エンリコ・フェルミ 原子のエネルギーを解き放つ

エンリコ・フェルミ―原子のエネルギーを解き放つ (オックスフォード科学の肖像)

エンリコ・フェルミ―原子のエネルギーを解き放つ (オックスフォード科学の肖像)

 
  • あるとき、エンリコが微積分の本を返しに来たので、君にあげるからもってなよと言ったところ、「いや、いつでも思い出せるから大丈夫」と言うのである。
  • そこは物理学をさらに深く学ぶのに適した環境でもあった。フェルミとラセッティはすぐに学部学生の研究室に自由に出入りすることを許可された。担当の老教授があまりに急速な現代物理学の進歩についていけなくなったためである。ようするに、その教授は教授と学生という役割を取り替えて、相対性理論ードイツ人理論物理学アルベルト・アインシュタイン(1879-1955年)による革命的な時空間の見直し について教えてほしいとフェルミに頼んだのだ。心にもない謙遜をする性質でなかったフェルミは、友人のエンリコ・ペルシコに宛てた手紙に、「僕はだんだん物理学部で最も影響力のある存在になりつつある」と書いている。それは事実だった。明晰な頭脳と独学の才能ーフェルミには、さらに深く物理学を学ぶための強力な武器が備わっていた。
  • わずか1年の大学生活で、フェルミはどこまで物理学と数学の知識を深めたのか。1919年の夏にフェルミがつくった一冊のノートが、その深さを示している。このノートで、フェルミはまず、独学で学んだ力学の理論と物質の構造について理路整然と述べている。続いて革新的なプランクの放射法則を論じ、さらにいくつか最先端のテーマにも触れている。現在、このノートは、フェルミが発表した論文の多くとともにシカゴ大学のジョセフ・レーゲンシュタイン図書館に保管されている。このノートを見ると、1年生とは思えないほどの明晰な思考力と驚異的な量の知識をもっていたことがよくわかる。また、それぞれのテーマの根っこにある物理的性質を明らかにする理論に惹かれていたこともわかる。フェルミは、複雑な数学のための数学には興味がなかった。彼が求めたのは、起こっている現象のほんとうの姿、自然界のなりたちを理解することだった。このノートをつくるとき、フェルミが使った材料は自分の頭の中身だけだった。
  • ハンス・ペーテは、「数学的な複雑さと無駄な論理形式を取り去り」、状況の核をなす物理だけを抜き出して解明してしまう、とフェルミを称賛している。数学でなく現象そのものに意識を集中できるところが、多くの理論物理学者とは対照的である。理論物理学者の採る手法は、一般に、論理に頼り直感を廃する傾向が強くなる。手元にある問題をまずは方程式で表し、それをとき、その後で初めてその状況に内在する物理について考え始める。つまり彼らの場合、まず数学があり、その後に物理が来る。この手法を教える教科書や講座は、たとえば「理論物理学の方法論」など、数多くある。これはこれで価値があり、大切である。だが、 フェルミが好むやり方ではなかった。数学が不得手だったわけではない。実際のところ、フェルミは数学を非常に得意としていた。しかし、彼だけに与えられた特別な才能となればー単純化がすぎて答えの精度がやや下がる危険はあるがーそれは物理を理解する才能だった。フェルミは実践的、実用的だった。そして、その後の時代の多くの物理学者が、フェルミの直接的な手法がもたらした洞察の恩恵を受けているのである。
  • しかしその栄光を手にする前、その栄光をもたらす研究が本格的に始まる前に、ちょっとしたつまずきがあった。それは、イギリスの科学雑誌『ネイチャー(Nature)』の編集部にフェルミが送った1本の論文だった。ここの編集者は知の門番であり、専門家の意見を聞きながら、どの論文を発表し、どの論文を発表しないかを決める。一九三三年に、フェルミは、原子核がベータ粒子(電子)を放出するときに起こる現象であるベータ崩壊を説明する理論をつくり上げた。説明上の必要から、フェルミは新しい中性粒子、ニュートリノ(neutrinoーイタリア語で「小さな中性のもの」)を発明した。かなり大胆な仮説ではあったが、放出されたすべての電子が同じエネルギーになるのではなく、さまざまに異なるエネルギーをもつ電子が特徴的なかたちで分布する理由を説明するためには必要な仮説だった。電子のものにならないエネルギーはすべてニュートリノがもっていくことになるため、全体としてのエネルギーは保存される(エネルギー保存は物理学のすべての理論の根幹をなす性質であり、フェルミとしてはエネルギー保存則を破綻させるよりは、ニュートリノという新しい概念を導入した方がよいと考えた)。この論文を『ネイチャー』に送った。ところが、担当編集者は「頭がおかしいんじゃないか」と没にしてしまった(実際にはもっとていねいに、「物理学的な現実からかけ離れすぎた抽象的な考察が散見される」と言っている。
  • フェルミはこのベータ崩壊の論文を取り戻し、別のところで改めて発表した。この理論は時の試練に耐え、今も生き続けている。フェルミは実際にはさらに重要な別の研究でノーベル賞を受賞することになるが、それがなければ、あるいはこの理論でノーベル賞を受賞していたかもしれない。
  • 原子衝突実験は、イレーヌ・ジョリオ・キュリー(1897ー1956年)とフレデリック・ジョリオ・キュリー(1900-1958年)の夫妻によってパリでもおこなわれていた。夫妻は、アルファ粒子をホウ素に衝突させ、そのときにホウ素から出る透過性放射線を観測した。ただ残念なことに(これは物理の世界では有名な「不幸話」のひとつである)、彼らはひとつ間違えた。この透過性放射線ガンマ線だと考えたのだ。1932年、ラザフォードの研究室でジェームズ・チャドウィック(1891-1974年)が、これらの透過性放射線ガンマ線でなく中性粒子であることを証明した。彼はこの中性粒子を中性子と名づけた。チャドウィックの発見以前は、物理学者たちは原子核が陽子と電子でできていると考えていた。これも誤りである。チャドウィックによって、原子核中に電子は存在せず、正電荷をもつ陽子とともに原子核中に存在するのはこの第二の電気的に中性な粒子であることがわかった。陽子と中性子。あらゆる原子核を構成するのは、このふたつだったのである
  • ジョリオ・キュリー夫妻はホウ素とアルミニウムにアルファ粒子を衝突させて放射能を人工的に発生させる研究によって、ノーベル化学賞を受賞した。放射能自体は、夫妻の発見以前から、ウランやトリウムなど最も重い元素群ではよく知られた性質だった。実際、イレーヌの母マリー·キュリー(1867-1934年)は、自然放射性元素、特にラジウムポロニウムの研究の先駆者だった。しかし、このとき、新たな種類の放射能、誘導(もしくは「人工」)放射能が登場したのである。中性子と人工的な誘導放射能フェルミは、すぐさまこの2つの発見を融合させた。中性子を使って放射能を誘導したのである。
  • 誰もが口にするのは、彼の教師としての特別な資質だった。ひとりは、「彼は教えるという行為そのものをとても楽しんでいました。自分の話をすぐには理解できない学生がいると喜ぶのです。もう一度説明ができるから、楽しみが二倍になると言って」と語った。大切な教訓を学んだと語る者もいた。「何でも最後までやり遂げなさい。その気になりさえすれば何とかなるだろうなんて、思い違いをしてはいけない。やってみて、記録に残し、そうして初めて自分のものにすることができる」。こんな思い出を語った者もいた。「フェルミは人の問題にもつい集中してしまうから、いっしょにいると楽しかった」。
  • みな一様にフェルミ人間性を称えた。謙虚だったこと。慎み深かったこと。どんなかたちでも気取ることが嫌いだったこと。「権力を笠に着る」ことが嫌いだったこと。「フェルミは、親切で頭の良い友人でした。物理学を心躍るような体験にしてくれた素晴らしい人でした」と、ある同僚は表現した。