科学の発見

 

  • 私は物理学者であって歴史家ではないが、年を経るにつれて、科学史というものにますます魅力を感じるようになってきた。科学史は驚嘆すべき物語であり、人類史の中で最も興味深い歴史の一つである。また、私のような科学者にとっては、個人的な利害関係もある。過去の研究を知ることは現代の研究の役に立つかもしれないし、科学者の中には、科学史の知識が現在の研究のモチベーションに繋がっている人もいる。科学者とは、自らの研究が科学史の一部分に(たとえ、ほんの小さな一部分であっても)なってくれることを願うものである。
  • これまでも著作の中で私は科学史に触れたことがあったが、それはおもに、十九世紀後半から現在までの現代物理学及び天文学の歴史だった。たしかにこの時代にも数々の新発見があった。とはいえ、物理学の目標及び標準はその間に実質的には変わっていない。一九○○年の物理学者が現代宇宙論素粒子物理学の標準モデルを知ったとしたら大いに驚くだろうが、「森羅万象を説明するために、数学的な公式と実験に裏付けられた客観的な法則を追い求める」という目標自体には何ら違和感を覚えないだろう。

 

  • 講義の準備をしていて、私は何度も、過去の科学と現代科学の違いの大きさを思い知らされた。L・P・ハートレーの小説に、「過去は外国。そこでは人の振る舞い方が違う」というよく引用される一節があるが、まさにそのとおりである。本書によって、科学の歴史の中で何が起きたかという事実だけでなく、科学が現代のような姿になってくるのがいかに大変なことだったかを読者に伝えられれば幸いである。
  • したがって本書が扱うのは、世界のさまざまな事柄を人類がどのようにして知るに至ったか、ということだけではない。当然のことながら、これはどんな科学史にとっても関心事である。だが本書の焦点はこれとは少し違う。本書で私はおもに、世界の探究の方法を人類がどのようにして習得するに至ったか、を語っていく。

 

  • 特筆すべきは、パルメニデスやゼノンの論法が誤っている点ではなくむしろ、「運動が不可能であるなら、なぜ物体は動いているように見えるのか」を彼らが説明しようとしていない点である。実際、ミレトスでもアブデラでもエレアでもアテネでも、タレスからプラトンに至る古代ギリシャの哲学者たちは誰一人として、より深いレベルの現実に関する自らの理論が見かけ上の世界をどう説明するのか、詳らかにしていないのである。
  • これは単なる知的怠慢ではない。 ソクラテス以前の自然哲学者には、見かけ上の世界の理解を一段低く見なすという、知的スノビズムの傾向があった。これは、科学を長年にわたって害してきた姿勢の一例に過ぎない。かつて様々な時代において、円軌道は楕円軌道よりも完璧だ、金は鉛よりも高貴な金属だ、人類は類人猿よりも高等だ、などという考え方がずっと存在してきたのである。

 

  • 万物の根源を探究したギリシャの自然哲学者について書く場合、彼らの思想がいかに現代科学を先取りしていたかを強調するのが従来、一般的だった。中でもデモクリトスは特に賞賛の的である。現在、ギリシャには、デモクリトス大学という有名大学がある。たしかに、物質の基本的構成要素を特定しようとする試みは、時代によって元素の種類は変わったものの二千年以上にわたって続いた。近世にはすでに、錬金術師たちが水銀、塩、硫黄という三種類の元素(と考えられた物質)を特定していた。
  • 化学元素という現代科学の概念は、十八世紀末にプリーストリー、ラヴォアジエ、ドルトンが起こした化学革命にまでさかのぼる。現在、化学元素には、水素からウランまでの、自然界に存在する元素九十二種類が含まれている(水銀と硫黄はその中に入っているが、塩は入っていない)。これに、ウランよりも重い人工元素(訳注 : 自然界に存在しない、人間が作った元素)が加わり、化学元素の数は次第
    に増加しつつある。通常の条件下では、純粋な化学元素は同一タイプの原子から構成されており、元素はそれを構成する原子のタイプによって区別される。現在、われわれは化学元素どころか、原子を構成する素粒子までをも研究対象にしているが、それはある意味では、ミレトスで始まった万物の根源の探究を続けているとも言える。
  • そうは言っても、アルカイック期や古典期のギリシャ科学の現代的側面を強調しすぎるべきではないと私は考える。現代科学のある重要な特徴が、これまで言及してきたタレスからプラトンに至る思想家にはほぼ完璧に欠けている。彼らのうちの誰も、自分の理論を実際に確かめようとしていないのである。誰も(おそらくゼノンは別として)、自分の理論の正しさを論証することさえ試みていない。彼らの著作を読んでいると、絶えず、「だから、どうやってそれを知ったのか」という問いが浮かんでくる。この疑問は他の思想家と同様にデモクリトスにも当てはまる。現存する彼の著作の断片には、物質が本当にアトムでできていることを証明しようとした跡はどこにも見られない。
  • 五種類の元素についてのプラトンの記述は、証明に対して彼が無頓着だったことを示すいい例である。「ティマイオス』の中で彼は、正多面体ではなく三角形から説き起こし、三角形を結合して多面体の面を形作ることを提案する。それはどんな三角形だろうか。プラトンは、その三角形は四十五度、四十五度、九十度の角を持つ直角二等辺三角形と、三十度、六十度、九十度の角を持つ直角三角形でなければならないと言う。土を構成する原子である正六面体の面(正方形)は、直角二等辺三角形二個で形作ることができ、火の正四面体、空気の正八面体、水の正二十面体を構成する面(正三角形)はもう一つの直角三角形二個で形作ることができる(コスモスを表すとされる正十二面体は、この方法では形作ることができない)。
  • この選択を説明するため、プラトンは「ティマイオス」の中で、「もしも誰かがこれら四つの正多面体を形作るのにもっと適した三角形の選択を思いついたら、その人の批判を喜んで受け入れよう。だが、われわれとしてはこの他の選択は考慮に入れないことにしよう。……理由を述べようとすればあまりに長くなるのでやめておくが、われわれの考察のとおりでないことを誰かが証明できるならば、彼の功績を歓迎しよう」と述べている。もし私が論文の中で新仮説を支持し、「時間がかかりすぎるので、支持する理由は説明しないことにする」と述べた上で、その仮説が正しくないことを証明してみろと物理学者たちに要求したら、一体どんな反応が返ってくることだろうか。

 

数学と科学にはまだ区別がなかった

  • 文体という問題よりも重要なのが(それと無関係ではないが)、数学に触発されて、「理性だけの力で真実に到達する」という誤った目標が自然科学に設定されたことである。『国家』の中で哲人王の教育について論じたくだりで、プラトンソクラテスに、天文学幾何学と同じ方法で研究すべきだと主張させている。ソクラテスの発言によれば、「天体を観測することは、数学において幾何学の図形を見ることが有益であるのと同様に、知性への刺激として有益かもしれない。だが、どちらの場合も真の知識は思考によってのみ得られる」のである。『国家』に登場するソクラテスは、「われわれは天体を単に、目に見えぬ真実を学ぶための模型として利用すべきである。見事に描かれた幾何学図形を前にしたときと同じである」と説明する。
  • 数学は、物理原則の結果を推論する手段である。それだけでなく、数学は、物理学の原理を表現するのに必須の言語である。数学はしばしば新しい科学理論のインスピレーションの源となるし、逆に、科学が数学の発達を促すことも多い。たとえば、理論物理学エドワード・ウィッテンの理論は数学の進歩に大いに貢献したため、一九九〇年、彼は数学最高の賞であるフィールズ賞を受賞した。しかし、数学は自然科学ではない。観察を伴わない数学それ自体だけでは、世界について何も説明することはできない。逆に、数学の定理は、世界を観察することによって証明したり反駁したりできるものではない。
  • 古代世界においては、この違いは明確ではなかった。近世においてさえ明確ではなかった。すでに述べたように、プラトンピタゴラス学派は数や三角形といった数学的対象を自然の根源だと考えたし、(後述するように)哲学者の中には天文学を自然科学ではなく数学の一分野と見なす者もいたのである。
  • 現在では、数学と科学の区別はほとんど確定している。ただ、「自然とは何の関係もない理由で発明された数学が、物理理論に役立つのはなぜなのか」という謎は残っている。物理学者ユージン・ウィグナー (訳注:一九六三年、ノーベル物理学賞受賞)はある有名な論文の中で、「数学の不合理な有効性」について述べている。だがわれわれは一般的に、数学の観念と科学の原理(つまり、世界を観察す
    ることによってその正当性が証明される原理)とを何の苦もなく区別している。
  • 現在、数学者と科学者の間でときどき摩擦が起きるとすれば、それは一般的に、数学的厳密さという問題をめぐっての摩擦である。十九世紀の初め以来、純粋数学の研究者たちは厳密さを必須と考えてきた。定義と前提は正確でなければならない、そして、それに続く演繹は絶対的確実性を持っていなければならない、と。これに対して物理学者はもう少し日和見主義的である。正確さと確実性に関しては、深刻な誤りさえ避けられればそれでよしと考えるきらいがある。私は、場の量子論に関する論文の序論に、「本書には、数学好きの読者を悲しませる部分がある」と書いたことがある。
  • この違いが意思疎通を図る上で問題となる場合がある。数学者たちは、「物理学者が書いたものはいらいらするほど曖昧だと思うことが多い」と言う。私のような、高度な数学的ツールを必要とする物理学者としては、「数学者の書いたものは、厳密さに対する彼らのこだわりのせいで、物理学にとってはほとんどどうでもいいところでややこしくなっている」と感じることが多い。
  • 数学者的傾向を持った物理学者によって、現代素粒子物理学―場の量子論――を数学的厳密さに基づいて構築しようとする高貴な努力が続けられてきた。そして、興味深い進歩も確かにあった。しかし、過去半世紀にわたる素粒子の標準モデルの研究において、数学的厳密さの追求がその発達に貢献した例は一つもない。

 

  • 「地球は平らだ」と長らく信じられてきたのは、地球が球形だとすると当然生じる、「地球が丸いなら、裏側にいる人はどうして落ちてしまわないのか」という問題のせいだったのではないだろうか。アリストテレスの理論はこの問題を解決することができた。アリストテレスは、どこに置かれた物体でもそちら向きに落ちるような、「下」という普遍的な方向は存在しないことを理解していた。地球のどこであっても、土と水という重い元素でできた物体は世界の中心に向かって落ちるのだ、これなら観察結果と一致する、と考えたのである。
  • この点では、「重い元素の自然な場所は、コスモスの中心にある」というアリストテレスの理論は現代の重力理論そっくりに機能する。ただし、両者には重要な違いがある。アリストテレスにとってコスモスの中心は一つしかないが、現代のわれわれは、大きな質量を持つ物体はそれ自体の重力の影響によって収縮して球形になる傾向があり、他の物体を自分の中心へと引き寄せることを理解している。アリストテレスの理論は、地球以外の天体が球形であるべき理由を説明していなかった。だが彼は、月が満月から新月へ、そしてまた満月へと徐々に満ち欠けすることから、少なくとも月は球形であることを知っていた。

 

過去の偉人たちが軽視してしまった、実験結果の不確実性

  • アリスタルコスの科学と現代科学との違いを際立たせているものは、彼の観測結果の数値的な誤りではない。観測天文学や実験物理学の分野では、現在でも時として深刻なエラーが起きる。たとえば、字宙の膨張速度は一九三〇年代には実際の七倍も速く見積もられていた。アリスタルコスと現代の天文学者や物理学者との本当の違いは、彼の観測データが誤っていたことではなく、彼がデータの不確実性の評価をおこなおうとしなかったこと、あるいはそのデータが不完全かもしれないことを認めてさえいなかったことにある。
  • 現代の物理学者や天文学者は、実験結果の不確実性を肝に銘じるよう教え込まれている。私はコーネル大学の学部生だった頃から、実験とは無縁の理論物理学者を目指していたが、物理学部では実験講座は必修だった。実験講座の授業時間の大半は、測定結果の不確実性の評価に費やされた。しかし、歴史的に見れば、この不確実性に注意が払われるようになったのはつい最近のことである。私が知る限り、古代及び中世には誰も測定の不確実性の評価を真面目におこなおうとしていないし、第十四章で述べるように、ニュートンでさえ実験の不確実性を軽視することがあった。

 

  • 1610年9月、ガリレオは五番目の偉大な天文学上の発見をした。望遠鏡を金星に向け、金星も月と同じように満ち欠けすることを発見したのである。彼はケプラーに、「愛の母(金星)はシンシア(月)の形をまねる」という暗号化されたメッセージを送った。金星が満ち欠けすることはプトレマイオス説でもコペルニクスでも予想されることだったが、満ち欠けの形は両者で異なるはずだった。プトレマイオス説では金星は常に地球と太陽の間にあるから、金星が半分以上輝くことは絶対にないはずである。これに対してコペルニクス説では、金星は地球から見て太陽の向こう側にあるときには全面に太陽の光が当たる。
  • これは、プトレマイオス説が誤りであることを示した最初の直接証拠だった。各惑星の従円の大きさをどう選んでも、地球から見た太陽と惑星の動きという点ではプトレマイオス說はコペルニクス說とまったく同じである。しかし、惑星から見た太陽と惑星の動きとなると、プトレマイオス說はコペルニクス説と同じではない。もちろん、ガリレオには、どこかよその惑星へ行って太陽や他の惑星がそこからどう見えるかを確かめることはできなかった。だが、金星の満ち欠けを見れば、金星から見た太陽の方向が分かる。明るい面は、太陽に面している側だからである。天動説の立場でも、金星の満ち欠けの形を説明できるある特別なバージョンが一つだけあった。それは、すでに述べたようにティコが唱えた、水星と金星の従円が太陽の軌道に一致するバージョンである。これがプトレマイオスやその信奉者たちに採用されたことは一度もない。

 

  • 1623年にマッフェオ・バルベリーニがローマ教皇に選出されてウルバヌス八世となったとき、ガリレオは事態の好転を期待した。新教皇フィレンツェ出身で、しかもガリレオの崇拝者だった。彼はガリレオをローマに迎え入れ、六回謁見を許した。その機会にガリレオは、1616年以前から取り組んできた潮汐に関する自説を披露した。
  • ガリレオ潮汐理論は、地球が動くことを絶対的な前提にしていた。ガリレオは、「地球が自転しながら公転するため、地球上のある地点の速度は地球の公転の方向に沿って速くなったり遅くなったりを繰り返している。そのために、海水が押し寄せたり引いたりする」と考えた。「これによって一日周期の波が生まれる。他のすべての振動と同じようにこの振動にも倍音があるので、半日周期の波、三分の一日周期の波も生まれるのだ」と。ここまで月の影響について言及されていないが、満月と新月の時に大潮が起き、半月の時に小潮が起きることは古くから知られていた。そこでガリレオは、何らかの理由で(月が地球と太陽の間に来る)新月の時に地球の公転が加速し、(月が地球から見て太陽と反対側に来る)満月の時に減速する、と考えることによって月の影響を説明しようとした。
  • これはガリレオらしからぬ失敗だった。彼の理論が間違っていたことが問題なのではない。万有引力の法則を知らないガリレオ潮汐を正しく理解することは不可能だった。しかし、地球が動いていることの証明として、明確な実証的根拠のない潮汐理論を持ち出してはならないことは弁えるべきだったろう。
  • ウルバヌス八世は、「地動説を事実である可能性のあることとしてではなく数学的仮説として扱うのであれば、潮汐理論の発表を許可する」と言った。自分としては一六一六年に異端審問所が出した公式命令には反対なのだが、それを撤回させるつもりはない、と教皇は説明した。その際、ガリレオは、異輔問所から受け取った非公開の命令書のことを教皇に黙っていた。

命令書に違反した著作を発表したガリレオ

  • 一六三三年、潮汐に関する著作が完成した。それは潮汐理論に留まらず、包括的なコペルニクス説擁護論となっていた。それまでのところ、教会はまだ公式にガリレオを批判してはいなかったから、彼の申請に対して、フィレンツェの司教は彼の新しい著作「二大世界体系|プトレマイオス体系及びコペルニクス体系―に関する対話』(訳注:「天文対話』という邦題で知られている)に出版許可を与えた。
    「二大世界体系」というこのタイトルは奇妙である。当時、おもな世界体系は二つではなく四つあった。プトレマイオス説とコペルニクス説だけでなく、同心天球が地球を中心として回転しているとするアリストテレス説、及び、地球は静止していて太陽と月は地球の周りを回っているが、他のすべての惑星は太陽の周りを回っているとするティコ説を加えた四つである。ガリレオはなぜアリストテレス說とティコ説を考えに入れなかったのだろうか。
  • アリストテレス説については、観測結果とのずれが明らかだったから、と言えるかもしれない。だが二千年前からそのずれが知られていながら、信奉者は減っていなかった。第十章で引用した、十六世紀初頭のフラカストロアリストテレス說擁護論を思い返してみてほしい。ガリレオとしては、そのような主張には反論するだけの価値がないと思ったのだろう。だが、どうしてアリストテレス説に言及しなかったのかは不明である。
  • 一方、ティコ説のほうは観測結果に非常によく合っていたので論駁が困難だった。ガリレオは確実にティコ説を知っていた。ガリレオとしては、地球が動いていることは自分の潮汐理論で証明されていると考えたのかもしれないが、それは何ら定量的説明によって裏付けられてはいなかった。もしかしたら、ガリレオコペルニクス説を手強いティコ說と戦わせたくなかったのかもしれない。
  • 「天文対話」は、三人の登場人物の対話という形を取っている。第一の登場人物サルヴィアティはガリレオ自身を表し、その名前はガリレオの友人でフィレンツェ貴族のフィリッポ・サルヴィアティから借りたものである。第二の登場人物シンプリチオはアリストテレス派の哲学者で、おそらくシンプリキオス(訳注:六世紀の新プラトン学派の哲学者)から名前を借りたのだろう(「単純な人間」という意味
    合いも込められているものと思われる)。そして第三の登場人物は、ガリレオヴェネチア時代の友人で数学者のジョヴァンニ・フランチェスコ・サグレドから名前を借りたサグレド。前者二人の審判という役所である。最初の三日間で、サルヴィアティがシンプリチオを完膚なきまでに論破する。潮の満ち引きが話題に上るのは、ようやく四日目のことである。この著作は、異端審問所からガリレオに下された無署名の命令書の内容に確実に違反していたし、これよりは緩やかな、署名入り命令書の内容(コペルニクス説を信ずること、あるいは擁護することを禁ずる)にもまず間違いなく違反していた。さらにまずいことには、「天文対話』はラテン語ではなくイタリア語で書かれていた。つまり、学者だけでなく、読み書きできるイタリア人なら誰にでも読むことができる言語で書かれていたのである。
  • この時点で、ウルバヌス八世は一六一六年にガリレオに出されていた無署名の命令書の内容を知った。おそらく、太陽黒点や彗星をめぐる論争の際にガリレオが敵に回した人々が告げ口したのだろう。シンプリチオのモデルは自分なのではという疑念が、ウルバヌスの怒りの火に油を注いだかもしれない。根機卿時代にウルバヌスが実際に語った言葉のいくつかがシンプリチオの言葉として使われていたことが事態をさらに悪化させた。異端審問所は『天文対話』の販売を禁止したが、その措置は遅すぎた。「天文対話』はすでに売り切れていたのである。

 

  • 一般的に、公表を決意することは、科学的発見というプロセスにおける決定的な要素である。公表するという行為は、「この研究結果は正しい。よって、他の科学者の利用に耐えられる」という論文執筆者の判断を意味している。だからこそ、現在では、科学的発見の功績は通常それを最初に発表した人のものとされているのである。だが、微積分法を最初に発表したのはライプニッツではあるけれども、これから述べるように、微積分法を科学に応用したのはライプニッツではなくニュートンだった。ライプニッツは(デカルトと同じく)哲学者として非常に高く評価されているし、偉大な数学者ではあるが、自然科学には何ら重要な貢献はしていない。

文明のターニングポイントとなった重力理論

  • ニュートンの運動と重力の理論は、歴史に最大級の影響を与えた。「物体を地面へと落下させる重力は、地面から離れるに従って弱くなる」ことを考えついた人間はそれまでにもいたかもしれない(明確な言葉でそう述べている古代人はいないが)。だが、この力が惑星の運行に関わっていることに思い至った人間は一人もいなかった。「惑星をその軌道に留めている力の強さは、太陽からの距離の二乗に反比例する」という説を一六四五年に最初に唱えたのは、フランスの聖職者イスマイル・ブリオだったかもしれない(のちに王立協会会員に選出された。その著作は、ニュートンにも引用されている)。だが、この説に説得力を持たせ、その力を重力に関連づけたのはニュートンだった。

 

  • 命題24で、ニュートン潮汐に関する理論を展開している。地球の、月に面している側では、 (海底の上に乗って いる)海の部分のほうが固体の地球よりも月に近いために月に強く引きつけられ、地球の反対側では、同じ理由で固体の地球のほうが海よりも強く月に引きつけられる。そのため、月に面している側と反対側の両方で海水が膨らむ。月に面している側では海水が月に引きつけられ、反対側で
    は固体の地球が海水から引き離されるからである。これによって、満潮が二十四時間毎ではなくおよそ十二時間毎に現れる理由を説明することができる。しかし、潮の満ち引きは非常に複雑なので、この潮汐理論の証明は当時は不可能だった。ニュートンは、潮の満ち引きには月だけでなく太陽も関係していることを知っていた。大潮は、新月あるいは満月のときに起きる。太陽、月、地球が一直線に並んでいるために、重力の影響が増幅するからである。しかし、やっかいなことに、海への重力の影響は大陸の形や海底の地形に大きく左右される。そこまで考慮に入れるのはニュートンにも不可能だった。
  • これは物理学の歴史に共通するテーマである。ニュートンの重力理論は惑星の運行といった単純な現象の予測には成功したが、潮汐のような、それより複雑な現象を定量的に説明することはできなかった。現在、われわれは、量子色力学という理論(クォーク原子核內部の陽子と中性子の中に保っている強い力に関する理論)について同じような状況にある。エネルギー電子とその反粒子が崩壊する際の、強い相互作用をするさまざまな粒子の生成といった、高エネルギー状態のプロセスがうまく説明できるため、この理論は正しいと信じられている。しかし、この理論は、陽子や中性子の質量といったものの正確な数値の計算には使えない。計算が複雑すぎるからである。ニュートン潮汐理論と同じく、この場
    合も辛抱して待つのが正しい態度である。物理理論というものは、計算したいと思うすべての物事を計算できるわけではなくても、単純なものの計算が確実にできることが実証されれば、その正当性は証明されたものと見なされるのである。

 

  • 『プリンキピア」は運動及び万有引力の法則を確立したが、ニュートンの功績はそれだけではない。ニュートンは、幅広いさまざまな現象を精密に支配するシンプルな数学的原理という、物理理論の一つの模範を未来に示したのである。ニュートンも充分承知していたとおり、重力が唯一の物理的力というわけではないが、当時分かっていた範囲内では彼の理論は、「宇宙のあらゆる粒子は他のあらゆる粒子を、その質量の積に比例し、互いの距離の二乗に反比例する力で引きつける」という普遍性を持った理論だった。『プリンキピア』は、惑星の運行に関するケプラーの三法則を、「単一の重い天体の重力に対する質点(訳注 : 力学上の概念。質量だけあって大きさのない点状の物体)の運動」という単純化された問
    題の正確な解として導き出しただけではなかった。『プリンキピア』はさらに、その他のさまざまな現象ー春分点の歳差、近日点の移動、彗星の軌道、惑星の月の運行、潮の満ち引き、リンゴの落下などーをも説明していた(中には定性的說明に留まるものもあったが)。これに比べれば、ニュートン以前の物理学理論はすべて狭い範囲の成功に過ぎなかった。
  • ニュートンの理論は広く一般に受け入れられたわけではなかった。ニュートン自身はユニテリアン派(三位一体の教理を否定し、神の唯一性を強調するキリスト教の一派)の敬虔な信者だったが、イギリスには神学者ジョン・ハッチンソンやバークレー司教など、ニュートンの理論の無機質な自然主義にショックを受ける人もいた。このような評価は、敬虔なキリスト教徒たるニュートンにはフェアではなかった。彼は、「惑星が重力によって引きつけ合っているのに太陽系が安定しているのはなぜか、太陽のように自ら光を発している天体もあれば、惑星やその衛星のようにそれ自体は暗い天体もあるのはなぜか、という問題は神の介入以外に説明がつかない」とまで主張していた。もちろん、現代のわれわれは、太陽や恒星の光を「太陽や恒星は、中心部の核反応によって熱せられて輝いているのだ」と自然主義的に理解することができる。
  • ニュートンの理論の普及にとってもう一つ障害となったものは、第八章で引用したロドスのゲミヌスの言葉に見られるような、数学と物理学との因習的な対立だった。ニュートンは本質や特性といったアリストテレス的用語を使わなかったし、重力の原因を説明しようともしなかった。ニコラ・ド・マルプランシュ神父(一六三八~一七一五年)は「プリンキピア」を評して、これは物理学者の著作ではなく幾何学者の著作だと述べた。マルブランシュの言う物理学とは、明らかにアリストテレス流の物理学のことである。ニュートンの物理学が物理学の定義を変えたことに、マルブランシュは気づかなかったのである。

 

  • ニュートンの理論のような、数多くの観測結果を見事に説明する理論を考えもな
    しに否定してはならない、という教訓である。その理論がうまく機能する理由を考案者自身も正しく理解していない場合もあり得るし、科学理論はいずれ、さらにうまく機能する理論の近似理論だったと判明するものだが、それらは決して単なる誤りではない。
  • この教訓は二十世紀に時として軽んじられることがあった。一九二〇年代、物理理論のまったく新しい枠組みである量子力学が誕生した。量子力学では、惑星や粒子の軌道を計算する代わりに、確率の波(任意の位置と時間におけるその強さによって、その位置と時間に惑星や粒子が発見される確率が分かる)の展開を計算する。決定論の放棄にショックを受けた、マックス・プランク、エルヴィン・シュレーディンガー、ルイ・ド・プロイ、アルバート・アインシュタインなど量子力学の考案者らは、量子力学理論の容認しがたい結果を示したきり、それ以上その理論を研究しなかった。量子力学に対するシュレーディンガーアインシュタインの批判は鋭いものだったし、それらは今でもわれわれ物理学者を悩ませ続けているが、量子力学は一九二〇年代末までにはすでに原子や分子や光子の特性をうまく解き明かすことに成功し、シリアスに受けとめざるを得ない存在になっていた。量子力学理論をこうした超一流の物理学者らが否定したという事実は、一九三〇年代から一九四〇年代にかけて達成された固体・原子核素粒子物理学における偉大な進歩に彼らが参加できなかったことを意味している。

 

生物学とその他の科学の統一の難しさ

  • 経験的事実には、一見、標準モデルのような無目的の物理理論に基づく見解を否定するかに思える側面がある。生物について語るとき、目的論を避けて通ることはできない。心臓や肺、根や花を記述するときには、それが果たす目的という観点から記述するのがふつうである。この傾向は、ニュートン以後、カール・フォン・リンネやジョルジュ・キュヴィエのような博物学者によって動植物の知識が増大するにつれて強まるばかりだった。神学者ばかりでなくロバート・ボイルやアイザック・ニュートンといった科学者たちも、動植物の驚くべき能力を知るにつけ、それを、慈悲深い創造者が実在する証と考えてきた。動植物の能力を超自然的存在抜きに説明できるとした場合でさえ、生物学はニュートンの理論のような物理理論とはまったく異なる目的論的原理の上に成り立っているのだという見解が長い間当然視されてきた。
  • 生物学とその他の科学との統一は、十九世紀半ば、チャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ラッセル・ウォレスがそれぞれ別個に提唱した自然淘汰による進化論によって、初めてその可能性が開かれた。当時、生物が進化するという考え方は、化石の研究からすでに珍しいものではなくなっていた。進化という現実を受け入れた人々の多くは、それを、「よりよいものになることは、生物が本来持っている傾向だ」という生物学の基本原理の結果だと説明した。このような原理が当てはまるとすれば、生物学と物理学の統一は絶対に不可能である。これに対してダーウィンとウォレスは、「進化は遺伝性変異によって起きる。有利な変異もそうでない変異も同じ確率で起きるが、生存及び生殖の可能性を向上させる変異は広まりやすいのだ」と説明した。
  • 進化のメカニズムとして自然淘汰説が受け入れられるまでには、長い時間が必要だった。ダーウィンの時代には遺伝のメカニズム(つまり、遺伝性変異の出現のメカニズム)は知られていなかったから、もっと目的論的な理論を期待する余地が残されていた。「数千万年にわたってランダムな遺伝性変異に自然淘汰が働いた結果、人類が生まれたのだ」と想像するのは不愉快なことだった。最終的に遺伝の法則と突然変異出現の法則が発見されたことによって、二十世紀に「現代進化論」が誕生し、自然淘汰による進化論はより確固たる基礎の上に築かれることとなった。遺伝情報がDNAという二重らせん構造の分子によって伝達されることが解明されたことによって、ついに現代進化論は化学に、ひいては物理学に裏付けられることとなった。
  • こうして生物学は、物理学に基礎を置く統一的自然観を化学と共有することになった。しかし、この統一に限界があることは認めざるを得ない。生物学の言語や手法を廃して、個々の分子という観点から生物を記述することなどできるはずがない(まして、クォークや電子の観点など論外である)。まず第一に、生化学の大きな分子よりもずっと複雑な生物を、そんな方法で記述することはできない。さらに重要なのは、植物や動物を構成する原子一つ一つの動きを仮にすべて追うことができたとしても、その膨大なデータの中で、本当に知りたいこと―インパラを狩るライオンとか、ミツバチを誘う花とか――を見失ってしまうだろうということである。
  • 化学とは違い、生物学にとって問題はもう一つある(同じことが地質学にも当てはまる)。生物の現在のありようは物理法則だけに従ってそうなったのではなく、そこには無数の歴史的偶然が関わっている。六千五百万年前の地球に彗星または隕石が衝突して恐竜を絶滅させたこともその一つだし、そもそも、原始地球の化学的組成やそれが形成された位置も偶然である。こうした偶然の中には統計学的に理解できるものもあるが、一つ一つの偶然を個別に理解するわけにはいかない。ケプラーは間違っていた。物理法則のみから太陽と地球の距離を計算することは絶対にできない。「生物学とその他の科学との統一」とは、(地質学に関してと同様に)生物学だけに当てはまる独立した原則が存在しないことを意味しているに過ぎない。生物学の一般的原則はすべて、歴史的偶然(定義上、これを説明することは不可能である)とともに基本的物理法則によって成り立っている。

統一された自然観への道のり

  • このような考え方は、(しばしば非難の意を込めて)「還元主義」と呼ばれる。物理学の内部にさえ反還元主義が存在する。液体や固体を研究する物理学者は、熱や相変化といった、素粒子の詳細に左右されない概念(素粒子物理学にはこれに当たる概念は存在しない)の巨視的現象の記述において、「創発」(訳注:部分の性質の単純な総和に留まらない性質が、全体として現れること。要素還元による分析では捉えきれない)の例を挙げることが多い。たとえば、熱力学はさまざまな系に適用できる。マックスウェルやボルツマンによって考察された、多数の分子を含む系だけでなく、巨大なブラックホールの表面にも適用できる。だが、何にでも適用できるわけではないし、熱力学が特定の系に適用できるかどうかを問題にするとき、さらに、適用できる場合にその理由を問題にするときには、さらに深い、さ
    らに真に基本的な物理法則に言及せざるを得ない。この意味では、還元主義は科学的手法を改革するためのプログラムではない。それは、なぜ世界がこのようなものであるのかという一つの見解なのである。
  • これから科学がこの還元主義の道をどこまで進んでいくのかは分からない。人類の持つ手段ではこれ以上の進歩は不可能だという限界が来るかもしれない。現在、水素原子の質量のおよそ倍という質量(「プランク質量」と呼ばれている。同じ距離にある二つの電子間の電気的反発力と同じ強さの重力を持つために粒子が持っていなければならない質量のこと)を基準にすることによって、重力及びその他のまだ発見されていない力を標準モデルの諸々の力と統一できるのではないかと考えられている。だが、人類の経済的資源のすべてが物理学者の自由裁量に任されたとしても、そんな巨大な質量を持つ粒子を実験室内で創造することはできないだろう。
  • あるいは、人類の知的資源のほうが尽きてしまうかもしれない。真に基本的な物理法則を理解するだけの能力は人類にはないかもしれない。あるいは、全科学の統一枠に収めることが原理的に不可能な現象に遭遇するかもしれない。たとえば、意識を引き起こす脳内のプロセスというものは充分に理解できるようになるかもしれないが、意識のある感覚そのものを物理学の用語でどのように記述するかは見当がつかない。
  • それでも、われわれはこれまでこの道を長い間歩んできたし、この道はまだまだ続いている。これは壮大な物語である。天空の物理学と地上の物理学はニュートンによって統一された。電気と磁気の統一理論が開発され、それで光を説明できると分かった。電磁気の量子理論が拡張されて弱い核力と強い核力を包含するようになり、化学と生物学までもが物理学を基礎とする(不完全ながら)統一された自然観に組み入れられた。さらに基本的な物理理論へと、われわれの発見する幅広い科学法則はこれまで還元されてきたし、今も還元されつつあるのである。