ある数学者の生涯と弁明

人をして研究活動を行わしめる多くの立派な動機があるが、なかでも、3つのことがとりわけ重要である。

  • 第一は知的な好奇心、真実を知ろうとする欲求である。
  • 次に専門家としての誇り、仕事の成果に満足したいと切望する気持ち、誇り高き職人が自らの才能にふさわしくない仕事をした時の打ちのめされるような屈辱感、
  • 最後に野心、すなわち名声や地位、それがもたらす力や金に対する欲望。

たしかに何かをして、それによって人類の幸福に寄与し、人々の苦しみを和らげたと感ずることは気持ちのいいことであるが、私たちはそれがゆえに仕事をしたのではない。

数学における名声が、もしその名声に対して支払えるだけの金があるなら、一番安全でかつ確実な投資の一つである。

 私は創造的な芸術としての数学にしか興味がないことは明らかであろう。・・もし、ある科学や芸術の発達が、間接的にせよ、物質的生活の向上や快適さの増大をもたらすならば、またもし、それが幸福、つまり素朴で普通の意味での幸福を促進するならば、その科学や芸術は有益であると言えよう。・・ある種の数学は、確かにこの意味で有益である。・・数学を弁護する一つの根拠の可能性がある。 普通の人々にとって、科学の知識がいかに実用的な価値を持たないものか、価値ある知識がいかに退屈で平凡なものであるか、またその価値がいかに定評のある有益性にほとんど反比例するかに見えるかは、まことに驚くべきものである。

純粋数学者はその仕事の無益なることによって輝き、実務的な応用が無いことを誇りにすると、時々言われる。通常この非難は、ガウスの言ったとされている次のような不注意な言明に基づいている。すなわち、もし数学が科学の女王ならば、数論は、その完全な無用性のゆえに、数学の女王であると。ガウスの言明はひどく誤解されてきたと確信する。もし数論が何らかの実際的で明らかに名誉ある目的に応用できたならば、・・ガウスや他の数学者はそのような利用を非難したり、遺憾に思うほど愚かではなかろう。しかし、科学は善のためばかりではなく、悪のためにも役立つ。・・通常の人間の諸活動から遠く隔たっているがゆえに、穏やかで清潔に保たれていること、彼ら自身の科学がそのような科学であることを喜ぶのは正当なことであろう。

 私は学校で自分の先生より良くできることがあった。ケンブリッジでも、もちろん頻度はずっと少なかったが、大学の先生より良くできることがあった。しかし、私はその後、私の生涯を費やすことになった学科について、卒業試験に優等で合格した時ですら、きわめて無知であった。私はまだ、数学を基本的に競争の種目と考えていた。・・私はジョルダンの有名な「解析学教程」を読んで初めて、真の数学のなんたるかを理解できた。その時から、私は私なりに、数学への堅固(ケンゴ)な志と純粋な情熱ををもって、新の数学者になった。

私はあなた方が決してできなかったことを一つ、仕上げた。それは、リトルウッドラマヌジャンと対等に共同研究したことだ。

もし、普通に成功と呼ばれるものを基準にするならば、私が数学者になるのが正しかったことに疑いはない。

主席になると、賞を受けるために最前列に出なければならなかった。これは、彼には耐えがたかった。ある晩、一緒に食事をしながら、彼は、この耐えがたい苦痛から逃れるために、わざと答えを間違えたものだと、私に話したことがある。しかし彼のとぼける才能は常に最低で、やはり、彼はいつも賞をもらう羽目になった。

アインシュタインの場合は、道徳的な能力を身につけるために、外の世界を学ぶことを通じて、その強烈な自我を克服しなければならなかった。

試験の問題は、いつもかなり機械的に難しいものであったが、不幸にも、受験者に数学的な想像力や洞察力、あるいは創造的数学者に求められるいかなる資質も発揮する機会を与えていなかった。

彼は生来の競技者で、たとえレースがばかげていても、戦いには勝たねばならないと感じていた。

私はお邪魔にならなければよいが、と決まりの挨拶をつぶやくように言った。すると彼は、急にいたずらっぽく笑いながら、「その答えは、見て分かるように、邪魔になるということだ。でも君に会うのはいつも嬉しいね。」

若者はうぬぼれなければならない。しかし愚かであってはいけない。

人は時には難しいことを言わねばならないが、しかし、それをできるだけ簡潔に言わねばならない。

ある数学者の生涯と弁明 (シュプリンガー数学クラブ)

ある数学者の生涯と弁明 (シュプリンガー数学クラブ)