幸福の「資本」論

幸福の条件 

  1. 自由
  2. 自己実現
  3. 共同体=絆

3つのインフラに対応

  1. 金融資産
  2. 人的資本
  3. 社会資本

地方のマイルドヤンキーたちは友達を社会資本にしていること

 

日本社会は(おそらく)人類史上はじめて、若い女性が体を売りたくても売れない時代を迎えたのです。

金融資産と社会資本をほとんど持たずに地方から都会にやってきた若い女性の中に、唯一の人的資本であるセックスすらマネタイズできない層が現れました。

最貧困女子の誕生です。

最貧困女子を生み出す原因となったのが風俗嬢の大量供給

風俗の仕事が若い女性たちに認知されたのは、獲得した顧客に応じて収入が増える実力主義・成果報酬の給与体系で、出退勤や労働時間、休日を自由に決められる完全フレックスタイムだからです。これはグローバルスタンダードにおける最先端の働き方

最貧困女子・・・彼女たちのセイフティネットは福祉団体やNGOではなく、ヤクザやブローカー、売春業者などが提供しています。なぜなら、搾取するためには生かしておかなければならないのですから。

 

 マイナス金利の世界では、賢い人は利得を最大化するために金融資本よりも人的資本を有効活用する、すなわち働くのです。

 

 大手企業の採用責任者が見ているのは、その学生が「興味の持てない仕事、裁量権のない仕事、希望していない地域での勤務」を命じられても、組織の中で縁の下の力持ちの役割を果たせるかどうかなのです。・・・有能だが個性的な人材は真っ先に選考から外されるのです。

 

学歴には基礎的な知能を証明する以上の価値はなく、大学での成績は入社後は一切考慮されず、すべての新入社員が同期として横一線に並ぶのはこれが理由です。大学院の修士を出ても学部卒と同じ扱いで、博士は年齢が高いのと扱いを別にしなければならないことで嫌われ、そもそも入社できません。

そんな新入社員が、メンバーシップ型の組織の中で、それぞれの伽藍に最適化されたゼネラリストになることを要請されるのですから、こうした仕事環境からプロフェッショナルが生まれてこないのは当たり前です。

知識社会化が進むにしたがって、当然のことながら、仕事に要求されるプロフェッションのレベルは上がっていきます。しかし日本の会社はゼネラリストで構成されており、プロフェッショナルを養成する仕組みを持っていません。

年功序列・終身雇用の日本企業では、プロジェクトの責任者を外部から招聘したり、中途入社のスタッフだけでチームを作るようなことができないからです。そのため社内の乏しい人材プールから適任者を探そうとするのですが、そんな都合のいい話があるわけがなく、スキルや経験、知識のない人間が集まる「不適材不適所」の現場の混乱を長時間労働マンパワーでなんとか切り抜けようとし、パワハラとセクハラが蔓延することになるのです。

 

高度プロフェッショナル労働制

多くのサラリーマンが、「スペシャリストもバックオフィスも正社員ならみな平等」というこれまでのぬるま湯が破壊されることを嫌っているからです。

これまで正社員の既得権に安住してきたバックオフィスのサラリーマンがこの法案に反対するのは当然です。

スペシャリストのサラリーマンまで法案に反対しているのはなぜでしょうか。

そもそも日本の会社には、スペシャリストなどいないのです。そんな彼らにとって、「スペシャリスト的な仕事が優遇される法案」など何の意味もないばかりか、自分になにひとつ「スペシャル」なものなどないことが暴露されるだけなので、彼らが必死に反対するのもやはり極めて合理的なのです。

 

疫病のように蔓延するブラック企業は例外ではなく、低成長に苦しむ日本経済が発見した経営イノベーションであり、日本的雇用の歪んだ構造が生んだ直系の子どもたちなのです。

 

日本の会社の終身雇用は、その実態を見れば、超長期雇用の強制解雇制度です。退職金とは、定年後のまともな仕事を放棄する代償でもあるのです。

 

ひとは「好きなことしか熱中できない」

嫌いなことはどんなに努力してもやれるようにはならないのです。

私たちが自分にあったプロフェッションを獲得する戦略はたった一つしかありません。それは仕事の中で自分の好きなことを見つけ、そこにすべての時間とエネルギーを投入することです。

 

 画期的な商品やサービスを生み出そうとすれば失敗する可能性も高くなりますが、雇用の流動性がない(伽藍の)会社では、いったん失敗した社員は生涯に渡って昇進の可能性を奪われてしまうのです。

大きなリスクを取ってイノベーションに成功したとしても、成果にふさわしい報酬を与えられないことです。「正社員の互助会」である日本の会社では、一部の社員に役員や社長を上回る高給を支払うことができません(この矛盾は発行ダイオードの発明を巡る訴訟で明らかになりました)。

このように日本的雇用制度は、「リスクを取るのはバカバカしい」という強烈なインセンティブを社員に与えています。

経営者自らが大きなリスクを取ってイノベーションを目指すことです。

カリスマが去って官僚化した企業からはイノベーションは生まれません。

 組織の取引コストを教区台化させた大企業はイノベーションを放棄して、ベンチャー企業に投資し、成果が出れば買収しようとします。

 

35歳までにやらなければならないのは、試行錯誤によって自分のプロフェッション(好きなこと)を実現できるニッチを見つけることです。

 

老後とは人的資本をすべて失った状態のことです。

 

個人の人生においても金融資産(貨幣空間)と社会資本(政治空間)は原理的に料率不可能です。富(金融資産)が大きくなると、全ての人間関係に金銭が介在するようになって友情は壊れていきます。地方のマイルドヤンキーが友情を維持できるのは、全員が平等に貧しいからです。

 

日本の社会は、ムラ的な間人主義に最適化され、そこから「やりがい」を生み出すようになっています。会社に滅私奉公することを「幸福」と感じるサラリーマンの感覚はその典型です。

しかしリベラル化する世界でこうした「間人の幸福」は古臭いものになり、自己決定権を持つ「個人の幸福」へと価値観は変わりました。それにもかかわらず、日本の社会は複雑なコンテキストで覆われたベタな政治空間のままで、「自由」な人生を生きることはできず、旧態依然とした「間人の幸福=伽藍の中でのやりがい」を強要されています。

これが、サラリーマンが会社を憎悪する理由であり、現代日本の「閉塞感」の正体なのでしょう。