資本主義と闘った男

  • 稲田は大阪大学を定年退官してまもないころに雑誌で宇沢と対談した際、出会いの情景を懐かしそうに語っている。ふたりが出会ったのは敗戦から数ヵ月と経たないころで、宇沢は一高に入学したばかりの17歳、稲田は20歳の東大生だった。
  • 〈一高のラグビー部の部屋へ遊びに行ったら、不発の焼夷弾を拾ってきて、その中身を出して部屋のなかで暖房に焚いているんだよ。木の床が真っ黒焦げに焦げて いるんだ。そこで君とはじめて会ったんだ。可愛かったよ、クリクリした目してね(笑)。
  • その時に、「稲田さん、数学科ってどんなところですか」てなことを聞くわけ。そのときどんな答えをしたか覚えていないけどね。そのころ、ぼくは数学にはもう愛想づかしをしていたんだけど、君はそのあと数学科へ入ってきた。
  • ただ、ちがうのは、ぼくはビリッケツに近かったけど、君は非常に成績がよくてね……特別研究生というのだったんですよね。これは一番、二番のやつがなるんで〉(『エコノミスト』1988年1月7日号)

 

  • マルクス主義経済学の勉強会で出会ったマルクス主義者たちは、経済学の理論と数学のロジックはまったく相容れないものとみなしていた。宇沢も彼らにしたがって数学的思考は封印したまま、マルクス経済学を学んでいた。ところが小宮がとりあげた論文は体裁もまるで数学の論文で、おまけに小宮の解説には数学者だった宇沢でさえ知らない定理まで登場した。はじめて出席した近代経済学の研究会で、いきなり経済学に対する考えを根本から揺さぶられたのである。
  • 寒さの厳しい夜だったが気分が高揚したままの宇沢は、いっしょに帰路についた稲田におもわず声をかけた。
  • 「東大の経済学部にはできる人がいますね」
  • するとイナケンはいつ の上州なまりで素っ気なく応じた。
  • 「おめえ、あれひとりだよ」

 

  • じつをいうと、ラーナーは、サミュエルソンの功績として知られていた「要素価格均等化の法則」に関する論文とほぼ同じ内容の論文をサミュエルソンより1年以上も前に著していた。宇沢はその事実を知っていたので、1961年にサミュエルソンアメリカ経済学会で会長講演をした際、みずからの業績として「要素価格均等の法則」に触れたことが気にかかり、会長講演を聞き終えたあと、ラーナーと食事をしたおり直接たずねたという。対談で稲田につぎのように語っている。
  • 《ぼくはそういう経緯を知っていたので、食事の時にラーナーに、「あなたは一九三二年にすでにサミュエルソンが一生でいちばん偉大な仕事だと思うことをやっていて、なぜ論文にしなかったか」と聞いたら、ラーナーは笑って「あれは経済学じゃない。ああいうトリビュアリビュアルな(瑣末な)ことを自分は論文にしたくなかった」という。そこがサミュエルソンとラーナーの違いです。ラーナーがゴミみたいだと思っているものを、サミュエルソンは自分の一生でいちばん大きな仕事と思っている。
  • それは論文を読むとわかりますが、サミュエルソンの論文はゴタゴタ計算していてほんとうにむずかしいんですよ。ところが、ラーナーは幾何学的にグラフをうまく使って、みごとにその命題を証明して、しかも前提条件の限界を非常にはっきり出している》

 

  • それで、サミュエルソンのことですが、彼は経済学の新しい考え方とか深い洞察とかを与えるような仕事をしてきた人ではないように思うのですが、非常に頭脳明晰で、器用にいろいろなどとをやるけど、なんか新しい見方とか、あるいは分析的な視点とかを、ほとんど出していないという感じを持ちます》(「エコノミスト』1988年1月7日号)
  • なぜこれほどサミュエルソンに厳しい のだろうか。理由のひとつは世代の違いにあるだろう。サミュエルソンは宇沢より3歳上、アローより6歳上である(アローの妹とサミュエルソンの弟が結婚したので、アローとサミュエルソンは親戚同士でもあった。アローの妹とサミュエルソンの弟のあいだに生まれたのが、クリントン政権で財務長官をつとめた経済学者のローレンス・サマーズである)。

 

  • クープマンスは、全米経済研究所(NBER)のアーサー・バーンズとウェスリー・ミッチェルの共著『景気循環の測定』を手厳しく批判した。バーンズやミッチェルには景気循環を分析するための理論がなく、そのためにどのような仮説を検証するのかが明確でない。統計データから経済の法則性や傾向を帰納的に読み取ろうとするバーンズらの手法を、クープマンスは「理論なき計測」と断じ、斬り捨てたのである。
  • クープマンスの念頭には、コウルズ委員会が手がけていた連立方程式体系を用いた分析モデルによる推計という新たな手法があった。「経済分析はまず経済理論ありき」と主張することで計量経済学の拠点となったコウルズ委員会の立場を前面に打ち出すとともに、方法論が異なるバーンズらを批判したわけである。ミッチェルは統計データを用いた景気分析で知られる経済学者で、NBER の創始者だった。ミッチェルの薫陶を受けたバーンズは、のちに連邦準備制度理事会(FRB)の議長(在任1970年—1978年)をつとめた。
  • ミッチェルとバーンズを批判したクープマンスに対して、激しい怒りを抱いたのがフリードマンだった。クープマンスの「理論なき計測」について、フリードマンが回顧している。
  • クープマンスはまったく馬鹿げていました。彼との論争では、もちろん、私はバーンズ、ミッチェルに完全に賛同していた。「理論なき計測」は、私からすると、気取っては い るけれども未熟な論文であり、有効な批判でも現実的な内容を伴うものでもありませんでした

 

  • 興味深いことに、フリードマンシカゴ大学で最初に本格的に取り組んだ研究は経済学の方法をめぐる問題だった。その成果は『実証的経済学の方法と展開』(富士書房・原著『Essays inPositive Economics』は1953年刊)に結実する。
  • フリードマンが展開した独自の方法論はきわめて特異である。経済理論にとってもっとも重要なのは「予測の正確性」であり、理論を構築する際の前提や仮定が「現実」に即したものになっているかどうかは理論を評価するうえでなんら考慮する必要はないというのである。まったく非現実的な前提を置いた経済理論であっても、予測能力さえ高ければ、その理論は受け入れられるということである。

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  • ペンローズ効果」を定式化した投資理論を、理論経済学者としての宇沢の最高傑作と評価する経済学者は少なくない。宇沢の教えを受けた理論経済学者の大瀧雅之が解説してくれた。
  • 宇沢弘文が理論家として高く評価された理由のひとつは、モデリング(モデル分析)のテクニックにあるとおもいます。経済学の理論では、個人は効用(満足度)を、企業は利潤を最大化するように行動すると仮定する。個人や企業の行動から、個人の消費行動をあらわす消費関数、企業の投資行動をあらわす投資関数を導き出します。個人や企業といった経済主体の行動に関する計算は、『主体的均衡』の記述と呼ばれています。
  • 理論経済学では、主体的均衡からさまざまな需要関数、供給関数を導き出します。そして、需要曲線と供給曲線の交点が、市場均衡です。経済学の理論的な課題は、主体均衡と市場均衡が矛盾することがないように理論を構築していくことです。いいかえると、個人の選択と、市場での需要と供給の均衡が、矛盾することがないように理論を組み立てないといけない。
  • じつは、経済学者のなかで誰よりも早くそのフォーマットをつくったのが宇沢弘文なのです。少なくとも、非常に明確な形でわかりやすく示したのは、宇沢先生が世界ではじめてだったとおもいます。ペンローズ効果の研究のなかで成し遂げています」
  • 大瀧の解説を要約すれば、マクロ経済の理論は、ミクロ経済の理論と整合性をもつように構築しなければならないということになる。ケインズの『一般理論』は、マクロの集計量の関係を分析した理論であり、はじめての本格的なマクロ経済理論だった。しかしながら、それ以前に新古典派経済学が蓄積してきたミクロ経済学とどのような関係にあるのかがはっきりしなかった。要するに、マクロ経済理論にミクロ経済理論の基礎づけがなされていなかったのである。
  • 宇沢はペンローズ効果を考慮した投資理論で、理論的に投資関数を導き出すことに成功した。世界のなかで誰よりも早く、「ミクロ的な基礎をもつマクロ理論」の構築に向けて一歩を踏み出したのが宇沢だったのである。
  • ジョージ・アカロフにインタビューした際、宇沢の偉大な業績として称賛したのがやはり投資理論だった。「経済学の大きな課題、アルフレッド・マーシャル以来の難問にはじめて解答を与えたのがヒロだったんですよ」と興奮気味に話していたのが印象的だった。

 

  • 吉川が大学院生だった1977年、ルーカスの合理的期待形成学説はすでにアメリカの主要大学に浸透していた。イエール大学にはアメリカ・ケインジアンの大物トービンが いたため、かろうじてケインズの経済学が生き残っているという状態だった。
  • イエール大学でルーカスがセミナーを開催した際、ある助教授が「非自発的失業」についてたずねると、ルーカスはこう言い放ったという。
  • 「イエールでは未だに非自発的失業などとわけのわからぬ言葉を使う人が、教授の中にすら居るのか。シカゴではそんな馬鹿な言葉を使う者は学部の学生の中にも居ない」
  • 最悪時には5%もの失業率を記録した1930年代の大不況に話がおよんでもルーカスは、人びとは職探しに「投資」していたのであって、当時も「非自発的失業者」はまったく存在しなかったと持論を展開した。聞いていたトービンは少し興奮した口調でルーカスに反論した。「なるほどあなたは非常に鋭い理論家だが、一つだけ私にかなわないことがある。若いあなたは大不況を見ていない。しかし私は大不況をこの目で見たことがある。大不況の悲惨さはあなた方の理論では説明できない」

 

  • 「たとえば、大学院生が宇沢先生に共鳴して刺激を受けたとしても、いつまでたっても社会的共通資本では論文が書けないから、 いつまでも大学院を修了できない ということになってしまう。社会的共通資本で論文を書くのはむずかしすぎて、とてもじゃないとできないんですよ。だから、その若い研究者のまわりにいる先生が『(社会的共通資本からは)ちょっと離れろ』ということになる。そうしな い と食っていけないから。そういわざるを得ないんですよ」
  • 要するに、「若い経済学者」を集めることができなかったということである。申しわけなさそうな顔で篠原が解説をつづけた。
  • 「一度はセミナーにつれていくんですけど、やっぱりダメなんですよね。ひとつには、宇沢先生の考えていることとレベルがちがいすぎる。はっきりいうと、若い研究者は、誰かが著した論文のなかの条件を少し変えたりして、自分の論文を書く。宇沢先生はそんなこと関係なしに、ワーッときますからね。それと、若い研究者からすると、宇沢先生がいっているとおりにやっていて自分の論文が書けるのだろうかと不安におもっちゃうんじゃないでしょうかね。だから、かなり余裕のある若い人でないと……」