僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう

ディスカッションできる環境

  • 山中 アメリカにいたときは、まさにそういう経験をさせてもらいました。サンフランシスコはボストンと並んで、アメリカの研究の拠点になっていますから、ノーベル賞受賞者や同程度の研究者が大勢います。彼らが僕らのような若い研究者に、非常にフランクに「シンヤ、シンヤ」って接してくれて、自分の研究をちょっと説明すると「素晴らしい研究だから頑張れ」と励ましてくれました。だからそれで自分に研究の才能があると勘違いしていた面もあるんですが(笑)。日本に帰ってからは「こういうやり方はだめじゃないか」という忠告の方が多くなって……それがPADの原因の一つの部分でもありました。
  • 今も毎月アメリカに行っているんですが、アメリカでは、ノーベル賞受賞者、もしくは数年後にノーベル賞をもらうのは間違いない人も、皆で集まって自分の研究データを出してディスカッションしています。アメリカでは、研究者はいつまでも研究者でいられるんです。でも、日本ではノーベル賞をもらってしまうと、ディスカッションの内容が日本の研究のあり方や予算の内容になってしまうことがままあって、研究者が経営者や政治家に変わっていくような感じがすることがあるんです。

 

  • 永田 大学っていうところは、何かを与えられるところじゃないと思うんです。黙って口を開けて待っていれば食べ物を放り込んでもらえるんじゃなくて、自分から食べにいかないと何も得られないところだと思うんですね。大学で教えてもらえることなんて「知識」としては、大したことないんです。大学にいる間に、何よりも自分から何かを食べに行こうという態度を学んでほしいと思うんです。高校までの勉強には、答えが必ずあります。でも社会に出たら正解があることなんて、何もないんです。そもそも、答えがあるかどうかすら、わからないことの方が多い。先生でも先輩でも上司でも、誰も答えを知らない「問い」自体を、自分で見つけなければならないんですね。
  • 山中さんのiPS細胞は二十一世紀の最大の発見の一つです。大学時代ラグビーに打ち込んで怪我をたくさんして、いろいろな回り道をして辿り着いたものがiPS細胞だったわけです。そして、それは、山中さんの「自分から何かを食べにいく態度」がなければ実現しなかった夢だったと思います。

 

様々な物差しが挑戦を支える

  • 羽生 では、挑戦を続けていくために必要なことは何でしょうか。ひとつには、「様々な種類の物差しを持つ」ことではないかと、私は思います。みなさんは、何か新しいことに挑戦するときには、どこかで過去に自分がやった、あるいは他の人がやっていたことを物差しにして、判断しているのではないでしょうか。
  • その物差しには、長いものから短いものまであって、例えば、子どものときに竹馬に乗るために一週間練習して乗れるようになったとしたら、 これは「一週間」という短い物差しを一つ身につけたということです。あるいは、英語がうまくなるために三年間勉強した経験があれば、それは「三年間」という長い物差しを身につけたといえるでしょう。
  • その後、もうひとつ新しい語学を身につけようと思ったとき、英語では三年かかったのだから、最初の半年ぐらいはわからなくても当たり前だ、と割り切ることができます。日々の生活の中で、長いものから短いものまで、たくさんの物差しを持つことが、今後、何かに挑戦をしていくとき、必要以上に不安にならない、考えすぎないために大事な要素になります。

 

  • 永田 逆に、棋士になって、捨てなければならないと思ったことって、何かありましたか。
  • 羽生たとえば子供の時に将棋をやっていて、駒を動かすのが楽しかった時期ってありますよね。そういう楽しさは捨てなければいけませんでした。
  • 永田 それを職業として選んでしまったのですからね。
  • 羽生それで将棋の奥深さのようなものは知ることになるんですけれども、やはり、将棋を楽しんで駒を動かすという喜びは、捨てなければならなかったと思います。また、十六歳ぐらいのことですが、夜中まで対局をすると電車がないので、始発を待って家に帰るわけです。そうすると、通勤通学の人たちがこれから出かけるという中を、自分は逆に歩いて家に帰っていく。なんだか完全に自分は道を踏み外して、違うところにきちゃったんだという実感がありました(笑)。