反脆弱性

  • 社会を脆くし、危機を生み出している主犯は、〝身銭を切らない 〟人たちだ。世の中には、他者を犠牲にして、自分だけちゃっかりと反脆(はんもろ)くなろうとする連中がいる。彼らは、変動性、変化、無秩序のアップサイド(利得)を独り占めし、損失や被害といったダウンサイド・リスクを他者に負わせるのだ。そして、このような他者の脆さと引き換えに手に入れる反脆さは目に見えない。ソビエト=ハーバード流の知識業界は反脆さに対して無知なので、この非対称性が着目されることはめったにないし、教えられることは(今のところ)まったくない。さらに、2008年に始まった金融危機でわかったように、現代の制度や政治事情が複雑化しているせいで、破綻のリスクを他者に押しつけても、簡単には見破られない。 かつて、高い地位や要職に就く人というのは、リスクを冒し、自分の行動のダウンサイドを受け入れた者だけだった。そして、他者のためにそれをするのが英雄だった。ところが、今日ではまったく逆のことが起こっていて、逆英雄という新しい人種が続々と出現している。官僚。銀行家。ダボス会議に出席する国際人脈自慢協会の会員のみなさん。真のリスクを冒さず説明責任も果たしていないのに、権力だけはやたらとある学者など。彼らはシステムをいいように操作し、そのツケを市民に押しつけている。歴史を見渡してみても、リスクを冒さない連中 、個人的なエクスポージャーを抱えていない連中が 、これほど幅を利かせている時代はない」
  • アリの集団では手段としての自己犠牲は厳然と存在しているが、個々のビジネスマンが経済全体のためにハラキリをしようとは思わないはずだ。したがって、ビジネスマンは自分自身が反脆く(少なくともある程度頑健に)なろうとする。これは、必ずしも集団(つまり経済)の利益とは一致しない。こうして、全体(集団)の性質と各部分の性質が対立するという問題が生じる。実際、全体は部分へと害を押しつけようとする。
  • だからといって残酷さが改善の原動力だなんて考えるのは、いくらなんでもつらい。
  • じゃあ、解決策は? 残念ながら、みんなが喜ぶ解決策はない。だが、いちばんの弱者が受ける害を緩和する方法ならある。
  • 問題はあなたが考えるよりも深刻だ。人々がビジネス・スクールに通うのは、生き残りつつ、がっぱりと金を稼ぐ方法を学ぶためだ。しかし、経済全体が彼らに求めているのは、生き残ることではなく、勝算に目が眩んで、とんでもないリスクを冒すことなのだ。人々が失敗を繰り返すたびに、それぞれの業界は改良されていく。母なる自然や自然と似たシステムは、個人がある程度自信過剰であることを求めている。つまり、失敗が他人に影響を及ぼさないかぎりは、ビジネスの成功確率を過大評価し、失敗確率を過小評価してくれたほうがいいわけだ。ひと言でいえば、大域的な自信過剰ではなく、局所的な自信過剰が必要なのだ。
  • すでに説明したとおり、レストラン業界がとびきり効率的なのは、個々のレストランが脆弱で、いつつぶれてもおかしくないからだ。そして、オーナーが勝ち目はあると思い、つぶれる可能性なんてまったく考えていないからだ。つまり、ある意味では軽率な、場合によっては自殺行為的なリスクを冒すことは、経済にとっては健全なことなのである。ただし、全員が同じリスクを冒すことがなく、リスクが小規模で局所的であるという条件付きだ。
  • さて、あとで詳しく説明するように、政府は企業救済によってこのモデルをぶち壊しにしている。政府はたいてい、被害がほかの企業に及ぶのを避けるために、大きくてつぶせない。一部の企業を優遇している。これは健全なリスク・テイク、つまり集団から不適応者へと脆さを移転するのとは正反対だ。
  • なかなか理解してもらえないのだが、唯一の解決策は、誰かが破綻してもほかの人々が巻き添えを食わないシステムを構築することだ。なぜなら、失敗の繰り返しはシステムを守るからだ。逆説的なことに、政府の介入や社会政策の多くが、結果的に弱者を傷つけ、強者をいっそう強くしている。

 

いじくり回し(ティンカリング)ー自然はオプションを行使する

  • フランスの偉大な生物学者、フランソワ・ジャコブは、自然の体系に備わっているオプションの概念(またはオプション風の性質)を科学の世界に取り入れた最初の人物である。彼は、試行錯誤によって得られるこのオプションを、フランス語で「ブリコラージュ」と呼んだ。ブリコラージュとは、「工夫」と同じような意味を持つ一種の試行錯誤のことで、普段なら捨ててしまうようなものを再利用して、あり合わせのものですませることを指す。
  • ジャコブは、子宮の内部でさえ、自然は選択のすべを知っていると主張する。すべての胚のうちおよそ半分は自然流産する。そのほうが、設計図から完璧な胎児を作るよりも簡単だからだ。母なる自然は、自分の基準を満たすものだけを手元に残す。または、カリフォルニア流の「早めに失敗する。というやり方に従う。つまり、自然はオプション(選択肢)を持っていて、それを行使するわけだ。効果を理解しているのだ。自然は人間よりもずっと明確に、そしてアリストテレスよりは間違いなくはっきりとオプション性の効果を理解しているのだ。

 

  • 産業革命のころのイギリスと同じで、アメリカの財産は、ひと言でいえばリスク・テイクとオプション性の使い方にある。アメリカは、合理的に試行錯誤する驚くべき能力を持っている。失敗し、やり直し、また失敗しても、そんなに恥をかくことはない。それと比べて、現代の日本はどうだろう。失敗は恥になる。だから、人々は金融や原子力のリスクを絨毯の下に隠そうとする。小さな利益のた
    めに、ダイナマイトの上に座ろうとする。朽ちた英雄、つまり“高貴なる敗北、に敬意を払ってきた昔の日本とは、奇妙なくらい対照的だ。

 

  • 七面鳥は1000日間、肉屋に育てられる。1日がたつたびに、七面鳥アナリスト
    は、肉屋が七面鳥を愛しているという統計的信頼度が高まっていると確信する。肉屋は、感謝祭の数日前まで七面鳥を育てつづける。そしてその日はやってくる。おいおい、七面鳥というのはどうやらあんまりいい身分じゃないみたいだぞ。「肉屋は七面鳥を愛している」という命題の信頼度が最大になり、七面鳥の人生が、非常に安定、していて、何もかも予測どおりに進んでいたちょうどそのとき、肉屋は七面鳥をびっくり仰天させる。そして、七面鳥は今までの信念を改めるのだ。この例はバートランド・ラッセルの比喩を脚色したものだ。
  • ここで重要なのは、このサプライズは七面鳥にとってはブラック・スワン的な事象でも、肉屋にとってはそうじゃないということだ。
  • この七面鳥の話から、質の悪い間違いの根本原因がわかる。「(有害性の)証拠がないこと」を「(有害性が)ないことの証拠」と勘違いしてしまうことだ。あとで説明するように、この種の間違いは知人の間で蔓延していて、社会科学の分野にもすっかり根を下ろしている。
  • したがって、私たちの人生の目標は「七面鳥にならないこと」であり、欲をいえば七面鳥の逆になること、つまり反脆くなることだ。「七面鳥にならない」ためには、まず真の安定と作り物の安定を見分けられるようにならなければならない。
  • 変動性を奪われ、抑圧されていたシステムが暴発すると、どんなことになるかは簡単に想像できるだろう。その好例がある。2003年、アメリカによってサダム・フセインとその政権は突如崩壊し、バアス党は解体され、 10万人以上が亡くな った。それから1年がたった今でも、混乱は続いている。
  • 厳密な制御が裏目に出て、崩壊を引き起こすことを科学的に説明したのが、電磁理論で有名なジェームズ・クラーク・マクスウェルだ。「ガバナー(調速機)」とは、突然の変動を相殺することで蒸気機関の速度を制御する機構である。その目的はエンジンを安定させることだ。一見すると安定させられるように見えるのだが、予測不能な動作や崩壊を起こすことがあった。軽い制御はうまくいくのだが、厳密に制御しようとすると過剰反応を引き起こし、機械がバラバラに壊れることもある。1867年に発表された有名な論文『ガバナーについて(On overnors)』で、マクスウェルはこの挙動をモデル化し、エンジン速度の厳密な制御が不安定性につながることを数学的に証明した。
  • 驚くべきことに、マクスウェルの美しい数式や厳密な制御の危険性は、色んな分野に一般化できる。そして、偽りの安定性や目に見えない長期的な脆さを明らかにするのにも役立つ。市場価格を固定すると(あるいは、同じような意味として、「ノイズ・トレーダー」と呼ばれる投機家を排除して、適度な変動性をも取り除こうとすると)、市場は安定したように見えるが、平穏な時代が続いたあと、急激
    な変動が訪れる。投資家たちは変動性に慣れていないので、わずかな価格変動さえもインサイダー情報や状況の変化とみなし、パニックを起こす。為替がずっと微動だにしなければ、ほんのちょっと変動しただけでも、人々は世界が滅亡すると思うだろう。ある程度の混乱があるほうが、システムは安定するのだ。
  • 変動性を人工的に抑えることの問題点は、システムが極端に脆くなることだけではない。同時にリスクが見えなくなることだ。変動性は情報だと話したのを思い出してほしい。実際、脆いシステムでは、物言わぬリスクが水面下で蓄積していても、システム自体は静かで、ほとんど変化がないことが多い。政治のリーダーや経済の政策立案者たちは、口では変動を抑えてシステムを安定させると言っていても、実際にはたいがいその逆を行っている。人工的に抑圧されたシステムは、ブラック・スワンの影響を受けやすいからだ。このような環境は、やがて一気に吹っ飛び、みんなに不意打ちを食らわせ、ずっと続いていた安定を帳消しにしてしまう。そしてたいていは、不安定だった時代よりも、はるかに状況が悪化してしまうのだ。システムが吹っ飛ぶまでの時間が長ければ長いほど、経済や政治のシステムに及ぼす被害は深刻になる。
  • 干渉主義には欺瞞の要素があり、専門化した社会ではその傾向がますます強まっている。「私はこんなことをしてあげました」とアピールするほうが、「私はこんなことを防いであげました」とアピールするよりも、ずっと簡単だ。もちろん、パフォーマンス・ベースのボーナス制度がこの問題を悪化させている。
  • 私は、何かをしなかったことで名声を得た英雄がいないものかと歴史を調べてみたが、何かしなかったというのは探すのが難しい。結局、なかなか見つからなかった。(お金のかかる)腰の手術をする代わりに、自然治癒に任せた医者は、いかにも手術が必要であるかのように見せかけ、患者を手術のリスクにさらしつつ治療を施し、莫大な金銭的報酬を得る医者と比べれば、報われないし、名声も得にくい。ピンクのロールス・ロイスを乗り回すのは、たいてい後者のような医者だ。
  • また、損失を回避した企業経営者も評価されることは少ない。ブラック・スワンの世界では、大災害を防いだ人こそ本当の英雄だ。だが、災害は起きなかったわけだから、当然評価もされないし、ボーナスももらえない。倫理、ボーナス制度の不公平さ、そしてそういう不公平さが複雑化によって拡大する仕組みについては、第7部で詳しく扱う。
  • ハーバード大学の経済学者の論文を読むのは、論文を書こうとしている人たちだけだ。そしてその論文を読むのも、論文を書こうとしている人たちだ。そうして彼らは、歴史という名の無情なたわごと発見器に飲みこまれ、消えていく(そのほうがありがたい)。一方、小セネカとも呼ばれるルキウス・アンナエウス・セネカの書物は、彼の死から2000年近くたった今でも、本物の人々に読みつづけられている。

黄金の中庸を忘れよ

  • バーベル戦略の探求を続けよう。中庸が黄金の中庸にならない分野はいっぱいある。その分野でこそ、二峰性戦略(極端な安全策+極端なリスク・テイク)が活躍する。
  • 作家を例に取ろう。あらゆる仕事の中で、いちばん成功の望みが薄く、一か八かで、骨が折れ、リスクのある仕事だ。
  • フランスをはじめとするヨーロッパの文学作家の間では、閑職に就くという風習があった。たとえば公務員のように、不安がなく、ほとんど頭を使わずにすみ、雇用が保障されていて、リスクの低い職業だ。いったん職場を出てしまえば仕事のことを考えなくてすむので、空いた時間を執筆に充て、自分の思いどおりに好きなことを書ける。フランスの作家には、驚くほど学者が少ない。一方、アメリカの作家は、メディア界や学界の一員になることが多い。メディア界や学界の囚人となり、文章は壊れていく。研究者ともなれば、日常的な不安や重圧にさらされ、魂は著しく劣化していく。売春婦と同じように、他人の基準で一字一句を書かなければいけない。そのたびに、心の奥にある思いを押し殺すことになる。
  • 対して、閑職に就きながら執筆するというのは、とても安心なモデルだ。経済的な自立の次に、いやそれ以上に望ましい状態だ。たとえば、フランスの偉大な詩人、ポール・クローデルとサン=ジョン・ベルメや、小説家のスタンダールは、外交官だった。イギリスの作家の多くは公務員だった(トロローブは郵便局の職員だ)。カフカは保険会社に勤めていた。とりわけ、スピノザはレンズ磨きで生計を立てていたので、彼の哲学は学界の失敗に影響されることがなかった。
  • 私は10代のころ、真の文学や哲学をこころざすなら、私の多くの家族と同じように、暇で、楽しくて、ラクな、外交官みたいな職業に就くほうがいいと思った。オスマン帝国には、正教徒を密使や大使、さらには外務大臣にするという伝統があり、この伝統はレヴァント諸国にも引き継がれた(私の祖父と曾祖父は外務大臣だった)。私はキリスト教の少数派に対する風当たりが強くなることを心配していたが、その心配は的中した。しかし、私はトレーダーとなり、空いた時間に執筆をするようになった。そして、みなさんもお気づきのとおり、自分の好きなように書きつづけた。ビジネスマン兼研究者というバーベル戦略は理想的だった。午後3時か4時になり、会社を出れば、翌日まで仕事のことは考えなくていい。自分がいちばん重要で面白いと思うものを、好きなだけ追求できるのだ。学者を目指していたころは、まるで囚人のような気分だった。他人のいい加減で独善的な計画に付き合わざるをえないからだ。
  • そして、同時にふたつの職業に就かなくてもかまわない。ものすごく安定した職に就いたあと、リスキーな職に就くという手もある。たとえば、私の友人は、書籍編集者というとても安定した職業に就き、かなりの名声を築いた。それから10年くらいして、彼は非常に投機的でリスキーな仕事をするために退社した。これこそバーベル戦略そのものだ。挑戦に失敗したり、思っていたほど満足できな
    かったりしたら、いつでも前の職業に復帰できる。

 

  • はっきり言うと、起業家(特に技術系の起業家)は、必ずしも夕食の最高の友ではない。私は以前の職業で、人材を採用するときにこんなヒューリスティックを用いていたのを覚えている(私はこの方法を、「美術館を訪れたときにセザンヌの壁かけ絵画を見るタイプと、ゴミ箱の中身ばかり見ているタイプを区別する方法」と呼んでいる)。会話が面白い人ほど、教養が高い。そして、そういう人ほど、現実のビジネスでも自分は有能だと思いこむフシがある。心理学者はこの現象を「ハ
    ロー効果」と呼んでいる。たとえば、スキーがうまいからといって陶芸ワークショップの運営や銀行部門の経営もうまいとか、チェスの名手だからといって実生活でも名戦略家だと思いこむ現象だ。
  • 当然ながら、仕事のスキルと会話のスキルをイコールとみなすのはバカげている。私の経験からいえば、何かに腕の立つ人は、しゃべっている内容がちんぷんかんぷんなことがある。頭の中にある洞察や論理をわかりやすいスタイルや話に変えるのに、あまり力を費やす必要がないからだ。起業家は実践家であって思想家ではない。実践家の役割は実践することであり、話すことじゃない。だから、
    会話力で彼らを測るのは不公平だし、間違っているし、まったくもって無礼でもある。職人にも同じことがいえる。彼らの資質は製品の中にあるのであって、会話の中ではない。実際、職人も誤った思いこみを抱きがちだが、その副作用として、かえって質のよい製品が生まれる(逆医原病だ)。
  • 一方、官僚は、客観的な成功基準や市場の力がないので、表面的な外見や上品さのハロー効果で淘汰される。その副作用として、官僚はますます会話上手になる。だから、デブのトニーの親戚や回路マニアのコンピューター起業家と夕食をするより、国連の職員と夕食をするほうが、間違いなく会話は面白い。

 

  • 時系列を見てみると、確かに途中で科学は一定の役目を果たしている。コンピューター技術は、ほとんどの面で科学に頼っているからだ。しかし、アカデミズム科学は、科学の方向性を決めるうえでは何の役割も果たしていない。それどころか、不透明な環境の中で、偶然の発見の奴隷になりつづけてきたのだ。その過程にかかわってきたのは、大学中退組やませた高校生ばかりだ。どの段階を取ってみても、プロセスは自立的で予測不能だった。そして、それを不合理であるかのように語るのは大間違いだ。無料オプションが目の前に現われたときに、それに気づかないことこそ不合理なのである。
  • 中国は説得力のある例のひとつかもしれない。一流の観察者であるジョセフ・ニーダムは、自身の著書を通じて、欧米の信念を大きくくつがえし、中国科学の威力を明らかにした。だが中国がトップダウン型の高級官僚国家(かつてのエジプトのように、ソビエト= ハーバード・タイプの書記が指揮をとる中央集権国家)になると、官僚たちはどういうわけかブリコラージュ、の熱意、試行錯誤の意欲を失った。
  • ニーダムの伝記を記したサイモン・ウィンチェスターは、中国研究家のマーク・エルヴィンの説明を引用し、中国人は「ヨーロッパのようないじくり回しや改善に対する熱意」を持っていなかった(正確に言えば失ってしまった)のだと述べている。中国人は紡績機を作れるだけの手段を持ちあわせていたが、「誰も試さなかった」のだ。これも知識がオプション性を妨げた例だ。中国に必要だったのは、おそらくスティーブ・ジョブズのような人間だろう。大学教育に毒されておらず、適度な気性の荒さを持ち、色々な要素を自然と結びつけられる人間だ。次のセクションで見るように、産業革命を起こしたのは、こういう既成概念にとらわれない実践家なのだ。
  • 次に、ふたつの事例を検証しよう。ひとつ目は産業革命で、ふたつ目は医学だ。まず、産業革命についての因果関係の誤りを暴いていこう。ここでも、科学の役割が過大評価されている。

産業革命(科学過大評価の事例1)

  • 知識の形成は、たとえそれが理論的な知識であっても時間がかかるし、いくらか退屈さも伴う。それに、学者とは別の職業に就くことで手に入れる自由も必要だ。ニューヨーク市のチャイナ・タウンで売っている模造品の時計のように、本物そっくりなのに偽物とわかりきっているような表面的知識を次々と生み出さなければ生き残れない、現代の学界のジャーナリズム的圧力から逃れるためには、そうするしかないのだ。9世紀と20世紀初頭の技術的知識やイノベーションには、主にふたつの源があった。ひとつはアマチュア愛好家、もうひとつはイギリスの牧師だ。どちらも、たいていバーベル型の状況にいた。
  • 当時の研究は、かなりの部分が牧師によって行われていた。イギリスの教区牧師は、心配事もないし、博学で、大きな(少なくとも快適な)家があり、お手伝いさんがいて、クロテッド・クリームを塗ったスコーンと紅茶がいつでも愉しめ、自由な時間がたっぷりとあった。そしてもちろん、オプション性があった。ひと言でいえば、見識あるアマチュアだ。いちばん有名なのは、牧師のトーマス・ベイズ(ベイズ確率論)やトマス・マルサス(絶対的過剰人口)だ。
  • しかし、驚きはまだまだある。ビル・ブライソンは著書『僕のウチ(At Home)』で、教区牧師や聖職者のほうが、科学者、物理学者、経済学者、発明家の10倍も後世に爪痕を残していると指摘している。先ほどのふたりの巨人に加えて、地方の聖職者の貢献を思いつくままにリストアップしてみよう。エドモンド・カートライト牧師は力織機を発明し、産業革命に貢献した。ジャック・ラッセル牧師はテリアを生み出した。ウィリアム・バックランド牧師は恐竜に関する最初の権威だ。ウィリアム・グリーンウェル牧師は現代考古学の礎を築いた。オクタヴィアス・ピカード= ケンブリッジ牧師は蜘蛛の第一人者だった。ジョージ・ギャレット牧師は潜水艦を発明した。ギルバート・ホワイト牧師は当時としてはもっとも高名な博物学者だった。M・J・バークリー牧師は菌類の第一人者だった。ジョン・ミッチェル牧師は天王星の発見に貢献した。などなど。
  • ハウグと一緒にまとめた話と同じように、体系的な科学の世界では身内が作ったわけではないものが無視される傾向にある。つまり、目に見えているアマチュア愛好家や実践家の貢献リストは、間違いなく実際よりも短い。先人のイノベーションを横取りする学者もいただろうから。
  • 少し詩的な気分にふけってみよう。自立的な学究には美的な側面がある。長い間、私はフランスの偉大な中世史家、ジャック・ル・ゴフの次の格言を書斎の壁に掲げていた。彼は、ルネッサンスはプロの学者ではなく個々の人文主義者の手でもたらされたと考えている。そのうえで、中世の絵画、デッサン、描写の中で描かれている、中世の大学教員と人文主義者の対照的な違いを見出している。
  • 一方には、大勢の学生に取り囲まれている教授がいる。もう一方には、平穏な個室に座り、広くて快適な部屋でくつろぎながら、自由に考えを巡らせている孤高の学者がいる。一方には、学校の喧噪、教室の埃、そして美に無関心な雑然とした仕事場がある。もう一方にあるのは、秩序と美。つまり贅沢、平和、悦楽だ。
  • マチュア愛好家全般についていえば、産業革命をもたらしたのは愛好家たち(そして勇猛果敢な冒険家や個々の投資家)だという証拠がある。
  • 前にも話したように、歴史家でもなく、幸い経済学者でもなかったキーリーは、著書『科学研究の経済学的法則 (The Economic Laws of Scientific Research)』の中で、従来の「線形モデル」(アカデミズム科学が技術をもたらすという考え方)に疑問を呈している。彼は、国家の豊かさが大学の繁栄を導くのであって、その逆ではないと考えている。さらに、浅はかな干渉主義と同じように、大学は医原病を引き起こし、負の貢献をもたらすとまで主張している。政府が介入し、税金で研究を助成している国では、民間が手を引き、民間投資が減少するとも報告している。たとえば、日本では、経済産業省による投資効果は乏しい。私が彼の考えを持ち出しているのは、科学助成の政策に反対するためではなく、単純に重大な発見の因果関係の誤りを暴くためだ。

 

  • 世の中には、ゲームのように、規則が事前にはっきりと定められている「お遊びの世界」と、実生活のように、規則が明確ではなく、変数同士を切り離して考えられない「生きた世界」のふたつがある。私は一方の世界からもう一方の世界へとスキルを応用できないのを見て、路上のケンカや実生活ではなく、教室で身につけたスキルや人工的に学んだものすべてに疑いを持つようになった。
  • あまり知られていないことだが、チェスの名手がチェス以外でも高い推論能力を発揮するという証拠はない。目隠しチェスの多面打ちができる人でさえ、チェス盤を離れれば記憶力は人並みだ。私たちはゲームの領域依存性を認めている。ゲームをしても人生勉強の代わりにはならないし、ゲームのスキルを人生に置き換えるのが難しいことは認めている。でも、学校で習った専門的技術には、なかなかこの教訓を応用できない。教室で学んだことはほとんど教室でしか通用しないという重大な事実は受け入れられないのだ。
  • もっと悪いことに、教室には目に見える事もある。めったに話題にならない「医原病」だ。私はローラ・マルティニョンから、彼女の教え子である博士課程の学生、ビルギット・ウルマーの研究結果を見せてもらった。それによると、子どもの数を数える能力は、算数を教わった直後に低下するのだという。

 

  • 1980年代のある日、私は有名な投機家と夕食をともにしていた。大成功した男だ。その彼が誇張してこんなことを言った。「ほかの人がもう知っていることの大部分は、学ぶ価値などない」。私は心を打たれた。
  • 私は今でも、ある職業で成功するために知っておくべき極意みたいなものは、必ず教科書以外にあると思っている。それも中心からなるべく離れたところに。だが、読む本を選ぶときに、自分の心の声に従うというやり方には、ひとつ重大な意味が潜んでいる。私は学校で勉強しろと言われたことはまったく覚えていない。でも、自分で決めて読んだものは、今でも覚えているのだ。

 

  • 軍隊が巨大になればなるほど、予算超過は不釣り合いに大きくなる。
  • しかし、20倍以上の誤差をも生み出す戦争は、政府が爆発的な非線形性(凸効果)を見くびる一例にすぎない。金融の意思決定や大がかりな意思決定に関して、政府を信頼してはならない理由はほかにもある。実際、戦争などなくても、政府は私たちを赤字財政というトラブルに巻きこんでいる。現代のプロジェクトの98パーセントが予算超過を抱えているのとまったく同じ理由で、政府もプロジェクトのコストを慢性的に過小評価しているのだ。そうして、当初の発表よりも出費がかさむはめになる。だからこそ、私は政府にひとつの行動規範を求めている。「借り入れの禁止、均衡財政の徹底」だ。

効率的が効率的でないとき

  • 脆さがもたらすコストは、肉眼でもすぐにわかるほど膨らみつづけている。世界的な災害のコストは、1980年代と比べて、インフレ調整後でも3倍以上に増加している。過激な事象について研究する先見的な研究者、ダニエル・ザイデンウェーバーが少し前に指摘したように、この現象は加速の一途をたどっているようだ。

 

ペテン師はどこにいる?

  • 干渉主義者は肯定的な行動、つまりすることを重視する。私たちの幼稚な頭脳は、肯定的な定義と同じように、作為を敬い、称賛する。その結果、政府は浅はかな干渉を行い、惨事を招く。すると、政府の浅はかな干渉が惨事を招くという認識が広まり、不満が高まる。するとこんどは、政府はもっと浅はかな干渉に走る。不作為、つまり何かをしないことは、行動とはみなされないし、目標に掲げられることもない。表3(上巻197ページ)では、その影響が医療からビジネスまで広範囲に及んでいることを示した。
  • 私はこれまでの人生で、驚くほどシンプルなヒューリスティックを使ってきた。ペテン師の特徴は、肯定的なアドバイスだけをするということだ。
  • 私たちは、聞いた瞬間に「なるほど!」と思っても、あとになればすっかり忘れてなくなってしまうようなコツにだまされやすい。ペテン師は私たちのそういう信じやすさやだまされやすさにつけこむのだ。ハウツー 本を見ればわかる。「○○ための0のステップ」(○○ = 金持ちになる、体重を減らす、友だちを作る、イノベーションを行う、みんなに選ばれる、筋肉を鍛える、夫を見つける、孤児院を運営する、などなど)というタイトルの本が山ほどある。だが、現実には、進化の過程で淘汰されたプロたちが使うのは、否定的な方法だ。チェスのグランドマスターはふつう、負けないことで勝ちを得る。人々は破綻しないことで金持ちになる(特にほかの人が破綻しているとき)。宗教はほとんど禁止事項で成り立っている。何を避けるべきかを学ぶのが人生だ。私たちは、小さな予防策の積み重ねで、個人的な事故のリスクの大半を緩和している。

 

  • 自然に生まれた重さの単位にはそれなりの理屈があることに気づいている人は少ない。私たちがフィート、マイル、ポンド、インチ、ハロン、ストーン(イギリスのみ)を使うのは、これらの単位がとても直感的で、理解に努力がいらないからだ。どの社会にも、身の回りにある物理的なものに対応した単位があるだろう。
  • 1メートルは何にも一致しないが、1フィートは一致する。「30フィート」の意味は難なく想像できる。マイル(mile)は、1000歩を意味するラテン語のmilia passumに由来する。また、1ストーン(1ポンド)はそう.…石だ。インチ(またはプース)は親指に相当する。ハロンは息が切れることなく全力疾走できる距離。ポンドは、libra(ラテン語で天秤)に由来し、両手に持っているのが想像できる重さだ。第2章のタレスの物語で、「シェケル」という単位を用いた。これはカナン系のセム語で「重さ」を意味し、ポンドと同じように物理的な意味合いを含む。これらの単位が古代の環境で用いられるようになったのには、ある種の必然性がある。実際、10進法そのものも、10本の指との対応から生まれたものだ。

 

  • 科学的成果を科学者という言葉に置き換えても、同じような最新性愛症的ないんちきは色々なところにある。たとえば、40歳未満の有望な科学者に賞を与えるという病がはびこっている。この病は、経済学、数学、金融などへと感染している。数学は成果の価値がたちどころにわかるという点で、少し特殊だ。なので、批判からは除外する。文学、金融、経済学など、私がよく知っている分野につい
    ていえば、40歳未満の人に与えられる賞というのは、間違いなくロクなもんじゃないことを示す最高の指標だ(トレーダーの間では十分な裏づけのある常識なのだが、潜在性が高く評価されていて、雑誌の表紙や『ビジョナリー・カンパニー。』みたいな本で「最高」と称される企業は、だいたい期待を下回る。だ
    から、そういう株を空売りすれば、しこたま儲けられるのだ)。こういう賞の最大の悪影響は、賞がもらえない人々に罰を与えるうえに、その分野をスポーツ競技に変え、価値を貶めるという点だ。
  • 賞を設けるなら、「100歳以上」にするべきだ。たとえば、ジュール・ルニョーという人物の場合、功績が認められるまでに140年近くかかった。彼はオプションの性質を発見して数学的に記述した(また、本書の言葉でいう「賢者の石」を発見した)。ところが、彼の研究はずっと注目を浴びてこなかった。
  • 科学の世界がどれだけ渾沌としているかを確かめたいなら、高校時代や大学時代に興味津々で読んでいた初級のテキストを持ってきてほしい。分野は何でもかまわない。適当な章を開いて、今でも通用するかどうか確かめてほしい。面白いかどうかは別として、たぶん今でも通用するはずだ。

 

  • 画期的成果を発表する学会に参加するのは、統計的にいって、払い戻しの少ないちんけな宝くじを買うのと同じくらい、時間の無駄なのだ。その論文が5年後にも通用し、まだ注目を集めている確率は、せいぜい1000にひとつだろう。これこそ科学の脆さだ!
  • 最新の学術論文を読むくらいなら、高校の教師や冴えない大学教授の話を聞くほうが、最新性愛症に毒されていない分、価値があるだろう。私にとって哲学の最高の語り相手といえば、フランスの高校の教師たちだ。彼らは哲学が好きだが、哲学の論文を書いてキャリアを追うことには興味がない(フランスの高校では最終学年に哲学を学ぶ)。どの学問分野でも、交流できるならアマチュアがいちば
    んだ。学問好きの素人とは違って、職業専門家にとっての知識というのは、売春婦にとっての愛のようなものなのだ。
  • もちろん、運がよければ宝石に出会うこともある。しかし一般的には、学者との会話はせいぜい配管工のそれと変わらない。最悪の場合、下劣なゴシップを言いふらすアパートの管理人の会話と変わらなくなる。どうでもいい人間(ほかの学者)のゴシップや、つまらない世間話だ。確かに、一流の科学者の話にうっとりすることもある。彼らは自分の専門分野の小さなピース一つひとつをつなぎあわせながら、知識を集約し、話を難なく操ることができる。だが、そんな人はこの地球上にはめったにいない。

 

  • 私たちは過去の行動を教訓にできない。再帰的な学習(二次的な思考)ができないと、次のような問題が生じる。これまでの歴史の中で、長い目で見て価値のあるメッセージを発した人が迫害されてきたとすれば、ふつうは何らかの修正メカニズムが働くと思うだろう。賢い人々が過去の体験を教訓にし、新しいメッセージを発する人たちを新しい理解の仕方で迎えるはずだ。でも、そんなことはひとつも起こっていない。
  • この再帰的な思考の欠如は、予言だけではなく、ほかの人間の営みにも当てはまる。たとえば、本当にツカえるのは、ほかの人たちが思いつきもしなかったような新しいアイデア(一般に言う イノベーション)だと思うなら、人々はそれに気づき、他人の考えなんて気にしなくても新しいアイデアを見分けられるようになるはずだ。でも、そんなことは起きていない。オリジナル、とみなされるものはたいてい、発見された当時は新しくても、今ではちっとも新しくないものに基づいてできている。だから、多くの科学者は、アインシュタインみたいな問題を解くのがアインシュタインになることだと思っている。しかし、アインシュタインが解いたのは、当時にしてみればふつうの範疇にはない問題だった。物理学の世界では、アインシュタインになろうという考えそのものがオリジナルではないわけだ。リスク管理の分野にも同じような誤りはある。科学者たちは、ふつうのやり方で新しいことをしようと汗をかいている。

 

  • 私は同僚のダニエル・ゴールドスタインと共同で、数理ファイナンスの専門家である「クウォンツ」の研究を行った。その結果、圧倒的大多数のクウォンツが、ほとんどの数式で使われている「分散」や「標準偏差」といった初歩的な概念の持つ実践的な影響を理解していないことがわかった。
  • エムレ・ソイヤーとロビン・ホガースによる最近の有力な研究によれば、「回帰」やら「相関」といった難解な数値を扱う計量経済学の分野のプロや専門家の多くが、自分たちのはじき出している数値を実践へと置き換える際に、とんでもない間違いを犯しているという。数式を正しく扱うことはできても、現実に置き換えるときに大間違いをしてしまうのだ。どのケースでも、結果に潜むランダム
    性や不確実性を過小評価している。しかも、私が話しているのは、社会科学者や医者のような統計の使い手ではなく、ほかでもない統計学者が犯す解釈ミスなのだ。
  • 悲しいことに、こういったバイアスが行動につながることはあっても、行動をやめることにつながることはまずない。
  • さらに、脂肪が悪者にされ、無脂肪、 がはやし立てられている原因は、回帰分析の結果の初歩的な解釈ミスであることがわかっている。ある現象に対して、ふたつの変数(この場合、炭水化物と脂肪)が共同で責任を負っているのに、一方の変数の責任にされることもあるのだ。多くの人々は、脂肪と炭水化物の同時摂取によって起こる問題を、炭水化物ではなく誤って脂肪のせいにしている。さらに、偉大な統計学者であり、統計の解釈ミスを暴く名手であるデヴィッド・フリードマンは、共著者と共同で、みんなが気にしている塩分と血圧の関係には統計的な根拠がないと説明している(しかも、とても説得力のある方法で)。塩分と血圧の関係は、一部の高血圧の人たちには存在するのかもしれないが、法則というよりは例外の可能性が高いという。

 

身銭を切る英雄とエージェンシー問題

  • 本章では、誰かがアップサイドを手に入れ、別の誰かがダウンサイドを負うと、どんなことになるかを見ていく。
  • 現代性の最悪の問題点は、ある人から別の人へと脆さや反脆さが移転するという悪辣な現象にある。一方が利益を得ると、もう一方が(知らず知らずのうちに)損をこうむる。このような移転を助長しているのは、広がりつづける倫理と法律の溝だ。こういう状況は昔から存在したが、今日では特に激しい。現代性がうまく隠しているからだ。
  • これはもちろん、エージェンシー問題のひとつだ。
  • そして、エージェンシー問題はもちろん非対称でもある。
  • 私たちは根本的な変化に直面している。今日まで生き残ってきた伝統的な社会について考えてみてほしい。現代社会が伝統社会と大きく違うのは、英雄的行為がなくなったことだ。他人のために負のリスクを背負った人々に、一定の敬意を示し、権力を与えることが少なくなっている。英雄的行為はエージェンシー問題とは対照的だ。他者のために進んで不利益を背負うのだ(自分の命を懸ける、害をこうむるリスクを冒す、またはもっと穏やかなケースでは利益を放棄する)。ところが、現代のシステムはその正反対だ。銀行家、(起業家以外の)企業幹部、政治家のように、社会から無料オプションをかすめ取っているような連中に、権力が渡ることが多い。
  • 英雄的行為といっても、暴動や戦争ばかりではない。エージェンシー問題の逆の例がある。私は子どものころ、自動車に轢かれそうになっている子どもを命がけで守ったベビーシッターの話に感動したのを覚えている。誰かの代わりに死を選ぶことほど名誉なことはないと思う。
  • ひと言でいえば犠牲だ。この「犠牲(sacrifice)」という単語は「神聖(sacred)」と関係がある。つまり、俗世とは切り離された聖なる世界に属する行為なのだ。
  • 伝統社会では、他人のためにどれだけダウンサイドを背負う覚悟があるかで、その人の評価や価値が決まる(意外なことに、女性も例外ではない)。騎士、将軍、司令官など、もっとも果敢で勇気ある者が社会で最高の地位を占める。マフィアのボスでさえ、階級が上がれば上がるほど、ライバルのマフィアに襲われ、警察から重い罰を食らいやすくなるという事実を受け入れている。聖人も同じだ。彼らは弱い人々、貧しい人々、よりどころのない人々を助けるために、地位を捨て、命さえも捧げるのだ。

 

  • 私に言わせれば、世論を扇動する人たちは、その人の情報や意見に従って害が生じたときのために、身銭を切る、べきだ(たとえば、犯罪的なイラク侵攻の引き金を作った人々が、のうのうと無傷でいられる、なんてことがあっちゃいけない)。さらに、予測や経済分析を行う人は、ほかの人々がその予測に従って損をした場合に、何らかの不利益をこうむるべきだ(何度も言うが、予測はリスク・テイク
    を促す。予測は人間の生み出したどんな公害よりも、私たちにとって有毒なのだ)。
  • デブのトニーの法則から、補助的なヒューリスティックを色々と導き出すことができる。特に、予測システムの脆弱性を緩和するためのヒューリスティックだ。どんな形であれ、予測者が身銭を切らずにする予測は、エンジニアが構内に常駐していない無人原子力発電所と同じくらい、周りの人にとっては危険だ。飛行機にはパイロットが必要なのだ。
  • ふたつ目のヒューリスティックがいわんとしているのは、冗長性(安全性の幅)を設け、最適化を避け、リスク感受性の非対称性を緩和する(もっといえばなくす)必要があるということだ。

 

スティグリッツ症候群

  • トーマス・フリードマンの問題よりももっと深刻な問題がある。一般化すれば、行動を誘発しておきながら、自分の発言の責任をまったく取らない連中と言うことができる。
  • 私は次のような現象を、いわゆる「知的な、部類に入る経済学者、ジョセフ・スティグリッツにちなんで「スティグリッツ症候群」と呼んでいる。
  • 第19章で、脆さの見分け方と、私のファニー・メイへのこだわりについて話した。私は幸いにも、自分の意見を貫くために身銭を切り、中傷キャンペーンに参加した。そして2008年、予想どおりファニー・メイは破綻し、アメリカの納税者は数千億ドルの負担を負った(その負担はいまだに膨らみつつある)。同じようなリスクを抱えていた金融システム全般が崩壊した。銀行業界全体も同じようなエクスポージャーを抱えていた。
  • ところが、ちょうど同じ時期、ジョセフ・スティグリッツと同僚のオルザグ兄弟(ピーターとジョナサン)は、まったく同じファニー・メイを評価し、「過去の経験から見て、GSE債の潜在的なデフォルトによって政府が影響を受けるリスクはゼロに近い」と報告した。たぶんシミュレーションで
    も実施したのだろうが、彼らは自明の理を見落としていた。しかも、彼らは、デフォルトの確率は「推定するのが難しいくらい小さい」とも述べている。この種の発言(知的な傲慢や、稀少な事象を理解しているという錯覚)こそ、経済界が稀少な事象に対するエクスポージャーを高めた元凶だ。いや、唯一の元凶だと私は思っている。これこそ、私が闘っていたブラッ ・スワン問題であり、フクシマ問題なのだ。
  • 極めつけは、スティグリッツが2010年に書いた「ほうら言ったじゃないか」的な本だ。ご大層にも、彼は2007~2008年に始まった危機を予測、していたとおっしゃる。
  • 社会がスティグリッツやオルザグ兄弟に与えた、この常軌を逸した反脆さを見てほしい。あとでわかったように、スティグリッツは(私の基準からすれば)予言者でも何でもなかっただけでなく、微小な確率に対するエクスポージャーを蓄積するという問題の一端も担っていた。だが、彼はそれに気づきもしなかった! 学者というのは、何のリスクも冒さないものだから、自分自身の意見を覚えておくようにはできていないのだ。
  • 基本的に、学術誌に論文を発表することはできても、 リスクの理解能力はどんどん衰えていくという、おかしな能力を持っている連中は危険だ。問題を起こした張本人の経済学者が、危機を後言し、挙げ句の果てには起きた出来事に関する理論家になったりする。こんなことでは、もっと大きな危機が起きても不思議じゃない。
  • 要点はこうだ。もしスティグリッツがビジネスマンで、身銭を切っていたら、彼は吹っ飛び、終わっていただろう。彼が自然界にいたら、彼の遺伝子は絶滅していただろう。確率を誤解するような人間は、やがては人類のDNAから抹消されるはずだ。私が吐き気を覚えたのは、政府がスティグリッツの共同執筆者のひとりを雇ったということだ。
  • 実を言うと、この病理にスティグリッツの名前をつけるのには抵抗がある。紙面上だけでいえば、彼はずば抜けて知的で、いちばん頭の切れる経済学者だと私は思っている。だが、彼はシステムの脆さをまったく理解していない。そして、スティグリッツは、経済界が微小な確率を有害なほど理解できていないことを象徴している。これは深刻な病理だ。経済学者たちが再び私たちを吹っ飛ばすこと
    になっても不思議ではない。
  • スティグリッツ症候群は、いいとこ取りのひとつの形だが、加害者が自分の行いに気づいていないだけに、いちばん質が悪い。危険を察知できないばかりか、その原因を作っておきながら、自分自身には(時には他者にも) その逆だと言い聞かせる。自分は予言していたし、警告も発していましたよ、と言い聞かせるわけだ。この病理は、優秀な分析スキル、脆さへの無知、選択的な記憶、身銭を切ら
    ないことの組み合わせで成り立っている。
  • ここには、ほかの教訓もある。罰の欠如だ。これは「論文を書いておしゃべりする学者」症候群のいちばん重症な例なのだ(これから説明するように、学者が魂を捧げているなら話は別だ)。あまりに多くの学者が、ある論文で何かを提案し、別の論文では正反対のことを言っている。最初の論文が間違っていたとしても、何の罰も食らわない。求められるのはひとつの論文内の一貫性であって、キャリア全体を通じた一貫性ではないからだ。これ自体はかまわない。考えが変わり、昔の自分の意見を否定することもないわけではない。だが、それなら以前の“結果、は取り下げ、新しい論文で置き換えるべきだ。書籍なら、旧版は新しい版で置き換えられる。
  • 罰がないせいで、学者だけが反脆くなり、学者の研究結果が厳密だと信じた社会がツケを払うことになる。また、私はスティグリッツの誠実さを疑っているわけではない。少なくとも、嘘はついていないと思っている。彼は自分が金融危機を予言していたと本心から信じているようだ。だから、問題をこう言い換えたい。害のリスクを背負わない連中の問題点とは、矛盾しあう過去の発言の中から、好きなようにいいとこ取りできることだ。そしてしまいには、自分の知的洞察力は優れていると信じこんだまま、ダボス世界経済フォーラムに向かうのだ。
  • 人々に危害を加えるヤブ医者やいんちき薬のセールスマンにも医原病はあるが、彼らは確信犯であり、つかまればおとなしくする。ところが、専門家が引き起こす医原病はそれよりはるかに質が悪い。彼らはより説得力のある地位を利用し、あとになってから被害を警告していたと訴えるのだ。連中は自分が医原病を引き起こしていると自覚していないので、医原病で医原病を治そうとする。そう
    して、一気に爆発するわけだ。
  • 最後に、多くの倫理的問題を解決する方法を紹介する。この方法を使えば、スティグリ ッツ症候群も治療できる。その方法とは次のとおりだ。

他人に意見、予測、アドバイスを求めてはいけない。単に、ポートフォリオに何があるか(またはないか)を訊ねればいい。

  • 周知のように、多くの罪のない退職者たちが、格付会社の無能さによって被害を受けた。いや、無能さどころの話ではない。ジャンク債同然のサブプライム・ローンの多くが「AAA」、つまり政府債券に近い安全性と評価されていた。人々は疑うこともなく貯蓄をつぎこんだ。さらに、規制当局はポートフォリオ・マネージャーに格付会社の評価を用いるよう強制していた。だが、格付会社は守られている。格付会社は自身を報道機関と位置づけているが、詐欺を暴くという報道機関の崇高な使命は果たしていない。それに、格付会社は言論の自由から恩恵を受けている。「修正第一条」はアメリカの文化に深く根づいているのだ。
  • 私のささやかな提案はこうだ。何を言ってもかまわない。だが、ポートフォリオと発言を一致させるべきだ。それからもちろん、規制当局が予測アプローチ、つまり疑似科学に太鼓判を捺して、脆さを引き起こしてはいけない。
  • 心理学者のゲルト・ギーゲレンツァーは、単純なヒューリスティックを用いている。医者にどうすればいいかを訊いちゃいけない。私の立場だったらどうなさいますかと訊くのだ。違いに驚くだろう。

頻度の問題、あるいは議論に負ける方法

  • デブのトニーは、「自分が正しいことを証明する」のではなく、単に「金を儲ける」ことを考えていたのを思い出してほしい。この考え方には統計的な側面がある。そこで、タレス的とアリストテレス的の違いを少し振り返り、次の観点から進化をとらえてみよう。
  • 実世界では、頻度、つまりその人がどの程度の割合で正しいかというのは、ほとんど意味がない。だが、この点は、おしゃべり屋じゃなく実践家にならないと理解できない。紙面上では、正しい頻度は重要だ。でも、それは紙面上だけの話。一般的に、脆いタイプのペイオフにはアップサイドがほとんど(場合によっては全然)なく、反脆いタイプのペイオフにはダウンサイドがほとんどない。つまり、脆い状況では何セントか儲けるために何ドルか失うはめになる。一方、反脆い状況では何ドルか儲けるために何セントか失うことになる。したがって、反脆い状況では、ずっと損をしつづけても致命的ではない。たまたま1回正しければいいのだ。脆い状況では、1回の損が致命傷になる。
  • たとえば、2008年に金融機関が崩壊を迎えるまでの数年間、金融機関が脆いとふんで、ポートフォリオの価値が下落するほうに賭けつづけたとしても、ほんの少額を失うだけですんだはずだ。実際、ネロとトニーはそうした(繰り返すが、脆さの反対側につくことは反脆いということだ)。何年間も間違いつづけても、たった1回正しければ、損失は少額で、利益は莫大だ。その逆のやり方よりもはるかに好成績をあげられる(実のところ、その逆のやり方は破綻の道なのだが)。脆いものの逆に賭ければ反脆くなるわけだから、タレスのように大儲けできていたはずだ。ところが、言葉で崩壊を予言。しただけにすぎない人は、ジャーナリストから「数年間も間違っていた」とか「ほとんどの時期は間違ったことを言っていた」などと罵られていただろう。
  • 評論家が「正しかった」か「間違っていた」かを記録するとしたら、その比率は重要じゃない。その影響を考慮する必要があるからだ。そして、これが不可能だということを考えると、私たちは今、困った状況にある。
  • もういちど、私たちが起業家をどうとらえているかを見てみよう。起業家はしょっちゅう間違え、ミスを犯す。それもたくさんのミスを。だが、起業家は凸なので、大事なのは成功によるペイオフだ。
  • 言い換えよう。実世界の意思決定は行動であり、タレス的だ。一方、言葉による予測はアリストテレス的だ。第12章で見たように、一方の意思決定のほうがもう一方よりも影響は大きい。乗客がテロリストだという証拠はなくても、武器を持っていないか検査するし、水に毒が入っていると思わなくても、飲むのを控える。アリストテレス的な論理を単純に当てはめる人から見れば、バカバカしく映
    るだろう。だが、デブのトニーに言わせればこうだ。カモは自分が正しいことを証明しようとするが、カモでないヤツらは金を儲けようとする。別の言い方をすると、カモは議論に勝とうとする。カモでないヤツらは勝とうとする。

 

  • 私は、研究者になるべく自分の「料理」を毒味させるようにすれば、科学の深刻な問題は解決すると信じている。次の簡単なヒューリスティックを試してみてほしい。自分のアイデアが現実世界で応用可能だと思っている科学研究者が、実際に日常生活でそのアイデアを実践しているか? もしそうなら、その科学者は本物だ。もしそうでないなら、無視したほうがいい(その人物が、純粋数学や神学の研究者、詩の教師ならば何の問題もない。だが、応用可能な学問をやっているとしたら、注意したほうがいい)。
  • すると思い出すのは、トリファット風のまやかしとセネカ、つまりおしゃべり屋と実践家の違いだ。
  • 私は、「学者の書いていることは無視し、その行動に着目せよ」という方法論を、幸福の研究者と称する人物に会ったときに実際に使ってみた。彼は、5万ドル以上稼いでか、それ以上幸せにはならないと考えていた。当時、彼は大学でその2倍以上の給料をもらっていたので、彼の基準に従えば、すでに安全圏にいた。私は「幸福」という概念や「幸福の追求」の低俗な現代的解釈にはあんまり興味がなかったのだが、(ほかの学者から)よく引用される彼の論文で発表されている“実験"を見るかぎり、彼の主張は、理論上は説得力があるように思えた。

 

シャンパ社会主義キャビア左翼

  • あからさまな絶縁の例をもうひとつ。その人のくっちゃべり、と実生活が目に見えて乖離しているケースがある。たとえば、ほかの人にある生き方を求めておきながら、自分ではあまり実践していない人がいる。
  • 左派の人間が、自分の財産にしがみついているときや、ほかの人に勧めている生き方どおりに生きていないときは、耳を貸しちゃいけない。フランス人のいう「キャビア左翼」やアングロサクソン人のいう「シャンパ社会主義者」とは、社会主義(時には共産主義)や節制的な政治体制を支持しているのに、たいていは遺産で堂々と贅沢生活を送っている連中を指す。彼らは、自分がほかの人々にそんな生き方をやめさせようとしているという矛盾に気づかないのだ。ヨハネス2世やボルジア家の面々といった女好きの教皇も同じようなものだ。
  • 滑稽の域を超えた矛盾もある。たとえば、フランスのフランソワ・ミッテラン大統領は、社会主義の綱領を掲げておきながら、フランス君主みたいな豪華な暮らしをしていた。さらに皮肉なのは、宿命のライバルである保守派のド・ゴール将軍は、昔ながらの質素な生活を送り、妻には靴下を縫わせていたという。

 

ロバート・ルービンの無料オプション(反脆さの移転)

  • 元財務長官のロバート・ルービンは、約10年でシティバンクから合計1億2000万ドルのボーナスを得た。シティバンクは隠れたリスクを冒していたが、数字は好調に見えた。もちろん、好調に見えなくなる(七面鳥がびっくりする)までの話だが。シティバンクは崩壊したが、ルービンはお金を懐に収めたままだ。政府が銀行の損失を肩代わりし、銀行の再建を助けたので、納税者が彼の過去の報酬まで負担するはめになった。この種のペイオフは蔓延している。何千という経営者が同じような報酬を得ていた。
  • これは建築家の話とまったく同じだ。あとになって家が崩壊するリスクを土台部分に隠し、複雑な法体系に身を守られながら、巨額の小切手を現金に換えるのだ。その対策として、「回収条項」の施行を提案する人々もいる。将来的に破綻が起きたときに、過去のボーナスを返済させる取り決めだ。その仕組みはこうだ。経営者はすぐにはボーナスを現金化できない。3年後や5年後になって損失がなかった場合にだけ現金化できる。だが、この方法では問題は解決しない。全体的に見れば、やっぱり経営者にはアップサイドはあってもダウンサイドはないの
    だ。どうやっても彼らの資産が脅かされることはない。つまり、このシステムにも、高度なオプション性や反脆さの移転が潜んでいるわけだ。
  • 同じことは、年金基金を管理するファンド・マネージャーにも当てはまる。彼にもダウンサイドはない。