- 英語学習を始める第一歩は、自分が必要な英語はどのようなレベルなのか――つまり英語学習で達成したい目標を考え、自分はその目標達成のためにどこまで時間と労力を使う覚悟があるかを考えることだろう。日常生活でコミュニケーションがとれること(つまり小学校低学年レベル)がゴールなのか、ビジネスの場でプレゼンテーションをしたりレポートを書けるようになったりすることがゴールなのか、研究論文を書けるレベルがゴールなのか。ゴールに応じて、そのレベルに到達するための合理的な学習のしかたを考えるべきなのである。AI(人工知能)による自動翻訳の性能も向上してきている。翻訳ソフトで済むレベルを目標にするなら、わざわざ多大な時間をかけて英語を勉強するより、英語は翻訳ソフトに任せて、自分は他のスキルや知識を磨く、という選択肢もありうるのではないか。
- 本書は主に、仕事の場でアウトプットできるレベル、すなわち自分の考えを的確・効果的に表現し、相手に伝えられるレベルの英語力を目指す人に向けて書かれている。
どの情報に注意するかはスキーマが決める
- 本書でもっとも大事な概念である「スキーマ」について、ここで紹介しよう。スキーマというのは認知心理学の鍵概念で、一言でいえば、ある事柄についての枠組みとなる知識である。
- スキーマは「知識のシステム」ともいうべきものだが、多くの場合、もっていることを意識することがない。母語についてもっている知識もスキーマの一つで、ほとんどが意識されない。意識にのぼらずに、言語を使うときに勝手にアクセスし、使ってしまう。子どもや外国の人がヘンなことばの使いかたをすれば、大人の母語話者はすぐにヘンだとわかる。しかし、自分がなぜそれをヘンだと思うのか、わからない。母語のことばの意味を説明してくださいと言われたときに、ことばで説明できる知識は、じつは氷山の一角で、ほとんどの知識は言語化できない。これは、自転車に乗れても、脳にどのような情報が記憶されているから自転車に乗れるのかが私たちには説明できないのと同じことだ。
- 大切なことなので繰り返すが、「使えることばの知識」、つまりことばについてのスキーマは、氷山の水面下にある、非常に複雑で豊かな知識のシステムである。スキーマは、ほとんど言語化できず、無意識にアクセスされる。 可算・不可算文法の意味も、スキーマの一つなのである。
- 外界で起こっている出来事や言語情報は、すべてスキーマのフィルターを通して知覚される。私たちは、スキーマによって、現在自分が置かれている状況で何が大事かを判断し、情報を取捨選択するのである。
- 目の前で起こっている状況には、非常に雑多な情報が大量にある。さまざまな服装をし、持ち物をもっている多くの人がいて、絶えず視野に入っては消えていく。それのすべてに目を向け、覚えることは到底できない。人は、注意を向けないものを何度見ても正確に記憶することはない。何が大事な情報であるかを見極め、注意を向けるか向けないかを決めるのが、スキーマなのである。
- 可算・不可算文法のスキーマがあれば、名詞が出てくるたびに、それが可算名詞なのか、不可算名詞なのかに注目し、話し手あるいは書き手がその名詞の指し示す対象を、個々に存在し数えられるモノと認識しているのか、不可分の数えられないモノとして認識しているのかがわかる。このスキーマをもたなければ、話し手・書き手の認識はもとより、名詞が可算か不可算かということに注意がいかず、この情報はスルーされてしまうのである。
英語を母語とする子どもの学びかた
- 英語を母語として学習する子どもは、どのように可算・不可算の「意味」を理解するようになるのだろうか。
- 意味を考える前に、まず、a(不定冠詞)で始まるか、s(複数形の接尾辞)で終わるかといった、名詞が現れる形の違いに気づく(便宜的に綴りに使われる表記を使って
書いたが、もちろん子どもは音で聞いて気づく)。名詞の文法上の形態に注意を向けることは、遅くても1歳半ごろまでに、つまり単語の意味を推論しながら急激に
語彙を増やしていくころには始まっている。言い換えれば、名詞を学習するときには、必ずその可算・不可算の形態ごと、名詞句としてかたまりで記憶されてい
る。形態といっしょに覚えた名詞のストックがある程度記憶に溜まって初めて可算・不可算の意味を自分で発見する。aで始まるかsで終わる形で現れることばは、個体を単位として「数える」ことができること、aといっしょに現れることなく、いつも裸で(冠詞なし、複数形のsもなしで)現れる単語は、ミルクやバターの
ような、形が定まらない、数える単位がわからないものであることを悟るのだ。つまり子どもはスキーマを自分で作るわけである。可算・不可算の形と名詞の種
類の対応づけのスキーマが作られると、こんどはそれを新しく出会う名詞の意味の推論に使っていく。 - たとえば、子どもが液体の入っているコップを手にしているときに tea ということばを聞く。そのとき、tea はコップのことなのか、中身の液体なのかは、子どもにとって曖昧である。しかし、可算・不可算文法を知っていると、tea が言われた形から、それは数えられないモノであることがわかり、コップではなくて中身のことなのね、という推論ができるのである。
- 名詞をこのように覚えていくので、英語を母語とする子どもは、非常に小さいときから、名詞の意味を考えるときにまず名詞の文法的な形に注目するような注意のシステムが脳に作られている。つまり可算・不可算文法はこのようにして身体の一部になっているのである。もちろん、子どもが最初に発見する名詞の文法形態と対象の種類の対応づけは、「一つ一つにまとまりがあり、独立してそうだから、数えられるよね、それにはaがつくよね」のような単純なものだ。
- しかし、常に名詞の文法形態に注意がいくので、furniture や jewelry のような、見ている対象は数えられそうに見えるモノなのに不可算名詞の形式でその名詞が言われることに、つまり自分のセオリーとの食い違いにも気づく。すると、不可算だから furniture は「椅子」という意味ではないのね、jewelry は「ネックレス」という意味ではないのね、と考えることができ、さらに意味を探索することができるのである。
- 言い換えれば、無意識にコントロールされる自動的な注意システムが作られているから、当初の単純な形式と意味の対応づけを修正して、より複雑で洗練されたスキーマに発展させることができるのである。
日本語スキーマの影響
- 日本語話者は、可算・不可算や冠詞の意味について、英語話者のような注意システムをもっていない。日本語ではそもそも可算・不可算という基準では名詞を文法的に分類しない。日本語で名詞を分類するのは「1冊、2冊」の「冊」や「1軒、2軒」の「軒」のような助数詞であるが、助数詞は「数えられる対象」と「数えられない対象」を明示することはない。英語では不可算名詞に対してのみ a cup of water, a slice of meat, a pinch of salt のように量詞をつける。つまり、水、肉、塩など、自身で数える単位をもたない(数えられない)対象は、量詞によって数える単位を明示して数えるのである。
- 助数詞も理屈は英語の量詞と同じで、数える単位を明示する。しかし、英語の場合と違って、日本語助数詞は動物や自動車のように明らかに「数えられる」ものに対しても、水やバターのような「数えられない」ものに対しても使われる。つまり、その名詞が数える単位を外から与えられなければ数えることができないという英語の基準で考えると、日本語のすべての名詞は英語の不可算名詞と同等に扱われているということになる。しかも、日本語では助数詞は数といっしょのときにしか使われず、数を言う必要がないときは「コンピュータは書斎にあります」「マヨネーズは冷蔵庫の中にあります」というように、助数詞なしで名詞を
使う。 - このため、日本語話者は、英語話者のように名詞の文法形態に自動的に注意を向けるということをしない。これが英語の名詞の可算・不可算を覚えることを難し
くする。英語を読む、あるいは聞くときに、名詞の意味にばかり注意を向けてしまい、可算・不可算の形態には注意しないので、名詞が文の中で現れるときの文
法の形は記憶されない。その結果、可算・不可算の形態と切り離して英語の名詞の意味を覚えてしまう。 - さらにその名詞を使うときに、可算・不可算文法を意識したとしても、その名詞の可算・不可算をついつい自分の感覚で推測してしまう。日本語の感覚ではレタスもキャベツもブロッコリーもカリフラワーも、ジャガイモや卵と同様に1個、2個、3個と数えられるモノなので、当然可算名詞だと思う。証拠も、一つ、二つ、と数えられるから evidence も当然数えられると思ってしまうのだ。
- つまり、日本語母語話者は可算・不可算文法を学習するときに、二重の意味で母語の影響を受ける。第一に、母語において、数えられる、数えられないという観点で必ず名詞を分類する文法をもたないので、英語のインプットに対して、名詞の形態に自動的に注意を向けることをしない。注意を向けないので、名詞を聞いてもその可算・不可算を記憶できない。第二に、evidence や furniture など、母語によって作られた自分の「数えられる・数えられない」という感覚と矛盾する形態の単語がインプットにあっても、文法形態に注意を向けないために、そこは完全にスルーされてしまい、自分の思い込みが修正されない。このようなメカニズムが働くために、日本語母語話者にとって英語の可算・不可算文法は習得が非常に難しくなってしまっているのだ。
冠詞のスキーマ
- ここまで可算・不可算文法のスキーマについて述べてきたが、英語の名詞を使うためにもう一つのハードルがある。そう、aとthe、不定冠詞と定冠詞の問題である。
- 一つの名詞を使うとき、名詞が指す概念が数えられるか、数えられないかの他に、冠詞という、もう一つの軸が入り込んでくるところである。この軸の「意味」をことばで記述するは定冠詞、この単語は不定冠詞というように、名詞に結びつけて覚えることができないからである。
- 可算・不可算の区別も、これまで述べてきたように、抽象的な意味をスキーマとして理解しないと、ほんとうには使いこなせないのだが、中心にある文法と意味
の対応づけはそれなりにわかりやすいし、説明しやすい。名詞を覚えるときに、これは(基本的には)可算名詞、これは不可算名詞、というように、名詞に紐づけて覚えられる。 - しかし、定冠詞・不定冠詞は、名詞との紐づけができない。同じ名詞が文脈によって定冠詞といっしょに使われたり不定冠詞といっしょに使われたりするため、この文法をもたない日本語話者としては何が何だかわからない、というのが正直なところだ。私も中学で英語の勉強を始めたとき、どうしてもa と the の「意味」がわからず、英語の先生にしつこく聞いたら先生が怒り出してしまい、「こんなこともわからないのか」と叱られてしまった苦い記憶がある。先生もわからなかったのだと思う。しかし生徒にそう言えないので、怒るしかなかったのではないだろうか。
- スキーマは、単に「定まったものには the、定まっていないものにはa」ということばで表現されるルールとは違う。それぞれの状況で瞬時に身体が反応するような、身体に埋め込まれた意味のシステムなのである。
- この例によって、スキーマとは何かが少しイメージしやすくなっただろうか? 学習者はこの「スキーマ」(=抽象的な意味のシステム)をどのように作っていったらよいのだろうか?
「語彙力が高い」とはどういうことか
- 氷山の水面下の知識についてこれまで述べてきたことから、「語彙力が高い」とはどういうことかを考えよう。母語話者がもつ「生きた」単語の知識には、少なくとも以下の要素が含まれている。
- ① その単語が使われる構文
- ② その単語と共起する単語
- ③その単語の頻度
- ④その単語の使われる文脈(フォーマリティの情報を含む)
- ⑤ その単語の多義の構造(単語の意味の広がり)
- ⑥ その単語の属する概念の意味ネットワークの知識
- これらの知識はもちろんバラバラにあるわけではなく、互いにがっちりとつながり、統合されて、水面下にあって見えない氷山の大部分を形づくっている。
- ここまで述べたことでわかっていただけただろうか。「語彙力」というのは、頻度の低い、人が知らない単語をたくさん知っていることではない。もちろん知っている単語の数が多いに越したことはないが、文脈に応じて適切なことばを自由自在に使えてこその「語彙力」である。つまり①~⑥の知識に支えられた語彙が
あることのほうが、辞書の見出しのすぐ後に出ている「意味」を一つか二つ言えるだけの単語の数よりも大事なのである。 - 「ある文脈で言いたいことを表現するのにもっとも適切なことばが選べる」ためには、二つのことが重要である。一つには、個々の単語の意味をバラバラに覚えているのではなく、互いの意味の類似性と差異が理解できていること。もう一つは、それぞれの単語がもつ意味の広がりを理解し、それぞれの使いかたの文脈を知っていることだ。
- 外国語の単語について初級学習者がもっている知識は、①~⑥がほとんどない。子どもが母語の動詞を覚えるときは、まず構文と名詞(主語と目的語)に注目し、文脈から動詞の意味を考える。しかし、外国語を覚えるときは、母語に訳された語義が与えられ、それだけを覚えようとする。だから動詞を使ううえでもっとも大事な構文や共起する名詞についての知識は、その動詞についての知識として入ってこない。一つか二つの訳語を知っているだけの知識は、氷山どころか、薄っぺらい板のようなものなのである。
行為をどう描写するか
- 「ビンがぷかぷか浮かんだまま洞窟の中に入っていった」のように言うだろう。中心となる動詞は「入る」であり、ビンが動くさまは「ぶかぶか」のような擬態語で表される。日本語は前置詞をもたず、動きの方向性は「入る」のように動詞本体に担わせる。動きの様子は、副詞句、特に擬態語を用いて表現されることが多いが、様態を言い分けることは必須ではない。
- 英語ではこれをどう表現するだろうか? 日本語話者だとつい A bottle entered the cave, slowly floating.などと言いたくなってしまう。これは間違いではないが、自然な英語ではなく、英語母語話者は、まずこのような文を言わない。A bottle floated into the cave.と言うのが普通だろう。英語では動きを表現するとき、本来は動きの様子を表す様態動詞(ここでは float)に方向を表す前置詞を組み合わせ、様態動詞を「~しながら移動する」という意味に転化させる構文を多用する。つまり英語話者がこのような状況でもっともよく使う構文は「様態動詞+前置詞」なのである。
- この英語特有の構文スキーマは、英語の語彙の構造に直接に影響している。英語では、動きかた、行為のしかたを意味に入れ込んだ動詞が非常に多い。たとえば日本語では「歩く」と大雑把に表現するさまざまな歩きかたを、英語は非常に細かく言い分ける。amble(ぶらぶら散歩する)、swagger(胸を張ってずんずん歩く)、
- toddle(よちよち歩く)、trudge(重い足取りでえっちらおっちら歩く)など。
- 日本語で「人がふらつきながらドアへ歩いて行き、部屋に入った」と表現されるシーンを英語にするとき、
- A man walked to the door and entered the room with unsteady steps. のように直訳したくなる。しかしこのような文を作る英語母語話者はほとんどいないだろう。A man wobbled into the room. のように言うのが普通だ。日本語と英語では何がどのように違うのだろうか。日本語では、「歩く」と「行く」と「入る」という三つの動詞が必要だ。「ふらつきながら」という句が「歩く」を修飾し、歩く様態の情報を付加する。それが英語ではwobbleという動詞一つで済まされている。
- wobble という動詞は、もともとは「ふらつく」という動きを表す動作動詞であり、以下ののように使う。
- The table wobbles where the leg is too short.(テーブルのこの脚が短くてガタガタする。Outford Dictionary of Englishの用例) )
- His knees began to wobble.(膝がガクガク震え始めた。『ランダムハウス英和大辞典』の用例)
- そもそも英語では wobble のように、ある特定の様態が動詞として表されることが非常に多い。対して日本語では、動作の様子(様態)の情報は動詞の中には入らない。様態は必要なら副詞(特に擬態語)で表現されるが、副詞はなくても文は作れる。このため、日本の英語学習者が「テーブルが不安定にガタガタする」「膝がガクガク震える」という日本語を英語にするとき、たいてい「する」「鳴る」「震える」など日本語の動詞を和英辞典で探して、一般的な述語の文を作ることがほとんどである。
- The table stands unstably because one leg is too short.
- His knees began to shake.
- 文法的には誤っていないし、意味は伝わるだろう。しかし様態動詞を使いこなしたら上級の英語学習者と言えるだろう。
- 様態動詞を前置詞と組み合わせて文を書く(言う)ことができたら引き締まって母語話者にとって自然な英語となる。 wobble のもともとの「ふらつく」という意味が、into という前置詞とともに使われることで「ふらつきながら[部屋に]入る」という意味に変化していることに気づいただろうか。前に述べたように、方向を示す前置詞が後に続くと動詞の意味が「~しながら移動する」という意味に変わるというのは、wobble に限らず英語の語彙全体を通して非常によく見られるパターンなのである。さらに発展させたのが
- The little animal then staggered, wobbled and limped around for a few seconds before turning for the last time to his rescuers and wandering, stagger, wobble, limp という同じような、でも少しずつ違う意味をもつ様態動詞が繰り返され、不安定によろめく感じが強調されている。ちなみに stagger はどちらかというと前のめりで転びそうによろめく感じ、wobble は横に揺れてよろめいている感じ、limpは足を引きずる動きである。この文を訳してみると、その小さな動物はつんのめり、ガクガク震え、足を引きずりながら数秒間あたりを歩きまわり、そのあと最後に一度だけ、自分を助けた人たちを振り返ると、自然の中に消えていった。
- のようになるだろう。最後の wander もまた、特定の様態の動作(ぶらぶら歩く)を表す動詞であるが、ここに to という前置詞を付けて一方向への移動の意味をもたせ、さらに off と backで「いなくなる」と「戻る」という意味を付け加えている。日本語に訳すときには、方向性を入れようとすると、どうしても wander の「ぶらつく」という様態を文中に入れ込むことができない。
- 私たちが出来事を見て、そこに含まれる動作について語るとき、どの要素を動詞の中に入れ込み、どの要素を述部の前置詞句など動詞以外の部分で表現するかのパターンを「語彙化のパターン」という。ここまで述べてきたことからわかるように、英語は動作の様態の情報を主動詞で表し、移動の方向は動詞以外(前置詞)
で表現する。 - このパターンは歩きかたに限らない。笑いかた、話しかたなども、どう笑うか、どう話すかによって細かく言い分ける。たとえば普通に声を立てて笑うときに
は laugh だが、くすくす笑うときはgiggle、歯をむき出してにたにた笑うときには grin、声に出さずにのどの奥でクックッと笑うときは chuckle と言う。この語彙化のパターンは、英語ではさまざまな概念の分野に通底して見られ、英語母語話者のスキーマの核となっている。英語学習者がこのスキーマを使えるようになれば、ネイティヴに近い、本格的な英語のアウトプットができるようになるだろう。
状態と動作の区別
- 英語の動詞の意味の作りかたが日本語の動詞と顕著に違う点をもう一つ挙げるなら、英語では状態と動作を厳密に区別し、日本語ではその区別が曖昧だということだろう。これは、日本語では、状態と動作を表すのに同じ動詞を用い、「ている」の有無のみで区別するということに起因するのかもしれない。「ている」の意味自体も曖昧な場合が多い。たとえば「彼女はズボンをはいている」という文では、身に着けている「状態」を言っているのか、ズボンを身に着けつつあ
る「動作」を言っているのかが、よくわからない。 - 英語では、そもそも状態と動作は別の動詞で表される。たとえば wear という動詞は状態動詞であり、に着ける動作を言うときに使われることはない。She is wearing a red dress. は赤いドレスを(今)身に着けている状態を言っている。身に着ける動作を言うときはShe is puting on a red dress と言わなければならない。hold と carry の違いもそうだ。
- 日本語話者は、状態動詞を動作の表現に誤って使ってしまうことがよくある。私は以前、「遅刻しそうだから早く洋服を着なさい」という日本語の文に対して、Hurry up and wear your clothes right away, or you will be late for school. という英文を見せ、この文が正しいかどうか日本の大学生に聞いたことがある。なんと80% の大学生がこの文を正しいと判断した。英語話者でこの文を正しいと判断した人は 0% だった。
- (ところで、状態動詞は進行形で使わないと学校で習ったことがある方は、wear や hold は進行形が使えるから動作を表せるんじゃないの、と思われるかもしれない。たしかに、know, believe, like などの状態動詞には進行形を一般的には使わない。しかし、状態動詞でも、「今」こういう状態であるという含意をもたせるときには進行形を使う場合がある。たとえば、今、目の前の高校生が着ている制服がかわいいと言いたいときには、She is wearing a cute uniform. と進行形で言い、いつも特定のかわいい制服を身に着けていることを言うときには、The students of this school wear a cute uniform. のように現在形を使う。know とか believeのよう
な動詞は、今だけ知っている、今だけ信じているということはなく、その状態が恒常的だから進行形が使われないのである。
スキーマのズレが語彙学習を妨げる
- このような英語と日本語のスキーマのズレは語彙学習に大きく影響し、多くの場合、語彙学習を妨げてしまう。すでに述べたように、スキーマとは無意識に働く知識のシステムで、情報の選択や推論に用いられる。誰もが母語に対しては豊かなスキーマをもっているのだが、そのことを知らずに、聴いたり読んだりしたこ
とを理解したり、話したり書いたりするときに無意識に使っている。暗黙の知識を無意識に適用しているので、外国語の理解やアウトプットにも母語スキーマを知らず知らずに当てはめてしまうのである。第1章で述べたように、人は注意を向けない情報を取り込むことはせず、記憶することもできない。そしてスキーマは
注意を向ける情報を選択する。 - 学習者が日本語のスキーマ、つまり動詞本体は動きの方向性を含んだ意味をもち、動きの様子は副詞句で表すというスキーマを無意識に当てはめながら英語を
聴いたり読んだりするとどうなるか。様態を言い分ける動詞は記憶されない。様態動詞が使われるのを聴いても読んでも、様態を除いた「歩く」「話す」レベルの意味しか学習者に残らないからである。swagger(胸を張ってずんずん歩く)という動詞を読んでも、ああ「歩く」ことね、と思った瞬間、読んだ動詞は walkであったように記憶されてしまうのである。 - 様態動詞が記憶されにくいだけでない。スキーマのズレは前置詞の学習にも影響を及ぼす。英語では、もともとは動きの方向性を意味に含んでいない様態動詞
を前置詞と組み合わせることで、方向性も表現してしまう。float は「入る」とか「出る」という意味はもともともたないが、float into と言うと、「浮かびなが
ら入っていく」という意味になる。しかし日本語には前置詞がないので、方向性を表したければ「入る」「出る」のような方向動詞を使うしかない。だからA bottle entered the cave, slowly floating.になってしまうのだ。日本語話者が英語の前置詞を使うのが苦手なのは、日本語のスキーマが邪魔をして、無意識に動き
の方向性を動詞の中に入れてしまうので、方向性を前置詞で表現するという発想が妨げられてしまうためなのである。
- 自分が日本語スキーマを無意識に英語に当てはめていることを認識する。
- 英語の単語の意味を文脈から考え、さらにコーパスで単語の意味範囲を調べて、日本語で対応する単語の意味範囲や構文と比較する。
- 日本語と英語の単語の意味範囲や構文を比較することにより、日本語スキーマと食い違う、英語独自のスキーマを探すことを試みる。
- スキーマのズレを意識しながらアウトプットの練習をする。構文のズレと単語の意味範囲のズレを両方意識し、英語のスキーマを自分で探索する。
- 英語のスキーマを意識しながらアウトプットの練習を続ける。
- ポイントは「意識」と「比較」である。最終的には意識しなくても自動的に英語スキーマが使えるようになりたい。しかし、最初のうちは、日本語スキーマとのズレを意識し、さらに、英語スキーマを働かせることを意識しながら練習を繰り返すことを続ける必要がある。この過程を経て、初めて英語スキーマは身体の一部となって、無意識に自動的に使えるようになるのである。
オンラインのコーパス:COCA, SkELL
関連語を探すツール
- WordNet はプリンストン大学のチームが作成した語彙分析ツールである。このツールは、ある単語をターゲットにして、その単語と関係がある語を網羅的に提示する。これまで紹介してきたコーパスは、共起関係から機械的に類義語を表示する仕様だが、WordNetは言語学者、哲学者、心理学者が人力で作っている。その意味で、AIの自動作業ではなく、人の叡智によって勝大な時間と労力をかけて作られたツールである。言語にかかわる研究者はみなその恩恵を受けているが、学習者にとっても非常にありがたいツールである。無料で使えるので、これを利用しない手はない。
- このツールは、コーパスというよりは英英辞典に近いので、これまで紹介してきたコーパスとはずいぶん性質が違う。ターゲットの単語を検索ウィンドウに入れると、辞書のように、たくさんの語義が出てくる。walk のように動詞と名詞の両方で使われる語は、品詞別に項目が立てられ、その下に語義のリストが出てくる。さらに、それぞれの語義についてネットワークが提示される。WordNet が示す「関係」は品詞によって違うのだが、ターゲットの単語を起点に上位の概念、下位の概念を示してくれるところが特徴的だ。
ツールを賢く組み合わせて使おう
- 前章と本章では、オンラインで簡便に使えるツールを用いて、ターゲットの単語を的確に使うための「氷山の水面下の知識」を育てる方法を紹介した。れらのツールのうちどれがもっとも優れているかということは言えない。目的と、使える時間にもよる。もちろん、すべての単語についてコーパスや Word-Net で調べる必要はない。まずは辞書を活用し、辞書ではその単語をアウトプットするのに十分な理解が得られないと思ったときにコーパスなどを使えばよい。SkELL は COCAに比べてコーパスのサイズも小さく、例文に偏りがあるが、多くのことは SkELL で用が足りる。私は、ちょっとした調べ物には SkELL を使い、さらに深掘りが必要なときに COCA や Sketch Engineを使っている。COCA にあるたくさんの機能を使いこなすには、試行錯誤しながら使い込むことが必要だろう。私は本章で紹介した最低限のことだけ覚え、あとはデフォルトの設定で検索している。
- WordNet を使えば、単語同士の関係を大きなネットワークの中でとらえることができるが、類義の単語の細かい意味の違いはわからない。たとえば wanderと類義の stray, ramble, drift, roam などの意味の違いを調べるには適さない。インターネットが発達した現在、辞書に加えてネットで使えるツールを賢く使い、自分で語彙ネットワークを探索していき、英語スキーマを身につけよう。
- 英語の学習も同じだ。英語の文献をどんなに読み込んですらすらと読めるようになっても、書く練習をしなければ、書けるようにはならないのである。英語は情報を得るためだけに使う、英語でアウトプットする必要はないという人も多いだろう。それはそれでよい。しかし、英語で伝えたいことがある、世界に発信したいというのなら、アウトプットの練習をしなければならない。
- アウトプットをする英語力が最近いたるところで求められるようになり、「読む」「聴く」「話す」「書く」の4技能をバランスよく育てるということが学習指導要領にも明記された。文部科学省は大学入試にも4技能のテストを含めようとした。
- 英語力にこれらの四つの要素が必要だということには、まったく異存はない。しかし、4技能をバランスよく育てるために、最初から4技能の学習に同じだけ時間を使うというのは、学習の認知過程の観点からは、じつは合理的ではない。
- 語彙が少ないうちは、知らない単語がたくさん含まれる教材を無理に聴く練習をしても意味がない。意味をなさない英語の音声がただ素通りしていくだけである。だからといって、あまりにも簡単な、面白くもなんともない内容で中学1年生レベルの単語を使って不自然にゆっくりと録音された教材を聴いても仮にそれが聴き取れてもビジネスには役に立たない。ビジネスの現場で、そのようにゆっくりした、内容が薄い会話がされることは絶対にないからである。
- 自然なスピードで話され、中身がある内容を聴きたいが、語彙が足りなくて聴き取れない。そういうことが頻繁にある。そのような場合にはどうしたらよいか。リスニングに時間を使うより、まず語彙を強化することと、その分野の記事や論文を読んで、その分野のスキーマを身につけることに時間を使ったほうがよい。語彙が豊富にあり、スキーマが働くトピックなら、そしてここが大事なのだが――自分が絶対に理解したいと思う内容であれば一少し耳が慣れれば英語はおの
ずと聴こえるようになる。
音の聴き分けはもっとも深く身体化されたスキーマ
- 余談になるが、ここが、母語と外国語の習得の大きな違いである。母語では、子どもは言語を耳から覚える。母語で使われる音とリズムをまず分析し、文を単語ごとに区切っていくやりかたを自分で発見し、音のかたまりとして単語を記憶にためていく。切り出した音のかたまり(単語)に対して、自分で意味を推論し、単語の意味を覚えていく。このような過程である。
- しかし、大人になってから外国語を学ぶ場合、流れる音声の中から単語を見つけていくのは難しい。これは「音のスキーマ」、特に単語を構成する音の単位である音素が母語と外国語で違うからである。乳児は、母語の特徴的な韻律のパターンを母親のお腹にいるときから学習し始める。母語で単語を区別するために必要な音の単位である音素を見つけるのは誕生後であるが、0歳代のときだ。
- じつは、世界中の赤ちゃんは、生まれてすぐは、すべての言語で区別される音をもれなく区別することができる(聴覚障害などがない限り)。そこから、自分の母
語の音素を探索し、音素のレパートリーを作っていく。英語の場合には、r, lは異なる音素であり、この二つの音の聴き分けができないと、race/lace, rice/lice な
どの単語の区別がつかない。だから、英語を母語とする赤ちゃんは、(もともと区別できた)r とlの区別を保持し、さらに敏感に注意を向けることを学習する。で
は日本の赤ちゃんはどうだろうか? 日本語にはrとlの区別はない。母語で必要のない音の区別をし続けると、情報処理のリソース(認知的資源)は限られているので、その分、他の必要な情報に注意を向けることができにくくなる。つまり、母語で必要とされる音の区別は残しつつ、必要のない音を区別する能力(音への注意)は捨ててしまったほうが、母語を学習するには有利だ。だから、赤ちゃんは1歳くらいまでに、不必要な音の区別には注意を向けなくなる。母語に必要な音の区別だけを残し、音素を効率よく区別できるような情報処理のシステムを作るためである。それが「音のスキーマ」なのである。 - だから大人の日本語話者は、r とl、b と vなど、日本語にはない英語の音素がうまく聴き分けられないのである。自分が育つ環境の言語で単語を作る単位となる音素は、子どもが作る最初のスキーマの一つであると言ってもよいだろう。
- 英語の単語の意味を推論するのに、日本語のスキーマが邪魔をすると述べてきたが、音の情報処理も同じである。しかも、音のスキーマは、子どもの言語の発達過程の中でもっとも早く、単語の意味について考え、始める前に身につけるものだ。その分、もっとも深く、身体化されていて、言語を情報処理するときには自動的に、まったく意識にのぼることなく使われているものである。だから、rとlの区別のように英語では音素として区別されるが日本語では音素でない音の聴き分けは、乳児期を過ぎると難しくなるのである。
- 外国語を学ぶとき、最初の授業でのっけから音素の聴き分けや発音練習から始めることがある。私が中国語を習い始めたとき、中国語の単語をまったく知らないのに「そり舌音」など、日本語にない音の発音を繰り返す授業が続き、うんざりした。これはじつは、成人にとってはもっとも困難なことを最初にやって出鼻をくじこうとしているようなものだ。
リスニングにはスキーマが必要
- リスニングというのは、リーディングよりもずっと認知的な負荷が高い。リーディングは読むスピードを自分でコントロールできる。途中で意味が追えなくなってしまったら、戻って再度読むこともできる。しかし、リスニングでは、聴こえてくる音声のスピードは自分では調節できない。それでも生身の人が相手で、自分一人に話しかけてくる対話の状況でなら、相手がこちらの表情を読み取り、必要に応じてスピードを調整してくれたり、繰り返してくれたりするが、録音された媒体からのリスニングは非常に難易度が高くなる。
- 人は入ってくる情報を、まったく何も考えず受動的に受け取っているわけではない。常にスキーマを使って、次の展開を予測しながら聴いている。次にどのような意味の内容を話し手が言うかを予測し、そこから単語も予測する。第1章でダルメシアン知覚のことを紹介した。何なのかわからない画像も、そこにあるべきものがわかると、見るべきものが浮かび上がってくるという現象である。「聴く」ときも同じである。どんなに優れた音素の聴き分け能力をもっていても、どのような内容のことばが耳に入ってくるかが予測できないと、知っていることばでも聴こえない。子どもと違って大人は豊かな概念と理解力をもっている。細かい音の聴き分けができなくても、相手が話している内容についてのスキーマを使うことによって、だいたい何を言っているのかがわかり、次に現れる単語も予測をすることができる。その逆に、予測ができないと、熟知している単語でも、聴き取れないことがある。
- 私の体験を紹介しよう。たまたま飛行機の中でスパイ映画 007 シリーズの『スペクター』を見て、この映画にハマってしまった。この映画で登場人物が話す英語に感動したのである。セリフの一言一言にまったく無駄がなく、限りなく短く端的に言う。それがほんとうにカッコよい。特にボンド役のダニエル・クレイグの話す英語にシビレてしまった。そこで、セリフを全部聴き取りたいと思い、DVDを買ってみた。主題歌も素敵で、何度も聴いたのだが、歌詞の Could you my fall? のどの部分が何度聴いてもわからなかった。日本語字幕では、「落ちる僕を支えてくれるかい?」となっている。そこで、ネットで歌詞を探して、確認したら、なんと、break my fall だった。
- 私は break という単語はもちろんよく知っている。(と思っていた)し、日常的に使っている。しかし、「支える」という字幕の日本語に引っ張られ、この文脈でbreak はまったく考えつかなかった。break はあえて日本語にするなら「断絶する」「断ち切る」という意味合いが強く、「支える」と break は反対の意味だからである。まさにダルメシアン知覚の聴覚版で、一度break だとわかれば、まったく問題なく break と聴こえた。この単語は短いし、特に日本語話者が聴き分けることが難しい単語ではない。しかし、break がまったく予想できなかったときには、何度聴いてもこの単語が聴き取れなかったのである。
リスニングのテスト問題は学習に不向き
- スキーマを想起し、予測をするのに、人は耳からの情報のみに頼るわけではない。話す人の表情や文脈情報は、とても大事だ。だからそのような情報が豊富にある直接の対話はもっとも聴き取りやすいし、ストーリーが予測できる映画やドラマも理解しやすい。
- その観点から、認知的にもっともハードルが高いのが、大学入試や TOEFL, TOEIC などの資格試験でのリスニングテストの方式、つまり、視覚情報や背景情報なしに録音された音声の聴き取りを求められる状況だ。短いダイアローグやパラグラフが文脈情報も視覚情報もなく一斉に放送されるので、スキーマを想起しづらい。何の話だろうと思っているうちにどんどん音声は流れていってしまい、予測が追いつかなくなって、置いていかれてしまう。
- 試験の形態が録音された英語の聴き取りだから、リスニングの勉強はそれらの対策参考書についてくるCDを聴いて勉強するのがよいと思っている人は多いだろう。しかし、その学習法は、学習の認知メカニズムの観点からは、はなはだ疑問だ。リスニングは自分聴き分け のペースで情報処理ができないので、知らない単語が出てきて、そこで情報処理が止まってしまったら、その先に進むことが難しくなってしまう。
- TOEFLリスニング対策の本を買い、ためしに模擬問題を聴いてみた。対話の内容は、大学の図書館でアルバイトを募集していて、それに応募したい大学生と、図書館のスタッフとのやりとりだった。ある程度の語彙力がある受験生にとっては、スピードや単語の難易度は適切だと思えた。しかし、アメリカで大学生活を経験したことがない学習者にとっては背景知識があまりない内容で、これを一生懸命聴いても行間を埋められず、ついていくのは難しいのではないかと思った。
情報処理できない内容を何度繰り返し聴いても何も残らない。つまり何も学ぶものがなく、ただ時間を浪費することになるのである。 - このように言うと、子どもは知っている単語が極端に少なく、概念のスキーマも乏しいのに、聴き取り能力を発達させているではないか、と反論が出るかもしれない。しかし、子どもも、子どもなりのスキーマをもっていて、それを使い、予測しながら大人の発話を理解している。そもそも大人は、小さな子どもに話しかけるとき、発達段階に応じて話す内容も言いかたも調整している。子どもが知らないような概念スキーマを必要とする内容を大人は話さないし、構文や表現も、子どもが理解できるように無意識に調節しながら話す。しかも、子どもは表情だったり、ジェスチャーだったり、指差しだったり、音声以外にも豊かな情報を受け取る。音声以外の情報から多くの手がかりを得て、子どもは大人の発話の意味を理解するのである。実際、赤ちゃんに向けた発話を観察すると、その言語を理解しなくても、話している内容は、大人ならだいたい想像できるはずだ。
耳を慣らすよりスキーマ
- リスニングの学習に時間を使うなら、そこから何を得たいのかを先にきちんと考えるべきだ。まず耳を慣らすことを目的にするのか、内容をだいたい把握でき
ることを目標にするのか。 - そもそも「耳を慣らす」というのは何を目的に何をすることなのだろうか。同じ英語でもイギリス英語とアメリカ英語、オーストラリア英語、インド英語では、母音や子音の発音、アクセント (強勢)などが大きく違う。
- たしかに耳が慣れていない種類の英語は聴き取りが難しいことがある。私にとっていちばん耳慣れているのは留学先のシカゴ近辺で話されているアメリカの標準英語である。イギリス英語もたいていはわかると思うが、まったく理解できない経験をしたことがある。イギリスのバーミンガムに行ったときのことだ。ホテルのフロントで、チェックインのときに従業員の言っていることがまったくわからなかったのである。翌日、バーミンガム大学で、共同研究者の学生さんと話した
ときも、まったく何を言っているのかわからず、ドイツ人の研究者に英語の「通訳」(現地なまりのない英語への言い換え)をしてもらわなければならなかった。内容的にはわからないはずはないので、日本に住んでいるため英語のリスニング能力がずいぶん衰えてきているのかと少なからずショックを受けたのだが、バーミンガムはイギリスでもなまりが強いことで有名で、当初戸惑う人は多いと後から教えてもらった。 - 考えてみたら、日本の中でも、慣れない土地でいきなり方言で話しかけられるとよく理解できないことがある。それと同じだ。バーミンガムの英語も、何日か滞在するうちに耳も慣れ、普通に理解できるようになった。しかし、すぐに耳が慣れて聴き取りができるようになったのは、相手が使う単語をほとんど知っていて、かつ内容についてのスキーマが十分にあったからである。方言、なまり以前に、内容についてのスキーマがない、語彙力が足りない場合には、聴き取ろうとするより、まず語彙を増やすことに時間を使ったほうが有効である。急がば回れ、である。
- もう一つ大事なことは、聴き取りが苦手だと思ったらマルチモーダルな状況——つまり、音声以外に視覚情報もあり、内容についてのヒントを与えてくれる映像メディアを練習に使うことである。また、聴き取れなかった部分をスキーマで補えるような教材がよい。たとえば、自分の好きな映画はリスニング学習のとてもよい材料になる。スポーツが好きなら、スポーツの中継もよいし、料理が好きなら英語で放送されている海外の料理番組もよい。テレビ中継だと、英語がどんどん流れてしまってついていけないかもしれない。そういうときは、それを録画しておいて何度も見返すとよい。字幕なしでわからなければ字幕つきで見てもよい。
- まとめるとリスニングの力を向上させるためのポイントは、
- 語彙を増やす
- スキーマを使う
- マルチモーダルな情報を手がかりにする
- である。語彙を育て、スキーマを使い、マルチモーダルな状況で内容の聴き取りができるようになったら、あとは特定の目的のために耳を慣らせばよい。TOEFL, TOEIC のリスニングで高得点を取るためには、この試験の形式に対応する練習をしておいたほうがよいのはもちろんだ。だが、スキーマが働きにくい(自分になじみがない)トピックを扱った、音声情報だけの録音で最初から練習することはお勧めしない。なんといっても語彙力をつけることがリスニング力向上には欠かせないし、マルチモーダルな情報を使って英語の聴き取りに慣れてきてから音だけの媒体の聴き取り練習をしたほうが、学習の認知メカニズムの観点からはずっと理にかなっている。
多読学習の目的と限界
- 多読の目的は、深い情報処理と反対の方向を向いている。多読では、短い時間で文章の内容を理解し、情報を取り込もうとする。そのとき、私たちの脳は、書かれているテーマについての知識(スキーマ)を総動員して内容を大まかにつかもうとすることに集中している。すると、一つ一つの単語の意味にはほとんど注目しない。知らない単語があっても、スキーマを使って文章全体の意味をつかめれば、単語の細かい意味はいちいち考えなくてすむのである。
- たとえば、アメリカの大学における入学許可のしくみについて書かれた文章を読んだとしよう。するとadmission や admit という単語に頻繁に遭遇し、admission は「入学許可」、admit は「許可する」という意味だとわかるだろう。しかし、その他に日本語で「許す」あるいは「許可する」と訳される accept, approve, excuse, forgive などの単語がその文章に出てくるとはかぎらないので、それらの単語との差異を考えることは、この文章を読むだけではできないだろう。
- つまり、多読をしているときの認知プロセスを考えると、多読によって多くの単語を覚え、アウトプットに使える語彙を作ることができるというのは考えにくい。多読学習は、ほとんどの単語を知っている文章の中でたまに出てくる知らない単語の意味を、読み取った内容と、自分がもっているスキーマを使って推測する練習だ。それ自身は非常に重要な能力なので、多読の訓練はすべきだ。ただし多読学習は、文章のレベルが、その学習者にとって辞書を引かなくても理解できるように適切に設定されていることが前提である。文章のレベルが学習者に合っていないと、多読学習の意味がなくなってしまうので、注意が必要だ。
語彙を育てるには多読ではなく熟読
- リーディングから語彙を増やすにはどうしたらよいか。それには、一度読んで文意を読み取って終わりにするのではなく、何度か読み返すことである。一度目は多読の作法にのっとり、辞書を引かずに読み通し、内容を読み取ることに集中する。そのとき、自分が知らない気になる単語があったら、とりあえずマークだけしておく。
- 二度目はゆっくりと読み進め、マークした単語をまず辞書で調べて、一度目に読んだときに推測した意味が正しいかどうか確かめる。長い文章だったら、一部分だけでもよい。辞書を引くときは、最初の語義だけではなく、最後まで目を通し、どの語義がその文に当てはまるかを確かめる。
- そして、もう一度文章を読み直し、辞書に書かれていた意味がほんとうに文脈に合っているかを吟味する。
- ここまですると、その単語に対して深い情報処理がなされ、単語の意味が記憶に定着する可能性が高い。気になる単語はさらに WordNet やコーパスで深掘りをして、同じネットワークに属する関連語や類義語を調べ、それらとの違いを考えると、究極に深い処理がされ、英語スキーマの気づきにつながり、記憶にしっかり定着するはずだ。
多彩な表現への気づき
- 日本語字幕を読みながら英語を聴くと、他にも収穫がある。内容を伝える言いかたは一つではない。何通りもある言いかたの中で、もっともそのときの状況にふさわしく、かつ相手にわかりやすく、相手の心をとらえる言いかたができる。これが言語のセンスというものである。
- しかし、外国語だと、とにかく母語から外国語に「意味を移す」ことで頭がいっぱいになってしまい、この当たり前のことが見えていない人が多い。特に受験生に多いが、それは学校、塾や予備校などでそう教えられるからだろう。数学の公式や物理、化学の法則を暗記するかのように「日本語で○○なら英語で××と訳す」と教えられ、テストのために暗記することを繰り返すからだと思う。
- 自然な英語をアウトプットできるようになるためには、この呪縛を打ち破ることが必要である。報告書、提案書や論文など、プロフェッショナルな書類を英語で書くときには、意味が通じれば OK、では通用しない。内容もさることながら、わかりやすく、簡潔で端的な文章を書けることが求められる。
- 自分はまだ、そんなレベルではない、と思うかもしれない。しかし、そういう人こそ、教科書で習った定型文ではない表現のしかたで、自分のもっている語彙の範囲で基本的な単語を駆使して英語の文を作る練習をすることが大事である。単語が出てこないから、英語がうまく言えない、という人が多いと思うが、発想を転換して、知っている単語で、なんとか言いたいことを表現する工夫をすることが大事なのだ。そのためには、日本語を単語レベルで置き換えるのではなく、言いたいこと全体を英語の発想で英語に置き換える習慣をつけていくことが重要だ。
- 私自身も、英語で文章を書くときに気をつけていることは、まさにそこである。言いたいことを単語レベルで日本語から英語に移すのではなく、伝えたい内容を文単位ではなくアイディアの塊として考え、日本語にとらわれずに、英語にする。そのときに、一つの言いかただけでなく、複数の可能な言いかたを考えたう
えで、もっとも簡潔な表現を選ぶようにしている。映画熟見法に戻ろう。セリフがほぼ聴き取れ、頭に入ってきたら、こんどは、日本語字幕から、自分ならこういう英語を書くだろうなと考えるのもよい練習だ。自分の考える英文と、プロの脚本家が書いた選び抜かれたセリフのギャップを楽しむのだ。
多彩な表現のしかたを練習する
- 映画の英語がほぼ聴き取れて頭に入ってくると、日本語字幕が決して英語の単語をそのまま日本語にしているわけではないことに今さらながら気づく。たとえば「動くな」は Don't move.でもよいが、ボンドはStay. と一言だけ言っていた。「君を救えるのは僕だ」はつい It is me who can rescue you. のような受験用の定番構文を使いたくなってしまうが、映画では I'm your best chance of staying alive.だ。「逮捕する」も、普通には I will arrest you. と訳したくなるが、I'm going to bring you in.だった。
- 日本語は一般的に、名詞のウエイトが大きく、漢語名詞を中心にして文の意味が作られる。しかし、英語で中心になるのは、動詞と前置詞である。日本語の特徴を意識せずに単語単位で英語にしようとすると、日本語の名詞を辞書で引いて英語にしてしまうので、英語としてとても不自然な文を作ってしまうことになる。
- 言い換えれば、自然な英語を書くには、日本語の名詞のことを忘れて、文全体で何を伝えたいのかを考えることがとても重要なのである。そのとき、まず動詞を
考えるべきである。そういうことは、数多の英作文などの参考書で書かれているので知っている人も多いと思うが、映画を「熟見」しながら英語のセリフと字幕
の日本語を比べると、それが実によく見えてくるのである。この「体験に基づく納得と気づき」も学習には――特に自分に染みついた日本語スキーマに打ち勝っ
て英語スキーマを獲得するにはとても大事なことである。
スピーキングとライティングは認知的に何が違うか
- これまで述べてきた方法で記憶に残った単語は、まだ自由に文を作れるレベルの深い知識には至っていないはずである。コーパス学習で得られるのは、「頭で理解する」知識である。自由に英語を話したり書いたりするには、「頭の知識」を「身体の知識」にしなければならない。「覚えた」単語を自在に使うためには、その単語を使ってたくさんの文をアウトプットする練習が必要だ。
- では、どうやってアウトプットの練習をしたらよいのか。この点でも、合理的な学習法について、いろいろな誤解があるように思う。アウトプットには、スピーキングとライティングがある。多くの人が求めるのはスピーキングができるようになることだろう。母語では、話すことは書くことより易しいと思われている。実際、幼児は2歳前から話すようになるが、書くことができるようになるのは就学以降だ。しかも、小学生はもとより大学生にとっても書くことは易しいことではないことを多くの人は経験している。
- しかし、スピーキングはリスニングと同様、リアルタイムで進行する。スピードを自分でコントロールすることはできず、わからない単語が出てきても、話しながら辞書などで単語を調べる余裕はないので、認知的な負荷が高い。また、スピーキングのときは細かいことを気にせず、とにかく手持ちの材料で「伝える」コミュニケーションが主眼になるので、いくら練習をしても、日本語スキーマの克服は難しく、英語スキーマを身体化することは期待できない。さらに、相手がいる会話で話す場合には、相手の言うことを理解しなければ応答することができないから、リスニング能力がなければ始まらない。つまり、スピーキングは、辞書を引かなくても自分で言いたいことを表現できるだけの語彙力と、相手の言うことをリアルタイムで聴き取り、理解できるリスニング能力がなければ成立しないのである。
- 逆に、ライティングは、時間を自分でコントロールできるし、わからない単語を辞書やコーパスなど、さまざまな道具を使って調べることができる。だから、結論を先に言ってしまえば、覚えた単語を使いこなす練習をするには、スピーキングよりライティングに多くの時間を割いたほうが合理的なのである。
初学者のスピーキング練習の限界
- 逆に言えば、語彙がないうちからやみくもにスピーキング練習をしてもあまり意味がないのである。初学者が簡単な挨拶や日常の基本的なことを話す練習をするのはよいとしても、それは英語のリズムで発声することが主な目的であるべきで、それ以上のことは、まず語彙力をつけることと、覚えた単語を使って作文を言語の表現の することに時間を使ったほうがよい。
- リスニングもスピーキングも、いくら発音がきれいでも語彙が足りなければ上達は望めない。最終的には4技能をバランスよく習得することがもちろん望ましいのだが、最初から同じ時間をかけて4技能を学習することがよいわけではないのだ。もちろん、まったくリスニングやスピーキングの学習をしなくてもよいと言いたいわけではない。しかし、教師も生徒も、語彙がないのにリスニングやスピーキングに時間をたくさん使う前に、語彙を増やし、学習した単語を使ってたくさん作文する練習をするほうが、時間の有効利用であることは知っていてほしい。
- スピーキングで大事なのは、アクセント(強勢)とイントネーション(調律)も含めた、単語と文の発音である。
- 日本語話者の発音の問題は、rとlの発音などではない。実を言うと私もrとlの発音は上手にできない。そもそも聴き分けができないのだから無理はない。しかし、それで伝えたかったことが通じなかったことはほぼない。通じないのは、単語の母音の発音が間違っているときや、アクセントが間違っているときである。ご存知のように、英語は綴りと発音の対応が不規則である。たとえば light のiは「アイ」と発音されるが、live のiは「イ」となる。母音の発音が間違っていると、その単語に聞こえないので、てきめんに相手に通じなくなる。
- アクセントも同じだ。英語は単語のアクセントで文全体の韻律を作っていく言語なので、母語話者は、アクセントがなかったり、位置が間違っていたりすると、とたんに音声情報処理が大きく阻害され、単語認識ができなくなってしまう。r とlのようにもともと音が似た音素は、発音が違っていても単語の他の部分でカバーしやすい。
- 少し脱線してしまったが、アクセントや母音の読み違いは、学習者自身では気づかないので、教師からのフィードバックはとても大事である。教師一人に対して生徒大勢で一度に復唱しても、一人ひとりの発音の誤りはわからないので、あまり意味がない。教師一人の発音を生徒全員で復唱することに多くの時間を割くより、教師が短時間ずつでも個別に発音を指導し、そのあいだ他の生徒は作文の自習をしたほうが効果的だろう。
- テキストに指定された簡単なダイアローグを生徒同士でロールプレイングするというのも、よく高校の英語の授業で見かける。これも、たくさんの時間を使っても効果はあまり期待できないと私は思う。先ほど紹介したホテルのロボット従業員のように、作りこんだ定型文を覚えても、現実のリアルな場で相手が定型文で返してくれるわけではないので、暗記したことが使えないからである。生徒同士によるダイアローグ練習が有効になってくるのは、かなり習熟度が上がり、語彙が豊富にあって、中身のある内容をゆっくりでも自由に言えるようになってからである。
- 先ほど述べたように、スピーキングでは手持ちの語彙で伝えることが肝心だ。ぴったりの単語が見つからなければ、句で言い換えられるようになることが大事だ。語彙がかなり充実して、まがりなりにも文を作れるようになったら(しつこくて申し訳ないが、ここは強調しておきたい)、この練習——自分が使いこなせる単語で(必要なら)ごまかしながらリアルタイムで言いたいことを伝える練習——はするべきである。
- このとき、定冠詞・不定冠詞や可算・不可算の表示、主語と動詞の数の一致、時制などまで気にしていたら話すことは到底できない。その意味で、いくらスピーキングの練習をしても、日本語スキーマの克服は難しく、英語スキーマを身体化することは期待できないのである。英語スキーマはライティングの練習で作っていくことができる。
ライティングは自己フィードバックこそ有効
- スピーキングは即時のフィードバックを与えないと効果はないが、ライティングなら、生徒が書いた英語の作文に教師が一人ずつフィードバックをすることができる。作文も、書きっぱなしでは向上しない。その意味で教師のフィードバックはとても大事だし有効である。
- しかし、学習者が、書いたあと読み返し、自分で吟味する習慣をつけることはもっと大事だ。本書で述べてきた人間の認知のクセを考えると、自分で問題点を意識して見直しをし、辞書、コーパスなどで調べない限り、教師のフィードバックはスルーしてしまう可能性が高い。日本語スキーマに基づいて書いた英語に対
して、教師が誤りを指摘し、正答を書く。学習者は、そのときは「そうだね」と納得しても、結局、日本語スキーマに負けて教師の指摘は定着しない。それが人
間というものである。 - 結局、どんなに英語能力を向上させたい、という意欲をもっていても、英語は先生に教えてもらうもの、教えられたことを暗記するもの、という意識で学習して
いる限り、伝えたいことを自在にアウトプットすることができるほんとうの英語力は身につかないのである。 - 私は、英語で論文を書いたら、最低3回は読み直すようにしている。1回目は言いたいことを伝えるのに、もっとよい表現がないかと吟味する。同じことを表現するにも、よりよい別の表現ができないか検討するのである。そのあと、2回目は自分が苦手な冠詞と複数形だけに注目してもう一度チェック、さらに、主語と動詞の数の一致(主語が三人称単数現在のときに動詞に語尾 -s がついているか)と時制だけに注目して3回目の見直しをする。冠詞や数の一致の問題は、日本語話者にはなかなか理解が難しいうえに、注意していないと、それらをつけない裸の名詞の出てくる文を作ってしまいがちだからである。
- この「悪いクセ」は、意識して注意を向けないと、絶対に直らない。そのとき、どのような単語や句を使って、どの構文で表現するかといういわゆる「内容表現」と細かい文法要素に同時に注意を向けようとするより、1回ごとに別の観点に集中して注意を振り向けたほうが間違いに気がつきやすい。
- この習慣を続けていると、名詞を使うときに徐々に冠詞に注意が向くクセがつくようになった。すると、単数・複数を間違えなくなり、不定冠詞 a、定冠詞the、冠詞なしの使い分けも感覚的にわかってくるようになった。今では、学生が可算名詞を冠詞なしで裸で書いていると、気持ち悪くてしかたがない。(しかしそれでも校関してもらうと、ときどきは修正が入るので、完全に英語ネイティヴの感覚になっているわけではない。)
- 冠詞、数の一致、前置詞は日本語話者には永遠の課題である。その理屈を書いた参考書は山のようにある。しかし、理屈をスピーキング、ライティングのときに習慣的に使えるようになるためには、注意を向けながらとにかく数をこなして、自分で感覚をつかんでいくしかないのである。つまり「熟書」の訓練を長年繰り返すことが、英語を話せる・書けるようになるには欠かせないのである。
スピーキングとライティングの合理的な学びかた。
- 総合的に考えると、深い「生きた」語彙知識が育ち、ある程度自由に作文ができるようになるまでは、スピーキングよりもライティングに時間をかけたほうが合
理的である。 - 「生きた知識」としての語彙を増やすためにも、文法(特に冠詞、可算・不可算、時制)を使いこなせるようになるためにも、まず日本語と異なる英語スキーマに
気づき、習慣的に注意を向けるように、情報処理のシステムを作っていく必要がある。 - そのためには、リアルタイムでどんどん進んでしまうスピーキングより、オフラインで注意を向け、吟味することができる、ライティングの練習をするべきだ。
アウトプットの練習は必要だが、日本語スキーマの語彙や文法を適用していることに気づかないままで、いくら話す練習、書く練習を重ねても、英語スキーマは
身につかないし、英語として自然な(通じる)アウトプットはできない。最初のうちは、熟読・熟見・熟書で語彙を育て、英語スキーマを身につけることを学習の最大の目標にするべきだ。 - ライティングが自由にできるようになれば、スピーキングは短期間の集中的な練習で上達する。熟読、熟見、WordNet やコーパスを使ってアウトプットできる語
彙を増やし、覚えた単語を即座に使って作文をする。無理に長い文章を書く必要はなく、シンプルな構文の短い文でよい。文を作ることで、情報処理が深くなり、記憶に定着しやすくなる。 - こういう学習を繰り返していると、徐々に英語スキーマが使えるようになり、英語の熟達が進んでいくはずだ。そのタイミングで、英語が第一言語として日常的に使われる環境に短期間留学をして、現地の人とできるだけたくさん話す機会をつくり、英語を使う練習をする。こういう学習法は非常に合理的である。
最初の立ち上げは素早く、あとは気長に
- ところで、外国語の学習は、短期集中でするのがよいのか、長く継続するのがよいのかという質問をよく受ける。この問題についてもやはり、子どもが母語をどのように学び、習得しているのかを考える糸口としよう。答えを先に言えば、はじめのうちは集中して学び、その後は少し間隔を空けながら気長に学ぶのが合理的である。
- 人は新しい知識をすでにもっている知識に関係づけて学ぶとき、もっともよく学ぶことができる。一定量の知識がないと、新しい知識をすでにもっている知識に関係づけて、知識のシステムを作ることができない。実際、子どもが母語を学ぶとき、最初は非常にゆっくりしたスピードでしかことばを覚えることができない。単語をほとんど知らない状態では、新しい単語を覚えるのは困難だからである。しかし 50語ほど単語を覚えたのちは、ことばを覚えるスピードが急速に上がる。すでに覚えた単語を新しい単語の意味の推論に使うことができるからである。その後、新しいことばを覚えるスピードは徐々に落ち着く。新しい単語を語彙に加えつつ、すでに知っている単語の意味の修正もおこない、必要に応じて概念分野全体の修正もおこなうようになるからである。新しい項目を加えるだけでなく、知識のシステム全体を修正しつつさらに精緻にしていくフェーズに入るので、そのときは、急いで新しい知識を増やしていくのとは異なる認知プロセスが心と脳の中でおこなわれるようになるのである。
- 外国語を学習するときも、ある程度のボリュームの知識がなければ何も始まらない。単語をほとんど知らず、基礎的な文法も知らなければ、簡単な文を言うこともできないし、文章を読むこともできない。だから、学習を始めたばかりのときには、集中的に学習して、不完全であっても最低限の文法と単語からなる一定量
の知識システムをスピーディに立ち上げることが必要なのだ。 - とはいえ、英語の単語を日本語に直しただけのリストを暗記するのは時間の無駄である。その単語が動詞なら、少なくとも文ごと覚えて、構文といっしょに覚える。名詞なら、それが不定冠詞の a や複数形のsといっしょに使われるか、無冠詞で使われるのかもいっしょに覚える。形容詞なら、修飾する名詞といっしょに覚えるべきである。英和辞典を使うのはもちろんOKだ。ただし、辞典に書かれた語義を読むとき、自分は日本語のスキーマのフィルターを通してその語義を解釈しているかもしれない、ということはいつも意識していたほうがよい。
- 知っている単語が増えて、英英辞典や SkELL などの短い文をそんなに苦痛でなく読めるようになったら、手持ちの語彙システムを足がかりとして新しい単語を
語彙に加えていきながら、日本語スキーマとは別の英語スキーマを徐々に作っていくフェーズに移る。ここでは気長に、ただしあまり間を空けすぎずに学習を続
けていくことが大事だ。システムが走り出して、安定したフェーズに入ったら、毎日根を詰めて学習するより、ほどよい間をおいて学習したほうが、学習効果がたかい。 - 記憶は時間とともに必ず減衰する。しかし減衰しかけたところで(完全に忘却する前に)以前覚えたことを再び学習すると、学習内容が既存の知識と関係づけられやすくなり、記憶が定着して、より深い学習ができるのである。短時間に集中して詰めこむ学習法を集中学習、少し間隔を空けて、前に学習したことを忘れかけたときにそれを思い出しながら新しいことを学習する方法を間隔学習と言う。長期的には間隔学習のほうが記憶の保持もよく、深い知識が得られることは、認知
心理学の研究で明確に示されている。 - ただ、あまり生真面目に、毎日・毎週必ず英語の勉強をしなければ、と思い詰めることはよくない。大人は忙しい。英語の学習ばかりしていられない。英語の学習の時間がストレスになるのなら、そして、どうしても今すぐ英語を使わないと生活に支障があるという差し迫った状況でないのなら、思い切ってしばらく休み、まとまった時間が取れたら再開する。そのとき、最初は少し集中して時間を使う。このサイクルを繰り返すのもよい。
- いずれにせよ、英語の学習に完成はない。言語能力はどこまでも伸ばすことができる。だから、あせらず、気長に、完璧を求めず、しかし惰性ではなく、楽しみながら、よりよい学習法を考えながら続けること。それこそが英語学習の成功の秘訣である。