物理の超発想

  •  物理学と数学の関係は、セックスとマスターベーションの関係に似ている。(リチャード・ファインマン
  • 言葉は人間が作り出したもので、我々の魂を映し出す鏡である。すぐれた小説や戯曲、あるいは詩は強く人の心に訴えかけてくるが、それも言葉を通してのことなのだ。一方、数学は自然を語る言葉であり、それが映し出す物理的世界である。数学は厳密で無駄が悪、しかも多様で岩のように堅固である。こうした性質のおかげで、数学は自然界の作用を記述するには理想的なものであるが、一方では、人間の弱さなどを描くには全く向かないように見える。こうして「文系と理系」のジレンマが生じる。・・物理学者が数を使うのは、物理的直観を広げるためであって、その直感を避けて通るためではない。一方、数学者が扱うのは理想化された構造であって、そんな構造が自然界のどこにあるのかということなどはあまり気にしない。数学者にとっては、数そのものにリアリティーがあるのだ。しかし物理学者にとっては、単なる数だけでは、たいていは全く意味がない。・・確かに、数や、数と数の間の数学的関係には、世界像の描き方が決まってしまうという不自由さがある。しかし一方で、それは世界像を単純にするうえでなくてはならないものなのだ。数が抱えている荷物は、無視してよいものといけないものとを教えてくれ、それによって我々に自由を与えてくれるのである。・・一般的な見方とは正反対のものだろう。一般的には、数や数学的関係は物事を複雑にするばかりで、一般向きの科学書ではなんとしても避けたい、とされている。
  • もし世界を単純にすることが“近似”であるならば、科学的記数法は物理学の中でも最強の道具を与えてくれるということだ。・・その道具とは、桁数の見積もりをすることである。・・エンリコ・フェルミなら、「オーダーの見積もりは世界を開く」と言ったかもしれない。フェルミは、実験物理学にも理論物理学にも精通した最後の大物理学者のひとりであった。・・すぐれた物理学者はどんな問題にも答えられなければならない、とフェルミは言っていた。かならずしも正解を出さなくてもいい、知っていることや信頼できる概算をもとに、桁を見積もってみなさいというのだ。・・「シカゴにピアノの調律師は何人いるか?」・・重要なのは、シカゴにいるピアノ調律師がきっかり二百人かどうかということではない。ピアノ調律師が百人以下か、あるいは千人以上だとわかったらびっくりするということが大事なのだ。・・雲をつかむようだなどと言ってはおれない事柄にも、見通しが持てることである。
  • 蜃気楼の説明としては簡単なものが一つある。それは、光は2種類の媒質の境界を横切るときに曲がるという、よく知られている事実を使ったものだ。・・ところがこの現象には、全く別の説明がある。・・1650年にフランスの数学者フェルマーが提唱した『最小時間の原理』である。この原理は、「光がA点からB点に進むときは、それにかかる時間が最小になるような経路を必ず取る」と述べている。・・光は、密度の低い媒質中では速く進む(真空中が最も速い)。道路に近いところの空気は熱くて密度が低いので、光は道路近くに長くいればいるほど、速く進むことになる。・・まっすぐに目に向かう経路・・光はすすむ距離こそ最短ではあるが、ほとんどの時間を路面のずっと情報の密度の高い空気中で費やすことになる。もう一つ考えられるのは下方に屈曲して進む経路である。この場合、光が進む距離は長くなるけれども、路面近くの密度が低いので速く進める層を通る時間が長くなる。・・光が実際にとる経路:蜃気楼を生み出す経路はちょうど、時間を最小にする経路であることが分かるのである。
  • 何かを理解するとはどういう意味だろうか?この世界は、神々が遊ぶ壮大なチェス・ゲームのようなもので、たとえばわれわれがそのゲームを見ていると仮定してみよう。我々はそのゲームのルールを知らない。我々に許されているのは、ゲームの進行を見守ることだけだ。もちろん、長い間見ていれば、ルールのいくつかは分かるようになるかもしれない。そのルールとは、基礎物理学と呼ばれているものである。しかし、たとえルールが全部わかったとしても、複雑すぎて我々の知恵が及ばないために、ゲーム中のある動きがとられた理由までは分からないこともあるだろう。チェスをやる人なら知っているように、ルールを全部覚えるのは簡単だが、最善の手を選んだり、相手が打った手の意味を理解するのは並大抵のことではないからだ。自然の場合もしかり;ただずっと難しいだけである。・・そこで我々は、ルールを理解するという、より基本的なことに的を絞って考えなければならない。ルールが分かったということを持って、世界を理解したと考えるのである。ファインマン
  • 古いアイディアが、新しくて途方もない状況にも使えると気付くためには、偉大な創造性が必要になる場合が少なくない。物理学においては「少ないことは豊かなこと」古いアイディアの焼き直しが毎度のようにうまくいったので、物理学者たちはやがてそれに期待するようになった。新しい概念もたまには登場するけれど、その場合でも、既存の知識の枠組みから無理やり押しだされるようにして生まれてきたものにすぎない。物理学が理解可能なのは、まさにこの創造的な剽窃行為のおかげである。というのも、それはとりもなおさず、根本的なアイディアの数には限りがあるということを意味しているからだ。科学「革命」はそれ以前のものをすっかり葬り去る、という考え方は、今日の科学に対して抱かれている最大の誤解だろう。
  • 物理学における心の広さとは、しっかり証明済みのアイディアに対しては、それを超えなければならないことが決定的に証明されるまでは、頑固に忠誠をつくすことなのだ・・今世紀における重要な革命のほとんどは、古いアイディアを捨てることによってではなく、何とかそれと折り合おうとし、その中で得られた知恵を持って実験や理論上の謎に挑んだ結果、成し遂げられたのである。「科学的創造性とは、拘束衣を着た想像力である」(ファインマン
  • 量子力学の原理は、物理学者以外の多くの人々、とりわけ哲学者をわくわくさせた。が、一言言っておく価値があると思うのは、量子力学にどんな哲学的意味があろうとも、哲学は、物理学にはほとんど影響しないということだ。物理学者が考えるのは、ゲームのルールである。そしてルールは最初から決まっている。自然界には元々、測定にまつわる不確定性が存在して、その不確定性は計算可能だということだ。不確定性の依ってきたるゆえんを説明しようという試みには様々な流儀があるが、唯一、首尾一貫して矛盾のないものは、例によって数学的な記述である。
  • ディラックは、特殊相対性理論量子力学を融合させた自分の仕事の意味を受け入れることができなかった。その臆病さを反省して、彼は次のように言ったと伝えられている。「私の方程式は、私よりも賢かった」・・物理学において目覚ましい成果が生まれるのは、現行のアイディアやテクニックを捨てることによってではなく、それらをとことん突き詰めること、そしてその意味を探る勇気を持つことによってであること
  • フェルミ研究所で、初代所長を務めたロバート・ウィルソンの言葉である。この施設は国家防衛に役立ちますか、と尋ねられて、彼はこう答えたという。「役立ちません。が、この国が防衛するに値する国であり続けるためには役立つでしょう。
  • 「人生の意味なんぞ、わしに聞かんでくれ。トースターの仕組みも分からんのだ!」(ハンナとその姉妹
物理の超発想―天才たちの頭をのぞく

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