そしてこれは芸術に限ったことではない。実業人を輩出するという点でも、大学町は率が高い。またもやアイデアや芸術の最先端に早くから接することが効くのかもしれない。
  • 出身者を成功させやすくする2番目の理由と推測されるのは、大都市を含む郡であるということだ。サンフランシスコ郡、ロサンゼルス郡、ニューヨーク市生まれだと、いずれもウィキペィア入りする率が最高水準になる。
  • 都市部は成功モデルを提示しやすい。若いうちになにかの世界の成功者に接する価値を考える上で、・・・ニューヨーク市出身者はジャーナリストとして成功する率が最も高く、同じくボストンの場合は科学者、ロサンゼルスの場合は著名俳優になる率が最も高い。これはそこで生まれた人の話であり、そこに引越した人の話ではないことに留意してほしい。そしてこの傾向は、それぞれの分野の著名人の指定を除いても、なお変わらないのである。郊外部は、有名な大学町でも含まない限り、都市部に比べて遥かに有名人の輩出率が低い。
  • ウィキペディア入りする確率を示すもう一つの強力な予測変数が浮かび上がった。生誕地の移民人口比率である。地域の外国生まれの人口比率が高い場所ほど、著名人になる確率が高まるのだ(見たか、ドナルド・トランプ!)。都市化の程度や大学所在地という点で似通った2つの街なら、移民が多いほうが著名人を生みやすい。なぜか?何よりも、移民の子であることと直接的に関係していそうだ。やはりウィキペディアをデータとするマサチューセッツ工科大のパンセオン・プロジェクトによる「最も有名な白人ベビーブーマー100人」の出自を、私は詳細に研究した とがある。彼らの大半はエンターテイナーだった。100人のうち少なくとも13人が外国生まれの母親を持ち(それには映画監督オリバー・ストーン、女優のサンドラ・ブロックジュリアン・ムーアなどが含まれている)、この比率は、
    同世代の全米平均の3倍以上も高いものだった(多くの人はスティーブ・ジョブズや俳優ジョン・ベルーシのように移民の父親を持っていたが、このデータは全米平均と比較することが難しかった。父親の出自は出生証明書に含まれないためである)。
  • では成功に影響しない変数とは何か?私が発見した中で少なからず意外だったのは、州がどれだけ教育費を支出しているかだった。
  • チェッティらの研究によると、ニューヨーク市は子供に中の上の暮らしを送れるようにしてやりたいと願う親にとって、特に良い子育ての場所ではない。だが私の研究によると、著名人にしてやりたいなら格好の場所である。
  • 成功を促す要因に目を向けると、郡ごとの大きな違いは腑に落ちる。成功の主成分をすべて持っている郡はたくさんある。ボストンに立ち戻ってみよう。山ほど大学を擁するこの街は、革新的な考えに満ちている。若者の手本になる成功者も多い都会でもある。そして大勢の移民を引きつけ、その子弟はこれらの恩恵を受けようとする。
  • だがボストンにこうした特質がなかったとしたら?もっと少ないスーパースターしか生み出せない運命だったか?そうとも限らない。他にも特質があるからだ。それは高度な専門化である。・・・・ミネソタ州ロゾー郡は小さな農村部で外国人もほとんどおらず有名大学もないが、この好例である。この郡に生まれた人のざっと740人に1人がウィキペディア入りしているのだ。その秘密はって?ウィキペディア入りした9人全員がプロのアイスホッケー選手としてであり、それがこの群のユースや高校生を対象にした第一級のホッケー教育のおかげであることには疑問の余地がない。
 
  • 人気のある暴力映画が公開された週末には、実際には犯罪は減っていた。そう、人気のある暴力映画が公開され、無数の米国人が残虐な犯罪シーンを目にしている週末には、犯罪は大きく減っていたのだ。
  • この意外かつ不可思議な結果に接した第一印象は、研究に不備があったのではというものだろう。だが分析過程を見直しても何の問題もなかった。次に思い浮かぶ理由は、別の変数がこうした結果をもたらしたのではというものだろう。そこで彼らは、季節との関係を検証してみた。無関係だった。天気が怪しいとも思ったが、これも関係なし。
  • 「あらゆる仮説を検証し、分析過程を振り返りました」とダールは私に語った。
    「でも何もおかしなことは見つかりませんでした」
  • 逸話や実験室での研究とは裏腹に、そして奇妙に思えるにもかかわらず、暴力的な映画を見ることは犯罪を大幅に減らしていたのだ。一体どうしてこんなことが起き得るのか?
  • その謎を解くカギは、ビッグデータを使って絞り込んでみることだった。データは伝統的に年次ベースであり、細かくてせいぜい月次ベースだ。週末ごとのデータが得られれば僥倖というもの。だが小規模なサーベイ・データの代わりに包括的なデータセットの使用が増えるにつれて、時間ごとや分ごとの絞り込みさえ可能になっている。そのためいまや人間行動をさらに詳しく研究できるのだ。
  • 総じて男たちは、映画館には丸腰でおとなしく映画を見に行くものだ。若く攻撃的な男たちは『ハンニバル』が公開されると足を運ぶ。一方、彼らは『プリティ・プライド』が公開された週末には映画館ではなく、バーやクラブやビリヤード場など暴力犯罪の発生率が高い場所に行く。暴力的な映画は、潜在的に暴力的な人々を、路上から遠ざけるのだ。
  • これにて一件落着・・・でもない。データにはもう一つ不思議な点があった。犯罪率低下は上映時間と共に始まるが、上映が終了して映画館が閉館した後にも続くのだ。暴力的な映画の公開中、犯罪はとっぷり夜が更けるまで、それどころか真夜中から朝方の6時頃まで減ったままなのだ。若い男どもが映画館の座席に縛りつけられている間に犯罪率が減るのはともかく、それなら終映後には犯罪率が上がりそうなものではないか?従前の研究では、暴力的な映画を見た被験者はより怒りをたぎらせ攻撃的になるのではなかったか。映画が終わった後も犯罪率が低下したままである理由は何か?犯罪学専門家である共同研究者らはじっくりと考えたあげく、またもや閃いた。彼らはアルコールが犯罪の主な誘因であるこ
    とを知っていた。そして米国では、ほぼどこの映画館でもアルコールを提供していないことも知っていた。実際、アルコール絡みの犯罪が暴力映画公開週末の深夜に激減することも確認された。
  • もちろん彼らの研究結果には限界もある。たとえばより長期的な影響の継続効果を調べることはできない。その影響がいつまで残るのかは、わからないのだ。
    そして継続的に暴力映画を見ていれば、いつかは暴力増加につながる可能性もある。だが彼らの共同研究は、暴力映画の直接的影響(それを探ることが調査の目的だった)の全体像を示している。おそらく暴力的な映画は一部の人に影響を及ぼし彼らの怒りを強く掻き立てて攻撃的にするのだろう。しかし、人を確実に
    暴力的な方向へと推し進めるものは、暴力的な人間とつるみ、飲むことである。
  • 一見、悪いと思われることも、もしそれがさらに悪いことを防ぐ理由になるのならましという考え
 
  • 指導者の命を狙う試みや、その成否を分けた偶然は世の常だ。チェチェン共和国アフマド・カディロフアドルフ・ヒトラーを比べてみよう 。両者とも、至近距離に爆弾を仕掛けられた。カディロフは死に、ヒトラーは直前の予定変更のため数分の差で難を逃れて列車に乗った。そして私たちは、ケネディを殺害しレーガンを生かした自然のランダム性を用いて、一国の指導者が殺されたとき、平均的に何が起きるかを知ることができる。ベンジャミン・F・ジョーンズとベンジャミン・A・オルケンのエコノミストコンビは、それをやった。彼らの研究では、統
    制群は暗殺未遂後の数年間の国、たとえば1980年代半ばの米国、実験群は暗殺完遂後の数年間の国、たとえば1960年代半ばの米国だ。
  • DO LEADERS MATTER? NATIONAL LEADERSHIP AND GROWTH SINCE WORLD WAR II: https://economics.mit.edu/files/2915
  • では指導者を殺された直後の影響とはどんなものか?ジョーンズとオルケンは、
    暗殺が起こると、世界の歴史が大きく変わることを発見した。そうした国は、
    劇的なほど異なる道を歩むようになるのだ。後継指導者はそれまで平和的だった国を戦争に導いたり、それまで戦争していた国に和平をもたらしたりしていた。また経済が活況だった国を破綻させたり、経済的破綻国家に繁栄をもたらしたりもしていた。
  • 実際、暗殺をきっかけとしたこの自然実験は、国政をめぐる数十年来の一般通念を転覆した。それまで多くのエコノミストは、政治指導者などおおむね政局に翻弄される無能なお飾りという見方に傾倒していた。
 
  • その結果の衝撃は、彼らの論文の題名ー『エリート幻想』ーが雄弁に物語っている。スタイ(ベサント)高(校)入りした影響?まったくのゼロだった。合否線のわずかな上下に位置した人々は、同等のAP成績やSAT得点を上げて同等の大学に進学していた。スタイ校出身者が他の高校の出身者よりも栄達する理由はただ一つ、もともと優秀な人間を採っているから、というのが研究の結論だった。同校の学生がAPやSATの成績が良いにしても、果てはより良い大学に進学しても、それはスタイ校での教育を原因とする結果ではない。「激烈な入試は、生徒層全般の高い学習効果の説明にはならない」と論文は記している。
  • ステイシー・デールとアラン・B・クルーガーのエコノミストコンビは、一流大学の卒業生の将来の収入の因果関係を調べる妙手を考案した。使ったのは、高校生のその後について記録した膨大なデータセットだ。そこにはどこの大学に出願し、どこに合格し、どこに進学したかや、出身家庭、成人後の収入などのデータが含まれていた。
  • 標本を実験群と統制群に分けるため、彼らは同等の家庭の出身者で、同じ大学に合格しながら、別の大学に進学した学生たちに注目した。ハーバードに合格しながらペンシルベニア州立大学に進学した学生たちもいるのである。恋人の近くにいたかったのかもしれないし、習いたい教授がいたからかもしれない。こうした学生たちは、大学の合否裁定委員会に言わせればハーバードへの進学者と同等の才能を持ちながら、彼らとは別の教育体験をした学生たちである。
  • ではこの2つの集団ーいずれもハーバードに合格したが片やペンシルベニア州立大学を選んだーのその後はどうなったか?結論はスタイベサント高校の研究に負けず劣らず衝撃的だった。両集団とも、職業生活を通じておおむね同じ収入を得ていたのだ。将来の収入を基準とするなら、同様な一流大学に合格しながら別の学校に入学した学生たちは、結局同じ職場に行きついていたのである。
次元の呪い
  • 次元の呪い
    証券市場を予想する戦術を、ラッキーコイン探しだと考えてみよう。ただしそれを見つけるためには、次のような厳密な試験が必要だとする。まず1000枚のコインに1から1000まで番号をつける。あなたは2年間毎朝、それをすべてトスして表が出たか裏が出たかを記録し、合わせてその日のスタンダード&プアーズ(S&P)平均が上げたか下げたかも記録する。そしてその全データをじっくりと研究する。そしてついに気がつく。コイン391番が表だと、S&P平均が上げる確率は70.3%だ!この関係は統計学的には完全に有効だ。ラッキーコインを見つけたのだ!毎朝、コイン391をトスして表になるたびに株を買えば、もう安物のTシャツを着てインスタント・ラーメンをすする暮らしともおさらばだ!
  • ・・・などと結論づけるなら、あなたも悪魔のような「次元の呪い」の犠牲者の1人となる。この呪いは、多くの変数(次元) ーこの場合は1000枚のコインーを、それより少ない観察ーこの場合は2年間で延べ504日の場の引け値ーで調べようとすると必ず降りかかる。変数の1つーコイン391番ーが上げ相場を予告できると解釈しやすくなるのだ。だが変数を減らすと、たとえばコインの枚数を100枚に減らすとーある1枚のコインの裏表が上げ市況に一致する確率は大幅に下がる。観察の回数を増やすとーたとえばS&P平均の結果を20年にわたって記録するならーコインの予測力はついていけなくなる。
  • 次元の呪いはビッグデータにとって大問題だ。なぜなら、新たなデータセットはえてして旧来のデータ源に比べて、全検索語やツイートの全カテゴリーなど、指数関数的に多くの変数を伴うからだ。何らかのビッグデータによって市場予測ができると言ってている人々は、この呪いにかかっているだけである。彼らがやっていることは、391番のコイン探しに過ぎない。
  • こんな例がある。インディアナ大学マンチェスター大学のコンピュータ・サイエンティストらは、市況の上げ下げを人々のツイート内容から予測しようとした。そこで彼らは、ツイートの内容に基づいてその日の世間の感情動向を分析するアルゴリズムを書いた。第3章で扱った感情分析に似た手法を用いたわけである。だが彼らが抽出したのは1つの感情ではなく幸福、怒り、親切など数多くの感情だった。その結果、冷静さを示唆するツイート、たとえは「今日は冷静な気分」というツイートが優勢である場合、その6日後にダウ平均が上がりやすいと見出した。そしてあるヘッジファンドがこの研究結果に賭けた。
  • どこが問題なのか?
  • 根本的な問題は、彼らがあまりにも多くのことを調べていることだ。そして一定量以上のことを試験すると、まったくの偶発性によって、そのうち1つが統計学的に有意性があるとされるのだ。彼らはさまざまな感情を試験した。さらに証券市況の変化に先立つこと1日前、2日前、3日前・・・と7日前まで調べた。そしてこれらの変数すべてを、わずか数カ月分のダウ平均の上げ下げに適用して分析した。場立ち6日前の冷静さは、証券市場を予言しない。先の例のコイン391番のビッグデータ版である。ツイートに基づいたヘッジファンドは、運用成績の不振のため開設後1カ月で閉鎖された。
天才の遺伝子を探す試み
  • 次元の呪いの犠牲となったのは、市況をツイートに基づいて予言しようとするヘッジファンドだけではなかった。我々を我々足らしめている遺伝的鍵を見つけようとする無数の科学者もまたそうだ。
  • ヒューマン・ゲノム・プロジェクトのおかげで、いまやヒトの完全なDNAを分析することができるようになった。このプロジェクトの可能性は膨大に思われた。
  • 統合失調症の原因となる遺伝子も見つかるのではないか、アルツハイマーパーキンソン病やALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症させる遺伝子も解明できるだろう、ひょっとすると知性の元になる遺伝子だって見つけられるかもしれない......。IQを大幅に改善できる遺伝子があるのだろうか?天才を生む唯一の遺伝子が?
  • 1998年、著名な行動遺伝学者ロバート・プローミンが、その答えを見つけたと発表した。彼は数百人規模の学生のIQとDNAのデータを手に入れ、IQ160以上の「天才」学生のDNAと平均的な10の学生のそれを対照した。
  • すると2つの集団のDNAには顕著な違いがあった。場所は染色体番号6の片隅、謎めいているが強力な遺伝子で、脳の代謝に関わっている。この遺伝子の変異体の一つ1GF2rは、「天才」集団のほうが2倍もよく見られた。
  • ニューヨーク・タイムズ』は「高い知性に関わる遺伝子の初報告」と見出しを掲げた。プローミンの発見はさまざまな倫理的問題を巻き起こすのではないかと思った読者もおられるかもしれない。親は子供の1GF2r検査を許されるべきか?
    もし胎児が低IQを示唆する遺伝的特徴を示したら堕胎が許されるべきか?高いIQを与えるために、人に遺伝子改良を施すことは許されるべきか?IGF2rは人種によって保有率が違うのか?それを本当に調べるべきか?IQ関連の遺伝子研究は続けられるべきか?
  • 生命倫理学がこれらの厄介な問題のいずれに取り組むよりも先に、プローミン自身も含めて、遺伝学にとってより基本的な問題があった。この研究報告は確かなのか、である。本当にIGF2rは高IQを予言できるのか?天才は本当にこの遺伝子の変異体を持つことが常人の倍も多いのか?
  • 答えはノーである。当初の研究の数年後、プローミンは別の標本集団のIQとDNAデータを手に入れて追試をした。このたびはIGF2rと知性の間に相関性は見られなかった。プローミンは、善良な科学者の範を示して、先の自説を撤回した。
  • 実際この経緯は、遺伝学とIQをめぐる研究の一般的なパターンである。まずIQに関わる遺伝子変異を見つけたと言い出す研究者が現れる。そして新たなデータを手に入れると、先の主張は誤りだったと悟るのだ。
  • クリストファー・チャブリス率いる研究者チームによる最近の研究では、IQに関わる遺伝子変異についての12の有名な科学的発表を、1万人ものデータをもとに検証した。その結果、12の先行研究が報告した相関性のどれ一つとして再現できなかった。
  • これらの主張はどこがいけないのか?次元の呪いである。いまや科学界でははっきりしていることだが、人間のゲノムには数百万通りもの違いがある。ごく単純に言えば、数が多すぎて試験しきれないのだ。
  • 山ほど多くのツイートを調べて証券市場の上げ下げとの関連を調べたら、やがてある種のツイートがそれを解く鍵だという結論に達する。だがそれは、まったくの偶然の産物だ。
  • 山ほど多くの遺伝子変異を調べてIQとの関連を調べたら、やがてある種の変異体がそれを解く鍵だという結論に達する。だがそれも、やはりまったくの偶然の産物なのだ。

 

  • テラデータでゼネラルマネジャーを務めるスコット・ナウは、良書『その数字が戦略を決める』で、常連客が痛点に近づきつつあるときにカジノのマネジャーがどうするかを説明している。「顧客に言うのです。『今日はツキがもうひとつのようですね。当店のステーキハウスがお気に入りでしょう。どうです、奥様とご一緒にお食事などは?招待させていただきますよ』とね」
  • 無料のステーキ・ディナーなど気前がいいにも程があると思うかもしれない。だが実際には利己的な行動だ。カジノはただ、顧客が損をしすぎてしばらく戻ってこなくなるのを防ぎたいだけだ。先進的なデータ分析を活用して、長い目で見てできるだけ多くを顧客から搾り取りたいだけなのである。

  • ポパーはどんな社会科学も、さして科学的とは考えていなかった。これらの自称科学者たちの仕事の厳密さに、あまり感心していなかったのだ。
  • ポパーを義憤に駆り立てたものは何だったか?彼は往時の最高の知性ー最高の物理学者、最高の歴史家、最高の心理学者ーと交わるうちに、明らかな違いに気づいた。物理学者の話には信憑性があった。確かに彼らは間違っていたり意識下の先入観に誤導されたりすることもあった。だが物理学者は、世の中の深遠な真実を見つけようとし、それはアインシュタイン相対性理論で頂点に達していた。だが対照的に、世界第一級の社会学者らの話を聞いていても、箸にも棒にもかからないと思うばかりだったのだ。
  • こうした違和感を指摘したのは、ポパーだけではない。誰に聞いても物理学者、生物学者、そして化学者こそが本物の科学者だというものだ。彼らは厳密な実験を通じて物理的世界の働きを見出す。対照的に、経済学者、社会学者、心理学者らは空疎な専門用語を振りかざして大学の終身在職権をあさる脆弱な科学者に過ぎないと考える人は多い
  • そんなこれまでの真実を、ビッグデータ革命は一変してしまった。もしカール・ポパーが今日なお存命で、ラジ・チェッティ、ジャセ・シャピロ、エスター・ダフロ、そして不肖、私(なんちゃって)などの発表に接する機会があれば、当時と同じ印象は抱かないはずだ。

 

  •  そんな折、友人がジョーダン・エレンバーグの論文をメールで送ってくれた。ウィスコンシン大学の数学者であるエレンバーグは、いったい何人が実際に書籍を読み通すのかに興味を持った。そしてビッグデータを活用してそれを調べる妙手を考案した。アマゾンのレビュー欄では、人々は書籍中の文章をさまざまに引用している。エレンバーグは、書籍の前半の記述の引用回数と後半のそれとを比較することを思いついた。こうすれば読者がどれくらいある本を読み通したかを
    大まかに示す指標にはなる。この方法によれば、ドナ・タートの小説『ゴールドフィンチ』は、90 %以上の読者が読了していた。対照的に、ノーベル経済学賞を受けたダニエル・カーネマンの傑作『ファスト&スロー』は、およそ7%しか読了していなかった。この大雑把な測定方法によると、経済学者トマ・ピケティの『21世紀の資本』に至っては、世評の高さとは裏腹に、3%足らずだった。要するに、人々は経済学者が書いた本は読了しない傾向が強いのだ。

NETFLIXの最強人事戦略 自由と責任の文化を築く

 
未だに年功序列・終身雇用を夢見ている脳内お花畑な人にはいい刺激になるかもしれません。中身を知りたいだけならカルチャーデックだけで十分なので、エピソードを読みたい人向けの本です。ただ、これをいくら読んだところで、日本の伝統的な大企業が実践できるとはとても思えません。ネットフリックスのライバルは同じ生産性の高いグーグルであって、自滅している低生産な日本企業ではないので、前提が違いすぎます。新卒を囲い込むべきかどうかや年功序列の維持可能性みたいな馬鹿げた議論をしている企業が参考にできるような話は残念ながら存在しないように思います(5周回遅れくらい?)。個人的にはあまり目新しい議論がありませんでしたが、「報酬」に関する議論は必読だと思います。
  • 経営陣が従業員のためにできる最善のことは、一緒に働く同僚にハイパフォーマーだけを採用することだと学んだ。これはテーブルサッカーの台を設置したり、無料で寿司を提供したり、莫大な契約ボーナスやストックオプションを与えたりするよりずっと優れた従業員特典だ。優秀な同僚と、明確な目的意識、達成すべき成果の周知徹底ーこの組み合わせが、パワフルな組織の秘訣である。
 
  •  社内のどの部署、どのチームの問題であっても、従業員がそれを自分のものとして解決するには、経営幹部と同じ視点が欠かせない。この視点があれば、事業のあちこちに潜む問題や機会を発見し、うまく対処することができる。皮肉なことに、企業はいろいろな研修プログラムに多額の費用をかけ、従業員のやる気を高め業績を測定するために膨大な時間と労力をつぎ込みながら、事業のしくみを全従業員に説明するのを怠っているのだ。

 

  • ネットフリックスでは社内の人材を登用すべきか、社外からハイパフォーマーを連れてくるべきかを判断するための目安を設けていた。「この仕事をするためには、社内で誰も持っていない専門知識が必要か、それともこれはうちがイノベーションを牽引している分野の仕事なのか?」。たとえばクラウドサービスに関しては、うちよりも優れた専門知識が社外にあったから、外から人材を引っ張ってくるほうがずっと効率的だと判断した。データアルゴリズムの開発に関しては、うちがイノベーションの最先端にいて、エリックという第一級の人材が社内にいた。ほかの職務に関しては、社外から人材を採用しなければ、私達はきっと躓いていたに違いない。

 

  • 従業員に能力を超えた仕事や才能と合わない仕事を引き受けるチャンスを与える義務はない。長年の貢献に報いるために別のポストを用意する義務もない。彼らに遠慮して、会社の成功に必要な人事変更を控える義務も、もちろんない。無情だと思われるのはわかっている。会社は従業員の能力開発に特別な投資を行い、
    キャリアパスを提示し、高い定着率を維持するために努力するものだという考えが染みついているからだ。でもそんな考えは時代にそぐわないし、従業員にとってもベストでないと、私は考えるようになった。そういうやり方では、従業員は
    意に添わない職務や、自分の思っているほどーまたは上司に求められるほどーうまくできない職務に縛られて、社外によりよい機会を求められないことが多いのだ。
  • チームリーダーにとって、部下を新しい職務に昇進させ指導することは、とてもやりがいのあることだし、業績にとってもプラスになることがある。だが部下の登用や能力開発が、チームの業績にとってベストな選択でないことも多い。マネジャーにキャリアプランナーの役割を期待してはいけない。変化のめまぐるしい今日の事業環境でその役割を演じようとするのは危険である。

 

  • 「世界中の情報を整理する」という、とんでもなく大きな使命をもっているからだ。それより大きな目標なんてあるだろうか?だからグーグルにとっては、優秀な人材をできる限り多く採用して、必要な資源がすべてそろった環境に置き、アイデアを山ほど出してもらい、そこから最高のアイデアをすくいとる、という戦略がとても合っている。グーグルのリーダーたちは事業を推進する戦略をたくさんもっているから、とにかく数を重視する。
  • ネットフリックスでは基本的に一つのことしかやっていないから、その一つのことの中の職務を果たすための適正なスキルと経験を持つ、適正な人材が必要なのだ。採用プロセスでは候補者にこう伝えた。「もしあなたが精神を解き放って、実現するかどうかもわからない革新的なことを考えるのが好きなら、グーグルが向いていますよ。うちでは一つのことしかやりません。そして一つのプロダクトで顧客を楽しませることに全身全霊を傾けています。だからそれに情熱が書けられないのなら、ぜひグーグルへどうぞ。すばらしい会社ですよ、うちとはまったくちがうだけで」

 

  • ネットフリックスは一部の職務に専門性と希少性をもたらしているため、社内の給与水準にこだわれば業績貢献者に経的損失を与えることになる。他社に移ればもっと稼げるのは確実なのだから。優秀な人材が、会社をやめない限り自分の価値に見合う金額をもらえないような制度は廃止しようと決めた。また私たちは、
    従業員に定期的に他社の面接を受けることを奨励している。これは、うちの給与が他社と遜色のない水準なのかどうかを、最も効率的かつ確実に知る方法なのだ。 
  • 給与やその他の報酬に関する情報は従業員に秘密にするべきだと考える企業が多い。私がコンサルティングを行ったある創業者は、報酬情報は医療情報のようなものだといっていた。そんなことはない。私が本当にばかげていると思うのは、
    それほどのお金をかけて手に入れた給与調査のデータを従業員に共有しないことだ。それは給与額の根拠として提示すべき情報なのに。企業は従業員に報酬の根拠を説明する努力を惜しんではいけない。
  • なぜ情報を与えたがらないかといえば、市場全体の水準からすればもっと高い報酬を支払われるべきだと従業員に思われることを恐れているからだろう。また、
    同等の価値の仕事をしている同僚より自分の給与が少ないことを知った従業員が気を悪くするのを恐れている。
  • たしかに給与は不平や噂の格好のタネになる。でもだからこそ、透明性を高めるべきだというのだ。オープンな姿勢でいれば、なぜほかの人があれだけの給与をもらっているのかと従業員に聞かれたときも、説明することができる。金額のちがいを説明する適正な根拠をもつことによって、業績志向の文化が強化される。従業員に公開できる根拠がないという場合、なぜないのかをよく考えた方がいい。
  • 報酬を適正で理にかなったものにするには、給与やその背後にある方針についてオープンに話し合うのが一番だと、私はかねがね考えている。給与情報を公開することが従業員の感情を害すると思われがちなのは、業績への貢献度よりも上司のおぼえや年功などがものをいう不条理がはびこっているせいでもある。実際の貢献度をもとに給与が支払われていれば、こんなふうに説明できる。「彼女は年俸32万5000ドルで、あなたの年俸に比べて不当に多いと思うかもしれないが、
    彼女のおかげでうちは厄介な状況から5回も抜け出すことができた。彼女の優れた決断が会社にもたらした価値を計算すると、こうなる」。当然だが、ここまで情報をオープンにするには、注意深く行う必要がある。情報を共有する理由と、給与額の根拠をきちんと伝えよう。つまり、給与を人事考課に連動させるべきだということ?いや、そうではなく、給与を業績だけに連動させるのだ。このやり方と一般的な慣行の間には大きなちがいがある。
  • マネジャーが受け入れがたい真実を繕い、従業員の解雇を最後の瞬間まで引き延ばし、部下を望まない職務や会社に本当は必要でない職務に縛りつけても、誰のためにもならない。こうしたことの結果、本人だけでなくチームまでもが無力化し、やる気をそがれ、心をむしばまれる。従業員は自分の将来性について本当のことを、リアルタイムで知る権利がある。彼らの、そしてチームの成功を確かなものにするには、ありのままを率直に伝え、新しい機会を探す手助けをするのが一番だ。 

jobs.netflix.com

tkybpp.hatenablog.com

www.slideshare.net

経書評(太田肇)

  • 勤務時間や休暇、人事評価といった制度は時代遅れになりつつあり、有能な人材を採用し、育成して昇進させるといった理念さえ通用しない。米ネットフリックス(Netflix)では常に最適な人材を獲得し、たえず布陣を入れ替える。そもそもキャリア開発は個人の責任だと伝えている。自由と自己責任が貫徹されたシステムは、「人事管理」という呼び名さえふさわしくないようだ。
  • 付け加えておくと、このような人事システムはシリコンバレーの専売特許ではなく、ヨーロッパやアジアなど世界各地へ、そしてIT系企業以外にも広がりつつある。長期雇用を前提にした社内での人材育成、細かく精緻な評価・処遇制度といった日本企業のシステムが急速に優位性を失いつつある今、対照的な世界を知るだけでも意味があるのではないか。

SHOE DOG

あるトラック運転手が、大胆にもバウワーマンの山の平穏を乱していた。猛スピードで道路を曲がるために何度もバウワーマン家の郵便受けをひっくり返していた。バウワーマンは運転手を叱って鼻にパンチをお見舞いするぞ、などと脅したが運転手はどこ吹く風で、来る日も来る日も好きなようにトラックを飛ばしていた。そこでバウワーマンは郵便受けに爆弾を仕掛けた。トラックがそれをひっくり返したら、バーン。煙が立ち上り、トラックは粉々になってタイヤは平たいリボンのようになった。運転手は、それから2度とバウワーマンの郵便受けに触れることはなかった。
 
1972年以前、円とドルの交換比率は一定で変わることはなかった。1ドルは常に360円
だ。毎日太陽が昇るように、この比率は当然のように存在していた。だがニクソン大統領は円が過小評価されていると感じた。アメリカが金をすべて日本に送っているのではと懸念し、彼が円を解放し変動させたせいで、円とドルの比率は天気のようにコロコロ変わった。毎日のように変わる。このため日本でビジネスをする際には翌日の計画が立てられなかった。ソニーの社長がこうこぼしたのは有名な話だ。「ゴルフをしていて、各ホールでハンディが変わるみたいだ」
同時に、日本の人件費も上昇したため、円の変動とあわせて、日本で多くの製品を作っていた会社は先行きが不安定になった。シューズの大半を日本で作るという私のビジョンも崩れた。至急、新たな工場と新たな国を探す必要が生じた。
 
これまで雇ったほとんどの者が基本的な能力を示してくれた。会計士を雇うのは、計算ができるからだ。弁護士を雇うのは話が達者だからだ。だが、マーケティングの専門家や製品の開発者を雇ったところで、何が期待できるだろう。何もない。彼らに何ができるのか、できることがあるのかすら予想できない。ではそこらのビジネススクールの卒業生はどうか。誰も好き好んでいきなり靴を売ろうとは思わないだろう。しかもみんな経験はゼロだから、雇う側は面接での感触に賭けてサイコロを振るしかない。一か八かでサイコロを振っていられる余裕など、こっちにはないのだ。
 
もちろん、賃金の問題は常について回る。途上国の工場労働者の給料はアメリカに比べるとあり得ないほど低いし、それは私もわかっている。それぞれの国、経済の上限や制度の枠内で活動しなければならない。単に好きなだけ賃金を払えば済むという問題ではないのだ。ある国で、国名は伏せておくが、賃金を上げようとしたら、政府高官に呼び出され、止められた。その国の経済制度を破綻させてしまうというのだ。靴の製造者が医者より稼ぐのは正しくないというか、ふさわしくないというだけの理由だ。変化は、私たちが望むほどすぐには決して訪れない。

漫画201907

ちと盛り上がりに欠ける、2点

アニメ化も絶好調、ややストーリーが飛び飛びに見えるのが気になるけど、キャラ力と面白さがプロットの稚拙さをカバーしている稀有な作品。アニメ化もうまく行っていて、順風満帆。5点

つまらないバトルが終わり、生き生きとしてきたDr.Stone。いよいよ大プロットにも着手し始め(こちらはあまり面白くなりそうにないが)、今後が楽しみです。技術水準が高くなりすぎて、科学ネタが皆無になってしまったのは、やはり残念。4点

同じようなノリの漫画は大体5巻くらいで飽きが来る中、18巻まで大してダレもせずに、ストーリー破綻もせず、戦力インフレもほとんど起こさずにここまで来るのは大したものです。25~30くらいでしっかりまとめてほしい作品です。4点

序盤ほどの破壊力や爆発力はありませんが、安定して楽しめるギャグ漫画です。珍しくダイビング率が高い。ストーリーがしっかりと進んでいるのも評価ポイントです。3点

子供編が終わって、新章突入。これまでと違ってシリアス展開ですがうまく書けています。底力を感じられていいストーリーだと思います。4点

次巻予告があまりにも滅茶苦茶でおもわず突っ込んでしまいました。安定して面白いです。4点

もっと読ませてくれ!原作者あとがきであの人がヒロインと呼ばれていて驚愕しました(原作は未読)。5点

 アニメ化2期おめでとう!本巻の高木さんは破壊力低め。3点
マンネリを防ぐ方法としていろんな手法がありますが、王道は登場人物を増やすことですね。妹が増えただけでやっていることは変わりませんが、うまく戦略がはまっています。次巻では姉が暴れるみたいですね。3点
一時期マンネリしていましたが、最終決戦編は動きがあって面白いですね。4点

フィン様最高っす。後日談は笑えた。3点

編集中

救いがないストーリーなわけですが(とくに真昼ちゃん)、ストーリーの前面に鬼呪が出始めていよいよ・・・って感じですね。何気に毎回あとがきが楽しいです。3点

久しぶりにがっつり戦闘シーンがメイン、登場人物をどのくらい犠牲にするのか、作中の主人公の立場を左右するのはもちろんのこと、今後のストーリーを左右するので、慎重に決断する必要がありそうです。あんまり無双するとリアリティが犠牲になるけど・・・という難しい判断。3点

龍二のサイドストーリーが中心。テンポはいいので、あまり引き伸ばさず、テーマを美大受験に絞って8巻くらいですっきり終わらせてほしいところ。3点

満を持して千石撫子ちゃん登場。3点

タイトルから漂う駄作感がいい意味で裏切られ続けて早5巻、唸るほどプロットの出来がすごいわけではないですが、オリジナリティをある程度保ちつつ、安定して面白いのは貴重です。3点
 
 
 

定期告知

漫画を大量に買うなら、豪邸に住んでいない限りkindle一択です。無印kindleは容量と解像度に問題があるので。Paperwhiteがおすすめです。

  

aaaaa

ニューエリート グーグル流・新しい価値を生み出し世界を変える人たち

  • すでにシリコンバレーでは、スーツを着ている人たちがモテなくなっています。フェイスブックやグーグルの経営者をはじめ、今伸びているスタートアップで働く人は、純粋に仕事の結果だけで勝負をします。彼らが求めているのは「ゼロから新しい価値を生み出すこと」。そこに着るものは関係ないという考えです。外見で人や仕事を判断していた時代が終わり、「私たちはどのように働き、生きるのか」という大きな視点で見ても変化が必要な時代に入っているのです。
  • フロー理論の研究では、一般的なホワイトカラーワーカーは、8時間労働の中で、30分しかフロー状態に入れないとされています(フローとは「流れ」という意味で、簡単に言うと意識が最適化できている、集中できている、加えて、心に余裕がある状態。時間を忘れて没頭する状態)。フロー状態に入っている時間を3倍の90分にできれば、生産性は2倍になることもわかっています。つまり、いかにフロー状態を引き出す場を作るかが重要です。集中すべき時間に最大のパフォーマンスが出せるよう、エネルギーを管理することが大事。グーグルでは、その観点でオフィスを設計し、生産性を高めようとしています。